亮が帰ってこなかった翌朝。 楓は、夜が明けるまで一度も眠れなかった。 布団の中で何度も体勢を変え、そのたびに亮の残り香のしない枕が視界に入り、胸がさらに締めつけられた。 窓の外が薄く白み始めたころ、諦めるようにベッドから起き上がる。 冷たい水で顔を洗い、化粧台の前に座った。 目の下には深く濃いクマが落ち、ファンデーションを重ねても消えない。 コンシーラーを何度も叩き込むが、鏡に映る自分の顔は、ひどく疲れきって見えた。 口元を無理に持ち上げて笑顔を作ろうとしても、頬の筋肉はぎこちなく、思ったように微笑みの形が作れない。(行かなくちゃ……仕事。患者さんが待ってる。大丈夫、研修医の頃は、徹夜なんてしょっちゅうだったし…) 心で唱えるように呟き、ようやく立ち上がる。 スーツに袖を通し、バッグを肩にかけ、マンションの扉を閉めた瞬間――胸がきゅっと痛んだ。 昨日、亮が帰ってきたときに必ず聞こえるはずだった鍵の音が、結局最後まで聞こえなかったことを思い出してしまったからだ。 階段を降りるたびに、足取りはどんどん重くなる。 まるで、階段の一段一段に重りが括り付けられているようだった。 ――あの、亮からの短いメッセージ。『泊まり。仕事で』 普段なら「ごめんね」とか「明日は会えるよ」とか、ひとこと添えてくれるのに。 その“いつも”がなかった。(嘘だ……わかってる。だけど、認めたら……終わっちゃう) 胸の奥に沈殿していた不安が、濁った泥のようにゆっくりと浮き上がってくる。 曇った空の下、病院へ向かう道は、いつもよりずっと遠く感じた。 「楓先生、おはようございます……? なんか、顔色悪くないですか?」 ナースステーションに入るや否や、ナースの裕子がすぐに気づいた。 楓は慌てて微笑みを作ろうとしたが、唇はかすかに震え、うまく笑えない。「え? あ、大丈夫。ちょっと寝不足で」 裕子は眉を寄せ、じっと楓の目を覗き込む。「無理しないでくださいね。今日けっこう患者さん詰まってますし……。もしかして、嫌なことでも?」「……ううん、何もない。ちょっと眠れなかっただけ」 喉の奥がきゅっと締まり、言葉を発するたびに苦しかった。 嘘をつくと、胸の奥がざわざわと乱れる。 カルテを開き、診察に向かったが――文字が頭に入ってこない。 患者の症状を聞きな
最終更新日 : 2025-12-26 続きを読む