All Chapters of 没落令嬢の家政婦契約 ~冷酷CEOは、初恋を逃さない~: Chapter 431 - Chapter 440

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スピンオフ第143話:魔王の流儀、父の背中②

「木崎の父親が勤務する中堅商社については、主要取引先を通じて過去の不正な取引処理と信用不安の資料を提示済みです。明朝九時には社内調査が開始され、木崎の父親も責任者として処分を免れない状況です。また、木崎本人の就職内定先である大手銀行の人事部へは、素行不良の事実と被害届のコピーを内容証明で送付済みです。明日の午後には、内定取り消しの検討に入る見込みです」 淡々とした、事務的な声。 陽向は息を呑んだ。 たった一日、自分が靴底をすり減らして警察や大学を駆け回り、必死に訴えてもビクともしなかった現実の壁が。 電話一本で、紙切れ一枚で、完全に崩壊していく。「大学の学生課については?」 征也の問いに、三田村は眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。「天道グループからの次期キャンパス建設への寄付金の保留を示唆したところ、十五分前に学長から直接連絡がありました。木崎および関与したサークルメンバー数名は、明日の教授会で、停学を含む懲戒審査に入ります。関与が確認されれば、退学処分も避けられません。警察にも正式な資料を提出済みです。被害届の受理と同時に、明朝には脅迫および威力業務妨害の容疑で任意聴取が入る見込みです」「……待てよ」 陽向の声が、車内の静寂を破った。 膝の上の拳が、小刻みに震えている。「店へのネットの書き込みはどうするんだ。あいつらが捕まっても、嘘の噂が残ったままじゃ、客は戻らない!」「ご安心を、陽向様」 三田村が、感情の乗らない声で答える。「専門の対策チームが、書き込みのログと関連アカウントを押さえています。発信者情報の開示手続きと並行して、明日には関係者全員へ警告書と損害賠償請求の予告通知を送付します。請求額は、学生同士の悪ふざけでは済まされない規模になる見込みです。同時に、主要なネットメディアやグルメサイトへは、すべて事実無根の悪質な嫌がらせであったという声明を、天道グループの法務部名義で一斉配信します」 完璧な、隙のない社会的な抹殺。 暴力よりもはるかに冷酷で、逃げ道のない包囲網。 陽向は口の中がひどく乾燥していくのを感じた。
last updateLast Updated : 2026-05-25
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スピンオフ第144話:魔王の流儀、父の背中③

「相手がルールを守らないのであれば、こちらはルールを書き換え、盤面ごと叩き割る。それが、持てる者の義務だ」「……だからって、他人の人生を、そんなゲームの駒みたいに……」「力とは、愛する者の世界ごと背負うためにある」 征也の低い声が、車内の空気をびりびりと震わせた。 陽向は顔を上げる。「中途半端な覚悟で、他人の人生に触れるな。守りたいものがあるのなら、自分の手を泥で汚し、相手の世界を丸ごと背負う覚悟を持て。それができないのなら、最初から正義感など振りかざすな」 征也の言葉が、重い鉛となって陽向の腹の底に沈み込む。 その瞬間。 陽向の脳裏に、あの深夜のICUの前で、壁に手をついて震えていた父の背中が、まざまざと蘇った。 すべてを力でねじ伏せ、冷徹に支配しているように見えたこの男は。 その裏で、常にこの泥沼のような重圧を一人で背負い続けていたのだ。 眠り続ける母を、外界のあらゆる脅威から守り抜くために。自分たち子供に一切の泥を被せないために。 どれほど周囲から「魔王」と恐れられ、冷血だと憎まれようとも、ただ一つの大切なものを守るために、己の手を汚し続ける狂気的なまでの覚悟。 それが、天道征也という男の流儀だった。 陽向は、自分の足元を見た。 履き潰したスニーカーのつま先には、昼間駆け回った時の泥がこびりついている。 親父のやり方に反発し、自分の力だけで立てると信じて家を出た。 だが、そのちっぽけなプライドを守るために、一番助けたかったはずの少女を泣かせた。 自分が一日かけても動かせなかった世界を、父は圧倒的な力と覚悟で、一瞬にして安全な形に作り変えてしまった。(……俺の負けだ) 陽向は、膝の上に置いていた両手を、ゆっくりと太腿の横に下ろした。 深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。 そして、向かい側のシートに座る征也に向かって、額が膝につくほど深く、深く頭を下げた。「……教えてくれ」
last updateLast Updated : 2026-05-25
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スピンオフ第145話:王子様の正体①

 クローゼットの鏡に向かって、左右のバランスを確かめるようにして制服の襟元を整える。一本の乱れもない黒髪は、毎朝ヘアスプレーで完全に固定されている。この完璧な令嬢の髪型を維持するために、どれほどの時間が費やされているかなど、周囲のクラスメイトたちは想像すらしていないだろう。 ふと、三日前に大理石の床へ座り込んで震えていた父親の姿が頭をよぎった。いつもなら見上げるほど高く、冷徹な仮面を被っていたあの背中が、母親の容態急変を前にして、あんなにも小さく縮むなんて思いもしなかった。「……パパも、ただの人だったのね」 小さく呟いた言葉は、無臭の広い自室に吸い込まれて消えた。母親が一命を取り留め、病室の空気が少しだけ緩んだからこそ、そんな不謹慎なツッコミを内心で入れる余裕ができたのかもしれない。 だが、父親への複雑な感情よりも、今の胸の奥を占めているのは、別の熱だった。 鞄の底に指先を滑らせると、あの汚れた高架下で手渡された、空のコーヒー缶の感触が蘇るような気がした。もちろん本物はすでに処分されて存在しないが、人工的な甘さと、手のひらを焦がすような熱さは、今も皮膚の記憶として鮮明に残っている。「お嬢様、お車の用意ができております」 一階へ降りると、SPの鈴木が直立不動の姿勢で頭を下げた。「ええ。行きましょう」 いつものように隙のない微笑みを浮かべ、黒塗りのセダンへと乗り込む。車内には、一切の雑音を遮断した無機質な空間が広がっていた。だが、滑り出した車の窓ガラスに映る自分の顔は、どこか浮足立っているように見えて仕方がなかった。 鈴木を出し抜くための言い訳は、昨日から完璧に組み立てていた。「鈴木。駅前の商業ビルで、友人の誕生日の贈り物を探したいの」「かしこまりました。では、同行いたします」「いいえ。女の子の秘密の買い物に、黒スーツの男性がついてくるなんて、相手へのサプライズが台無しになってしまうわ。ビルの入り口で待っていてちょうだい。三十分、いえ、四十五分で戻るから」 少しだけ茶目っ気を含んだ、けれど反論を許さない口調。父親の冷徹な威圧感を、都合よく令嬢のワガママに変換して出力する技
last updateLast Updated : 2026-05-26
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スピンオフ第146話:王子様の正体②

 新しい、けれど決して高級ではないスチール弦が、硬い音を立てて空気を震わせている。 柱の影に、その人はいた。 色褪せたチェックのシャツの袖を腕まくりし、傷だらけの古いギターを抱えてパイプ椅子に腰掛けている。フードは被っておらず、癖のある少し長めの前髪が、街灯のオレンジ色の光を浴びて琥珀色に輝いていた。 周囲に足を止める聴衆は、今日もまばらだった。家路を急ぐサラリーマンや、スマートフォンに目を落とした学生たちが、レイの側を無関心に通り過ぎていく。 だが、レイは気にする風でもなく、ただ前を向いて、透明な歌声を響かせていた。 結衣は、邪魔をしないように少し離れた柱の陰に立ち、その姿をじっと見つめた。 三日前、三百万円のヴィンテージギターを巡ってレイと衝突した時。お金の力で相手の心を囲おうとした自分の傲慢さを、レイは鋭く拒絶した。けれど、泣き崩れた自分の涙を、あの硬い指先で優しく拭ってくれた。『次からは、手ぶらでおいでよ』 その言葉通り、今の結衣の手には、何もない。天道家の看板も、財力も、すべてビルの外に置いてきた。ただの一人の少女として、ここに立っている。 ポロロン、と最後のコードが掻き鳴らされ、歌が終わった。 レイは小さく息を吐き、前髪をかき上げながら顔を上げた。その琥珀色の瞳が、柱の陰に佇む結衣の姿を真っ直ぐに捉える。「……あ、やっぱり来た」 レイの唇が、柔らかい弧を描いた。その無防備な笑顔を見た瞬間、結衣の心臓が、トクンと大きな音を立てて跳ねた。「お疲れ様、レイ。今日も、素敵な歌だったわ」 結衣は歩み寄り、ビールの空き箱をひっくり返した簡易的な椅子に腰掛けた。制服のスカートが擦れる音。「ありがと。でも、今日はちょっと声が伸びなかったかな。夕方の風が少し冷たいからさ」 レイはそう言って、ギターのネックを愛おしそうにタオルで拭き始めた。その指先には、昨日裂けたという傷の跡が、小さな硬いかさぶたとなって残っている。「レイは……どうしてそんなに一生懸命に歌うの? 誰も足を止めない日だってあるのに」 結
last updateLast Updated : 2026-05-26
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スピンオフ第147話:王子様の正体③

 何もない場所で、自分の身体一つで命の重みを確かめているレイ。「……贅沢なお姫様には、わかんないかな」 レイが少しからかうように目を細める。「ううん。わかるわ」 結衣は真っ直ぐにレイを見つめ返した。「私も……あの広い家の中で、自分が本当に生きているのか、わからなくなる時があるの。パパの用意した完璧な安全の中にいると、息の仕方を忘れてしまいそうになる。……でも、ここにきて、レイの歌を聴いている時だけは、自分の心臓がちゃんと動いているのがわかるのよ」 言葉が、堰を切ったように溢れ出していた。 レイは驚いたように少し目を見開き、やがて、困ったような、けれど愛おしそうな苦笑を浮かべた。「そっか。じゃあ、僕の歌も、一人の役には立ってるんだね」 その笑顔が、あまりにも眩しかった。 結衣の胸の奥で、長い間眠っていた感情が、一気に熱を持って膨らんでいく。 この人に、伝えたい。 天道家の令嬢としてではなく、ただの「ユイ」として、あなたのことが好きだと。 冷たい牢獄から私を連れ出してくれた、私の王子様。 結衣は深く息を吸い込み、唇を開きかけた。「あ、もうこんな時間か。今日はそろそろ引き上げないと、バイトに遅れちゃう」 レイがスマートフォンを覗き込み、慌てたように立ち上がった。「え……」「ごめんね、ユイ。また今度、ゆっくり聴いてよ」 手際よくギターをケースに納め、留め具をパチン、パチンと閉めていくレイ。 結衣は、喉の奥まで出かかっていた言葉を、飲み込むしかなかった。タイミングを逃した悔しさと、告白への恐怖が混ざり合い、指先が冷たくなっていく。「……ええ。またね」 引きつった微笑みを浮かべ、ケースを背負うレイを見送る。 レイは「じゃあね!」と軽く手を振ると、下町の薄暗い路地の向こうへと足早に歩き出した。 ◇ 一人残された高架下は、急に温度が下が
last updateLast Updated : 2026-05-27
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スピンオフ第148話:王子様の正体④

 外階段の鉄板が、ミシミシ、ミシミシと錆びついた音を立てて軋む。 結衣はアパートの陰に身を潜め、見上げるようにして彼の動きを追った。 二階の一番奥の部屋。 レイが鍵を開け、ドアを押して中へと入っていく。 結衣は、ゆっくりと階段に足をかけた。 一段、一段、鉄の冷たさがローファーの底を通して伝わってくる。呼吸が浅くなり、心臓の音が耳元でうるさいほどに主張を始める。(何をしてるの、私……。こんなこと、ストーカーみたいじゃない) 内心で自分を叱りつけながらも、足は止まらなかった。彼の暮らす場所を知りたいという気持ちと、声をかける勇気のなさが、判断を鈍らせていた。 二階の通路は、狭く、薄暗かった。 一番奥の部屋の前に辿り着く。 ドアノブに手をかけようとして、手が止まった。 建付けが悪いのか、それとも閉め忘れたのか、アルミ製のドアが、わずか数センチだけ、隙間を開けて半開きになっていたのだ。 隙間から、室内の黄色い白熱灯の光が、細い線となって通路のコンクリートの床を照らしている。 中から、衣類が擦れる微かな音が聞こえてきた。 声をかけようとした瞬間、隙間の向こうの動きが目に入ってしまった。 狭い四畳半ほどの室内。壁には古いポスターが貼られ、床にはギターの機材や楽譜が散乱している。 その中央に、小さな姿見の鏡が置かれていた。 鏡の前に、背を向けて立っている人物。 レイだった。 チェックのシャツは傍らに掛けられ、レイは鏡の前でサラシを直しているところだった。 白い布――サラシが、胸元を隠すように幾重にも巻かれている。 結衣は慌てて目を逸らそうとした。けれど、鏡に映った輪郭が、すでに答えを告げていた。 レイの指先が、巻き直しかけたサラシの端で止まる。 鏡越しに、こちらの気配に気づいたのだろう。 レイの肩が、びくりと小さく揺れた。 その横顔を見た瞬間。 結衣は、レイが自分と同じ女性であることを悟ってしまった。 それは、覗いてはいけない相
last updateLast Updated : 2026-05-27
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スピンオフ第149話:サヨナラの調べ、受け継がれる恩①

 結衣の身体は弾かれたように後ろへ飛び退き、その弾みでローファーの踵がコンクリートの床を硬く叩いた。 カツン、という鋭い音が、薄暗いアパートの通路に大きく反響する。 しまった、と息を呑み、慌てて口元を両手で塞ぐ。 だが、もう遅かった。 半開きになっていたアルミ製のドアが、内側からゆっくりと引かれる。 錆びた蝶番が、ギィッと不快な摩擦音を立てた。 ドアの隙間から姿を現したのは、色褪せたチェックのシャツを素肌の上に羽織り、前のボタンを不器用に留めかけているレイだった。 琥珀色の瞳が、通路で硬直している結衣を真っ直ぐに捉える。 先ほど鏡越しに見えてしまった秘密は、もうシャツの下に隠されている。だが、結衣の胸には、踏み越えてはいけない一線を越えてしまった罪悪感が、火傷の跡のように残っていた。「……ユイ」 レイの声は、いつもの透明な響きの中に、わずかな戸惑いを含んでいた。 結衣の膝が、ガクガクと小刻みに震え始める。 見られてはいけないものを見てしまった罪悪感と、信じていた世界が根底から崩れ去っていく喪失感。 逃げなければ。 そう命じる頭とは裏腹に、足の裏がコンクリートの床に縫い付けられたように動かない。「ごめんなさい……私、そんなつもりじゃ……」 震える唇から、切れ切れの言葉がこぼれ落ちる。 レイは小さく息を吐き出すと、シャツのボタンを一番上まで留め、ドアを大きく開け放った。「……立ち話もなんだし、入る? 散らかってるけど」 怒鳴られることも、冷たく突き放されることも覚悟していた結衣は、その穏やかな声に拍子抜けして目を瞬かせた。 レイは一歩身を引き、通路に立ち尽くす結衣が入れるだけの隙間を作った。 足を踏み入れた四畳半の空間は、先ほどドアの隙間から見えた通り、足の踏み場もないほど物が溢れていた。 擦り切れた畳の上に、剥き出しのギターの弦や、書き込みだらけの五線譜、空のペットボトルが無造作に転がっている
last updateLast Updated : 2026-05-28
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スピンオフ第150話:サヨナラの調べ、受け継がれる恩②

「……驚かせちゃったね」 レイがマグカップの縁を両手で包み込みながら、ぽつりと口を開く。 結衣は俯いたまま、小さく首を横に振った。「私こそ、勝手についてきて、覗き見みたいな真似をして……本当に、ごめんなさい」「いいよ。いつかは、ちゃんと話さなきゃって思ってたから」 レイの顔には、秘密を知られたことへの怒りは微塵も浮かんでいなかった。 あるのは、幼い子供を諭すような、静かな諦観だけだ。「路上で、女性が一人でギターを弾いて歌っていると、結構面倒なことが多いんだ。酔っ払いに絡まれたり、変な大人が声かけてきたり。だから、胸をサラシで潰して、男のふりをしてる方が、何かと安全でさ」 レイは自分の平坦になった胸のあたりを軽く叩き、自嘲気味に笑った。 その言葉が、結衣の胸の奥に残っていた甘い思い込みを、静かに崩していった。 冷たい白亜の牢獄から連れ出してくれると信じていた王子様。 あの高架下の暗闇で、熱い缶コーヒーを手渡し、涙を拭ってくれた大きな手。 すべてが、レイ自身の手によるものだったのだ。 恋い焦がれていた熱の正体が、幻のように指の隙間からこぼれ落ちていく。「……どうして、もっと早く言ってくれなかったの?」 結衣の声は、泣き出しそうに震えていた。「言えなかったんだよ。君が、僕の歌をあんなに真っ直ぐな目で聴いてくれるから。……それに」 レイはそこで言葉を区切り、マグカップをちゃぶ台に置いた。 琥珀色の瞳が、結衣の顔を真っ直ぐに射抜く。「僕には、君に隠していたことがもう一つある」「もう一つ……?」「君が『ユイ』って名乗ったあの日から、本当は全部知ってたんだ。君の名字が天道であることも。天道グループの、たった一人のお嬢様だってこともね」 結衣は弾かれたように顔を上げた。 息が止まる。 SPの目を盗み、制服の校章も隠していたはずだ。自分から素性を明かしたこと
last updateLast Updated : 2026-05-28
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スピンオフ第151話:サヨナラの調べ、受け継がれる恩③

 その隣には、少し表情を硬くしながらも、莉子の肩を抱き寄せる若き日の父・征也が立っている。「ママ……」 結衣の唇から、掠れた声が漏れた。 十二年前の、時間が止まる前の、幸せだった頃の家族の姿。「僕、ずっと孤児院で育ったんだ」 レイが、遠い過去を思い出すように、ゆっくりと語り始める。「物心ついた時から心臓が悪くてさ。医者には、手術をしないと長くは生きられないって言われてた。でも、施設にそんな何千万もする手術費用を出せるわけがない。誰もが、僕の命はそこまでだって諦めてた」 レイは、写真の隣にある分厚い封筒を指でなぞった。 そこには、天道グループが運営する財団の印字がはっきりと残されている。「でも、ある日突然、見ず知らずの人が全額寄付してくれたんだ。天道財団の名義で。……後から聞いた話だけど、その寄付を強く推し進めてくれたのが、天道グループの社長夫人だったって」 結衣の心臓が、大きく跳ねた。「君のお母さんが、僕にこの心臓が動く時間をくれたんだよ。僕の命を、繋ぎ止めてくれた」 レイは自分の左胸に、そっと手を当てた。「手術が成功して、退院する日。遠くから一度だけ、お母さんの姿を見たことがある。黒塗りの車から降りてきて、施設長と話をしてた。あの時の、春の陽だまりみたいな優しい笑顔。……君は、あの方に本当にそっくりだ」 結衣の目から、不意に大粒の涙がこぼれ落ちた。 病室で眠り続ける母。 チューブに繋がれ、冷たいシーツの中で静かに呼吸を繰り返すだけの、あの冷たい手。 父がどれほど愛を注いでも、決して目を開けることのない、止まった時間の中の存在。 けれど。 母の残した優しさは、こんなにも温かい命となって、この汚れた下町の四畳半で、力強く脈打っていた。 レイの奏でるあの透明な歌声も、高架下で結衣の涙を拭ってくれたあの硬い指の熱も、すべては母が未来へと繋いだものだったのだ。「どうして……私に、言ってくれなかったの&helli
last updateLast Updated : 2026-05-29
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スピンオフ第152話:サヨナラの調べ、受け継がれる恩④

「君のお母さんは、僕にとって神様みたいな人だ。だから……その大切な娘さんを、こんな不安定な生活に、引きずり込むわけにはいかない」 レイは、柔らかく、けれど決定的な拒絶の色を帯びた微笑みを浮かべた。「僕は、君の王子様にはなれないよ、ユイ」 その言葉が、結衣の初恋に、静かに、けれど確実に終止符を打った。 胸の奥が、鋭い刃物でえぐり取られるように痛む。 失恋の悲しみ。 相手を勝手に「王子様」だと思い込んでいた自分への戸惑い。 そして何より、母の深い愛情に触れたことへの、言葉にならない感動。 いくつもの感情が濁流となって結衣の身体を駆け巡り、ただ止めどなく涙が溢れ続ける。 レイはそれ以上何も言わず、ただ結衣が泣き止むのを、静かに待ち続けていた。 冷めていくインスタントコーヒーの匂いと、古い畳の匂い。 窓の外から、風が窓ガラスをガタガタと揺らす音が聞こえてくる。 どれくらいの時間が経っただろうか。 結衣は手の甲で乱暴に涙を拭い、ゆっくりと立ち上がった。 膝の震えは、いつの間にか止まっていた。「……ありがとう、レイ」 鼻声になりながらも、結衣は真っ直ぐにレイの琥珀色の瞳を見つめ返した。「私に、本当のことを話してくれて。……ママのこと、教えてくれて」 レイは座ったまま、優しく目を細めた。「気をつけて帰るんだよ。雨、降りそうだから」「ええ。……さようなら」 結衣は深く頭を下げ、部屋のドアノブに手をかけた。 アルミのドアを開け、外の通路に出る。 冷たい夜の空気が、火照った顔を撫でていく。 ドアが背後でカチャリと閉まる音を聞き届けた瞬間、結衣は走り出していた。 錆びた鉄の階段を、ローファーの底で激しく叩きながら駆け下りる。 一段降りるたびに、レイの匂いが、あの高架下の熱が、自分の中から剥がれ落ちていくような気がした。 アパートの外へ飛び出すと、頬に冷た
last updateLast Updated : 2026-05-29
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