All Chapters of 明日、私は誰かの妻になる: Chapter 51 - Chapter 60

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第51話

「……」茜は呆然とした。いつも自分との間に明確な境界線を引くことに熱心だった諒助。名前を書く時でさえ、関係を悟られまいと筆跡を隠そうとした男。その彼が今、名札を書き直すと言っている。けれど諒助がペンを取り出した瞬間、前方から甘く柔らかな呼び声が聞こえた。「諒助さん」絵美里はまだ近くに来てもいないのに、諒助の体は既に反応していた。彼は反射的に茜を押しのけ、席さえ移動して二人の間に距離を作った。まるで茜の方が、自分から彼に媚びていたかのように見せるために。茜は軽く鼻で笑い、乱された袖の皺を直すと、彼らに一瞥もくれずに立ち去った。……一方、同じレストランのテラス席。元華大師がゆっくりと茶をすすり、向かいの和久を見た。「柏原様、お久しぶりですな。今日はどうも、心が落ち着いておられないように見受けられますが」「いや」和久は手元の茶を一気に飲み干し、立ち上がった。「少し失礼します」元華大師は意味深に笑い、何も言わずに彼を見送った。……茜は最寄りのトイレへ向かい、共用部の洗面台の前に立った。蛇口をひねり、ハンドソープをワンプッシュし、力を込めて手を二度洗った。以前は、諒助から漂う淡い香りが好きだった。青春時代から今まで変わらないその香りは、彼女に無限の安心感を与えてくれていた。けれど今、諒助の身体には絵美里の甘ったるい香水の匂いが染みついている。本能的に吐き気がした。最後には、爪の間まで執拗にこすり洗いをした。蛇口を閉じて顔を上げると、鏡に映った自分の背後に、男の姿があった。和久だ。彼が音もなく、ゆっくりと近づいてくる。190センチの長身が背後に立つだけで、言葉にできない圧倒的な圧迫感がある。頭上から冷たい照明が落ち、長いまつ毛が僅かに伏せられているが、その暗く読めない瞳の奥には、捕食者の色が宿っていた。茜は慌てて再び蛇口を開けた。なぜさっさと逃げなかったのかと後悔していると、彼が隣に来て、黙って手を洗い始めた。激しい水音だけが、二人の間に広がる沈黙を埋めていく。茜は唇を噛み、ぎこちなく笑ってこの気まずさを破ろうとした。「柏原社長、奇遇ですね。お食事はいかがでしたか?」彼が「良かった」とでも答えれば、「それは何よりです。では失礼します」と言っ
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第52話

茜は深く考える暇もなく、新規顧客から電話がかかってきた。今は仕事が優先だ。彼女は気持ちを切り替えて急いでその場を離れた。一方。先ほどの男が、慌てた様子でレストランの諒助たちの席へ戻ってきた。席につくなり、興奮を抑えきれない様子で口を開いた。「おい、さっき俺が何を見たと思う?」諒助は無造作に酒を煽っていて、あまり興味がなさそうだった。絵美里が彼に料理を取り分けながら、好奇心を示した。「あら、何を?」同席していた彰人が冗談めかして茶化す。「どうせまた、どこかの美人に目をつけたんじゃないか?」「確かに女だ。ただし……柏原社長と一緒にいた女だ」彰人は笑い飛ばした。「見間違いだろ?あの柏原和久だぞ。仕事の話でもなければ、女どころか人間にさえ関心を示さない鉄仮面だ」「いや、本当にあの人だよ!自分の目で見なきゃ、俺だって信じなかったよ。あの女への態度は絶対に……ただならぬ関係だ。訳ありな匂いがしたね」男は身振り手振りを交えて描写する。彰人も興味を持ち、身を乗り出した。「ほう。で、その女は誰だ?」「顔は見えなかったんだ。男の影に隠れててさ。でも、スタイルは抜群だったよ」その言葉を聞いて、食事をしていた絵美里の箸がピタリと止まった。「スタイル抜群」という言葉を聞いた瞬間、反射的に茜の姿が脳裏に浮かんだのだ。茜なんかと比べたくはないが、心の底では認めざるを得ない。あの女のプロポーションは、同性として嫉妬するほど完璧だ。あの泥棒猫め。反射的に諒助の反応を見た。けれど彼はスマホを見つめていて、どこか上の空だった。レストランに入ってきた時、諒助が茜の手を引いていた光景を思い出さずにいられなかった。それにこの二日間、諒助の自分への態度は、以前のような情熱を欠いている気がする。絵美里は箸を強く握りしめ、必死に感情の波立ちを抑えた。茜のような育ちの悪い女を、絶対に諒助の傍に戻させたりはしない。考えた末、彼女は唇を曲げて軽く笑い、何気ないふりをして口を開いた。「まさか……茜さんじゃないでしょうね?以前の告白動画が騒ぎになった時も、和久さんは彼女に対して何のアクションも起こさなかったし、それどころかこうしてウォーカーヒルにまで視察に来たし」彰人ら三人は呆然として、一斉に諒助を見た。諒助は眉をひそ
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第53話

彼女は笑顔で諒助の腕に寄り添い、含みのある言い方をした。誰が誘ったかなんて重要ではない。重要なのは、茜を同席させてやった、ということだ。諒助が公の場で、自分の立場を下げてまで一人の女性社員を評価するはずがない。案の定、彼は否定もせず、ただからかうような目つきで笑っていた。それがすべてを物語っているように見えた。絵美里と茜では立場が違う。今、人脈作りがより必要なのだ。茜は、最後に俺に泣きつけばいいのだ。そんなことを考えながら、諒助はふと、僅かに品定めするような目で、隣の女性と話している和久を見た。相変わらず冷淡で、女性に対して何の感情も見せない。やはり自分の考えすぎだと気づいて、可笑しくさえ思えた。二人の茜への評価を聞いて、ロアール夫人は微笑んだが、それ以上は何も言わなかった。彼女は優雅に向き直って元華大師との会話を続け、絵美里を完全に空気のように扱った。絵美里は会話に入れず、内容も理解できず、ただ情けない顔で諒助を見つめるしかなかった。居心地の悪さを感じ、諒助は彼女を連れて立ち上がった。「兄さん、夫人。ウォーカーヒルには他にも視察すべき場所がありますので、これで失礼します」「ああ」和久が短く返事をした。二人が去ると、ロアール夫人は茶を手に取って軽く笑った。「柏原さん、何か仰りたいことは?」「事実無根のたわごとに、多くを語る必要はありません」和久は長い指先でカップの縁を静かに撫でた。絵美里の浅はかな小細工は、百戦錬磨のロアール夫人の目を欺くことはできない。彼女はただ、敢えて指摘しなかっただけだ。ただ……「諒助さんは、あからさまだったわね」「……」ロアール夫人は彼の沈黙を見て、面白そうに目を細めた。「あらあら、嫉妬かしら?」「……」和久は不愉快そうに眉をひそめた。この珍しい光景に、向かいの元華大師まで声を上げて笑った。食事が終わった。別れ際、和久の隣にいた外国人女性が小声で囁いた。「和久さん、このお礼はどうしてくださるの?」さきほど、和久が彼女にメッセージを送って、少し外に出てほしいと頼んだのだ。彼女は和久を初めて見た時、彼の魅力に惹かれた。あわよくば艶っぽい展開があるかと期待したのに。口を開いた途端に冷たく拒絶され、おまけに他の女性の目を欺く
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第54話

「誰が口ごもってるって!」茜は反論したかったが、実際に何と言えばいいか分からなかった。ただ、諒助に食事に誘われた件を正直に話すしかなかった。話を聞いた星羅は、手にしていたゴミ袋を蹴飛ばしそうになるほど激怒した。「何それ、ひどすぎる!あなたにそんな残酷なことができるなんて!どう見てもあの手塚さんがあなたを陥れたのに、それをお金で揉み消そうとするなんて!」「私から言い出したの。手塚さんをここから去らせてって頼んだけど断られたから、じゃあお金でいいって適当に要求したのよ」茜が淡々と言った。「ああ、それは……あなたが被害者なんだから、何を要求したって当然の権利よ。でもたった百万円を上乗せで口止めしようなんて、人格を侮辱してるんじゃない?」星羅は憤慨した。「受け取ったわ」茜が言った。「……ええ、もらったなら受け取るべきよ。ただ泣き寝入りするわけにはいかないもの。でも、一度に全部話してくれない?こんなジェットコースターみたいな話、心臓が持たないわ」星羅は呆れて唇を尖らせた。茜はふっと笑った。「とりあえず、二十万、振り込むわね」星羅が固まった。「何でお金くれるの?」「社会人入試を受けるんでしょ?予備校や参考書にお金がかかるはずよ。あなたの給料、ほとんど実家に仕送りさせられてるじゃない。本当に一生ここでトイレ掃除をして終わるつもり?」ここは栄えている読飼市に近いとはいえ、地方出身者にとっては厳しい現実がある。数十年前、茜の母がこの地にウォーカーヒルを築いた頃、周辺の村では、娘たちが中学を出るとすぐに進学を諦め、家業の手伝いや奉公に出されるのが当たり前の現実があった。自分の意志とは関係なく早々に跡取りへ嫁がされ、若くして家庭という狭い世界に閉じ込められてしまう。中には、逃げ場のない暮らしに人知れず涙する女性たちもいた。茜の母はそんな彼女たちのために、ホテル内に「技を磨く場」を設けたのだ。周辺の女性たちに、自らの手で生計を立て、自立する道を示したのである。今でも、この場所はかつての村人たちにとって、単なる職場以上の「誇り」となっている。星羅もその一人だった。「茜ちゃん……」星羅は感極まって抱きつきたかったが、自分が臭いと思って躊躇した。「もういいわよ、そういうの。これ以上言うと私まで泣きそう
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第55話

最期の瞬間まで、母は激痛に耐えながら優しい笑顔を見せていた。その後、西園寺家は破産し、父は投獄され、身寄りのなくなった茜は柏原夫人に引き取られ、柏原家で暮らすことになった。だから茜にとって、ウォーカーヒルは亡き両親を偲ぶことができる唯一の場所なのだ。ピーッ――オーブンのタイマー音が、茜の回想を遮った。手袋をつけて、オーブンから自作の桃山を取り出す。盛り付けようとした時、ドアが開いて数人の男女が入ってきた。料飲部のマネージャーたちが絵美里を囲み、媚びるような笑みを浮かべて、へつらうように話していた。絵美里が謙遜するふりをして言うのが聞こえた。「私はただの副主任ですから、そんなに気を使わないでください。皆さんお忙しいのに、わざわざ付き合わせてしまって申し訳ないです」絵美里は一行の中央に立ち、ウォーカーヒルの制服を着ていたが、胸元には数百万円はするであろうブローチが輝き、彼女の「特別さ」を主張していた。彼女は優しく大らかに笑い、口では謙遜しながらも、その目には明確な距離感と優越感があり、まるでウォーカーヒルの女主人気取りの振る舞いだった。四人のマネージャーが競うようにお世辞を言う。「副主任は謙虚すぎますよ。これからウォーカーヒルの隅々まで把握していただかないといけませんから」「そうですよ、我々がご案内します」話していると、彼らは茜に気づいた。絵美里はわざとらしく驚いてみせた。「あれ?茜さん、どうしてここに?」けれど茜を見るその目には、驚きの色など微塵もなかった。茜は眉をひそめた。一瞬、絵美里の意図が読めなかった。絵美里は茜に考える時間を与えず、一歩前に出て天板の桃山を指差した。「茜さん、ウォーカーヒルの設備や材料を私用で使ってるの?私も副主任として製菓室をお借りする時は、ちゃんと飲食部に申請が必要なのに。公私混同はいけないわ」この発言で、絵美里のコンプライアンス意識が高く、茜がルーズであるという印象を植え付ける。茜が何をしても悪く見えるような構図だ。柏原家がウォーカーヒルを引き継いだ後、上層部は洋菓子を主力として推進している。特別招聘したパティシエは数々の賞を取っているが、彼らはプライドが高く、茶菓子を「古臭い」と見下しており、作ろうとしなかった。そのため、茶菓子の要望
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第56話

「茜、怖がらないで。俺がいる。ウォーカーヒルもある。ウォーカーヒルはいつまでもお前の家だ」――かつて、諒助が彼女に囁いた言葉だった。なるほど、「男は平気で嘘をつく」とは、よく言ったものだ。茜は乾いた笑いを漏らしたかったが、目の奥が熱くなり、涙が滲みそうになった。ウォーカーヒルには亡き両親の思い出だけでなく、諒助との甘い思い出も詰まっている。今の状況は、まるでドラマでよくある話だ。妻が家のために全てを捧げたのに、男が飽きた途端に「出て行け」と言い放ち、「この家は俺のもので、お前とは無関係だ」と宣告するようなものだ。この瞬間、四人のマネージャーも諒助の茜への冷酷な態度を見て取り、形勢を伺っていた。彼らは次々と茜を責め始めた。「西園寺、副主任は君を責めないと言ってくださっているのに、どうしてそんなに心が狭いんだ?」「そうだ、わざとぶつかるなんて、どうしてそんな大事にするんだ?」「西園寺、従業員は従業員らしい態度を取れ。副主任に誠心誠意謝罪すれば、製菓室を無断使用した過失は問わないでおいてやる」これは山本支配人の言葉だった。茜は子供の頃「おじさん」と呼んで慕っていた人を見つめたが、その目は他人を見るように冷たく凍りついていた。諒助の言う通りだ。彼だけでなく、ここの全てが変わってしまったのだ。茜は過去への執着を捨て、飲食部の面々を静かに見回した。「皆さんは多忙でお忘れのようですが、予約票を提出した時に備考欄に明記しました。もしダメなら、どうしてその時に注意してくれなかったんですか?それとも、私が間違うのを待っていたんですか?」数日前、茜が事務センターに電話して予約した際、わざわざ備考を念押ししたのだ。彼らが知らないはずがない。おそらく、茜がこれほどはっきりと反論してくるとは思わなかったのだろう。数人は顔を見合わせて、一言も返せなかった。絵美里が意味深長に言った。「諒助さん、予約票を確認してみてはどうでしょう。誰が嘘をついているか、一目瞭然よ」諒助は数歩離れた場所にいた秘書の聡史に目配せをした。聡史は頷き、五分もしないうちに予約票を持ってきた。「諒助様。予約票には午後三時の会議室予約以外、何の備考もありません」山本支配人たちはすぐにほっとして、鬼の首を取ったように茜を攻撃した。「ほら
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第57話

茜はようやく理解した。諒助が計ったように、よりによって自分が菓子を作り終えたタイミングで現れた理由を。彼も以前、彼女の作った桃山を食べたことがある。舌の肥えた彼でさえ「絶品だ」と絶賛していた。芸術的な細工が施され、餡の味も複雑で、絵美里のような料理下手なお嬢様に作れる代物ではない。だから彼は絵美里のために茜の退路を断ち、完成品という「手柄」ごと絵美里に渡そうとしたのだ。ふん。鼻で笑いたくなるほど、涙ぐましいものだ。残念ながら、絵美里にその手柄を受け取るだけの力量があるかどうかは別問題だが。顔を上げた時、茜の表情は極めて冷静だった。軽く頷く。「分かりました。では失礼します」去り際に、絵美里が得意げに言った。「オフィスに戻って、よく反省してくださいね」その言葉を遮るように、茜はわざと足を挫いたふりをして、テーブルの上の桃山の皿を全て床に払い落とした。ぐしゃり、という鈍い音と共に、美しい菓子が無残な残骸に変わる。絵美里の顔色が一変し、声が裏返った。「茜さん!何してるのよ!」茜は申し訳なさそうな、困った表情を作ってみせた。「すみません……桃山を作るために長時間立ちっぱなしで、少し足が痺れてしまって」絵美里はすぐに金切り声を上げた。「じゃあ急いで作り直してください!」茜はまた、火傷で赤く腫れ上がった掌を見せた。「先ほど、諒助さんがあなたを助けようとして私を突き飛ばしたので、天板にぶつかってしまって……これではもう繊細な作業はできません。でも、副主任は賢い方ですから、きっと何か良い方法を思いつくでしょう?」「あなた……っ!」絵美里は顔が歪むほど腹を立て、悔しそうに諒助を見た。「諒助さん、どうすればいいかしら?」料飲部の山本支配人が慌てて前に出て媚びた。「洋食レストランに他の菓子が残っていないか、確認してまいります」「……行こう」諒助は不機嫌そうに絵美里の手を取って立ち去ろうとした。茜の傍を通り過ぎる時、足を止めて低く囁いた。「茜、こんなくだらない抵抗はやめろ。絵美里の方がお前よりこの仕事に適している」やはり。茜は何も言い返さなかった。どうせ諒助の目には、自分の説明は全て言い訳にしか見えないのだ。上司から部下への理不尽な警告だと思えば、痛くも痒くもない。彼か
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第58話

会議棟はロビーの隣にある。中は全てビジネスライクな仕様で整えられた、機能的で無駄のない空間だ。茜はプロらしく、淀みない口調で会場を案内した。彰人は二周ほど見て回ると、不満げに眉をひそめた。「もっと良い会議室はないのか?」「ございます。ただ、そちらは本日、柏原社長が会議で使用されておりますので、ご案内は控えさせていただきます」茜は丁寧に説明した。「おいおい茜、それって顧客を差別してるってことじゃないか?そんな悪評が広まったら、ウォーカーヒルの営業としてやっていけないぞ?」彰人は意地悪く笑った。茜は彰人がわざと困らせているのは分かっていたが、それでも反論はできなかった。どんな相手であれ、顧客にウォーカーヒルを案内し、魅力を伝えるのが自分の職務なのだから。「五時以降でしたら、ご案内可能です」「まあいい、妥協しよう。友達同士なんだし、その会議室の周辺だけ見せてくれよ」彰人が食い下がった。茜は腕時計で時間を確認した。和久の会議は、ちょうど今が休憩時間のはずだ。茜もこれ以上彰人に付きまとわれたくなかった。「……分かりました。最上階にあります。ご案内します」最上階に着くと、思いがけない光景を目にした。茜はちょうど、諒助が絵美里を連れて会議室に茶菓子を届けに入るところを目撃したのだ。天下の柏原家の次男坊が、自ら給仕のような真似をするなんて、外に漏れたら誰も信じないだろう。けれど彼は、絵美里のために道を開くために、本当に心を砕いている。絵美里の晴れやかな笑顔を見る和久も、途中で担当者が茜から絵美里に代わったことに満足しているように見えた。どうやら……誰もが絵美里の味方らしい。諒助も、柏原家の人々も、彰人たち友人も、同僚たちも。あの無愛想で冷徹な和久でさえも。自分がどれだけ努力しても、結局は絵美里という存在には敵わないような気がして、茜は何となく落胆した。彼女は深呼吸してプロ意識を取り戻し、気持ちを引き締めて彰人への案内を続けた。意外なことに、彰人はそれ以上茜を困らせるようなことはしなかった。ただ時折立ち止まって、熱心に写真を撮るだけだった。……一方、会議室。和久は入ってくる足音に、僅かに目を上げた。視界に入ったのは諒助と絵美里だった。諒助は軽く頷き、後ろのス
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第59話

彼は一歩前に出て頭を下げた。「申し訳ございません。絵美里は着任したばかりで、まだ不勉強だったようです。すぐに適切なものを作り直させます」ロアール夫人は手で制し、冷ややかに言った。「結構だわ。少し気分が悪くなったので、部屋に戻って休ませてもらうわ」和久がすかさず立ち上がった。「お送りします」二人はそのまま部屋を出て行ってしまった。残されたのは諒助と絵美里だけ。「絵美里。茜より入念に準備したと言っていたよな?どうしてこんな基本的な重要事項を見落としたんだ?」絵美里は反射的に身を縮めた。資料など、まともに見ていなかったのだ。彼女は奥歯を噛み締めて言った。「きっと茜さんのせいだわ!私に対抗してくるのはこれが初めてじゃないし。わざと重要な情報を隠して、私に恥をかかせようとしたのに間違いない!」諒助は何も答えず、ただじっと彼女を見た。絵美里は彼が自分を疑っているのではないかと不安になり、すがりつくように彼に抱きついた。「諒助さん……以前、何があっても必ず私を守るって約束してくれたじゃない」諒助はため息をつき、彼女の背中をポンポンと叩いた。「分かった。大したことじゃない。茜には俺からきつく言っておく。お前もこれ以上彼女を挑発するな」彼の言葉を聞いて、絵美里は固まった。かつては彼女のために記憶喪失を装ってまで、茜を冷酷に切り捨てた人が、今は茜を庇うようなことを言う。やはりあの女は……生かしておけない。……彰人は写真を撮り終えると、茜とロビーへ戻った。電話をかけて、会議室とプール付きの別荘一棟を即決で予約した。そして去っていった。茜は深く考えなかった。この前のいざこざで、自分への執着も失せたのだろうと安堵した。振り返ってオフィスへ戻ろうとした時、諒助と正面から出くわした。彼は血相を変えて、有無を言わさず茜の手首を掴むと、強引に地下のバーへと連れ込んだ。この時間、バーにはバーテンダー以外、客は誰もいなかった。ゆったりとしたジャズと薄暗い間接照明が、心地よい雰囲気を醸し出している。けれど茜は、ただ掴まれた手首が痛かった。「離してください!何かご用ですか?また私が何かミスでもしましたか?」「やっぱりわざとだったんだな!」諒助は冷笑を浮かべ、茜を見る目には失望の色が満ちてい
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第60話

この低く響く声に、茜は背筋がゾクリとした。けれど逆らう勇気はなく、吸い寄せられるように、一歩ずつ歩み寄る。「か、柏原社長……」口ごもってしまった。茜は突然、星羅に「和久のことになると挙動不審になる」と言われたのを思い出した。本当にその通りのようだ。彼はタバコを消し、ボトルから琥珀色の液体を注ぐと、そのグラスを茜の方へ差し出した。「要らないのか?」茜は呆然として、和久の意図が理解できなかったが、それでも手を伸ばして受け取ろうとした。指がグラスに触れた時、まずガラスの冷たさを感じ、次に男の温かい指先に触れた。この時、和久が僅かに顔を上げた。薄暗い照明が彼の彫りの深さを際立たせ、瞳は闇夜のように暗く、じっと彼女を見つめている。まるで茜の心の奥底まで、覗き込むように。茜は彼に見つめられて動揺した。指先が熱を帯びた電流が走ったように痺れ、咄嗟に手を引っ込めようとしたが、彼の長い指がグラス越しに彼女の指を押さえつけた。「何を怖がっている?俺が食うとでも思っているのか?」「い、いえ……」茜は唇を噛み、照明が暗くて良かったと思った。そうでなければ、和久に自分の赤くなった顔を見られてしまう。掌の火傷の刺すような痛みが、グラスの氷の冷たさのおかげで、少し和らいだ気がした。茜は手を動かしてグラスを受け取ろうとしたが、和久は彼女を離さなかった。……飲ませてくれるんじゃないの?和久が目を細め、冷たく言った。「何か言うことはないのか?」彼が聞いているのは、確実に午後の会議の不手際に関することだ。茜はマニュアル通りに謝罪した。「申し訳ございません。午後の会議の茶菓子は確かに準備しておりましたが、突発的な状況がありまして……副主任が『ちょうど手が空いているから』と、代わりを務めるとお申し出いただきました」茜は十分承知している。職場で最もタブーなのは「陰口」や「告げ口」だ。けれど絵美里を楽にさせたくもなかったので、言葉を選んだ。「ちょうど手が空いていた」という数文字だけで、絵美里が手柄を横取りしようとした動機を示唆するには十分だ。「ああ」「も、もちろん説明できます。私はただ……え?」茜は長々とした弁解を用意していたのに、和久があっさりと肯定したことに気づいて拍子抜けした。呆然として、少
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