その頃の私は、幸せだった。 少なくとも、そう信じて疑わなかった。 ――あの匂いに、気づくまでは。 その優しさは、私の人生を奪うためのものだった。そろそろ冬の気配が近づいてきたと感じさせる秋の終わり。 空は一日中曇りがちで、雲を通した薄い光が、開業医クリニックの廊下を鈍く照らしていた。 白一色の壁、やや古さを感じさせる蛍光灯の明かり、遠くで微かに響くカルテカートの車輪の音――。 忙しさに追われることもなく、かといって完全な静寂でもない、昼下がり特有の落ち着いた時間帯だった。 渡辺楓は、診察を終えた患者のカルテを机の上に置き、最後の確認をしてから閉じようとした。 だが、その指がふと止まる。 ほんの一瞬。理由も分からないまま、胸の奥にかすかな違和感が走った。 心の中で、ある人物の姿が浮かび上がる。 思い出すつもりなどなかったのに、まるで呼び水のように、記憶は勝手に形を成していく。 彼の笑顔。 少し低めの声。 何気なく触れた手の温度。 ――亮。 名前を心の中で呼ぶだけで、胸の奥がきゅっと締めつけられる。 二十八歳の頃から、たった二年間。 それほど長い時間ではないはずなのに、思い出の輪郭は色褪せるどころか、今も柔らかな光を放ちながら、楓の心を包み込んでいた。 「外科医になるはずだったんだよね、私……」 ぽつりとこぼれた独り言は、診察室の静かな空気に溶け込み、壁に吸い込まれて消えた。 外科研修を終えたあの頃、楓の未来はもっと直線的で、迷いのないものだったはずだ。 進むべき道は明確で、努力すれば必ず辿り着けると信じて疑わなかった。 決めたはずの方向。 描いていた将来の図。 それらすべてが、“ある出会い”によって、音を立てて崩れていった。 ――二年前。六月。 湿気を帯びた風が、病院の大きな窓を叩いていた。 梅雨特有の重たい空気が、建物の中まで入り込んでくるような夕方だった。 当直明けで、頭の奥に軽い疲労を抱えながら、緊急外来でカルテを整理していた楓の耳に、勢いよく扉が押し開けられる音が響いた。「すみません! あの、足を……!」 少し切羽詰まった声とともに現れたのは、白いシャツの胸元まで汗を滲ませた男だった。 整った顔立ちをしているのに、どこか不器用で
Terakhir Diperbarui : 2025-12-18 Baca selengkapnya