男は社長席に深く腰掛け、短く答えた。「好きにしろ」その反応に、梓紗の声は明らかに弾み、口数も増えた。「じゃあ挙式までもう時間がないし、入社の手続きもあるから、急いでいろいろ買い揃えなきゃ。そうだ、明弘。今夜、一緒に食事できる?ついでに和紀に謝りたくて。昨夜は感情的になって、あの子を怖がらせちゃったかもしれないから」明弘の視線が、ようやく一瞬だけ彼女に向けられた。ただ淡々と、彼女を見据えている。梓紗はその視線に、妙な胸騒ぎを覚えた。「その必要はない」「まさか、私が和紀に何かするんじゃないかって心配してるの?」梓紗は呆気に取られ、眉をひそめた。「本当に、ただ謝りたいだけよ」「必要ないと言ったんだ」明弘はサインし終えた万年筆をデスクに放り投げた。「言ったはずだ。約束したものは与える。それ以外は求めるな、梓紗」彼は立ち上がり、部屋を出て行った。梓紗はその場にへたり込み、しばらくの間、明弘の言葉の意味を反芻した。すがるような目で、残された政彦を見た。「ねえ……明弘のさっきの言葉……どういう意味?」和紀に謝る必要がないとは、どういうことなのか。政彦は静かに頭を下げた。「明弘様のお考えは、私たちごときには分かりかねます」梓紗の脳裏に一つの答えが浮かんだが、それを認めるのが怖かった。結婚はする。約束した地位も金も与える。だが、和紀との親子関係の構築は必要ない。なぜなら、あれは彼の息子であり、梓紗の子ではないからだ。そして今回の結婚は、単なる形式に過ぎないのだと。得体の知れない恐怖がこみ上げ、梓紗はぎゅっと目を閉じた。*天候は回復し、気温も随分と上がってきた。また夜勤明けの朝方、奈々美がパンをかじりながら給湯室へ向かうと、ちょうど戻ってきた澄玲の弟・志村勇人(しむら はやと)と鉢合わせした。奈々美の記憶にある姿とは、随分違っていた。あの頃は元気いっぱいな少年だったが、今は痩せこけて肌も焼け、かなりの苦労をしてきたようだった。姉の苦しむ姿を見た直後なのだろう、目を赤くしていた少年は、顔を上げて彼女に気づき、呆然とした。「……奈々美姉さん?」奈々美は黙って頷いた。深夜、病院の廊下は静まり返っていた。そのため、この少年が数時間もの間、あちこ
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