All Chapters of 没落令嬢の家政婦契約 ~冷酷CEOは、初恋を逃さない~: Chapter 131 - Chapter 140

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第131話 つわりと検査薬⑤

 私はお腹を両手で覆い、彼を睨みつけた。 征也への憎しみも、自分の境遇への嘆きも、今はどうでもいい。ただ、この子を守らなければ。それだけが、今の私を突き動かす唯一の本能だった。「……へえ」 蒼くんは目を丸くし、それから心底残念そうにため息をついた。「困ったなあ。……毒が脳まで回っているみたいだ」 彼は私の肩を掴み、強く壁に押し付けた。痛い。でも、私は目を逸らさなかった。「いいかい、莉子ちゃん。君に選択権はないんだよ」 蒼くんの顔が近づく。整った顔立ちが、歪んで見える。「君は僕のものだ。……君の中身も、君の未来も、すべて僕が決める」「……征也くんが、許さないわ」 震える声で、虚勢を張った。 彼なら。あの男なら、自分の子供が殺されそうになっていると知ったら、きっと地獄の底からでも這い上がってくるはずだ。たとえ私を愛していなくても、自分の所有物への執着だけは誰にも負けない人だから。「天道?」 蒼くんは鼻で笑った。「あいつはもう、君のことなんて忘れているよ。……今は会社の危機で手一杯だからね」「……どういうこと?」「僕が少し、手を回したんだ。……天道グループの不正会計疑惑。株価は大暴落、銀行団も融資を引き上げている。……今頃あいつは、社長の椅子を守るのに必死で、逃げた女のことなんて構っていられないさ」 嘘だ。 征也が、そんなことで私を諦めるはずがない。 でも、もし本当なら? もし、彼が全てを失って、私を探す力さえ奪われていたとしたら? 絶望が、足元から這い上がってくる。 誰も来ない。助けなんてない。 この密室で、私はこの狂った男に、お腹の子を殺されるのを待つだけなのか。「……さあ、今日はもうお休み。明日は忙しくなるよ」 蒼くん
last updateLast Updated : 2026-02-02
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第132話 父の仇の子①

 神宮寺蒼が部屋を出て行き、重たい鍵がガチャリと閉められた瞬間、部屋の空気が急速に冷え込んだ気がした。 あとに残されたのは、耳が痛くなるほどの静寂と、私の腹の底に宿った小さな熱の塊だけだった。 膝の力が抜け、その場に崩れ落ちる。冷たいフローリングの感触が、薄いワンピース越しに太腿に伝わってくる。その冷たさが、今の私の置かれた状況を冷酷に突きつけていた。 ここは部屋ではない。潔癖な狂人が作り上げた、真っ白で無機質なショーケースだ。私はここで、私の意思とは無関係に「修理」され、彼の望む理想の人形へと作り変えられようとしている。 震える両手を、そっと下腹部に当てた。 まだ何の変化もない、平らなお腹。でも、確かにここにいる。蒼くんが「寄生虫」と呼び、「汚れ」と罵った命が。そして、私が愛し、憎んでいる男の子供が。 征也の、子ども……。 その事実を言葉にして反芻した途端、胸の奥が張り裂けそうなほど激しく脈打った。心臓が早鐘を打ち、全身の血液が逆流するような感覚に襲われる。 どうして。どうして、こんなことになってしまったのだろう。 私の脳裏に、あの日の書斎での光景が蘇る。金庫から出てきた『月島ホールディングス解体計画書』。征也の筆跡で記された『清算完了』の文字。彼が私の父を追い詰め、全てを奪い去った張本人だという、動かぬ証拠。「……父さんの、仇の子」 乾いた唇から、呪いのような言葉がこぼれ落ちる。 この子は、私から家族を奪い、人生を狂わせた男の血を引いている。本来なら、憎むべき存在なのかもしれない。蒼くんが言うように、私の人生についた「汚れ」なのかもしれない。 けれど。 お腹に当てた掌から、じわりと温かいものが伝わってくる気がした。それは、あの冷徹な「天道征也」のイメージとは結びつかない、ひどく懐かしくて、泣きたくなるほど優しい温度だった。
last updateLast Updated : 2026-02-02
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第133話 父の仇の子②

 記憶が、勝手にフラッシュバックする。 父の仇だと知る前、彼と過ごした蜜月の日々。『お前を守るためなら、何だってする』と言った声。熱に浮かされた私に、不器用な手つきでお粥を食べさせてくれた彼。私の涙を、大きな親指で乱暴に、けれど慎重に拭ってくれた彼。パーティー会場で、破かれたドレスを隠すために、自分のジャケットを迷わず着せてくれた彼。 全部、演技だったはずだ。私を飼い慣らすための、計算された甘い罠だったはずだ。 でも、身体は嘘をつけない。 私の肌は、彼の指の熱さを覚えている。私の鼻腔は、彼の纏っていたムスクと煙草の匂いを、酸素よりも求めている。そして私の子宮は、彼の種を受け入れ、こうして命を芽吹かせている。「……会いたい」 憎しみの蓋を押しのけて、本音が溢れ出した。涙がボロボロとこぼれ落ち、床に染みを作る。 会いたい。父の仇でもいい。人殺しでもいい。 あの、世界中を敵に回しても私を離さないと言ってくれた、傲慢で寂しがり屋な男に会いたい。『俺が死んでも、お前は道連れだ』。あんなに酷いことを言われたのに。その言葉が、今はどうしようもなく恋しい。あの圧倒的な熱量で、私をこの冷たい孤独から焼き尽くしてほしい。「……ごめんね、お父さん」 私は天井を見上げて、亡き父に謝った。 娘として、あるまじき感情だ。家を潰した男の子を宿し、あまつさえその男を求めているなんて。でも、もう止められない。このお腹の中にある命は、私と征也が、確かにこの世界で交わり、存在したという唯一の証なのだから。「……守るから」 私はお腹を強く抱きしめた。爪が服に食い込むほど、強く。「私が、守る。……この子は、誰にも渡さない」 蒼くんになんて、絶対に殺させない。たとえこの身がどうなろうと、この小さな命だけは、私の命に代えても守り抜く。 それが、父の仇を愛してしまった愚かな私にできる、せめてもの贖罪であり、そして初めて自分で選んだ「意志」だった。 窓の外では、風が轟々と唸りを上げている。まるで、私
last updateLast Updated : 2026-02-02
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第134話 父の仇の子③

 ◇ 長い夜だった。一睡もできなかった。 眠れば、悪夢にうなされる気がした。蒼くんに手術台に乗せられ、冷たい器具でお腹の中を掻き出される夢。あるいは、征也が私を見つけられず、遠くへ去っていってしまう夢。 私はベッドの隅で膝を抱え、ただひたすらに夜明けを待った。感覚が研ぎ澄まされ、時計の秒針の音が鼓膜を叩く。カチ、カチ、カチ。それは、処刑の時間へと近づくカウントダウンのようだった。 また、吐き気がこみ上げてくる。胃の中は空っぽなのに、内臓が裏返るような不快感が治まらない。つわりだ。この苦しみが、赤ちゃんが生きている証拠だと思えば、耐えられた。 ふと、胸元の奥、肌着の下に隠した硬い感触を意識する。 サファイアのネックレス。蒼くんに見つからないように必死で守り抜いた、征也からの贈り物。冷たかった石は、一晩中私の肌に密着していたせいで、生温かく濡れていた。『これは契約の証だ。絶対に外すな』 あの時の彼の声が蘇る。低い、命令口調。でも、その裏にあった必死な響き。彼は、私を縛りたかったんじゃない。私と離れるのが、怖かっただけなんじゃないか。(……征也くんも、探してくれているの?) 蒼くんは言っていた。『あいつはもう、君のことなんて忘れているよ』と。会社の危機で手一杯で、逃げた女のことなんて構っていられないと。 でも、信じられない。 あの男が、そんな簡単に自分の所有物を手放すはずがない。彼は執着の塊だ。一度手に入れた獲物は、死んでも離さない獣だ。「……信じてる」 私は服の上から石を軽く押し、お腹に手を当てた。 この子は、復讐の道具なんかじゃない。私と征也が、確かに惹かれ合っていた時間の結晶だ。父の仇かもしれない。私を騙していた大嘘つきかもしれない。それでも、私の身体は彼を求め、彼の子を守りたいと叫んでいる。「……守るから」 暗闇に向かって、誓った。誰にも渡さない。蒼くんが明日、どんな残酷な手段でこの子を奪おうとしても、私は絶対に屈しない。「ごめんね、こんなお母さんで。&hel
last updateLast Updated : 2026-02-03
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第135話 父の仇の子④

 ◇ 同時刻。 激しい雨が叩きつける国道を、黒塗りのSUVが猛スピードで疾走していた。 ハンドルを握る天道征也の目は、充血し、血走っていた。三日三晩、一睡もしていない。食事も喉を通らず、ただ水だけで命を繋ぎ、狂ったように莉子の行方を追い続けていた。 助手席の端末が、ピ、と短い電子音を立てる。『社長、特定しました』 スピーカーから、秘書室長の緊迫した声が響く。『Nシステムの通過記録と、微弱な電波反応が一致しました。神宮寺が所有する山間部の別荘……通称「シェルター」と呼ばれる場所です』「……でかした」 征也の声は、砂を噛んだように掠れていた。だが、その奥底には、溶岩のような熱量の殺意が煮えたぎっている。『ただちに警備隊を急行させます。到着まであと三時間――』「遅い」 征也はアクセルをさらに踏み込んだ。エンジンが悲鳴を上げ、車体がきしむ。「俺が先に行く。……一刻も待てない」 脳裏に焼き付いているのは、最後に見た莉子の顔だ。怯え、傷つき、それでも気丈に振る舞おうとしていた彼女。そして、病院の地下駐車場で、神宮寺蒼の車に乗り込んだ時の、あの絶望したような瞳。 ハンドルを握る拳が、白く変色するほど力がこもる。 俺がもっと早く、真実を話していれば。変なプライドを捨てて、彼女に縋っていれば。あんなハイエナのような男に、彼女を奪われることはなかった。『あいつはもう、君のことなんて忘れているよ』 神宮寺が莉子に吹き込んだであろう言葉が、幻聴のように耳元で囁く。 そんなわけがない。忘れるはずがない。片時も、一秒だって、彼女を忘れたことなどない。 会社の危機? 株価の暴落? そんなもの、どうでもいい。 全財産を失っても、社会的地位を剥奪されても、莉子さえいればそれでよかった。彼女がいない世界に、何の価値があるというのか。「……待っていろ」 フロントガラスを叩く雨の向こう、漆黒の闇を見据える。その先に
last updateLast Updated : 2026-02-03
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第136話 狂気のディナー①

 窓ひとつない密閉された部屋に、重たく湿った衣擦れの音が響く。 歩くたびに足元でシュ、シュ、と鳴る乾いた摩擦音は、まるで降り積もった枯れ葉の上を踏みしめているようで、背筋が寒くなった。「……うん、やっぱり素敵だよ。莉子ちゃん」 神宮寺蒼が、ほう、と熱っぽい息を吐き出す。 眼鏡の奥で細められた瞳は、私を見ているようでいて、どこか透き通って焦点が合っていない。彼が見ているのは生身の私ではなく、自分が丹精込めて作り上げた『作品』としての私なのだと肌で感じる。 壁に掛けられた鏡の中に、見知らぬ女が映っていた。 顔色は土気色で、吐き気をこらえるように口元を引き結んでいる。 身にまとっているのは、ウェディングドレスだ。けれど、それは花嫁が袖を通すような真新しい純白ではない。幾重にも重なったレースは黄ばみ、裾のあたりには洗っても落ちなかったらしい茶色い染みが点々とこびりついている。 鼻を突くのは、饐えたような防虫剤の臭気と、長い時間を経た布特有の埃っぽい匂い。息を吸うたびに肺の奥がざらつくようで、胸焼けがした。「これね、100年くらい前のフランスのアンティークなんだ。……没落した貴族の令嬢が着ていたものらしいよ」 蒼くんは愛おしそうに、私の背中に並んだ小さなくるみボタンを一つずつ留めていく。 ひやりと冷たい指先が背骨に触れるたび、氷の塊を押し当てられたように身体が強張った。「美しいものは、時間が経っても美しいままだね。……むしろ、時が止まったようなこの風合いこそが、永遠を感じさせると思わない?」「……重い」 喉の奥から、掠れた声がようやく漏れる。 物理的な重量だけではない。何重にも重ねられたペチコートと、肋骨をきつく締め上げるコルセットの圧迫感。首元まで覆い尽くすカビ臭いレースが気道を塞ぎ、呼吸をするのさえ苦しかった。「少しの辛抱だよ。……今日は二人だけの結婚式なんだから」 結婚式。 この男は、正気でそう言っているのだ。
last updateLast Updated : 2026-02-03
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第137話 狂気のディナー②

 ◇ 通されたダイニングルームは、どこか現実味のない光景だった。 普段は生活感など微塵もない無機質な白い部屋が、今はキャンドルの灯りだけでぼんやりと照らし出されている。 テーブルには古めかしい銀の燭台が並び、空調の風に揺らめく炎が、壁に長い影を落としていた。 窓の外は漆黒の闇だ。 雨風がガラスを叩く音が遠くから聞こえるだけで、ここが世界の果てであるかのような錯覚に陥る。「座って」 上座の椅子を引かれ、言われるがままに腰を下ろす。 目の前には、フレンチのフルコースらしき皿が並べられていた。前菜のテリーヌ、スープ、メインの魚料理。どれもすっかり冷めきっていて、ソースの表面には薄い膜が張っている。いつから用意されていたのだろう。「……食べられない」 料理から漂う脂の匂いと、ドレスの古臭い匂い、そして蝋燭の芯が焦げるような匂いが鼻孔で混ざり合い、つわりの吐き気を刺激する。胃の腑が裏返るような不快感に、口元を押さえた。「一口だけでいいんだ。……僕の愛を受け取ってくれないかい」 蒼くんは向かいの席に座り、手元のワイングラスをゆっくりと揺らした。中身は赤ワインではなく、透明な炭酸水のようだ。 彼は私が妊娠していることを「考慮」しているつもりらしい。明日には殺すつもりの子供のために。「……いただきます」 震える手でフォークを握りしめる。 小さく切り取ったテリーヌを、無理やり口に運んだ。 舌の上で脂が溶ける感触がするだけで、味なんてしない。じゃり、と砂を噛んでいるようだった。「美味しいかい?」「……ええ」「よかった。……明日の手術が終われば、もっと美味しく食べられるようになるよ」 カチャン、とフォークが皿に当たる硬質な音が響く。 蒼くんは穏やかに微笑んだまま、残酷なことを口にする。「悪いものは全部取り除いて、君を真っ白に戻してあげる。……
last updateLast Updated : 2026-02-03
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第138話 狂気のディナー③

「……ねえ、莉子ちゃん。ずっと気になっていたんだけど」 彼の手が、私の首元に伸びてきた。 アンティークドレスの立ち襟の隙間から、細い指先が滑り込んでくる。「……これ。随分と目障りだね」 ヒッ、と息を呑む。 彼が触れたのは、私が肌身離さず身につけていた、サファイアのネックレスだった。 肌着の下、ドレスの下に隠していたはずなのに。襟元から、わずかにチェーンが見えていたのかもしれない。「……外そうか」「やめて!」 私は反射的に彼の手を払い除け、首元を両手で押さえた。「触らないで」「……どうして? そんな汚い鎖」 蒼くんの声が、一段低くなる。 彼の指が、再び伸びてくる。今度は遠慮なく、スカーフごとドレスの襟を強引に押し広げ、隠していた青い石を露わにした。 キャンドルの薄明かりの中で、大粒のサファイアが鈍く、怪しく光る。 その輝きは、このカビ臭い部屋には似合わない、研ぎ澄まされた冷徹な美しさを放っていた。「ああ……やっぱり」 蒼くんは顔をしかめ、汚物を見るような目で石を見つめた。「天道が贈ったものだろう? あいつの瞳と同じ色だ。……不愉快極まりない」「関係ない。これは私のものよ」「違うね。これは『首輪』だ。君を家畜のように繋ぎ止めるための、所有の証だ」 彼はネックレスのチェーンに指を掛け、強く引っ張った。 首の後ろの肉に金属が食い込み、焼けるような痛みが走る。「痛っ……!」「外してあげるよ。こんなものがあるから、君はいつまでもあいつの呪縛から逃れられないんだ」「嫌……っ! やめて!」 私は椅子から転がり落ちるようにして逃げようとした。けれど、重たいドレスの裾が足に絡まり、思うように動けない。蒼くんは私の上に覆いかぶさり、執拗に留め具を外そうとす
last updateLast Updated : 2026-02-04
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第139話 狂気のディナー④

「……ふざけるな」 蒼くんが低く呟いた。 次の瞬間、彼は私の胸ぐらを――ドレスのレースごと乱暴に掴み上げた。 ビリッ、と音がして、古い生地が裂ける。「君は、そんなに汚れたいのか!? あんな、君の親を殺した男の奴隷でいいと言うのか!?」「いいわよ!」 私は涙目で睨み返した。「奴隷でも、ペットでもいい! ……あんな冷たい地下室に飾られる人形になるより、ずっとマシ!」「……っ!」 蒼くんの顔が、怒りで歪む。 彼は右手を振り上げた。殴られる。私は覚悟して目を閉じた。 けれど、拳は振り下ろされなかった。 代わりに、彼は私の首を絞めるように掴み、耳元で囁いた。「……そうか。そこまで毒されているなら、荒療治が必要だね」 彼の指が、ネックレスのチェーンを引きちぎらんばかりに力を込める。 気道が圧迫され、息ができない。鎖骨に石がめり込み、骨が軋んだ。「明日の手術で、中身を空っぽにしてあげる。……そうしたら、この首輪も必要なくなるさ」「ぐっ……ぅ……」「その時、この石は粉々に砕いて、君の目の前で捨ててあげるよ。……楽しみにしていてね」 蒼くんはパッと手を離した。 私は床に崩れ落ち、激しく咳き込む。酸素を求めて喘ぐ喉に、ネックレスの冷たさが張り付いていた。「……今日はもう、お休み」 彼は冷たく言い放ち、ダイニングルームを出て行った。 重厚な扉が閉められ、鍵がかかる音が響く。 残されたのは、私と、揺れるキャンドルの炎だけ。そして、首元に残る痛みと、サファイアの重み。「……はぁ、はぁ……」 私は床にうずくまり、ネックレスを強く握りしめた。 渡さない。絶対に渡さない。
last updateLast Updated : 2026-02-04
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第140話 真実の告白①

 部屋に押し戻され、外から鍵を回す音が響いてから、どれくらいの時間が過ぎただろう。 窓の外は、夜というよりは泥のような闇に塗り潰されている。ガラスを叩きつける雨音が不規則なリズムを刻み、時折走る稲妻の青白い光が、窓に嵌められた鉄格子の影を床に長く伸ばしては消えた。 私は、蒼に切り裂かれたアンティークドレスを脱ぎ捨て、部屋の隅で膝を抱えていた。薄い毛布を頭からかぶり、自身の体温を逃がさないようにうずくまる。 首元に残ったサファイアの石を、指が白くなるほど強く握りしめた。 寒い。 空調の音は微かに聞こえているはずなのに、骨の髄まで凍りつくような悪寒が止まらない。 神宮寺蒼という男の底知れなさ。 彼は私を愛してなどいない。私という素材を、自分の好みに切り刻んで標本箱に収めたいだけだ。明日の朝になれば、私は手術台に乗せられ、麻酔で意識を奪われる。そして目が覚めた時には、お腹の中の温かい命は消え失せ、心も体も空っぽの人形として、あの地下室のコレクションに加えられるのだ。 嫌だ。 奥歯を噛みしめる。顎が痛くなるほど食いしばる。 絶対に渡さない。たとえ父の仇の血を引いていたとしても、私の中に宿った、征也との唯一の繋がりなのだから。 その時だった。 コツ、コツ、コツ。 廊下の静寂を破り、革靴の音が近づいてくる。 また、彼だ。心臓がきゅっと縮み上がり、喉の奥が引きつる。もう放っておいてほしい。朝まで時間をくれると言ったくせに。 ガチャリ。 重たい金属音がして、ドアが開く。「……まだ起きていたの? 莉子ちゃん」 入り口に、神宮寺蒼が立っていた。 片手には年代物のワイングラス、もう片方の手には開栓されたボトルがぶら下がっている。さっきまでの正装ではなく、艶のあるシルクのガウンを羽織っていた。風呂上がりなのか、石鹸の匂いと共に、どこか湿った空気をまとっている。そのリラックスした様子が、ここが彼の城であり、私が囚人に過ぎないことを無言で強調していた。「……何の用?」 私は毛布を顎まで
last updateLast Updated : 2026-02-04
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