All Chapters of 没落令嬢の家政婦契約 ~冷酷CEOは、初恋を逃さない~: Chapter 41 - Chapter 50

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第41話 雷雨の初夜④

 落雷の凄まじい衝撃が屋敷を震わせるたびに、窓ガラスがガタガタと悲鳴のような音を立てて鳴っている。 窓の外で光が弾けるたび、広い寝室の豪奢な調度品が一瞬だけ闇に浮かび上がり、すぐにまた深い影へと沈んでいく。 今の私にとってその轟音は、耳元で繰り返される征也の荒く熱い呼吸に比べれば、どこか遠い世界の出来事のようにしか感じられなかった。 最後の一枚が指先で払われるようにして剥ぎ取られ、私の肌は、あの頃とは様変わりしてしまった彼の冷たい視線にさらされる。 焼けるような恥ずかしさに顔を赤く染め、私はたまらず両腕で自分を隠そうとした。けれど、彼はその細い手首を逃さず掴み、頭上の柔らかなクッションへと沈み込ませるように押しやった。「隠すな。……今日、この瞬間のために、俺がいくら払ったと思ってる」 低く響く彼の言葉が、私の胸の奥を深く、鋭く切り裂いていく。 十億円。 それは母の命を繋ぎ止めるための値段であり、同時に、私の誇りを根こそぎ買い叩いた代金でもあった。「……っ、わかってます。好きに……してください……」 私は唇を白くなるほど噛み締め、ぎゅっと瞳を閉じた。 視界を閉ざした暗闇の中で、五感だけが恐ろしいほどに研ぎ澄まされていく。豪雨の湿った匂いと、彼が纏う高価なコロンの香りが混じり合い、頭がくらくらする。 彼が私の身体に触れるたび、這わせた指先の熱が、逃げ場のない毒のように全身へ回っていくのが分かった。征也の手のひらは、かつて私が知っていたあの優しい少年のものではなくなっている。節くれ立ち、力強く、狙ったものを決して逃さない大人の男の手だ。 彼の唇が、私の鎖骨をゆっくりとなぞり、その中央で揺れるサファイアを舌先で転がした。 カチリ、と硬い石が私の骨に当たる、かすかな感覚。シーツが擦れる衣擦れの音が、やけに大きく鼓膜に響いた。 冷え切った石と、彼の熱い舌。その正反対の刺激が、私の思考をぐにゃりと濁らせていく。「莉子……お前は、この四年間、一度でも
last updateLast Updated : 2026-01-11
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第42話 雷雨の初夜⑤

 痛い。けれど、それ以上に、肌が触れ合う部分がひどく熱い。 彼が私の中に刻み込んでくるのは、快い痺れを伴った、逃げられない支配そのものだった。 突き上げられるたびに、私の意識はバラバラに砕け、彼の放つ体臭と、濡れた肌が擦れ合う生々しい音の中に溶けていく。 薄目を開けて征也の顔を盗み見ると、そこには望みを叶えた男の、勝ち誇ったような笑顔などはどこにもなかった。 眉間に深い皺を寄せ、何かに耐えるように、あるいは何かをひどく呪っているかのように、苦しげに歪んだ表情をしている。 汗に濡れた前髪が額に張り付き、その隙間から覗く瞳は、射殺すほどに強く私だけを映していた。(どうして……。思い通りに私を手に入れたのに、どうしてそんなに泣きそうな顔をしてるの……っ) 彼から溢れ出しているのは、ただの愛欲ではない。もっと根深く、ドロドロとした苦しみの混じった、やり場のない感情だった。「俺以外の男を知るな。その身体に、俺以外の名前を刻むな……っ!」 征也は、私の肩を噛むように深く口づけ、呻き声を上げるように吐き捨てた。 その言葉は、命令というよりも、どこか震えるような悲鳴にも聞こえた。 神宮寺蒼への激しい嫉妬。私を再び失うことへの怯え。それらが「憎しみ」という形を借りて、激しい熱を帯びながら私に叩きつけられる。「征也……くん……」 真っ白になっていく意識の中で、私は彼の名を口にする。 その瞬間、彼の動きがぴたりと止まる。 青白い雷光が部屋を真っ昼間のように照らし出し、彼の瞳に宿った、狂おしいほどの熱量を露わにした。「……莉子……」 彼は私の腰を壊さんばかりに強く掴み、加減を忘れたような速さで私を追い詰めていく。 私の身体は彼の動きに翻弄され、ただ、止むことのない大波に飲み込まれる小舟のように、ひたすら揺さぶられ続けた。 お腹の奥が甘く疼き、自分でも信じられないような
last updateLast Updated : 2026-01-11
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第43話 雷雨の初夜⑥

 外の雨音だけが、依然として世界を塗り潰すように降り続いている。先ほどまでの熱狂が嘘のように、部屋の中には冷たく静かな空気が満ちていた。 征也は、私の身体の上に重なったまま、肩で荒い息を整えていた。 彼の汗が私の胸元に一滴ずつ滴り、それがゆっくりと冷えていく感覚が、夢のような心地から現実へと引き戻していく。 私は、彼がいつものように冷酷な態度で私を突き放すのを、ただじっと待っていた。 けれど、彼は動かなかった。 それどころか、彼は私の首元に鼻先を寄せ、深く、何度も何度も私の匂いを吸い込んでいる。 その仕草は、どこか迷子になった子供が、たった一つのしるしを確認しているようで――。「……死ぬまで、俺のそばにいろ」 低く、地を這うような呟き。 それは、紙に書かれた契約の言葉よりもずっと重く、私の魂を逃げられない鎖で縛りつけた。 彼は、震える私の手をそっと取り、自分の胸の上に置いた。 そこには、私を憎み、けれどその憎しみよりも深く私を渇望しているかのような……私という存在なしではもう形を保てないほどに歪んでしまった、彼の剥き出しの鼓動が、痛いほどに打たれていた。 征也は、私の指を一本ずつ絡めるようにして、ぎゅっと握りしめる。 その力は、先ほどの暴力を孕んだ強さとは違っていた。 今にも壊れてしまいそうなものを扱うような、微かな躊躇いを含んだ優しさ。「……お前のせいで、俺はもう、まともには戻れない」 自嘲気味に笑った彼の声に、私は胸をきつく締め付けられた。 この人は、私を支配しているつもりでいて、実は私以上に、この歪んだ関係に溺れてしまっているのではないか。 自由を奪われた絶望の底で、私はふと、彼という巨大な孤独の隣にいることが、逃れられない未来であるような……そんな静かな予感を抱いていた。 首元のサファイアが、月明かりも届かない暗闇の中で、鈍く青い光を反射している。 それは、天道征也という底知れない闇に一生を捧げることを誓っ
last updateLast Updated : 2026-01-11
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第44話 翌朝のオムレツと刻印①

 目を覚ました瞬間、瞼の裏を刺すような白い光に、思わず顔をしかめた。 分厚いカーテンの隙間から、容赦のない朝日が細い筋となって差し込んでいる。昨夜、あれほど狂ったように窓を叩きつけていた雨音は、嘘のように消え失せていた。代わりに聞こえてくるのは、どこか遠くで響く小鳥のさえずりと、自分自身の重たい呼吸音だけだ。「……ん……っ」 身じろぎしようとした途端、錆びついた蝶番を無理やり動かしたような鈍い痛みが、足の指先から頭の芯までを駆け抜けた。 腰の奥が鉛を埋め込まれたように重く、太腿の内側がひきつるように強張っている。まるで高熱に浮かされた翌朝のように、体の節々が軋んで悲鳴を上げていた。その気だるい痛みこそが、昨夜自分がどれほど乱暴に扱われ、どれほど無様に啼かされたのかを、無言のうちに突きつけてくる。 恐る恐る、隣を見る。 冷たかった。 キングサイズのベッドの半分は、すでに皺ひとつなく整えられている。シーツに掌を這わせてみても、そこにはもう人肌の温もりすら残っていない。指先に触れるのは、ひやりとしたリネンの感触だけだ。「……いない」 昨夜の熱狂は、すべて幻だったのだろうか。 ――死ぬまで、俺のそばにいろ。 嵐の轟音にかき消されそうになりながら、それでも耳の奥にこびりついて離れない、あの切実な声を思い出す。雷鳴に怯える私を抱きすくめ、まるで迷子が親を探すように縋り付いてきた征也。私の肌に食い込むほどの腕の力と、火傷しそうなほど熱い体温。 けれど、目覚めた私に残されているのは、首元に巻きついたサファイアの冷たい重みと、泥のように重い倦怠感だけだった。「……夢なら、よかったのに」 喉が張り付いて、掠れた声しか出ない。その独り言は、広すぎる寝室の天井に吸い込まれて消えた。 夢じゃない。私は本当に、彼の妻という名の所有物になり、そして昨夜、彼と一線を越えた カァッ、と全身の血液が逆流して、顔が沸騰する。シーツの下の自分の体がどうなっているのか、確かめる勇気さえ湧いてこない。
last updateLast Updated : 2026-01-12
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第45話 翌朝のオムレツと刻印②

 着替えようとして、私は部屋の中を見回し、呆然と立ち尽くした。 昨日まで身につけていた、地味な家政婦の制服が見当たらない。 脱ぎ捨てられたはずの惨めなドレスも、下着も、すべてが神隠しに遭ったように消えている。代わりに、ベッドサイドの椅子の上には、包装を解かれたばかりの真新しい服が置かれていた。 上質なシルクの白いブラウスと、体のラインを拾いそうなタイトスカート。それと、新品のストッキング。 明らかに、仕事へ着ていくための服だ。けれど、床を磨き、皿を洗う家政婦のそれではない。「……これを着ろってこと?」 選択肢など、端から用意されていないのだ。私は戸惑いながらも、その服に袖を通すしかなかった。あつらえたように私の体に吸い付き、スカートの丈も、ウエストのくびれも、恐ろしいほどぴったりだった。彼は私の体の隅々まで、サイズさえも完全に把握している。 その事実に薄ら寒いものを感じながら、私は部屋を出て、階段を降りた。 一階のホールに近づくにつれ、鼻をくすぐる香ばしい匂いが漂ってきた。挽きたてのコーヒーの香りと、バターが焦げる甘く濃厚な匂い。 誰かいるの? 通いの使用人さんが来たんだろうか。 匂いに誘われるようにしてキッチンへ向かった私は、そこで足を縫い止められたように動けなくなった。「……あ」 信じられない光景が、そこにあった。 広々としたアイランドキッチンの前に立ち、慣れた手つきでフライパンを振っているのは、天道征也だ。 完璧にプレスの効いた白シャツの袖を無造作に肘まで捲り上げ、黒いエプロンを腰に巻いている。その姿は、生活感あふれるキッチンの中にありながら、まるで映画のワンシーンを切り取ったかのように決まりすぎていて、現実味がまるでなかった。 あの冷酷なCEOが、エプロンをつけてキッチンに立っているなんて。「……いつまで突っ立っているつもりだ」 背中越しに声をかけられ、びくりと肩が跳ねた。 征也は振り返りもせず、器用にオムレツを皿に移している。その声は、昨夜の熱情が嘘のよう
last updateLast Updated : 2026-01-12
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第46話 翌朝のオムレツと刻印③

「……味はどうだ」 向かい側でブラックコーヒーを飲みながら、征也が聞いてくる。その視線は、手元の英字新聞に向けられたままだ。「……美味しいです。すごく」「そうか」 返ってきたのは、そっけない一言だけ。 沈黙が、痛いほど耳に刺さる。 昨夜、あんなに激しく求められたのに。私の名前を何度も呼んで、壊れ物を扱うように抱きしめてくれたのに。今の彼は、まるで何事もなかったかのように、分厚い氷の仮面を被っている。(昨日の社長は、幻だったの……?) 胸の奥がチクリと痛む。期待なんてしていないつもりだったけれど、この温度差に心がついていかない。彼はただ、契約を履行しただけなのだろうか。「……食べ終わったら、その服に着替えろと言おうとしたが、もう着ているな」 征也が新聞を畳み、ようやく私を見た。 その鋭い視線が、ブラウスの襟元からスカートの裾、そしてストッキングに包まれた足先までを、商品を値踏みするようにゆっくりと舐める。「似合っている……地味な家政婦の制服より、よほどマシだ」「あの、私の制服はどこに……?」「処分した」 さらりと言われた言葉に、私はフォークを取り落としそうになった。「しょ、処分……? どうしてですか。あれがないと、掃除ができません」「掃除などしなくていい」 征也はカップを置き、音もなく立ち上がった。 長い脚が、私の目の前まで威圧的に歩み寄ってくる。「今日から、お前は俺の秘書だ」「……はい?」 言われている意味がわからず、間の抜けた声が出た。「ひ、秘書……ですか? 私が?」「そうだ。俺のスケジュール管理、雑務、身の回りの世話。すべてお前がやれ」「でも、私にそんな経験はありません。それに、家政婦として契約を…&
last updateLast Updated : 2026-01-12
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第47話 翌朝のオムレツと刻印④

「いい返事だ……それと」 彼は不意に手を伸ばし、私の髪に触れた。 びくり、と肩が震える。 大きな手が、私の耳元の髪を乱暴にかき上げた。「……っ」 首筋が露わになる。昨夜、彼が執拗に吸い付き、所有の刻印を残した場所だ。 朝のひやりとした空気に触れ、そこだけが火傷したように熱く脈打っているのがわかる 征也の指先が、その赤い痕を確かめるように、ゆっくりとなぞった。「ん……ぁ……」 思わず、情けない声が漏れる。 背筋をゾクゾクとした痺れが駆け抜けた。ただ指で触れられただけなのに、昨夜の快楽がフラッシュバックして、下腹部が甘く疼く。「よくついているな……消えていなくて何よりだ」 彼は鏡を見るように、私の首筋の痕をじっと見つめている。その目は、獲物にマーキングをした獣のそれだった。「あの、これ……目立ちますよね。コンシーラーで隠さないと、会社では……」「隠すな」 有無を言わせぬ、強い命令口調だった。「え……?」「そのままでいい……いや、そのままでいろ」「で、でも、こんなの……見られたら、何を言われるか……」「見せつけてやれ」 征也は私の耳元に唇を寄せ、内緒話でもするように低く囁いた。「お前が誰のものか、社員全員にわからせてやるんだ……この痕を見れば、誰も手出しはできないだろう」「そんな……っ!」 羞恥で頭がくらくらした。顔から火が出そうだ。 こんなあからさまな情事の痕をつけたまま、オフィスを歩くなんて。まるで、「私は社長に抱かれました」という看板を首から下げて歩くようなものではないか。「嫌か?」 征也の指が、
last updateLast Updated : 2026-01-12
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第48話 ブティックでの洗礼①

 鏡の中に立っているのは、見知らぬ女だった。  淡いシャンパンゴールドのシルクが、嫌なほど肌に吸い付いてくる。身体の線を隠すどころか、指の動き一つ、呼吸の深さひとつまで、余さず拾い上げてしまうような生地だ。  天道征也が選んだこのドレスは、露出こそ控えめだが、肌理の細かな質感がかえって生々しさを際立たせている。襟元ですっぽりと隠された首筋には、今朝、彼が深く刻みつけた赤い痕が残っていた。  それを人目に触れさせないよう、彼はわざわざスタンドカラーの型を選んだのだ。けれど、薄い布の下でその痕跡がどくどくと熱く脈打っているのを、私だけははっきりと自覚させられている。 「……社長、これは少し……派手すぎませんか」  上擦った声で尋ねると、背後に立つ征也が、鏡越しに私の視線を捕らえた。  彼は私の肩に、大きな手をそっと置く。五本の指がじわりと沈み込み、薄い生地を透かして彼の高い体温が直に伝わってくる。それだけで、私の心臓は早鐘を打ったように激しく暴れだした。 「お前が決めることじゃない。俺が、これを着ろと言っているんだ」  低く、腹の底に響くような声が耳元で重なり、背筋を這い上がるような痺れが走った。  ここは銀座の一等地に店を構える、完全予約制の高級ブティックだ。広々とした店内に、私たち以外に客の姿はどこにもない。征也がこの場所を数時間、まるごと独占するために手を回したからだ。  店員たちは少し離れた場所から、好奇心と蔑みが入り混じったような、冷ややかな視線を私に向けている。  かつての私であれば、その視線はきっと「羨望」の色を帯びていただろう。けれど今は、まるで違う。家を追われ、借金にまみれ、かつての幼馴染に囲い込まれた家政婦。高価な服を与えられ、着せ替え人形のように弄ばれる屈辱が、泥水のようにじわじわと胸の奥へ広がっていった。 「莉子、前を向け。……よく似合っている」  征也の硬い指先が、私の顎を強引に上向かせた。  鏡に映る彼の瞳の奥には、すべてを意のままに操っているという、歪んだ満足感が浮かんでいる。彼は、私がかつてのプライドをずたずたに引き裂かれながらも、自分に与えられる贅沢に抗えず、少しずつ溺れていく姿を眺めて楽しんでいるのだ。  その時だった。  静まり返った店内に、場違いなほど高く尖った靴音が響き渡ったのは。 「あら。予約
last updateLast Updated : 2026-01-13
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第49話 ブティックでの洗礼②

 エリカは蛇のように細い目で私を上から下まで執拗にねめ回すと、わざとらしく口元を押さえて吹き出した。 「まあ、征也様、冗談でしょう? そんな薄汚れたものを、わざわざこんな格式高いお店に連れてくるなんて。お店の絨毯が腐ってしまいそうですわ」  エリカの言葉は、鋭い刃物となって私の耳を切り裂いた。店員たちの視線が、さらに一段と冷たく、鋭くなったように肌に刺さる。  私は反射的に、ドレスの上から自分の腕を抱き、身を縮めるしかなかった。  エリカは隠そうともしない嘲笑を浮かべたまま、すぐ側まで歩み寄ってくる。彼女が纏っているきつい香水の匂いが鼻を突き、胃の奥からこみ上げるような吐き気が私を襲った。 「汚れ……? エリカ様、私は……」 「気安く名前を呼ばないで。反吐が出るわ。家政婦として雇ってもらっただけで、自分まで元の身分に戻ったとでも勘違いしたのかしら? それとも……夜のお相手も務めているから、そのご褒美なのかしらね」  エリカは私のドレスの裾を、まるで汚物でも見るかのように指先でつまみ上げた。 「征也様、こんな女に高い服を買い与えても、中身はボロをまとった浮浪者と同じです。見てください、この怯えきった目。かつての月島家の令嬢が、今や金で飼われているペットだなんて。……ふふ、お可哀想に。お父様が空の上で知ったら、どんなに嘆かれることか」  彼女は私の耳元まで顔を寄せると、さらに声を潜めて囁いた。 「ねえ、莉子。いくら着飾っても、あなたの身体には『負け犬』の烙印が一生消えないのよ。自分の立ち位置を、もっとわきまえなさいな」  エリカは突然、手に持っていたシャンパングラスを、わざとらしく傾けた。  琥珀色の液体が、私の靴の先に数滴飛び散り、染みを作る。 「きゃっ!」  わざとらしい悲鳴と共に、グラスが床に落ちて甲高い破砕音を立てた。私の足元に、黄金色の液体が広がり、エリカ自身の銀色のパンプスにも飛沫がかかる。 「あら失礼。あまりに滑稽な姿だったから、つい手が滑ってしまいました」  エリカは悪びれる様子もなく、大げさに肩をすくめた。そして、氷のような冷たい目で私を見下ろした。 「大変。私のお気に入りの靴が汚れてしまったじゃない。……ねえ、月島さん?」 「え……?」 「あなた、お掃除のプロなんでしょう? ちょうど良かったわ」  エリカは汚れ
last updateLast Updated : 2026-01-13
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第50話 ブティックでの洗礼③

 ハッとした。  私は今、誰と一緒にここにいる?  天道征也だ。  この国の経済を牽引する、天道グループの総帥。彼が私を選び、ここに連れてきたのだ。  もし私がここで、エリカの悪意に屈して這いつくばり、惨めに靴を舐めるような真似をしたら? それは私だけの恥ではない。「こんな女を連れて歩いているのか」と、征也の顔に泥を塗ることになるのではないか。  家政婦として仕えることと、奴隷のように尊厳を捨てることは違う。  私はぐっと奥歯を噛み締め、震える膝に力を込めた。  膝をつくのを、やめた。  代わりに、私は背筋をすっと伸ばし、真っ直ぐにエリカを見返した。 「……高嶺様」  静かな声だったが、それは店内の空気を変えるほど凛と響いた。  予想外の反応に、エリカが眉をひそめる。 「なによ。早く拭きなさいよ」 「お断りいたします」 「は……?」  エリカがぽかんと口を開けた。  私は胸の鼓動が早鐘を打つのを感じながらも、かつて社交界で身につけた完璧な礼儀作法(マナー)を思い出し、優雅に、しかし毅然と言い放った。 「高嶺様ともあろう方が、このような場所で取り乱されるのはいかがなものでしょうか。グラスを落とし、大声を上げ、他人に跪くよう強要する……そのような振る舞いは、高嶺家のご令嬢としての品位を損なうかと存じます」 「な、なんですって……!?」 「それに、今の私は業務中ではありません。天道社長のパートナーとして、この場に同伴させていただいております。私が不当に頭を下げることは、私をお選びになった社長への侮辱にも当たります。……ですので、ご自身で処理なさるか、お店の方にお任せになるのが筋かと」  私は近くにいた店員に、目配せをした。  その視線には、かつて使用人たちを束ねていた頃の威厳が宿っていたのかもしれない。呆気に取られていた店員が、ハッとして慌ててタオルを持って駆け寄ってくる。 「き、貴様……っ! 没落した分際で、私に説教をするつもり!?」  顔を真っ赤にしたエリカが、金切り声を上げて私に掴みかかろうとした。  その手が振り上げられた瞬間、私は反射的に身構えたが、目は逸らさなかった。ここで目を逸らせば、負けだと思ったからだ。  ガシッ。  乾いた音が響き、エリカの手首が空中で止まった。  私の前に、大きな影が割り込んでいた
last updateLast Updated : 2026-01-13
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