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All Chapters of 月灯りの花嫁。: Chapter 71 - Chapter 80

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9話-3 風に揺られた先で。

* * *翌朝。夏の柔らかな日差しが差し込む中、リリシアは荷物をまとめ、ルファルと共にラズエラの見送りに立っていた。「ルファル様、リリシア様。ひとつきの間、至らぬわたくしを温かく迎えて下さり、心より感謝致します……それでは」ラズエラはしとやかに微笑むと、馬車の窓を閉めた。リリシアが深く頭を下げると同時に、ラズエラを乗せた馬車はゆっくりと遠ざかっていく。「リリシア。私達も行こう」「……はい」促されるまま、リリシアはルファルと同じ馬車に乗り込んだ。だが、この別邸へやってきた日とは決定的に違っていた。隣同士に座っていても、ルファルは決して自分と目を合わせようとはしない。(……きっと、あの月夜に口にしてしまった、わたしの告白のせい)返事などという大それたものを望んでいた訳ではなかった。例え言葉が返ってきたとしても、それはきっと拒絶に違いないのだから。ラズエラがその身に宿す『天の願い』は、天変地異引き起こし、世界を破滅へと導く強大な力。皇国を守る義務を負うルファルが、ラズエラを花嫁に選ぶのは、あまりに当然の帰結だった。(世話係から花嫁候補に戻ったところで、ルファル様の隣に立つべきお方は、ラズエラ様お一人……)それでも、捨てられなかっただけ幸せだと思わなければ。この呪いが解けるその日まで、自分に出来る限りの務めを果たそう。リリシアは膝の上で、指をぎゅっと握り締めた。* * *そうして、邸宅での日常が、再び静かに流れ始めた。胸の奥に、もやもやと溜まった気まずさに蓋をし、何事もなかったかのように振る舞う日々。別邸での騒がしさが嘘のような、穏やかで、けれどどこか寂しさの漂う夜が過ぎていく。そんな日々が一週間程続いた、ある夜のこと。リリシアはルファルに呼ばれ、休憩室へと足を運んだ。「……5日後、任務により遠出をすることとなった」(季節が
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9話-4 風に揺られた先で。

月の光が、静寂に包まれたふたりを淡く照らし出す。ルファルの紡いだ言葉が耳に届いた瞬間、リリシアの瞳から堰を切ったように大粒の涙が溢れ、頬を伝った。視界は瞬く間に滲み、リリシアはその場に崩れ落ちるように膝を突く。「……っ、あ……」なぜ、自分はこれ程までに泣いているのだろうか。名もなき感情が胸の奥からせり上がり、喉を震わせる。リリシアは溢れる涙を隠すように、震える両手で顔を覆った。すると、ルファルがリリシアの前に静かにしゃがんだ。その大きな手が、リリシアの頭へと、ぽんと優しく置かれる。「……リリシア」慈しみに満ちた声で名を呼ばれ、リリシアが胸元まで手を下げて顔を上げると、ルファルはそのままリリシアの肩を引き寄せ、ぎゅっと強く抱き締めた。その軍服のような貴族服越しに伝わる温もりと、ルファルの冷ややかな、けれど優しい香りに包まれ、リリシアはようやく理解する。先程、ルファルが口にした「予期せぬ光」のような言葉の意味を。信じ、られない。(まさか、ルファル様も……わたしと同じ、お気持ちでいて下さったなんて……)けれど、幸せに浸る程に、残酷な現実が冷たい影を落とす。この先、自分がルファル様の花嫁になることなど――決して。叶わない。ならば今ここで、身を引くべきなのだ。分かっている。頭では、何度となく繰り返してきた「諦め」という名の答え。けれど、自分を包み込むルファルの腕をどうしても拒むことが出来ない。一度溢れ出したこの想いをもう、止める術などなかった。「リリシア。この先の運命がどれ程過酷であろうと、この私が変えてみせる」不意に、ルファルの髪を束ねていた月紐が、はらりと床へと解け落ちる。さらりと零れ落ちる美しい髪をそのままに、ルファルはわずかに身体を離すと、濡れた瞳で見上げるリリシアをじっと見つめ返した。「お前を必ず、私の花嫁にしてみせる。……これは約束だ」「……っ、はい。ルファル様……。すき、です……っ」   震える声で紡いだ、心からの偽りのない答え。初めて出会ったこの場所で、窓から注ぐ月の光に導かれるようにして。リリシアは、ルファルと「誓い」の口づけを交わした。* * *任務へと出立する朝。駅に到着したリリシアは、巨大な鉄の塊――汽車を目の前にして立ち尽くしていた。かつて帝都へ向かう道すがら、一瞬だけ、遠くに並走す
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9話-5 風に揺られた先で。

「――『様』を付けろ」 冷酷な響きを含んだルファルの声が、豪華な特別客室の空気を一瞬にして凍りつかせた。 ルファルの怜悧な美貌がわずかに歪み、周囲には肌を刺すような威圧感が立ち込める。 「皇帝の間でシャイン皇帝より直々に命が下ったはずだ。聞いていなかったのか?」 突き放すようなルファルの言葉に、リゼルは感情の起伏を感じさせない淡々とした口調で返す。 「リリシアはリリシアだよ。任務でルファル隊長に同行することは把握してたけど……それ以外のことは、僕にとって重要じゃないから」 火花が散るような沈黙。ふたりの間に走る冷ややかな緊張感に、リリシアは胸元でぎゅっと手を握り締めた。 このままでは、せっかくの旅路が壊れてしまう。 「ル、ルファル様……。もうじき、汽車が出発致しますので……」 震える声でリリシアがそっと袖を引くと、ルファルの氷のような瞳から険が抜け、ふっと冷静さを取り戻した。 「……リリシア。先に座るといい」 「か、かしこまりました……」 促されるまま、リリシアはリゼルとテーブルを挟んだ窓側の席に腰を下ろす。すぐ隣には、守るようにしてルファルが座り、その威厳ある存在感でリリシアを包み込んだ。 ルファル達の後ろの4人席には控えていたカイスとソフィラが2人だけ、料理の入ったバスケットと荷物を開いた席に手際よく整えて通路側に向かい合わせで着席する。 程なくして、重厚な振動と共に汽車が動き始めた。 リゼルは興味なさげに窓外の景色へと視線を投げ、ルファルはゆったりと足を組み、深く目を閉じる。 車内に流れるのは、静謐というよりは、あまりに危うい均衡の上にある沈黙だった。 戸惑いに揺れながら、リリシアもまた縋るように窓の外へ目を向けた。 流れる景色はやがて、黄金色に色づいた深い森へと差し掛かる。 秋の陽光を浴びて輝く紅葉は、まるで光そのもののような、絵画のような美しさだった。 「なんて、綺麗なのかしら……」 思わず零れた感嘆の声。 すると、閉じていたはずのルファルの瞳がゆっくりと開かれ、ルファルはリリシアが見つめる先を覗き込むように視線を重ねた。 「……そうだな。悪くない景色だ」 その声には先程までの棘はなく、リゼルの横顔も心なしか和らいで見えた。 張り詰めていた糸が緩み、車内に僅かな安らぎが満ちた、その時だった。 怪異の気配を
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9話-6 風に揺られた先で。

* * *扉の先、轟音と風が吹き荒れる。連結部へ出た瞬間。ルファルは淀みない動作で一段目の踏み台に足をかけた。月の魔術を使い、重力を無視するかのような跳躍で妻面のハシゴへと飛び移る。そのまま鉄の手すりを掴み、滑らかな動作で汽車の屋根まで登っていく。リゼルもまた、風の魔術を使い、羽根のような軽やかさでルファルの後を追って屋根へと昇り降り立った。ふたりは低く姿勢を保ち、鋭い視線を頭上の空へと向ける。そこには、夜の残滓を形にしたような、カラスに似た怪異が2体、旋回していた。「……もうじきトンネルに入る。その前に魔術で気配を消し、魔術を解き終えた後、一気に浄化する。だが、お前の銃は、この階下の客に余計な詮索をさせかねない。互いの剣で速やかに仕留める」ルファルの冷ややかな、しかし神魔隊長らしい無駄のない指示に、リゼルはどこか虚空を見つめるような瞳のまま、淡々と応じた。「了解。あんなの、剣だけで十分だよ」「……では、背後は任せた」微かにリゼルが頷くのを確認するとルファルは風を切り裂き、屋根の上を滑るように駆けた。リゼルもまた、その後ろ姿をなぞるように地を蹴り、ふたりは互いの死角を預けるように背中合わせに立つ。すると前方から巨大な口を開けたトンネルの闇が迫る。ルファルの月紐で一本に結ばれた髪とリゼルの腰まで届く長い髪が、烈風に煽られ激しくなびく。ルファルが魔術を解いた瞬間、怪異達が鋭い目つきでこちらを見定めた。その直後、耳を突き刺すような鳴き声を上げ、急降下してくる。するとルファルは鞘に手を掛け、無詠唱。月光一閃、ルファルの抜刀は目にも留まらぬ速さで空を断ち、一体の怪異の核を真っ向から流麗に両断した。背後ではリゼルが静かに詠唱を紡ぐ。「風の名において。……眠れ、ベリル」鞘に手を掛け、抜き放たれた刃が流麗な円を描き、もう一体の怪異を捉えた。吹き抜ける風と共に、どこからともなく幻想的な花びらが舞い散る。リゼルの剣に斬られた怪異は、その美しさに溶けるようにして浄化され、ルファルが斬った怪異もまた、眩い光の粒子となって朝の空へと消えていった。ふたりは示し合わせたような動作で同時に納刀すると、流れるような動きでハシゴを駆け降り、滑り込むようにして車内へと戻る。その直後、汽車は轟音と共に、すべてを飲み込む深い闇のようなトンネルの中へと呑み
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9話-7 風に揺られた先で。

「何をそんなに驚いているの? こんなの普通の料理でしょ」リゼルが、どこか遠くを見るような、抑揚のない声でさらりと口にする。その言葉に、リリシアの胸がきゅっと痛んだ。――――普通。確かに、高貴な血を引くリゼルやルファルにとっては、これは日常の料理に過ぎないのだろう。ルファルの花嫁候補として迎えられてからは、自分も豪華な料理を口にしてきた。けれど、かつて母から疎まれ、食事すら満足に与えられず、冷えた残り物を泥のように啜っていた「月影」としての日々が、今も心に澱のように沈んでいる。そのせいで煌びやかな料理を前にすると、どうしても自分という存在が不釣り合いに思えて、気後れしてしまうのだ。「そう、ですね……緊張してしまって。いい加減、慣れなくてはと思うのですが」俯き、消え入りそうな声で呟いたリリシアの手の上に、温かな体温が重なった。「私は別に、そのままで良いと思っているが」リリシアは弾かれたように顔を上げる。そこには、いつも氷のように冷酷なはずのルファルの、見たこともない程柔らかな眼差しがあった。「……お前の表情は、いつ見ていても飽きない」「ル、ルファル様……」直球すぎる言葉で、リリシアの頬に熱が帯びていく。リゼルが不思議そうに首を傾げると、ふたりは己の失態を悟ったかのようにはっとし揃って頬を赤らめ決まずそうに視線を逸らし合った。「ルファル隊長のそんな顔、初めて見た。いつもは鬼のような形相で部下を震え上がらせているのに」リゼルの淡々とした毒舌に続き、ソフィラも表情ひとつ変えずに追い打ちをかける。「鬼……ふむ、それは一理ありますね」ソフィラの傍らに立つカイスは表情を変えず、ほんの一瞬だけ「ふっ」と嘲笑うかのように笑みを零した。「……お前達、余程この場で私に斬り捨てられたいようだな」ルファルの低い脅し文句さえ、今のリリシアには心地よく響いた。あまりにも微笑ましくて、思わず小さな笑いが零れる。「リリシア?」「あ、ルファル様、申し訳ありません。ですが……こういうのが、本当の幸せな時間なのだなと思ってしまって……」リリシアの控えめな、けれど心からの言葉に、その場の空気が春の陽だまりのように和んだ。3人はフォークとナイフを手に取り黄金色のパイを口にし、穏やかな時間は過ぎていく。やがて車窓から、広大な蒼い海が見え始めた。リリシアが
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9話-8 風に揺られた先で。

不意にルファルと視線がぶつかる。まるでルファルそのものが美しいと言ってしまったかのような錯覚に陥り、リリシアの頬に再び熱が帯びた。けれどリリシアは視線を逸らさず、しばらくの間、ふたりで静かに青い世界を眺めていた。そうして目的地の駅に到着し、汽車を降りると、今度は用意されていた馬車で宿屋へと向かう。海辺に佇む白亜の石造りの宿屋は気品に溢れ、潮風が心地よく吹き抜け、驚く程涼やかだった。いつしか空は溶けた金と紫が混ざり合う夕暮れに染まっている。「ルファル様、リゼル様、リリシア様。長旅、お疲れ様でございました」宿を切り盛りする、鬼のように凄みのある女亭主に迎えられ、リリシアは一瞬、先程の「鬼」という言葉を思い出して身体を強張らせた。が、案内された部屋に入ると、ようやく深い息を吐いて休息を摂ることが出来た。* * *その夜のこと。リリシアはルファルに密かに呼ばれ、静まり返った宿を抜け出した。連れて行かれたのは、昼間の車窓から見たあの海辺だった。夜の海には満月が映り込み、波打つ度に宝石を砕いたような光が煌めいている。その幻想的な光景に、リリシアは思わずうっとりと吐息を零した。「潮風が、とても心地良いですね」「そうだな」ルファルが応じる。そして、彼の月紐で一本に結ばれた髪が夜風に揺れた、その時だった。リリシアの耳元で、チリン……と、この世のものとは思えない程清らかな、小さな鈴の音が鳴った。隣に立つルファルを見上げても、彼に聞こえている様子はない。空耳だろうか。そう思った瞬間、再びチリン……と鈴が鳴った。何かに導かれるように、リリシアはその音がした方向へ身体を向ける。「どうした、リリシア」「鈴の音が……聞こえるのです」その言葉を聞いた瞬間、ルファルの纏う空気が一変した。凄まじいまでの殺気と、氷のような緊張感。ルファルは顔色を変え、リリシアが見つめる闇の先を鋭く凝視
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10話-1 幸せになる為に。

「……世異(せい)」ルファルが苦々しく、その名を吐き捨てた。「世異……?」「私の宿敵――怪異を統べる王であり、前皇帝を亡き者とした、この世で最も忌まわしき怪異の名だ」あの青年が、前皇帝を――。リリシアの背筋を氷のような戦慄が駆け抜ける。ならば、先程の言葉の意味は一つしかない。――“いずれ、私の花嫁にする”それは、リリシアが呪いに蝕まれて怪異となり、この皇国を滅ぼす存在へと堕ちること。そして、最愛のルファルの手によって斬られ、彼自身もまた、その責任を負ってシャイン皇帝に身を差し出すという、救いのない終焉を意味していた。想像しただけで視界がぐにゃりと歪み、まるで奈落の底へ突き落とされたような錯覚に陥る。「……は、ぁ……っ」リリシアの呼吸は浅く乱れ、今にも過呼吸の闇に呑み込まれそうになった、その時。闇を遮るように、ルファルがリリシアを抱き寄せた。不意に、ルファルの体温と月のような香りに包まれる。「リリシア、大丈夫だ。案じることは何もない。お前は……他の誰でもない、私の花嫁になるのだから」低く、けれど確信に満ちたその声に、リリシアの荒い呼吸が次第に落ち着いていく。リリシアは縋るように、ルファルの服の胸元をぎゅっと掴んだ。――――そうだ。(わたしは、大丈夫。このお方と、幸せになるのだもの)* * *翌朝。リリシアはルファル達一行と共に宿屋を後にし、目的の小高い丘へと足を踏み入れた。そこには苔むした古い石造りの階段があり、天へと続くかのように伸びている。それはまるで、天界へと続く異端のハシゴのようにも見えた。「カイス、ソフィラ。お前達はここで待機していろ」ルファルの冷酷なまでに低い声が響く。「承知致しました」カイスが氷のように鋭い口調で短く応じ、ソフィラもまた、人形のような無機質な動作で深く頷
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10話-2 幸せになる為に。

* * *霧が立ち込める境界を抜け、ルファルはリゼルと共にリリシアの気配をただ懸命に追っていた。そうしてようやく霧が揺らぎ、晴れた向こう側にリリシアの姿を捉えた――と思った瞬間。歓喜は氷点下の絶望へと叩き落とされる。鈍い光を放つ短剣が、無慈悲にもリリシアの胸元を貫いていた。「――っ!」ルファルは息を呑む。激しい衝撃に、月紐で結ばれていた彼の髪が解け、はらりと肩に零れ落ちた。スローモーションのような静寂の中、力なく崩れ落ちるリリシアの身体。一瞬、絶望に両目を見開いたルファルだったが、即座に意識を研ぎ澄ます。彼から放たれた凍てつくような静かな殺気にラズエラは気圧され、ふわりと後方へ飛び退いた。「リリシア……!」呆然と立ち尽くすリゼルを背に、ルファルは必死の形相で駆け寄った。地面に膝を突き、リリシアをそっと抱き起こす。だが、真紅はどこにもなかった。代わりに漂ったのは、清冽なシャイン皇帝の力の残滓。刃はドレスの生地を裂いたものの、リリシアのネックレスの宝石に宿る日の魔術が、目に見えぬ防壁となって凶刃を拒んだようだ。ルファルは安堵に深く胸を撫で下ろす。震える指先で愛しさを込めて、リリシアをその胸に強く抱き締めた。* * *ルファルの胸を打つ鼓動と温もりに、リリシアの睫毛が震え、瞼が開く。「リリシア、リリシア! 大丈夫か」「ルファル、様……?」焦点が合うにつれ、リリシアの記憶が鮮明に蘇る。(そうだ。わたし、あの時刺されて……)リリシアは震える手で自身の胸元を探った。ドレスの布地は裂けている。けれど、そこにあるはずの痛みもなければ、真紅の感触もない。何が起きたのか分からず、リリシアは不思議そうに首を傾げる。「大丈夫……怪我はないみたいです。でも、どうして?」「結界は発動しなかったようだが、宝石に宿ったシャイン皇
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10話-3 幸せになる為に。

「リゼル、様……?」リリシアが驚きに声を零す。暴走する力に引きずられるように、リゼルの記憶の断片が、ふたりの脳裏に流れ込んできた。風の魔術を司る名家に生まれ、当然のように決められた許婚。病弱ではあったが、彼女の操る風は誰よりも強く、そして優しかった。『体なんて、気にしてないよ。君がいれば、それでいいんだ』静かな庭で、穏やかで幸せな家庭を築こうと約束したあの日。けれど、怪異は唐突に全てを奪った。中庭に散らばった、彼女が自分の為に摘もうとしてくれた名も無き花々。その絶望の光景を見たあの日から、自分の中の感情は、風と共に消え失せた。リゼルは静かに剣を抜き、もう片方の手で銃を構える。されど怪異は戦慄を覚えたのか、ふわりと浮き上がり、霧の中へ逃れようとした。「逃がさない。……死ぬまで追い詰めてあげる」リゼルが風を蹴り高く跳躍する。直後、銃弾を3発放ち、銃口から火花が爆ぜた。しかし怪異はそれを掌で受け止め跳ね返す。リゼルは、跳ね返された銃弾をすべて避けきれず、初弾こそ避けたものの残る2弾が頬と肩をかすめ、真紅が舞った。けれど、リゼルは空中で鮮やかに一回転し、新たに2発の銃弾を放ち、銃口から2条の火花を散らす。放たれた弾丸は正確に怪異の肩と脚を穿(うが)ち、その体を地上へと叩き落とした。しなやかに着地したリゼルと、そこに追いついたルファル。ふたりの視線が静かに交差した。「消え失せろ」重なる声と共に、無詠唱により月の魔術と風の魔術に包まれた2つの刃が怪異を両断する。邪悪な気配は浄化の光に飲み込まれ、一筋の輝きとなって消滅した。だが、それを合図とするかのように強風が吹き荒れる。ふたりが見上げた上空――――雲を割って姿を現したのは、ドラゴンに似た巨大なイーグルの怪異だった。「……イーグルの怪異」リゼルが感情の読めない瞳で淡々とその名を零す。「やはり、現れたか」
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10話-4 幸せになる為に。

* * *秋の宵が月を包み込む頃。リリシアは宿屋の一室で独り、ルファルを待っていた。あの後。ルファルとリゼルと共に宿屋へ戻ったものの、リリシアの心は千々に乱れていた。あの激闘の後、昼食は部屋で静かに済ませ、夕食にはルファルとリゼルに連れられて宿屋の料理長が腕を振るった豪華な食卓を囲んだ。けれど、申し訳なさで胸が塞がれ、ただ俯くばかり。料理の味も、ふたりや別の席のソフィラやカイスがどのような眼差しを向けていたかさえ、記憶が朧げで思い出せない。――そんなわたしをルファル様が、部屋にお呼び出しになるなんて。緊張と心細さで、今にもどうにかなってしまいそうだ。ふと、窓辺の小さな机に目が留まる。そこには、無残に真っ二つに折れたルファルの剣と鞘が静かに寝かされていた。それを見た瞬間、胸がきゅっと締め付けられる。『月影! お前が怪異を呼び寄せなければ!』かつて母に浴びせられた言葉が呪いのように蘇る。あのイーグルの怪異が姿を現したのは自分が、“呪い月”だからに違いない。――わたしさえいなければ。ルファル様の大切な剣が折れることもなかったかもしれない、のに。自責の海に沈み込んでいると、その時だった。控えめなノックの音に続いて、静かに扉が開く。振り返ったリリシアの瞳に、うるわしい髪を流したルファルが映り込んだ。そのあまりの美しさと気高さに、リリシアは一瞬、息をすることさえ忘れてしまう。「……剣を、見ていたのか」リリシアの視線の先にある「喪失」に気づいたルファルが、静かに問いかける。「あ……」「そんな顔をするのはもうよせ。私は剣を一本失うより、お前を守れて良かったと思っているのだから」冷酷なはずのその声は、暖かく澄んでいた。リリシアがコクン、と小さく頷くと、ルファルはふっと口元を緩め、「よし」と大きな掌でリリシアの頭をぽんと優しく叩いた。「明日はハクヴィス邸へ帰る前に土産を買いに街へ立ち寄ろうと思う」「……はい」「だから今宵は……、私の隣で眠れ」その言葉の真意を悟った瞬間、リリシアの体中を熱い衝動が駆け巡った。「隣で眠る」――それは、朝が来るまで同じベッドで共に過ごすということを意味していた。ルファルは躊躇うことなくベッドへと歩みを進め、腰を下ろすと戸惑ったまま立ち尽くすリリシアを見て、微かに溜息を吐く。(あ……わたし、また
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