Todos os capítulos de 静かな幸せは、裏切りの匂いがしたー医師・渡辺楓が選んだ、愛という名の代償ー: Capítulo 151 - Capítulo 160

166 Capítulos

第151話 支えられている夜

楓は、グラスを持つ手が少し震えているのに気づいた。酒のせいだけではない。ここにいる全員が、自分の未来を、当たり前のように考えてくれている。それが、胸に堪えた。「……私」 楓は小さく息を吸う。「一人で、やっていかなきゃって……ずっと思ってた」慎一が、静かに首を振った。「一人で戦う必要はない」真琴も、楓の肩に手を置く。「頼れるときは、頼ればいいの」冬真は、何も言わずに楓を見ていた。―選択肢を与える。 決めるのは、彼女自身。それが、冬真のやり方だった。「……ありがとう」楓は、ようやく笑った。それは、裁判に勝ったからでも、自由になったからでもない。“支えられている”と、心から感じられたからだった。夜は、まだ深い。だがこの夜は、もう、孤独な夜ではなかった。夜はまだ深く、 けれど胸の奥には、確かな温度が残っていた。Night Indigoを出た四人は、 少しだけ人通りのある大通りへ向かって歩き出した。 夜風が、火照った頬に心地よく触れる。慎一は、すっかり出来上がってしまった真琴を、 半ば抱えるようにして歩いていた。 真琴は慎一の肩に体重を預け、 「ん~……足が、言うこと聞かない……」などと呟いている。「ほら、前見て歩け」 慎一は苦笑しながらも、その腕を緩めなかった。その少し後ろを、楓と冬真が並んで歩いていた。楓は、冬真の腕にそっと寄り添い、 その存在を確かめるように歩幅を合わせている。 冬真は何も言わず、楓が自然にそうしていることを、当たり前のように受け止めていた。通りに出た瞬間、一台のタクシーが、ちょうど目の前を走ってくる。冬真は迷いなく手を上げ、タクシーを止めた。「どうぞ、お先に」そう言って、真琴と慎一をタクシーのドアへと誘導する。真琴はぼんやりとした目で楓を見て、少しだけ姿勢を正した。「楓……今日はさ……ほんとに、おめでとう」慎一も、楓の方を見て、ゆっくりと頷く。楓は微笑み、胸に残る想いをそのまま言葉にした。「今日は、本当にありがとう」作り笑いではない、穏やかな笑顔だった。二人はそれ以上、何も言わずにタクシーに乗り込む。 ドアが閉まり、窓越しに真琴が小さく手を振った。「またね」タクシーは、夜の街に溶け込むように走り去っていった。残された楓と冬真は、思わず顔を見合わせ、ふ
last updateÚltima atualização : 2026-02-13
Ler mais

第152話

亜里沙が刑務所に収監されてから、亮は一度も彼女に会えていなかった。―正確には、「会わなかった」のではなく、「会えなかった」。あの日、警察署の前で楓に思いきり引っぱたかれた瞬間から、亮の時間は止まってしまったようだった。 頬に残った鈍い痛みよりも、胸の奥に突き刺さった楓の目が、忘れられない。留置場に面会に行ったのは、あれが最後だった。面会室のガラス越しで、亜里沙は開口一番、楓を罵った。 「全部あの女のせいよ」「私がやったことは間違ってない」 そう言い切るその表情に、亮は言葉を失った。謝罪も、後悔も、恐怖もない。 ただ、自分が被害者だと言い張る亜里沙が、そこにいた。亮はその時、初めて気づいてしまったのだ。 ―この人は、もう戻れない場所まで来ている、と。それでも、裁判の日、亮は傍聴席の最後列に座っていた。 逃げることはできなかった。 見届ける責任があると思った。裁判長が淡々と判決文を読み上げる声を、亮は亜里沙よりも呆然と聞いていた。懲役三年六か月。その言葉が現実として理解できたのは、亜里沙が泣き叫び、刑務官に引きずられるように連れて行かれる姿を目にした瞬間だった。「亜里沙……」名前を呼んでも、声は届かない。 振り返ることもなく、彼女は連れて行かれた。その光景が、何度も夢に出てくる。そして、亮の胸を締め付け続けているのは、楓に言われた、あの一言だった。「自分が始めたのだから、亜里沙に最後まで寄り添うべき……」正論だった。 だからこそ、逃げ場がなかった。自分が亜里沙を甘やかし、都合のいい存在でい続けたこと。 止めるべき時に、止めなかったこと。全部、自分が選んだ結果だ。亮は、亜里沙を助けるために、彼女が買ってくれたマンションを手放した。亜里沙の父親に頭を下げ、売却してもらい、その金を楓への示談金に充てた。広くて、眺めのいいリビング。 あの場所に戻る資格は、もう自分にはない。今、亮が住んでいるのは、駅から少し離れた、小さなアパートだ。壁は薄く、夜になると隣の部屋の生活音が聞こえる。 だが、それが逆に、 自分が現実にいる証のように感じられた。静まり返った部屋で、亮は一人、考える。もし、あの時。 もし、違う選択をしていたら。そんな思考は、何度も頭をよぎる。 だが、答えは出ない。だから亮は、決めた。
last updateÚltima atualização : 2026-02-14
Ler mais

第153話 冬真、別れの手続き

翌日。  冬真は早朝から静かに身支度をしていた。 スーツではないが、ホストとして働くときよりも少しきちんとした服装だ。 楓はソファで毛布に包まりながら、ぼんやりした頭でその姿を追っていた。「……仕事に行くの?」 問いかける声はかすれ、どこか心細い。 冬真は振り返り、穏やかな笑みを浮かべた。「辞めるためにね。手続きが残ってるから」 楓は小さく息を吸った。 冬真が一歩進もうとしているのが分かる。「……気をつけて行ってきて」 そう言うのが精一杯だった。 冬真は頷き、玄関で靴を履きながらふと振り返る。「戻ったら、コーヒー淹れてあげる」「……うん」 小さな約束を交わし、冬真はマンションを後にした。  繁華街。 この街は昼と夜でまったく顔が違う。 まだ太陽が昇り切らない時間、看板のライトは消えているのに、路地の空気には昨夜の熱が残っていた。 冬真が働くホストクラブ 《(CLUB Argo)》のビルに到着すると、店長の車が既に止まっていた。 どうやら冬真が来るのを見越して早めに入っていたようだ。「おはようございます」「……来たか」 店長は吸っていたタバコを灰皿に押しつけ、重い声で言った。「昨日のLINE、見たよ。“辞めたい”ってやつ。冗談かと思ったけど……」 冬真は静かに首を振った。「冗談じゃない。俺、本当にやめる」「……お前、ナンバーワンだぞ。指名本数も売上も、誰も追いつけない。 なんで急に……」 店長の眉間には深いしわが刻まれ、目には本気の戸惑いがあった。 冬真がこの店にもたらした利益は計り知れない。 辞められれば店の経営にも影響が出る。 だが冬真は淡々と言葉を重ねた。「ずっと潮時だと思ってた。もう28だし、自分の人生をちゃんと考えたいんだ。 ……継がなきゃいけない仕事もあるし」「御影か」 店長の目が細くなる。「有名な話だよ。お前が御影ホールディングスの御曹司なのは、業界の一部じゃ知られてる。 だけどな……親父さんの会社に戻るのは、ここよりずっと大変だぞ」「分かってます」 冬真ははっきりと言った。「でも、俺は……いつまでもここにいちゃダメだと思った。 逃げじゃなくて、自分から選びたい」 店長はしばらく黙り込んだ。 やがて深くため息をつき、冬真の肩を軽く叩いた。「……なら、止めねぇ。引き留
last updateÚltima atualização : 2026-02-14
Ler mais

第154話  御影一族

冬真が店を辞めた翌日。 午後の柔らかな光の中、彼は久しぶりに実家へ向かうタクシーの後部座席にいた。 御影家の本邸は、都心とは思えないほど広大な敷地の中に建っている。 高い塀と重厚な門。 門の向こうにそびえるのは、古い洋館を改装しつつも現代的な要素を取り入れた、堂々たる邸宅だった。 タクシーが門前に停まると、守衛がすぐに出てきた。「冬真様、お帰りなさいませ」「ただいま。親父は?」「すでにお待ちです」 重い門がゆっくりと開く。 その景色を見た瞬間、冬真の表情がわずかに引き締まった。 ホストとしての顔ではなく、御影家の次男としての顔に戻っていた。  エントランスホールに入ると、吹き抜けの空間にシャンデリアがきらめいている。 御影ホールディングス——全国の都市開発を担う巨大不動産ディベロッパーの創業一家。 その本邸に相応しい威厳が漂っていた。 大広間の扉が開き、冬真は足を踏み入れる。 そこにいたのは、三人。■御影宗次郎(父)——御影ホールディングス社長 六十を過ぎても背筋はまっすぐで、鋭い目をした男。 政治家のような風格を持つが、実務家としての手腕は業界随一。 今回、宮原・黒川の失墜に対し、真っ先に動いた人物でもある。「帰ってきたか、冬真」 その声は低く、しかし息子を見つめる目には確かな期待があった。■御影香織(母) 上品で柔らかな雰囲気を持つ女性。 冬真が反抗してホストになった時も、一度も声を荒げず、陰から見守ってきた。「冬真……元気そうで良かったわ」 香織は、少し潤んだ目で微笑んだ。■御影昴(兄)——御影ホールディングス専務 父の後継者と目される長男。 完璧主義で、冬真とは性格が真逆。 しかし、会社に対する責任感の強さは、冬真も子どもの頃から尊敬していた。「ようやく戻る気になったか」 昴はそう言いながらも、どこかホッとした表情をしている。 「……座れ」 宗次郎が真剣な声で言い、冬真はソファに腰を下ろした。「聞いたぞ。店を辞めたそうだな」「うん。もう……潮時だと思った」 宗次郎は大きく一度頷き、まっすぐに息子を見た。「このタイミングで、戻ると言ってくれてよかった。 宮原ホールディングスと黒川リアルアセットの失墜で、大規模案件がいくつも空いている。 今、我が社が動かなければ、別の企業に取ら
last updateÚltima atualização : 2026-02-14
Ler mais

第155話

御影家の重たい扉を出た瞬間、冬真は胸の奥で何かがカチリと動く音を聞いた気がした。 —もう戻る場所は決まった。 自宅に向かう夜風は冷たかったが、不思議と心の中はすっきりしていた。 ホストとしての時間は、大切な足跡だった。 だが、これからは“御影冬真”としての人生を歩いていく。 その覚悟が、ようやく自分の中で形を持ちはじめていた。 マンションに戻ると、部屋の温かさにほっと息が漏れた。 リビングのソファには、楓が毛布にくるまり、テレビをつけたまま眠り込んでいた。「……寝ちゃったのか」 冬真はそっと近づき、毛布の端を直してやる。 冬真は小さく笑う。 ホスト時代、どれだけいろんな女性と接してきたとしても、 こんなふうに「守りたい」と思ったのは楓だけだった。 そっと肩を揺らすと、楓が目を開けた。「あ……冬真、おかえり」「ああ。実家に行ってきた」 楓はすぐに気づいた。 冬真の声が、どこか決意を帯びていることを。「……話してきたの?」「うん。店、辞めるって伝えたし、父さんとも話した」「そう……よかったの?」 その問いは、優しさだった。 冬真が本当にやりたいことなのか、後悔しないのか……それを確かめるような目。「よかったよ。むしろ……スッキリした」 楓の目に、安堵の色がにじんだ。「冬真……強いんだね」「強い? 俺が?」「だって、自分で決めて動くから」 思わず苦笑した。「いや、むしろ楓のほうが強いだろ。 あんな大変な目にあって……でも、ちゃんと前に進もうとしてる」「前に……進めてるのかな、私」「進んでるよ。少しずつだけど」 楓はうつむき、指先をいじった。「……冬真がいるからだよ」 その一言は、冬真の胸をつかんだ。 だが同時に、得体の知れない“罪悪感”も生まれる。 楓はまだ心に深い傷を抱えている。 そんな時期に、自分が踏み込みすぎていいのか——。 冬真は深く息を吐き、楓の肩にそっと手を置いた。「楓……俺はしばらく家の仕事に戻るための研修とか準備で忙しくなる。 でも、楓のそばにはいる。無理に何も決めなくていいからね」 楓はきょとんとした後—ふっと笑った。「ありがとう。冬真のそういうところ、安心する」 その笑顔は、冬真の覚悟をさらに固めた。 翌日。 冬真は御影ホールディングス本社の一室で、早速「復
last updateÚltima atualização : 2026-02-14
Ler mais

第156話

冬真が静かに、だが確実に動き出した。その背中を見ているうちに、楓の中にも、長く眠っていたものが目を覚ました。――私も、動かなきゃ。久しぶりに、自分のスマートフォンを手に取る。指先がわずかに震えたが、深呼吸をして発信ボタンを押した。相手は、後藤一成。慎一の父であり、医学界でも名の知れた後藤教授だ。「……後藤先生。楓です。ご相談したいことがあるのですが、お時間、いただけませんか」一瞬の間のあと、電話口から穏やかな声が返ってきた。「楓ちゃんか。無事だと聞いて、本当に安心したよ。相談なら、いくらでも乗る。今夜、時間はあるかい?」そのまま、夜に食事をしながら話そう、ということになった。電話を切ると、楓はすぐに冬真へメッセージを送った。《今夜は、少し出かけます》理由は書かない。それでも、冬真なら分かってくれる気がした。夜。指定されたレストランに足を踏み入れた瞬間、楓は足を止めた。――え?後藤一成の向かいに座っていたのは、母・渡辺桜だった。「……ママ?」思わず声が出る。桜はくすっと笑い、手を振った。「びっくりした? たまには、楓の顔が見たかったのよ」後藤教授も、にこやかに立ち上がる。「楓ちゃん、久しぶりだね。さあ、座りなさい」楓は挨拶をして席につきながら、まだ少し戸惑っていた。すると桜が、何気ない調子で言った。「今日は、冬真くんは一緒じゃないの?」「冬真は……実家の仕事に戻って……不動産業なんだけど、始めたばかりで忙しいみたい」そう答えると、桜は迷いなくスマートフォンを取り出した。「じゃあ、電話してみましょう」(……早っ)楓は思わず苦笑する。「今、どこにいるの? もしお仕事が終わってるなら、あなたも合流しない?」軽い口調なのに、断れない圧。――こういうところ、本当にすごい。“敏腕”と言われる理由を、娘として嫌というほど知っている。電話を切った桜が言った。「30分くらいで来られるそうよ」後藤教授が満足そうに頷く。「それなら、食事は彼が来てからにしよう。今のうちに、楓ちゃんの“相談”とやらを聞かせてくれないかな」楓は背筋を伸ばし、小さく息を吸った。「……はい」少しの沈黙のあと、言葉を選びながら口を開く。「私……もう一度、医者に戻りたいんです。できれば、外科医として」桜の表情が、わずかに引き締
last updateÚltima atualização : 2026-02-14
Ler mais

第157話

冬真が合流してから、ようやく食事がスタートした。テーブルに並ぶ料理はどれも上品で、香りだけで気持ちがほぐれていく。だが、今夜の主役は料理ではない。ここに集まった四人の会話そのものだった。桜はワイングラスを軽く置きながら、先ほど楓が後藤教授に話した内容を、簡潔に冬真へ伝えた。「楓がね、また外科医として戻りたいって。それも、できれば自分で病院を経営する形で」冬真は驚いたように目を見開いたが、すぐに小さく頷いた。「……やっぱり、そうだったんですね。それ、先日の『Night Indigo』で、真琴ちゃんが言い出したことなんです」「まぁ」桜は思わず笑った。「さすが真琴ちゃんね。広告代理店で大活躍してるだけあるわ。発想力も、決断力もある」楓は少し照れたように視線を落とす。あの夜は勢いもあったが、今はこうして大人たちに囲まれ、現実として話が進んでいる。冬真は姿勢を正し、桜と後藤教授に向き直った。「実は……ボク、今は家の仕事を継ぐために、不動産業に戻ったんです」「御影ホールディングス、だったわね」桜が言うと、冬真は頷いた。「はい。不動産の開発、運営、資金調達まで一通りやっています。楓さんの病院構想を聞いて、正直……かなり現実的だと思いました」楓は驚いて冬真を見る。「え……?」冬真は、落ち着いた口調で続けた。「まず、病院経営に必要なのは、土地と建物です。新築にするか、既存の医療用物件をリノベーションするか。これは立地と資金次第ですが、都内近郊なら、医療法人向けに設計された物件もあります」後藤教授が興味深そうに身を乗り出した。「確かに、最近は居抜きの医療施設も増えているね」「はい。それに、楓さんの場合、賠償金と慰謝料という“明確な資産”があります」その言葉に、桜の表情が一瞬引き締まる。「……担保にする、ということ?」冬真は慎重に頷いた。「はい。賠償金を全額使うわけではありません。あくまで担保として預託し、金融機関からの融資を受ける形です」楓は少し不安そうに聞いた。「そんなこと……できるの?」「できます。実際、医療法人の立ち上げでは、個人資産や預金を担保にするケースは多いです。それに……」冬真は一拍置いてから、続けた。「御影ホールディングスとして、資金援助を頼むことも可能です」桜が目を見張る。「それは……家
last updateÚltima atualização : 2026-02-14
Ler mais

第158話

食事はその後も穏やかに進み、 病院経営の話は具体的なスケジュールや役割分担にまで及んだ。だが、話題が一段落すると、桜はグラスを置き、ふっと息をついた。「……正直に言うわね」その声音に、三人の視線が自然と集まる。「楓がまた前に出ること、私はずっと、少し怖かった」楓は驚いて母を見る。「ママ……」桜は娘から目を逸らさず、続けた。「あなたは強い子よ。でも、強いからこそ、無理をする。 誰にも頼らず、全部一人で抱え込もうとする」一瞬、言葉を探すように間が空く。「……今回のことだって、本当は、私が守る側だったはずなのに」後藤教授が、何も言わずに静かに頷いた。「でもね」桜は、今度は冬真を見た。「あなたがいてくれたのね。楓を“守る”んじゃなくて、“選ばせる”距離で、そばにいてくれた」冬真は背筋を正し、深く頭を下げる。「……楓さんが、自分で立てる人だからです」その答えに、桜は微笑んだ。「ええ。だから、安心できたの」桜は楓の手に、そっと自分の手を重ねる。「仕事も、人生も、恋も……あなたが自分で選んだなら、私はもう、何も言わないわ」その言葉は、手放しではなく、信頼だった。楓の目が、じんわりと潤む。「……ありがとう、ママ」それ以上、言葉はいらなかった。食事を終え、店を出る頃には、夜風が心地よくなっていた。後藤教授と桜は、先にタクシーを拾う。「今日は、いい夜だったわね」桜はそう言って、楓を一度、強く抱きしめた。「無理だけはしないで。でも、疲れたら家に帰ってきなさいね」「うん」短い別れのあと、その場に残ったのは、楓と冬真だけだった。二人は並んで歩き出す。 言葉はないが、沈黙は重くない。「……緊張した?」冬真が、ふと聞く。楓は小さく笑った。「少しだけ。でも……嬉しかった」「何が?」「私の人生を、“計画”として話してくれたこと。夢じゃなくて、現実として」冬真は歩調を緩め、楓の手にそっと触れる。「現実だよ。楓が選んだ未来だから」楓は、その手を握り返した。強くはない。 でも、離れない。「……私ね」立ち止まり、冬真を見上げる。「医者としても、経営者としても、そして……一緒に生きる人としても」少し照れながら、はっきりと言う。「ずっと、隣にいたい」冬真は一瞬だけ目を伏せ、次の瞬間、楓を静かに抱き寄せた。
last updateÚltima atualização : 2026-02-15
Ler mais

第159話

計画が「形」になった翌日から、現実はすぐに牙をむいた。病院開業に向けた最初の打ち合わせは、後藤教授の紹介で集まった専門家たちとの会合だった。 医療コンサルタント、金融機関の担当者、建築設計士。楓は白いノートを開き、真剣に耳を傾けていた。「率直に申し上げます」金融機関の担当者が、資料を揃えながら言った。「資金計画としては成立します。ただし――」その一言に、空気がわずかに張り詰める。「今回のケースでは、被害事件の報道履歴が残っています。 再検索、SNS、週刊誌……完全に消えるわけではない」楓の指先が、ノートの端を無意識に押さえた。「開業当初は、患者数の伸びが想定より鈍化する可能性があります。 “医師個人の信用”が、そのまま経営リスクになる」後藤教授が、すぐに口を挟んだ。「それは、実力とは無関係だ」「承知しています。しかし、金融の世界では“事実”より“印象”が先に評価されることもあります」沈黙。楓は、深く息を吸ってから口を開いた。「……つまり、私が“前に出る”ことで、病院そのものが不安視される、ということですね」誰も否定しなかった。それが、最初の壁だった。会合を終えたあと、楓は一人で資料を抱え、建物の外に出た。 夕方の風が冷たく、胸の奥まで入り込んでくる。「……やっぱり、甘くなかったかな」そう呟いた声は、思ったより小さかった。「こんな大きな計画なんだから、甘くないよ」すぐ後ろから、落ち着いた声が返る。 冬真だった。「でも、想定内だ」楓は振り返る。「……平気なの?」「あんまり平気じゃない。でも、逃げる理由にはならない」冬真は、楓の横に並び、遠くの街並みを見つめた。「だから、ここからは俺の出番だと思ってる」楓は、少し驚いたように冬真を見る。「どういう意味?」冬真は、一度だけ視線を落とし、それからはっきりと言った。「開業当初、楓は“前に出すぎない”。表に立つのは、医療法人としての名前と、運営体制」「……私が、隠れるってこと?」「違う」冬真は即座に否定する。「楓は“医師として”立つ。でも、経営の矢面に立つのは、俺が引き受ける」楓は息を呑んだ。「それって……御影ホールディングスの名前を出すってこと?」「ああ」短く、迷いのない答え。「病院の不動産管理、運営母体、資金の保証。全部、御影側で引き
last updateÚltima atualização : 2026-02-15
Ler mais

第160話 楓の現在地

 春の光が、病院の廊下にやわらかく落ちていた。  高窓から差し込む淡い陽射しが、白い床に細長い影をつくり、行き交う医師や看護師たちの足元を静かに照らしている。  その光景を、渡辺楓は一瞬だけ立ち止まって眺めていた。 白衣の袖に腕を通しながら、胸の奥で小さく息を整える。  深呼吸をひとつ。  肺いっぱいに取り込んだ空気は、冷たくもなく、重くもなく、ただ静かだった。 ――もう、大丈夫。 そう思えるようになるまでに、どれほどの時間が必要だったのか。  胸の奥に長く沈んでいた澱のような感情は、いつの間にか薄れていた。完全に消えたわけではない。ただ、触れても痛まない場所まで沈んでいったのだ。 亮と別れてから一年。 振り返れば、短いようで長い一年だった。  突然空白になった生活。  誰かの存在を基準にしていた時間の喪失。  そして、自分自身を取り戻すまでの、静かで孤独な日々。 だが――  キャリアを失ったわけではない。 確かに、回り道はした。  同年代の医師たちが次のステップへ進む中、楓は一度立ち止まらざるを得なかった。  それでも今は、そう言える。 ただ、遠回りをしただけだ、と。 診察室に入り、デスクに置かれたカルテに目を落とす。  患者の名前、年齢、症状。  そこに並ぶ文字は、以前と何ひとつ変わらない。  変わったのは、自分の内側だけだった。 患者の話を聞くとき、楓は以前よりも静かに、深く耳を傾けるようになった。  不安や恐怖を抱えた表情に、必要以上に寄り添いすぎない。  けれど、決して突き放さない。  その距離感を掴めるようになったのは、きっと――自分自身が、誰かとの距離を間違えた経験をしたからだ。 カルテを閉じ、楓はふと心の中で呟く。 ――私はもう、自分の選択から逃げない。 誰かに委ねる人生ではなく、  誰かの言葉で決める未来でもなく、  自分で選び、迷い、責任を持つ人生を生きていく。 この先は、冬真と二人で支え合っていくのだ。 その名前を思い浮かべると、不思議と胸の奥が静かに温かくなった。  劇的な愛ではない。  言葉を重ねなくても、互いの立場や痛みを理解できる関係。  同じ方向を見ている、という確かな感覚。 廊下に出ると、向こう側から足早に歩いてくる影があった。  真琴だ。 忙しそうに
last updateÚltima atualização : 2026-02-15
Ler mais
ANTERIOR
1
...
121314151617
ESCANEIE O CÓDIGO PARA LER NO APP
DMCA.com Protection Status