静かな幸せは、裏切りの匂いがしたー医師・渡辺楓が選んだ、愛という名の代償ー のすべてのチャプター: チャプター 11 - チャプター 20

166 チャプター

第11話 置き去りになった心

亮が帰ってこなかった翌朝。 楓は、夜が明けるまで一度も眠れなかった。 布団の中で何度も体勢を変え、そのたびに亮の残り香のしない枕が視界に入り、胸がさらに締めつけられた。 窓の外が薄く白み始めたころ、諦めるようにベッドから起き上がる。 冷たい水で顔を洗い、化粧台の前に座った。 目の下には深く濃いクマが落ち、ファンデーションを重ねても消えない。 コンシーラーを何度も叩き込むが、鏡に映る自分の顔は、ひどく疲れきって見えた。 口元を無理に持ち上げて笑顔を作ろうとしても、頬の筋肉はぎこちなく、思ったように微笑みの形が作れない。(行かなくちゃ……仕事。患者さんが待ってる。大丈夫、研修医の頃は、徹夜なんてしょっちゅうだったし…) 心で唱えるように呟き、ようやく立ち上がる。 スーツに袖を通し、バッグを肩にかけ、マンションの扉を閉めた瞬間――胸がきゅっと痛んだ。 昨日、亮が帰ってきたときに必ず聞こえるはずだった鍵の音が、結局最後まで聞こえなかったことを思い出してしまったからだ。 階段を降りるたびに、足取りはどんどん重くなる。 まるで、階段の一段一段に重りが括り付けられているようだった。 ――あの、亮からの短いメッセージ。『泊まり。仕事で』 普段なら「ごめんね」とか「明日は会えるよ」とか、ひとこと添えてくれるのに。 その“いつも”がなかった。(嘘だ……わかってる。だけど、認めたら……終わっちゃう) 胸の奥に沈殿していた不安が、濁った泥のようにゆっくりと浮き上がってくる。 曇った空の下、病院へ向かう道は、いつもよりずっと遠く感じた。 「楓先生、おはようございます……? なんか、顔色悪くないですか?」 ナースステーションに入るや否や、ナースの裕子がすぐに気づいた。 楓は慌てて微笑みを作ろうとしたが、唇はかすかに震え、うまく笑えない。「え? あ、大丈夫。ちょっと寝不足で」 裕子は眉を寄せ、じっと楓の目を覗き込む。「無理しないでくださいね。今日けっこう患者さん詰まってますし……。もしかして、嫌なことでも?」「……ううん、何もない。ちょっと眠れなかっただけ」 喉の奥がきゅっと締まり、言葉を発するたびに苦しかった。 嘘をつくと、胸の奥がざわざわと乱れる。 カルテを開き、診察に向かったが――文字が頭に入ってこない。 患者の症状を聞きな
last update最終更新日 : 2025-12-26
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第12話 揺らぐ手元と落ちていく自信

 亮が帰ってこなかった日を境に、楓の仕事は目に見えて乱れ始めた。  いつもなら診察室に入った瞬間、自然と“医者”の顔に切り替わるはずだった。  患者の声に集中し、症状のわずかな変化も見逃さない鋭い感覚――それが楓の強みだった。 だが、この日は違った。  患者の言葉が耳に入っているはずなのに、意味として頭に入ってこない。  視線を合わせても、その奥にある苦しみや不安が読み取れない。  何より、カルテに入力しようとする指先が落ち着かなかった。 看護師が横から小さく確認を入れてくる回数が増えていることに、楓自身が気づいていた。  ミスはほんの些細なものばかり――だが医学の世界で“小さなミス”ほど怖いものはない。  それを一番よく知っているのは、誰より医者である楓自身だった。 ある日の午前外来。  いつものように血液検査の結果をチェックしていたはずだったのに、数値の読み間違えに気づかなかった。  横から覗きこんだ看護師である裕子が慌てて声を上げた。「楓先生……大丈夫ですか? 今日、いつもと違います」 裕子の声は驚きと心配が混ざっていた。  普段、冷静沈着な楓がこんな初歩的なミスをすることなど、滅多にないからだ。 楓はその優しさに頬が緩みそうになったが、同時に胸の奥がぎゅっと痛くなる。  自分がしっかりできていないことへの情けなさが、喉元まで込み上げてきた。「大丈夫。本当に……ごめんね」 口ではそう言いながらも、声がかすかに震えているのが分かった。  裕子の眉間のしわは深いまま。心配を隠そうともしていない。(しっかりしなきゃ……こんな状態じゃ……ダメだ) 心では理解している。  このまま乱れていては、患者に迷惑をかけてしまう。  それは医者として最も避けたいことだ。  なのに、どうしても身体が言うことを聞いてくれない。 亮の姿が見えない日常は、思っているよりもずっと楓の心を弱らせていた。  彼の“ただいま”がない夜も、彼の寝息を聞きながら眠れない朝も――  その積み重ねが、静かに楓の精神を削っていた。 昼休みになっても食欲は戻らず、楓は白衣を椅子に掛けたまま医局の窓際に立った。  窓の外に広がる灰色の冬空は、まるで濁った水に墨を落としたようにどんよりとしていた。  その空を眺めていると、胸の奥に沈んでいたものが再
last update最終更新日 : 2025-12-27
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第13話 真琴、怒りのマシンガン

週末。  駅前の雑踏を抜けて少し歩いた先にあるそのカフェは、ガラス張りの外観が印象的で、都会的で洗練された雰囲気をまとっていた。  ホワイトとウッドのインテリアが柔らかい温かみを添え、大きな窓から射し込む光が、店内の空気さえも少し上質なものにしていた。 楓が入口で周囲を見渡すと、すぐに真琴が手を振る姿が見えた。  派手すぎないワンピースをさらりと着こなした彼女は、広告代理店で鍛えられた“できる女”のオーラをまといながらも、どこか親しみやすさを残している。「楓〜!! 久しぶりじゃん!」 その明るい声と満面の笑顔に、楓は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。  久しぶりに見る真琴のはじけるような笑顔は、張りつめていた楓の心を少しだけほぐしてくれる。 コートを脱いで席に着くと、真琴は雑誌を閉じて楓の顔を覗き込んだ。「なんか痩せた? てか、顔色ヤバ。何があった?」 出会って数秒でこの直球。楓は思わず苦笑した。  真琴は思ったことを即、言葉にしてしまうタイプだが、そこに悪意は一切ない。  だからこそ、楓は彼女の前で取り繕う気にはなれなかった。  隠せる気もしない。 楓は膝の上で手を組み、息を整えながらぽつりぽつりと話し始めた。  亮が帰ってこなかった夜のこと。  その翌朝の胸の妙な痛み。  “泊まり”というあまりに短いメッセージ。  それが引き起こした、説明のつかない不安。  それ以降、ずっと胸の奥でざわつき続けているもの。 真琴は最初こそ「ふんふん」と聞いていたが、途中からは完全に雑誌を閉じ、楓の言葉一つひとつに全神経を集中させていた。 眉間のしわが深くなり、目が据わっていく。「……は? 亮、それ完全に怪しいじゃん」 低くうなるような声。  楓はびくっとして顔を上げた。「ま、真琴……そう決めつけるのは……」「決めつける? いやいや、決めつけていい案件だよ、これは!」 テーブルに身を乗り出した真琴は、そこからマシンガントークを全開にした。「まずさ! 泊まりって何!? それで説明になってると思ってる男の神経が理解不能!  広告代理店でもいるよ? そういう“説明不足系男子”。  でもたいていろくなことしてないって統計が出てるの。私調べ!」 楓は思わず吹き出しそうになったが、笑う余裕はなかった。「しかもだよ?」と真
last update最終更新日 : 2025-12-27
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第14話 立ち止まれない心、進めない足

真琴との再会から帰った夜――楓の心は、あれからずっとぐらぐらと揺れていた。  布団に入っても眠れず、同じ天井を何度も見上げる。真琴の言葉が、何度も脳内でリピートされる。(亮を捕まえて……証拠を突きつける……ほんとにそんなこと……できるの?) 胸の奥がぎゅっとつぶされるように痛む。  もしそれで何かが“確定”してしまったら。  もし黒が確定してしまったら――自分は立っていられるだろうか。 翌・月曜日の朝。  楓は白衣の襟を整えながら、深く深く、ため息を落とした。 鏡に映った顔はひどかった。  目の下のクマは昨日よりさらに濃く、肌は乾燥でくすみ、どれだけファンデーションを重ねても隠れない。  笑おうとしても、頬の筋肉がぴくりとしか動かず、無理に作る笑顔はむしろ痛々しかった。 病院へ向かう足取りは重い。  到着してすぐの診察で、楓はまたミスをした。「先生……この数値、逆じゃないですか?」 「え……あ……本当だ……」 検査結果を読み違え、看護師にそっとフォローされる。  患者の前で視線を合わせられず、質問されても一瞬、返答が遅れてしまう。 看護師・裕子が不安そうに囁く。「楓先生、本当に大丈夫? 最近ちょっと……心ここにあらずっていうか……」 優しい声なのに、胸に刺さる。「……ごめん。本当に、ごめんね」 謝るしかできない。  そのたびに、自分が壊れていくような感覚があった。(ダメだ……集中できない……患者さんの顔を見ても、亮の顔が浮かぶ……) (どうして連絡くれないの……? 何をしてるの……?) 昼休み。  楓は人気のない非常階段に座り込み、膝を抱えた。  冷たい鉄の階段が背中を冷やし、冬の空気が痛いほど胸に入る。 スマホを取り出すと、画面には相変わらず亮からの連絡はなかった。(今日も……何もない……) 喉の奥に、何か重たいものが張り付いている。  涙すら出ない。  泣くより先に、心が乾いてしまっていた。 その時、スマホが震えた。――真琴 『楓、どう? 大丈夫?』 その短い言葉だけで胸が締めつけられる。 (大丈夫じゃないよ……でも……言えない……) 返せないまま画面を閉じると、冬空が曇りはじめ、冷たい影が楓の肩に落ちた。 その日の夜、真琴から再び電話が来た。「楓、もう無理でしょ。今日、仕事終わっ
last update最終更新日 : 2025-12-28
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第15話 揺らぐ夜のカウンター

 真琴が「ここは絶対ハズさないよ」と胸を張ったバー――その名は 「Bar Night Indigo(バー・ナイトインディゴ)」。  重厚な木の扉を押すと、ふわりと柑橘とスパイスが混ざったような香りが漂い、柔らかなジャズが低く流れていた。  店内は落ち着いたブルーの間接照明に包まれ、カウンターの上に並ぶ色とりどりのボトルの影が揺れている。 楓と真琴はそのカウンター席に並んで腰を下ろした。座った瞬間、楓は肩の力が少し抜けていくのを感じた。  この数週間、張り詰め続けていた糸が、少し緩んだ瞬間だった。「とりあえず飲もう。話はそれから。」  真琴が指を鳴らすと、バーテンダーがすぐに微笑みを向けてきた。「カクテル、決まってますか?」「私はソルティードッグで。ねぇ楓、アンタは?」 「……ブルームーンにする。」 注文を終えると、バーテンダーが手際良くシェイカーを振り始める。  カウンターの上で氷が跳ねる軽快な音が、二人の沈黙を柔らかく包んだ。 まず真琴の前に運ばれてきたのは、きらきら輝く塩のスノースタイルが縁を彩るソルティードッグ。  真琴は嬉しそうにグラスを手に取り、グレープフルーツの香りを楽しみながら一口飲んだ。「ん~~~これこれ! このウォッカとグレープフルーツのバランスが最高なんだよね~!」 息をつく真琴の声は、まるで体の芯から元気が湧いてくるように明るかった。 続いて楓の前には、透き通るような青いカクテルが置かれた。  ブルームーン――店によって色は違うが、ここナイトインディゴでは夜空の深さを思わせる、美しいコバルトブルー。 楓はそっとグラスを唇へ運び、一口含む。  喉を通った瞬間、ジンの鋭いアルコールが熱の帯となって喉元を焼いた。「……はぁ……」 深い息が漏れる。  こんなに心の底から出るため息は、しばらく記憶にない。「真琴が誘ってくれて……助かった。」  楓は横目で真琴を見た。 真琴はグラスを弄りながら楓を観察し、眉をひそめた。「楓、アンタね……相当ヤバイ顔してるよ。」「え……そんな?」「そんな、じゃないって。目の下、クマが住み着いてるし、頬もこけてさ。」 「……あぁ……やっぱり?」「やっぱり、じゃなーい!」  真琴はグラスを置き、声を潜めながらもズバッと言い放つ。  そのテンポは、もはや救護活動に近
last update最終更新日 : 2025-12-28
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第16話 夜に溶ける恋の影

 真琴と向かい合って話しているうちに、楓の胸の奥に溜まっていた冷たい鉛のような感情が、少しずつ溶け始めていくのがわかった。  真琴の声は、楓にとっていつも“現実に踏みとどまらせてくれる力”を持っている。  ここ最近、沈んだ自分には珍しく、自然と笑みがこぼれる瞬間が増えていた。「アンタ、やっと笑顔が戻ってきたじゃん。さっきまでゾンビだったよ?」「ゾ、ゾンビは言いすぎでしょ……」 そんな軽口を叩き合いながらも、二人の前にはすでに三杯目のカクテルが並ぼうとしていた。  真琴の頬は薄っすらと赤く染まり、楓の指先もほんの少しだけ熱を帯びていた。「はい、お待たせしました」 やわらかな声とともに、カウンターの向こうからスっと差し出されたのは、深紅のカクテル――マンハッタン。  その色は、暗いバーの照明の中でひときわ強い存在感を放っていた。 そして、そのグラスを楓の前に置いたバーテンダーは、ふと穏やかに微笑んだ。  精悍な顔立ちに、落ち着きのある低い声。  名札には――「榊(さかき)レン」と書かれていた。「榊レンといいます。……本当は、ぼくらはお客様の会話に介入してはいけない決まりなんですが」 楓と真琴は顔を上げた。「お客様……恋に悩んでらっしゃるんですか?」 その優しい問いかけに、楓は思わずまばたきを繰り返した。  心を見透かされたようで、胸の奥がひりつく。 しかし、その隙をつくように真琴が勢いよく身を乗り出した。「そうなの! この子の男がね、浮気のニオイをプンプンさせてるのよ!!」「ま、真琴……!」 慌てる楓をよそに、真琴はカウンターを指先でトントン叩きながら続けた。「なんか急に連絡が素っ気なくなって、帰ってこないし、言い訳は“泊まり”。もうアウトでしょ!」「ちょ、ちょっと……声大きい……!」 楓は顔を伏せる。  真琴の言葉は正論で、痛いほど胸に刺さる。  でも、こうして他人の口から聞くと、自分の恋がもう壊れかけている現実を突きつけられているようで、呼吸が浅くなる。 榊はそんな二人を見て、苦笑した。  そして楓の表情を確かめるように、穏やかな瞳でゆっくりと視線を斜めに落とす。「……さっきから聞いていた話でね」 楓は肩をすくめた。(聞かれてた……) 真琴は「でしょ~?」とどこか誇らしげ。 榊は続ける。「こんな美
last update最終更新日 : 2025-12-29
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第17話 甘い檻の中で

 帝東物産の最上階ラウンジ。  昼の光がガラス越しに差し込み、きらめく街を照らしていた。  けれどその清潔な光と対照的に、亮の胸の奥は、深く沈むように重かった。 昨夜から一睡もしていない。  亜里沙の誘いで高層ホテルの一室に入り、そのまま朝を迎えてしまった。  身体がだるい。頭も重い。  けれど――今、目の前の亜里沙が見せる微笑は、不思議なくらい眠気を吹き飛ばしてしまう。「亮……眠そうね」 亜里沙はグラスの縁を指先でなぞり、猫のように艶のある微笑を浮かべた。  その手つき、仕草、声のトーン。  ひとつひとつが、亮の理性をゆっくりと削っていく。「昨日は、さすがに……飲みすぎました」「あら? 嫌だった?」「い、いえ。そんな……」 亜里沙は、亮のネクタイの真ん中をそっとつまんだ。  亮は反射的に息を呑む。「あのね、亮。あなたのそういう“素直で、真面目で、嘘がつけなさそうなところ”……本当に、好きよ」 胸がどくん、と跳ねた。(なんで……こんな人が、俺なんかに) ずっと自信がなかった。  仕事は必死についていくだけ。  楓のような立派で努力家の恋人に、釣り合わないと思う日も多かった。 そんな亮を、亜里沙は迷いなく評価し、欲しがり、褒めてくれる。 この女と居ると、自分の自尊心を満たしてくれる気がしていた。「亮、昨日の資料。お父様が“帝東にこんな逸材がいたのか”って驚いてたわ」「社長が……?」「ええ。あなたを気に入ったみたい。社外プロジェクトの重要ポジション、あなたに任せようかって言ってた」「……俺が、ですか?」 胸の奥が熱を帯びていくのが分かった。  認められている――その快感は、言葉では言い表せない。 亜里沙は、亮の頬に軽く指を滑らせながら、静かに囁く。「亮。あなた……才能あるわよ。もっと上を目指せる人。今のポジションに収まってる器じゃない」「上……」「そう。私と一緒なら、もっと上にいける」 亜里沙の瞳が、まるで獲物を見つめるように輝いた。  その光に射抜かれた瞬間、亮の胸にあった“楓”という存在は、ふっと遠のいた。 忙しい楓。  外科を辞めさせてしまった負い目。  最近、どこか塞がったような楓の表情。(俺、何をしてるんだ……) 罪悪感が胸をかすめる。  しかし――亜里沙の世界は甘すぎた。
last update最終更新日 : 2025-12-29
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第18話 堕ちる音

 熱に火がついたような勢いで、二人はホテルの部屋へ戻った。  昨夜と同じ景色なのに、空気はまるで違った。  亮の胸の奥には、焦燥と渇望が混ざったような熱が渦巻いていた。 部屋に入るなり、亮が亜里沙を抱き寄せる。  それは、明らかに“亮から求めた”抱擁だった。「亮……そんなに慌てないで」 亜里沙は嬉しそうに喉を鳴らし、亮の胸に指を這わせた。  その仕草は、男の理性を完全に奪う。 そして――二人はベッドに倒れ込んだ。 亮は、眠れぬまま一晩を過ごした疲労と、張り詰めていたものが切れた反動で、妙に激しかった。  亜里沙はその荒々しさに目を細め、爪を立てて亮の背にしがみついた。「亮……もっと。ねぇ……もっとちょうだい」 その甘えた声が耳に入るたび、亮は制御できなくなった。  何度も、何度も、求めた。 そして――  すべてを放ち終えた瞬間、亮は力尽きたように亜里沙の隣に倒れ込んだ。 息が荒い。  額には汗。  瞼は重く、抗おうとさえしない。 亜里沙は亮の髪を撫でながら、静かに覗き込む。「ねぇ亮……気持ちよかった?」 返事はなかった。 亮は、そのまますとんと眠りに落ちた。  深く、深く。  まるで二度と起きないかのように。 亜里沙はその寝顔を眺め、ゆっくりと笑みを浮かべた。「ふふ……かわいい。」 その声音には、甘さと――悪意があった。 亜里沙はそっと亮のスマホを取り上げる。  指紋認証も、亮は眠りながら無意識に反応した。「簡単ね。ほら……開いちゃった」 亮のLINEを開き、楓とのトークルームを見つける。  そこには、楓の未読メッセージが並んでいた。『亮、今日は帰れそう?』 『心配だから返事ほしい』 『大丈夫?』 亜里沙は鼻で笑った。「ふぅん……まだこんなに必死なんだ」 そして――ゆっくり文字を打ち始める。『オレ、他に好きな女ができた。』 亜里沙は送信ボタンを押した。  小さく「送信しました」と表示される。「ふふっ……あはは……あはははは!」 スマホの画面を眺めながら、亜里沙は声を上げて笑った。  その笑い声は、ホテルの静かな部屋に響き、どこか冷たく反響した。「これでいいのよ、亮。あなたは……あたしのものなんだから」 亮は――眠ったまま、何も気づかなかった。 深い眠りの底で、楓に刻まれた
last update最終更新日 : 2025-12-29
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第19話 砕けた夜

スマホの画面が震えたのは、楓がシャワーを浴びようとしていた時だった。  タオルを肩にかけたまま、ふと振り返るように視線が吸い寄せられる。  そこに表示されている「亮」の名前。  胸が、ぎゅっと縮まり、心臓が跳ねた。(やっと……連絡、くれた) (私のこと、気にしてくれてたんだ……よかった……) そんな小さな希望が、痛いほど胸の奥で光った。  その光は弱々しいのに、必死に振り絞るように自分を支えてくれているようだった。 震える指で画面をタップする。  これで、あの不安な夜が終わる――  そんな淡い願いを込めて。 だが。 開いた瞬間、楓の世界は音もなく崩れ落ちた。『オレ、他に好きな女ができた。』 その文字の並びが、現実だと理解するまでに数秒かかった。  目が拒絶し、脳が拒絶し、心が拒絶した。 世界が静まり返る。  耳鳴りのような無音が響き、呼吸の仕方を忘れる。 そして―― スマホは指先から滑り落ち、床に小さく転がった。(……亮?) 心の中で呼ぶ声はかすれた。  口を動かしても声にならない。  喉が冷たく凍りついている。 膝ががくりと折れ、楓はその場にしゃがみ込んだ。  胸の奥で何かがパリン、と割れた。  そのひびは、広がり続けて止まらない。「……嘘、でしょう……?」 その言葉は、悲鳴のようで、祈りのようでもあった。  けれど、返事はない。  部屋は静かで、残酷だった。 体温が急激に奪われ、手足が冷える。  寒気が背骨を這い上がり、肩が震え出す。  心臓は痛みですべての鼓動を忘れたように鈍く沈んでいく。(だって……だって亮は、そんなこと……言う人じゃ……) 楓は必死に否定しようとした。  今までの亮が、優しい笑顔が、ふたりで過ごした温度が、いくつも浮かんでは消えていく。 ――昨夜、帰らなかった。  ――説明もなかった。 ――さっきも、素っ気ない短いメッセージだけ。 点が線になり、線が形になり、残酷な答えが目の前に姿を現す。(亮は……私じゃない誰かのところに居た) 認めた瞬間、涙が溢れた。  まるで胸を掴まれて引き裂かれるような、息のできない嗚咽が喉を震わせる。「……っ……亮……やだ……」 名前を呼ぼうとするたび喉が痛んだ。  声にならない。  自分の声なのに、出し方がもう分からな
last update最終更新日 : 2025-12-29
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第20話 静かに沈む朝

 翌朝。  楓はほとんど眠れないまま、ソファで夜を明かした。  ぼんやりした意識のなか、外の空がゆっくり白み始めるのを眺める。 胸の痛みは、夜よりも鈍く、重くなっていた。  泣き疲れた目は熱を帯び、頭はぼんやりしている。  体のどこにも力が入らない。(仕事……行かなきゃ) 本当に行けるのか。  そんな自信はなかったが、それでも楓は立ち上がった。  亮のいないマンションは、いつもより冷たく感じる。 玄関を出る前、楓はスマホを見つめた。  亮からの“その後”は何もない。(……本当に、終わっちゃったんだ) 胸の奥で、小さく何かが沈んでいった。  その頃、ホテルの一室。  亮はようやく目を開けた。 天井が白い。  見慣れない照明。  隣には――まだ眠っている亜里沙。 昨夜の記憶が断片的に蘇り、亮は心臓が跳ねるのを感じた。(……やばい。本当に俺……) 亜里沙との距離。  抱き合った熱。  そしてその後の、深い眠り。 罪悪感が胸を突き上げる。(楓……) 名前を思い浮かべた途端、胸が刺すように痛んだ。  スマホを探して手に取る。 画面には、見慣れたLINEの画面。  楓とのトーク。  そして――『……ああ……』 亮の口から漏れたのは、声にならない叫びだった。『オレ、他に好きな女ができた。』 自分の名義で、送られたメッセージ。「……違う。俺……こんなの送ってない……!」 亮の手が震える。  全身の血の気が引くのを感じた。 隣で亜里沙がゆっくり目を開けた。  亮の顔色を見て、微笑する。「どうしたの? 亮」「亜里沙さん……これ、俺じゃ……」 亜里沙は、何も悪びれずに言った。「うん。あたしが送ったの」「――っ!」「だって亮。あなたはきっと言えないでしょう? 優しいから」 亜里沙の声は落ち着いていて、冷静で、残酷だった。「大丈夫よ。あなたはもう、戻れないんだから」「戻れないって……」「あなたは昨日、あたしを選んだのよ」 亮は言葉を失った。  昨夜の行動――激情――すべてが重くのしかかる。 亜里沙は亮の頬に手を添え、柔らかく微笑んだ。「ねぇ、亮。あたしと一緒に来て。あなたの居場所は……もうこっちなの」 その笑顔は、甘いのに、逃げ場がなかった。 亮はスマホを握りしめ、画面に表示され
last update最終更新日 : 2025-12-30
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