翌朝。 昨日よりもずっと重い靴を引きずって、坂の上にある屋敷へ向かった。 鞄の中には、封筒が一通。署名したばかりの紙切れが入っている。これを渡してしまえば、私は人間であることをやめることになる。 天道邸の高い塀が見えてくると、足が止まった。見えない壁にぶつかったみたいに、前へ進めない。 空は低く、今にも泣き出しそうだ。湿った風が頬を撫でる。 門の前に立つ。頭上の監視カメラが、ジーっという微かな駆動音を立ててこちらを向いた。値踏みするようなレンズの動き。 すぐに重厚な扉が、無音で開く。 ホールに足を踏み入れると、ひやりとした冷気と一緒に、彼の気配に包まれた。 ソファに、征也がいる。 完璧に仕立てられたスリーピース。昨日のような剥き出しの荒々しさは消え、氷で作られた彫像みたいに静かだ。 手元の新聞をめくる音が、広い空間に響く。こちらを見ようともしない。 「持ってきたか」 低い声。それだけで、肺が縮こまる。 私は無言で歩み寄り、震える手で封筒を差し出した。 ようやく新聞から外された視線が、私の顔をじろりと舐める。昨日よりも鋭く、そして冷たい。けれどその瞳の奥には、罠にかかった獲物を楽しむような光が揺れていた。 長い指が封筒の端をつまむ。中身なんてどうでもいいと言わんばかりの手つきだ。 署名欄を一瞥しただけで、彼はふっと鼻を鳴らし、サイドテーブルにそれを放り投げた。 「賢い選択だ。……言ったはずだぞ。お前を『買う』とな」 買う。 その単語が、みぞおちを殴りつけてくる。 やっぱり、そうなんだ。彼にとって私は、掃除機や家具と同じ。 「今日から、お前の生活は全て俺が管理する。携帯、交友関係、健康状態、すべてだ」 征也が立ち上がる。 革靴が床を叩く乾いた音が、一定のリズムで近づいてくる。 逃げたい。でも、背後には冷たい壁があるだけ。 目の前で止まった彼から、鼻が痛くなるほど清潔な匂いがした。 「二十四時間、俺の命令に従う。……嘘じゃないだろうな」 有無を言わさず、顎を掴まれる。無理やり上を向かされた。 骨ばった指の感触。昨日、口移しされた飴玉の甘ったるい感覚が蘇って、背筋が粟立つ。 射抜くような瞳から、逃げられない。 これから始まる日々がどんなものになるのか。想像す
Last Updated : 2025-12-26 Read more