静かな幸せは、裏切りの匂いがしたー医師・渡辺楓が選んだ、愛という名の代償ー のすべてのチャプター: チャプター 101 - チャプター 110

166 チャプター

第101話  “コンプライアンス委員会と静かな火種”

 翌日、楓の勤める大学病院では、緊急のコンプライアンス委員会が開かれていた。「今回は、外部SNSで職員に関する不適切な噂が拡散しているとの報告を受けまして……」  委員長が淡々と議事を読み上げる。その隣には、桜が静かに座り、正面では慎一が緊張気味に資料を整えていた。場の空気は妙に重い。 委員の数人は“噂は本当なのか?”という目をしており、楓を疑う者もいる。桜は一つ深く息を吸い、毅然と言い放った。 「まず最初に申し上げます。この噂は“完全なるデマ”です。  そして現在、拡散元と偽造写真の作成者に対し、警察およびサイバー犯罪対策課と連携し、法的措置を進めております」委員会の空気が変わった。「偽造……写真?」 「はい。まだ出回っていませんが、制作のログが確認されています。  娘――楓を貶める目的の“悪質な攻撃”と捉えています」 数名の委員がざわつき始めた。そこへ、慎一も続けた。 「私としても、職員の名誉と安全を守るために、病院側にはぜひ迅速な対応をお願いしたいです。噂に踊らされるのではなく、事実関係を確認していただきたい」委員長が腕を組み、ゆっくりとうなずいた。 「確かに、現時点で職員に対する処分や調査は必要ないように思われます。  こちらとしても、風評被害を防ぐ姿勢を示さなければなりません」「ありがとうございます」 桜が深く頭を下げた。慎一は胸の奥の緊張が少しほどけるのを感じた。 楓の職場での立場は、とりあえず守られた。 委員会が解散し、重かった空気がようやく解けはじめたころだった。  慎一は胸を撫で下ろしながら、桜とともに病院の会議室を後にした。「なんとか……通じたみたいだね」 「ええ。でも問題は、ここからよ」 桜が静かに言った、その時だった。――――ピリリリ。 慎一のスマホが震えた。  画面に表示された名前を見て、慎一は顔をしかめる。「……父からだ」 桜も気づき、歩みを止めた。「出た方がいいわよ。病院に何か言った可能性があるわ」 慎一は覚悟を決め、通話ボタンを押した。「もしもし、父さん?」『慎一……今、病院から聞いた。 “楓さんが不適切な噂の対象になっている”と』「だからそれはデマだって――」 だが、一成は遮るように声を荒げた。『問題は事実かどうかじゃない!! 噂をまともに信じて職員を疑
last update最終更新日 : 2026-02-01
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第102話

 だが、その裏で病院は――。――――同じころ、病院長室。 秘書が駆け足で駆け込み、病院長の机にメモを置いた。「院長、大変です……!  “後藤一成教授から、抗議の電話が入りました”」「後藤教授だと!?」  院長は跳ね上がるように立った。「内容は……『楓医師を疑うような判断をした病院は存続する価値がない』と……」「な……!」 居合わせた副院長、事務長までも顔色を変えた。「よりによって、後藤教授を怒らせたのか……!」 「うちの病院と、あちらの大学との連携プロジェクトはどうなるんだ……!?」 会議室とは違う種類のざわめきが広がった。  病院にとって“後藤教授”の名は、半ば“神”のように扱われていた。  彼の研究は国際的に評価され、そのコネクションは病院の命綱でもあった。「すぐに火消しをしないと!」 「SNSのデマだと正式に発表すべきでは?」 「いや、まだ警察が動いている段階だ。下手に言うと……」 「とにかく、渡辺医師に謝罪を……!」 それまで、どこか事態を他人事のように見ていた病院幹部たちが、急に焦り始める。 院長は額を押さえながら叫んだ。「もういい! 渡辺楓医師に“復職命令”を出せ!  本人に謹慎処分を下している場合ではない、“すぐ戻ってきてほしい”と伝えろ!」――――数分後。 医局の一室で、楓は静かに封筒を机に置いた。  休職中の身で、今日は提出物だけのために短時間だけ来院していた。「……やっと書けた」 その封筒には、はっきりとした文字で書かれている。――“休職願”―― 本来の提出先に郵送するつもりだったが、今日病院に来たついでに出すことにしたのだ。(これ以上迷惑も……心配もかけたくない) そう思いながら、楓が深く息を吐いたその時――――ガラッ。 医局のドアが勢いよく開いた。「渡辺先生!! 院長室からの指示です!」 慌てふためいた事務員が駆け寄ってくる。「本日付で“復職命令”が出ました!  すぐに診療に戻ってほしいとのことです!」「…………え?」 楓は一瞬、理解が追いつかなかった。復職命令? 噂が拡散しているのに? 私の立場は守られたとはいえ、まだ状況は不安定なのに?「院長先生は、これは誤解だと……とにかく早く戻ってほしいと……!」 その必死さが、逆に違和感を漂わせた。(……どう
last update最終更新日 : 2026-02-01
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第103話 “追跡と包囲網”

同時刻。  東京・霞ヶ関。  警察本部庁舎の一角にあるサイバー犯罪対策課のフロアには、夜にもかかわらず緊張した空気が張りつめていた。 蛍光灯に照らされたデスクの上では、複数のモニターが青白い光を放ち、それぞれに監視ログやSNSの拡散状況、解析プログラムのグラフが映し出されている。  機械音の合間に、キーボードを叩く音がひっきりなしに響き、捜査員たちは眉間に皺を寄せながら作業に没頭していた。「……できました。例の編集ツールのログ、特定できました」 若手捜査員の声が静寂を破った。  モニターに映るログファイルを指し示しながら、捜査班の中心に立つ管理官へ報告する。「端末の所在は?」「渋谷区内のマンション……使用者は“黒川海斗”。本人名義の回線からです」 その名が出た瞬間、部屋の空気がビリッと張り詰めた。「やっぱり“海斗”か……」 管理官の低い声が室内に響く。「はい。しかも同じ端末から、クラブ仲間と思われる複数アカウントへのログイン履歴が確認されています。  IPも一致。アカウントの切り替えが短時間に何度も行われており、噂を意図的に増幅していたと見て間違いありません」 若手捜査員はファイルをめくりながら続ける。「計画的に“炎上”を起こして、世論を誘導しようとしている可能性が高いです。いわゆる組織的拡散の中心ですね」「単独犯じゃないということか。厄介だな……」 管理官が深くため息をつきながら、別のモニターに目を移した。「そして――こちらが問題の“未投稿の画像ファイル”です」 次の瞬間、モニターには画像編集ソフトの作業ウィンドウとともに、一枚の写真が表示された。 楓が病院のロビーで誰かと話している写真。  その横に、不自然な角度で“亮の姿”が合成されていた。 顔の向き、影の方向、照明の反射。  専門家が見れば一瞬でバレるが、一般人ならそのまま信じかねない巧妙さ。「……酷いな」「ええ。解析の結果、“合成痕”が多数見つかりました。  輪郭のエッジの不一致、影の角度の矛盾、色温度の違い……。でも、SNSに上げられたら一般人はほぼ見抜けません」 捜査班の数人は、吐き気を抑えるように眉をひそめた。「宮原亜里沙のほうは?」「彼女自身が画像を作った形跡はありません。  ただし、彼女のスマホには“海斗からの画像ファイルの転送履歴
last update最終更新日 : 2026-02-01
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第104話  それぞれの再会

 海斗は、部屋の薄暗い照明の中でスマホ画面をじっと見つめていた。  青白い光に照らされた顔は、不気味なほど緩んでいる。  彼の指先には、まだ投稿されていない“偽造写真”が映っていた。  その写真を何度も拡大しては眺め、合成部分に気づかれないだろうと確信したような笑みを浮かべる。「……これで終わりだよ、アンタ……」 その時――  スマホが急に震え、着信画面に切り替わった。「……誰だよ、こんな時に」 不機嫌に眉をひそめながら、海斗は通話ボタンを押した。「……はい?」 返事をすると、電話の向こうから懐かしい声が聞こえた。『海斗か? 久しぶり』 海斗の背筋が一瞬で伸びる。「…………冬真さん!?」 思わず座っていたソファから跳ね起き、姿勢を正す。  胸がドクンと高鳴るのを抑えきれない。『おう。久しぶりだな。ところで今、何してんの?』 淡々としたトーン。だが、その声にはどこか鋭さが混じっていた。  海斗は、冬真が電話をかけてきた理由がまるで読めず、言葉を探すように口を動かした。「今んとこ、何にもやってないです。冬真さんこそ……いきなりどうしたんですか?」 軽く返したつもりだったが、心の中はざわついている。  冬真からの連絡は“特別な意味”を持つことが多かったからだ。 すると冬真は、用件を語らずに突然言った。『たまにはメシでもどう?』「え……?」 その誘い方は、昔とまったく同じだった。  しかし、昔と同じ“柔らかさ”はない。  言葉の奥に、何か別の意図が潜んでいるように感じて、海斗の背中に冷たい汗が伝う。 海斗は一時期、“CLUB Argo”で働いていた。  その世界では、序列も人間関係も極めて独特で、冬真はトップクラスのホストだった。  海斗は冬真に憧れ、尊敬し、そしてどこか恐れていた。  冬真の言葉は絶対。断るなど考えられなかった。 だから海斗は反射的に答えていた。「どこ行けばいいですか?」 その瞬間、自分の口から出た言葉に、海斗の心臓がどくんと鳴る。  かつての上下関係が、たった一言で完全に蘇ってしまった。――――少し前の夜。 冬真は、出勤前のわずかな自由を楽しもうと、街を一人歩いていた。  “今日の指名は23時から”と連絡を受けていたため、まだ時間がある。  軽く飲んで気持ちを整えようと思って
last update最終更新日 : 2026-02-02
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第105話  冬真との再会

「ごめん……楓さんだと思ったら、つい……」 冬真は、まだ楓の腕をしっかりつかんだまま、どこか戸惑いを含んだ声で言った。 その手の力は決して乱暴ではなかったが、離す気配もなく、驚きのあまり硬直している楓には、冬真のその指先の温度がやけにはっきり伝わってくる。 そんな二人の空気を察した真琴が、目を大きくして「あ、あたし、陽斗に用事があったんだった!!」と、明らかに不自然なテンションのまま叫んだ。「楓、また明日電話する!」 言い終えるや否や、真琴はヒールで地面を叩く音もそこそこに、風より速く駆け去って行った。 その逃げ足の速さに、楓は唖然とし、冬真も一瞬ぽかんとしたが、やがて二人の視線が自然に合った。 そして――同時に、ふっと笑ってしまった。 あまりにもわかりやすく空気を読んでくれた真琴の行動が、緊張をほどいていく。「気を利かせたつもりなのかなぁ、真琴さん」 冬真が言いながら、ようやく楓の腕を離す。 その瞬間、楓の肌が一気に外気にさらされ、つかまれていた箇所だけが妙に熱く残る。「あ、あの子はいつもあんな感じなの」 楓は平然と答えたつもりだったが、頬はほんのり赤くなっていた。 動揺を悟られたくなくて、つい横を向いてしまう。 冬真はその反応が可愛くてたまらない、というように優しく笑い、楓の横顔を少しの間見つめていた。 その視線に気づいた楓はさらに胸が落ち着かず、心臓の鼓動が速くなるのを感じる。 そして冬真は、ふと真剣な表情に戻り、柔らかく尋ねた。「ちょっと時間ある?」「……え?」「話したいことがあるんだ。少しだけでいい」 冬真の落ち着いた誘い方に、楓の胸はまた別の意味でざわめく。 先ほどまで真琴が側にいてくれた安心感がなくなり、今は冬真と二人きり。 その状況が急に、自分を無防備に感じさせた。 だが――断りたいという気持ちは、一言も浮かんでこなかった。「うん」 楓は短く返事をして、冬真の後ろをついて歩き出した。 街は夜の匂いを濃くしていて、少し湿った風が楓の髪を揺らす。 不安と期待が入り交じる胸の奥を落ち着かせようと、楓はそっと深呼吸をした。 深夜まで営業している、落ち着いた雰囲気のカフェに入ると、ふたりは向かい合って席に座った。 店内には軽いジャズが流れ、数名の客が静かにパソコンを開いて作業をしている。 夜の街と
last update最終更新日 : 2026-02-02
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第106話

 検察から亜里沙と海斗に対する逮捕状が正式に発行された――その知らせが警視庁本部の会議室に届いた瞬間、室内の空気が一段と引き締まった。 サイバー犯罪対策課が積み上げてきた膨大な証拠。 偽造画像の制作ログ、複数アカウントを切り替えながら噂を増幅した履歴、そして転送されたファイル。 そのすべてが、二人の悪質な計画性を裏付けていた。 そして今夜、警察側も逮捕チームを編成し、最終確認のために集まっていた。 相手は大手企業グループの令嬢・宮原亜里沙と、名門の御曹司・黒川海斗。 逃亡の危険こそ高くはないが、家族による「権力の介入」だけは要警戒――それが刑事部の一致した見解だった。「保釈金を何億積まれようと、これは見過ごせない」 低く、しかし確固とした声で言い切ったのは警視庁刑事部長の唐沢。 五十代半ば、強面だが公平で情のある人物として知られ、部下からの信頼も厚い。「いいか」 唐沢部長は、前に立つ課員たち一人一人の顔を見渡すようにして言葉を続けた。「サイバー犯罪は、どれだけ取り締まってもなくならない。だがな――だからこそ、その都度、根気よく潰していくしかないんだ。少しずつ、ひとりずつ、確実にな」 その声は怒りではなく、深い使命感からくる重みを帯びていた。「今回の犯人たちには、しっかりと反省してもらう必要がある。これは“遊び”ではない。人の人生を壊そうとした行為だ」 課員たちは背筋を伸ばし、真剣な眼差しで部長を見つめる。「以上だ。明日の朝、逮捕に向かう。――みんな、今夜はしっかり休んでおけ」 部長の声が締めくくると、全員が力強く「はい!!」と返事をした。 その声には張り詰めた緊張と、いよいよ明日という覚悟が混じっていた。 同時刻。 刑事課の主任・杉村圭介(すぎむら けいすけ)から連絡を受けた桜と慎一、そして桐山アソシエイトのスタッフたちは、ようやく胸をなでおろしていた。「……よかった……やっとここまで来た」 スタッフの一人が、椅子に背を預けながら深く息をついた。 これまで彼らがやってきたのは、警察と情報共有し、徹底的に証拠を集め、偽造の軌跡を一つ残らず洗い出すこと。 本当に長い一日だった。「逮捕されたあとが私たちの本番ね」 桜の言葉に、全員がうなずいた。 SNS上で破壊された名誉を取り戻すには、まだ多くの作業が残っている。 
last update最終更新日 : 2026-02-02
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第107話  亮の後悔

 亮が意識を取り戻した――その連絡を受けた亜里沙は、病院へ向かった。  タクシーを降り、堂々とした態度で廊下を進み、病室番号を確認すると、そのまま勢いよくドアを押し開けた。 その瞬間、亜里沙の視界に飛び込んできたのは、ベッドの上でスマホを握りしめた亮の姿だった。  亮は枕を背に身体を起こし、蒼白な顔で画面を凝視していた。  画面には――“楓との密会写真”。  そして、その下に続く大量の誹謗中傷。  心ない言葉の羅列が、亮の瞳に深く突き刺さっていた。 ドアの開く音に気づいた亮がゆっくりと顔を上げ――亜里沙の姿を見た瞬間、表情が一変した。「……これは、何なんだ!?」 低く震える声。  抑えつけた怒りが爆発しそうな声音に、亜里沙は眉一つ動かさず、ヒールを鳴らしながら亮の前まで歩くと、椅子に腰を下ろして、あからさまに不機嫌そうに言い放った。「何って……あの人が悪いんでしょ。亜里沙に恥をかかせたんだから」 まるで当然のことを語るかのように、プイッと横を向く。 その瞬間――  亮は力いっぱい、スマホを床に叩きつけた。「ッ……お前がやったのか!?」 病室全体が震えるほどの怒声だった。  亮の目は怒りと絶望と裏切りで真っ赤に濁っている。 亜里沙は怯えるどころか、亮の怒りを真っ向から受け止めるように、立ち上がり叫び返した。「何よそれ!! いつまで“かえで、楓”って!! あんた、自分が何したかちゃんと覚えてるの!?」 声はヒステリックに震えていた。「楓と付き合ってた時に、自分が浮気したんでしょ!? その相手が、亜里沙よ!! 自分で蒔いた種じゃない!!」 亜里沙は指を突きつけ、捲し立てる。「それにね、亜里沙は亮のために、いくらお金使ったと思ってるの!? 亮が会社で横領まがいのことした時だって――亜里沙のパパが動かなきゃ、あんたなんてとっくに犯罪者だったのよ!? それ、わかって言ってる!?」 怒りと涙が入り混じった声が病室に響き渡る。 次の瞬間、外で待機していた看護師が、大きな音に驚いて飛び込んできた。「ちょっと! 他の患者さんにご迷惑になります!!  もう少し静かに話してください!!」 看護師の表情は明らかに怒っていたが、亮と亜里沙の異様な空気に、一瞬たじろいでいた。 亮は肩で大きく呼吸しながら、看護師を見ると、はっと我に返り、
last update最終更新日 : 2026-02-03
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第108話

 亮と亜里沙が病院で激しい言い争いの末、決定的な別れを迎えていた、そのまさに同じ夜。  楓は、まったく別の時間の流れの中にいた。 冬真のマンション。  高層階の静かな部屋は、まるで別世界だった。  外の喧騒は完全に遮断され、ガラス越しに広がる東京の夜景が、淡く揺らめいている。  部屋の照明は落とされ、窓際から届く街の灯りだけが、二人を照らしていた。 楓と冬真はソファに向かい合って座っていた。  どちらともなく近づいた距離は、声を必要としないほど自然で、  ただ“相手を感じる”だけで十分だった。 冬真がゆっくりと視線を上げ、楓の顔をじっと見つめた。  その瞳は、楓の胸の奥深くに触れてくるような、静かで、熱を含んだ眼差しだった。 楓は視線を返そうとしたが、胸が高鳴りすぎて息がうまく整わなかった。  喉が乾く。  胸が苦しいほどに、心臓が跳ねる。  この緊張すら心地よくて、逃げる理由が何ひとつなかった。 冬真がそっと近づいた。  楓もまた、吸い寄せられるように顔を傾ける。 言葉なんて、もういらなかった。 二人の唇が、自然に触れ合い――  次の瞬間、深く、熱いキスが重なった。 一度触れた途端、すべてが溢れた。  迷いも、戸惑いも、外の世界も、何もかもふっと消えていった。 冬真の腕が楓の身体を抱き寄せる。  その腕の力強さが、楓にはたまらなく安心だった。  楓もまた、迷うことなく冬真に身を預けていた。 その時間だけは、世界から切り離されたようだった。  亮のことも、  亜里沙のことも、  慎一の献身も、  ネットに流された誹謗中傷の言葉さえも――  何一つ浮かんでこなかった。 楓の心の中にあったのは、ただ一つ。  求められているという幸福。  それを、自分がどれほど渇望していたか。  楓はやっと気づいたのだった。 数時間後。  冬真が店に出勤する時間になり、二人はタクシーに乗ってマンションへ戻った。 タクシーの後部座席で、楓は窓の外に流れていく夜景をぼんやり眺めていた。  胸の奥には、まだ冬真の体温が残っている。  手のひらにも、唇にも。  思い出すたびに頬が熱くなる。 タクシーがマンション前に停まった。楓がタクシーを降りる。運転手がメーターを止める音が聞こえた瞬間、反対側からドアが開き、
last update最終更新日 : 2026-02-03
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第109話

一方その頃――  楓のマンション近くの通りを、慎一はゆっくりと歩いていた。  夜の空気は思いのほか冷たく、風が吹くたびにシャツの隙間から体温が奪われる。  それでも慎一の歩みは止まらなかった。 明日の朝、宮原亜里沙と黒川海斗が逮捕される。  それは、桜や桐山所長、警察、そして慎一自身が必死に動き続けた結果だ。 だからこそ、真っ先に楓に伝えたかった。  もう、誰にも楓を傷つけさせない。  この長い戦いにようやく区切りがつく――その知らせを。 慎一の手には、コンビニで買った温かい缶コーヒーが握られていた。  ほとんど冷えかけていたが、それでも手に残るわずかな温度が、慎一の決意を支えていた。「今日こそ、伝えないとな」 小さく、誰に聞かせるでもなく呟く。  楓に“安心してほしい”。  それだけだった。  自分の想いを告白したいわけじゃない。  ただ、楓の心が少しでも楽になりますように――  それが慎一の、昔から変わらない願いだった。 そして、マンションが見える角を曲がったその瞬間。 一台のタクシーが、ゆっくりとマンション前に停まった。(あれ……?) 慎一は思わず足を止め、近くの街路樹の陰から様子をうかがった。 タクシーの後部座席のドアが開き――  そこから降りてきた女性の姿が、慎一の目に飛び込んできた。(……楓?) 思わず喉が鳴った。 楓は久しぶりに着飾っていた。  髪はふわりと巻かれ、街灯に照らされるたびやわらかく光る。  耳元や胸元の繊細なアクセサリーが、夜の空気にしとやかに揺れた。  そして何より、楓の表情は――久しく見ていなかったほど優しく、穏やかで、どこか幸福そうだった。(よかった……笑ってる……。今日は、機嫌がいいんだな) 胸の奥がじんわりと温かくなる。  これだけで来てよかったと思えた。  だが――次の瞬間。 慎一の足は再び止まった。 タクシーの反対側のドアが開き、ひとりの男が姿を現した。 長身でスーツ姿。  髪は艶やかに整えられ、どこか夜の街の匂いをまとったホストのような雰囲気。  その男は迷いなく楓の後を追い、自然な距離で寄り添いながらエントランスへ向かって歩いていく。(……誰だ……?) 慎一の胸に、冷たいものが落ちた。  楓が振り返り、彼に微笑みかける。  それは、慎一
last update最終更新日 : 2026-02-03
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第110話  

 慎一が失意のまま、夜の寒風に身を晒しながらひとり歩いていたころ――  その同じ時間帯、渡辺桜は、後藤一成と共に都心のホテルレストランで遅い夕食を取っていた。 店内は落ち着いた灯りがテーブルをやわらかく照らし、グラスが触れ合う小さな音が時折響く。  夜も遅いため客は少なく、ふたりが座る窓際の席には静けさが宿っていた。「後藤さんのおかげで、楓の名誉がだいぶ挽回できたみたいで……本当に助かりました。それで今日は、少し早いけど……その、お礼といっては何ですが、お付き合いいただきありがとうございます」 桜は姿勢を正すと、テーブル越しに深々と頭を下げた。「渡辺先生……いや、桜さん。そんな他人行儀な挨拶はやめてくれよ。私たちの仲じゃないか」 一成は慌てたように手を伸ばし、桜の頭を上げさせると、ワインのボトルを手に取った。「さ、今夜ぐらいはゆっくり飲もうじゃないか。乾杯しよう」 桜のグラスに赤ワインが静かに注がれていく。  桜も顔をあげ、一成に穏やかに微笑むと「ありがとう」と言ってグラスを取った。 軽くグラスが触れ合い、二人は喉を潤す。 少し間を置き、一成がグラスをテーブルに戻してから口を開いた。「ところでさ……若い二人が首謀者として逮捕される流れになっているが、私はどうにも腑に落ちなくてね。本当にあの二人だけでこんな騒動を起こせると思うかい?」 一成はナイフでステーキを切りながら、桜の表情を探るように言った。「ええ、私も同じ考えよ。そんな単純な話じゃないと思ってるの。警察も裏に誰かいるのを想定しているみたい。明日になればふたりとも正式に逮捕されるから、その事情聴取から少しずつ裏が見えてくるはずよ」 桜はワインを一口含み、ふう、と息を吐いた。「……警察が動き出すまでに、楓ちゃんの身に何もなければいいんだがな」 一成はフォークを持つ手を止め、不安そうに呟いた。「慎一の方はどうした? 彼もずいぶん心配していたろう」「すぐに楓に知らせたいからって、マンションに会いに行くって言ってましたよ」 桜は少しだけ口元を緩めた。 一成も目を細め、笑みをこぼした。「あの二人がうまくいくといいんだけどね。慎一は昔からおとなしいわけではないんだが……どうも大事な場面になると理由をつけて後回しにする癖があるんだよ」 呆れ半分、心配半分という声色で、一成は桜
last update最終更新日 : 2026-02-04
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