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100 Chapters

第91話

電話が繋がらないため、真由紀は別荘へと足を運んだ。リビングへ入ると、梓紗がソファに沈み込み、すっかり萎縮している姿が目に入った。真由紀はもどかしさを必死に抑え、玄関に立ち尽くしたまま、長い間黙って彼女を見つめた。ようやく絞り出すように名を呼ぶ。「……梓紗」梓紗は心ここにあらずといった様子で、顔を上げることすらしなかった。「……お母さんも、私を責めにきたの?」その投げやりな口調に、真由紀は眉をひそめた。「母親が娘を叱らずに誰が叱るの。私が手放しで喜ぶようなことをしたとでも思っているの?梓紗、あなたを留学させたのは教養を身につけるためであって、こんな汚らわしい騒ぎを起こさせるためじゃないわ。桑原家の名に泥を塗るつもり?私たちの顔を潰す気なの?」「結局、お母さんは桑原家の世間体が大事なだけじゃない」梓紗は今にも壊れそうだった。「そんなに私が嫌なら、奈々美を呼び戻せばいいわ。どうせあの子は綺麗で清廉潔白で、一点の曇りもない完璧なお嬢様なんだから!」真由紀の顔色が変わった。「梓紗!」「何よ、間違ってる?お母さんが奈々美に会いに行ったことくらい、知ってるんだから!」梓紗は鼻で笑った。「あっちの娘の方が可愛くて、私が役立たずだと思うなら……最初から認めなきゃよかったじゃない」真由紀は深く息を吸い込んだが、あまりのショックに呼吸が整わず、激しい眩暈に襲われた。「……奥様!」執事と使用人が慌てて支えに入る。梓紗はそこでようやく自分の言葉が過ぎたことに気づき、慌てて立ち上がって手を貸そうとした。真由紀はその手を冷たく押し退け、顔に深い疲労を滲ませた。「……もういいわ。今日、余計な干渉をしに来た私が間違いだったようね。しっかり休みなさい。ここ数日は一歩も外に出ないこと。外の噂は、明弘が始末してくれるでしょうから」梓紗は呆然とした。「噂?何の噂」「あんなに堂々と店で男と関係を持って、口さがない連中が黙っていると思ったの?今や社交界では誰もが知っているわ。あなたを笑い、明弘を笑い、桑原家を嘲笑っているのよ」梓紗は石のように固まった。真由紀は重いため息をつき、背を向けて去っていった。車がビジネス街の中心に差し掛かった時、真由紀は後部座席の窓から、オフィスビルから出てくる一団を眺めていた。
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第92話

裁判所から奈々美のもとに、正式な受理の通知が届いた。明後日には、提訴が可能になる。非嫡出子の出生証明書、そして八年間にわたる別居の事実。たとえ明弘が離婚を拒もうと、ほぼ間違いなく法的に認められるはずだ。その日、奈々美は夜勤に入っていた。ふと疲れからあくびを漏らした瞬間、稔から電話がかかってきた。「何か食べたいものはある?」彼も今しがた退勤したばかりだろう。奈々美は回転椅子をくるくると二回回し、ようやく思いついた。「鍋焼きうどん……がいいかな」「俺が作ろうか?」「いいえ、路面店ので十分。無理しないで」稔の料理は絶品だが、一日中事務所で働いてきた彼に、これ以上の負担はかけたくなかった。そんなの、彼を搾取しているようで気が引ける。電話を切ると、奈々美は定例の回診へと向かった。一方、稔はスーパーに立ち寄って材料を買い込み、文苑レジデンスに戻ると手際よくうどんを煮込み始めた。出来上がった熱々のうどんを保温弁当箱に詰め、病院へ届ける準備をする。夜道は冷える。稔は主寝室へ向かい、奈々美の厚手の上着を持っていこうとした。ついでに洗濯機に残っていた服をベランダに干す。その視界の隅に、吸い殻が山盛りになった「灰皿」が入り込んだ。奈々美は滅多にタバコを吸わないが、極度のストレスを感じた時にだけ、数本吸ってしまうことがある。稔はそれを見て、静かにため息をついた。片付けようとして近づき、それが灰皿ではないことに気づく。――それは、新品の陶器製の男性用腕時計のトレイだった。さらに、漂っているのは奈々美が吸うような軽い銘柄ではない。きつく、重い、いかにも男が好むタバコの匂いだ。稔はあの夜の電話越しに受けた、あの男からの挑発を思い出した。弁護士として、彼らを離婚させる手立てなどいくらでも持っている。だが、奈々美と約束した。この件は、奈々美自身の手で決着をつけると。彼女自身の手で過去を清算してこそ、心のしこりは本当に解けるのだ。稔は無残な灰皿代わりのトレイを見下ろし、これもまた、あの男による「所有権の主張」なのだと理解した。だが、残念だったな。稔はその挑発には乗らなかった。彼はトレイをきれいに洗い、タバコの臭いを完全に消し去ると、自分の腕時計を一つ一つ丁寧に並べ、玄関の最も目立つ場所に
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第93話

奈々美は、冷めた無表情を崩さなかった。明弘が何を企んでいるにせよ、離婚以外の選択肢は存在しないはず。調停員が入室し、双方の証拠がデスクに広げられた。「桑原さん、申し上げにくいのですが……相手方から昨日提出された新たな証拠書類、並びに答弁書を精査いたしました。その結果、お二人の状況は、法的な離婚事由である『婚姻を継続し難い重大な事由』、つまり『婚姻関係の破綻』には該当しないとの見解に至りました。また、あなたが不貞の証拠、すなわち非嫡出子だと主張されている荒井和紀君についてですが……彼は養子縁組の手続きを経て、正式に荒井明弘氏の戸籍に入っています。法的には嫡出子と同等の扱いとなり、これをもって『不貞行為の証拠』とすることは極めて困難です。つまり、相手方が離婚に合意しない限り、裁判に持ち込んだとしても、あなたの請求が認められる可能性は極めて低いということです」奈々美はゆっくりと瞬きをした。確かに、明弘の手口を……あるいは「権力」というものの恐ろしさを、完全に見くびっていた。金と権力があれば、解決できないことなどない。十分な力さえあれば、実の息子を赤の他人に書き換えることなど造作もない。だが……「……八年間の別居は事実です。これでも『破綻』していないと言うのですか?」「そこなんです、桑原さん」調停委員は、相手方――明弘の弁護士から提出された分厚いファイルを奈々美の前に差し出した。「相手方には過去八年間、クロックタウンへの膨大な渡航記録があり、現地であなたと頻繁に接触し、夫婦としての交流を続けていたことを示す証拠の連鎖が存在します。これでは、法的には『単なる単身赴任』や『別居婚』と見なされ、『別居による関係の破綻』とは認められません」奈々美は信じがたい思いで書類を奪い取り、その内容を凝視した。2017年11月6日、12時。雁取発クロックタウン行き……2018年6月3日、07時。北城発クロックタウン行き……2019年3月7日、06時。雁取発クロックタウン行き……2019年11月6日、03時。雁取発クロックタウン行き……実在する航空券の記録。こればかりは偽造などできない。照会すればすぐに露見するからだ。つまり、明弘は本当に、何度もクロックタウンを訪れていた。この八年間、ずっとだ。奈
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第94話

奈々美は、すぐには会いに行かなかった。まずは稔の居場所を確かめようとした。だが、何度かけても電話は話し中のままで、一向に繋がらない。秘書の番号にもかけてみたが、結果は同じだった。時間は静かに過ぎていく。レクサスの車内には、微かに香水の匂いが漂っていた。明弘が好んで乗るせいか、彼自身の匂いによく似ている。長く嗅いでいると、胸が詰まるような閉塞感に襲われた。電話が繋がらないまま、奈々美は後部座席でじっとしていた。途中、政彦が車を降りてコーヒーを買ってきた。カイロ代わりの、温かい缶コーヒーだ。「奈々美様」政彦は急かすような素振りも見せず、低い声で言った。「これを飲んで、少し温まってください」奈々美は目を開けて彼を見た。政彦はもともと、真由紀が奈々美のために雇った秘書だった。最初は、彼女がグループの基本業務をいち早く覚えられるようサポートするはずだった。だが、奈々美は大学で臨床医学の道を選び、卒業後も病院へ行くことしか頭になかった。経営の仕事には、一ミリの興味も示さなかった。そうして時が経つにつれ、この秘書は明弘と奈々美の二人で共有する形になった。今はもう、何もかもが変わってしまった。奈々美はしばらく黙っていたが、かつての情に訴えるように切り出した。「大谷さん……私たち、付き合いも長いわよね」「ええ、長くなりますね、奈々美様」政彦は相変わらず、隙を見せない。「ですが、私はただの秘書です。余計なことは何も存じません」忠実に仕え、職務を全うする。政彦が明弘を裏切ることはない。たとえ、相手がかつての主である奈々美であっても。「……まだ、何も聞いてないわよ」「何を聞かれましても、お答えできることはございません」「じゃあ、明弘が稔に何をしたかくらいは言える?」「それは、なおさら申し上げられません。奈々美様」奈々美は目を閉じ、シートに深くもたれかかった。息苦しさに耐えかねて窓を開け、冷たい風に当たりながら、刻一刻と濃くなっていく夕闇を眺めた。「……分かったわ。出して」ひどく投げやりな、乾いた口調だった。政彦は気を利かせて車内の暖房を強め、新入りの運転手に車を出すよう指示した。向かう先は、明弘の元だ。「待って」奈々美が不意に目を開けた。「……コンビニに寄って
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第95話

かつてはあんなに馴染みのあった場所なのに、今こうして立つと、やはりその威圧感に気圧されそうになる。奈々美は再びこの場所へ足を踏み入れ、一歩一歩絨毯の感触を確かめながら奥へと進んでいった。彼女自身は地味な装いだったが、隣を歩く政彦が嫌でも周囲の目を引いた。明弘の専属秘書である彼が、自ら出迎える相手など滅多にいない。梓紗でさえ、政彦が迎えに出ることはなかった。社員たちは次々と足を止め、この地味な格好をした女性が一体何者なのかと、探るような視線を送った。エレベーターに乗り込むと、数人の古参社員が奈々美の正体に気づいた。しかし声をかける勇気などはなく、ただこっそりと何度も盗み見るのが精一杯だった。髪をすっきりとまとめ上げた奈々美は、以前よりずっと細く、華奢に見えた。かつて頬にあったあどけない丸みは削げ落ち、今の彼女はどこか冷ややかで、静まり返った空気を纏っている。際立つ白い顎のラインと、白鳥のようにしなやかな首筋。ムートンのロングブーツに、履き心地の良さそうな裏起毛のストレートパンツを合わせている。その瞳には何の感情も宿っておらず、ただ静かだった。しばらく彼女を見つめて、ようやく確信した。本物の奈々美お嬢様だ。奈々美と梓紗、「本物と偽物のお嬢様」を巡る噂は、社内でも公然の秘密となっていた。壁に耳あり、障子に目あり。ましてや生身の人間二人が、自分たちの目の前ですり替わった。今、梓紗もまだ上の階にいるはずだ。両雄並び立たず。ひとたび顔を合わせれば、一体どんな大嵐が巻き起こるか、分かったものではなかった。チーン――エレベーターが目的の階に到着し、ドアが開いた。奈々美は政彦に促されるまま、会議室の隣にある小部屋へと向かった。そこはマジックミラーで仕切られた部屋だった。こちらからは会議室の様子が手に取るように見えるが、向こうからはこちらの姿は一切見えない。明弘が時折、密かに使う場所だ。政彦は一礼して退室し、ドアを閉めた。奈々美は用意された椅子に座り、会議室の主賓席に座る明弘をじっと見つめた。二人の間には、マジックミラーの壁が一枚、そして会議用テーブルが一つあるだけだ。それなのに、まるで一つのテーブルの対極に座っているかのようだった。向こうでは社員が報告を続けている。明弘は端然と座り、手
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第96話

突然、明弘はこの会話を打ち切りたくなった。そして、実際にそうした。彼はベランダへ向かい、タバコに火をつけた。その姿は陰に隠れ、斜めに落ちる影が、急激に重苦しい圧迫感を放ち始める。長い沈黙の末、静かで落ち着いた彼の声が、わずかにざらついた響きを帯びて届いた。「……今のところ、お前の『稔』には何もしていない」「嘘を吐かないで」明弘は一瞬、自嘲するように笑った。彼は横を向き、奈々美を射抜くように見つめる。「もし本当に俺が彼に手を出していたら、お前が持っているナイフは、今頃俺の腹を貫いているだろう?」奈々美は言葉を詰まらせた。「……でも、電話が繋がらない」「遠ざけなければ、お前はここに来ないだろう?」明弘はタバコの灰を落とした。青白い煙が虚空に散っていく。「言ったはずだ、『今のところ』だと。この先どうするかは、俺にも分からない」奈々美は、事態が完全に詰んでいることを悟った。本気で、明弘という毒に絡みつかれてしまった。最初の離婚合意から今日まで、何度も脅され、何度も約束を反故にされてきた。これからもこうして、彼の手のひらで弄ばれ続けるのかもしれない。明弘が首を縦に振らない限り、離婚を阻む手立てなど、彼にはいくらでもある。奈々美は心底疲れ果てていた。明弘が何を望み、何を企んでいるのか、もはや理解の範疇を超えていた。ただ「会いたいだけ」という単純な話ではないことだけは、痛いほど伝わってくる。「明弘、腹を割って話しましょう」彼女の肩が力なく落ち、声には隠しきれない疲労が滲んだ。「何が欲しいの?望むものをあげるから、それで最後にして……私を解放してよ、ねえ?」再び明弘に問いかけた。何が目的なのか。なぜ、ここまで執拗に離婚を拒むのか。明弘の思考もまた、時を追うごとに研ぎ澄まされ、明確になってきているようだった。単に諦めきれないだけではない。独占欲や肉欲だけでもない。自分が奈々美から何を奪い返したいのか、はっきりと自覚していた。うだるような真夏、彼女が買い溜めた大きなアイスクリームのカップを開けるたび、最初の一口を必ず自分にくれたこと。学校で初めて生理が来たとき、真っ先に自分に電話をよこし、震える声で「お腹が痛くて死にそう」だと泣きついてきたこと。あのとき、黒糖
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第97話

奈々美はそのまま歩き続け、彼の言葉に足を止めることはなかった。「どうしてあんたなんかに脅されなきゃいけないのよ」「脅迫だと思わなければいい」明弘の声は静かだった。「俺を愛せば、そんな風には感じなくなるはずだ。かつて俺を愛していた時も、お前は幸せだっただろう?」その視線は重くのしかかるが、どこか淡々としていて、まるで普通に夕飯の相談でもしているかのようだった。奈々美は怒り心頭に発して、部屋を飛び出した。あまりの憤りに、あの小さなナイフさえ忌々しいとばかりに床に投げ捨てていく。一秒でも長く同じ空気を吸っていれば、彼の偏執的な狂気が自分にまで伝染しそうだった。去り際、彼にたった一言だけ強烈な罵声を浴びせた。それは間違いなく、明弘がこれまでの人生で耳にした中で最も汚い言葉だった。だが奈々美は、その言葉をあまりに流暢に吐き捨てた。おそらく心の中で、あるいは人知れず、何度も何度も彼を罵り続けてきたのだろう。奈々美が嵐のように去っていくと、入れ違いに空気の読めない人物が現れた。梓紗はもともと気が立っていたが、奈々美が来たことを聞きつけ、実際に明弘のオフィスから出てくるのを目撃して、ついに怒りが決壊した。「離婚できるって言ったじゃない!どういうつもりよ!」彼女は猫を被るのも忘れ、奈々美に詰め寄って声を潜めて詰問した。あんなに苦労して手に入れた出生証明書を渡したというのに、この女は何をしているのか。奈々美は無視して歩き続けようとしたが、梓紗がその袖を掴んで放さない。「……どきなさいよ」奈々美はその手を振り払い、その場にいる全員に平等に毒を吐いた。「あんたも、どいつもこいつも救いようのない馬鹿ね」罵られた梓紗が言い返す間もなく、奈々美はそのまま立ち去っていった。*奈々美が去った後、政彦が入室して床のナイフを拾い上げた。明弘はまた新しいタバコに火をつけていた。今日、あの追加資料も政彦の手によって元の場所へ戻された。クロックタウン行きのフライト記録はすべて本物だ。そして、あの数枚の写真も。七、八枚ある奈々美の隠し撮り写真は、毎年政彦が彼女の居場所を突き止め、撮影して送ってきたものだ。明弘は八年間、ことあるごとに奈々美を思い出していた。特に彼女が去った直後は、寝ても覚め
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第98話

あの日、明弘は奈々美を病院へと運び込んだ。医師の見立ては芳しくなかった。肉体的にも、そして精神的にも。彼女の体は、肺結核にまで蝕まれていた。明弘は背中で手を組み、病床の傍らに佇んで、月明かりに照らされた彼女を見つめていた。奈々美が逃げ出して以来、初めてその顔をまじまじと見た。蒼白で、ひどく疲れ果て、別人のようにやつれ果てている。誰がどう見ても、かつて蝶よ花よと慈しまれて育ったお嬢様だとは気づかないだろう。あの子を宿し、親しみを込めて自分の名を呼んでいた、あの「桑原家の令嬢」だとは。彼は医師に万全の治療を命じた。そして椅子に腰掛け、一晩中、身じろぎもせずそこにいた。夜が明けてようやく、どうしても外せない公務のために一度席を外した。その日の朝に戻ると、奈々美が逃げ出したという知らせが届いた。政彦が、すぐに連れ戻すかと尋ねた。明弘は立ち尽くし、彼女が眠っていた痕跡が残るベッドをじっと見つめてから言った。「……その必要はない」できること、すべきことはすべてやった。本人が去りたいというのなら、もう引き止めはしない。役に立たなくなった駒に、過度な執着は持たない。奈々美のことで、これ以上自分の心を乱すつもりはなかった。あの時の明弘は、確かにそう決めたはずだった。その夜、雁取へ戻った明弘は、それでも人を使って彼女の行方を探らせた。ただし詳細な報告は禁じ、ただ「生きているか死んでいるか」だけを知らせるよう命じた。その中途半端なこだわりが災いし、明弘は長い間、奈々美の詳しい境遇を知ることがなかった。それからしばらく経ったある深夜。明弘はふと、奈々美の不自由な足を思い出した。飛び降りた時の怪我が原因かは分からないが、生活に支障が出ているはずだ。目が覚め、会議へと向かう車中で、彼は政彦に淡々と命じた。ある財団を設立し、その名義で医療支援チームを組織して、クロックタウンのあの界隈で救済活動を行わせるように、と。政彦からは、彼女の結核が完治したとの報告があった。同時に、一枚の写真が届けられた。病院のロビーを写したものだ。患者が溢れかえり、廊下も通路も足の踏み場もない中で、彼女は床に上着を敷いてうつ伏せになり、手の甲に点滴を打っていた。その隣には、病に冒されたひどく痩せ細った黒い肌
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第99話

奈々美は新しい生活にすぐ順応していた。頭にはいかにも野暮ったい茶色のニット帽を被り、ポニーテールを揺らしながら、男の子のためにパウンドケーキを切り分けている。男の子が「メリークリスマス!」と言うと、彼女は楽しそうに笑って、飴玉を一つプレゼントした。それだけではない。彼女は医療支援チームと一緒に、ホームレスの支援まで始めていた。湿り気を帯びた冷たい冬の夜、大雪が降りしきる中、奈々美は分厚いボアコートに身を包んでパン屋を出た。大きなパンの袋を肩に担ぎ、吹き付ける雪に抗うように小走りで橋の下へと向かい、ホームレスたちに配り歩く。明弘は少し離れた車の中から、その様子をじっと見つめていた。彼女に生気が戻り、時には笑顔さえ見せるようになったのを。パンをすべて配り終えた後、奈々美の手元には自分用に残した、一番安くて硬いフランスパンが一つ。それを必死に噛み砕いているうちに顎が痛くなってきたのか、奈々美は頬杖をついて溜息をついた。それからビッグタワーの下まで歩いていき、残ったパン屑で鳩に餌をやり始めた。あの日、そこに立ち尽くして彼女を見つめる明弘の姿を、白髭の外国人ストリートフォトグラファーがレンズに収めた。カメラマンは彼の肩を叩き、現像した写真を渡しながら、流暢な現地の訛りで問いかけた。「彼女は、君が見守っていることを知っているのかい?」明弘は写真の中の奈々美に目を落とした。「たぶん、知らない」「君の愛は、随分と臆病なんだね」愛、なのだろうか。明弘は、これが愛だとは思わなかった。自分は人を愛せるような人間ではない。十数年もの歳月をかけて奈々美の傍に留まり、愛しているふりをし続けてきた。そしてその後の八年をかけて、彼女のいない日常を受け入れ、奈々美を愛していないのだと証明してきたはずだった。だが八年が経ち、奈々美は戻ってきた。明弘自身も、自分の心がどうなっているのか、もはや分からなくなっていた。ただ一つ確かなのは、今の彼は奈々美の愛を、どうしようもなく必要としているということだ。奈々美の愛は明るく、まるで光そのものだ。機械的で冷え切った自分の人生には、その光が必要なのだ。欺瞞と偽装に塗り固められた前半生の中で、この時だけが、彼の剥き出しの「欲」が動いた瞬間だった。……帰宅した奈々美
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第100話

奈々美はミニパンをかじりながら、何やら考え込んでいた。「ねえ、合法的に人を殺す方法ってないかしら?」「……」奈々美がいつもの物騒な冗談を飛ばすと、蛍子は呆然と固まり、ちょうど備品を取りに入ってきた彰は、殺人現場でも目撃したような顔をして、脱兎のごとく逃げ出した。「おぉ……」蛍子が感心したように声を漏らす。「岩本先生、あんなに速く走れるんですね。確か、腰椎椎間板ヘルニアに膝関節炎、おまけにアキレス腱炎まで抱えてたはずじゃないんですか?」奈々美は不思議そうに首を傾げた。「そんなに怖かったかしら?」「いえ」蛍子は真顔で答えた。「今ので完治させちゃいましたね」蛍子はグッと親指を立てて見せた。「さすが桑原医長、名医です」「……」奈々美は無言でパンを食べ続けた。何があろうと、日々は淡々と過ぎていく。奈々美が次の手術のスケジュールを確認しようとした時、LINEに新しい通知が届いた。見知らぬアカウントからの友達追加。アイコンは白黒のストライプ。名前はただの【.】誰なのか、見当もつかない。その時、さっき逃げ出した彰が勢いよくドアを開けて戻ってきた。今度は弾んだ声を上げている。「ミュストンのトップ整形外科チームが来るらしいですよ!俺のヘルニアも関節炎もアキレス腱炎も、これで助かります!」「医長がさっき治したんじゃなかったんですか?」「……」蛍子の寒いツッコミに、自分も含めた三人は一瞬で言葉を失った。奈々美は席を立ち、院長とミュストンから来る代表団の面会について打ち合わせに向かった。このチームを招くために、病院側は一ヶ月半も前から準備を重ね、この日を待ちわびていた。退勤間際、三階の講堂で全体会議があるという通知が届いた。彼女は白衣のポケットにスマホを突っ込み、階段室へ向かうと最後列に腰を下ろした。会場は押し寄せるスタッフで溢れ返り、十数台のカメラが設置されるなど、物々しい雰囲気に包まれている。「やっぱり『神兵』降臨だわ。まさか本当にミュストンのチームを呼べるなんて。うちの病院、どこにそんな予算があったの?」「なんでも、相当な大物の紹介らしいよ」「一体どんな権力者なら彼らを動かせるんだ?」ひそひそ話が途切れた瞬間、外から重々しい足音が近づき、全員の視線が入
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