休暇に入って2週間。 新しいマンションのシンプルなリビングで、楓はストレッチマットの上で静かに息を整えていた。 外科医として必要な腕力、集中力、そして長時間のオペに耐える体力。 それらが、内科へ移った一年の間に少し衰えていることを自分で感じていた。 腕立て伏せ。 ランニング。 手首の可動域を調整する細かなトレーニング。 窓から差し込む朝の光が汗に反射し、楓の頬を淡く照らした。(戻るなら、妥協はできない) 鏡の前で自分の姿を見つめる。 少し痩せた。 精神的にも体力的にも削られた一年だった。 だけど、その目には――弱さよりも、火のような意思が宿っていた。(私は外科に戻りたい。もう一度、私の手で救える命があるなら) 楓はその気持ちを“傷を忘れるための逃避”とは思っていなかった。 むしろ逆だった。 逃げずに人生を取り戻すための“攻めの選択”。 シャワーを浴びる前に、彼女は一冊の医学書を開いた。 手術の最新ガイドライン、論文、成功率の統計。 食卓の上には、すでに十冊近くの資料が積み上がっている。(やれる。私はまだやれる) その根拠のない確信だけで十分だった。 「楓、久しぶりに夜、どこか行かない?」 誘ってきたのは、大学時代からの親友―― 真琴(まこと)。 広告代理店でバリバリ働く、芯の強い女。 恋愛では何度も痛い目に遭いながらも、いつも立ち上がる姿に楓は救われてきた。『亮と別れた』 と連絡したとき、真琴は驚きよりも先に、ただ一言こう返してきた。『楓、よく決断したね』 その言葉だけで、どれだけ肩の力が抜けたか分からない。 そして週末の夜――。 楓は久しぶりにクローゼットから黒のスリップドレスを取り出した。 肩から鎖骨にかけて、細いストラップが華奢に落ちるデザイン。 ウエストに吸い付くようなラインのドレスは、一歩間違えれば露骨に見えるが、 楓が着ると大人の艶を宿す。 鏡の前で深呼吸し、真っ赤な口紅をひいた。(私だって……女として、まだ終わってない) 胸の奥にあった重い石が、少し軽くなる。 赤いハイヒールを履き、同じ色のマニキュアに光が反射した。 その姿を見た桜が、リビングから出てきて言った。「綺麗よ、楓。そのまま、胸を張って歩きなさい」 素直に“ありがとう”と言えた
最終更新日 : 2026-01-03 続きを読む