Todos os capítulos de 静かな幸せは、裏切りの匂いがしたー医師・渡辺楓が選んだ、愛という名の代償ー: Capítulo 121 - Capítulo 130

166 Capítulos

第121話

 桜は桐山アソシエイトで楓の拉致の事実を聞き、胸を締めつけられる思いのまま、会議室を飛び出すように出ていった。 「楓……!」 すぐにスマホを取り出し、震える指先で娘の番号を押した。 呼び出し音は、いつもよりずっしりと重く響く。 一度、二度、三度……何度待っても、誰も出ない。 ――繋がらない。 それだけで胸が締め付けられ、呼吸が浅くなる。 桜は奥歯を噛みしめ、振り返って桐山所長へ言った。「署に行ってきます!!」 勢い込んで言うと、所長は驚きつつも頷いた。「刑事課はもう動いています。くれぐれもお気をつけて」 桜は助手に「行くわよ!」と声をかけた。 すぐ後ろにいた慎一にも「あなたも来る?」と問いかけた。 しかし慎一は―― まるで重い影を背負ったかのように、黙って首を横に振った。 その目はどこか決壊したように曇り、焦点が定まっていない。 桜は慎一の状態を一瞬心配したが、今は楓の無事のほうが先だった。 「わかったわ」とだけ小さく告げて、急ぎ事務所を出た。 警察署の前は、いつもどおり静かだった。 朝の光が建物を淡い金色に照らし、誰もが当たり前の日常を過ごしているように見える。 しかし――桜の胸の中には、嵐が吹き荒れていた。 受付を通り、迷わず刑事課へ向かう。「失礼します! 渡辺楓の母です。今回の事件の弁護も担当しています」 声が震えていたが、堂々とした姿勢は崩さなかった。 すると、部屋の奥から落ち着いた足音が近づき、 五十代前半ほどの威厳ある男性刑事が姿を見せた。「おはようございます。刑事部長の唐沢です」 吉田は深々と頭を下げた。 桜も慌てて礼を返した。「楓さんの件は、私が直接担当しております。どうぞ、こちらへ」 二人は応接用の小部屋へ案内された。 席につくなり、桜は堪えきれず単刀直入に切り込んだ。「楓が拉致されたと聞きました…… 今はどなたが保護してくださっているんですか?」 吉田は落ち着いた表情のまま、手元の資料を確認し、丁寧に答えた。「 御影冬真(みかげ とうま)という男性です」「御影……冬真……?」 聞き覚えのない名に、桜は眉を寄せた。 唐沢刑事部長は説明を続ける。「お嬢さんとは、職場で知り合ったとのことです。 今回、容疑者である黒川海斗とも面識があり、 昨夜、海斗と会って事情を追及した
last updateÚltima atualização : 2026-02-07
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第122話

 夜の闇の中から救い出された楓と冬真を乗せ、 パトカーは静かに冬真のマンション前へと到着した。 運転席の刑事が振り返り、やさしく言う。「今日はしっかり休養を取らせてあげてください。 楓さんは、今はとにかく心を落ち着ける必要がありますから」 後部座席で楓を抱えるようにして座っていた冬真は、深く頷いた。「ありがとうございます。本当に助かりました」「我々の方こそ、御影さんがいなければ間に合わなかった。 ……くれぐれも、今日は一人にしないように」「もちろんです」 冬真が答えると、パトカーは静かに走り去った。 冬真は楓の肩にそっと腕を回し、支えるようにマンションの入口まで連れて行く。 エレベーターに入ると、楓はまだ小さく震えていた。 倉庫で過ごした長い夜―― その恐怖は、体温が戻っても心に深く残っていた。 冬真はそんな楓を見つめ、 せめて今だけでも安心させたいという思いで胸がいっぱいになった。 部屋に入り、玄関で靴を脱がせると、 冬真はそのまま楓を抱き寄せ、そっとソファへ座らせた。 「楓……もう大丈夫だから」 楓は何も言わず、冬真のシャツを握りしめる。 その指が小刻みに震えているのがわかる。 冬真はすぐに立ち上がり、風呂場へ向かう。 「お湯、入れてくる。……一緒に入ろう。寒いだろ?」 楓は小さく頷いた。 パジャマを脱がせると、倉庫の地面に引きずられたのか、 布は破れ、土や埃がこびりつき、泥の跡が残っていた。 手首と足首には、きつく拘束されたロープの跡がくっきりと赤く食い込み、 何度も暴れた痕が擦り傷になっていた。「痛かっただろ……」 冬真はその痕を見るたび、喉が苦しくなる。 楓は力なく微笑む。「……ちょっとね」 冬真は静かに楓の服を脱がせ、自分も服を脱ぐと、 優しく腕を差し伸べた。「おいで」 二人は湯船にゆっくりと沈んだ。 温かい湯気に包まれた瞬間、楓の体の震えが、少しずつ少しずつ収まる。 冬真は後ろから抱きしめ、肩に顔をのせた。「楓……間に合ってよかった……」「冬真が……助けてくれたの……?」 楓の小さな声が、静かな浴室に響く。「お前のこと……放っておけるわけないだろ」 その言葉に、堪えていたものが決壊した。 楓は声をあげて泣いた。 胸に溜め込んでいた恐怖も不安も、涙とともに溢れてい
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第123話  寄り添う温度

 冬真が振り返って楓を見ると、楓は少し首をかしげながら「誰?」と聞いてきた。 楓は手を伸ばし、差し出されたスマホを受け取る。冬真が苦笑しながら「楓のお母さん」と言ってスマホを渡してくれた。 楓は深く息を吸い、小さく震える指でスマホを耳に当てた。「ママ?」 その声は、かすかに震えていた。『………楓?……』 それきり、桜は言葉を継げなかった。 母の息が震え、胸の詰まる気配が電話越しに伝わってくる。「ママ、私は大丈夫よ」 その一言に、桜は堪えていたものがほどけたように、長く深いため息をついた。『無事ならいいの……。楓、今は安全なところに居るの?』 楓は横に立つ冬真をちらりと見上げ、「うん」と答えた。「でも、着替えがないの。下着から全部」短い会話のあと、楓は冬真の住所を伝え、電話を切った。スマホを冬真に返すと、彼はほっとしたような表情を浮かべた。「ありがとう」 楓は小さく笑い、「おなかすいた」と言った。その表情は、ほんの少しだけ明るさを取り戻していた。「軽く食べられるもの頼むね」 冬真は笑って、すぐにデリバリーを注文してくれた。届いた料理をテーブルに広げ、二人でつつく。食べ物の匂いが部屋に満ち、ようやく少しだけ“普通”の時間が戻ってくる。 だが――。 突然、玄関のチャイムが鳴った。「っ……!」 楓の体が大きく跳ね、次の瞬間にはソファの陰に身を隠していた。昨夜の恐怖が、瞬時に全身を支配する。「大丈夫、大丈夫だよ」 冬真が手を挙げ、ゆっくりインターホンを確認する。冬真が振り返り、「楓のママだよ」 その声を聞いた瞬間、楓の肩から力が抜けた。冬真が鍵を開けると、ほどなくして桜が玄関に現れた。「この度は本当に……ありがとうございました」 桜の声は落ちついていたが、その裏には張り詰めた感情が隠されているのがわかった。 桜の声を聞き、楓はソファの陰からそっと顔を出す。「ママ……」 桜は部屋に入ってきた瞬間、楓に駆け寄り、強く抱きしめた。「楓……! 本当に……無事で……!」 楓も桜の背中に手を回し、ぎゅっと抱き返す。「ママ、心配かけてごめんね」「楓が謝ることじゃないでしょ……。楓、体は大丈夫?」 桜は顔を離し、娘の頬にそっと触れる。「ケガはしてない? あいつらに何もされてない?」 矢継ぎ早の質問に、楓は苦笑し、そ
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第124話  静かな眠りと、次の朝

 どれほど眠ったのだろう。  目を覚ますと、薄いカーテン越しにやわらかな夕方の光が差し込んでいた。楓はゆっくり瞬きをし、隣を見る。 冬真がいた。穏やかな寝息を立て、腕を楓の腰に回したまま眠っている。(……こんなふうに誰かの腕の中で眠れるなんて) 昨夜の恐怖が嘘のようだった。 冬真の腕は、強く抱きしめるわけでもなく、ただ包むように優しい。それが楓の心にじんわりとしみていく。 そっと手を伸ばし、冬真の指先に触れる。  その瞬間、冬真がゆっくり目を開けた。「……楓?」 寝起きの低い声。楓は少し照れながら「おはよう」と微笑んだ。「よく眠れた?」「うん。冬真のおかげで」 冬真は安心したように柔らかく笑い、楓の髪を撫でた。「そっか。良かった」 しばらくの間、二人はそのまま静かに寄り添っていた。外の世界はまだざわざわと揺れているのに、この部屋だけが別の空気に包まれているようだった。 やがて冬真が体を起こし、楓の足首に貼った絆創膏をちらりと見る。「痛み、まだある?」「ちょっとだけ。でも、平気」「無理しないで。今日は休む日だから」 冬真は立ち上がり、軽く伸びをするとキッチンへ向かった。楓はその背中を見ながら、胸の奥が温かくなっていくのを感じた。 昨夜――あんな地獄のような時間を過ごしたとは思えないほど、冬真の家は安全だった。  いや、安全というより、守られている感覚が強かった。(……こんなふうに誰かに守られるの、いつ以来だろう) 母の桜は強く、頼りになる。  しかしそれは“家族としての強さ”であって、楓自身を女として包み込む優しさとは少し違う。 冬真の腕の中はあたたかかった。「楓、コーヒー飲める?」 キッチンから声が聞こえた。「飲むー」 楓が返事をすると、冬真がマグカップを二つ持って戻ってくる。  手渡されたマグを受け取り、あついコーヒーをふうっと吹いて冷ます。「ありがとう、冬真」「楓にありがとうって言われると、なんか照れる」 その言葉に楓は笑い、部屋の空気がまた少し柔らかくなる。 二人がコーヒーを飲んでいると、楓のスマホが震えた。桜からのメッセージだ。《今から動くわ。心配しなくていい》(ママ……) 桜は“弁護士に戻る”と言った。  あれは、敵を絶対に逃さないという決意の表れだ。 冬真が画面をちらりと見て
last updateÚltima atualização : 2026-02-08
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第125話

 亜里沙と海斗が逮捕された――その知らせは、朝のワイドショーから夜のニュース番組まで、どのチャンネルでも繰り返し流されていた。ネットニュースも次々と速報を打ち、SNSでは瞬く間に二人の実名がトレンドに上がった。 とくにテレビは、どの局も同じ原稿を読んでいるかのように、淡々としかし重く、その事件を報じ続けていた。『不正指令電磁的記録供用、脅迫、業務妨害等の容疑で逮捕者が出ました。逮捕されたのは、黒川海斗(二十六歳)と、宮原亜里沙(二十七歳)』 落ち着いた声のアナウンサーが告げるたびに、テロップが画面下に赤く点滅する。『黒川容疑者は、宮原容疑者の恋人が以前交際していた医師の女性を逆恨みし、インターネット上に偽造した画像などを流布。その女性の評判を落とし、医師としてのキャリアを奪う目的があったと供述しているようです』 そして、画面には二人の顔写真が交互に映し出された。『さらに複数の容疑が浮上しており、警察は引き続き両容疑者から自供を促す方向で捜査を進めている模様です』 同じニュースが、朝から何度も繰り返されていた。 その頃、退院したばかりの亮は、亜里沙が“買ってくれた”マンションのリビングで、黙々と荷物をまとめていた。  自分には不釣り合いなほど豪奢な部屋。白い大理石の床、使われた形跡のないキッチン、何ひとつ生活の匂いがない空間。 だが、それはすべて亜里沙が用意した“鳥かご”だったのだと、今はよくわかる。 亮は衣服をスーツケースに詰めながら、ふと手を止めた。  音のない部屋にひとりでいると、不意に胸がざわつき、孤独に飲み込まれそうになる。(……なんで、こんなことになったんだ) 思わず気を紛らわせるように、亮はリモコンでテレビの電源を押した。つけたはずなのに、画面の音がやけに遠い。彼自身が現実を受け止めきれていないのだ。 ちょうど昼前。  ニュース番組のアナウンサーが、亜里沙と海斗の逮捕について、また同じ原稿を読み上げ始めた。『逮捕されたのは――宮原亜里沙、二十七歳』 その名前が聞こえた瞬間。 亮の手から、持っていた洋服がぱさりと床に落ちた。「……亜里沙!?」 心臓が跳ね上がる。  亮は、食い入るように画面を見つめた。 そこに映し出されたのは、見慣れた――しかし見たくなかった――亜里沙の顔写真だった。  微笑んでいる写真なの
last updateÚltima atualização : 2026-02-08
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第126話

 マンションを出た亮は、胸の奥がざわざわしたまま、しばらく歩道に立ち尽くしていた。  亜里沙が逮捕された現実をどうしても受け止めきれなかったが、それでも――見捨てることはできなかった。(こんな時に俺が黙ってるなんて……そんなこと、できるわけないだろ) 亮はスーツケースの持ち手を握り直し、タクシーを拾って警察署へ向かった。  夕方の薄暗い空の下、赤いパトカーのランプだけがやけに鮮やかで、胸の鼓動をさらに早める。 警察署に着くと、自動ドアをくぐって刑事課へ向かう。  そこには、疲れた顔の刑事たちが行き交い、電話のベルや無線の通話音が絶えず鳴っていた。「あの……宮原亜里沙の、恋人です」 亮が恐る恐る名乗った瞬間、周囲の空気が変わった。 複数の屈強な刑事が、まるで合図があったかのように一斉に近づいてくる。  彼らの顔には警戒と、冷静な判断が入り混じっていた。「佐々木さんですね。……任意で事情聴取に応じてもらおうか」 断るという選択肢などなかった。  亮は押し出されるようにして、薄暗い取り調べ室へ通された。 椅子に座ると、テーブル越しに刑事が一人、無表情でメモ帳を開いた。「今回の事件に、あなたも関係しているのか?」 その質問が、何度も、何度も繰り返された。 亮は何度もうつむきかけながらも、知っていることをすべて話した。  亜里沙が楓に異常な敵意を抱いていたこと。  しかし、まさか犯罪に手を染めるなど想像もしていなかったこと。「俺は……本当に知らなかったんです。あいつが、そんなことするなんて……」 声が震え、言葉が途切れる。 刑事は感情を出さないまま、淡々と質問を重ねる。「宮原に、マンションを買ってもらっていたんですよね?」「……はい」「服や、装飾品も?」「はい……。全部……」 誘導尋問のようだった。  しかし亮は、嘘をつく必要も、隠す必要もなかった。 刑事はメモを止め、顔を上げると一言だけ確認した。「では、佐々木さんは共犯ではないということですね」 その言葉を聞いたとき、亮は初めて気づいた。(……俺、疑われてたんだ) 胸の中に、ずしりと重い塊が沈む。  身体の奥が急に冷え、震えが止まらなかった。 事情聴取が終わると、ようやく取り調べ室から解放された。  廊下はすでに薄暗く、時計を見るとすっかり夜だった。
last updateÚltima atualização : 2026-02-08
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第127話

 桐山アソシエイトの会議室では、午後の柔らかな日差しがブラインド越しに差し込み、長いテーブルの上に静かな影を落としていた。  桜と桐山所長の二人は、テーブルの端に並んで座り、流れているニュース番組を真剣な表情で見つめていた。 画面では、亜里沙と海斗の逮捕について、昼のニュースが繰り返し報じられている。『――ネット上に偽造画像を投稿し、被害者の評判を失墜させた容疑で……』 アナウンサーの声が続くたび、桜は一つ一つ噛みしめるように聞いていた。「結構詳しく話してるわね。二人とも、もう隠さず自供してるんじゃない?」 桜は画面を見つめたまま、冷静に語った。  声の底には安堵と、静かな怒りが混じっている。 桐山所長は湯呑茶碗を手に取り、ゆっくり一口飲む。「そうですね。二人とも、凶悪犯というわけではありませんし……。初犯で逮捕されていますから、取り調べで強がれるほどの精神力もないでしょう」 そう言って肩をすくめ、苦笑した。「今頃、泣きながら全部話しているんじゃないでしょうか」 警察のやり方をよく知る弁護士だからこそ言える言葉だった。 桜も軽く頷く。「このニュースだけでも、事情を知っている人からしたら、楓が無実だってことは伝わるわね」 安堵の色を浮かべ、桜は自分の湯呑をそっと口に運んだ。 だが――次の瞬間、その瞳に鋭い光が宿る。「でも……逃がさないわよ。絶対に!」 静かに、しかし強い決意を込めた声だった。 桐山所長は頷き、穏やかな顔つきのまま言葉を続けた。「まぁ……甘やかされて育った子供たちでしょうからね。こういう痛みは、いい薬になるでしょう。少々痛すぎる気もしますが」 彼は苦笑しながらお茶を置いたが、ふと何かを思い出したように目を細めた。「そういえば、後藤くんが今日は病欠していましてね」「えっ?慎一くんが?」 桜が眉をひそめると、所長は静かに頷いた。「最近、元気がなかったようですが……渡辺先生、何かご存じありませんか?」 その問いに、桜は一瞬だけ言葉を失った。  テーブルの前で指を組みながら、思考を巡らせる。 後藤一成と慎一、そして自分と楓――四人で食事に行った日のことが脳裏をよぎった。 あの日、慎一と楓はとても仲が良さそうだった。  お互いに心を許しているように見え、桜も一成も「二人が付き合えばいいのに」と半ば本気で
last updateÚltima atualização : 2026-02-09
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第128話

 その頃――。 慎一は、自宅のリビングでひとり、テレビニュースをぼんやりと見ていた。  画面には、亜里沙と海斗の顔写真が何度も映し出され、アナウンサーが淡々と逮捕の経緯を読み上げている。『――ネット上に偽造画像を投稿し、医師の女性を誹謗中傷した容疑で……』 慎一は、じっとその画面を見つめていた。  ニュースは、楓を傷つけてきた誹謗中傷の正体が、全く根拠のないデマであったことを、多くの人の前で明らかにしてくれていた。(よかったな、楓……) 小さくつぶやいたその瞬間だった。 脳裏に――あの日見てしまった光景が、鮮明によみがえってきた。 楓のマンションの前。  慎一が訪ねようとして歩いていたとき。 見知らぬ男に抱き寄せられ、楓がキスをされていた。  いや、楓も拒んでいなかった。 その表情――とても幸せそうで、柔らかくて、自分には向けられたことのない笑顔だった。(……なんで、あんなところ見ちゃったんだろうな) 慎一は苦笑すらできず、胸の奥がじくじくと痛んだ。 本当なら、この事件が落ち着いたら、今度こそ楓に気持ちを伝えようと思っていた。  守りたい、好きだと、ずっとそばにいたいと――ちゃんと言葉にして伝えようと。 でも。(また……出遅れたよな。俺) 慎一の肩が重く落ちる。 楓が幸せそうに微笑んだ相手は――自分ではなかった。  あの笑顔を、誰よりも近くで見たかったのに、それは叶わないのだと気づかされる衝撃は、思っていたよりもずっと深かった。 仕事に集中できるはずもなく、そのまま体調不良という形で休みを取った。  気持ちの問題だとわかっているのに、どうしても仕事に向かう気力が湧かなかった。(事件が佳境の時に、俺は本当に根性なしだな……) 自嘲気味に笑ったが、心は笑っていなかった。  その夜。 慎一は、いつものイタリアンレストランの窓際の席にひとり座っていた。  薄暗い照明とキャンドルの灯りが揺れる店内で、慎一はワイングラスを指先で弄ぶだけで、飲む気にもなれなかった。 赤ワインがグラスの中で揺れ、灯りを反射して淡く光る。  その向こうに広がる街の明かりは、美しいはずなのに、慎一の目には何一つ映っていなかった。(何してんだ、俺……) 胸の奥がぽっかり空いていた。 その時だった。  入口のドアが開き、真琴が店に入
last updateÚltima atualização : 2026-02-09
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第129話

真琴は慎一の向かいにそっと腰を下ろした。  席に着いたあとも、すぐには声をかけず、しばらく慎一の横顔を黙って見つめていた。  照明の落ちた店内で、キャンドルの炎がゆらゆらと揺れて、その光が慎一の頬を照らしたり影に落としたりする。 けれど、どんな光の中にあっても、慎一の沈んだ瞳は隠しようがなかった。 真琴は息を吸い、そっと言葉を落とすように尋ねた。「何があったのよ?まるでユーレイみたいになってるけど」と真琴が顔を覗いて言った。「……楓のこと?」 静かな問いかけに、慎一はびくりと反応した。  驚いたように目を見開き、真琴を見返す。 図星だった。「……なんでわかるんだよ」 声はかすれていた。  自分でも隠しているつもりだったのに、隠しきれなかったことに気づいて、苦さが滲む。 真琴はふわりと微笑んだ。「そりゃあ、わかるよ。慎、楓のことになると顔に全部出るもん。前からそうだよ?」 軽い調子の言葉だったが、決して茶化すような響きはなかった。  むしろ、慎一を包み込むような優しい声だった。「ニュース見たよ。あの便秘女のこと。楓も、これでやっと冤罪だって世間に伝わり始めてるよね」「……あぁ。よかったよ、本当に。それは……すごく……よかった」 慎一の声は震えていた。  楓の無実が示されていくことは心から嬉しい。  けれどその喜びが、胸の痛みに押しつぶされてしまいそうだった。 慎一はワイングラスを軽く押しやるように、テーブルの中央へ。「で……なんでそんなに落ち込んでるの? 楓とその後話したんじゃないの?」 慎一は言葉を飲み込んだ。  心臓の奥をつかまれたように、うまく呼吸ができなくなる。 しばし沈黙が落ちた。 重たい空気がふたりの間に流れ、慎一の表情はさらに暗くなる。  やがて、絞り出すように言葉が零れた。「……また俺じゃ、だめだったんだよ」 その声には、自嘲でも強がりでもない、素直すぎるほどの苦しさが滲んでいた。 真琴は驚いて眉を上げた。「何の話、してんのよ?まさか、楓に弁護士替えられたとか?」慎一は首を横に振り、テーブルに肘をついて頭を抱えた。そして、絞り出すような声で言った。「……楓がマンションの前で……知らない男とキスしてた」 その一言に、真琴の顔がはっきりと曇る。「……っ!」 真琴は手を口元にあて
last updateÚltima atualização : 2026-02-09
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第130話

 翌朝。まだ空気がひんやりとした時間帯に、楓は冬真と並んで警察署へと向かった。  昨夜は冬真のおかげでぐっすりと眠れた。恐ろしかった記憶も、なんだか遠い昔のように、現実味を失っていた。一緒に来てくれた冬真は、変わらず落ち着いていて、その横顔を見るたびに楓の胸の緊張が少しずつほどけていくようだった。 刑事課へ足を踏み入れた瞬間、刑事課の明るい声が二人を迎えた。「昨日は心配しましたよ。本当に間に合ってよかった」 刑事たちの声はどれも温かく、楓の胸につかえていたものが少しだけ軽くなる。「御影さんが大活躍だったんですよ」 そう言って冬真に視線を向けた刑事は、半ば呆れたように、けれど嬉しそうに笑った。 「でも、もうやめてくださいよ。まずは我々警察に相談してから…」  たしなめるように続けようとしたところで、唐沢刑事部長が手を上げて遮った。「さあ、二人とも座ってください」 刑事課の一角に置かれたソファを指し示され、楓と冬真は並んで腰を下ろした。  紙コップから立ち上る湯気に、ようやく現実が追いついてくるような感覚がする。 楓がコーヒーを一口含むと、唐沢刑事部長がほっとしたように言った。「少し顔色がよくなりましたね」 その声に、楓はカップを持ったままゆっくり顔を上げた。  昨夜、あのマンションの前で起きたすべてを思い返し、胸が少し痛む。「昨日は本当に心配しました……手首と足首のケガは大丈夫でしたか?」 もう一人の刑事が駆け寄り、唐沢の隣に腰を下ろしてそう尋ねてきた。 楓は袖を少し上げ、絆創膏が貼られた手首を見せた。「母が応急セットを持ってきてくれたので…」 楓が微笑むと、刑事たちもほっとしたように息をついた。  唐沢刑事部長も、楓の手首をちらりと見てから言った。「お母さまが楓さんの弁護をされるそうですね。昨日こちらに来られて、そうおっしゃってましたよ」 楓は小さく頷き、少し照れくさそうに笑った。「はい。前はあんまり私のことに熱心ではなかったのですが、今回は…なんだか張り切ってますね」 その言葉に、周囲にいた刑事たちがどっと笑った。  緊迫した空気がほぐれ、楓もつられて笑みをこぼした。「それでは、今の状況からお伝えしますね……」 さきほど楓に声をかけた刑事が、資料を手にして説明を始めた。  亜里沙と海斗の供述内容、現場
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