All Chapters of 没落令嬢の家政婦契約 ~冷酷CEOは、初恋を逃さない~: Chapter 101 - Chapter 110

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第101話 疑惑の種①

 時計の針が、深夜二時を回った。  隣で眠る征也の寝息が、深く、一定のリズムを刻み始めたのをじっと待つ。シーツが擦れる微かな音さえ立てないよう、私は慎重に身体を滑らせてベッドを抜け出した。  冷え切ったフローリングに裸足を乗せた瞬間、足の裏から這い上がってきた冷気が、心臓をぎゅっと鷲掴みにする。  振り返り、ベッドの彼を見る。  昨夜の会食で煽ったアルコールのせいか、征也は泥のように眠っていた。無防備に投げ出された腕、枕に散らばる少し乱れた黒髪。  月明かりに浮かぶその寝顔は、かつて私がひそかに想いを寄せていた少年の頃と何も変わらないように見えて――胸の奥がちくりと痛む。 (……ごめんね、征也くん)  声に出さず、唇だけで謝る。  私は、あなたを裏切ろうとしているわけじゃない。  ただ、信じたいのだ。  蒼くんから送られてきた写真や、彼が囁いた「征也が君の家を潰した黒幕だ」という言葉が、真っ赤な嘘であることを証明したい。  そのためには、この目で確かめるしかなかった。彼が隠している「真実」を。  ガウンを羽織り、帯をきつく締める。私は自分の気配を殺し、忍び足で寝室を出た。  静まり返った廊下は、昼間の暖かさが嘘のように冷たく、どこまでも続いているように思える。  階段を降り、リビングへ向かう。  ソファのクッションの下。そこに隠しておいた封筒を、震える指先で引き抜いた。  中に入っていたのは、蒼くんから渡されたメモだ。端のほうに、小さく数字が走り書きされている。 『4410』  征也の書斎にある金庫の暗証番号だという。  なぜ蒼くんがそんなものを知っているのか。考えると怖くなるけれど、今の私には、その数字だけが唯一の手がかりだった。  封筒を握りしめ、一階の奥にある書斎へと足を向ける。  重厚なマホガニーの扉が、黒い壁のように私の前に立ちはだかった。  この部屋は、征也が「仕事の心臓部だ」と言って、使用人でさえ一歩も立ち入らせない場所。  ドアノブに手をかけ、ゆっくりと回す。  中に入ると、使い込まれた革と古びた紙、そして微かに残る征也の煙草の匂いが、鼻腔をくすぐった。  月明かりだけが頼りの、薄暗い部屋。  壁一面を埋め尽くす本棚。主人の不在を守るように鎮座する大きな執務机。  その背後にある壁に、一枚の絵画が
last updateLast Updated : 2026-01-26
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第102話 疑惑の種②

 でも、ここで引き返せば、私は一生、蒼くんの植え付けた疑念という毒に侵され続け、征也を心から愛せなくなってしまう。  それだけは嫌だ。  私は彼を愛している。だからこそ、曇りのない目で彼を見たい。  4、4、1、0。  ピッ、ピッ、と乾いた電子音が静寂を切り裂いていく。  最後に『ENTER』を押した、その時。  カチャリ。  重々しい金属音が響き、ロックが外れた。  開いてしまった。  私は息を飲み、重たい鉄の扉を手前に引いた。  庫内は二段になっていて、上段には現金の束やパスポートが無造作に放り込まれている。  そして下段。  そこには、黒い革表紙の分厚いファイルが一冊、主のように横たわっていた。  私はそのファイルを両手で取り出し、月明かりが差し込む窓際で開いた。  1ページ目。  目に飛び込んできたのは、見慣れたロゴマークだった。  三日月のシルエットに、イニシャルの『T』。  父がいつも誇らしげに語っていた、月島ホールディングスの社章だ。 『株式譲渡契約書』 『譲渡人:月島 隆之』 『譲受人:天道 征也(天道投資ファンド代表)』  日付は、四年前の四月十日。  父が亡くなる、半年前の日付だ。 「……そんな」  父の会社が倒産したのは、経営不振が原因だと聞かされていた。  でも、この書類が意味する事実は違う。倒産するよりも前に、会社の権利はすべて征也の手に渡っていたということだ。  ページをめくる手が止まらない。紙の擦れる音が、耳障りに響く。  次に出てきたのは、さらに信じがたい書類だった。 『月島ホールディングス解体計画書』。  そして、見覚えのある筆跡で記された『4月10日。月島案件、清算完了』という走り書き。  これ以上ないほど分かりやすい答えだった。  彼が私に向けてくれた甘い視線も、触れる指の熱も、すべてはこの瞬間のための伏線。父から会社を奪い、死に追いやり、その娘を金で買って飼い殺しにする。それが、天道征也という男の描いたシナリオ――。 「……っ」  蒼くんの声が蘇る。 『彼は君を愛しているんじゃない。君を「狩る」ことに執着していただけだ』  証拠は揃っている。誰もがそう判断するだろう。  でも。 「……違う」  私は首を横に振った。  ファイルを握る手に力を込める。
last updateLast Updated : 2026-01-26
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第103話 疑惑の種③

 これは「結果」だ。会社が彼の手に渡ったという、ただの結果に過ぎない。  そこに至るまでの「過程」が、ここには書かれていない。  もしかしたら、彼は父を助けようとしたのかもしれない。あるいは、やむを得ない事情があったのかもしれない。  本人に聞かなきゃ。  勝手に疑って、勝手に絶望して逃げ出すなんて、彼を愛する資格がない。  私はファイルを抱きしめ、顔を上げた。  その時。 「……誰だ」  背後から、闇を切り裂くような声がした。  ヒッ、と小さく息を呑む。  心臓が早鐘を打ち、全身の毛穴という毛穴から冷や汗が噴き出した。  振り返りたくない。怖い。  でも、私は逃げないと決めたのだ。  ゆっくりと、振り返る。  書斎の入り口に、人影が立っている。  逆光で表情は見えない。けれど、その長身のシルエットと、闇よりも深く重たい気配は、間違いなく天道征也だった。  彼は動かない。ただ、じっと私を見下ろしている。  私が抱えているファイルと、開け放たれた金庫、そして床に散らばった写真。そのすべてを見て、状況を理解したのだろう。  カツ、と乾いた足音がした。  彼が一歩、部屋に入ってくる。  私は反射的にファイルを背中に隠そうとして、思い止まった。  隠す必要はない。私は、彼と向き合うためにここに来たのだから。 「……見たんだな」  低く、抑揚のない声。  怒鳴られるよりも、ずっと怖い。  その声には、怒りよりも、どこか諦めにも似た、重たい響きが含まれていた。 「……はい」  震える声で、答える。  征也はゆっくりと私に近づいてくる。  窓から差し込む月の光が、彼の顔を半分だけ照らし出した。  その表情は、能面のように感情が抜け落ちている。けれど瞳だけが、悲しいほどに澄んだ暗闇を湛えて、私を射抜いていた。 「……返せ。それは、俺のだ」  征也は、私が持っているファイルに視線を落として言った。  否定しなかった。「違う」とは言わなかった。  胸の奥が張り裂けそうになる。  でも、私は一歩も引かなかった。彼から目を逸らさず、ファイルを強く握りしめる。 「返しません」 「……なに?」 「返しません。……教えてください、社長。いいえ、征也くん」  私は彼に詰め寄った。  怯えて逃げ出すか弱いヒロインの役は、
last updateLast Updated : 2026-01-26
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第104話 疑惑の種④

 その沈黙が、私の希望を冷たく削り取っていく。 「……否定はしない」  長い沈黙の果てに、彼が紡いだ言葉は、残酷な肯定だった。 「月島の債権を買い叩いて、会社をバラバラにしたのは俺だ。……結果として、お前の父親を追い詰め、死への引き金を引いたのも、俺かもしれない」  顔色ひとつ変えず、ただ事実だけを並べる。  そこには言い訳も、許しを請うような響きもない。「お前のためだった」とか、「仕方なかった」とか、私が期待していた言葉は、ついに一言も紡がれなかった。 「……どうして」  力が抜けていく。  掴んでいた彼の手が、するりと指の間から抜け落ちた。 「どうして……嘘だと言ってくれないの」  私は信じようとした。彼を信じて、ここまで踏み込んだ。  でも、彼自身がそれを拒絶したのだ。  自ら「父の仇」であることを認め、私との間に決定的な壁を築いた。 「俺は、欲しいものを手に入れるためなら手段を選ばない。……会社も、金も、そしてお前もだ」  征也の大きな手が、私の腰を引き寄せる。  いつもなら安心できたその腕が、今は冷たい鎖のように感じられた。  彼の整った顔が近づいてくる。影が落ちる。唇を重ねようとしているのだと分かった瞬間、私の中で何かが壊れた。 「……触らないで!!」  私はありったけの力で、彼の胸を突き飛ばした。  不意をつかれた征也が、よろりと一歩後退る。  私はファイルを床に叩きつけ、彼を睨みつけた。 「信じたかったのに……! あなたなら、何か理由があるはずだって……信じようとしたのに!」  涙が止まらない。  愛していたからこそ、その裏切りが許せない。  私を「ただの獲物」としてしか見ていなかった彼を、これ以上愛することなんてできない。 「……出て行って。……顔も見たくない」  征也は、殴られたような顔をしていた。  伸ばしかけた手が、宙を彷徨い、やがて力なく下ろされる。  彼は何も言わず、ただ深く傷ついた獣のような目で私を一瞥し、背を向けた。  遠ざかる背中。  私はその場に崩れ落ち、声を押し殺して泣いた。  信じようとした私の心は、彼自身の沈黙によって、粉々に砕かれてしまった。
last updateLast Updated : 2026-01-26
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第105話 孤独の影①

 窓ガラスを叩く雨の音が、不快なリズムで鼓膜を揺らす。  キングサイズのベッドは一人には広すぎた。私はシーツの端で膝を抱え、ただじっとしている。指先が冷たい。氷水に浸したあとのように感覚がないのに、胸の奥だけが嫌な熱さで燻っている。  目の前には、書斎の金庫から持ち出したファイルが散らばっていた。 『月島ホールディングス解体計画書』。  そして、見覚えのある筆跡で記された『復讐完了』という走り書き。  これ以上ないほど分かりやすい答えだった。蒼くんが言った通り、彼が私に向けてくれた甘い視線も、触れる指の熱も、すべてはこの瞬間のための伏線だったのだと、この書類は告げている。  父から会社を奪い、死に追いやり、その娘を金で買って飼い殺しにする。それが、天道征也という男の描いたシナリオだと。 「……違う」  私は小さく首を振った。  書類の文字は残酷な事実を突きつけてくるけれど、私の記憶の中にある彼の手の温もりは、それを否定している。  あの日、高所から落ちた私を受け止めた、震える腕。  ドレスを破られた私にジャケットをかけ、「価値がある」と言い切った毅然とした声。  あれがすべて演技だとしたら、彼はどれほど冷酷な怪物だというのだろう。  でも、私が見てきた彼は、もっと不器用で、人間臭くて、どこか寂しげな人だった。 (……聞かなきゃ。本人に)  この書類が真実なのか。それとも、まだ私が知らない事情があるのか。  勝手に決めつけて絶望して逃げ出すのは簡単だ。でも、それでは彼と同じになってしまう。  私は、彼の口から真実を聞き出したい。たとえそれが、どんなに残酷な答えだったとしても。  その時。  ピピッ、と電子音が静寂を裂いた。  ドアロックが解除される音。  息が止まる。来る。  ドアが重々しく開き、廊下の薄明かりを背負って征也が入ってきた。  手にはカードキー。彼は部屋の惨状――散らばった書類と、蒼ざめた私――を一瞥しても、表情ひとつ変えない。
last updateLast Updated : 2026-01-27
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第106話 孤独の影②

 後ろ手でドアを閉める。  カチャリ。再び密室が出来上がる音が、心臓を雑巾絞りのように締め上げた。 「……莉子」  名前を呼ばれる。  いつもなら、その低い声だけで胸が跳ねたはずなのに。今は、背筋を這い上がるような緊張感が走る。  私はベッドの上で居住まいを正し、彼を真っ直ぐに見据えた。  逃げない。ここで目を逸らせば、二人の関係は本当に終わってしまう気がしたからだ。  征也はゆっくりと、ベッドサイドまで歩み寄ってきた。  シャツのボタンはいくつか外れ、ネクタイも緩んでいる。その顔には、先ほど書斎で見せた動揺の欠片もなかった。能面のように静か。ただ、その瞳だけが底のない沼のように暗く、私を射抜いている。 「……それを返せ」  彼は静かに手を差し出した。  怒鳴るわけでもない。淡々とした、部下に指示を出す時のような声色。それが余計に、彼の拒絶――私の介入を許さないという意志――を感じさせた。 「……嫌」  喉が張り付いて、声が擦れる。それでも、私はファイルを抱きしめる腕に力を込めた。 「返しません。……これは、お父様の命そのものですから」 「命だと?」  征也の眉が、わずかに動く。  彼は差し出した手を下ろすと、どさり、とベッドの端に腰を下ろした。  マットレスが大きく沈み込み、彼の体重が生々しく伝わってくる。近い。ムスクと煙草の混じった匂い。  数時間前まで、安心できる香りだと思って肺いっぱいに吸い込んでいたそれが、今は鼻の奥をツンと刺激する。 「それは、ただのビジネスの記録だ。……いちいち感情を持ち込むな」 「ビジネス……?」  頭の中で、冷静な部分が警鐘を鳴らす。  あえて突き放すような言い方。彼は、何かを隠そうとしている。 「人を自殺に追い込んでおいて、それがビジネス? 会社を乗っ取って、バラバラに解体して……それがあなたの言う仕事なの?」  私はファイルを彼に突きつけた。  バサリと紙束が散らばり、あの『清算完了』のメモが、征也の膝の上に舞い落ちる。 「答えて! これがお父様への復讐だったんでしょう? 4年前の、私への腹いせに……私の家を潰そうと計画したんでしょう! 『清算』って、そういう意味なんでしょう!」
last updateLast Updated : 2026-01-27
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第107話 孤独の影③

 わざと強い言葉を使った。彼を怒らせてでも、本音を引き出したかったから。  征也は膝の上のメモを拾い上げ、目を細めた。  その瞬間、彼の瞳にさざ波のような揺らぎが走ったのを、私は見逃さなかった。  図星なのか。それとも、別の痛みがそこにあるのか。 「……違う」  彼は短く否定した。けれど、その声にはいつもの傲慢な響きがない。 「何が違うのよ! 証拠はあるの! 日付も、サインも、あなたの筆跡も……全部ここにあるじゃない!」 「莉子、聞け。それは……」 「聞きたくない! ……なんて、言うと思った?」  私は叫び出しそうになる衝動を抑え、彼の目を覗き込んだ。 「聞きたいわ。あなたの口から。……この書類が語っていない『何か』があるなら、今すぐ説明して」  私の予想外の言葉に、征也が息を呑んだ。  私は彼の手を掴んだ。温かい手。私が愛してしまった手。 「蒼くんは言っていたわ。あなたが最初から私を陥れるつもりだったって。……でも、私は信じたくない。だって、あなたが私に向けてくれた優しさが全部嘘だったなんて、どうしても思えないの!」  涙が溢れてくる。  すがりつくような私の言葉に、征也の顔が苦痛に歪んだ。  彼は痛ましげに目を細め、何かを言いかけ――そして、口をつぐんだ。  その沈黙が、私の希望を冷たく削り取っていく。 「……否定はしない」  長い沈黙の果てに、彼が紡いだ言葉は、残酷な肯定だった。 「月島の債権を買い叩いて、会社をバラバラにしたのは俺だ。……結果として、お前の父親を追い詰め、死への引き金を引いたのも、俺かもしれない」  顔色ひとつ変えず、ただ事実だけを並べる。  そこには言い訳も、許しを請うような響きもない。「お前のためだった」とか、「仕方なかった」とか、私が期待していた言葉は、ついに一言も紡がれなかった。 「……どうして」  力が抜けていく。  掴んでいた彼の手が、するりと指の間から抜け落ちた。 「どうして……何も言ってくれないの」
last updateLast Updated : 2026-01-27
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第108話 孤独の影④

 私は信じようとした。彼を信じて、ここまで踏み込んだ。  でも、彼自身がそれを拒絶したのだ。  何か理由があるはずなのに。私にはそれを話す価値もないと言うの?  私は、守られるだけの子供じゃない。真実を共有して、一緒に背負うことさえ許されないの? 「俺は、欲しいものを手に入れるためなら手段を選ばない。……会社も、金も、そしてお前もだ」  征也の大きな手が、私の腰を引き寄せる。  いつもなら安心できたその腕が、今は冷たい鎖のように感じられた。  彼の整った顔が近づいてくる。影が落ちる。  言葉で説明する代わりに、身体で口を塞ごうとする。その態度が、私を何より傷つけた。  私を一人の人間として扱っていない。ただの「所有物」として、快楽で誤魔化そうとしている。 「……触らないで!!」  私はありったけの力で、彼の胸を突き飛ばした。  不意をつかれた征也が、よろりと一歩後退る。  私はファイルを床に叩きつけ、彼を睨みつけた。 「ふざけないで……! 私が欲しいのは、そんな誤魔化しのキスじゃない!」  涙が止まらない。  愛していたからこそ、その不誠実さが許せない。  私を「対等なパートナー」としてではなく、ただ守られるだけの「無知な獲物」として扱おうとする彼を、これ以上受け入れることなんてできない。 「あなたの言う通りね。……あなたは手段を選ばない最低な男よ。私の心なんて、これっぽっちも見ていない!」 「……莉子」 「出て行って。……顔も見たくない」  征也は、殴られたような顔をしていた。  伸ばしかけた手が、宙を彷徨い、やがて力なく下ろされる。  彼は何も言わず、ただ深く傷ついた獣のような目で私を一瞥し、背を向けた。  遠ざかる背中。  私はその場に崩れ落ちそうになるのを堪え、去りゆく彼を睨みつけ続けた。  泣いてなんてやるものか。  彼が私を信じてくれないなら、私だって彼を信じない。
last updateLast Updated : 2026-01-27
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第109話 孤独の影⑤

 バタン、と重厚なドアが閉まる音。  それが、私たちを繋いでいた細い糸が、完全に断ち切られた音のように聞こえた。  部屋に残された私は、床に散乱した書類の海の中で、膝を抱えて小さくうずくまる。  これで、よかったはずだ。  彼がひた隠しにしてきた罪を突きつけ、拒絶し、言葉の刃でその心を切り裂いてやった。  それなのに。  どうして、こんなにも胸が痛いのだろう。  最後に見た、征也の目。  傷ついた子供のような、どうしようもない孤独と恐怖が滲んでいたあの目が、脳裏から離れない。 (……どうして何も言わないのよ、馬鹿)  悔し涙がこぼれ落ちる。  私が欲しかったのは、潔白の証明なんかじゃなかった。ただ、「信じてくれ」という一言だけでよかったのに。  それさえも言えないほど、彼は何かを抱え込んでいるのだろうか。  それとも、本当に私が思うような冷酷な人間なのか。  ブブッ、と手元のスマートフォンが短く震え、思考を現実に引き戻した。  無機質な液晶画面に浮かび上がる『蒼くん』の文字。  まるで、この密室での出来事を壁の向こうから覗いていたかのような、絶妙すぎるタイミングだった。 『見たかな? 辛かっただろう。……でも、これで君も目が覚めたはずだ』  メッセージの続きが表示される。 『準備はいい? 来週、病院へ行くだろう? その時、迎えに行くよ。……あの悪魔の手から、君を救い出すために』  来週、病院。  なぜ蒼くんがそのことを知っているのか。今の私には、そんな疑問を持つ余裕さえなかった。  私は涙を拭い、スマホをぎゅっと握りしめる。  ここにいてはダメだ。  征也の沈黙は、私を遠ざけるための壁だ。その壁の中に閉じ込められたままでは、私は一生、真実を知ることはできない。  外に出よう。  この冷たい檻のような屋敷を出て、自分の足で確かめるんだ。  蒼くんの言うことが正しいのか、それとも征也の沈黙に意味があるのか。  母を連れて逃げる。それは、彼から離れるためだけじゃない。  私自身が、自分の人生を取り戻すための戦いなんだ。  首元のサファイアが、冷たく光った。  私はその輝きを隠すように、ガウンの襟をかき合わせた。  窓の外では、雨足がいっそう激しさを増していた。  叩きつけるような雨音が、世界を黒く塗りつぶし
last updateLast Updated : 2026-01-28
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第110話 孤独の影⑥

 ◇ 廊下に出た征也は、ドアに背中を預けたまま、動けずにいた。  膝から力が抜け、ずるずると床へ崩れ落ちそうになるのを、歯を食いしばって必死で堪える。  左手が、小刻みに震えている。  彼女に触れようとして、拒絶された手だ。 『私の心なんて、これっぽっちも見ていない!』  莉子の悲痛な叫びが、呪いのように鼓膜にへばりついて離れない。 「……っ、ぐ……」  喉の奥から、乾いた呻きが漏れた。  痛い。  心臓を素手で鷲掴みにされ、握り潰されたようだった。  彼女の言う通りだ。  俺は彼女を守るつもりで、結局は彼女の意志を無視し、真実から遠ざけていただけだ。  「対等なパートナー」ではなく、「守るべき対象」としてしか見ていなかった俺の傲慢さが、彼女を傷つけた。 (……だが、言えない)  征也は、震える手で顔を覆った。  あそこで「俺じゃない」「神宮寺がやったんだ」と説明することはできた。  だが、今の俺にそれを証明する手立てはない。神宮寺蒼は狡猾だ。自分の手を汚さず、すべての痕跡を綺麗に消し去り、俺になすりつけている。  今、莉子に中途半端な真実を告げても、「往生際が悪い」「嘘つき」と罵られるだけだ。  それに、下手に神宮寺を刺激すれば、奴は何をするか分からない。莉子の身に、取り返しのつかない危険が及ぶかもしれない。  ならば、自分が泥を被り、悪役になればいい。  父の仇として憎まれ、軽蔑されても、彼女をこの手元に置いて守り抜く。  それが、不器用で愚かな今の自分にできる、唯一の償いであり、愛し方だ。 「……嫌っていいぞ、莉子」  誰もいない薄暗い廊下で、彼は誰に聞かせるでもなく呟いた。 「俺を殺したいほど憎んでくれ。……そうすれば、お前は俺から目を逸らせない」  歪んだ論理だとは分かっている。  でも、そうでもしなければ、心が粉々に砕けてしまいそうだった。  征也は壁に手をついて立ち上がり、ふらつく足取りで歩き出した。  その背中は、かつてないほど小さく、深い孤独の影を長く引きずっていた。
last updateLast Updated : 2026-01-28
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