「……」茜は呆然とした。いつも自分との間に明確な境界線を引くことに熱心だった諒助。名前を書く時でさえ、関係を悟られまいと筆跡を隠そうとした男。その彼が今、名札を書き直すと言っている。けれど諒助がペンを取り出した瞬間、前方から甘く柔らかな呼び声が聞こえた。「諒助さん」絵美里はまだ近くに来てもいないのに、諒助の体は既に反応していた。彼は反射的に茜を押しのけ、席さえ移動して二人の間に距離を作った。まるで茜の方が、自分から彼に媚びていたかのように見せるために。茜は軽く鼻で笑い、乱された袖の皺を直すと、彼らに一瞥もくれずに立ち去った。……一方、同じレストランのテラス席。元華大師がゆっくりと茶をすすり、向かいの和久を見た。「柏原様、お久しぶりですな。今日はどうも、心が落ち着いておられないように見受けられますが」「いや」和久は手元の茶を一気に飲み干し、立ち上がった。「少し失礼します」元華大師は意味深に笑い、何も言わずに彼を見送った。……茜は最寄りのトイレへ向かい、共用部の洗面台の前に立った。蛇口をひねり、ハンドソープをワンプッシュし、力を込めて手を二度洗った。以前は、諒助から漂う淡い香りが好きだった。青春時代から今まで変わらないその香りは、彼女に無限の安心感を与えてくれていた。けれど今、諒助の身体には絵美里の甘ったるい香水の匂いが染みついている。本能的に吐き気がした。最後には、爪の間まで執拗にこすり洗いをした。蛇口を閉じて顔を上げると、鏡に映った自分の背後に、男の姿があった。和久だ。彼が音もなく、ゆっくりと近づいてくる。190センチの長身が背後に立つだけで、言葉にできない圧倒的な圧迫感がある。頭上から冷たい照明が落ち、長いまつ毛が僅かに伏せられているが、その暗く読めない瞳の奥には、捕食者の色が宿っていた。茜は慌てて再び蛇口を開けた。なぜさっさと逃げなかったのかと後悔していると、彼が隣に来て、黙って手を洗い始めた。激しい水音だけが、二人の間に広がる沈黙を埋めていく。茜は唇を噛み、ぎこちなく笑ってこの気まずさを破ろうとした。「柏原社長、奇遇ですね。お食事はいかがでしたか?」彼が「良かった」とでも答えれば、「それは何よりです。では失礼します」と言っ
Read more