でも、怒りで震えてはいけない。 感情的になったら負けだ。 私はゆっくりと顔を上げた。 「ええ。……夫は、泥にまみれることを恐れません。大切なものを守るためなら、プライドさえ捨てられる。……それが、彼の強さですわ」 「……はあ?」 「逆に伺いたいのですが、高嶺様。……あなたは、ご自分の手を汚したことがおありですか?」 私は彼女の綺麗にマニキュアされた指先を見た。 「何もかも他人任せで、安全な場所から石を投げるだけ。……そんな方の言葉など、彼には届きません」 「……っ、生意気な!」 エリカの顔色が変わった。 余裕の笑みが消え、ヒステリックな怒りが浮かぶ。 「口答えしないでよ! 家政婦風情が!」 彼女の手元のグラスが、微かに揺れる。 波々と注がれた赤ワイン。 彼女の視線が、私のドレス――淡い光沢を放つシルクの生地へと落ちた。 そして、ニヤリと口角が上がる。 来る。 直感が警鐘を鳴らした。 長年、家政婦として他人の家に入り込み、女主人の機嫌や挙動を観察し続けてきた経験が、スローモーションのように彼女の次の動作を予測させる。 体重が右足に乗る。 手首のスナップ。 グラスの傾き。 「あら、ごめんなさい――!」 わざとらしい悲鳴と共に、エリカが大げさに体勢を崩した。 赤い液体が、グラスの縁から放たれる。 狙いは正確に、私の胸元だ。 普通なら、避けられない距離。 でも、私の目には、液体の軌道が鮮明に見えていた。 掃除の時、棚から落ちてくる花瓶を受け止める反射神経。 子供がジュースをこぼす瞬間、タオルを差し出す予測能力。 身体が、勝手に動いた。 逃げるのではない。 最小限の動きで、軸をずらす。 サッ。 半歩、左へ。 それだけの動作で、ワインの奔流は私のドレスの数ミリ横を通り抜けた。 バシャッ! 重たい液体が床に叩きつけられ、赤い飛沫が散る。
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