静かな幸せは、裏切りの匂いがしたー医師・渡辺楓が選んだ、愛という名の代償ー のすべてのチャプター: チャプター 21 - チャプター 30

166 チャプター

第21話  沈黙の一週間

 ――あのメッセージが届いてから、1週間が過ぎた。『オレ、他に好きな女ができた。』 その文字は、楓の心に深く突き刺さったまま、まだ抜けていなかった。 むしろ日が経つほど、傷は広がり、痛みは鈍い重さに変わっていく。  楓は毎朝、重い足を引きずるように病院へ向かった。 以前は早足で歩いた道。 今は、靴が地面に貼り付いたように進まない。(行かなきゃ……患者さんが待ってる) それだけが、楓を動かす僅かな力だった。 感情に任せて立ち止まることは許されない。 医者として、彼らの前で泣くわけにはいかない。 けれど、心はぼろぼろだった。 診察中、患者の言葉が耳に入らない瞬間がある。 意識がふっと途切れ、気づけば指先が震えていた。「渡辺先生、大丈夫ですか?」 看護師にそう声をかけられるのも、もう何度目だろう。 笑ってごまかすたび、胸の奥がひび割れる。(大丈夫じゃない。でも……言えない) 誰にも言えなかった。 亮と自分の関係が、こんな形で壊れたことを。 夜、マンションに戻っても、心は休まらない。 部屋に入るたび、亮の姿を探してしまう自分がいる。(あのメッセージ……本当に亮が打ったの?) 何度読み返しても、亮の声では再生されない。 亮はそんな冷たい言葉を選ぶ人ではなかった。 楓はスマホを抱きしめるようにソファへ沈み込む。 画面が暗くなるたび、すぐに触れて確かめる。 明るくして、また暗くして――その繰り返し。 夜中に目が覚めれば、真っ先に手が伸びる。 通知の光がないと分かると、胸がまた静かに沈んだ。 電話も、メッセージも、一度も返ってこない。(あの女の人の名前……“亜里沙”) 亮の名刺入れで見つけた名。 それが、楓の頭の片隅にずっとこびりついて離れない。(亮は……今、誰といるんだろう) その考えを振り払おうとすると、涙が滲んだ。  そして――一週間が過ぎた金曜日の夜。(このままじゃだめだ……) 楓は何度も深呼吸し、自分に言い聞かせた。 気持ちの整理をつける時期だと、ようやく思えたのだ。(亮の気持ちを直接、聞かなきゃいけない) 怖い。 でも、この沈黙のまま終わるのはもっと怖い。 タクシーに乗り、亮のマンションへ向かう。 窓の外を流れる街の灯りは、どれもぼやけて見えた。(亮……ちゃんと話そう。ねぇ…
last update最終更新日 : 2025-12-31
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第22話  扉の向こうの真実

 廊下の奥にある扉。  そこに触れただけで、指先がびくりと震えた。(開けたら……何が見えるんだろう) 答えなど、もう分かっている。  けれど、希望の残りかすのようなものが、まだ楓の胸の奥で消えずにいた。(亮……いるんだよね……?) 楓は震える手で、ゆっくりとドアノブに触れた。  金属の冷たさが指に刺さる。  心臓の鼓動は乱れ、呼吸は浅くなる。(お願い……お願いだから……違うって言って) 祈るように目を閉じ、ほんの少しだけ扉を押し開ける。 ――その瞬間。 空気が変わった。 明かりのついた寝室。  ベッドに腰かけ、緩く肩を寄せる男と女。 亮――そして亜里沙。 楓の足はその場に固定されたように動かなくなった。「……え?」 声なのか、息なのか分からない音が漏れる。 亮がこちらを振り返る。  驚いたような、焦ったような、罪悪感に満ちた顔。「楓……?」 その声を聞いた瞬間、胸に鋭い痛みが走った。  でも楓の表情は動かない。  何も感じないように、心が自分を守ろうとしている。「どうして……ここに……?」 亮はそう言った。  問いとして成り立っていない。  ただ動揺に任せて漏れた言葉だった。 亜里沙は、亮のシャツを指でつまむように整えながら、楓を見た。  その目は勝ち誇ったように細められ、笑みは挑発的だった。「あら……来ちゃったんだ」 その一言が、鋭く楓の胸に刺さった。(あぁ……やっぱり……) 黒いハイヒール。  亮の沈黙。  そして1週間の無反応。 全部が、今、ひとつに繋がった。 楓の唇が震える。「亮……これは……どういうこと……?」 亮は言葉に詰まり、視線を揺らす。「ち、違うんだ……楓……その……俺……」「違わないわよ?」 亜里沙が割って入った。  亮の腕に手を絡ませ、まるで自分の所有物であるかのように寄り添う。「亮は、あたしを選んだの。ねぇ、亮?」 亮は否定しようとした――が、亜里沙の目が横から刺すように睨む。  そしてその視線に気圧されたように、言葉を失った。(亮……どうして黙ってるの……?) 喉が震えた。  涙が出る前の、あのどうしようもない震え。 けれど不思議と、涙はこぼれない。(泣いたら……負ける……泣いたら、わたしが“かわいそうな人”になる……) 楓は必死に自
last update最終更新日 : 2025-12-31
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第23話  空白の心

 玄関の扉が閉まった瞬間、楓の足元から力が抜けた。 廊下の冷たい空気が肌を刺す。  でもその感触すら現実味がなかった。(歩かなきゃ……) それだけを頼りに、足を前に出す。  足先がもつれ、壁に手をつく。 胸の奥がずきずきと痛む。(亮……本当に終わったんだ) その事実が、全身を締めつけた。  呼吸が浅く、視界が揺れる。 エレベーターの前で、楓はついに崩れ落ちるようにしゃがみ込んだ。  声にならない嗚咽が喉の奥で震える。「……なんで……こんな……」 亮の笑顔が浮かぶたび、胸が裂ける。  温かい手。  優しい声。  あの日々が、全部嘘になったみたいで、涙は止まらなかった。  何度拭っても溢れ続けた。(私……何がいけなかったの……?) 答えはない。  でも心は自分を責める。  亮の夢を支えきれなかったこと。  亮の寂しさに気づけなかったこと。  そして、亜里沙に奪われてしまったこと。(亮…………) 願いは虚空に消えていく。  叶わないと分かっているのに、それでも心が叫んでいた。 ようやく立ち上がり、なんとかタクシーを呼んで家に戻った。 鍵を開ける手が震え、玄関に入った瞬間、また涙が溢れた。 この部屋には、亮と過ごした記憶が染み付いている。  料理をした匂い、亮の笑い声、二人で選んだインテリア。 全部が――痛い。(こんなに……亮との毎日で満たされてたんだ……) 気づくのが遅すぎた。  もう、戻れない。 楓はソファに倒れ込むように座り、膝を抱えた。「……もうやだ……」 声が震え、涙が膝を濡らす。 泣き疲れるまで泣いて、いつの間にか眠りに落ちた。  翌朝。  楓はひどい頭痛と息苦しさで目を覚ました。 鏡に映った顔はひどく痩せ、目の周りは赤黒い。(……仕事……行かなきゃ) 身体は重い。  胸は苦しい。  でも行かないという選択肢はなかった。 病院に着くと、看護師の裕子が驚いた声を上げた。「渡辺先生……! 顔色、どうしたんですか?」「……ちょっと寝てなくて」 本当は、ほとんど眠れていない。  眠ろうとすると、扉の向こうの亮と亜里沙が蘇る。  あの光景が胸を刺す。「先生、無理しないでください。本当に……倒れちゃいますよ」「……大丈夫」 大丈夫じゃなかった。  視界が揺れる。
last update最終更新日 : 2025-12-31
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第24話  少しずつ、光へ

 週末。  病院も休みで、誰にも会う必要がない土曜日。  楓は、その貴重な休みのほとんどを――泣くことに費やしていた。 泣いて、泣いて、泣いて。  涙は枯れると思っていたのに、枯れることはなかった。  泣き疲れてソファに倒れ込むと、気づけば眠っていた。 そして目が覚めると――  また、涙が込み上げてきて泣いた。 そんなふうに、泣く→寝る→起きる→泣く、を何度くり返しただろう。  涙でくしゃくしゃのクッションを抱え、楓は天井を見上げた。(……泣いてばっかりだったなぁ、今日) 目の奥が鈍く痛み、まぶたは熱を帯びていた。  それでも、泣くたびに胸の重さが少しずつ抜けていくのが分かった。(悲しい時は泣けばいいって……患者さんにもよく言ってたっけ) ふと、自分の言葉を思い出す。『よく食べて、よく眠ってくださいね。きっと良くなりますから』 いつも笑顔で言っていたその台詞が、急に胸に落ちた。(……私も、これが必要だったのかも) 泣き疲れたせいなのか、眠ったからなのか、心の中の、鋭い痛みが少しだけ丸くなっていた。 ソファから体を起こし、ゆっくり立ち上がる。  身体はまだだるい。でも、動けなくはない。 楓は浴室へ向かった。 ドレッサーの鏡の前に立つと、思わず固まる。「……え、だれ……?」 そこに映っていたのは――  腫れぼったい目、赤くただれた涙の跡、ぼさぼさの髪。  普段の「凛とした楓先生」とは似ても似つかない。「なんてブサイク……」 思わずつぶやくと、涙ではなく――苦笑が漏れた。「……もう、私、何やってんだろ」 泣いた自分を、少しだけ笑えるようになっていた。(これ、きっと……回復のサインよね) 楓は浴室に入り、湯船にゆっくりと沈んだ。  熱い湯が身体中に染み渡り、強ばった筋肉がほどけていく。「……はぁ……」 思わず漏れたため息は、悲しさよりも安堵に近かった。  目元にタオルを当てて温めると、腫れがじんわりと引いていく。(あー……生き返る……) 湯船の中で、楓の心はようやく静かになった。 亮を失った事実は消えない。  亜里沙のあの笑みも、亮の揺れた目も、忘れようとしても消えない。 でも――  それでもまだ、自分の人生は続いていく。(立ち止まってる暇ないんだよね、私) 仕事もある。  救われた
last update最終更新日 : 2026-01-01
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第25話  帰る場所と、動き出す決意

 亮と別れてから、二週間が経った。 泣きはらした瞳も、胸の奥の鋭い痛みも、完全に消えたわけではない。  ふとした瞬間、亮の声や笑顔が頭をかすめ、そのたび心がざわつく。  それでも、楓は毎日病院へ通い、内科の外来を淡々とこなしていた。 患者にはいつもの“冷静で頼れる医師・楓”を演じることができていた。  だが――心の内側では、大きな決意が芽生えていた。(……外科に戻ろう) その言葉が胸に浮かぶたび、心が引き締まる。 二年以上のブランクは決して小さくない。  周囲の同期や後輩たちは、どんどん手術の経験数を積んでいる。  亮との生活を優先するために、自分が犠牲にしたものの大きさも痛いほど分かっている。 けれど、楓は外科医を“諦めたわけではなかった”。 夜勤が終わった後、誰もいない図書室で論文を読み漁った日々。  通勤中、電車の中でタブレットを開いて解剖図や術式を見返した時間。  患者の手術記録を読み、頭の中で自分ならどう動くかイメージしていた夜。 どれも、無駄にはなっていない。  離れていたのは現場だけで、外科医としての思考はひとつも失われていなかった。(取り戻せばいい。今からでも) そう思えるようになったとき、亮の存在は、もう“過去のひとつ”に変わりつつあった。 そして、もうひとつの決断があった。(……このマンション、もう出よう) 亮と一緒に選んだ家具。  亮が買ってくれたマグカップ。  ふたりで観たドラマの続きを録画したままのテレビ。 そのどれもが、ふいに楓の足を止めた。  どれもが、記憶の棘となって胸に刺さった。 そして何より―― (……もし、亮がまた来たら) その想像だけで、膝が震えた。 亮は、少し甘い声で、少し哀しげな瞳で、また楓を揺らすかもしれない。『あの時は本当に悪かった。やり直そう』 そんな言葉を言われたら――自分は拒絶できるのだろうか。  また流されてしまうのではないか。  その怖さの方が、痛みよりも強かった。(もう、戻らない。私は私の人生を取り戻す) そう胸に誓い、楓はスーツケースを広げた。 必要最低限の服、スキンケア用品、タブレット、仕事の資料。  2年前に外科で使用していた執刀用の手袋も、そっと袋に入れた。 荷物を詰めるたび、心も軽くなっていく。  “楓”がふたたび動き
last update最終更新日 : 2026-01-01
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第26話

 亮と別れてから、二週間が経った。 泣きはらした瞳も、胸の奥の鋭い痛みも、完全に消えたわけではない。  ふとした瞬間、亮の声や笑顔が頭をかすめ、そのたび心がざわつく。  それでも、楓は毎日病院へ通い、内科の外来を淡々とこなしていた。 患者にはいつもの“冷静で頼れる医師・楓”を演じることができていた。  だが――心の内側では、大きな決意が芽生えていた。(……外科に戻ろう) その言葉が胸に浮かぶたび、心が引き締まる。 二年以上のブランクは決して小さくない。  周囲の同期や後輩たちは、どんどん手術の経験数を積んでいる。  亮との生活を優先するために、自分が犠牲にしたものの大きさも痛いほど分かっている。 けれど、楓は外科医を“諦めたわけではなかった”。 夜勤が終わった後、誰もいない図書室で論文を読み漁った日々。  通勤中、電車の中でタブレットを開いて解剖図や術式を見返した時間。  患者の手術記録を読み、頭の中で自分ならどう動くかイメージしていた夜。 どれも、無駄にはなっていない。  離れていたのは現場だけで、外科医としての思考はひとつも失われていなかった。(取り戻せばいい。今からでも) そう思えるようになったとき、亮の存在は、もう“過去のひとつ”に変わりつつあった。 そして、もうひとつの決断があった。(……このマンション、もう出よう) 亮と一緒に選んだ家具。  亮が買ってくれたマグカップ。  ふたりで観たドラマの続きを録画したままのテレビ。 そのどれもが、ふいに楓の足を止めた。  どれもが、記憶の棘となって胸に刺さった。 そして何より―― (……もし、亮がまた来たら) その想像だけで、膝が震えた。 亮は、少し甘い声で、少し哀しげな瞳で、また楓を揺らすかもしれない。『あの時は本当に悪かった。やり直そう』 そんな言葉を言われたら――自分は拒絶できるのだろう
last update最終更新日 : 2026-01-01
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第27話 新しい人生

 実家に戻ったといっても、そこは“安息の家”というより、母がほとんど帰らない静かな箱のようだった。  深夜に帰宅する母の足音は、楓が寝てしまったリビングをまっすぐ通り過ぎ、書斎へと消えていく。  朝になれば、母の姿はもうない。  テーブルには一度も使われていないコーヒーカップ、読みかけの法律書、そして冷めた空気だけが残っていた。 だけど楓は、寂しさに溺れるようなタイプじゃなかった。 むしろ――静けさは彼女にとって、前へ進む準備を整えるための“間”のように思えた。(いつまでもここにいても、前には進めない) 部屋の窓辺に立ち、朝の光に目を細めたとき、ふっとそう思えた。 楓は決めた。 このまま実家に甘え続けるのではなく――前に進むべきだ、と。 病院の通勤を考え、実家からほど近い場所に新しいマンションを購入した。  まだ生活の匂いのしない、真新しい部屋。  玄関を開けた瞬間、無機質な白い壁が、楓を冷静に迎えた。 同じ“マンション”でも、もう亮との記憶が詰まったあの部屋ではない。  家具を置いてもいないリビングの真ん中に立つと、足音がかすかに響いた。(ここから……始める) その決意はまだ弱々しいものだったが、それでも楓の胸に確かに灯った。  そして職場でも、楓はひとつの区切りをつけようとした。「……外科に、戻りたいと考えています」 総合病院の内科部長に告げた瞬間、部長は驚いたように目を丸くした。「渡辺先生。内科に来たばかりじゃないか。外科は激務だ。戻れば、また大変な日々だぞ?」「分かっています。でも……もう一度、やり直したくて」 部長はしばらく黙り込み、腕を組んで楓を見つめた。  その視線には、ただの上司ではなく“楓をよく知っている医師”としての思いが宿っている。「何か、理由があるのか?」 楓は答えられなかった。  亮の裏切りを、亜里沙の存在を、傷だらけの心の状態を、仕事上の上司に語ることなど
last update最終更新日 : 2026-01-01
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第28話 青を捨てた日

 病院を休み、実家へ戻ってから一週間が過ぎた。  楓にとってその一週間は、ただ空白が延々と続くような時間だった。 母・桜が忙しくしていることは昔から分かっている。  早朝には家を出て、帰ってくるころにはすでに夜遅い。  母と娘としての関係は、必要最低限の会話しか交わされず、どうにも親密とは言い難い。(……でも、それでいい) 楓は心のどこかで、そう思っていた。  必要以上に干渉されない今の距離感は、むしろ心が荒れている今の楓にはちょうど良かった。 その日も、楓はソファに横たわって医学書をぼんやりと眺めていた。  文字は頭に入らない。  読むふりをしているだけで、心の中では常に亮のことが渦巻いていた。(亮、今もあの女性と………) 答えのない問いに、胸が痛む。  カーテン越しに差す昼の光はやわらかいのに、楓の心は曇ったままだった。 ――そのとき。 ガチャッ。 玄関の扉が開く音がした。  母がこんな時間に帰るなど滅多にない。  楓は珍しいものを見るように顔を上げた。「楓、今夜予定あるの?」 リビングに入るなり、桜がそう言った。  仕事を休んで家でダラダラしている楓には、予定などあるはずがない。  楓はあっさりと答えた。「何もないよ」「じゃあ、すぐに出かける準備をして」「え……?」 返事を聞くと同時に、桜はソファの前までやって来て、当然のように楓の腕を引っ張った。  まるで「休んでいる暇なんてないでしょ」と言わんばかりだ。 そうして、楓は“何も説明されないまま”母に連れられ、あれよあれよという間に美容院へ。  鏡の前の椅子に座らされ、髪を巻かれ、丁寧にセットされる。  次にメイク。  美容師の手つきはプロらしく軽やかで、いつも以上に華やかな顔に仕上げられていく。「ちょっと、ママ……これは何?」 楓は何度か口を開いたが、桜は一切答えない。 次に向かったのは、デパートの高級ブティック。  スタッフが深々とお辞儀して迎え入れる。 桜は慣れた様子でドレスのコーナーへ進み、次々とハンガーにかかったドレスを手当たり次第に見ていった。 楓はついに堪えきれなくなり、眉をひそめて母に問いかけた。「ねぇママ、私は今……何をされているの?」 桜はようやく振り返り、まるで「そんなことも分からないの?」と言うような顔で返し
last update最終更新日 : 2026-01-02
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第29話 黒の予感

 黒いドレスに身を包んだ楓が試着室から姿を現した瞬間、ブティックの空気がわずかにざわついた。  スタッフたちが思わず目を奪われるほど、楓はその漆黒の布を見事に着こなしていた。 光を吸い込むような深い黒。  肌の白さが際立ち、髪のライン、肩のなめらかな曲線までもが美しく映える。「……楓、そんな顔もできるのね」 桜がぽつりと呟いた。  褒め言葉なのか、感心なのか、あるいは母としての戸惑いなのか――判断がつかない声だった。 楓は鏡越しに視線をそらし、そっけなく答えた。「これでいい。もう決めたから」 桜は一瞬だけ眉を上げたが、反論はしない。  店員が近づき、丁寧にドレスの裾やサイズを整えていく。「楓様、とてもよくお似合いです。何か特別なパーティーに……?」「そうよ」 母が楓より先に返事をした。「今夜、取引先のパーティーがあるの。楓も連れていくから」「取引先……?」「ええ。あなたの将来にも関わることよ」 桜はそう言い残すと、レジへ向かってしまった。(……将来?) 病院を休んでいることを知っているはずなのに、桜は一切触れない。  以前なら、その冷たさが胸を痛めたかもしれないが――今の楓は違った。(どうでもいい。今日は……この黒を着る) ドレス着替え、ブティックを出るころには、夕暮れの色が街を覆い始めていた。  タクシーに乗り込むと、桜はスマートフォンを操作しながら言った。「会場までは30分くらい。楓、背筋を伸ばして」「別に……」「いい? 今日はあなたに紹介したい人達がいるのよ。医師としても、女としてもね」「……女として?」 楓は顔を上げた。  桜は窓の外に視線を向けたまま、淡々と続けた。「医者の世界は、技術と努力だけじゃやっていけない時がある。誰と繋がるかで人生が変わるのよ」「……」「あなたは仕事を辞める気はないんでしょう?」 胸がちくりと痛む。  桜は知らない。  楓が失敗続きで、心が折れかけていることを。  亮のことが引き金になり、全ての歯車が狂ってしまったことを。「辞める気は……ないよ」 その言葉は自分に言い聞かせるようでもあり、どこか震えていた。「なら、今日のパーティーも経験。人脈というのは、人生で大事な“治療”にもなるから」 母の言葉はどこか無機質で、でも妙に現実的だった。 亮のことも
last update最終更新日 : 2026-01-02
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第30話 黒に射抜かれた視線

 後藤一成のもとへ向かおうと歩き出した楓。  会場の照明が黒いドレスを反射し、彼女の肌を淡く光らせていた。 その姿を――  会場の反対側からじっと見つめている男がいた。 後藤慎一。 後藤一成の息子であり、楓の大切な友人。  そして、楓にとって唯一“弱さを見せられる相手”になりかけた男。(……楓……?) 楓が母に連れられ、会場に入ってきた瞬間――  慎一は思わず息をのんで立ち止まった。 黒のドレスに包まれた楓は、これまで彼が見たどの楓よりも、美しく、そして凛としていた。  背筋を伸ばし、唇をきゅっと結び、少しだけ強がっているような表情。(こんな……綺麗になったな楓) 慎一の胸が、音を立てて熱くなる。 だが同時に、その足は前へ進まなかった。 ――ここ2年間。  慎一は意図的に楓との距離を置いていた。 楓が亮を大切にしていることを知っていたから。  楓が亮を深く愛していることも。  だから自分の気持ちは、胸の底に押し込んで、ただ影から見守るだけにしていた。 しかし今――  黒のドレスの楓を見た瞬間、胸の奥の蓋が、静かに音を立てて外れた気がした。(……綺麗だ。どうして……ここに) その時、一成の周りにいた人々が少し動き、楓の姿がよく見える位置に移った。 慎一は人混みに紛れながら、誰にも気づかれないように視線を送り続けた。 楓が一成に近づいていく。「お久しぶりです、後藤先生」 楓は背筋を伸ばし、丁寧に挨拶した。  黒いドレスの裾がゆっくり揺れ、一成は目を細めた。「……楓くんか。いや、驚いたよ。今日は随分と大人びて見えるね」 桜が横から微笑む。「娘ですので、少しくらいは磨かれていませんとね」「なるほど。それにしても……本当に綺麗だ」 一成の言葉に楓は小さく会釈した。  しかしその横の観葉植物の陰で、胸を締めつけられるような表情をしている慎一がいた。 冗談でも嬉しいようで苦しいようで、胸がざわつく。  だが、もっと早く楓に想いを伝えていれば、今の楓の横に立っていたのは自分かもしれないが、楓にはもう相手がいる。 楓は亮を愛していた。  それを知っているから、慎一はずっと線を引いてきた。 しかし、黒いドレスで静かに微笑む楓を見ていると、どうしても思ってしまう。(失敗したなぁ、オレ…) その瞬間、楓の視
last update最終更新日 : 2026-01-03
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