All Chapters of 没落令嬢の家政婦契約 ~冷酷CEOは、初恋を逃さない~: Chapter 11 - Chapter 20

150 Chapters

第11話 逃げられない運命③

 翌朝。  昨日よりもずっと重い靴を引きずって、坂の上にある屋敷へ向かった。  鞄の中には、封筒が一通。署名したばかりの紙切れが入っている。これを渡してしまえば、私は人間であることをやめることになる。  天道邸の高い塀が見えてくると、足が止まった。見えない壁にぶつかったみたいに、前へ進めない。  空は低く、今にも泣き出しそうだ。湿った風が頬を撫でる。  門の前に立つ。頭上の監視カメラが、ジーっという微かな駆動音を立ててこちらを向いた。値踏みするようなレンズの動き。  すぐに重厚な扉が、無音で開く。 ホールに足を踏み入れると、ひやりとした冷気と一緒に、彼の気配に包まれた。  ソファに、征也がいる。  完璧に仕立てられたスリーピース。昨日のような剥き出しの荒々しさは消え、氷で作られた彫像みたいに静かだ。  手元の新聞をめくる音が、広い空間に響く。こちらを見ようともしない。 「持ってきたか」  低い声。それだけで、肺が縮こまる。  私は無言で歩み寄り、震える手で封筒を差し出した。  ようやく新聞から外された視線が、私の顔をじろりと舐める。昨日よりも鋭く、そして冷たい。けれどその瞳の奥には、罠にかかった獲物を楽しむような光が揺れていた。  長い指が封筒の端をつまむ。中身なんてどうでもいいと言わんばかりの手つきだ。  署名欄を一瞥しただけで、彼はふっと鼻を鳴らし、サイドテーブルにそれを放り投げた。 「賢い選択だ。……言ったはずだぞ。お前を『買う』とな」  買う。  その単語が、みぞおちを殴りつけてくる。  やっぱり、そうなんだ。彼にとって私は、掃除機や家具と同じ。 「今日から、お前の生活は全て俺が管理する。携帯、交友関係、健康状態、すべてだ」  征也が立ち上がる。  革靴が床を叩く乾いた音が、一定のリズムで近づいてくる。  逃げたい。でも、背後には冷たい壁があるだけ。  目の前で止まった彼から、鼻が痛くなるほど清潔な匂いがした。 「二十四時間、俺の命令に従う。……嘘じゃないだろうな」  有無を言わさず、顎を掴まれる。無理やり上を向かされた。  骨ばった指の感触。昨日、口移しされた飴玉の甘ったるい感覚が蘇って、背筋が粟立つ。    射抜くような瞳から、逃げられない。  これから始まる日々がどんなものになるのか。想像す
last updateLast Updated : 2025-12-26
Read more

第12話 逃げられない運命④

 サイドテーブル。そこに放り出された紙の上を、征也の長い指が滑る。 「二十四時間、主人の命令に従う。……この意味、本当に分かってるのか?」 「それは……家政婦としての仕事を、いつでも……」 「は、」  短く鼻で笑う音がして、革靴が床を踏みしめる。一歩、距離が詰まる。  仕立ての良いスーツの向こうに、昨日の半裸の記憶が透けて見えた。冷ややかな理性のすぐ裏側に、獣みたいな熱がある。怖気(おぞけ)が走るのに、身体の奥がちりちりと熱い。 「掃除や洗濯なんて、誰にでもできる。俺がわざわざお前を買ったのは、そんな退屈な労働のためじゃない」  耳元に、低い声が落ちてくる。  吐息が頬にかかった瞬間、うなじの産毛が逆立った。節くれだった指が、私の髪を一房、弄ぶように掬い上げる。 「今日から、お前はこの屋敷の一部だ。俺が呼べば、夜中だろうと這ってこい。服を脱げと言われれば、その通りにするんだ。……それが、二十四時間の契約だ」 「っ……そんなの、家政婦の仕事じゃない……っ!」 「嫌か?」  怯える反応を楽しむように、顔を寄せてくる。  射抜くような視線が、唇から胸元へと、ねっとりと這いまわる。その瞳には、かつて私に向けられていた憧れなんて欠片もない。ただ獲物を組み敷こうとする、昏い欲だけが揺らめいている。 「嫌なら今すぐ出て行けばいい。その代わり、母親の手術費用は出さない。派遣会社にも手を回して、二度とこの業界で働けないようにしてやる。……元令嬢が路頭に迷うのは、見ものだろうな」  言葉が、内臓に突き刺さる。  選ぶ権利なんて、最初からなかった。彼は私が「はい」と言うしかない状況をパズルのように組み上げ、それを高みから見下ろしている。かつて私が、お金で彼を縛ろうとしたみたいに。 「……わかり、ました。あなたの……言う通りに、します」  視界が滲む。  征也は、溢れた涙を拭おうともしない。ただ満足げに口の端を吊り上げると、一枚のカードキーを私の手に押し付けた。 「これが、新しい首輪だ。……さあ、仕事に戻れ。まずは一階の吹き抜けだ。窓を磨け。埃一つ残すなよ」  それだけ言い捨てて、彼は背を向けた。  遠ざかる足音。やがて重厚な扉が閉まる音がして、逃げ場が完全に塞がれる。  静まり返ったホールに、一人。  掌のカードキーは、プラスチックの無機質
last updateLast Updated : 2025-12-27
Read more

第13話 落下と抱擁①

 見上げるだけで首が痛くなるほどの吹き抜け。  コンクリートの壁は冷たく、どこまでも高い。巨大なガラスウォールから差し込む午後の光でさえ、ここでは熱を奪われて白く透き通っているみたいだ。  この家は、まるで要塞だ。逃げ場なんてどこにもない。  無意識に、右手の親指をこする。  昨夜、震える手でサインした時のペンの感触が、まだ指の腹に残っている気がした。 『二十四時間、主人の命令に従うこと』  あの文字列が、脳裏に焼き付いて離れない。あれはただの労働契約じゃない。私が人間であることをやめるための、降伏宣言だった。 「……掃除、しなきゃ」  独り言は、広すぎる空間に吸い込まれて消えた。  首を振って弱気を追い出し、重たい脚立を引きずる。金属の擦れる乾いた音が、静まり返ったホールに響いた。  誰もいないはずなのに、鼻の奥に微かなミントと煙草の匂いが居座っている。  あの人の残り香だ。  見られていなくても、皮膚の裏側がちりちりと粟立つ。  脚立を立て、掃除用具が入ったバッグを肩にかける。  一段、足を乗せただけで、世界がぐらりと揺れた。  昔の私なら、こんな高い場所に登るなんて想像もしなかっただろう。電球一つ替えるのだって、誰かがやってくれた。高いところにある物は、手を伸ばせば誰かが取ってくれた。  でも今は、震える自分の膝だけが頼りだ。  一段、また一段。  軋む踏み板を登るたび、視界が高くなっていく。ガラスの向こうの景色が、残酷なほど鮮明に見えてくる。  五段目に足を乗せた時、ふと息が止まった。  眼下に広がる、広大な庭。  見覚えがあるなんてものじゃない。あそこは、私が生まれ育った場所だ。  父と母と、バラの咲く庭でお茶を飲んだ記憶。私が永遠だと思っていた幸せな時間。  それがあったはずの場所は今、無機質なアスファルトと、幾何学模様を描くモダンな庭園に塗り替えられている。  胸の奥を、雑巾絞りされたみたいに締め付けられた。  征也くんは……ううん、天道様は、知っていてここに城を建てたんだ。  没落した私の家を飲み込んで、その上に自分の成功を積み上げた。 (あの日、私が言ったこと……一秒だって忘れてなかったのね) 『私を見て。私なら、パパに頼んで……なんだってさせてあげられるのに』  お金と親の権力で、彼の心を
last updateLast Updated : 2025-12-28
Read more

第14話 落下と抱擁②

 脚立の最上段。  そこは、足元の世界が遠く霞むほど高い場所だった。  私は震える爪先に力を込め、へっぴり腰のまま、精一杯に右腕を伸ばす。  指先が触れたガラスは、昨夜の嵐の名残を吸い込んだように冷たい。雑巾を滑らせると、きゅ、と湿った音がして、指先から体温が奪われていく。  一度、二度。  白い曇りを拭い去るたびに、ガラスの向こう側が鮮明になっていく。曇天の光が射し込み、埃っぽい視界がクリアな世界へと書き換わる。  ふと、視線が吸い寄せられた。  窓の向こう。かつて、私が暮らす「月島邸」が建っていた、あの広大な更地へ。  今は雑草が生い茂るだけの無機質な野原。その片隅に、低い石壁に守られるようにして、ぽつりと灯る一房の輝きがあった。  灰色の風景の中で、そこだけが切り取られた別世界のように、たおやかな大輪の花が揺れている。  柔らかな桃色。花芯に向かうほどに濃厚になる、完熟した果実のようなアプリコット色。  幾重にも重なり合った花弁は、雨の雫を抱え込んで重たげに首を垂れている。 (……アブラハム・ダービー)  名前が、脳裏に浮かんだ。  間違いない。没落する前の家で、私が何よりも大切にしていたイングリッシュローズだ。  あの日、借金取りたちが土足で庭を踏み荒らし、美しいバラ園は根こそぎ掘り返されたはずだった。跡形もなく消え去ったと思っていたのに。  十歳の誕生日。  父様が「莉子に似合う色だ」と言って、わざわざ海外から取り寄せてくれた苗木。  どうして、あんな場所に。  誰にも世話をされず、雑草に埋もれながら、それでも枯れずに根を張っていたのだろうか。 「お父様……」  口をついて出た声は、あまりに小さくて、広いホールの空気に溶けて消えた。  ガラス越しの景色が、急速に涙で歪んでいく。  滲んだ視界の奥で、記憶の中の父様が笑った気がした。  剪定の仕方を教えてくれた、ゴツゴツとした大きな手の温もり。土と緑の匂い。  鼻の奥に、あのバラ特有の、フルーツとスパイスが混ざり合った芳醇な香りが蘇る。  もっと、近くで見たい。  あれは、私の幸せだった時代の、最後の欠片だから。 「あっ――」  ガラスに顔を近づけようとした、その時だった。  ふわりと、足の裏を支えていた確かな感覚が消える。  前のめりになりすぎた
last updateLast Updated : 2025-12-29
Read more

第15話 落下と抱擁③

 足場が消えた。  そう感じた瞬間にはもう、視界が天地ごとひっくり返っていた。  喉の奥で悲鳴が凍りつく。内臓がフワリと浮き上がる気持ちの悪い浮遊感。  コンクリートの床に叩きつけられる。  その確信に、私はぎゅっと目を閉じて歯を食いしばった。骨が砕ける音と激痛を覚悟して。  けれど。 「……っぐ!」  私の身体を貫いたのは、冷たい石の硬さじゃなかった。  耳元で、押し殺したような低い獣の唸り声が響く。同時に、強引に横合いから攫われるような衝撃。  ダンッ、と誰かが床を強く踏みしめる音がして、落下が唐突に止まる。  背中と膝の裏に食い込む、熱い鉄の棒のような感触。  肺から空気が強制的に吐き出され、私は何が起きたのか分からないまま、浅い呼吸を繰り返した。  痛くない。  恐る恐る目を開ける。  そこには、鼻先が触れそうなほどの至近距離に、天道征也の顔があった。 「……馬鹿か、お前は」  地を這うような低い声。  けれど、それはいつもの冷徹な響きじゃない。走り抜けてきたせいで息が上がり、言葉の端々が荒く震えている。 「せ、いや……?」  帰宅したばかりなんだろうか。完璧に整えられていたはずのスリーピースのスーツには深い皺が寄り、ネクタイも僅かに曲がっている。  乱れた前髪の隙間から覗く瞳は、今にも私を射殺しそうなほど鋭く、それでいて、どこか焦燥に血走っていた。  彼が私を抱きとめているんだと気づくまで、数秒かかった。いわゆるお姫様抱っこの形。  けれど、そんな甘いものじゃない。私を支える彼の腕は、骨が軋むほどの馬鹿力で私を締め上げている。  薄いシャツ越しに、ドラムのような心音が伝わってきた。  ドクン、ドクン、と痛いほどに脈打つリズム。早鐘を打つ私の心臓と重なって、境目が分からなくなる。 「何をしてる。……俺の目の届く場所で、勝手に傷つくことなんて許さないと言っただろう」  後頭部を支える大きな掌が、熱い。  わずかに指先が震えているのが分かって、息が止まりそうになった。  この人が、震えてる?  怒りじゃない。これは、動揺だ。彼が私なんかのために、本気で焦っている。 「ご、めんなさい……あの、薔薇が……」 「薔薇?」  征也の眉間に、深い皺が刻まれる。  逃げ場のない腕の中。彼の首筋に血管が浮き出て
last updateLast Updated : 2025-12-30
Read more

第16話 落下と抱擁④

「……泣くな。お前が泣くと、苛々する」  征也の低い声が、鼓膜を直接震わせる。  さっきよりは少し落ち着きを取り戻しているけれど、私を抱く腕の力は緩まない。むしろ、離さないとでも言うみたいに強まっている。  大理石の床に頭を砕かれるはずだった恐怖。  助かったという安堵。  そして、今こうして彼に抱かれているという異常事態。  感情の処理が追いつかなくて、私は子供みたいにしゃくりあげた。  涙でぼやけた視界で、彼の顔を見上げる。  昔の彼は、もっと太陽みたいに笑う人だった。でも今の征也は、触れたら切れそうな氷の美貌を鎧にして、誰も寄せ付けようとしない。  それなのに、私を支えているこの腕だけは、火傷しそうなほど熱くて、人間臭い。  下ろして、と言わなきゃいけないのに。  私は彼のジャケットの袖を、強く握りしめていた。 「怪我は」 「……たぶん。あの、下ろして……」 「断る。お前、自分の足で立てないだろう」  図星だった。膝の力が抜けて、彼にしがみつくことしかできない。  無意識にスーツの肩口を握りしめる。指先に、上質な生地の感触と、その下にある岩のような骨格の硬さが伝わってくる。 「薔薇なんか見て死にかけるとか、馬鹿なのか」 「……あそこに、お父様の薔薇があったから。どうしても、近くで見たくて」  必死の言い訳に、彼は鼻を鳴らした。 「……あれは、俺が買い戻した土地に勝手に生えていただけだ。処分し忘れた」 「嘘。あんなに綺麗に手入れされてるのに」  言い返そうとした瞬間、瞳がすっと暗くなる。 「口答えするな。俺がいらないと言えば、あの花ごと叩き出すぞ。……お前はただの所有物なんだからな」  突き放すような言葉。  けれど私を見つめる目は、言葉よりもずっと粘度が高く、私を逃がそうとしない。  没落してから、ずっと下を向いて生きてきた。でも今、この腕の中で震えながら、私は変な安心感を覚えていた。この乱暴な拘束が、独りぼっちだった私を現実に繋ぎ止めている。 「……っ」  不意に、左足首に鋭い痛みが走った。  顔をしかめた瞬間、征也の顔から表情が消える。 「……どこだ。どこを痛めた」 「あ、いえ……なんでも」 「隠すな!」  怒鳴り声がホールに反響して、首を竦める。彼はそのまま、大股で歩き出した。  運ばれ
last updateLast Updated : 2025-12-31
Read more

第17話 不器用な優しさと甘い罰①

 革張りのソファが、重苦しい音を立てて沈み込む。  逃げようとして強張った足を、万力のような力が押さえ込んでいた。  視線の先には、天道征也。  この国の経済を牛耳る男が、今は床に膝をつき、私の足元に頭を垂れている。かつては対等な隣人だったはずが、今や絶対的な主従関係にある相手。それなのに、この状況がもたらすのは屈辱だけではなかった。 「……じっとしてろと言っただろう」  腹の底に響くような低い声。  放り出されたジャケット。無造作に捲られた白いシャツの袖。そこから覗く腕には、日々の鍛錬を裏付ける筋肉が浮き上がり、血管が脈打っている。その逞しい指先が、壊れ物を扱うような、あるいは獲物を逃さない獣のような強さで、私の足首を掴んで離さない。 「しゃ、長……いいです、自分でやりますから。誰か、ほかの人を呼んで……」 「黙れ。命令だ」  取りつく島もない。  征也は氷嚢を掴むと、躊躇なく、熱を持って腫れ上がった患部へ押し当てた。 「あっ、う……!」  鋭い冷気が痛覚を突き刺し、喉から短い音が漏れる。  反射的に足を引っこめようとしたが、大きな掌はびくともしない。それどころか、逃げる動きを封じるように、男の体温がじりじりと距離を詰めてくる。  鼻先を掠める、清潔で、どこか暴力的な香り。  高級な石鹸の匂いに、微かな煙草の残り香が混ざっている。その匂いを吸い込むだけで、落下したときの恐怖で冷え切っていたはずの奥底が、わけのわからない熱を帯びていく。 「……痛むか」  足首を見つめたまま、征也が呟く。  整いすぎた横顔は、能面のように感情がない。長い睫毛が落とす影のせいで、何を考えているのか読み取れなかった。 「少し我慢しろ。冷やさないと、明日歩けなくなるぞ」 「……はい」  情けないほど震えた声が出た。  主人が使用人にすることじゃない。どうして、こんなに甲斐甲斐しく手当てなんてするのか。冷たい言葉とは裏腹なその指先が、今の歪な関係を突きつけてくるようで、息が詰まる。  氷嚢の角度が変わるたび、硬い指先がストッキング越しに肌をなぞった。  冷たさと、火傷しそうな指の熱。  昔、隣同士だった頃の記憶がよぎる。あの頃の彼は、もっと日向のように笑っていた。今の彼から感じるのは、すべてを黒く塗りつぶすような、重苦しい執着だけだ。 「…
last updateLast Updated : 2026-01-01
Read more

第18話 不器用な優しさと甘い罰②

「昨夜のキスよりは、マシだろ?」  耳元に吹きかけられた息が、熱い。  至近距離で絡んだ視線。その瞳の奥には、こちらの動揺を値踏みして楽しむような色が混ざっている。 「っ……そんなこと、今、関係ないはずです……!」 「大ありだ。お前の体は爪の先まで俺が買った。契約書にそう書いたはずだが」  ドサリ、と氷嚢がソファに放り出される。  空いた手が伸びてきて、強引に顎をしゃくり上げられた。  逃げられない。  整った鼻筋が、触れそうな距離まで迫ってくる。昨日の夜、無理やり口移しされた苺飴。あの甘ったるい味が、条件反射みたいに喉の奥で蘇った気がした。  顎を掴む指に力がこもる。  冷ややかな顔立ちとは裏腹に、触れ合う肌から伝わってくる体温だけが、異常に熱い。 「……なんだ。昨日はあんなに欲しがってたくせに、今さら淑女ぶるのか?」  鼓膜を撫でるような低い声。  唇の感触がフラッシュバックして、顔が一気に熱くなる。 「あれは、あなたが……無理やり……っ」 「命令に従っただけ、か。いい心がけだ。なら、今も俺の言うことを聞け。……俺を見ろ、莉子」  名前を呼ばれた瞬間、心臓が嫌な音を立てた。  番号でも「家政婦」でもない。昔みたいに名前を呼ばれるのが、どんな暴言よりも一番堪える。  征也は満足そうに目を細めると、視線を再び足元へ落とした。ゴツゴツした大きな手が、腫れた患部を包み込むように握り直す。氷嚢の冷たさと、掌の火傷しそうな熱。極端な温度差で、頭がぐわんとした。 「怪我をしてまで外の薔薇なんか見に行くからだ。そんなにあの場所が惜しいか」 「……あそこは、私の家でしたから」 「今は俺の土地だ。咲いてる花も、土の一粒まで俺のものだ。……そこで転がってたお前もな」  隠そうともしない独占欲。  征也は跪いたまま、ゆっくりと足首に顔を寄せた。長い睫毛が触れそうだ。熱い呼気が、赤く腫れた皮膚に直接吹きかかる。 「な、にを……っ」  足が竦む。  唇が触れる寸前。彼は愛おしむみたいに、あるいは自分の所有物であることを確かめるみたいに、足首のラインを鼻先でなぞり、深く息を吸い込んだ。 「……匂うな。泥だらけになっても、お前だってすぐにわかる」  逃げ場なんてないと言われている気がした。  足首を舐められるんじゃないか。そう思うくらい
last updateLast Updated : 2026-01-02
Read more

第19話 不器用な優しさと甘い罰③

 翌朝。 カーテンの隙間から差し込む光は白いのに、昨日の夜、氷で冷やされたはずの足首だけが、まだ芯が燻っているみたいに熱い。  洗面台の鏡を覗く。髪をかき上げると、うなじに残された赤い鬱血痕が、白い肌の上でやけに生々しく主張していた。指先でなぞると、そこだけ微熱がある。  糊の効きすぎた家政婦の制服に袖を通す。肌を擦るゴワついた感触が、何度も私を現実に引き戻した。  割り切らなきゃいけない。これは母さんの命を救うための仕事だ。  それなのに、頭のどこかで、昨夜の征也の体温を反芻している。私の足に額を寄せた時の、あの飢えたような視線が皮膚に張り付いて消えない。◇ 一階へ降りると、広大なホールはしんと静まり返っていた。  裸足に伝わるフローリングの冷たさを確かめながら、掃除用具を手に取る。  静かだ。  征也は二階の書斎に籠もっているはずだった。彼と同じ屋根の下で息をしているというだけで、肺が半分ほどしか膨らまないような圧迫感がある。  その静寂を切り裂くように、重厚なチャイムの音がホールに響いた。  壁の時計を見上げる。まだ朝の早い時間だ。  こんな時間に、誰が。  軋む音を立てて重い扉を開ける。流れ込んできた湿った朝の空気と一緒に立っていたのは、埃っぽいこの洋館には不釣り合いなほど、清潔で綺麗な男だった。 「……莉子ちゃん」  風に揺れる栗色の髪。銀縁の眼鏡の奥で、優しげな垂れ目が細められる。  神宮寺蒼(じんぐうじ あおい)。  完璧に仕立てられたチャコールグレーのスーツには、座り皺ひとつない。手首で鈍く光るパテック・フィリップの時計が、彼がこの場所に辿り着くまでの暮らしや、彼が背負う世界の重みが私とは違うことを無言で物語っている。  かつて月島家が没落し、周囲の人間が蜘蛛の子を散らすように去っていった時も、彼だけは変わらずに私を「莉子ちゃん」と呼び、手を差し伸べようとしてくれた幼馴染。 「蒼くん……? どうして、ここが」 「探したよ。急にいなくなるから。心配で仕事も手につかなかったんだ」  蒼くんは一歩、との距離を詰めた。  彼からふわりと漂う、高級な石鹸と洗い立てのシャツの匂い。それは、あのミントと煙草の混ざった、鋭い匂いとは正反対の匂いだった。 「……まさか、あんな男のところで、家政婦なんてさせられてるなんて。
last updateLast Updated : 2026-01-03
Read more

第20話 二人の男、一つの獲物①

 かつて、私と征也、そして目の前にいる蒼くんの三人は、泥だらけになってこの辺りの坂道を駆け回っていた。擦りむいた膝の痛みも、夕焼けの匂いも、三人で共有していたはずだ。けれど、月島家がすべてを失ったあの日を境に、私たちの時間は断絶した。 数年ぶりの再会。けれど、そこに懐かしさが入り込む隙間など、針の穴ほども残されていない。 吹き抜けの玄関ホールは、墓所のようにひっそりとしていた。頭上のシャンデリアは光を落とさず、高い天窓から差し込む曇天の光だけが、磨き上げられた大理石の床を鈍く照らしている。 足元から這い上がってくる冷気に震えていると、蒼くんの掌が私の肩に触れた。 じわり、と彼の体温がジャケット越しに滲んでくる。それは優しげに見えて、実際は逃げ道を塞ぐ鎖のように重く、私の骨に食い込んでいた。「莉子ちゃん、顔色が悪い。……行こう。こんな場所、君がいていいところじゃない」 眼鏡の奥、私を値踏みするような視線が肌を這う。 次期頭取候補と持て囃される神宮寺蒼。その穏やかな微笑みは、世間では救済の象徴かもしれない。けれど今の私には、彼の背後にちらつく「家」という別の檻が見えてしまう。彼が身につけたスイス製の高級時計が、静寂の中でチクタクと神経を逆撫でする音を立てていた。「蒼、くん……。どうして」 喉が張り付いて、うまく声が出ない。かつて味方だと言ってくれた彼の温もりに縋りたくなる弱い心と、この屋敷の主に対する恐怖。その二つが内側で喧嘩をして、足が竦んで動かない。 その時だった。 カツ、カツ、と硬質な音が響いた。 革靴が石の階段を叩く、一定のリズム。それはまるで、追い詰められた心臓の音に重なるような、冷徹な響きだった。「人の家の玄関先で、随分と騒がしいな」 ホールの空気が、一瞬で凍りついた。 見上げれば、緩やかな弧を描く大階段の踊り場に、征也が立っている。 完璧に仕立てられたチャコールグレーのスリーピース。乱れのない黒髪。手すりにかけた指先一つに至るまで、彼はこの空間の支配者として君臨していた。見下ろす瞳は、侵入者を排除しようとす
last updateLast Updated : 2026-01-04
Read more
PREV
123456
...
15
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status