All Chapters of 没落令嬢の家政婦契約 ~冷酷CEOは、初恋を逃さない~: Chapter 211 - Chapter 220

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第211話 銀行頭取の復讐⑤

 ◇  数時間後。 私たちは、寝室のクローゼットの前に立っていた。 開け放たれた扉の中には、征也のオーダーメイドのスーツがずらりと並び、高級な時計や靴がショーケースのように陳列されている。 私のスペースにも、彼が買い与えてくれた高価なドレスやブランドのバッグが溢れていた。「……必要なものだけを詰めろ」 征也はベッドの上に大きなトランクを広げ、無造作にシャツを放り込み始めた。「残りのものは、すべて置いていく」「本当にいいの? その時計、お気に入りだったじゃない」 私がガラスケースの中の腕時計を指差すと、彼は一瞥もせずに鼻で笑った。「ただの金属の塊だ。……今の俺たちには、時間を気にして生きる余裕なんてないだろう」 彼の決断は早く、そして迷いがなかった。 過去の栄光にすがることは、今の彼にとって足枷にしかならないのだと理解しているのだ。 私もそれに倣い、ドレスや宝石には一切手を触れず、着回しのきく実用的な服と、下着、そして洗面用具だけをトランクに詰めた。 母子手帳。 それだけは、何よりも大切にバッグの奥深くにしまい込む。「……準備できたわ」「よし、行くぞ」 トランクのジッパーを閉め、征也はそれを軽々と持ち上げた。 玄関に向かう道すがら、私は一度だけ振り返り、この広く、冷たく、そしてたくさんの思い出が詰まったリビングを見渡した。 初めてここに来た日、恐ろしくて震えていたこと。 彼がキッチンでオムレツを焼いてくれたこと。 ソファで二人、身を寄せ合って眠った夜。「……未練があるか?」 玄関のドアノブに手をかけた征也が、私の視線に気づいて尋ねる。「ううん」 私は首を横に振り、彼の腕に自分の腕を絡ませた。「ただ、ちょっとだけ……掃除のしがいがない部屋だったなって、思って」 私の強がりに、
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第212話 差し押さえと小さなアパート①

 灰色の雲から、霧雨のような細かな水滴が落ち始めていた。 私たちは、マンションのエントランスから少し歩いた大通りで、流しのタクシーを拾った。 いつもなら、広々とした革張りのリムジンが当たり前のように滑り込んできたはずの場所。 車高の低いタクシーの後部座席に押し込められると、ただでさえ大きな征也の身体が、ひどく窮屈そうに見えた。 彼が膝の上に置いた手は、まだ微かに強張っている。「……橘か。俺だ」 車が走り出してすぐ、征也はスマートフォンを耳に当てた。 その声は、運転手に怪しまれないよう低く抑えられていたが、切迫した響きを含んでいた。『はい、社長。……各行へのアポイントメント、現在調整中ですが、どこも「担当者不在」の一点張りで……』「だろうな。今はそれでいい。……それより、屋敷の使用人たちのことだ」 征也は、窓の外を流れる景色を睨みつけながら言った。「全員、今日付で解雇しろ。……退職金は、俺の海外の裏口座から引き出して全額振り込め。絶対に一人も路頭に迷わせるな。その後の再就職先も、ダミー会社を経由して斡旋してやれ」『……承知いたしました』「それから、お前もだ」 橘秘書が息を呑む気配が、電話越しにも伝わってきた。「お前も、しばらく身を隠せ。神宮寺の連中が、俺の周辺を洗いざらい嗅ぎ回っているはずだ。……これ以上、巻き込むわけにはいかない」『社長! 私は……』「命令だ。……落ち着いたら、必ずこちらから連絡する」 有無を言わさず通話を切り、征也はスマートフォンをポケットにねじ込んだ。 彼の横顔は、彫刻のように硬く、冷たい。 自分が築き上げた組織の人間たちを、一人残らず切り捨てていく。 それは、彼らを守るための冷酷な決断だった。 私は、彼の左腕にそっと自分の腕を絡ませ
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第213話 差し押さえと小さなアパート②

 ◇  タクシーが停まったのは、都内の外れにある、古びた住宅街の一角だった。 コンクリートの壁には黒ずんだ雨だれの跡が何本も走り、塗装の剥げた鉄の階段が、建物の外側にへばりつくように設置されている。 築三十年は下らないだろう、安アパート。 橘秘書が、天道グループとは全く無関係のダミー会社名義で、急遽押さえてくれたウィークリーマンションだ。 神宮寺の追っ手から身を隠すには、これくらい生活感に塗れた、目立たない場所の方がいい。「……ここだ」 タクシーを降り、雨上がりの湿ったアスファルトを踏みしめながら、征也が見上げる。 かつて彼が君臨していた、天を衝くようなタワーマンションや、モダンな豪邸とは、あまりにもかけ離れた景色。 私にとっては、没落後に母と暮らしていたあのアパートを思い出させる、どこか懐かしい風景でもあった。 カン、コン、と靴音を響かせて、サビの浮いた鉄階段を上る。 征也の履いている最高級の革靴が、このチープな鉄の階段を踏む音は、ひどく場違いで不協和音のように聞こえた。 二階の角部屋。 203号室。 征也がポストに入っていた鍵を取り出し、鍵穴に差し込む。 ガチャリ、というよりは、ガリッという軋むような音を立てて、薄い鉄のドアが開いた。「……」 一歩足を踏み入れた瞬間、むっとしたカビの匂いと、長期間締め切られていた埃っぽい空気が顔にぶつかってきた。 狭い三和土。 入ってすぐ右手に、プラスチック製のユニットバスのドア。 奥には、色褪せたクッションフロアが敷かれた六畳ほどのダイニングキッチンと、引き戸で仕切られた四畳半の和室。 間取りとしては1LDKという表記だろうが、実際は、息が詰まるほど狭い。 征也はトランクを床に置き、無言で部屋の真ん中に立ち尽くした。 長身の彼が立つと、ただでさえ低い天井が、さらに低く圧迫感を持って迫ってくるように見える。 仕立てのいいチャコールグレーのスリーピース。
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第214話 差し押さえと小さなアパート③

 私がわざとらしく言うと、征也の拳がピタリと止まった。 彼は力なく手を下ろし、重たい溜息をついた。「……そうだな。……だが、莉子。本当にここでいいのか? お前の実家に……いや、三田村のところでもいい。もっと安全で、清潔な場所に……」「あなたがいる場所が、私の家よ」 私は彼の言葉を遮り、真っ直ぐにその瞳を見つめ返した。「広さなんて関係ない。お金がなくても、屋敷がなくても。……あなたが隣にいて、その熱を感じられるなら、私はどこだっていいの」「莉子……」「それに」 私は彼の手を離し、腕まくりをした。「私を誰だと思ってるの? どんな汚れだって落としてみせる、プロの家政婦よ。……これくらいの部屋、一日あればピカピカの城に変えてみせるわ」  ◇ 私は早速、部屋の窓という窓を開け放った。 湿った風が入り込み、澱んでいた空気を外へ押し出していく。「征也くん、そこに突っ立ってると邪魔よ。……とりあえず、ジャケットを脱いで、そこの座布団にでも座ってて」「お前……身重の身体で、何をする気だ」「掃除に決まってるじゃない。……心配しないで。無理はしないから」 征也は不満そうに眉を寄せたが、私の勢いに押され、大人しくジャケットを脱いだ。 彼が部屋の隅にあった座布団に腰を下ろす。 長い脚を持て余し、窮屈そうに膝を曲げている姿は、なんだか大きな犬が狭い犬小屋に押し込められているようで、少しだけ可笑しかった。 私は備え付けの安っぽいシンクで雑巾を洗い、硬く絞る。 まずは、彼が座っている周辺の床からだ。 しゃがみ込み、クッションフロアの黒ずみをゴシゴシと拭き上げていく。 キュッ、キュッ、という小気味良い音が、狭い部屋に響く。「…&hel
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第215話 差し押さえと小さなアパート④

 そうだ。 この狭さは、私たちを物理的に強制的に引き合わせてくれる。 私は雑巾をバケツに放り込み、彼の方へ向き直った。「……私も」「ん?」「私も、あなたの匂いがすぐそばにあって……安心する」 私が正直に言うと、征也の瞳の奥で、暗い炎が揺らめいた。 彼は手を伸ばし、私の手首を掴んだ。 そして、自分の足と足の間の、わずかな隙間へと私を引き寄せる。「あっ……」 私はバランスを崩し、彼の膝の間にすっぽりと収まる形で座り込んだ。 背中に、彼のがっしりとした胸板が当たる。 彼の長い腕が私の腰に回り、逃がさないようにホールドした。「……掃除は、もういいだろう」 耳元で囁かれる、ハスキーな声。「まだ、あっちの部屋が……」「俺は、ここさえ綺麗ならそれでいい」 彼は私の首筋に顔を埋め、深く匂いを嗅いだ。 ぞわり、と産毛が逆立つ。 彼の熱い吐息が、皮膚を焦がすように吹き付けられる。 ここは、壁の薄いボロアパートだ。 隣の部屋のテレビの音さえ、微かに聞こえてくるような環境。 そんな場所で、彼にこんな風に抱きすくめられていることが、たまらなく背徳的で、恥ずかしかった。「征也、くん……壁が、薄いのよ。声が……」「出さなければいい。……それとも、我慢できないか?」 意地悪な、けれどどこか切羽詰まった響き。 彼は、自分がすべてを失ったという不安を、私を抱きしめることで必死に埋めようとしているのだ。 彼の手が、私のワンピースの裾から入り込み、太腿を撫で上げる。 ひんやりとした指先が、私の体温を吸って熱を帯びていく。「んっ……」 私は唇を強く噛み締め、声が漏れるのを堪えた。 彼の指が
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第216話 家政婦莉子、本領発揮①

 硬い床の感触が、薄いマットレスを透過して直接骨に伝わってくる。 背中を走る鈍い痛みに、私はゆっくりと重い瞼を押し上げた。 視界に飛び込んできたのは、無機質な白い天井と、そこに張り付いた古い蛍光灯だ。豪邸の寝室にあった、見上げるほど高い天井や豪奢なシャンデリアはどこにもない。 手を伸ばせば届きそうなほど近い天井が、ここが六畳一間の安アパートであることを容赦なく突きつけてくる。 壁の向こうから、くぐもったテレビの音声が聞こえた。朝のニュース番組だろうか。それに混じって、どこかの部屋で蛇口がひねられたのか、壁の中を通る水道管を水が走る甲高い音が響く。 隣で、大きな身体が窮屈そうに身じろぎした。 振り返る。 寸足らずの掛け布団から長い脚を半分はみ出させ、天道征也が眉間に深い皺を寄せて眠っていた。 いつもなら、広大なキングサイズのベッドで、シルクのシーツに包まれて優雅な朝を迎えているはずの男だ。 その彼が、毛玉のついた安物の毛布にくるまり、薄い壁越しに聞こえる他人の生活音に顔をしかめている。「……ん」 低い唸り声とともに、彼がゆっくりと目を開けた。 焦点の合わない瞳が、数秒間、見知らぬ天井をさまよう。やがて、自分の置かれた状況を理解したのか、深く、重たい溜息が室内に落ちた。「……おはようございます」 私が声をかけると、彼は首だけを動かしてこちらを見た。「……ああ」 声が砂を噛んだように掠れている。 彼は上半身を起こし、首の後ろを乱暴に掻いた。「背中が痛い。……床に直接寝ているみたいだ」「ごめんなさい。急ごしらえの布団だから……今日、三田村さんにもう少し厚みのあるマットレスを頼んでみます」「いや……いい。お前が謝ることじゃない」 征也は気だるげに立ち上がり、部屋の隅にあるプラスチック製のユニットバスへと向かった。 折り戸を開けて中に入る。
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第217話 家政婦莉子、本領発揮②

 ◇ コン、コン、コン。 インターホンなどない薄い鉄のドアが、外から直接叩かれた。 鍵を開けると、湿った外気とともに、見慣れた顔が立っていた。「よう、嬢ちゃん。頼まれたもん、持ってきたぜ」 三田村さんだ。 使い古されたジャンパー姿の彼は、両手にパンパンに膨らんだスーパーのレジ袋と、大きな段ボール箱を抱えていた。「ありがとうございます、三田村さん。……朝早くから、重かったでしょう」「いいってことよ。……それより、旦那の機嫌はどうだ?」 三田村さんが声を潜めて尋ねる。 その視線の先、引き戸の向こうの和室では、シャワーから上がったばかりの征也が、不機嫌を絵に描いたような顔で壁に寄りかかっていた。「……なんとか。でも、やっぱりこの環境には戸惑っているみたいで」「そりゃそうだろうな。雲の上の玉座から、一気に泥水の中だ。……ま、生きてりゃ何とかなるさ」 三田村さんは荷物を玄関の三和土に置き、額の汗を拭った。「段ボールの中身は、言われた通りの百均グッズだ。ワイヤーネットに突っ張り棒、結束バンドに収納ボックス。……嬢ちゃん、これで何する気だ?」「お城を作るんです」 私が微笑むと、三田村さんは呆れたように肩をすくめ、ひらひらと手を振って帰っていった。 私は段ボール箱を部屋の中央に引きずり込み、中身を取り出し始めた。 絶対安静を言い渡されている身だ。激しい運動はできない。だから、床に置いた座布団に腰を下ろし、手の届く範囲で作業を始める。「……何をしている」 壁際で腕を組んでいた征也が、怪訝そうな声を出した。「収納を作っているんです。……この部屋、クローゼットが小さすぎて、あなたのスーツが掛けられないでしょう?」 私は白いワイヤーネットを数枚取り出し、結束バンドで固定し始めた。「そんなプラスチックの棒で、何ができる
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第218話 家政婦莉子、本領発揮③

「……できたぞ」「ありがとうございます。そこに、このネットを引っ掛けて……」 私は彼が固定した棒に、組み立てたワイヤーネットを吊るした。さらに、S字フックをいくつか掛ける。 あっという間に、ネクタイやベルト、小物を機能的に収納できる即席の壁面収納が完成した。「……なるほどな」 征也は、完成した収納スペースと、私の顔を交互に見た。「狭いなら、縦の空間を使えばいい。……よく考えられている」「家政婦の基本ですよ」 私は得意げに胸を張った。「どんなに狭い部屋でも、工夫次第で快適になります。……お金がなくたって、生活は豊かにできるんです」 征也の瞳の奥で、微かな光が揺れた。 彼は手を伸ばし、私の頬をそっと撫でた。 シャワーを浴びたばかりの指先は少し冷たく、微かに石鹸の匂いがした。「……お前は、本当にたくましいな」「呆れましたか?」「いや。……誇らしい」 彼の声は低く、ひどく甘かった。 撫でる指先が、頬から首筋へと滑り降りる。 ぞわりと産毛が逆立ち、皮膚の奥が熱を持つ。「お前が俺の妻で、本当によかった」 その言葉は、どんな高価な宝石のプレゼントよりも、私の心を深く満たしてくれた。 ◇ 夕方。 窓の外の空が鈍い茜色に染まり始める頃、私はキッチンに立っていた。 丸椅子に腰掛けながら、狭いシンクの横のわずかな調理スペースで、夕食の準備を進める。 三田村さんが買ってきてくれたスーパーの特売品。 鶏の胸肉、大根、キャベツ、そして卵。 豪邸のシェフが扱っていたような高級食材は一つもない。グラム数十円の、庶民の味方だ。 鶏胸肉はそのまま焼くとパサパサになってしまう。だから、そぎ切りにして酒と塩を揉み込み、片栗粉をまぶして水分を閉じ込める。 大根
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第219話 家政婦莉子、本領発揮④

「……危ない」 耳元で囁かれる吐息。 首筋に彼の唇が触れ、ちゅ、と小さな音を立てて吸い上げられる。「ひゃっ……!」 思わず声が漏れ、包丁を持つ手がブレそうになる。「ほら、危ないだろう」 彼は意地悪く喉の奥で笑い、私の手から包丁を取り上げた。「俺がやる。指示を出せ」「征也くん、お料理なんて……」「舐めるな。昔はこれでも、自炊していた時期があるんだ」 彼は包丁を握り直し、まな板の上のキャベツに向き直った。 確かに、手つきはそれなりに堂に入っている。 だが、彼の背中に隠れてしまうと、私からは手元が全く見えない。 ただ、彼が動くたびに背中や腕の筋肉が躍動し、その熱が私の身体に絶え間なく伝わってくるだけだ。 狭い。 本当に、息が詰まるほど狭い。 豪邸のアイランドキッチンなら、数人が同時に作業してもぶつかることなどなかった。 でもここは、身体を少し捻るだけで、必ず彼のどこかに触れてしまう。 すれ違う時の布の摩擦。 鼻をかすめる、彼の体臭。 それが、どうしようもなく甘く、私の思考をトロトロに溶かしていく。「……こんな場所で、お前を抱くことになるとはな」 キャベツを切り終えた征也が、包丁を置き、振り返らずにぽつりと呟いた。 その声には、自分への苛立ちと、深い自責の念が混ざっている。「俺は……お前に、最高の景色を見せてやるつもりだった。誰にも邪魔されない、広くて安全な城を」 彼が両手でシンクの縁を強く握りしめる。 金属が軋む音がした。「……それが、こんな薄壁のアパートだ。隣の話し声まで聞こえるような場所で、お前に飯を作らせている」「私は、ここが好きよ」 私は彼の背中に額を押し付け、その腰に両腕を回した。「……なに?」「広
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第220話 家政婦莉子、本領発揮⑤

 ◇ 出来上がった料理を、安物の合成樹脂でコーティングされた小さなローテーブルに並べる。 鶏胸肉のみぞれ煮。 キャベツと卵の味噌汁。 そして、三田村さんが気を利かせて買ってきてくれた、出来合いのポテトサラダ。 二人で向かい合って座ると、どうしても膝と膝がぶつかってしまう。「……いただきます」 征也が割り箸を割り、鶏肉を一口大に切って口に運んだ。 私は息を潜めて、彼の反応を見守る。 咀嚼する音。 喉仏が、ゆっくりと上下に動く。 彼の表情から、スッと険が抜け落ちていくのが分かった。「……美味い」 溜息のような、深い一言。「本当?」「ああ。……肉が驚くほど柔らかい。出汁の味が、胃の底に染み渡るようだ」 彼は次々と箸を進める。 普段、何万もする高級レストランのコース料理を無表情で口にしていた男が、特売の鶏肉を、まるで世界一の御馳走のように食べている。「片栗粉でコーティングしたんです。そうすると、安いお肉でもパサパサしないから」「……魔法だな」 征也は味噌汁を啜り、ふうっと息を吐いた。 その顔には、もう朝の絶望や焦燥はない。 張り詰めていた神経の糸が、温かい食事によって一本一本、丁寧に解きほぐされていくのが目に見えて分かった。「金を出せば、美味いものはいくらでも食える。……だが、こういう味は、金じゃ買えない」 彼は箸を置き、真っ直ぐに私を見た。「お前の体温が、そのまま溶け込んでいるみたいだ」「大げさですよ」 私は照れ隠しに笑い、自分の味噌汁に口をつけた。 温かい。 本当に、体の芯から温まる。 外の世界では、私たちの社会的地位を巡って、血で血を洗うような権力闘争が起きているはずだ。 新聞やネットでは、私たちが破滅したと書き立てられているだろう。 でも、こ
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