Todos os capítulos de 静かな幸せは、裏切りの匂いがしたー医師・渡辺楓が選んだ、愛という名の代償ー: Capítulo 71 - Capítulo 80

166 Capítulos

第71話 夜風にほどける心

 公園を出るころには夕焼けが完全に落ち、街には涼しい夜風が流れ込んでいた。「はい、じゃあまずは駅前の“金の樽”行くでしょ? そのあと二軒目は――」「待て、真琴、最初から二軒目の話はやめろ」慎一は苦笑しながら言った。「だから言ったでしょ?今日は飲むの!笑うの!忘れるの!!」真琴は勢いよく振り返り、ぐっと拳を作る。「いや、忘れるって……そこまで酔いつぶれるつもりなの?」楓が笑った。「つぶれるのは楓!あたしと陽斗はフォローに回るから!」「なんで私なの!?」「だってさ……亮にあんな態度取られたら、普通は飲むでしょ」 真琴はわざと軽く言うが、楓の胸が少しだけ痛む。 しかしすぐに陽斗が柔らかい声で続けた。「大丈夫ですよ。僕もいますし。慎一さんもいるんですから」 陽斗の視線が慎一に向けられ、慎一は小さく頷く。「任せろ。楓が悪酔いしたら……背負って帰るくらいはしてやる」「背負わなくていい……!」楓は耳まで赤くしてそう言った。 そんな4人のやり取りを包むように、夜の風がひゅうっと吹き抜けた。 駅前の居酒屋「金の樽」は、昔ながらの木の扉が印象的な店で、 引き戸を開ければ、焼き鳥と出汁の匂いがふわっと鼻をくすぐる。「わー……うまそう……」楓の声が弾む。「まずは生ビール4つね!はい注文!」真琴は店員に声をかけ、即座にメニューを開いた。「お前、店員より店に馴染んでるな……」慎一が呆れながら言う。「この店ね、私と陽斗の行きつけなの」真琴は得意げに胸を張る。「へぇ、いいじゃん。真琴、嬉しそう」楓はくすっと笑う。「だってあたし、陽斗と来たらね、絶対ここで“幸せビーム”補給してんの!」真琴は陽斗の腕をぎゅっとつかみ、陽斗は少し照れた顔をした。「真琴さん、ビームとか……ふふ……」陽斗は苦笑しながらも満更でもない。「楓たちもやってみ?」真琴がにやにやと慎一を指で差す。「やらない!!」「やらねぇよ!!」 二人が揃って即答すると、真琴はテーブルに突っ伏して笑った。「ほんと仲いいんだから……」「……仲っていうか、お前が勝手に騒いでるだけ」「慎一……顔赤いよ?」「赤くねぇし」 楓はくすくす笑いながら、真琴の肩を軽く叩いた。「それよりさ、頼もうよ。お腹すいちゃった」「あ、そうだ!」真琴は注文端末を手に取り、怒涛の勢いでポチポチし始
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第72話

「しかしさ……今日のやつ、本当に嫌なやつだな、あの亜里沙って人」 陽斗が珍しく強めの口調で言った。「ああ、あれな……」慎一も低くうなずく。「楓、あんな言葉、真に受けんなよ」慎一がそっと目を向ける。 楓はビールのグラスを両手で包みながら、小さくうなずいた。「うん。ありがとう。もう大丈夫だよ」『もう大丈夫』その言葉が本心であることは、慎一には分かっていた。(強いな……やっぱり) 楓がひどい言葉を投げつけられても、誰かを責めるような顔を一度も見せなかった。(あんな扱いされて、涙のひとつでも見せてもおかしくないのに……) 慎一の胸に、言葉にならない感情がふわっと満ちる。 真琴は鍋の蓋を開け、湯気の向こうで笑っていた。「でもさ。楓があんな風に黙るなんて初めて見たわけよ。 だからムカついちゃってさ! ほら、あたしの楓に!」「真琴……あたしのって何……」楓は吹き出した。「楓はね、私の推しなの!!」「推しって……」「慎!!あんたも推しでしょ!?」「……まあ」「は!? 今なんて!?」楓が目をむき、真琴が机を叩いた。「いや、普通に……友達として、頑張ってるの知ってるからな」 慎一は淡々と言うが、その声には確かに温度があった。 楓はその言葉を聞き、胸の奥がじんと温かくなる。(慎……) 気づけば、亮と亜里沙が残していった重たい感情が、いつの間にか夜風に溶けていた。 店を出ると、夜の街は涼しく、酔いをやわらげる風が心地よかった。「はー……食べた飲んだ!!」真琴は満足げな顔で伸びをする。「お前が一番飲んでたよな……」慎一がぼそっと言った。「陽斗ぉ~帰れなくなったらおんぶしてねぇ~?」「はいはい……しますよ」 陽斗は呆れながらも優しい。 楓と慎一は並んで歩き、遠くで真琴と陽斗がじゃれ合う声が響いた。「……慎一、今日はありがとう」「気にすんな。俺も楽しかったからな」 慎一が横目で楓を見る。 楓も向き合い、自然と笑った。 街灯の下、その一瞬、どちらともなく視線が交わる。 言葉では言わないけれど―― 互いの存在が、確かに支えになっていると分かるような。 夜風が、2人の間をふわりと抜けた。(楓の負担にはなりたくないんだよな………) 慎一はそう静かに思った。 楓もまた、胸の奥で小さな灯を感じていた。「ほらー!二軒
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第73話  触れられた心の奥

 昨夜あれほど飲んだのに、不思議と楓の頭は重くなかった。 むしろ身体の奥に残る疲れが、やわらかな布団の温もりと混ざって溶けていくような心地よさがあった。 カーテン越しに朝の光が差し込み、白いレースがゆらりと揺れる。 遠くでは鳥の声がさえずり、休日の静けさがゆっくりと部屋を満たしていた。「……あ、もうこんな時間」 楓は眠気を払いながら布団から起き上がり、背筋をぐっと伸ばした。 昨日のバーベキューでの出来事が脳裏に蘇る。 亮と亜里沙の冷たい視線。 そして、胸を針で刺すようにざらつかせたあの言葉たち。 嫌な記憶のはずなのに、なぜか今朝は不思議と心が軽い。 慎一や真琴、陽斗―― あの三人が、自分の心に刺さった棘をそっと抜いてくれたのだ。『背負って帰るくらいはしてやる』 昨夜の慎一の言葉がふと胸によみがえり、楓は思わず布団を握った。 思い出すだけで、胸の奥がじんわり温かい。 けれど同時に、妙にくすぐったくて、頬が少しだけ熱くなってしまう。(慎、変なこと言うんだから……) そんなふうに一人で照れていたそのとき―― ピンポーン。 玄関のチャイムが軽い音を響かせた。「……え、誰?」 今日は誰とも会う予定もない。 寝起きの楓は少しだけ慌ただしく髪を整え、玄関を開いた。「おはよー! 来ちゃった!」 明るい声とともに立っていたのは、真琴だった。「え、真琴!? どうしたの?」「いや、暇だったから。楓今日も休みでしょ? 遊びにきた!」 ずけずけと靴を脱ぎ、勝手知ったる様子で部屋に入っていく。 相変わらずのフットワークの軽さに、楓は思わず笑ってしまった。 湯を沸かし、二人でハーブティーを淹れてソファに腰を下ろすと、自然に昨日の話になった。「でさぁ……昨日の亮と亜里沙、見たでしょ」 と楓が言うと、真琴は目を丸くし、すぐに吹き出す。「いやもう! 亜里沙のあの顔よ! なにあれ!? バーベキューの煙より黒かったから!」「やめてよ、真琴!」「ほんとあの子、性格が顔から漏れてるもん!」 二人でしばらく笑い転げたあと、楓はふっと話題を変えた。「そういえばさ、この前……救急に亜里沙が来たんだよ」 真琴が、ぴたりと動きを止めた。「は? 救急に? 何で?」「……便秘で」 一瞬の沈黙。 それから――「ぶはっ!!! ちょっ……えっ…
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第74話  揺れ始めた心と、気づかなかった想い

「……大学生のころからずっと、楓のことが好きだよ」 真琴の言葉が落ちた瞬間、楓の胸の奥で“何か”が強く跳ねた。  その衝撃は、まるで心臓の奥に小石を落とされたように、静かに、しかし確実に波紋を広げていく。「え……ちょ、ちょっと待って。真琴、それ……どういう……」 楓が動揺で声を震わせると、真琴は大きくため息をついてから、呆れ顔で言った。「どういうって……そのまんまよ? 慎はずっと楓のことが好きなの。昔から、ずーーっと」 真琴はわざと語尾を伸ばしながら、楓の肩を指でつつく。「でも慎って、告白とかそういうのは絶対しないタイプじゃん。楓が困ってたら手を貸すし、悲しんでたら黙ってそばにいるけど……ほら、慎ってそういうやつでしょ? 押しつけがましくしない」 楓の胸が、ぎゅっと熱くなった。 確かに――いつも慎一はそうだった。  あのときも、大学の卒業式の日も。  泣いて泣いてどうしようもなかったあの日も。 慎一はそばにいるだけで、何も言わなかった。  ただ、隣で肩を貸してくれた。 思い返せば、いつだって自分が落ち込んだ時に最初に思い浮かぶのは慎一だった。  亮と亜里沙を見てしまった日も。  外科に戻るか迷っていたときも。  救命の帰りに泣きそうになった夜も。(……あれって……全部……) 楓は胸に手を当てて、息を整えた。 すると真琴は、楓の表情をじっと見つめて、にやりと笑う。「ねぇ楓、聞くけどさ。慎のこと、ただの“昔なじみ”だと思ってる?」「……わかんないよ……そんな急に言われても……」 自分でも驚くほど声が弱かった。  逃げ腰なのではなく――心に触れられるのがこわいのだ。 真琴は肩をすくめた。「まあ、慎一って慎重だしね。楓が幸せになれるなら、それでいいって顔してきたんだよ。ずっと、ずーーっと」「……そんな……」「でもさ?」  真琴はにやっと微笑み、目を細めた。「昨日の慎、見たでしょ? もう隠してないと思うけど?」 昨日――  バーベキュー場で、楓が立ち尽くしてしまったとき。  亮と亜里沙の冷たい言葉に胸が沈んだとき。『背負って帰るくらいはしてやる』 あの言葉。  あの声の温度。  あの、そっと支えるような目。 思い出すだけで、楓の胸はまた熱を帯びた。 真琴はそんな楓をしっかり見つめ、ゆっくり言葉を続
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第75話 揺れ動く楓の心

 真琴が帰ったあと、楓はしばらくソファに座ったまま動けなかった。  玄関の扉が閉まった音はとうに消えているのに、妙に部屋が静かすぎて、自分の鼓動だけがやけに大きく響いているような気がした。 胸の奥で、さっきまでとは違う種類のざわめきが続いていた。  真琴が言った言葉が、まるで残響のように何度も蘇る。 ――慎が、昔から……? その言葉が脳裏を掠めるたび、胸がふわりと熱くなる。しかし同時に、信じられない気持ちも押し寄せてくる。 本当に、そんなはずが――。 思わず首を横に振る。それでも真琴があれほど自信たっぷりに、迷いなく断言していた姿は頭から離れなかった。  真琴は冗談を言うタイプじゃない。変な気を利かせて適当なことを言う人間でもない。  だからこそ、楓の心は妙にざわついていた。 大学の頃の記憶が、ふっと浮かぶ。 徹夜明けの試験前。  カフェの隅で教科書を広げながら、まぶたが勝手に落ちてきてどうしようもなくなっていたとき。  目の前にそっと紙コップが差し出された。 「ほら、飲め。砂糖もミルクも入れてあるから」  あのとき、慎一は自分の勉強もあるはずなのに、当たり前みたいに隣に座ってくれた。 失恋した夜。  泣くつもりなんてなかったのに、どうしても涙が止まらなくて。  何も言わず、ただそばにいてくれた。  あの静かな優しさがどれほど心に沁みたか、今でも覚えている。 引っ越しの日も、仕事で疲れて帰った日も。  何かあれば、気づけばいつも慎一がそばにいた。(あれって……全部、そういう気持ちがあったから?) 心に浮かんだ問いは、温かいのに痛い。  気づかなかったのか、それとも気づかないふりをしていたのか。  どちらなのか、楓自身にもわからなかった。 そのとき、携帯が震えた。  胸が一瞬びくりと跳ねる。  画面を見ると「慎一」の名前。 まるで、思っていた瞬間に呼び出されたみたいで、楓の指先はわずかに震えた。 「……もしもし」『起きてたか? 昨日、飲みすぎたかと思ってさ』 いつもと変わらない、落ち着いた慎一の声。  なのに、その声が妙に胸を締めつける。「あ、ううん。大丈夫。真琴が来てて、ちょっと話してた」『そっか。なら良かった』 短い沈黙が流れる。  けれどその沈黙は、なぜだか普段より重たく感じた。  慎
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第76話 突きつけられた非日常

 午前10時。  楓は外来のカンファレンスルームで、担当医たちと症例の共有をしていた。  昨日の慎一との電話が頭から離れず、医師としての表情の裏で、胸の奥に静かなざわめきが残っている。けれど仕事中はそれを切り替えるのが楓の常だった。「次、12時に緊急の造影CTが入ります。楓先生、立ち会いお願いします」「わかった」 その瞬間――  ズドン、と腹に響くような鈍い揺れが院内を貫いた。 壁がきしむ音。  蛍光灯が揺れ、カップの中のコーヒーが跳ねて机にこぼれる。「地震――!」 看護師の叫び。  次の瞬間、さらに大きな揺れが襲ってきた。 楓は素早くテーブルの下に身を滑り込ませた。  揺れは収まる気配を見せず、建物がミシミシと鳴り続ける。(大きい……! 震度5か、それ以上かもしれない) 照明の一部が消え、天井のタイルがぱらりと落ちる。  研修医が怯えた顔で楓にしがみつきそうになり、楓は落ち着いた声で言った。「大丈夫、建物は耐震。揺れが収まったらすぐに患者を確認しに行きます」 やがて、緊急地震速報のアラームが少し遅れて鳴った。  揺れが静まるのとほぼ同時に、院内アナウンスが響く。『本日10時05分頃、大きな地震が発生しました。院内スタッフは至急、患者の安全確認を行ってください』 楓は立ち上がると、白衣の埃を払い、すぐに走り出した。  廊下には不安げに立ちすくむ外来患者、点滴のスタンドを抱えたままの高齢者、泣き叫ぶ子ども。 そのとき――  救急外来の方向から、怒号のような声が押し寄せてきた。 ガラガラ、と自動ドアが開く音。  救急隊員の声が響く。「多発外傷6名! 至急、処置室を空けてください!」「倒壊現場からさらに搬送予定です! 最低でもあと10名以上!」 瞬時に戦場のような雰囲気に変わった。「楓先生! 重症患者が3名きます!」「了解、処置室1を使用。CTの緊急枠確保して!」 楓は走る。  心臓は早鐘を打つが、頭は一気に医師としての冷静さに切り替わっていた。  緊急時の判断こそ、楓が最も得意とするところだった。 処置室1に駆け込むと、既にストレッチャーが続々と運びこまれていた。  血まみれの男性、意識朦朧の女性、崩れた建物の下敷きになっていた少年。「先生! 血圧70台です!」「すぐにライン確保、ルート大きめ
last updateÚltima atualização : 2026-01-23
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第77話 溢れ出す悲鳴と白衣の戦場

 救急外来はすでに通常の三倍以上の患者でひしめき合っていた。 玄関前のロータリーには救急車がずらりと並び、その赤色灯が絶え間なく光を回し続けている。 ストレッチャーで運び込まれる負傷者、パニックで泣き叫ぶ子ども、瓦礫に巻き込まれて血まみれになった大人たち――次々と押し寄せる人の波は、災害の深刻さを雄弁に物語っていた。 院内の空気は張り詰め、どこもかしこも悲鳴と怒号と必死の声で埋め尽くされている。 まるで巨大な屋内市場が同時に崩れたかのような混乱。 だがここは病院であり、誰もが命にかかわる“理由”を抱えている。「搬送者、まだ来ます! 指示お願いします!」「処置室のベッドが足りません!」「親とはぐれた子が3人……!」 看護師たちの声が交錯し、楓の耳に次々と飛び込んでくる。 楓は額の汗を手の甲で乱暴に払い、深く息を吸おうとするが、それすらうまくできなかった。 余震がまた建物を微かに揺らし、どこかで「キャッ!」と患者の悲鳴があがる。 天井のライトがわずかに揺れ、室内に緊張が走った。「落ち着いてください! 安全です! 大丈夫!」 楓は大声で周囲に呼びかける。 しかし、“大丈夫”と言いながらも、楓自身の心は決して落ち着いてはいなかった。 胸の奥はざわつき、手は汗ばみ、判断速度を落とすことだけはすまいと、必死に気を張り続けていた。(こんな規模の災害……久しぶりだ……) 震源は市内でもきわめて近い。 そのせいで、被害も負傷者も一気に押し寄せているのだ。 救急隊員が状況を叫びながら走り回る。「建物崩壊が複数箇所! 火災も発生! 搬送要請が止まりません!」「ドクターヘリは?!」「強風で一時離陸不可とのことです!」 悪い知らせばかり。 状況は刻一刻と悪化している。(このままじゃ足りない……人も、時間も……) 楓の脳はフル回転し続けた。 そのとき、看護師の悲鳴に近い声が飛んだ。「楓先生! この子、呼吸が弱いです!」 楓はすぐにかがみ込む。 瓦礫に挟まれていたらしい小学生の男の子だ。 泥と傷で顔が汚れ、涙と汗で頬が濡れている。 胸郭の動きは浅く、皮膚はどこか青白く、指先は冷たい。「すぐに酸素、準備! サチュレーション測って!」 看護師が震える手で機器を装着する。「SpO₂……78%です!」(まずい……) 楓は瞬時に
last updateÚltima atualização : 2026-01-24
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第78話 崩れていく街、崩れない覚悟

 ロビーは、まさに現実とは思えないほどの地獄絵図と化していた。 地震発生からまだ一時間も経っていないというのに、病院の中心であるはずの場所は、まるで爆発事故の後のように乱れきっていた。天井から落ちたパネルは粉々になり、割れたガラス片が床一面に散乱し、踏みしめるたびに細かく砕ける。焦げたような匂いや、埃と血の混ざった生々しい臭気が充満し、空気が重たく喉に張りつく。 その下で、倒れ込んで動けない患者たちが呻き声を上げ、看護師やスタッフが必死の表情で駆け寄り、一人でも多く救おうとしている。「楓先生、こちらです!」 切羽詰まった看護師の叫びに、楓は振り返ると同時に駆け寄った。 そこには、血を流した女性がうつ伏せに崩れ落ちていた。髪は血で束になり、床は赤く染まりつつある。周囲の蛍光灯が揺れ、影が彼女を不気味に照らしていた。「血圧は?」「測れません! 意識レベル低下!」 看護師の声は震え、片腕にはガラスで切った傷があり血が滲んでいた。それでも動きを止めない姿に、楓は短い肯定を心の中で送る。(急がなきゃ……出血量が多すぎる。このままじゃ……) 楓は膝をつき、素早く女性の頭部を両手で固定しながら呼吸を確認した。 女性の胸はかすかに上下しているが、聞こえる呼吸は浅すぎる。「気道は……通ってる。出血量が多い、止血!」 看護師が急いでガーゼの束を差し出し、楓はそれを躊躇なく圧迫に使う。血がガーゼを瞬く間に濡らし、赤黒く染めていく。それでも諦めるわけにはいかない。「救急カート、すぐ! 処置室へ搬送する!」「ストレッチャーは既に満杯です! ベッドに運べていません!」「じゃあ手で運ぶわよ! 男性スタッフ呼んで!」 楓は声を張り上げ、その声には強制力が宿っていた。混乱の中で散らばっていた視線が一斉に楓へ向き、瞬時に作業が進む。それは“医師としての楓”を全員が知っているからこその動きだった。 その瞬間―― 地面の奥深くから、低く唸るような音が響き、次の余震が突き抜けた。 ロビーが横揺れし、壁が悲鳴をあげる。天井の梁がきしみ、粉塵がぱらぱらと降り注ぎ、患者たちの悲鳴が重なる。「楓先生、危ない! 離れて!」 スタッフが叫ぶが、楓は振り返らない。 目の前の命以外、視界に入らなかった。「この人を動かす方が先よ! あと少し!」 揺れで身体がよろめきながらも
last updateÚltima atualização : 2026-01-24
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第79話 静まらない鼓動、続く使命

 地震発生から数時間が経った。だが病院内には、まだ余震の記憶が震えとして残っていた。 とくに救急ロビーは、先ほどの惨状がそのまま焼き付いたように、粉塵と血の匂いがまだ消えない。 天井が大きく崩落したその場所では、危険が大きすぎるため、応急処置を終えた医療スタッフ以外の手によって、黄色のロープが素早く張られ、立入禁止の措置が取られた。 その一方で、病院全体は訓練で培った動きが本能的に発揮されていた。夜間救急入口の前には、即座に白いテントが設営され、そこが新たな受付・トリアージエリアとなった。 照明が設置され、救急隊員と看護師が連携して患者を振り分け、次々と運び込まれる負傷者がそこに列を作っている。 やがて、他の科の医師たちが続々と応援に駆けつけた。 中には研修時代に救命の経験を積んだ医師も多く、状況を一目見るなり動き方を理解し、すぐに現場へ飛び込んでいく。外科医、循環器内科、形成、麻酔科――普段は別々の場所で働く医師たちが、一つのチームのように動き始めていた。「楓先生、休憩してください。あとは私たちがやります」 救命の現場を見たことのある若手医師が、血のついたマスク越しに真剣な目を向けて言った。 楓がその場から離れることを申し訳なく思っているのが伝わる。だが同時に、楓の体力が限界に近いことも彼らは理解していた。 楓は短く頷いた。 その瞬間、張りつめていた緊張がわずかに緩み、全身がどっと重くなった。 休憩室に戻ったときには、病院の窓の外はすでに真っ暗だった。 時計を見ると、針は夜の10時をゆうに回っている。 震災が起きたのは夕方近くだったはずなのに、もう何十時間も前の出来事のように感じられた。 休憩室のテーブルには、誰かが用意してくれたおにぎりがいくつか並んでいた。横には紙コップに入った温かいコーヒー。砂糖の袋も数個置かれている。 楓は椅子に腰をおろし、コーヒーにいつもの倍の砂糖を入れた。スプーンでかき混ぜる音が、静けさの中でやけに大きく響く。 ひと口飲むと、甘さが身体の隅々まで染み渡るようだった。(……生き返った~……) そう思った瞬間―― ぐぅ、とお腹が大きな音を立てた。「……こんな時でも、お腹は空くんだ……」 思わず自分で苦笑しながら、おにぎりをひとつ手に取った。海苔がしっとりしていて、誰が握ってくれたのかはわからない
last updateÚltima atualização : 2026-01-24
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第80話

 楓は慎一の声を聞いて、まずは怪我がないと確認できたことにほっと胸を撫で下ろした。だが、安心したのも束の間、医療者としての本能がすぐに状況把握へと切り替わる。「被害状況はどうなってるの?」  楓は、休憩室の簡易ベッド座り、落ち着いた声で問いかけた。 慎一はスマホとテレビのニュースを交互に見ながら、深く息をついた。画面には繰り返し地震速報や現場映像が流れている。「古いビルや家の倒壊はあるけど、他はわりと落ち着いてるみたいだよ。過去の震災の経験から、最近建てられた建物は耐震もしっかりしてるし、特に倒壊まではしてないって。専門家も言ってた。」 その言葉に、楓はゆっくり頷いた。 「そうね……揺れた時間帯も関係してるのかも。朝の10時だったし、通勤や移動中に転んだり、階段でつまずいたりした人が多かったのかな。生命に関わるような重傷患者も少なかったし……」 ふと、楓はロビーの光景を思い出して言葉を続ける。 「古いビル……ここも古いからなのかな。ロビーの天井が一部落ちて、けが人が出たのよ。」「ロビーが?」  慎一の目が大きく開かれた。驚愕の色がはっきり浮かび、すぐに視線が楓へと向かう。 「楓は? 本当にケガしてない? 危なかったんじゃないの?」 楓は心配する慎一の様子に、ほっとするような、ちょっとくすぐったいような笑みを浮かべた。 「私は大丈夫よ。ずっと治療で走り回ってたから、むしろ……おなかがすいて倒れそうってくらい。」 その軽口に慎一は苦笑しつつ、安堵したように肩の力を抜いた。「慎は大丈夫だったの?」  今度は楓が尋ねる番だった。「オレの事務所も家も、特に被害はなかったよ。強いて言えば……六法全書とか判例集とか、あの分厚い本が床に散らばってたくらいかな。」 淡々と答える慎一に、楓はすぐ真剣な声で突っ込む。 「それ、頭に当たんなくてよかったわね。本当に危ないんだから。」「いや、ほんとに。地震の瞬間、頭抱えてしゃがんでたからね……」  慎一がそう言いかけた時、慌ただしい足音が廊下から響いた。「楓先生!!」  焦り気味の看護師が駆け込んできた。 「もし手が空いてたら、手伝ってほしいと速水先生が……!」 楓は瞬時に表情を引き締め、立ち上がった。 「わかった、すぐ行く!」 そして振り返りざま、早口で慎一に言う。 「慎、真琴に無事
last updateÚltima atualização : 2026-01-25
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