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明日、私は誰かの妻になる のすべてのチャプター: チャプター 401 - チャプター 410

497 チャプター

第401話

和久が椅子に腰を下ろしてから、唐突に口を開いた。数秒の沈黙の後、茜はようやく和久の意図を察した。「……お兄様が、私情を挟んで公私混同していると思われたくなかったからです」「それだけか?」「それ以外に何があると言うんですか?」「……そうか」和久は静かに頷いた。「続けてくれ」「……」茜はしばらくぽかんとしてから、気を取り直してウォーカーヒルの経営状況を話し始めた。でも、報告している間中、なぜかずっと和久の熱を帯びた視線を感じていた。一通り話し終えると、茜は少し緊張を解いて聞いた。「柏原社長、他にご質問は?」「ない。最近読飼市も冷え込んできたから、帰りにあそこに掛けてある俺のマフラーを巻いていけ」和久は部屋の隅のコートラックを指した。茜は思わず首をかしげた。なぜ急にマフラーの話が。それでも言われた通り素直にコートラックへ向かい、掛けられていたダークグレーのマフラーを手に取った瞬間――茜の動きがぴたりと止まった。このマフラー……茜はそっと指で触れ、その上質なカシミヤの素材を確かめた。自分の部屋に大切にしまってある、あの時のマフラーとまったく同じ感触だった。素材だけが偶然一致したとしても――織り込まれた目立たない柄も、細部の縫い目まで、すべてが完全に同じだ。以前、服飾に詳しい知り合いに調べてもらったことがある。このデザインと素材のマフラーは、ハイブランドが顧客向けに作った特別仕様品で、一般には絶対に流通していないと言われた。つまり、あの暗い路地で、暴漢から私を助けてくれたのは――ずっと和久だったのだ。茜はマフラーを手に振り返り、再び書類に目を落としている和久の姿をじっと見つめた。「これ……お兄様のものですか?」和久は顔を上げずに淡々と答えた。「どのマフラーの話だ?」やはり、そうだった。茜はマフラーを握りしめ、和久の机の前まで小走りで進んだ。「お兄様、どうして今まで言ってくれなかったんですか?」「君にとっても、あの日の出来事はうれしい思い出ではないだろう。何のために蒸し返す必要がある。俺が恩に着せたいとでも思っていると思ったか?」「あ……そういうふうに全部ご自分で先に言ってしまうから、私は何も言えなくなってしまうじゃないですか」茜は手の中のマフラーをそっと撫でた。不器用で優し
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第402話

諒助がまたあの傲慢な言葉を口にするのを聞いて、茜は思わず首からレコーダーでもぶら下げて歩きたい気分だった。「愛していないです、愛していないです、本当に、愛していないです!」三回、はっきりと繰り返した。それでもまた勝手に都合よく解釈されそうで、茜はあえて残酷な事実をはっきりと告げた。「諒助さん。私とあなたの間に、お兄様は関係ないです。私があなたに釣り合わないと勝手に見限ったのはあなた自身ですよ。私の自尊心と気持ちを平気で踏みにじって、日陰の女にしようとしたのもあなたです。昔の思い出がどれほど輝いていたとしても、それはもう完全に過去のことです。今の私たちのどこにいい関係があるっていうんですか?」「いや、俺はずっと、俺たちの関係は良いと思っている」と、諒助はなおも言い張った。「そう思っているのは、あなただけでしょ?手塚さんの盲目的な崇拝を受け入れながら、私からの献身も同時に楽しんでいて――そんな状況を居心地悪く思う男なんていないですわ。でも私は?手塚さんは?彼女が本当に心の底からあなたを愛していると思っているんですか?あなたの絶対的な立場、あなたが与えてくれる地位と財力があるから、彼女はそれに従っているだけですよ。じゃなければ、どうして彼女はいつも私に陰でこそこそ嫌がらせをするんですか?本当に愛し合って結ばれているなら、どうして彼女はあれほどまでに私の存在を恐れるんですか?そして私は……」茜は深く息を吸った。以前なら、ここで悔しさや恨みが込み上げてきたはずだ。けれど今の茜の中には、彼に対するそんな感情はもうどこにも残っていなかった。もう、どうでもよかった。「諒助さん。本当に、分からないんですか?」茜はあくまで静かに言った。あまりにも穏やかで冷え切ったその一言が、諒助の表情を一変させた。――ほらね。全部、分かっているくせに。ただ、それが自分に与えられて当然の特権だと思い込んでいるだけなのだ。諒助は目を伏せ、あふれ出しそうな執着をかろうじて抑え込み、茜の細い腕を掴んだ。「俺は変われる。これからは、何があってもお前を最優先にする。今まで俺がお前にひどいことをしてきたのは分かってる。でも今はようやく目が覚めた。俺は、本当にお前を愛してるんだ」「諒助さん、もう遅いですよ。全部、終わったことですよ。お願いだか
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第403話

「違う、茜、俺はそんなつもりじゃ……」「私に近づかないで」茜は冷たく制し、そのまま振り返ることなく立ち去った。その拒絶の背中を見て、諒助はようやく悟った――茜と自分の間には、もはや修復不可能なほど深い溝が生まれてしまったことを。愛情を取り戻すどころか、幼い頃の純粋な絆を取り戻すことさえ、もう永遠に不可能なのかもしれない。仕事を終えた諒助はなじみのバーへ向かい、泥酔するほど強い酒をあおった。それなのに、皮肉なことに頭はどんどん冴えていった。茜の冷たい問いかけが、頭の中でぐるぐると鳴り止まない。――私の両親が、あなたに何かひどいことでもした?おじさん夫婦は、自分にとてもよくしてくれた。それなのに自分は、茜を自分の手元に縛り付けたいがために、決定的な証拠を握ったまま黙っていた。「諒助さん、どうされたんですか?やけに元気なさそうで」「手塚さんに怒られたんじゃないですか?」「違いますよ。諒助さんが一番好きなのは手塚さんに決まってるじゃないですか」取り巻きの言葉に、諒助は虚を突かれて聞き返した。「俺って、そんなに絵美里のことが好きなように見えるのか?」友人たちは諒助が酔って冗談を言っているのだと思い、一斉に笑った。「諒助さん、何の冗談ですか?あなたが手塚さんを愛してるのを、この界隈で知らない人間なんていませんよ。あの子のために、西園寺さんをあそこまで容赦なく追い詰めたじゃないですか。それが愛でなくて何なんですか?」諒助は言葉に詰まり、固まった。そして、隣にいた友人の襟首を乱暴に掴んだ。「俺が本当に愛していたのは、茜だと言ったら信じるか?」「……そんなまさか。本当に飲みすぎですよ。彼女のことが一番嫌いだって、いつも言ってたじゃないですか」「俺が、そう言っていたか?」自分がどれほど残酷でひどいやつだったか――諒助はようやく、骨の髄まで思い知らされた気がした。勢いよく立ち上がった。「俺は帰る。お前たちは続けてくれ」運転代行で車に乗り込み、この数ヶ月に起きたことを虚ろな頭で振り返っていると、ふと何かが腑に落ちた。「綾辻。関根成美に関する資料を、今すぐ全部まとめておけ」「かしこまりました」帰宅すると、絵美里の姿はなかった。先ほどの自分の態度に驚いて、実家へ逃げ帰ったのだろう。今や世間では、
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第404話

「ええ、知っていたわ。事情を知っている人を口止めしていたのは、私よ」扉がゆっくりと開いた。入ってきた人物を目にした瞬間、絵美里の頭は真っ白になり、その場に崩れ落ちた。相手はふっと口の端を上げ、崩れ落ちた絵美里の腕を掴んで床から乱暴に引き起こした。「本当に使えないわね。てっきり、少なくとも諒助との結婚式まではもつと思っていたのに」「わ、私、私は……っ」絵美里はがたがたと全身を震わせながら口を開いた。「まあいいわ、使えない駒は仕方ないわ。でも、こうやって直接脅しに来るなんて、よくそれだけの度胸があったわね」「す、すみません、本当に申し訳ありませんでした!お願いします、どうかお許しください、何でもしますから!」絵美里はそう懇願しながら、地に頭を擦りつけて怯えた。小百合は鬱陶しそうに手をひと振りした。「それなら結構よ。分をわきまえない小賢しい子が一番困るんだから。おとなしく私の言うことを聞けば、悪いようにはしないわ」自分の小賢しい計算など、この恐ろしい人たちの目にはただの笑い話にしか映っていなかったことを、絵美里はようやく悟った。「……はい」「あなたが知っていることを、隠さず全部話しなさい」小百合が冷たく命じた。「諒助さんが……茜の両親の過去の事件について、裏で調べているようです」絵美里は正直に答えた。「そう」小百合も、もう一人の人物も、少しも驚いた様子がなかった。絵美里は完全に悟った――自分たちの一挙一動は、すべてこの人たちの掌の上で踊らされているだけなのだと。相手の知らない情報を提供しなければ、自分の身を守れない。絵美里はふと、最近の諒助の不審な様子を思い出した。あれほど多くの証拠を握っているなら、かつての諒助なら、すぐにそれを使って茜を追い詰めるはずだ。なのに諒助は、今もずっと躊躇っている。本当に茜への愛情に気づいたか、あるいは本気で茜を助けようとしているか――どちらかに違いない。はっとした絵美里はすかさず口を開いた。「諒助さん、茜を捨てたことを後悔しているかもしれません。茜のことが本当に好きになってしまったんだと思います」「……ふん」小百合は苛立たしげに茶器をテーブルに置き、入り口に立つ人物のほうを不機嫌そうに睨んだ。「だから、あの茜という娘は生かしておくべきじゃなかったと言
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第405話

「……母さん」諒助は思わず掠れた声で呟いた。まだ悪酔いから醒めていないのではないかと、一瞬本気で疑った。記理子はふっと優雅に微笑んだ。「意外だった?じゃあ、昔、茜ちゃんがあなたのことを好きになったのにも、私が陰で糸を引いていたって知ったらどう思う?本当にバカね。あなたが幼い頃から彼女のことが好きだったのは、母親の私にはお見通しだったわ。でも和久も彼女のことが好きだったから、私が少しずつ茜ちゃんの気持ちをあなたの方へ向くように仕向けてあげたの。柏原家の人間があなたを特別扱いして、和久を冷たく扱うように仕向けたのと同じやり方でね。でも……今日まで、誰か一人でもそのことに気づいた人間がいたかしら?」それが、記理子の真骨頂だった。誰にも気づかれないまま、ごく自然に周囲の人間の感情を操ってしまう。誰ひとりとして、この慈愛に満ちた女性に疑いの目を向けたことなどなかった。諒助は呆然として、目の前の実の母親を見つめた。信じられなかった。記理子は水を一口飲んで続けた。「惜しかったのは、私の手元で素直に育てたつもりだったのに、彼女の性根はやっぱりあの母親に似てしまったことね。強情な恋愛体質だから、あなたが他の女と一緒にいるところを見せつけて少し痛い目に遭わせれば、泣きながらでもすがってきて、完全にあなたの言いなりになるだろうと思っていたのに――まさか、あなたとすっぱり別れるだなんて。しかも、和久とあそこまで親密になるなんてね」諒助はようやく、背筋の凍るような現実に追いついてきた。「えっ、つまり……母さんは……」「何か問題でも?西園寺家には、会社とウォーカーヒルしかないとでも思っていたの?茜ちゃんの両親を甘く見すぎていたわ。周りがどれだけ緻密に罠を張っても、あのふたりはいち早く危機を察知して、少し手遅れではあったけれど、ふたりで結託して莫大な資産を裏へ移していたの。でなければ、私が何の理由もなく、わざわざ殺人犯の娘を手元に置いておいたと思う?」記理子は冷たく笑った。「莫大な資産?西園寺家は完全に破産したんじゃないのか?」「考えが甘いわね。西園寺家の表の財産が、賠償に消えたのは事実よ。でも、それは氷山の一角に過ぎないわ。じゃなければ、なぜこの読飼市であれだけ多くの実力者たちが彼ら夫婦を妬んでいたと思う?
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第406話

記理子は満足そうに諒助を見た。「諒助。お父さんが残したすべては、本来あなたのものよ。私たちはただ、柏原家のものを取り返しているだけ」「母さん、他に俺に隠していることはありますか?」諒助は記理子をじっと見つめた。酔いはすでに一気に醒めていた。「ないわよ。私のこれまでの人生は、あなたと柏原家のためだけに生きてきたんだから」記理子はあっさりと笑った。「じゃあ聞きます。西園寺家のあの事件に、母さんは直接関わっていますか?」諒助は記理子をじっと見つめた。その目には、どこか畏怖に似た感情があった。記理子はそよ風のように穏やかに笑った。「ふふ、まさか。私は自ら手を下すような真似は何もしていないわ。ただ、世の中には欲張りな人間がたくさんいただけのことよ」諒助は静かに安堵の息をついた。記理子はその様子を見て取り、優しく続けた。「諒助、茜ちゃんも私が長年手元で育ててきたんだから、もちろんあの子が深く傷つくのは本意じゃないわ。手元に置きたいなら、愛人として飼っておいてもいい。でも、妻として結婚することだけは絶対にだめ。分かるわね?」「まさか、腹のふくれた絵美里と本当に結婚しろということじゃないですよね。彼女の腹の子は、俺の子じゃないんですよ」諒助は反論した。「分かっているわ。でも世間に向けて大々的に発表してしまった以上、今さら捨てればどうなる?和久が必ずそのスキャンダルを利用してあなたを攻撃するわ。彼に付け入る隙を与えるわけにはいかないの。すべてが落ち着いてあなたが柏原を掌握したら、絵美里の乱れた私生活を公にして、正当な理由をつけて追い出せばいい。それで何の問題もないでしょ?」なるほど、と諒助は納得して頷いた。そのとき、ふともう一つの懸念が頭をよぎった。「でも、今、茜が兄さんに近づいているじゃないですか。もし茜がその資産のことを思い出し、兄さんに話してしまったら?」「和久はお父さんと同じで、一見寡黙でおとなしく見えるけれど、実は人の心を手懐けるのがとても上手い。でも安心して。ずっと茜ちゃんのことは監視させているから。彼女のすべての動きは、今でも全部私が把握しているわ」記理子は目を上げて微笑んだ。諒助には、目の前の記理子がどこか見知らぬ他人のように感じられた。それでも、自分を愛する母親が自分を傷つけるはずがない
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第407話

諒助はそれを聞いて、はっとした。「母さん……当時、遺族たちが西園寺の家に押しかけて荷物を強奪していったのも、母さんが裏で糸を引いていたんですか?」「諒助、お母さんのことをそんな悪党みたいに見ているの?違うわよ。私はただ、周りの人たちに『茜ちゃんが一人で家にいて可哀想に』って同情してみせただけよ。それに、怒り狂った人が家から物を持っていくとき、私はわざわざ西園寺家まで危険を冒して行って、茜ちゃんをうちに引き取ってあげたじゃない。それで十分じゃないの?」記理子はくすりと笑った。諒助はぽかんとして、もう何も反論できなかった。「今は、西園寺芙美の唯一の遺品を手に入れたわ。あのスカートよ。少し汚れてしまっているけれど、プロに修復してもらえば、きっと何かの手がかりが見つかるはずよ」記理子は気にも留めない様子で言った。「……汚したのは俺です。茜に聞いたことがある。あれは西園寺の家から隠して持ち出してきたもので、父親が母親に贈った特別なものだって」諒助は力なく言った。「なら、なおさら確かね。あの子がそれだけ執着するには、必ず理由があるはずよ」「母さん……」「私のこと、薄情だと思う?ねえ、自分たちだけ逃げようとしたあのふたりの方が、よほど薄情じゃない?ふふっ」記理子は狂気を孕んだ冷笑を浮かべた。……一方、茜は柏原のオフィスでひたすら仕事を吸収していた。栞の下で働くのも勉強になったが、世の中は広かった。大企業である柏原には才能ある人間がいくらでもいて、少し言葉を交わすだけで、新しい視野が開けていくような気がした。ここ数日は、柏原グループの厳重なセキュリティの中にいるせいか、はっきりとは分からないが、周囲からの身の危険を感じることが一切なかった。そんな夕方、病院から一本の電話がかかってきた。意識不明だった栞が、ついに目を覚ましたという。茜はすぐに和久に連絡した。彼が一緒なら話が早い。仕事の流れを装って、ふたりは前後して柏原グループを出た。移動手段は違ったが、二つ目の交差点で和久の車が先に待っていた。助手席に乗り込むなり、茜は少し興奮した様子で聞いた。「高遠主任、あの日のことを話してくれるでしょうか?」「ここまでくれば、隠しても意味がない。それに……」和久は何かを考えるように、車窓の外を流れる景色へ目をやっ
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第408話

栞はそっと息をついた。その目が深く、遠い過去に思いを馳せるように伏せられた。「そう。柏原記理子が柏原小百合に見込まれて柏原家に嫁いだことは知っているでしょう。でも彼女が何を『嫁入り道具』として持参したか、きっとあなたたちは知らないわよね」栞は茜に視線を向け、次いで和久を見た。和久がゆっくりと口を開いた。「ウォーカーヒル、か」「そう、ウォーカーヒルよ」茜と和久は無言でうなずいた。茜は首をかしげた。「でもそれはおかしいです。ウォーカーヒルには私の父と母の出資分もありました。まるごと彼女の嫁入り道具になるはずがないじゃないですか」栞は茜をじっと見つめ、ためらうように唇をそっと噛んだ。「茜。信じられないかもしれない。でも私はあなたのお母さんの側で長年働いてきたの。率直に聞くけど、あの柏原記理子に、あれだけの規模のホテルを一から作り上げる実力があると思う?実はウォーカーヒルは、構想から完成まで、全部芙美さんが一人で生み出したものなのよ。柏原記理子はただ出資しただけ。でも彼女には、少し特殊な事情があったの」茜にはまだ理解できなかった。そもそも、これが記理子の嫁入りとどう結びつくのかも分からなかった。和久が静かに補足した。「彼女は田村(たむら)家の長女で、上に長男の兄がいるため、あまり重宝されていなかった。はっきり言えば、冷遇されていたんだ。卒業後に実家から渡されたのは名ばかりの資産だけ。旧家においてお金よりも大切なのは、一族の人脈だ。その人脈が誰に集まるか――それが後継者を決める。田村家では、一族のすべての資産と期待が優秀な兄に注がれていた。だから彼女に残された道は……」「政略結婚、ですか……」茜も良家の令嬢と交流があり、彼女たちの宿命を知っていた。どれだけ財産があっても、地位と家名を守り抜くには政略結婚するしかない。よほど自分の力で頭角を現さない限りは。でも、生まれながらにして決まっていることもある。旧家は男を重んじる。一族の資産がすべて跡取りの長男に集中した後、本当の意味で自立できる女はほとんどいない。「でも、うちの祖母は最初、彼女に価値を見出さなかった。だから彼女は、自分自身の価値を証明しなければならなかった」と和久は続けた。茜はこれまで知っていた断片的な情報を繋ぎ合わせ、ある結論に行き着
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第409話

「静山?」茜は和久を見た。今まさに和久が手がけているプロジェクトではないか。裏で大きなトラブルを抱えていると聞いていたが。栞は冷たく笑った。「静山プロジェクトは、周辺の村や町の経済を活性化するための公共事業で、立派な大義名分があった。西園寺社長も心血を注いでいた。でも、その利益に目が眩んだ欲深い人たちが現れたの。本来はみんなで公平に分けるはずのケーキを、焼く前の生地の段階からかすめ取り始めた人もいたの。一人では食べきれないと分かると、取り巻きを次々と引き込んでいった。表向きは問題がないように見せかけておいて、気づいたときにはもう中が完全に空洞になっていたの。それで、一生懸命ケーキを焼き上げた人間が罪人に仕立て上げられ、食い荒らした人間が被害者を演じたのよ」茜は眉を寄せた。「つまり当時の出資者たちが、みんなで口裏を合わせて父と母を陥れたということですか?」「プロジェクトは西園寺社長が担当していたから、私は芙美さんの秘書として把握できる情報には限りがあったの。真相を知っていたのは西園寺社長の秘書だったはずよ。でも彼はもういない――しかも西園寺社長の罪が確定した直後に、不審な死を遂げた。証拠は消え、全ては完全に闇に葬られた。芙美さんは必死でその秘書の残した痕跡を辿り、ようやく手がかりを掴んだ。でもあと一歩のところで……」栞の目に涙が光り、ゆっくりと言葉を続けた。「確たる証拠を掴んだ矢先、すでに芙美さんは監視されていた。あの事故が起きた日、芙美さんから電話があったの。『何かあるかもしれない。自分の身を守って。そして、茜のことを頼む』――そう言われたわ。でも彼女が事故に遭うと、ウォーカーヒル全体にピリピリとした空気が張り詰めて、私が直接あなたに近づけば疑われると思った。だから、あなたが柏原家に引き取られるのを、ただ黙って見ていることしかできなかったのよ。少なくとも、柏原家の庇護下にあれば、あなたに直接手を出すことはできないだろうと、それだけを信じて」「本当に……柏原家なんですか?」茜は信じられない思いで言った。そして、和久を見た。「お兄様、本当に……?」和久も栞も、確かなことは言えなかった。当時、裏で暗躍していた人間があまりにも多すぎたからだ。それでも、事件の首謀者が柏原家に繋がっているのは間違いなかった
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第410話

茜は弾かれたように顔を上げ、和久を見つめた。「お兄様……知っていたんですか?」「ああ。昔、父から聞いた」和久は静かにため息をついた。「父が、決して叶わぬ恋に落ちたからだ」茜は不安そうに和久を見つめた。和久は茜を人気のない場所へ連れていった。数歩先では若彰が見張りに立っている。「父はずっと祖母の言いなりになって生きてきた。何を学ぶか、何をするか、どんな服を着るかまですべてだ。唯一の反抗が、俺の母と結婚したことだ。似たような境遇の二人は、恋愛感情こそ芽生えなかったが、互いの痛みを分かち合うことはできた。でも母が早くに亡くなって、父は妻を失えばこの息の詰まるような生活から解放されると思っていた。ところが祖母は、すぐに後妻探しを始めた。その年だけで、百人近い女性に会ったと言っていた。誰を見ても同じに見えるほど感覚が麻痺し、断るたびに祖母と親族から激しい吊し上げを食らった。それでも父の持ち前の責任感が、逃げることを許さなかった。とうとう根負けし、そのころに田村記理子と出会ったんだ。彼女が父の目を引いたのは、他の令嬢と違って、初対面から『良妻』を演じなかったことだ。自分も家族に強いられてここにいると打ち明けた。それが亡き母を思い出させたのか、父は自然と彼女と話し込んでしまった。それが見合いの席をやり過ごすための良い口実にもなった。ところがそれが祖母の目に留まり、気がつくと婚約の話が勝手に進んでいた。二人はあくまで利害の一致によるビジネスライクな結婚で、父は彼女がひそかにウォーカーヒルを祖母への手土産として差し出していたことを知らなかった。そもそも父は、君のお母さんの存在すら知らなかったんだ。田村記理子に共同経営者がいるとは聞いていたが、それが誰かまでは知らなかった」このことには、茜にも記憶があった。子どものころ、母に「どうしてインタビューを受けるのはいつも記理子おば様なの?」と聞いたことがある。母は笑って言っていた。「記理子の方が愛想が良くて、写真映りがいいからよ」と。「私は逆で、どうもキツい顔立ちをしているし、短気なところもあるから。でも仲の良い親友同士なんだから、どちらが表に出てもいいじゃない」――と。あのころは何の疑いもなく、ずっとそう信じてきた。今となっては、何を信じればいいのか分からなくなっていた。
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