All Chapters of 没落令嬢の家政婦契約 ~冷酷CEOは、初恋を逃さない~: Chapter 91 - Chapter 100

150 Chapters

第91話 破かれたドレスとジャケット④

 私の肩には、彼のジャケットがずっしりと重くのしかかっている。 その重みは、彼が背負っているものの重さであり、私を守ろうとする意志の質量そのものだった。 すれ違う人々が、海が割れるように道を開けていく。 誰ももう、笑っていなかった。 そこにあるのは畏怖と、そして羨望の眼差し。 ボロボロのドレスを隠し、シャツ姿の男に守られて歩く私の姿は、皮肉にも、この会場の誰よりも「特別」に見えたに違いない。 ◇ 会場を出て、冷たい夜風が頬を撫でた瞬間、私は大きく息を吐き出した。 張り詰めていた緊張の糸が切れ、膝がガクンと折れそうになる。 それを、征也の腕が強引に引き上げた。「……しっかりしろ。車までは歩け」 声はぶっきらぼうだった。 けれど、ジャケットの上から私の二の腕をさする手は、火傷しそうなほど熱く、微かに震えているようにも感じられた。「ありがとう、ございます……。あの、ドレス、ごめんなさい……あんなに高価なものだったなんて……」「気にするな。あんな布切れ、いくらでも代わりはある」 征也は前を向いたまま、吐き捨てるように言った。「だが、お前の代わりはいない。……あの女に傷をつけられなくてよかった」 心臓が、早鐘を打った。 代わりはいない。 その言葉が、胸の奥深くに突き刺さる。 嬉しい。どうしようもなく、嬉しい。 でも、同時にどす黒い疑念が頭をもたげる。(騙されちゃダメ。……これは、自分の所有物が傷つくのが嫌なだけよ) 病院で見た、彼と医師の密談。 母を人質にしているという事実。 今日のこの「騎士道精神」も、すべては私を籠の中に繋ぎ止めるためのパフォーマンスなのかもしれない。 「価値がある」と言ったのも、私個人への愛ではなく、十億円を投資した商品としての価値という意味かもしれない。 
last updateLast Updated : 2026-01-23
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第92話 破かれたドレスとジャケット⑤

 彼の瞳が、暗闇の中で飢えた獣のように光っている。「せ、征也くん……?」「あの時……お前は、なぜ言い返さなかった」 彼の声には、隠しきれない苛立ちと怒りが滲んでいた。「ドレスを踏まれ、破られ、笑われて……なぜ黙っていた。昔のお前なら、あのふざけた女の顔にワインをぶちまけていただろう」「……できません。私は、あなたのパートナーとして……迷惑をかけないようにと……」「迷惑だと?」 征也の手が、私の首元のサファイアを掴んだ。 ぐい、と引かれる。首輪を引かれる犬のように、顎を上向かせられる。「俺がいつ、お前にそんな『いい子』になれと言った。……俺が買ったのは、牙を抜かれた人形じゃない」 彼の指が、裂けたドレスの隙間から、背中の素肌に滑り込んできた。 直接触れられる熱さに、背筋がびくりと跳ねる。「っ……!」「悔しかったら噛み付いてみろ。……あの女にできないなら、俺にでもいい」 征也は有無を言わさず私の唇を塞いだ。 甘いキスではない。噛みつき合うような、激情のぶつけ合い。 彼の舌が強引に入り込み、私の口内を荒らし回る。 悔しさ、惨めさ、そして彼に守られたことへの安堵感。 ぐちゃぐちゃになった感情が堰を切って溢れ出し、私は彼の舌を強く吸い返した。「んっ……ふ……!」 破かれたドレスの下で、彼の大きな手が私の身体を弄る。 まるで、壊れていないか、傷ついていないかを確かめるような、乱暴で切実な手つき。 ジャケットの残り香と、彼の本物の体温に挟まれて、私は思考が白く溶けていくのを感じた。 この人は、敵かも知れない。 私を騙し、利用しているかも知れない男だ。 なのに、どうしてこんなにも
last updateLast Updated : 2026-01-23
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第93話 スイートルームの夜景①

 地下駐車場の淀んだ空気の中、滑り込んだ黒塗りの車が音もなく停車した。 外資系の高級ホテル。その地下から直通するエレベーターに乗り込むと、征也は無言のままカードキーをかざし、最上階のボタンを押した。 扉が閉まり、密室が作られる。ふわりと内臓が浮き上がるような感覚と共に、耳が詰まるほどの沈黙が降りてきた。 隣に立つ征也が、私の肩にかけていた彼のジャケットの襟を強引にかき合わせ、ぐい、と自分の方へ引き寄せる。その力は乱暴なようでいて、どこか縋るようにも感じられた。少しでも手を離せば、私が煙のように消えてしまうと本気で恐れているような、そんな切羽詰まった熱が二の腕を通して伝わってくる。 恐る恐る、彼の横顔を盗み見る。 照明に照らされたその顔は、先ほどのパーティー会場で周囲を威圧していた冷たい仮面を被ったままだ。けれど、私の肌に食い込む指先だけが微かに震え、彼の中で暴れ回っている、言葉にできない激情を雄弁に物語っていた。「……部屋を取った」 目的の階に到着した電子音と同時に、彼が短く言った。それ以上の説明はなかった。 足が沈み込むほど分厚い絨毯が敷かれた廊下を、ほとんど引きずられるようにして進む。 足元がおぼつかない私を、彼は腰を抱いて支え、迷いのない足取りで廊下の突き当たりにある重厚な扉を開けた。 一歩足を踏み入れた瞬間、視界いっぱいに広がったのは、暴力的なまでの光の洪水だった。 床から天井まで切り取られた巨大なガラス窓の向こうで、東京の夜景が散らばった宝石のように瞬いている。 東京タワーの赤い灯火、首都高を流れるテールランプの帯、見上げるほど高いビル群の無数の窓明かり。 それは息を呑むほど美しく、そして残酷なほどに人工的な景色だった。 かつて、父と眺めた家の灯りとは違う。ここにあるのは、人の温もりなど及ばない、成功者だけが見下ろすことを許された冷たく圧倒的な「力」の輝きだ。「……きれい……」 思わず唇からこぼれ落ちた呟きは、すぐに遮られた。 背後から強い力で抱きすくめられ、私の視界
last updateLast Updated : 2026-01-24
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第94話 スイートルームの夜景②

「っ……」 ビクリと身体が跳ねるのを止められない。 彼の手は、まるで傷ついた所有物の破損箇所を点検するかのように、背骨のラインをなぞって這い降りていく。 その手つきは慎重で、壊れ物を扱うような優しさがありながら、決して逃がさないという執着に満ちていた。「……寒くないか」「……平気です。あなたが、熱いから」 正直に答えると、征也は喉の奥で獣のように低く唸り、私のうなじに顔を埋めた。 彼の唇が、首に嵌められたサファイアの首輪のすぐ下、脈打つ頸動脈に押し当てられる。 熱い。 彼の吐息が皮膚を焦がし、血管の中を流れる血まで沸騰させてしまいそうだ。 私たちは夜景に背を向け、もつれ合うようにしてソファへと倒れ込んだ。 ◇ 今日の征也の口づけは、いつになく焦れていた。 唇を塞ぎ、舌を絡め合わせるたびに、彼が私の中に何かを探しているのが分かる。 私がまだ彼のものであるという証拠。 私が誰にも傷つけられていないという確信。 そして、私が彼を拒絶しないという絶対的な保証。 ごつごつとした指が、破れたドレスの隙間から入り込み、下着の上から胸を強く掴む。 乱暴だ。けれど、そこにはなりふり構わない必死さが滲んでいる。 エリカの悪意に晒され、大勢の好奇な目に晒されて辱められた私を、彼なりのやり方で「上書き」しようとしているのだ。他の誰の視線も届かない場所へ連れ去り、彼の痕跡で塗り替えるために。「……莉子。俺はお前を……」 重なる唇の隙間で、彼が何かを言いかけた。 けれど、その言葉は形になる前に途切れ、代わりに深い溜息と共に私の首筋を強く吸い上げた。 ちゅ、と湿った音が鼓膜を震わせ、新たな印が肌に刻まれる。 鋭い痛みが走る。でも、その痛みすら、今の私には心地いい楔のように感じられた。 破かれたドレスなんてどうでもいい。世間が私をどう嘲笑おうと構わない
last updateLast Updated : 2026-01-24
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第95話 スイートルームの夜景③

「……いいえ。ただ……あなたのことが、分からなくなって」「分からない?」 征也は不思議そうに首を傾げ、それからふっと、自らを嘲るように口の端を歪めた。「分かる必要はない。お前はただ、俺に愛されていればいい」 愛されていればいい。 その言葉が、決定的な違和感となって胸に深く突き刺さった。 彼は「愛している」とは言わない。「愛されていればいい」と言う。 それは一方的な通告だ。私の意思など関係なく、彼が与えるものを黙って受け取れという命令だ。 征也は私の足を割り、その間に自らの身体を強引に滑り込ませた。 硬く、熱いものが、私の中心に押し当てられる。 心の準備なんてできていない。芯の部分は氷のように冷え切っている。 なのに、身体だけは彼の匂いと体温に反応して、恥ずかしいほど濡れていた。「……っ、ぁっ!」 一気に、奥深くまで貫かれた。 衝撃で視界が白く弾ける。 引き裂かれるような痛みと、脳を揺らす快楽が同時に押し寄せ、私は無意識に彼の背中に爪を立てた。 征也は私の反応を確かめるように、深く、重く、腰を打ち付けてくる。「莉子……莉子……」 彼は私の名前を呼ぶ。 まるで、救いを求める祈りの言葉のように。 窓の外では、東京の夜景が無関心に煌めき続けている。 その光の一粒一粒が、私を見下ろし、嘲笑っているように見えた。 『お前は金で買われた女だ』『父親の仇に抱かれて喜んでいる愚かな女だ』と。 征也の動きが激しくなる。 私の余計な思考を遮断するかのように、彼は執拗に深い場所を突き上げ、私を揺さぶる。 快楽の波が押し寄せ、頭が麻痺していく。 もう、何も考えたくない。 この人が父の仇でも、母を人質にしている悪魔でも、今はどうでもいい。 この熱だけが真実なら、それでいい。 そう思おうとした。 け
last updateLast Updated : 2026-01-24
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第96話 スイートルームの夜景④

 ◇ 目が覚めた時、部屋は漆黒の闇に沈んでいた。 重厚なカーテンが開け放たれたままの窓からは、深夜の街の明かりが弱々しく差し込んでいる。 隣には、征也が眠っていた。 規則正しい寝息。伏せられた長い睫毛。 眠っている顔は、驚くほど幼く、無防備に見える。 つい数時間前まで、飢えた獣のように私を貪っていた男とは思えないほど静かだ。 彼を起こさないよう慎重に身を起こし、ベッドの端に腰を下ろす。 冷房で冷やされた空気が、汗ばんだ肌に触れてひやりとした。 床には、引き裂かれた私のドレスと、征也の脱ぎ捨てたタキシードが無惨に散らばっている。 まるで、嵐が過ぎ去った後の廃墟のようだ。 窓ガラスに近づく。 ぼんやりとガラスに映った自分の姿を見て、私は息を呑んだ。 髪は乱れ、首筋や鎖骨には赤い痕がいくつも散っている。 そして、首にはあの大きなサファイアの首輪。 それは、まぎれもなく「愛玩奴隷」の姿そのものだった。 眼下に広がる夜景を見下ろす。 何万という光。その一つ一つに、誰かの暮らしがあり、ささやかな幸せがあるのだろう。 でも、私には帰る場所がない。 家族と暮らした実家はもうない。母のいる病院も、もはや安全な場所ではない。 そして、この豪華なスイートルームも、私の居場所ではない。 ふと、ガラスに映る征也の寝顔と目が合った気がした。 彼は起きない。 私がこんなに孤独で、寒くて、震えているのに、彼は夢の中だ。 彼はきっと、私を完全に手に入れて満足しているのだろう。 私の心の中に渦巻く真っ黒な疑念や、足元が崩れるような不安なんて、これっぽっちも気づいていない。「……嘘つき」 ガラスに指を這わせる。 ひんやりとした感触が指先から伝わってくる。 蒼くんの言葉が、再びリフレインする。 『真実は一つだ』 もし、征也が本当に父を陥れたのだとしたら。 私は、親の仇に抱かれ、彼に買われたド
last updateLast Updated : 2026-01-24
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第97話 蒼からの小包①

 パーティーから何日経っても、あのスイートルームでの出来事が肌に張り付いて離れない。 征也の腕の中で感じた熱と、その直後に蒼くんが植え付けた冷たい疑惑。 二つの感覚が胸の内で交互に押し寄せてきて、私はずっと息苦しさを抱えていた。 今日の空は、あの嵐の夜を思い出させるような分厚い曇天だ。 昼間だというのに部屋の中まで薄暗い。リビングのソファに浅く腰掛け、読みかけの本を開いてはみたけれど、活字を目で追うだけで内容は頭に入ってこなかった。「……奥様、お届け物です」 不意にかかった声に、びくりと肩が跳ねる。 振り返ると、年配の執事が銀のトレイを差し出していた。乗っているのは、茶封筒に入った厚みのある包みだ。「荷物……? 私に?」「はい。『月島莉子様』宛てに速達で。差出人の記載はありませんでしたが、中身の確認は済ませてあります。危険物は入っておりません」 差出人不明。 胸の奥で、じりっとした焦燥感が燻る。 この屋敷に届く私宛の荷物は、すべて征也の秘書たちがチェックしているはずだ。それが、なぜここまで直接届いたのか。 執事の表情は普段通りで、特に不審がっている様子はない。うまく検閲をすり抜けたか、あるいは「安全な書類」に見せかけた偽装が施されていたのか。「……ありがとう。そこに置いておいて」「かしこまりました。……社長は今夜、会食のためお戻りが遅くなるとのことです」「そう……分かった」 執事が一礼して下がると、広いリビングには重苦しい静けさが戻った。 テーブルの上に残された、茶色の封筒。 何の変哲もない事務用品に見える。けれど、そこから発せられる異様な圧迫感に、喉がからつくのを感じた。 恐る恐る手を伸ばす。 指先が紙に触れた瞬間、冷たいものが指を伝った気がした。 封を切る。 中から滑り出てきたのは、一束の書類と、数十枚の写真。 そして、一枚のメモ。
last updateLast Updated : 2026-01-25
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第98話 蒼からの小包②

「……っ!」 息を呑んだ。 写真に写っていたのは、私だった。 今の私ではない。まだ髪が長くて、質の良いワンピースを着て、何の憂いもなく笑っている私。 背景は大学のキャンパスだ。友人と並木道を歩き、カフェテラスでお喋りをしている。 四年前。 まだ月島家が健在で、私が世間知らずなお嬢様だった頃の姿だ。 一枚、また一枚とめくっていく。 指先が震えだす。 写真は、私の日常を執拗に追いかけていた。 図書館で本を読む横顔。ショッピングモールで服を選んでいる後ろ姿。雨の日、傘を差して歩く姿。 そして、自宅の庭で父とバラの手入れをしている姿まで。 どれも、私がカメラを意識していない、完全な隠し撮りだった。 距離感がおかしい。木の陰から、車の窓越しから、あるいは建物の屋上から。 望遠レンズが、私という被写体を不気味なほど鮮明に切り取っている。「……なに、これ」 気持ち悪い。 誰かが、私を見ていた。 「幸せだ」と信じて疑わなかった毎日の裏側で、常に誰かの冷たい視線が、私の背中に張り付いていたんだ。 写真の束の下から、数枚のコピー用紙が出てきた。 銀行の取引記録や、土地の売買契約書のようなものが印刷されている。 専門的な用語が並ぶ中、赤ペンで囲まれた箇所がいくつかあった。『月島ホールディングス 負債買取契約書』『債権譲渡人:天道投資ファンド』『日付:20XX年4月10日』 日付を見て、血の気が引いた。 四年前。父の会社が倒産する、半年も前の日付だ。 メモ用紙の裏に、蒼くんの追記があった。『驚いたかな。君のお父さんの会社が傾き始めた頃、真っ先に債権を買い占めたのが彼だ。救済のためじゃない。確実に息の根を止め、月島家を終わらせるための準備だよ。彼はね、君の家が潰れるのを、一番特等席で待ち構えていたんだ』 文字がぐにゃりと歪んで見える。 債権の買い占め。破滅への準備。
last updateLast Updated : 2026-01-25
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第99話 蒼からの小包③

「……えっ!!」  喉の奥で悲鳴が凍りついた。  天道征也だ。  間違いない。四年前の彼だ。  彼は、私を見ていた。  恋する少年の眼差しじゃない。  獲物を品定めするような、あるいは、これから殺す相手を観察するような、無機質で恐ろしい目。  私がお気楽な大学生生活を送っていたその背後で、彼はこんな顔をして、じっと私を見つめていたのだ。 「うそ……嘘よ……」  信じたくない。  でも、写真は雄弁すぎた。  蒼くんのメモが、追い打ちをかけるように囁く。 『彼は君を愛しているんじゃない。君を「狩る」ことに執着していただけだ。君が落ちぶれ、泥にまみれ、誰にも相手にされなくなるのを待って……一番惨めな瞬間に、救世主の顔をして現れる。それが彼のシナリオだよ』  パズルのピースが、音を立ててはまっていく。  家政婦として雇われた偶然。  十億円という法外な支援。  異常なまでの束縛と監視。  すべては、彼の復讐劇の一部だったのだとしたら。  私はまんまと彼の掌の上で踊らされ、彼のシナリオ通りに「愛された」と錯覚し、心まで差し出そうとしていたことになる。 「……あっ、あ……」  息がうまく吸えない。  胃が痙攣して、吐き気がこみ上げる。  怖い。  この屋敷が、豪華な鳥籠なんかじゃない、処刑場に見えてくる。  私は殺人鬼の巣に、自分から飛び込んでしまったんだ。  その時。  ――ガチャリ。  重厚な玄関ドアが開く音が、静寂を切り裂いた。  ヒッ、と喉が鳴る。  帰ってきた。  会食で遅くなると言っていたのに。 「……ただいま」  ホールから、低い声が響く。  あの、私の耳元で囁いた声。今はそれが、死刑宣告のように聞こえる。  足音が近づいてくる。  カツ、カツ、カツ。  革靴が床を叩く、規則的で、迷いのないリズム。  隠さなきゃ。  この写真を見られたら、何をされるか分からない。  もっと恐
last updateLast Updated : 2026-01-25
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第100話 蒼からの小包④

「っ……!」 反射的に、身体をのけぞらせて避けてしまった。 空を切った征也の手が、空中で止まる。 沈黙。 張り詰めた空気が、部屋の温度を一気に下げていく。 征也の目が、すっと細められた。 怪訝そうに、そして探るように、私を射抜く。「……避けたな?」 低く、地を這うような声。 怒らせちゃいけない。悟られてはいけない。 私は必死で口角を持ち上げ、震える声で言い訳を紡いだ。「ご、ごめんなさい……ちょっと、考え事してて……驚いちゃって」「考え事?」 征也が一歩踏み込む。 彼の視線が、私の背後にあるソファ――クッションのあたりを一瞬だけ掠めた気がした。 心臓が止まるかと思った。「……お母さんのこと、考えてたの。最近、あんまり会いに行けてないから」「そうか」 征也は短く答えると、それ以上追求してこなかった。 けれど、彼が納得したわけじゃないことは、その瞳の冷たさを見れば分かる。 彼はゆっくりと私の前にしゃがみ込み、目線の高さを合わせた。 逃げ場を塞ぐような体勢。「莉子。……俺に隠し事はしてないな?」 心臓が嫌な音を立てる。 試されてる。 彼は何か勘付いているのかもしれない。 それとも、私の動揺を楽しむための尋問なのか。「……してない。隠し事なんて、あるわけない」「ならいい」 征也は立ち上がり、私の頭に手を置いた。 その掌の重みが、今は鉛のように重く、怖い。 写真の中で、冷たい目で私を見つめていたあの男の手だ。「今日は早く寝ろ。……顔色が最悪だ」 彼はそれだけ言い残して、バスルームへと向かっていった。 ドアが閉まり、シャワーの音が聞こえ始めるまで、私は息
last updateLast Updated : 2026-01-25
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