All Chapters of 明日、私は誰かの妻になる: Chapter 381 - Chapter 390

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第381話

星羅は指先で顎のラインをなぞった。茜は目を丸くした。「やっぱり生きていたのね。しかも娘までいるなんて」「娘って、どういうこと?娘は一人しかいないって、その娘本人がそう言っていたのに」星羅は首を傾げた。「じゃあ、遺体確認に来たっていうあの妻と娘は、いったい何者だったの?」「なんだか怪しくない?もしかして……遺体そのものがすり替えられていたとか?」「どういうこと?」星羅が突飛な設定のドラマや小説を好むことは、茜もよく知っていた。星羅は声をひそめた。「ミステリードラマで見たことがあるの。身を隠したい人が偽の遺体を用意して、顔を焼いたり傷つけたりして死んだふりをするって話があるじゃない」「確かにそういうことはあるかもしれないけれど、警察は必ずDNA鑑定を行うし、遺族の確認だってあるわ。そこまで警察を欺くなんて不可能でしょ」「どうして不可能なの?あなたが警察署で悪徳刑事に嫌がらせを受けたこと、思い出してみて。それに、遺体をすり替えさえすれば遺族の確認なんてどうにでもなるわ。大金を積まれれば、赤の他人でも自分の身内だと言い張る人間はいるはずよ。どうせ死体なんだから、そのまま持ち帰って火葬してしまえばそれで終わりよ」「…………」茜は驚きのあまり、思わず身を乗り出した。「つまり……別人の遺体とすり替えられたって言いたいの?」星羅は小さくうなずいた。茜は星羅の肩を軽く叩いた。「先に戻っていて。私もすぐに上へ戻るから」「わかった」茜は足早に階段を上がり、オフィスへと駆け込んだ。この一件を和久に話すべきか、迷いが頭をよぎった。けれど、まだ単なる推測の域を出ていない。話したところで、時間と労力を無駄にさせてしまうだけかもしれない。そんなことを考えていると、タイミングよく和久から電話が入った。「ウォーカーヒルには戻ったか?」「うん」とだけ返し、茜はそっと唇を結んだ。「他に、言っておくべきことはないのか?」和久が重ねて問う。昨夜のキスが不意に脳裏をよぎり、茜は小さく咳払いをした。「別に何でもありません。お兄様こそ、何かご用だったのですか?」和久のように口数の少ない男が自ら進んで何かを語るようなタイプではないと思っていたが、彼はあっさりと本題を切り出した。「ああ。いいとこ取りをしておいて、あとは知らん
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第382話

穏やかな二日間が過ぎ、茜の周りにもようやく晴れやかな空気が漂い始めていた。病院では、栞にも回復の兆しが見え始めている。今日は星羅と一緒にA大へ行くため、茜は昨夜のうちから寮に泊まっていた。出発の準備をしていると、星羅が紙袋を手に扉をノックした。「えっ、まさかその格好のままA大へ行くつもり?確かにA大にも裕福な子はいるけれど、あなたみたいに大人っぽい格好をしている学生なんていないわよ。顔はあんなに若いのに、どうしてわざわざ落ち着いて見せるの?」「大人っぽく見えたっていいじゃない」「それはダメー。そういう格好の方がかえって目立つわ。大学でお姉さんキャラがどれだけ人気か知らないの?だからこそ、私たちは……」星羅は手に持った紙袋をぶらりと揺らした。てっきり、一緒に大学生風に変身でもさせてくれるのかと思っていた。ところが、ひと通り着替え終えた途端、服が静電気でパチパチと鳴り始めた。「すごい静電気……」茜は手を擦り合わせた。スカートを穿くだけで、もう二回もバチッと電気が走った。「全身ポリエステルの安物で静電気が起きるなんて、量産型女子大生の洗礼みたいなもんでしょ?そこに溶け込んでこそ、欲しい情報が手に入るってもんよ」「でもこのスカート、足に張り付く気がして。私、大学生の頃だってこんな感じじゃなかったけど」記理子に育てられた茜は、質の悪いものを身につけたことがなかった。毎月きちんとした服が届けられ、良質な服は何年経っても傷まない。服に頭を悩ませた記憶がほとんどない。インナーからジャケットまで、全身ポリエステルの通販のファストファッションを着るというのは、やはり……「何を心配してるの。下着までポリエステルってわけじゃないでしょ?感電死するわけじゃないんだから。あとでタイツにハンドクリームを塗れば、張り付かなくなるから」「さすが星羅ちゃん。ちょっとちょうだい、髪の毛まで逆立ちそうよ」茜は少し分けてもらったハンドクリームを、全身にさっと塗り込んだ。星羅は、頭のてっぺんでふわりと浮き上がった髪を押さえながら、くすくすと笑った。準備を整えると、ふたりは大学生定番の大きなトートバッグを提げて出かけた。歩きながら、茜は首を傾げた。「今の学生ってこういう格好が好きなの?このバッグ、ちょっとやりすぎじゃない?」「これで
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第383話

星羅は興味深そうにうなずいた。「それって……柏原社長が自分から動いたってこと?」「な・い・しょ。ほら行くよ。人が多くなったら面倒なことになるし、私、最近やっと昇進したばかりだから」和久にその気があると分かっただけで、今は十分だった。わざわざ周りに知らせる必要もない。「でも、あの車一目で高そうって分かるよ。大学の前に現れたら、子どもを送り届けに来た親なのか、そうじゃなければ……こほん。でも茜ちゃんと彼って、どう見ても親子には見えないし」「なんで急に咳をしたの?――ああ、分かった」どんな大学にも、そういう話はある。パパ活というやつ。良し悪しを言うつもりはないし、茜が口を挟む話でもない。ただ、和久の車は確かに目立ちすぎた。茜は早足で歩み寄り、車の窓をコンコンと叩いた。「お兄様、この車は目立ちすぎます。タクシーで行きましょう」「前方に玉城が用意した車が停めてある。そっちに乗れ」和久が少し先を指差した。言われてみれば、確かに地味な一台が停まっていた。茜は少し気まずそうに頭を掻いた。「あ、は、はは、そうでしたか。じゃあ先に行ってますね」そう言うが早いか、星羅の腕を引っ張ってその車へと向かった。乗り込んだとたん、和久まで後ろから乗ってきた。「あれ?あなたの車は……?」「君はそっちに乗れと言ったが、俺が乗らないとは一言も言っていない。後ろの車は距離を置いてついてくる」和久が腰を下ろすと、こぢんまりした車内がたちまち窮屈になった。空気を読んだ星羅は、さっさと助手席へと滑り込んだ。「私はここでいいです」しばらくして、車が走り出した。和久は星羅をちらりと見た。「見たことを話せ」星羅は体を向き直し、記憶を辿りながら言った。「茜ちゃんに確認してもらいましたけど、間違いなく本人でした。どんなに顔が似ていても、傷跡まで同じ人なんていないですから。それに絶対にただの運転手じゃないと思います。手を見たら、私よりずっと綺麗で。ただ、私の前を通り過ぎたとき、どこかで会ったことがあるような気がしたんですけど、誰だったか全然思い出せなくて」「ということは、ずっと私たちの周りに潜んでいたってこと?」茜は考えを巡らせた。和久も同意するように小さくうなずいた。しかし星羅は首を振った。「いや。あの
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第384話

若彰は和久を振り返った。「ボス、これは……」「あいつにしては珍しいな」和久はそっけなく言った。茜にはさっぱり意味が分からなかった。「どういうことですか?あの教授に何かあるんですか?」「彼はボスのお知り合いなんですが、厳格で有名な方でして。自分から学生に声をかけるような方ではないんです」若彰が説明する。「それはどうしてです?」茜が聞いた。「そうよ、なんで?」星羅も気になったようだ。若彰は少し驚いた顔で言った。「あの方の顔を見ませんでしたか?以前、女子学生の質問に親身に答えたら逆に告白されてしまって、それを断った腹いせにセクハラで訴えられたことがあって。最終的にボスの別の知人が間に入って事態を収拾したんですが、それがすっかりトラウマになってしまい、学生とのやり取りは全部メールでしかしないんです」「見たけど、すごく整った顔立ちで穏やかそうな雰囲気なのに、あんなに毒舌なの?でも本当にあの先生に恋する学生なんているの?普通は目を合わせるのも怖いじゃない」星羅が言った。「え……あはは、ま、まあ、そうですよね」若彰は苦笑しながら運転を続けた。茜も、その教授がどんな顔立ちをしているのか少し気になった。「根はいい奴なんだが、人づき合いが少し苦手でな。今回もあの男のことを知るには、彼を頼らないといけない」和久が静かに言った。「さすがお兄様のご友人ですね」茜は軽くからかった。「…………」和久はかすかに眉を上げた。……大学に着くと、車は駐車場に停まった。降りるなり、和久が言った。「ふたりは先に見て回っていろ。俺は彼に会ってくる。後で図書館の入口で待ち合わせにしよう」「分かりました」茜は星羅の腕を引っ張り、別の方向へ歩き出した。こんなに気が抜けたのは久しぶりだった。「てっきり柏原社長の友人に会いに行くと思っていたけれど、どうして離れたの?」星羅が聞いた。「彼があの人に私のことを話しているとは思えないから。突然現れて品定めされるような空気になるのは嫌でしょ。それより、ふたりにゆっくり旧交を温めさせてあげた方がいいわ」茜はそのことを特に気にしていなかった。以前は諒助の友人の輪に溶け込もうと必死になっていた。でも今は、そんな必要は全くないと思っている。「じゃあ行こ行こ。この大学、学生
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第385話

「それはどうもありがとう」茜がそう言ったところで、アルバイトの学生がコーヒーを運んできた。ふたりが菜穂の方を見ていたことに気づいたのか、学生がぼそりと言った。「あの子たちのことを見てたんですか?」茜は顔を上げ、にっこりした。「すごくおしゃれな格好だなと思って」星羅はすかさず乗った。「そうよね、あのバッグも素敵だわ」「いったいどこにそんなお金があるんだか」学生はちょっと口をとがらせた。「え、まさか?」星羅はわざとらしく目を丸くした。「でも、学生さんにしてはお金を使いすぎよね」茜は星羅をちらりと見た。星羅はそっと目で合図を返す。茜は黙って待った。学生は星羅も同じ意見らしいと思ったのか、口が軽くなった。「あの一緒に来てたおじさん、本当に本当のお父さんかも分からないですよ」「偽物のお父さん?そんな嘘、大学には通用しないんじゃない?」星羅は自然に疑問を投げた。学生は菜穂たちをちらりと一瞥して、鼻を鳴らした。「実は、私のゼミの子なんです。家のことを聞いたら、ずっとお父さんの話ばかりするらしくて。母親のことを聞かれると、『実家がすごくお金持ちなの』って答えるらしいんです。自分だって十分お金持ちに見えるのに、なんでわざわざそんな言い方をするのかなって。それで、みんなでお母さんって誰なのって聞いたら、急に機嫌が悪くなったんですって。自分の母親の話をするのに、嬉しくなさそうな顔をする人なんていないはずじゃないですか。だから、あの男の人と本当の父娘じゃないんじゃないかって噂が立ったんです」話を聞いて、茜はこの子が単純に嫉妬しているだけだろうと思った。発言に根拠がない。それに、菜穂と例の男性が父娘であることはすでに確認している。茜は星羅に話を打ち切るよう目配せしようとした。ところが星羅は、ますます楽しそうに話を引き出し始めた。「それにしても、作り話なら、大学に来るときにわざわざ連れてこなければいいのに。そうすれば何も言われなかったじゃない?」「見せびらかしたいんでしょ。あのバッグだって、お母さんが買ってくれたって言ってたらしいですけど、あれがどれだけ高いか知ってますか?ブランドに詳しい子が調べたら、この読飼市で真っ先に手に入れられるのって、本当のトップクラスの富裕層だけらしいですよ。偽物じゃない限り、で
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第386話

おだてが効いたのか、金田の動きは早かった。ところが結果は、夫人本人が首をかしげるほど奇妙なものだった。「茜、私が力になれなかったわけじゃなくて、顧客情報に強力なプロテクトがかかっているのよ。私ですら素性が探れないなんて、ただ者じゃないわね」「そうですか。ありがとうございます」茜は調査の結果を星羅に伝えた。星羅はコーヒーを一口飲み、少し驚いた様子で言った。「たかがバッグ一つのために、そこまで情報統制を敷くの?」そう、バッグを一つ買うのにそこまで警戒する必要があるだろうか。ふとそんなことを考えていると、テーブルの上にコーヒーが二杯置かれた。顔を上げると、男子学生が二人、にこにこしながら相席するように腰を下ろすところだった。「どうぞ」茜はすぐに察して、すかさず断った。「お気持ちはありがたいんですが、もう注文してしまいましたし、これ以上飲むと夜眠れなくなってしまうので。お気持ちだけ受け取っておきます」星羅もうなずいた。「自分たちで飲んでくださいね」ふたりとも断ったが、相手は引き下がらず、カップを押し戻してきた。「一度奢ると言ったものを引っ込めるなんて、男が廃りますよ。特に、こんな美女への贈り物ならなおさらね」若い男子学生特有のメンツというものを、茜も星羅も分かっていた。しかも周りには他の学生の目がある。ここで頑なに断れば、相手の立つ瀬がなくなってしまう。星羅は茜と和久のことを思い出し、茜に恥をかかせたくなくて、自分でカップを受け取った。「ありがとうございます。ただ、うちの友人、コーヒーを飲み慣れてなくて、飲みすぎると動悸がするんです」うまく双方に逃げ道を作った言い方だった。ふたりの男子学生は顔立ちがよく、スウェット姿に野球帽をかぶったいかにも大学生らしい爽やかな雰囲気を漂わせていた。周りの学生の反応を見る限り、ふたりはそれなりに顔が知られているらしい。星羅はカップを受け取った時点で、この話は終わりだと思っていた。ところが男子学生のひとりがいきなりスマホを取り出した。「ライン交換しましょう。夜も眠れないなら、一緒に映画でも行きますか?」「……」星羅はきょとんとした。茜は微笑んだ。「すみませんが、このあと用事があって。このコーヒーは私たちのご馳走にさせてください」そう
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第387話

周りの学生たちが面白がって笑い声を上げると、男子学生はそれに勢いづいたように、星羅のスマホを奪い取ろうと手を伸ばしてきた。「聞こえただろ?自分からコーヒーを受け取ったくせに。俺の誘いに乗ったも同然じゃないか。今さら断るなんて、ただのたかり女のつもりかよ?」星羅の堪忍袋の緒が一瞬にして切れた。「たかりですって?たかが数百円のコーヒーで?しかも全身安っぽい偽ブランドで固めているくせに。文句があるなら、あっちでけしかけてる彼女に言いなさいよ」学生でお金がないのは事実だが、ウォーカーヒルに出入りする本物の富裕層が身につける一流品を、星羅は日常的に目にしている。この男たちが身につけている偽ブランドくらい、一目で見抜けた。「で、でたらめ言うな!お前らこそ、たかろうとしてたクセに!」図星を突かれて逆ギレしたのだ。男子学生が力ずくで星羅のスマホを奪おうとした瞬間、茜が止めに入ろうとしたが、それよりも早く動いた影があった。誰かが無表情のまま、男の腕を背後から静かに捻り上げたのである。「……桐島先生」男子学生は痛みに顔を歪めながら、不承不承にその名を呼んだ。「大学は女子学生に絡む場所ではない。君たちの指導教員に報告させてもらう」桐島悠人(きりしま ゆうと)は有無を言わさぬ声で告げた。「す、すみませんでした」さすがに教授の肩書には逆らえないらしい。男子学生は二、三言注意されただけで途端に萎縮し、捨て台詞のような謝罪を残してそそくさと逃げていった。星羅は突然現れた人物を見上げ、目を丸くした。どうしてあの厳しい教授がここに?茜も何か妙な予感がして、星羅に小声で尋ねる。「桐島先生って……まさか」星羅がうなずき、少し居心地悪そうに悠人を見た。「あの……ありがとうございます」悠人は軽く頷いた。物腰は丁寧だが、その表情はどこまでも淡々としていた。星羅がさらに何か言いかけたとき、よく通る明るい声がそれを遮った。「桐島先生」ふたりが振り向くと、そこには菜穂が立っていた。顔には優美な微笑みが浮かび、その瞳には隠しきれない、慕情がはっきりと滲み出ている。茜はすぐに察した。菜穂は悠人に恋をしているのだ。ただ、当の悠人の態度は誰に対しても変わらないようだった。菜穂をちらりと見て短く頷くと、すぐに茜と星羅の方へ視線
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第388話

星羅は並木道の陰から、悠人が歩いてくるのをそっと窺った。「社長って、あの桐島先生と本当にお友達なんですか?お互いあんなに口数が少ないのに……テレパシーで会話でもしてるんですか?」どちらも必要最低限しか話さない。いったいどうやって会話が成立しているのだろう。茜は肘で星羅の脇をそっとつついた。よく和久の目の前でそんなことが言えるものだ。今日は仕事モードではないせいか、和久もいつもより纏う空気が少し柔らかかった。「俺たちは幼馴染だ。以心伝心で通じ合っている」「……!」星羅は目を丸くして和久を見上げ、それから茜を見た。茜、あなた本当に面白い人を見つけたわね!和久が冷酷で厳格だなんて、いったい誰が言い出したのか。このちょっとした「いつもと違う姿」、絶対に二人のイチャつきじゃない!話しているうちに悠人が合流した。「行こう。研究室はすぐそこだ」「お邪魔いたします」茜は丁寧に挨拶した。悠人は茜をさらりと見下ろした。「西園寺家の娘か?」「はい」「……やっぱりな」悠人はそれだけ言うと、さっさと歩き出した。茜にはまったく意味が分からなかった。いったい何が「やっぱり」なのだろう。和久が茜の肩を抱き寄せた。「気にするな」研究室の扉を開けると、目に飛び込んできたのは圧倒的な本、本、本だった。壁一面の書棚どころか床にまでうずたかく積まれ、人が通れるのはかろうじて一人分の細い獣道のような通り道だけだ。三人が前後して奥まで進み、空いていた丸椅子を引き寄せて腰を下ろした。無造作な部屋とは裏腹に、悠人が淹れてくれたお茶は本格的なものだった。湯を注いだ瞬間から上品な香りがふわりと広がり、知らず知らずのうちに緊張がほぐれていく。悠人は乱雑な引き出しの中から資料を一式取り出し、和久に差し出した。「神谷菜穂の資料だ。興味深い記述があるぞ」和久は受け取ってページを開いた。「……母親の欄が、空白だ」「ああ。大学側に確認したが、彼女が転入できたのは父親がこの大学の研究機関に多額の寄付をしているからだ。専攻も無難なものだったため、特例で認めたらしい。それから、その父親の会社情報を見てみろ」悠人が静かに一言添える。和久はほんの一瞥で状況を察した。「見事なまでのダミー会社だな」しかも、菜穂の父親はその会社の名目上
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第389話

悠人が何か言おうとしたとき、和久が先に写真の一点を指さした。「関根成美から洗ってみるか」「でも、彼女は神谷菜穂と顔が似ているわけじゃないですよね?」茜は不思議に思った。「勘だ。それに、彼女は亡くなった斎藤美香とも懇意にしていた。斎藤美香が亡くなって以来、裏でひそかに派閥を広げようと画策している。まるで、何か得体の知れないものに怯えているようにな」和久は冷徹に分析した。上流社会の複雑な人間関係については、和久の方がずっとよく知っている。茜は彼の推論を疑わなかった。悠人は和久を見た。「そういえば、晴子も最近少し様子がおかしいぞ。頻繁にお見合いをさせられているそうだ」「彼女って……」茜は和久の顔を見た。和久は涼しい顔で視線を返す。「彼女がどうした?」茜はそれ以上突っ込めず、すぐに首を横に振った。「いえ、なんでもありません」「関根家にも何か厄介な問題が起きているのだろう。悠人、ここは一つ、お前に任せる。神谷菜穂の両親が大学に現れたら、すぐに知らせてくれ」「ああ、分かった。もう時間も遅い。一緒に食事でもどうだ、店は予約してある」悠人は腕時計に目をやった。和久が静かに頷く。四人は連れ立って、大学の近くにある落ち着いたレストランへ向かった。普段なら食欲旺盛な星羅だが、今日に限っては目の前の料理にまったく手をつけていなかった。二口食べては、隣に座る悠人の横顔をこっそりと盗み見ている。茜は直接声をかけるのもどうかと思い、テーブルの下で星羅にメッセージを送った。【桐島先生の顔に何かおもしろいものでもついてるの?】「っこほん!」星羅は小さくむせて口元をナプキンで拭き、慌ててスマホを手に取った。【ただ気になっただけよ。桐島先生って随分若くない?あんなに若くて、どうしてもう教授になれてるの?】【ああそれね。玉城さんにこっそり聞いたんだけど、和久お兄様より二つ年上なんだって。あなたから見れば、危うくおじさんと呼んでもいいくらいの年齢よ】【はいはい、おじさんは敬うわよ。さっきの毒舌も許してあげるわ】と星羅が強がって返信する。【実はとっくに怒ってなんかいないんでしょ。いまさら照れちゃってどうするの?】からかうメッセージを送った途端、星羅が猛スピードでフリックし始めた。何を言い訳しようとしているのだろう。
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第390話

「こほん!」茜はわざとらしく咳払いをした。普段は大人しい星羅が、よりによってあんな大胆な行動をとるとは。よほど菜穂の嫌みに腹が立ったのだろう。茜は悠人が素直にロブスターを受け取るかどうか心配になり、和久をちらりと見た。何か助け舟を出してほしかったのだが、和久はただ頷いて、少し待てと目で合図した。次の瞬間、悠人はためらうことなく箸を伸ばし、星羅が剥いたロブスターを口に運んだ。「……ありがとう」菜穂だけでなく、差し出した星羅本人でさえ思わず固まった。別に本当に食べてもらうつもりはなかった。ただのポーズのつもりだったのだ。そもそも、こちらが何もしていないのにわざわざ近づいてきて嫌みを言い続ける菜穂に、ちょっとやり返してやりたかっただけなのだ。こんなに素直に受け取るなんて、あの毒舌な教授とはとても思えない。悠人は静かに箸を置いた。「他に用は?ないなら、古い友人たちと少し話したいことがあるのだが」菜穂はわずかに顔をひきつらせた。「……はい、失礼いたしました」そう言って、足早に自分の席へと戻っていった。星羅が慌ててお礼を言おうとしたとき、悠人はナプキンで口元を拭きながらぽつりと言った。「本の読み込みは浅いようだが、ロブスターの剥き方は上手だな」「私は……っ!」星羅は怒りで飛び上がりそうになった。やっぱり、この人のことを一瞬でも褒めるんじゃなかった。「何を根拠に私のことをあんなに厳しく言うんですか、私だって……」「なんで大学に入れなかったかには興味がないが、さっきのような上っ面をなぞるだけの読み方を続けていても、せいぜい本の虫で終わる。学問としての価値はない」悠人は淡々と言い放った。「……っ」星羅は悔しさで何も言い返せず、黙って手元のロブスターの頭を乱暴にむしり取った。「星羅ちゃんは昼間仕事をしながら、夜にひとりで勉強しているんです。それだけでも大変なんですよ」茜がたまらずフォローを入れた。和久がすかさず話の矛先を変えた。「神谷菜穂のバッグの件は、確認できたか?」「ああ。ICチップ付きだ。あれは偽物じゃない」悠人が答える。「さっき、ふたりとも彼女に好き勝手言わせていたのは、あのバッグを確認するためだったんですか?」茜は少し驚いた。「彼女が突破口になるなら、我々も慎重に動く必要が
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