All Chapters of 静かな幸せは、裏切りの匂いがしたー医師・渡辺楓が選んだ、愛という名の代償ー: Chapter 51 - Chapter 60

166 Chapters

第51話

「……悔しかったの!!」 楓が言い終えたとき、テーブルの上には一瞬だけ静寂が生まれた。  レストランの柔らかい照明が、楓の赤くなった目元を淡く照らし、  その姿を正面から見つめながら、慎一は黙ってワインを一口飲んだ。 まるで楓の感情が落ち着くまで待っているようだった。 やがて慎一は静かに口を開く。「……悔しいって思えるのはさ、楓が本気で生きてきた証拠だよ」「本気……?」「そう。仕事も恋愛も、全部ちゃんと向き合ってたからこそ、胸に残るんだよ。  適当にやってたら、何も感じないまま終わってた」 慎一の声は低く、穏やかで、まるでどんな怒りも悲しみも吸い取ってしまうような響きだった。「でも……」  楓は視線を落とし、指先でグラスの脚をなぞる。「でも? 続けて」「悔しい気持ちって、自分が惨めに感じるじゃない……?   私、あのとき……“価値のない女”になったみたいで」 その言葉を聞いた瞬間、慎一の眉がわずかに動いた。  だが怒りではなく、悲しむような、痛むような表情。「それは違う」 はっきりと、しかし優しい声。「価値がどうとか……そんなの他人が決めるもんじゃない。  もし亮に捨てられたって思ってるなら、それも違う」「……え?」「亮が楓を選ばなかったんじゃない。  “楓が亮に見合わなかった”んじゃない。  単に亮が……楓みたいな真面目な人間の隣に立つ器じゃなかっただけだよ」 楓は言葉を失ったまま、慎一の顔を見ることしかできなかった。「それに……年齢とか、赤いドレスとか、妊娠するとか……  そんなこと言ってマウント取ってくる女なんて、嫉妬してる証拠だよ」 慎一は少しワインを飲み、続けた。「楓は美人だし、頭はいいし、腕は良いし……何より、強い。  あんな子が敵うと思う?」「つよ……い?」  楓は思わず聞き返す。「そうだよ。さっきまで泣いてたのに、一瞬で着替えて歩き出すような女だぞ?  そんな奴、世の中にそういない」 楓は少し笑った。「……それ、褒めてる?」「褒めてる。最高に」 慎一はさらりと言い、楓は照れくさくなってワインをもう一口飲んだ。 そのタイミングで、メインの料理が運ばれてきた。  立ちのぼる香りに、心の重さが少しずつ溶けていく。 ふたりはしばらく黙って食事を口に運んだが、  沈黙は不思
last updateLast Updated : 2026-01-12
Read more

第52話 夜風と、言いかけた言葉

 店を出ると、夜の空気は少し冷たかった。  昼間のざわめきが嘘のように静まり、街灯が二人の影を細く伸ばしている。  店内であれほど飲んだワインの余韻が、まだほんのりと身体に残っていた。「寒くないか?」  慎一がそっと楓の肩に手を添えた。「うん、大丈夫。でも……少しだけ涼しいね」「……もう一軒、行く?」 慎一の声はどこか迷いを含んでいた。  帰りたくないのか、帰したくないのか。  楓にはそのどちらにも感じられた。「行きたい気もするけど……」  楓は夜空を見上げ、ゆるく笑う。 「今日はね、慎とたくさん話せたから……それだけで十分」 慎一は歩みを止め、楓の横顔を真っ直ぐに見た。  その目には、何か言いかけて飲み込んだような揺らぎがある。「楓……」「ん?」「……いや。何でもない」 その“何でもない”が、何でもないわけがないことくらい楓にもわかる。  だが慎一が言葉を選んでいることも、同時に伝わってきた。(慎……何を言おうとしたんだろう) 歩き出した慎一の背中に、楓は静かに並ぶ。 駅へ向かう途中の並木道は、冬支度の葉が揺れ、夜の風の音が二人の沈黙を柔らかく包む。  並んで歩くだけで心が穏やかになっていく――そんな不思議な相手だった。 ふと、慎一が言う。「……本当に頑張ってるよな、楓」「え?」「今日の話聞いてて思った。仕事も、恋愛も、自分をごまかさずに向き合ってきたんだろ?そういうの……簡単じゃないよな」「……慎」 優しい声だった。  慰めじゃなく、尊敬のこもった声。「俺は……楓のそういうとこ、ずっと好きだよ」 最後だけ少し声が低くなった。  “好き”という言葉の温度が、頬に残る。(……どういう意味?) 聞き返す勇気はなかった。  訊かなければ、今の関係は壊れずに済む――そんな気もしたから。 二人は駅までの短い距離を、ゆっくりと歩いた。 改札の前で、慎一がふと立ち止まる。「今日は……本当に来てくれてありがとう。そして……楓の隣に立てて、嬉しかった」「私も……ありがとう、慎」 楓が微笑むと、慎一は少し照れたように目を逸らした。  そしておもむろに口を開く。「楓……もし――」 そこまで言って、また言葉を止めた。 胸がどきりと跳ねる。「……いや。続きはまた今度でいいな。今言ったら、たぶん……
last updateLast Updated : 2026-01-13
Read more

第53話 

 外科医として現場に復帰してからというもの、楓の時間は文字通り“戦場”そのものだった。 朝は誰よりも早く病院に入り、夜は当直か、終電近くの帰宅。  外来、病棟回診、緊急オペ、急患対応――復帰して間もない楓には、実力以前に体力が試される日々が続いた。 ブランクが二年あるとはいえ、楓はもともと優秀な外科医だ。  だが病院はそんな経歴を一切考慮しない。  主任医師の指示のもと、年下の研修医たちと同じ立場で動き、雑務もこなし、当直も回された。 自宅に帰れる日は珍しく、帰れたとしても―― 玄関を開けた瞬間、バッグを落とし、服を脱ぎ、靴も揃えず、その場にしゃがみこんでしまう。(……限界……) それでもベッドに倒れ込む直前、楓はスマホを手に取り、無意識に慎一とのメッセージ画面を開く。《今日もお疲れさん。無理するなよ》 そんな短いメッセージが届いているだけで、呼吸が少しだけ整う気がした。《ありがとう。慎は? 今日は帰れそう?》《たぶん徹夜。企業訴訟で揉めててな。社長同士がもう喧嘩腰》《相変わらず…大変だね》《まあな。でも楓の方が大変だろ》《がんばるよ。ありがとう、慎》 わずかなやり取り。  会えていなくても、文字のやり取りだけで互いの存在を確かめられた。(慎も頑張ってるんだもん。私も……頑張らなくちゃ) そう思えることが楓の支えになっていた。  復帰から一か月が経った頃、楓は救命救急センターの応援に入ることになった。  連日のオペと徹夜明けの外来に加え、救急では土日もお構いなしで患者が運び込まれる。「渡辺先生、心タンポナーデ疑い! 処置室お願いします!」「はい!」 救急の廊下を走るたび、胸の奥が熱くなる。  辛い。眠い。体が重い。  それでも――この瞬間だけは、生きている実感が湧いた。(やっぱり、私はここが好きなんだ) その気持ちに嘘はなかった。  一方の慎一もまた、同じように修羅場をくぐっていた。  医療訴訟、防衛庁関連の案件、企業買収の交渉――  すべてが重なり、深夜のオフィスで書類に埋もれる日々。 時々、楓から《今日、当直……倒れそう……》 とメッセージが届くと、慎一はスマホを見つめて眉を寄せる。《無茶するなよ。お前は強いけど、強いからこそ心配なんだ》 本当は会って顔を見たい。  あの夜、改札で言
last updateLast Updated : 2026-01-13
Read more

第54話

 ある日、救命救急センターの当直を頼まれた楓は、白衣の袖を軽くまくりながら医局のソファに腰を下ろしていた。  マグカップから立ち上るコーヒーの蒸気が、ほんのわずかに疲れた瞳を温める。(今日は……暇だといいな。せめて一息つける当直であってほしい) そんな都合のいい願いをこぼした瞬間、医局のスピーカーが無情に鳴った。『救急車、あと三分で到着します。救命センター、急患対応お願いします』 楓は小さく目を閉じ、マグカップを置いた。「……ですよね」 独りごちるように呟くと、白衣を整えて廊下へ出る。  救命センターの扉を押し開けた時、すでに看護師たちは配置につき、モニターや点滴の準備が整えられていた。「楓先生、30代男性。胸痛を訴えています。意識は清明、バイタルはやや不安定です」「了解」 救急車が到着すると、後部ドアが開く。  ストレッチャーに横たわっていたのは、顔面蒼白の若い男性だった。「胸が……締め付けられるように……」 楓は即座に胸部の聴診をし、酸素投与を指示した。(急性冠症候群……でもSTはそこまで大きくない。血圧の下降もない。これは……急性心膜炎の可能性が高いか) 心電図や血液検査を確認しながら、素早く考えをまとめていく。  結果、幸い命に関わる状態ではなく、処置と経過観察で対応できると判断した。「痛み止めを投与して、心エコーの準備を。入院の手配はあとで確認します」「はい、楓先生」 ようやく少しだけ緊張が緩む――その刹那。『救急車、あと二分で到着します。交通外傷です』 スピーカーの声に、楓は思わず空を仰ぎたくなった。(……今日は忙しい当直になりそう) 二台目の救急車が到着すると、今度は20代男性。  自転車同士の衝突で転倒し、右肩から肘にかけての擦過傷、左足首の捻挫、軽度の頭部外傷。「痛っ……痛い……!」「頭を打ってます。CTに回しましょう」 看護師に指示を飛ばしながら、楓は手早く処置を進める。  打撲や裂傷はあるが、骨折や重症の所見はない。(大丈夫。これも応急処置で済む) ほっとしたのも束の間、再びセンターの自動ドア近くが慌ただしくざわついた。『救急車、まもなく入ります。急患です』 三件目――悪い予感しかしない。(嘘でしょ……今日どうなってるの……?) 楓が処置室を出て入り口へ向かった瞬間、救急車
last updateLast Updated : 2026-01-14
Read more

第55話

 亜里沙を乗せたストレッチャーが処置室に入り、扉が閉まる直前まで、彼女の泣き声は響き続けていた。「りょおぉ……痛いの……ねぇ、ほんとに死んじゃうかもぉ……!」 楓は眉を寄せ、深く息を吐く。(死んじゃう、ねぇ……見た感じ“死ぬほどのケガ”はどこにも見当たらないけど) だが、泣き叫ぶ亜里沙の横には、蒼白な顔をした亮の姿があった。  亮はストレッチャーの横を必死に歩きながら、医師や看護師に頭を下げ続けている。「す、すみません……こいつが、どれくらいの病気なのか……自分では……」 楓は淡々と答えた。「診ないとわかりませんので。邪魔にならないようにしていてください」 触れる声は冷たくも厳しくもない。  ただ“医者としての距離”を保とうとする、いつもより硬い声。 楓の声を聴いた瞬間、亜里沙は驚いた顔をしたが、楓が医者であったことを思い出していた。 亮は少しだけ困ったような顔をし、視線を泳がせた。 だが楓はその表情からすぐに目を逸らし、ストレッチャーの方へ向き直った。(……今日ほど、当直を断ればよかったと思う日はない) 心の中で自嘲しながら、手袋をはめる。  看護師たちも空気を察したのか、必要以上に楓へ話しかけることはしない。 処置室内は妙な緊張に包まれていた。 亜里沙はベッドに移されると、泣き声をさらに一段階高くした。「りょおおおお……痛いの、ほんとに痛いの……! 楓先生、私を殺さないでぇぇぇー……!」 その泣き声に、楓は一瞬だけ動きを止めた。 “楓先生”と言われたことには驚かない。  この病院ではその肩書が当たり前だからだ。 だが、彼女がそれを言う時の妙な親しさと甘さ。  そして隣で亮がそれを止めるでもなく、ただオロオロしていることが――  楓の胸をじわりと冷たくした。「はいはい、痛いのはわかりましたから。ちゃんと診ますので静かにしていてください」 口調は医師としてのそれ。  私情は一切混ぜない。  だが心の奥では、冷たい水がゆっくり広がるような感覚があった。(泣けば亮が抱き寄せてくれる、って思ってるんだろうな……) 亮を横目で見ると、案の定、彼は亜里沙の手を握りしめ、「大丈夫だから……大丈夫だからな?」 と、小さくささやいていた。(……なるほど。今日は“そういう日”ってことね) 楓は淡々とカルテを取り、冷
last updateLast Updated : 2026-01-14
Read more

第56話

 医局のドアが静かに閉まったあと、楓はようやく深いため息をついた。  コーヒーを淹れた手がまだほんのり温かいのに、胸の奥はひどく冷えていた。(……便秘であんな騒ぎ方をするなんて) 呆れるより、もう笑うしかなかった。  だが、さっきまでストレッチャーの脇にいた亮の顔がふっと脳裏に浮かび、胸がきゅっと締めつけられた。(亮……あのときの顔、すごく必死だった。まるで……本当に大切な人を心配してる顔だった) その事実を認めたくなくて、楓はコーヒーをもう一口飲んだ。  しかし苦味はまったく感じなかった。 医局には楓しかいない。  夜中の救命センターは一瞬だけ静けさを取り戻し、モニターの電子音すら遠く感じられる。(……私、まだこんなに反応するんだ。こんなことで、こんなに……) 自分の弱さを突きつけられ、楓は情けなくなった。  でも、今日は救急外来の医師としてできることはすべてやった。  亜里沙がどれだけ大げさに騒ぎ、亮が動揺しようとも、楓は一貫して冷静に対応したのだ。 そこだけは、誇っていいはずだった。「はぁ……」 またため息。  今日は何度ついただろう。 すると、医局のドアがノックもなく軽く開き、顔を出したのは救急の看護師だった。「楓先生、大丈夫ですか?」 心から心配しているのが伝わる声だった。  楓は無理にでも笑みを作った。「ごめんね、心配かけて」「いえ……さっきの、あの女性……いえ、人のこと悪く言いたくないんですけど、正直……すごかったですね」 看護師が眉尻を下げて言うと、楓はまた苦笑してしまった。「そうだね。でも、本人が痛いっていう限り、こっちは否定できないから。でも、今回のは思い当たる症状があったから、消化器内科に渡したのよ。」「……ですよね。本当に先生はすごいと思います。あたしだったら心折れてます」 そう言って彼女はあたたかいミルクティーを置いていった。  その気遣いが胸に沁みて、楓は少しだけ肩の力が抜けた。「ありがとう……」 医局の窓から見える外灯は、いつもよりずっと遠く感じた。  しかし、心にざわざわとした波紋が広がり、それが消える気配はない。(……亮。なんで病院にまで来るのよ。よりにもよって、救命に) 亮を責めたい気持ちと、責められない立場。  感情と理性が何度もぶつかり、楓は目を閉じた。(
last updateLast Updated : 2026-01-15
Read more

第57話

再び楓は疲れて医局でぐったりしていた。本当に大変な病気やケガで運ばれてくる人に、申し訳ないと考えてくれればいいのだが、亜里沙のような人は一定数、必ずいる。ただ、本人にはわからない痛みで救急車を呼んでいるのだから、私たち医師は対応するしかないというのが本音であった。2時間もすると、消化器内科の医師がやってきて、無言で楓に検査結果を渡して、横の椅子に座った。眉間には皺が寄っている。楓もその検査結果に目を通し、「でしょ?」と用紙を消化器内科の医師に返しながら聞いた。そして、その医師のためにコーヒーを淹れながら「一応、私の知り合いなんだけど、全く交流が無い人たちなの」と言い訳をした。消化器内科の医師は「便秘で大騒ぎするなんて、全く………!!」と呆れながら言った。「で、彼女はどうするの?」とコーヒーを渡しながら聞くと、「浣腸にするか、下剤にするか選べと言ったら、下剤を持って帰って行ったよ。全く、毎日、高価な食事ばかりしてるんじゃないか?あんなに高そうな服着て」と憤慨しながら、コーヒーを持って戻って行った。楓はその後姿を見送りながら、「ありがと。ちょっとスッキリしたわ」と笑った。 「楓先生……今、いいですか?」 顔を出したのは救命の新人看護師・由紀だった。  彼女は少し遠慮がちに入ってくると、楓の前に立った。「さっきの患者さん……あの……」 由紀は言葉を選ぶように口ごもる。  気まずい空気を感じ取った楓は、やさしく微笑んだ。「いいよ。聞きたいことがあるなら言って」「えっと……彼氏さんなんですか? あの……付き添ってた男性……」 由紀は言いにくそうに視線を泳がせた。  楓は一瞬固まったが、すぐにかぶりを振った。「違うよ。昔の……知り合い。今はもう関係ないの」「そ、そうなんですね……。すみません、変なこと聞いて」 由紀は慌てて頭を下げる。  楓は首を振って笑顔を作った。「大丈夫。気にしないで」 由紀は安心した顔を見せてから、医局を出て行った。 ドアが閉まり、再び静寂が訪れた瞬間――  楓はそっと左手で胸を押さえた。(関係ない……か。言ってみたけど……本当は――) 心の中に浮かびかけた言葉を、楓は意識的に押し戻した。(もうやめよう。あの人のことで揺れるの、ほんとに……嫌) カップの中のコーヒーはすっかり冷めていた。  
last updateLast Updated : 2026-01-15
Read more

第58話

 一方で、慎一もまた、同じ夜をまったく別の場所で戦っていた。  深夜のオフィス。  キーボードの音も、空調の唸りも、広い部屋の静けさの中に沈んでいく。 デスクの上には高く積まれた書類と、パソコンの白い光。  まるで静かに燃える戦場だった。「……くそ、またこれかよ」 企業同士の訴訟は完全に泥沼化していた。  双方が一歩も引かず、押し付け合いと駆け引きが続き、明朝までに準備書面を仕上げる必要がある。  徹夜は確定だ。 目の奥がじんじん痛み、肩は重く張っている。  それでも慎一は、仕事を投げ出そうとは思わなかった。  むしろ、ここで踏ん張らなければこの先の案件に関わる。(楓も今、同じように戦ってるんだよな) ふと、デスクの端に置いたスマホが視界に入る。  開けば、彼女から届いていた短いメッセージが光った。《今日、当直……倒れそう……》 その言葉を読むと、瞬間的に胸の奥が締まる。  心配がよぎったが――それ以上に感じるのは、奇妙な“連帯感”だった。(あいつも今、頑張ってる。だったら俺もやるしかないだろ) 会いたいとか、弱音を聞いてほしいとか、そういう甘い感情ではない。  同じ時間を必死に生きている者同士として、互いが励みになるような感覚だった。 本音を言えば、あの改札で言いかけた言葉を伝えられなかったことが、少しだけ気にかかっている。  だが、それを「後悔」とは呼びたくなかった。「あのときはあのとき。今は仕事だ」 慎一は軽く頭を振り、気持ちを切り替えた。(今は二人とも頑張るときだ) 医者と弁護士。  どちらも、ただ続けていればいい仕事ではない。  一瞬気を抜けば、その瞬間に別の誰かに追い抜かれる。 楓は年下の研修医たちと肩を並べ、救命センターまで応援に回され、昼夜問わず働いている。  自分だけ弱音を吐いてどうする、と慎一は思った。「弱気になってる場合じゃないだろ、俺」 自分に言い聞かせるように呟き、スマホをそっと机に戻した。「ここまで待ったんだ。もう少しくらい、待つなんて大したことじゃないさ」 誰かに聞かせるためではなく、静かな誓いのようだった。  焦らない。  無理に距離を縮めようともしない。  それよりも、互いに胸を張れる自分でいたい。 慎一は深く息を吸い込み、再び書類に向き直った。  翌
last updateLast Updated : 2026-01-16
Read more

第59話  揺らぎの前兆

 楓や慎一が、自分の使命と向き合いながら多忙な日々を送っていたのと同じ頃――  亮の日常は、まったく別の方向へ向かっていた。 亜里沙と出会った当初、亮は自分の運命が一気に開けたような、妙な高揚感を抱いていた。  彼女は宮原商事の一人娘。財閥系企業の御令嬢という肩書きだけでなく、金銭感覚すら別世界だった。「亮、これ似合うと思うんだぁ。ほら、試着して?」 「え、これ……値札……っ!!?」 ブランド店で値札を見た亮は、一瞬言葉を失う。  だが亜里沙はお構いなしに「いいから、早く!」と腕を引っ張る。  そのまま店員に「これ包んでおいてー」とカードを差し出す姿は、まるで息をするように自然だった。 彼女から買い与えられたものを思い返せば――  高級時計、オーダースーツ、財布、バッグ、ネクタイ。  そして、亮の年収では到底手の届かない“タワーマンション”まで。「こんなとこ……買えないよ、オレ……」 「いいの。あなたは私の彼氏なんだから。それに、あの女の匂いがする部屋なんて、ありえないでしょ?」 亜里沙が「あの女」と言った瞬間、亮は言い返せなかった。  楓との記憶が残るマンション――それを指しているのだと、すぐに理解したからだ。 引っ越しは亜里沙が業者すべてを手配した。  家具から家電、ベッドまですべて新調。  亮が金を出したものはひとつもなかった。(……まあ、いいか。こういうのも悪くない) 高級な生活。  周囲の羨望の眼差し。  宮原商事との取引拡大のおかげで、営業成績は爆発的に伸び、ついに昇進までした。「宮原会長の娘さんと交際してるんだって?」 「いいよなぁ亮、人生変わったな!」 「今度飲みに連れてってくれよ」 社内での扱いさえ変わった。  同僚は距離を置きつつも、一目置くようになった。  亮自身、それが少し誇らしかった。 ――だが、それも長くは続かなかった。 次第に亜里沙の態度が変わりはじめたのだ。亜里沙は、もともと何不自由なく育てられた典型的な令嬢だった。  だが、それは亮にとって“可愛いわがまま”で済む範囲のものだった……最初の頃は。 しかし高級タワマンでの生活が始まって一か月も経たないうちに、そのわがままは日に日にエスカレートしはじめた。「ねぇ亮、私、ブルガリの時計が欲しいの」亮にとって、そんな高級
last updateLast Updated : 2026-01-16
Read more

第60話 滲み始める影

 そんなある夜だった。  夜景が窓に映え、タワーマンション特有の静けさがリビングを満たしていた。 亮はスーツの上着を脱ぎ、ネクタイを緩め、ようやく息をついたところだった。 営業成績のプレッシャーも、社内での視線も、すべてが重くのし掛かっている。  その疲労を紛らわせようと、キッチンで水を飲んだ瞬間―― ソファから、妙に冷えた声が聞こえた。「ねぇ……思い出しただけでムカついてくる」 亜里沙だった。  部屋の明かりに照らされた横顔は美しいはずなのに、口元だけが不自然にゆがんでいる。  膝に置いたスマホを指で弄びながら、その目だけが鋭く光っていた。「何が?」 亮は警戒心を隠すように、なるべく平静な声を出す。  だが心のどこかで“まただ”と思っていた。  最近の亜里沙は、こうして突然怒りをぶつけてくることが多かった。「この前の……救急車で運ばれた時のこと」 その一言に、亮の身体がピクリと反応する。  無意識にコップを握る力が強くなった。 あの日の出来事は、彼にとっても忘れ難いものだった。 ――深夜。  腹痛を訴える亜里沙は、過剰なまでに取り乱し、泣き叫び、亮の手首を掴んで離さなかった。  亮は落ち着かせようとしたが、どうにもならず、結局救急車を呼ぶことになった。 そして――よりにもよって運ばれた病院で、担当したのが楓だった。 亮の中で、胸がざわつく。 楓はプロとして淡々と診察し、必要な検査をし、丁寧に説明もしていた。  だが亜里沙にとって、その冷静さが逆に気に障ったらしい。 診断結果は……ただの「便秘」。 ――たったそれだけのことで、ここまで怒り続けるのか。 亮は思いながらも、慎重に言葉を選ぶ。「楓から診断結果を言われたわけじゃないだろ。しかも……楓は仕事には真面目な人だよ」 瞬間、空気が一気に張りつめた。「は? 庇うわけ? 元カノだから?」 亜里沙の声は低かった。  その低さが、怒りの深さを物語っていた。 亮は言い返せなかった。  否定すればもっと拗れる。  肯定すれば地獄が始まる。  どちらを選んでも火に油だ。 沈黙した亮を見て、亜里沙はゆっくりと顔を上げた。  瞳は艶めいて美しいはずなのに、そこに宿る感情は冷たく淀んでいた。「私、あの女嫌い。プライド高そうだし、亮のこと見下してたでしょ? ……
last updateLast Updated : 2026-01-17
Read more
PREV
1
...
45678
...
17
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status