静かな幸せは、裏切りの匂いがしたー医師・渡辺楓が選んだ、愛という名の代償ー のすべてのチャプター: チャプター 81 - チャプター 90

166 チャプター

第81話

 楓が救命救急センターに走って到着する前から、 大きな声 を上げて泣き叫んでいる亜里沙の姿が目に入った。 そしてその横には―― 頭から血を流し、顔面蒼白の亮が亜里沙の寝かされたベッドにもたれるように座り込んでいた。 楓が駆け寄るよりも早く、応援要請をしてくれていた速水医師が、苛立ちを隠さない声で亮に向かって叫んでいた。「あなたの方が重症ですから! とにかくあちらに座ってくださいって言ってるでしょう!!」 亮は返事も曖昧で、意識が遠のきかけているのが誰の目にも明らかだった。 だが亜里沙だけは、自分の腕に少しついた擦りキズを指さしながら、「私の方が痛いの!見てよ!亮がちゃんと庇わないから悪いんでしょ!!」と、泣きながら亮の袖を引っ張って離さない。 楓は小さく息を吐いた。(……またこのパターンね) 前にも似たような騒ぎを、この救命センターで見てきた。 だが、いちいち呆れている場合ではない。 楓は気持ちを切り替え、表情を仕事の顔へと戻した。「亮、腕貸して。歩ける?」 声を掛けると、亮はかすかに目を上げ、「あ……」とだけ答えた。 返事になっていない。 楓は亮の腕をしっかりと掴み、看護師と手際よく両側から支え上げ、診察室のベッドへと運んだ。 その瞬間―― 亜里沙が甲高い声で叫んだ。「ちょっと!!どこに連れてくの!!亮は私のそばに居てって言ったの!!」 亮は立ち上がろうとしたが、足がもつれてよろけた。 楓と看護師が支えていなければ、その場で倒れていたに違いない。「危ないから!亮は今、動かしたらダメ!」 楓が強めの声で言うと、亜里沙はぷるぷると震わせた唇で睨み返した。「なんであんたが命令すんのよ……! こいつのせいで私が怪我したんだから!」 その言葉を聞いた速水医師が、とうとう堪忍袋の緒が切れたらしい。 白衣をバッサリ翻し、鋭い声で叱責した。「黙りなさい!彼は失血して意識が飛びかけている!あなたの“すり傷”より命が危ない人がここにいるんです!」 亜里沙は「ひっ」と肩を震わせ、瞬時に黙った。 しかし視線の先では、亮が楓に支えられたまま、頭をがくりと垂れている。 ――落ちた。「亮!!」 楓と看護師は同時に声を上げ、亮をベッドへ寝かせた。 体温が急速に奪われたかのように冷たく、胸の上下も浅く、乱れている。「血圧低下
last update最終更新日 : 2026-01-25
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第82話

 亮の容態が一時的に落ち着くと、すぐにCT室へ搬送が行われた。 楓は担当医として同行し、機械が静かに回転する音を聞きながら、画面に映し出される画像を食い入るように観察する。(……良かった。脳出血はない。だが、この腫れは相当痛かったはず) 亮の頭部には強くぶつけた痕があり、皮下出血の広がりも見える。 早期治療が必要だが、命に関わるような致命的損傷ではなかった。 検査が終わり、ベッドごと亮が病室に戻される。 その通路の先で―― まるで“主役の入場”を待つかのように仁王立ちしていたのが亜里沙だった。「結果は!? ねぇ、亮はどうなの!? 私のせいじゃないってことよね!?」 楓が口を開くより早く、亜里沙は捲し立てる。「私、ものすごくショック受けてるのよ? 亮が急に倒れたから…! そりゃ驚くでしょう? それに、なんで私だけ怒られて……」 そこへ速水医師が歩いて近づき、容赦ない口調で切り捨てた。「あなたは患者じゃありません。治療の妨げになるので静かにできないのであれば、帰ってください」「はぁ? なにそれ。私、お金払ってるんだけど?」 亜里沙は鼻で笑い、ブランドバッグを高々と持ち上げた。「うちのパパがここの病院長に言ったら、あなたみたいな医者、すぐにクビにできるんだから!!」 速水医師は一瞬だけ眉を上げたが、すぐに冷淡な声で返した。「今は非常時なので、パパの権力を使っても、何もかわりませんよ。言いたいのであれば、家に帰って何でもパパに仰ってください」 その一言で、亜里沙の顔が一気に真っ赤に染まる。「……はぁ!? なんなのよこの病院!! 私を誰だと思ってるの!? 亮は私の恋人なのよ!? 彼の横にいるのが当然でしょ!!」 楓は深いため息をつき、静かに告げた。「さっきも言ったけど、亮は頭部に強い衝撃を受けてるの。今は刺激を与える方が悪いのよ」「刺激って……私が亮の“負担”って言いたいわけ? あんた、私のこと嫌いでしょ!」 楓は冷静に言い返した。「嫌いじゃないけど、亮の治療が最優先。それだけよ」「ふざけないで!!」 金切り声を上げた瞬間―― 病室の中から、小さな声が漏れた。「……亜里沙、もうやめてくれ……」 亜里沙はハッと振り返る。 亮がゆっくりと目を開け、薄く眉間に皺を寄せていた。「……頭痛いんだ……静かにしてくれ……」「
last update最終更新日 : 2026-01-25
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第83話

 地震で搬送された患者たちの処置もひと段落し、救命救急センターの喧騒がようやく静まったころ。 楓はカルテの整理を終えると、ふと思い出したように亮の病室へ向かった。 部屋の前に立ち、そっと小さな窓から中を覗く。 亮は、柔らかい照明の中で静かに眠っていた。 数時間前まで顔を歪め、うなされるように呼吸していたのが嘘のように、いくらか安らかな表情だ。(……呼吸も落ち着いてる。血圧も安定してる) 枕元のモニターに映る規則的な波を確認すると、楓の胸も少し軽くなった。 ふと、亮の額に貼られた冷却シートが端からめくれかけているのに気づき、楓はそっと病室に入り、枕元まで近づいた。 気づかれないように、指先で優しくシートを押さえ直す。 その仕草は、医師としてのもの以上に、友人としての思いが滲んでいた。(そこまで大事に至らなくて、本当に良かった……) 亮の呼吸がほんの少し上下するたび、楓の肩の力も抜けていく。「何かあればすぐ連絡して。私は帰るわ」 ナースステーションで夜勤の看護師に声をかけ、楓はようやくコートを羽織った。 外に出た瞬間、冷たい夜風が頬に触れた。 今日だけでどれほど走り回ったのか、自分でも分からないほど体は重かった。 だが、亮の無事を確認できたことで、ようやく帰宅する気力が湧いてきた。 病院の裏口からタクシー乗り場へ歩きながら、楓はスマホを取り出す。 画面には母・桜からの未読メッセージがいくつも並んでいた。 すぐに電話をかけると、数コールで桜の声が聞こえた。「楓? よかった……無事?」「うん。ママ、大丈夫だった?」「私は事務所にいたから……六法全書とか、法律の分厚い本がドサッと落ちてきて、ほんと恐かったのよ」 その言葉に、楓は思わず吹き出した。「慎一と同じこと言ってる」「え? 慎一くんも?」「うん。“六法全書が凶器になるかと思った”って」 電話口の向こうで、桜もふっと笑った。「まあ……あの子もあの子で大変だったのね」「ママの方は? ケガとかない?」「ええ、大丈夫よ。書棚が倒れそうになって、秘書の子が支えてくれたから助かったの」 母の声にいつもの鋭い弁護士の気配はなく、少しだけ弱さが混ざっていた。 生まれてからずっと、強い母の背中しか見てこなかった楓にとって、その変化が不思議でもあり、愛しくもあった。「楓は?
last update最終更新日 : 2026-01-26
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第84話

 タクシーを降り、自宅マンションのエントランスに足を踏み入れた瞬間、楓は息をのんだ。  普段は静かで落ち着いた高級マンションだが、今日は様子が違った。  照明の半分が消え、床には割れた花瓶の破片や、どこかの部屋から落ちてきた書類が散乱している。(……うち、どうなってるかな) 疲れ切った身体でエレベーターに乗り、自分の階へ向かう。  到着すると、廊下の壁に小さな亀裂が走っており、非常灯の薄い光がその影を伸ばしていた。 自宅のドアを開けると、思わずその場で立ち尽くした。「……あぁぁ……」 リビングの棚は完全に倒れ、観葉植物は床に散乱し、キッチンの収納も半開きになって中身が落ちている。  特に本棚の被害が大きい。医学書の重さが災いし、床に散乱し足の踏み場もない。 楓はコートを脱ぎ、深いため息をつく。(まず……片づけないと寝れないか) 疲れているのに、休む前にやらなければならないことがある。  慣れた手つきで破片をまとめ、倒れた家具を少しずつ起こす。 その途中、携帯が震えた。  画面を見ると、通知がいくつも来ている。 そのうちの一つを見た瞬間、楓は眉をひそめた。 ――SNSで“病院の悪口”がトレンド入りしていた。 投稿者の名前は伏せてあるが、内容を見るだけで誰かは予想がつく。 ≪高級病院のくせに医者の態度が最悪。   スタッフがみんな、患者より“女医”を庇って優先してた。≫ 投稿には写真も付いている。  病院の外観を撮ったものだが、明らかに“救命救急のスタッフのことを匂わせている”文章だった。(……亜里沙) やはり、あのまま黙って帰るわけがなかったらしい。 さらにコメント欄には、 ≪その女の医者、若い男患者にだけ優しかった≫  ≪あれ絶対、男女の関係だよね?≫ などという、心ない言葉が並んでいた。(面倒なことになる……) 病院にも迷惑がかかる。  楓は頭を押さえ、ため息をついた。 そのタイミングで、ナースステーションの看護師からメッセージが届いた。『佐々木亮さん、今のところ安定しています。ただ、少し熱っぽいので様子見ますね』 ふと片づけを再開しようとしゃがみ込んだとき、床に落ちた亮の診察記録の控えが目に入り、昼間のことが鮮明によみがえる。――亮は地震で倒れてきた棚から亜里沙を庇ってケガをした。 ――そ
last update最終更新日 : 2026-01-26
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第85話  亜里沙の陰謀

 翌日。  夕方になってようやく仕事を終えた楓は、地震による余震の続く街を抜けながら、救命救急センターへと向かった。  昨日の混乱に比べると病院の外は落ち着きを取り戻していたが、それでも至るところに補修中のシートがかけられ、割れた外壁の跡が生々しく残っている。地震の爪痕は深かった。(亮、少しは良くなったかな……) 疲労で重たい身体を引きずるように病院の廊下を歩き、亮の病室の前に辿り着いた。  しかし、そこに亮の名前がなかった。 胸がざわつき、看護師を呼び止める。「すみません、ここにいた佐々木さんは……?」 看護師は困ったような顔で言った。「……退院されました。彼女だと言う女性が、“こんな病院に置いておけない”と強く希望されて、他の病院に転院すると言い張って…」 楓は一瞬、言葉を失った。  驚きはあったが、胸の奥に広がったのは――正直なところ、安堵だった。(……よかった。これでもう亜里沙に、余計なことで絡まれずに済む) 楓は心の底からホッと息を吐いた。  昨日の騒ぎ、あの異常な執着ぶりを思い返すだけで疲れが増す。  転院してくれた方が、亮にとっても落ち着けるだろう。 しかし、それはあくまで“楓の願望”だった。 亜里沙は――楓を放っておくつもりなど、まったくなかった。 地震から一夜明けても、街では復旧作業が続いていた。  道路は所々で交通規制が敷かれ、工事の車両が往来し、ビルの割れたガラスを片づける作業員の姿もある。  しかしそんな中でも、“夜の街”だけは別世界だった。 駅前の大通りから一本入った裏路地。  高級クラブやバーが入るビルは、軽度の被害で済んだらしく、すでに営業を再開していた。  そのネオン街には、地震などどこ吹く風と言わんばかりに、若者たちが笑い声を響かせていた。 そのビルの最上階にある、会員制クラブ。  黒い革張りのソファと、天井に埋め込まれたシャンデリアが高級感を漂わせる個室。  中には、何人もの男女が集まり、音楽に合わせて酒を煽り、大声で盛り上がっている。 そこには――亜里沙の姿があった。「ほんっとムカつくの、その女の医者!!」 亜里沙は、今日も完璧に巻かれた髪を揺らしながら、グラスをガンッとテーブルに叩きつけた。  グラスの中の琥珀色の液体が跳ね、テーブルに飛び散る。  その乱暴な仕草
last update最終更新日 : 2026-01-26
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第86話

 夜が深まるにつれ、街は地震の余韻を忘れたかのようにいつもの賑わいを取り戻していた。  しかし、そんな喧騒の裏で――静かに、そして確実に“何か”が動き出していた。 クラブの個室を出た海斗は、亜里沙を連れてビル裏のエレベーターへ向かった。  周囲は薄暗く、メインフロアのきらびやかな光は届かない。  ここは金持ちの連中が“裏の話”をするために好んで使う場所だった。「ねぇ、本当にやってくれるの?」 亜里沙が海斗の腕に絡みつき、甘い声を出す。  海斗はその声に満足げに目を細め、彼女の腰を軽く抱き寄せた。「もちろん。お前が頼んだことならな」「だってぇ……ムカつくでしょ? あの女の医者。亮が倒れたときも、妙〜に優しくてさ。感じ悪いのよ」 亜里沙は不満を爆発させるように言う。  海斗はさほど興味なさそうに聞きながら、ポケットからスマホを取り出した。「で、どんな“懲らしめ方”がいいわけ?」 その言い方には、遊び慣れた男の余裕があった。  彼にとっては、人一人の人生を狂わせることですら“火遊び”に過ぎない。「うーん……」  亜里沙は顎に指を当て、考えるふりをしたが、答えはすぐに見つかった。「亮に近づけなくすればいいの。病院での評判を落とすとか……仕事に支障出るようにするとか……ね?」 その案を聞いた海斗は、「あぁ、そういうのね」と軽く頷いた。「だったら簡単だろ。医者なんて、ちょっと悪い噂流せば終わりだし」「でしょ!!」 亜里沙は嬉しそうに笑い、海斗の肩に顔を寄せた。「お願いね? 海斗」 甘ったるい声に、海斗は笑いながらスマホの画面を滑らせた。  着信履歴からひとつの番号をタップする。 コールが数回鳴り、相手が出た。『……なんだ』 くぐもった男の声。  どうやら海斗の裏の“仕事仲間”らしい。「ちょっと頼みたいことがあってさ。女医一人の“評判”を落としてほしいって言ったら……できる?」『やってやるよ。写真は? 情報は?』「後で送る。名前は――渡辺 楓。某救命救急センターの医者だ」 亜里沙は横で「うふふ」と笑いながら、海斗の肩に頭を預けている。『了解。こっちで適当にまとめて流す。 “事故を悪用して患者に不適切な接触”って方向でいいか?』「それでいいよ」 通話が切られた。 亜里沙は満面の笑みで海斗を見つめた。「海斗、
last update最終更新日 : 2026-01-27
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第87話

 一方その頃、楓は自宅のリビングで床に座り込んでいた。 地震で散乱した家具の片づけは半分も終わっていない。 倒れた観葉植物の土が床に広がり、割れたコップや本が混ざり合って散乱していた。 その光景はまるで、小さな嵐が部屋を通り抜けた後のようだった。 しかし、楓の手はもうほとんど動かなかった。 全身が疲れで重く、肩も腕も固まってしまったように痛む。 昨日から今日にかけての地震対応、救命の混乱、そして亮の転院――心も身体も限界に近かった。(……亮、大丈夫かな) ぽつりと胸の奥で思う。 転院したという事実は、胸のどこかに寂しさを落とした。 もう少し近くにいたら――そんな思いも、確かにある。 だが同時に、あの厄介な亜里沙から亮が離れたことに、楓はほっとしていた。 寂しさと安堵がせめぎ合い、複雑な思いが胸を締め付けた。 そのとき――スマホの通知が鳴った。「……?」 反射的に手に取る。 見ると、見覚えのないアカウントからメッセージが届いていた。『医者のくせに、患者に色目使ってるって本当? SNSで見たよ。最低だな』 読んだ瞬間、楓は一瞬呼吸を止めた。 意味がわからない。どういうこと? 頭が追いつかず、心臓だけが早くなる。(……え?) その隙を突くように、続けざまにメッセージが届いた。『救命の女医が差別とか、マジ最低』『患者を誘惑? 病院に通報した』『あんたのせいで、あの彼氏が倒れたんだろ』 胸が凍りつくような痛みを感じた。「……誰が……?」 声に出したものの、答えは分かりきっている気がした。 震える指でSNSを開く。 すると画面には―― 昨日の投稿が、何倍にも拡散され、 元の文章とはかけ離れた、多くの“憶測”と“誹謗中傷”が飛び交っていた。「……こんなの……」 目の前がにじむ。 医者としての信用を揺るがすような言葉が並び、楓を知らない人々が好き勝手に評価し、罵倒している。(やっぱり……亜里沙……) 昨日の強烈な嫉妬、怒号、狂気じみた目――すべてが頭をよぎる。 そして電話の最後に聞いた、あの言葉。『絶対後悔させてやる!!』 それは単なる感情の爆発ではなかった。 本気で――楓を潰すつもりだ。 思い出した瞬間、背筋に冷たいものが走った。 その頃、別の病院。 亮は静かに眠っていた。 淡い光が差し込
last update最終更新日 : 2026-01-27
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第88話  謹慎処分

 翌朝。 楓が救命センターへ向かう廊下に足を踏み入れた瞬間、空気の質が昨日までと明らかに違うことに気づいた。 すれ違う看護師たちの視線が、かすかに楓へ向けられる。 いつもなら笑顔で交わされる挨拶も、今日は誰もが視線を逸らし、口を閉ざしている。 その様子に、楓の胸がじわりと重く沈んだ。(……やっぱり、広がってる) 昨夜、見知らぬアカウントから届いた誹謗中傷の数々。 SNSに書かれた“デマ”が、あっという間にまとめサイトに転載され、拡散されていた。 まるで“真実”であるかのように。 ナースステーションに入ると、さらに空気が重い。 数人の看護師がひそひそと話しており、楓が近づくとピタリと声を止めた。「……あの先生じゃない?」「うん、ネットの……」 聞こえるように言っているのか、それとも無意識なのか。 どちらにせよ胸が痛む。 カルテを確認しようとしたその時、事務長が硬い表情で近づいてきた。「楓先生、院長室までお越しください」 その一言で、楓の心臓が冷たく縮んだ。「……はい」 足が勝手に震える。 それでも、前に進むしかなかった。 院長室には、院長、副院長、コンプライアンス担当責任者、事務長が揃っていた。 全員の視線が楓に向けられる。「――今回のSNS騒動についてだが」 院長の声は落ち着いていたが、その裏に疑念の重さがあった。「救命センターの女性医師が患者に不適切な行為をした、という投稿が拡散されている。事実関係を確認したい」「そんな事実は一切ありません。あの投稿は……患者家族の女性が――」「その“女性”については後で確認するが、まずはこちらを」 コンプライアンス担当が、印刷したSNS投稿を机に広げた。“救命の女医、患者に色目”“患者差別がひどと有名らしい”“彼氏を寝取ろうとして、気絶させたらしい” どれも事実ではない。 だけど、紙に印刷されるだけで、まるで“証拠”のように見えてしまう。「先生、これだけ拡散している以上、病院としても黙視はできません」「……! 私は本当に、そんな――」 声が震える。「当面、先生には病院を離れてもらう。調査が終わるまで、重要案件は回せない」 事務長の言葉に、楓の喉が乾いて何も言えなくなった。 事実上の謹慎だ―― それは事実上、“疑われている”という処置。 椅子に座っ
last update最終更新日 : 2026-01-27
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第89話

 一方、亜里沙は――。 都心の一角にそびえる高級タワービルの最上階近く。  そのフロアにある有名クラブのVIPルームで、艶やかなドレスをまとい、深々とソファにもたれながら細い脚を組み、ワイングラスをツンと傾けていた。 壁一面の夜景が、まるで自分のためだけに広がっているかのような錯覚を抱かせる。  シャンデリアの柔らかい光が、亜里沙の紅く塗られた唇を妖しく照らしていた。「見て、この投稿。あの女医、病院から疑われてるって〜」 亜里沙がスマホ画面を指で滑らせ、隣の女友達に見せつけるように掲げる。  途端、女友達は吹き出して声を上げた。「ほんとヤバ。ざまぁ。亮くんに近づくなんて身の程知らずよ」 その言葉に、亜里沙は一層満足げに笑みを深める。「医者のくせに調子に乗ってるの。亮に執着した罰よ」 グラスの中の赤ワインが、艶やかに揺れた。  その瞳には、一片の罪悪感も影もなく、ただ“遊んでいるだけ”の少女特有の残酷さだけが浮かんでいる。 彼女にとっては、SNSも世論も、玩具にすぎない。  だがその“軽い指先の遊び”が、楓の人生を確実に追い詰めつつあった。 その頃。  楓はマンションの玄関を開け、そっと中へ入り込んだ瞬間、堪えていた糸がぷつりと切れた。 崩れ落ちるように靴のまま床に座り込み、深く息を吐く。  身体は重く、肩は鉛のように沈んでいた。 薄暗いリビングには、昨夜の地震の爪痕がそのまま残っている。  倒れた本棚の下から散乱した雑誌、棚から落ちて砕けた食器、片付けきれず積み上げられた段ボール。  どこか歪んだ家具が、家そのものが泣いているように見えた。(……どうして……こんなことに……) 楓は膝を抱え、スマホを握ったまま顔を伏せた。  涙がじわりと滲み、ぽたり……と無造作に手の甲へ落ちる。 その静寂を破るように、着信音が部屋に響いた。「っ……!」 楓はビクッと肩を震わせたが、震える手でスマホを耳に当てる。「……楓?」 慎一の声だった。  優しいはずの声なのに、今は胸に痛いほど染みる。「噂……見た。大丈夫か?」 その一言だけで、楓の心に張りつめていた最後の防波堤が壊れた。「……だいじょうぶじゃ……ない……」 か細く絞り出した声は震え、涙は止めどなく頬を伝った。  声を出すだけで胸が痛む。  息が苦しい。 
last update最終更新日 : 2026-01-28
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第90話 真琴、吠える!

 楓が病院から「謹慎処分」を言い渡された翌日。  朝からずっと重たい空気が部屋に停滞していた。  リビングの床にはそのまま残された地震の傷跡と、昨夜あふれた涙の気配だけが漂っている。 その静けさを破るように、玄関のチャイムが勢いよく鳴った。「楓!!」 扉を開けた瞬間、真琴が泣きそうな顔で立っていた。  後ろには陽斗もいて、心配そうに眉を寄せている。 部屋に足を踏み入れた陽斗は、荒れ果てた室内を見て、目を丸くした。「楓さん……」 床に散乱した本や割れたカップ、倒れたままの観葉植物。  昨夜の絶望が、そのまま形になったような景色だった。 楓は、涙の跡を残した顔で立ち尽くしていた。  その姿を見るなり、真琴は何も言わずに楓に走り寄り、強く抱きしめた。「楓……!」 声にならない声で、真琴は楓をぎゅっと抱きしめる。  楓も堪えきれず、真琴の肩に顔を埋めた。 しばらくの間、二人は言葉ひとつ発せずに抱き合っていた。  楓の震えが、真琴の胸を濡らす。  陽斗もその様子を黙って見守っていた。 数分ほどして、楓の呼吸が少し落ち着くと、真琴はそっと楓の頬に手を当てた。「……陽斗!! 片付けるよ!!」「えっ、あ、はいっ!」 陽斗は慌てて靴を脱ぎ捨て、真琴と一緒に散らかった部屋の片付けを始めた。「ちょ、ちょっと……そんな……いいよ、自分でやるから……」 楓が弱々しく言うが、真琴は一切聞かない。「黙って座ってなさい! 楓は今休むのが仕事なの!」 真琴のその迫力に、楓は何も言えずに立ち尽くした。 真琴はテキパキと床に落ちているものを仕分け始め、陽斗もそれに倣って動く。  二人は息を合わせるように、散乱した雑誌を重ね、破損した食器を捨て、倒れた家具を元に戻していった。  まるで部屋の形だけでも取り戻してやりたいと願うように。 掃除機の音がリビングに響き、舞っていた埃が吸い込まれていく。  どんどん片付いていく部屋を見ているうちに、楓の胸の中の混乱も、ほんの少しだけ整っていくようだった。 一息つけるスペースがようやくできると、真琴は腰に手を当てて陽斗を振り返った。「陽斗! 軽く食べられるもの買ってきて!」「りょ、了解です!」 陽斗は勢いよく玄関へ向かい、靴をつっかけて飛び出していった。 真琴はソファ脇に丸めたクッションを二つ置
last update最終更新日 : 2026-01-28
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