All Chapters of 没落令嬢の家政婦契約 ~冷酷CEOは、初恋を逃さない~: Chapter 21 - Chapter 30

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第21話 二人の男、一つの獲物②

 二人の男の視線がぶつかり合う。張り詰めた空気は、もう限界寸前だった。私の心臓は早鐘を打ち、口の中は鉄の味がした。「莉子ちゃん、こんな男の言うことを聞く必要はない。僕が……僕が守るから」 蒼くんが耳元で囁き、さらに私を自身の身体へと引き寄せる。 鼻孔をくすぐるのは、高級な石鹸の香りと、微かな汗の臭い。痛ましげに眉を下げているけれど、二の腕を掴む指には、鬱血するほどの力が込められていた。 痛い。骨が軋む。 それは慈愛なんかじゃない。誰にも渡したくないという、子供じみた所有欲だ。 その必死な様子を、征也は鼻で笑った。冷ややかな侮蔑を含んだ笑みだ。「守るだと? 口だけは達者だな。こいつの母親の命を買い取ったのは俺だぞ」 征也が最後の一段を降り、大理石の床を踏みしめる。「一億近い手術費用に、特別病棟の維持費。お前のところの銀行は、担保も持たない人間にその額を無利子で即日貸すのか? 救い出すと言いながら、結局は自分の懐からは一円も出さず、会社の金と看板でいい格好したいだけだろ」「それは……っ」 蒼くんが言葉に詰まる。図星を突かれたのか、整った顔に焦燥が浮かんだ。視線が泳ぎ、脂汗がこめかみを伝う。「莉子、そいつの手を振り払え」 征也が目前まで迫る。 鋭いミントの香りが、雨の匂いを含んだ湿った空気と混ざり合う。彼自身の高い体温が、蒼くんの清潔な匂いを塗り潰すように迫ってきた。「約束したはずだろ。二十四時間、俺に従うと。……今、お前の主人が誰なのか、ここで分からせてやろうか」 射抜くような征也の黒い瞳に見据えられ、身体の奥が熱を持って震えた。昨夜、首筋につけられた痕が、彼の低い声に呼応するようにドクンと脈打つ。 ◇「莉子ちゃん、騙されないで。そんな口約束、無効だよ……っ。僕と一緒に来れば、最高の弁護士を用意する。君のお母さんだって、もっといい病院へ転院させてあげるから」 蒼くんの声が上擦った。温厚な仮面が剥がれ落ち、その下から余裕のな
last updateLast Updated : 2026-01-04
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第22話 二人の男、一つの獲物③

「あ……っ」 短い悲鳴と共に、蒼くんの指が私の肌から引き剥がされる。 たたらを踏んだ私の背中がぶつかったのは、岩のように硬い胸板だった。上質なスーツの生地越しに、暴力的なまでに熱い体温が伝わってくる。「莉子、お前は俺のもんだ」 征也は私を片腕で抱きすくめたまま、空いた手で蒼くんの胸ぐらを掴み上げた。 グッ、と襟が締まり、蒼くんの顔が苦痛に歪む。高価なネクタイが絞まり、眼鏡がずり落ちた。「お前に何ができる? 莉子の母親に最高の病棟を用意して、これからかかる莫大な費用を全部持つと約束したのは俺だ。サラリーマン風情が、個人的にその額を出せるのか? お前の薄っぺらな『救済』で、進行する病気が止まるとでも思ってるのかよ」「天道、きさま……っ」 逆上して掴みかかろうとした蒼くんの肩を、いつの間にか後ろに控えていた部下たちが抑え込んだ。「神宮寺様、いけません!」「今は退きましょう!」 必死の形相でなだめる部下たちに囲まれ、蒼くんは苦虫を噛み潰したような顔で眼鏡を直した。その目にはもう優しさの欠片もなく、獲物を横取りされた猟犬のような、暗く粘着質な悔しさだけが澱んでいる。 彼は部下たちに引きずられるようにして、足をもたつかせながら出口へと追いやられていった。去り際、私に向けられた視線は、執着そのものだった。「失せろ。二度と俺の敷地に入ってくるな。莉子はもう、俺が買ったんだ。こいつの意思も、身体も、時間も、全部な」 征也は汚いものでも触るように、掴んでいた手を離した。 重厚な通用口の扉が、部下たちの手によって開かれる。「次にその指一本でも莉子に触れてみろ。神宮寺の家ごと消し去ってやる」 力なく夜の闇へと追い出された蒼くんの背後で、分厚い鉄の扉が冷酷な音を立てて閉ざされた。 ドン、という重い音が腹の底に響く。 残されたのは、耳鳴りがするほどの静寂と、征也の荒い呼吸。そして私の身体を包む、ミントと煙草の入り混じった男の匂いだけだった。 ◇ 外界との繋がりが断たれた瞬間、ホールは密室に
last updateLast Updated : 2026-01-05
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第23話 二人の男、一つの獲物④

「……あんな偽善者の腕に抱かれて、随分と満足げだったな、莉子」 地を這うような低い声音が、至近距離で鼓膜を震わせる。見上げる征也の瞳は、普段の冷静な仮面を剥ぎ取り、どろどろとした暗い独占欲に塗り潰されていた。少し伸びた黒髪の隙間から覗くその眼差しは、獲物を逃さない捕食者のそれだ。「……違います、私はただ……っ」「黙れ。言い訳など聞きたくない。お前がその身体を、誰の許可を得て他人に触れさせたのかを問うているんだ」 征也の長い指が、蒼くんが触れていた私の肩を、皮膚を削り取るような強さで掴み直した。蒼くんが残した温もりを根こそぎ奪い去るように、厚い指先が執拗に肉を食い込ませる。衣服の上からでも分かる指先の節くれだった硬さが、屈辱と、そして抗いようのない熱を全身に伝播させていく。 かつて隣に住んでいた苦学生だった頃の面影は、もうどこにもない。目の前にいるのは、圧倒的な力で私を翻弄し、支配することに悦びを見出す冷酷な支配者だ。「……思い知らせてやる。誰が来ようと無駄だ。お前の家族も、その身体の自由も、すべては俺が買い取ったものだということをな」 征也は私の顎を力任せに掴み上げ、逃れられない視線の檻に私を閉じ込めた。熱い呼気が顔にかかり、彼自身の香りと、興奮によって濃縮された男の気配が、私の意識を暴力的に塗りつぶしていく。「……わかっているはずだ、莉子。お前をこの窮状から引きずり出したのは誰だ。お前の母親に、明日を繋ぐための金を、命を注ぎ込んでいるのは俺だけだ」 彼の言葉は、抗いようのない真実となって私を貫く。没落した私にとって、彼は残酷な処刑人でありながら、唯一の救済者でもあった。その矛盾した関係が、私のプライドを微塵切りにし、足元に積み上げていく。 征也は私の髪を乱暴にかき上げ、耳元で低く、けれど逃れられない呪いのように囁いた。「誰が救いに来ようと無駄だ。お前はもう、俺に買われたんだからな」 その言葉と同時に、彼の唇が私の鎖骨の窪みへと深く食い込んだ。「んっ…&h
last updateLast Updated : 2026-01-05
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第24話 屈辱のパーティー①

週末の夜。 都心のホテルへ続く車寄せは、滑り込んでくる高級車のヘッドライトで光の川ができていた。 次々と吐き出されるのは、成功者の制服であるタキシードと、宝石を散りばめたようなイブニングドレスたち。回転扉が回るたびに、甘ったるい香水の匂いと、上気した笑い声が漏れ出してくる。 そんな華やかな世界を切り裂くように、一台の黒塗りのリムジンが滑り込んだ。 エンジンの微かな振動が止まる。 車内は、外の喧騒が嘘みたいに静かだ。 「……降りろ」 隣の闇から、低い声が落ちてくる。 ドアマンが恭しく扉を開けた。私は震える足先を、赤い絨毯の上へと踏み出す。 「は、はい……」 車外に出た瞬間、夜風が素肌を撫でた。 ぞわり、と背筋が粟立つ。 今夜、私が身につけているのは、いつもの色気のないエプロンじゃない。征也があつらえた、深いミッドナイトブルーのカクテルドレスだ。 背中が大きく開いたデザインは、今の痩せた肩甲骨を容赦なく晒している。 足元には、凶器のように細いピンヒール。 かつて令嬢だった頃は、これが私の戦闘服だった。履くだけで背筋が伸びて、誰よりも高く胸を張れた。 でも今は、足枷みたいに重い。重心が定まらなくて、足首が小刻みに震える。 革靴がアスファルトを叩く音がして、征也が隣に並んだ。 仕立ての良い黒のタキシード。オールバックに撫でつけられた髪。 ただ立っているだけなのに、周囲の空気がピリッと張り詰めるのが分かった。鋭い視線が周囲を睥睨すると、近くにいたドアマンが一瞬息を呑んで背筋を伸ばす。 圧倒的な美貌と、隠しきれない威圧感。 光の中に立つ彼を見ていると、自分が薄汚れた影になった気がして、無意識に半歩下がっていた。 「あの、社長。私……ここで待機していても……」 「馬鹿言うな。俺の視界から出るなって言っただろ」 逃げ腰になった瞬間、腰に熱い塊が巻きついた。 征也の腕だ。 薄いシルクの生地越しに、掌の熱がじわじわと侵食してくる。 ぐっ、と引き寄せられた。 それはエスコートなんて優しいものじゃない。所有権を主張する「拘束」そのものだった。腰骨がきしむほどの力が、逃げようとする私をその場に縫い止める。 「いいか。今夜は政財界の人間が山ほどいる。余計なことは喋るな。お前はただ
last updateLast Updated : 2026-01-06
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第25話 屈辱のパーティー②

「あれは、天道社長か?」「相変わらず、人を寄せ付けない雰囲気だな……」「隣の女性は誰だ? モデルか?」 好奇と羨望の眼差し。けれど、その中の一部が、私を見て怪訝な色に変わっていくのを肌で感じた。「……おい、あの女」「まさか。月島家の……?」「没落したんじゃなかったのか? どうしてあんな場所に」 ひそひそとした囁き声が、毒の霧のように広がっていく。 かつて父に連れられて社交界に出入りしていた頃、私に媚びへつらっていた人々。家が破産した途端に掌を返し、嘲笑の視線を投げてきた彼らが、今は値踏みするような目で私を見ている。 いたたまれなさに俯きかけると、腰に添えられた征也の手が、ぐっと私を引き寄せた。「顔を上げろ」 耳元で、他者には聞こえない音量で囁かれる。「お前が恥じ入る必要はない。お前を連れているのは俺だ。俺の所有物が、下賤な輩の視線ごときで縮こまるな」 その言葉は冷たいが、不思議と背筋を伸ばす力をくれた。 彼は私を守っているのではない。「自分の所有物に傷がつくのが不快だ」と言っているだけだ。けれど、その傲慢な独占欲が、今の私には皮肉にも最強の盾になっている。 征也は冷ややかな視線で周囲を一瞥し、私を堂々と伴って会場の中央へと進んでいった。 パーティーの中盤。 征也が数名の重鎮たちに囲まれ、ビジネスの話に応じている間、私は少し離れた壁際で息を潜めていた。 グラスを持つ指先が冷たい。彼が傍を離れた途端、心細さが波のように押し寄せてくる。 その時だった。「あら。随分と珍しい顔がいると思ったら」 甘い香水の匂いと共に、甲高い声が頭上から降ってきた。 顔を上げると、そこには豪奢な真紅のドレスを纏った美女が立っていた。 高嶺(たかね)エリカ。 大手商社令嬢であり、かつて私の友人――と呼ぶにはあまりに一方的なライバル心を燃やしていた女性。そして今は、天道征也の婚約者候補として有力視されている人物だ。
last updateLast Updated : 2026-01-06
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第26話 屈辱のパーティー③

 彼女の視線が、私のドレスを舐めるように上下する。「そのドレス、天道様にあてがって頂いたの? 身の程知らずもいいところね。豚に真珠とはこのことだわ」「……仕事で、同伴させていただいただけです」「仕事? ああ、そういえば夜のお仕事もなさっているとか」 下卑た嘲笑が周囲から漏れる。 悔しさに唇を噛み締めるが、反論などできる立場ではない。私が騒ぎを起こせば、征也の顔に泥を塗ることになる。 耐えるしかない。そう思って俯いた、その時だった。「きゃっ!」 わざとらしい悲鳴と共に、バシャッという湿った音が響いた。 私の足元に、赤い液体が飛び散る。 エリカが持っていた赤ワインのグラスが、私の靴のすぐ側で砕け散っていた。ワインの飛沫が、私のドレスの裾と、エリカ自身の銀色のパンプスを汚している。「あーあ。手が滑ってしまったわ」 エリカは悪びれる様子もなく、大げさに肩をすくめた。 そして、氷のような冷たい目で私を見下ろした。「大変。私のお気に入りの靴が汚れてしまったじゃない。……ねえ、月島さん?」「え……?」「あなた、お掃除のプロなんでしょう? ちょうど良かったわ」 エリカは汚れた足を、私の前に突き出した。「あら、お掃除の専門家が来ているのね。せっかくだから、私の足元も綺麗にしてくださる?」 会場の空気が凍りついた。 遠巻きに見ていた人々が、息を呑んで成り行きを見守っている。 公衆の面前での、明らかな悪意。かつての令嬢を跪かせ、靴を拭かせるという見せしめ。「さあ、早くして。シミになったらどうしてくれるの?」 エリカが催促するように爪先で床を叩く。 全身の血が引いていく。屈辱で視界が歪む。けれど、ここで断れば、彼女はさらに声を荒げ、征也の評判を傷つけるだろう。 私は……家政婦なのだ。掃除をするのが仕事だ。 そう自分に言い聞かせ、震える膝を折ろうとした。「&
last updateLast Updated : 2026-01-07
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第27話 屈辱のパーティー④

 その表情は、能面のように無表情。けれど、纏っている空気は、近づく者すべてを凍死させるほどの絶対零度の怒気を孕んでいる。「せ、征也様……」 エリカの声が上擦る。 征也はゆっくりと、音もなく私たちに近づいてきた。 私を見下ろす瞳。跪き、エリカの靴に手を伸ばそうとしている私を見て、彼の眉間が僅かに、けれど決定的に不快そうに歪んだ。「掃除の真似事か? こんな場所で」「あ、あの、私がワインをこぼしてしまって……それで、月島さんが気を利かせて……」 エリカが慌てて言い繕う。征也は彼女を一瞥もしなかった。 ただ、私の腕を乱暴に掴み、強引に立たせる。「……っ!」 体が浮き上がるほどの力。よろめいた私を、彼は自身の胸元へと引き寄せ、支えた。 そして、ようやくエリカへと視線を向ける。 ゴミを見るような、冷酷で、あからさまな拒絶の視線を。「……高嶺さん」 静かな声だった。けれど、会場中の人間が息を止めて聞き入るほどの威圧感があった。「勘違いをしているようだが、こいつは俺が雇った人間だ。俺以外の命令を聞く義務はない」「で、でも、彼女はただの家政婦で……私の靴を綺麗にするくらい、当然の礼儀でしょう?」「礼儀?」 征也は鼻で笑った。 その笑みには、エリカの存在価値そのものを否定するような、残酷な響きがあった。「あいにくだが、その家政婦の手も、時間も、全て俺が買い占めている。一秒たりとも、他人のために使わせるつもりはない」 征也の腕が、私の肩を抱きしめる力を強める。 まるで、所有印を押すかのように。「この女に触れていいのは、俺だけだ。……汚い靴を近付けるな」「き、汚い……!?」 エリカが絶句し、顔を真っ赤に染める。 征也はそれ以上彼女を相手にせず、私の肩に手をか
last updateLast Updated : 2026-01-07
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第28話 屈辱のパーティー⑤

 エリカの呆然とした顔、周囲の驚愕の視線を置き去りにして、征也は私の腰を抱き、出口へと歩き出す。 背後でざわめきが波のように引いていく。冷房の効いたホールの人工的な涼しさから、夜の湿り気を帯びた外気へと世界が切り替わっても、肩を抱く腕の力は緩まない。 その強引なエスコートは、まるで「この女は俺の戦利品だ」と全世界に宣言しているかのようだった。 ジャケットの中で、私は彼にしがみつくように歩調を合わせる。 屈辱的なはずなのに。所有物扱いされているだけなのに。 彼の体温に触れている脇腹だけが、どうしようもなく熱かった。 ◇ 会場を出て、再びリムジンに乗り込むまで、征也は一言も発しなかった。 重厚なドアが閉ざされると、車内は深い闇と静寂に支配された。滑るように走り出した車窓を、都会のネオンが流星のように過ぎ去っていく。時折差し込む光が、征也の彫刻のような横顔を陰影深く浮かび上がらせては、また闇へと沈めていく。 車内という密室に戻り、車が走り出してようやく、重苦しい沈黙が破られる。「……謝罪はしないぞ」 窓の外を流れる夜景を見つめたまま、彼が言った。「お前があそこで大人しく靴を拭いていれば、あの女の気も済んだかもしれないと、そう思っているのか?」「……いいえ。そんなことは」 膝の上で、借りたままの彼のジャケットを握りしめる。上質な生地から立ち上る彼の匂いが、肺の奥まで満たしていく。「助けていただいて、ありがとうございました」「助けたわけじゃない」 即座に否定の言葉が返ってくる。 征也はゆっくりと視線をこちらに向けた。車内の暗がりでもわかるほど、その瞳は昏く、濡れたように光っている。「俺の所有物に傷がつくのが不快だっただけだ。……それに」 彼は手を伸ばし、私の頬にかかった後れ毛を指先で払った。 本革のシートが軋む微かな音が、やけに生々しく鼓膜を揺らす。その仕草は驚くほど繊細で、先ほどの冷徹な態度とは裏腹に、触れる指先は微かに震えている
last updateLast Updated : 2026-01-08
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第29話 サファイアの首輪①

 リムジンの低いエンジン音が不意に途絶えた瞬間、まるで耳の奥に幕が下りたような、しんとした静寂が車内を包み込んだ。  窓の外を流れ去っていた都会の光の帯は止まり、後部座席には、どこか粘りつくような重苦しい闇だけが淀んでいる。 「……着いたぞ」  隣に座る男の、低く、地を這うような声。それだけで、私の肩はびくりと小さく跳ね上がった。  膝の上で指が白くなるほど握りしめていた彼の上着――先ほどのパーティー会場で、さらし者にされた私の惨めな背中を、無言で覆ってくれたジャケット。そこからは、征也の匂いがふわりと立ち上っていた。  乾いた煙草の香りと、鼻の奥をくすぐる清涼感のあるミント。その奥に微かに混じる、体温に溶けたムスクの残り香。その香りにどこか安らぎを感じ、肺いっぱいに吸い込んでいた自分に気づき、私は慌てて浅い息を止めた。 「あの、ここは……」  見覚えのあるお屋敷ではない。車窓から見えるのは、先ほどまでいたホテルの裏口にある、VIP専用の重厚なエントランスだった。 「降りろ」  私の問いかけには目もくれず、征也は短く命じると、先に車を降りた。  ドアマンが恭しく開けた扉の向こう、夜風にタキシードの裾を揺らして立つ彼の背中が、逃げ場を塞ぐような圧力を放って私を待っている。  逆らうことなんて、最初から許されていない。私は震える足に力を込め、高いヒールをアスファルトの上に下ろした。  案内されたのは、ホテル最上階に位置する特別な部屋だった。  直通エレベーターが上昇していく数十秒の間、私たちは一度も視線を交わすことはなかった。  鏡のように磨き抜かれた扉に映るのは、あまりにも不釣り合いな二人の姿。完璧な仕立てのタキシードを纏った若き支配者と、彼から借りた大きなジャケットに埋もれ、幽霊のように俯く没落した令嬢。  階数を示すパネルの光が、無機質に切り替わっていく。  逃げ場のない密室に充満する彼の気配に、喉が張り付くように渇き、うまく呼吸が整わなかった。 「入れ」  カードキーをかざし、重厚な扉が音もなく開かれる。  一歩踏み出した瞬間、足首まで埋まりそうなほど毛足の長い絨毯が、
last updateLast Updated : 2026-01-08
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第30話 サファイアの首輪②

「……何を、そんなに怯えている」 グラスの縁越しに私を見下ろす瞳が、わずかに細められる。 それはまるで、獲物を追い詰めた猛獣が、その震えをゆっくりと吟味しているかのような眼差しだった。「パーティーでの借りは、たっぷりと返してもらう。そう言ったはずだが」「は、はい……。私は、何を……すればいいのでしょうか」 靴を舐めろと言われれば、膝をつくしかないのだろうか。 それとも、この場でドレスを脱げと命じられるのだろうか。 契約書に記された『二十四時間、あらゆる命令に従う』という冷酷な一文が、消えない火傷の跡のように脳裏に浮かんでは消える。 征也はグラスを置くと、スラックスのポケットから細長い小箱を取り出した。 深夜の闇よりも深い、沈んだ色をしたベルベットのケース。「立て」 命じられるまま、糸に引かれる操り人形のように立ち上がる。 征也が一歩、間を詰める。 私を守るように羽織っていたジャケットの襟に、彼の手がかけられた。 抵抗する間もなく、ゆっくりと、剥ぎ取られる。 冷房の効いた室内の空気が、露わになった肩と背中に触れ、ぶるりと鳥肌が立った。 薄いドレス一枚になった、無防備な姿。それを隠す術はもう何もない。 征也の視線が、私の喉元から胸元、そして白く浮き出た鎖骨へと、ねっとりと這うように移動していく。 見つめられている場所から、じりじりと熱を持って溶かされていくような、言いようのない感覚。「……後ろを向け」 その声に逆らう術を、私は持っていない。 震える足で背を向けると、背後でカチリとケースを開ける乾いた音がした。 直後、首筋にひやりとした重みのある感触が触れた。「あ……っ」 あまりの冷たさに身を縮めると、それを咎めるように、征也の熱い指先がうなじを優しく、けれど強く撫でた。「動くなと言っただろう」 耳元で囁かれる吐息が、皮膚
last updateLast Updated : 2026-01-08
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