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第81話

奈々美は何も言わず、ただ彼をきつく抱きしめていた。稔が目の前に現れたこの瞬間、彼女はようやく全身の警戒を解き、怯えた小鳥のように彼の懐に身を隠した。稔は抱きしめられたまま、彼女の頭を優しく撫でた。「……どうしたんだ?」奈々美は答える代わりに、いっそう彼の胸に顔を埋めた。「悪夢を……見たの」稔は長年彼女に寄り添ってきたから、その恐怖と悪夢の正体を知っている。だから無理に引き離そうとはせず、気が済むまで抱きしめさせた。彼女のパジャマは薄く、ズボンに包まれた足は華奢で、余った裾の隙間から冷たい空気が入り込んでくる。稔は自分のコートを脱いで彼女の肩に掛けた。「外は雪だよ、奈々美。帰ってくる途中、マンションの下に丸々と太った野良猫が二匹いたよ。きっと君と涼平が餌をあげてるんだろうね。家の中、温かみがあって素敵じゃないか。君が選んだ場所は、やっぱり居心地がいいね」相手の返事を待たず、稔はただ穏やかに声を出し、語り続けた。心に垂れ込めていた暗雲が徐々に晴れていくのを待って、奈々美はようやく口を開く気力を取り戻した。声は少し嗄れている。「……どうして急に帰ってきたの?」「仕事が一段落したからね」稔は落ち着いた声で言った。「それに、君に『帰る』と約束したんだ。守らないわけにはいかないだろう?」奈々美は数秒、沈黙した。「……おばさんは?帰国すること、納得してくれたの?」稔は自分の顎を彼女の額にそっと擦り寄せた。「母さんが賛成しようがしまいが、俺はもうここにいる。まさか、この俺を誘拐して連れ戻すわけにもいかないだろう?」稔がクロックタウンに留まり、なかなか帰国できなかった理由。一つは仕事だが、もう一つは両親の存在だった。母親は奈々美を受け入れず、前妻との子である涼平のことも快く思っていない。稔が帰国すれば、すぐにでも家柄の良い縁談を押し付けようと、彼の動向を厳しく監視していた。もし稔が勝手に帰国したと知れば、間違いなく一悶着あるだろう。「そんなに心配しなくていい。俺がうまくやるから」稔はこの温かく小さな家を見渡し、楽しげに眉を上げた。「それより、俺たちの家を案内してくれないかな?」奈々美はようやく我に返り、彼の手を引いて部屋の案内を始めた。稔はその話を聞きながら
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第82話

一人の少女が、空腹のあまり魚を半身丸呑みしようとして、喉に骨を詰まらせた。奈々美はかつて学んだ救急知識を駆使して、その子の命を救った。少女の吐瀉物が周囲に散乱し、あたりには生臭い悪臭が立ち込めていた。そこへ稔が歩み寄り、汚れを一切気に留める様子もなくしゃがみ込んだ。彼は少女の口から魚の骨の残骸を取り除き、丁寧に口元を拭ってやった。奈々美は少女の無事を確認すると、動かない足を引きずって、自分の薄汚いねぐらへと戻った。そのホームレスの集まりには様々な国籍の人間がいた。稔は奈々美を見て地元の言語で話しかけようとしたが、奈々美はそれを無視し、不自由な足で後ずさりした。彼女の表情は感情を失ったように機械的で、髪はボサボサ、服の襟元もボロボロに擦り切れていた。稔はしばらく立ち尽くしていたが、自分のコートをそこに残して去っていった。その後、彼は医師を連れて戻ってきた。少女の胃腸を検査し、奈々美の足も診させた。奈々美は、稔とその女医が交わす会話を黙って聞いていた。医師は、彼女の足は不随になってから時間が経ちすぎており、もう治る見込みはないと告げた。それでも稔は諦めなかった。「病院へ行って検査を受ける気はないか」と何度も尋ねた。奈々美は無視し続けた。すると彼は東洋の国々の言葉を次々と覚えてきた。最後には手話まで学んできた。とにかく、東洋人が使いそうな言語を一通り身につけてきた。来るたびに言うことは同じ。「足を診てもらわないか」ということ。何度目だっただろうか。奈々美はようやく口を開いた。長い間使っていなかった声帯はひどく枯れていたが、稔と同じ言葉で、はっきりとこう言った。「……余計なお世話よ」稔は一瞬、虚を突かれたように止まった。「同胞だったんだね」近くにいた稔の友人が、奈々美の恩知らずな態度に腹を立て、彼を引っ張って行こうとした。「菊池先生がこれだけ尽くしてやってるのに、礼の一つも言わないどころか、なんて言い草だ」それでも稔は根気強く通い続け、何かを買うたびに、必ず彼女の分も忘れずに持ってきた。稔は、奈々美にとって命の恩人だ。そして、彼女が出会った中で最も優しく、誠実で、最高の人だった。……奈々美は歩み寄り、背後から彼をそっと抱きしめた。野菜を千切りにしていた稔の手が止ま
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第83話

あまり親しくない医師たちまでが、物珍しそうに稔をジロジロと見てくる。「桑原医長……ちょっと幸せすぎじゃないですか?」「彼氏さん、イケメンすぎ……」どこへ行っても驚きと羨望の眼差し、そしてため息混じりの感嘆が漏れた。「そんなにかっこいいかなぁ」奈々美は眉をひそめた。みんな大袈裟すぎる。見慣れているせいか、彼女自身は特に何も感じていなかった。ふと隣に立つ稔に視線をやる。稔は、慈しむような優しい微笑みを彼女に返した。……まあ、客観的に見れば、ずば抜けてイケメンなのは確かだ。病院内ではまずお目にかかれないレベルのイケメンと言っていい。恵まれた容姿というのは、天からの贈り物だと言わざるを得ない。特にクロックタウンでは、こうした知的な紳士タイプは、現地の女性たちからも絶大な人気を誇っていた。家柄も良く、職業も申し分なく、おまけに顔まで良すぎる。かつて海外で彼と付き合い始めた時、同じ科の金髪碧眼の同僚は腰を抜かしていた。「NANAMI、どんな徳を積んだらこんな極上品を捕まえられるの?」ルッキズムが蔓延するこの時代、奈々美の容姿と稔が並ぶと、「不釣り合いだ」と感じる人は少なくない。強いて言えば、奈々美のスタイルの良さと、その独特な雰囲気のおかげで、なんとか二人を「お似合い」に見せているといったところか。奈々美自身、そんなことは百も承知だ。誰よりもよく分かっている。けれど、彼女はそんなことで卑屈になったり、クヨクヨしたりはしない。絶世の美女でなくとも、五体満足で顔のパーツが揃っているだけで十分幸運だ。おまけに、この顔で稔のような男と付き合えるなら、夢の中でも笑いが止まらないくらいだ。彼女は稔の背中を急かし、外へ押し出しながらため息をついた。「これ以上ここにいたら、うちの病院の標本にされちゃうわよ。ほら、早く行って」稔は奈々美の額にそっとキスをし、優しく囁いた。「待ってて。仕事が終わったら迎えに来るから」奈々美は適当に生返事をしながら、彼をようやくエレベーターへと追い出した。戻ろうとすると、さっきの医局の医師たちが噂話に花を咲かせているのが聞こえてきた。「ねえ、荒井さんが退院した直後に、桑原医長が彼氏連れてきたわよ。やっぱりあの二人、本当に冷え切ってるのね」「受付の平田(ひらた)
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第84話

恐ろしい?確かにそうかもしれない。梓紗のため、そして桑原家の権勢を手に入れるため、十数年もの間、彼女のそばに潜伏し続けてきたのだから。嫌悪感を剥き出しにすることもなく、よくもまあ、長年付き人のフリを演じきれた。「彼のせいで一生、ネズミみたいにコソコソ隠れて暮らすなんて無理ですね。私は何も悪いことはしてませんし。逃げるべきなのは、私じゃありませんよ」奈々美はそう言い捨てると、澄玲の術後の経過を確認した。不意に患部に手が触れ、澄玲が痛みに顔をしかめる。「……本当に、戻ってくるべきじゃなかった」奈々美は手を止めず、澄玲の服をはだけさせながら平然と返した。「壊れたレコードみたいに、そればっかりですね」「ただ、どうしてそんなに愚かなのか理解できないだけよ。せっかく逃げ切ったのに戻ってきて、おまけに別の男まで連れてくるなんて。荒井の性格を忘れたの?その彼氏さんをただで済ませるわけがないわ」傷口に走る鋭い痛みに、澄玲は激しく眉を寄せた。「ご心配には及びません。でも、今は自分の身を案じることですね」奈々美は処置を終え、彼女の服のボタンを丁寧に留め直した。「傷の治りが遅いですね。このままだと入院費がかさみますよ。もっと努力が必要ですね」数秒の沈黙の後、奈々美は微笑みを絶やさぬまま、けれど冷徹に言い放った。「それから、もう梓紗は頼りになりませんよ。私が彼女と飲みに行くことは二度とありませんし、私をダシにして彼女から小遣いをせびることも、もうできませんから」奈々美は医療用トレイを持ち上げ、部屋を出ようと背を向けた。「……ごめんなさい」背後から、澄玲の掠れた声が響いた。奈々美はその場で足を止めた。半開きのドアを見つめたまま、しばらくの間静止し、ようやくその重苦しい謝罪に応えた。「別に謝る必要などありません。人間なんて誰だって自分が一番大事なんですから。自分さえ危うい状況で保身に走ったことを、私は恨んでなどいません。けれど同時に、気にしなくていいとも言いません。あなたの冷淡さは、あの時の私を……確かに傷つけましたから」奈々美はゆっくりと振り返り、澄玲を見据えた。「あの頃の私は、私たち、友達だと思っていました」親友。その人のためなら、何だって差し出せる。かつての奈々美は、本気でそう思
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第85話

梓紗を訪ねて海外の友人が来日し、からかうように言った。「まだあの『未来の旦那様』に会えてないわ。いつ紹介してくれるの?」「『未来の』なんてやめて。婚約なんて形式的なものは飛ばして、直接結婚するんだから」明弘の話題になると、梓紗はふいと目を伏せた。友人にもっと自慢したかったが、今の自分には誇れるものが何一つないことに気づいてしまった。結局、絞り出したのは「明弘は、私をすごく大切にしてくれるわ」という一言だけだった。「あら、変わったわね。ラスカリアにいた頃はあんなにノロけてたじゃない。彼が子供の頃から貯金して携帯を買ってくれたとか、服を選んでくれたとか、手塩にかけて育ててくれたって。そんな深い愛があるならもっと聞かせてよ。私たちを嫉妬させてみて?」友人にそう言われ、梓紗は少し呆然とした。そう、子供の頃はあんなに満たされていた。明弘がつきっきりで自分を育ててくれたのだ。あの頃、明弘はバイト代で自分の学費を払い、生活用品を揃え、常にお金が足りているか気にかけてくれた。明弘の心には、昔から自分だけがいたはずだ。もしそうでなければ、明弘のような男が、一人の女をこれほど長くそばに置くはずがない。けれど、梓紗が望んでいるのは「家族としての情」ではない。幼い頃のように、明弘の世界には自分しかいなくて、自分だけを慈しんでほしい。今の二人は、まるで見えない壁があるようにつかず離れずの状態だった。友人は梓紗のわずかな表情の変化を見逃さず、二人の仲に問題があることを察した。「……性格の不一致?それとも、あっちの相性?」「相性?」梓紗は力なく自嘲した。「……戻ってきてから今まで、彼の影さえ数えるほどしか見てないわ」二人の間に、男女としての親密な行為など一度もなかった。一番怖いのは、明弘が自分のことをずっと「妹」としてしか見ていないことだ。友人は本気で驚いた様子で、一瞬絶句してから言った。「男だもの、長く一緒にいすぎると飽きがくることもあるわ。新鮮さが欲しいのよ。梓紗がガラッと変わった姿を見せれば、彼だって放っておかないはずよ」梓紗はすぐには答えず、逆に問いかけた。「ねえ……本当に愛している人を、八年も海外で放浪させると思う?」「放浪?」友人は眉をひそめた。「まさか。愛してたらそん
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第86話

梓紗はもともと、それほど飲むつもりはなかった。ただ明弘を嫉妬させたかった、それだけだった。だが、一度酔いが回ると体は言うことを聞かなくなり、男はますます大胆になっていく。覚えたての下手な東都語で、なれなれしく彼女を「梓紗ちゃん」と呼んだ。梓紗は彼を突き放そうとしたが、指一本動かせない。完全に酒に呑まれてしまった。朦朧とする意識の中で手を伸ばし、隣の友人を呼ぼうとしたが、相手はホストの男とイチャつくのに夢中で、こちらには全く気づかない。抱きかかえていた男が、不意にキスを始めた。首筋から顎へと、執拗に唇を這わせる。梓紗は必死に抵抗しようとしたが、力が入らない。キスが雨のように降り注ぎ、肌の敏感な部分をなぞる。鳥肌が立ち、体に変な熱が走った。梓紗は、誰かと本当に一線を越えたことはない。海外で派手に遊んでいた数年間も、最後の一線だけは守り通してきた。彼女にだって生理的な欲求はある。だが、愛しているのは明弘だけ。しかし今、脳の意識が混濁し、二、三度抗っただけで動けなくなってしまった。体の本能が呼び覚まされたようで、あの日、ドアの外で聞いた「音」までもが脳裏をよぎる。明弘が奈々美にキスをする音。ひどく激しく、荒々しく、力強い。自分はされたことがないけれど、梓紗はその音をよく知っている。何度も耳にしてきたからだ。幼い頃も、そして今も。梓紗の体は熱く火照り、制御不能に陥っていたが、目尻からは涙がこぼれ落ちた。悔しくて、やるせない。どうして昔も今も、明弘がキスをするのは自分じゃないの……その光景を、実際に目撃したことさえある。桑原家に引き取られたばかりの頃。実の娘ではないと突きつけられた奈々美は打ちのめされ、長い間立ち直れずにいた。梓紗が正式に「娘」として認知された夜。周囲の祝福の声が響く中、奈々美は一人、寝室で枯れ果てていた。その晩、一族に温かく迎え入れられた梓紗は、二階で絶望の淵にいる奈々美とは対照的に、喜びで胸を弾ませていた。両親に認められたものの、肝心の明弘が見当たらない。梓紗はあたりを見回した。明弘からは釘を刺されていた。「桑原家では親しくしすぎるな。かつての隣人という関係を装え。そうすれば桑原夫婦に疑われない」と。だが、血の滲むような努力の末にようやく認められたばかりの
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第87話

そこに立っていたのは、政彦だった。梓紗は一瞬頭が真っ白になり、酔いも一気に吹き飛んだ。踏み込んできたボディガードが梓紗にのしかかっていた外国人を引き剥がす。梓紗は慌てて起き上がり、はだけたストラップを直すと、政彦から差し出されたコートをひったくるように羽織った。「……明弘様が、外でお待ちです」梓紗の体は痺れたように動かず、自分が相手とどこまで及んでしまったのかさえ定かではない。動揺で声がかすれた。「待って……説明させて……」政彦は一歩下がり、淡々と告げた。「梓紗様。私はただの秘書ですので」梓紗は呆然と立ち尽くした。隣で酔い潰れていた友人は、こともあろうにニヤニヤと笑っている。「梓紗、やったわね。作戦成功じゃない」梓紗は無意識にコートの裾を握りしめた。喉の奥まで苦いものがせり上がってくる。成功?何が成功よ。一体、何をしてるの……羽織っているのは明弘のコートだ。彼の匂いがする。普段なら愛おしくてたまらないはずのその香りが、今は不安を掻き立てるだけだった。梓紗はしばらくその場にへたり込んでいたが、ようやく重い腰を上げた。外の夜風は、肌を刺すように冷たかった。明弘は会食の席から駆けつけたため、彼もかなりの酒が入っているはずだが、その意識は冷徹なまでに冴え渡っていた。コートも着ず、黒いシャツ一枚でその引き締まった肩のラインを覗かせ、タバコを吸いながら無表情で立っていた。その姿は、静寂な夜の闇に溶け込んでいるかのようだった。冷たく、淡く、静か。雁取市では数日前、霙が降ったが、積もる前に消えてしまった。だが今日はようやく雪らしい雪になり、まばらな白い欠片が夜空から舞い落ちていた。「……明弘」梓紗が口を開くと、声は震え、泣き声になった。どうしてこんなことになったのか、自分でも分からない。あの男と本当にどうこうなるつもりなんてなかった。ただ明弘を嫉妬させ、怒らせたかっただけなのに。自分を、もっと見てほしかった。あの日、病院で彼が奈々美にキスをしたことが許せなかった。奈々美への執着も、彼女に注ぐ視線も、すべてが腹立たしくてたまらなかった。本当に、こんな結末にするつもりじゃなかった。明弘は感情の読み取れない目で、淡々と彼女を見た。あろうことか、彼は手を伸ばして彼女が
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第88話

奈々美は家で、稔と一緒にすき焼きの準備をしていた。担任の先生に連絡して、今夜は涼平を寮から連れ帰る許可を取っておいた。この後、学校まで涼平を迎えに行く予定だ。なにしろ、半年ぶりに実の父親が帰ってきた。家族団欒のためなら、一回くらい自習をサボらせてもバチは当たらない。奈々美は昔から物分かりの良い母親だった。それはきっと、幼い頃に真由紀からピアノや絵画を半ば強制的に習わされ、結局どれも身に付かなかった苦い経験があるからだろう。無理な習い事よりも、子供らしく過ごす時間の方がずっと大切だ。彼女はそれを痛感していた。少なくとも……たかが一晩の自習よりは、ずっと価値がある。奈々美は先生への連絡を済ませると、甘くて瑞々しい梨をかじりながら、キッチンに向かって声をかけた。「ねえ、稔」「ここだよ」中から穏やかな返事が返ってくる。奈々美はスリッパを引きずって歩いていくと、かじりかけの梨を彼の口に差し出し、用意された食材を覗き込んだ。「特選の霜降りロースに、A5ランクの和牛、春菊……いい感じね」稔は梨を咀嚼しながら言った。「後でヨーグルトも買ってこようか?」「あ、お願い。イチゴ味ね」夜が更けるにつれ、雁取市の雪は勢いを増していた。稔はコートを羽織って下へ降りようとした。まだこちらの気候に慣れておらず、コートの下は薄着だ。数歩歩いたところで、奈々美が慌てて追いかけてきた。薄いニットを一枚引っ掛け、髪を無造作に結んだだけの、折れそうなほど細い体。稔はすぐに眉をひそめた。「そんな格好で出てきたらダメじゃないか」「マフラー巻いてあげたらすぐ戻るから」奈々美は背伸びをし、稔にかがんでもらってマフラーを巻いてあげた。巻きながら、白い息を吐いて言い聞かせる。「いい?涼平を連れ回して買い食いさせちゃダメよ。明日も学校なんだから。校門のそばのソーセージ、ねだられても絶対ダメ。あんなの食べたらお腹壊して、明日の授業中に泣きを見ることになるんだから」稔は彼女の冷えた手を包んで温めた。「分かってるよ。ほら、早く戻って」奈々美は本当に寒かったのか、その場でぴょんぴょんと二回跳ねた。少し離れた場所で、ハイビームを点けた車が路肩に停まり、その光景をじっと見つめていた。運転手は新入りで、詳しい事情
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第89話

【もしもし、涼平】【もしもし、涼平……】何度も何度も、その音声が再生される。小太りの涼平はスマートウォッチを誇らしげに高く掲げ、まるで神聖な金メダルでも手に入れたかのように和紀の横を通り過ぎ、挑発的に顎をしゃくってみせた。ランドセルを背負った和紀は、静かにその様子を見つめていた。ついに、何度目かの再生が始まったとき、和紀が口を開いた。「そんなに鳴らしてると、電池切れますよ」涼平は絶句した。「ほっとけよ。余計なお世話だ」「お世話なんかしてません」涼平は「こいつとは話が通じない、絶対に頭のネジが外れてるんだ」と確信した。「いいか、言っとくけどな」涼平は毎日ビクビクして過ごすのは御免だったので、はっきり白黒つけることにした。「お前、ママいないの?パパは嫁いないの?なんでずっとうちの奈々美を奪おうとするんだよ」和紀は数秒間静止し、彼をじっと見つめた。そして、何も言わなかった。その視線に、涼平は薄気味悪さを感じる。「……なんだよ」和紀はふいと視線を外した。「それは、僕が言いたい言葉です」「……はぁ?」そこへ、稔の運転する車が校門に到着した。「涼平」「パパ!!!」涼平は興奮して駆け寄った。ランドセルを揺らし、ちぎれんばかりに手を振って子犬のように走る。「パパ!会いたかった!」稔は息子の頭を撫で、少し離れた場所に立っている和紀に目をやった。「お友達?」「違うもん」「かっこいい子だね」「友達じゃないってば!」「育ちが良さそうで、知的だ」「友達じゃない、友達じゃない!」涼平は怒りのあまり飛び跳ねんばかりだ。稔はようやく和紀への称賛を止めた。「分かった分かった、そんなにムキにならなくても。どうしたんだ?」涼平は複雑な顔をした。「原因を知ったら、パパの方が焦ると思うよ。でも家庭円満のために、今は黙っておいてあげる」彼は深いため息をつき、存在しない前髪をかき上げた。「僕って本当に苦労人だなぁ……」稔は、向かいの少年がずっと自分を見ていることに気づき、礼儀正しく微笑みかけた。和紀は一瞬固まり、ランドセルのベルトをギュッと握りしめると、くるりと背を向けて去っていった。「失礼なやつ」涼平は白目をむいた。「二重人格なんだよ。奈々美にはあ
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第90話

離婚訴状を目の当たりにした政彦は、心底驚愕していた。「奈々美様が……まさか、本当に明弘様を訴えるなんて」いくら意固地になっているとはいえ、奈々美がこれほど強硬に、司法の場にまで持ち込むとは予想だにしていなかった。だが、冷静に考えれば、これこそが離婚を成立させる最も確実で手っ取り早い手段ではある。一方、明弘は意外そうな顔一つ見せなかった。「そうしないなら、かえってあいつらしくない」幼い頃、奈々美には仲の良い友人がいた。だがある冬の雪合戦の最中、その子がわざと悪意を持って彼女に雪玉をぶつけ、怪我をさせたことがあった。その後、友人はどれだけ必死に謝罪しても、奈々美が彼女と二度と遊ぶことはなかった。明弘は手元の書類に目を落とし、その奥に潜む感情を表に出すことはなかった。翌朝、別荘の食卓にはいつになく豪華な朝食が並んでいた。和紀が眠そうに目をこすりながら一階へ降りてくると、どこか懐かしい、食欲をそそる香りが漂ってきた。錯覚かと思ったが、近づいてみると、それは紛れもない「すき焼き」だった。和紀の半分閉じていた目が、驚きで丸くなる。「明弘様が、和紀様のために用意されたものです」執事が静かに告げた。和紀は驚きのあまり、しばらくその場に立ち尽くし、どう反応していいか分からずにいた。信じられないといった様子で席につき、恐る恐る、けれど隠しきれない喜びを瞳に浮かべて食卓を見渡した。執事はその眼差しを見て、人知れずため息をつく。普通の家庭なら当たり前に囲める食卓が、この子にとってはこれほどまでに特別なことなのだ。和紀はいつものように静かに食べ始めた。だが、数口も運ばないうちに、梓紗が帰宅した。どこで夜を明かしたのか、彼女は大きなコートを羽織っていたが、髪は乱れ、顔色は青白く、目尻は赤く腫れていた。目が合い、和紀は一瞬動きを止めた。すぐにうつむき、自分の気配を消そうとする。だが、一足遅かった。梓紗は彼の前まで歩み寄り、荒んだ表情で彼を見下ろした。「……どうしてまだ学校へ行ってないの」隣にいた執事が慌てて割って入る。「和紀様は、お食事を済ませてから向かわれる予定です」使用人たちも、無意識に和紀を庇うようにして身を寄せた。梓紗はその様子を見て、ふいにおかしくなったのか、力なく自
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