Alle Kapitel von 没落令嬢の家政婦契約 ~冷酷CEOは、初恋を逃さない~: Kapitel 181 – Kapitel 190

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第181話 偽りの婚約者と、鉄壁の秘書④

 論理でも、感情でも、彼女は完全に手詰まりだった。 周囲からは、もはや彼女を哀れむような視線さえ向けられている。「……行くわよ!」 彼女はヒールを鳴らして踵を返し、SPたちを引き連れて出口へと向かった。 自動ドアが開く直前、彼女は一度だけ振り返り、私を睨みつけた。 その瞳には、殺意に近い憎悪が燃えていた。 けれど、私はただ静かに、深々と頭を下げて見送った。「お足元にお気をつけてお帰りくださいませ」 完璧な、秘書としての礼。 それが彼女にとって、何よりの屈辱だったはずだ。 エリカの姿が見えなくなると、ロビーには静寂が戻った。 私はゆっくりと顔を上げた。 緊張が解け、ふっと息を吐く。 その時、パチ、パチ、と乾いた拍手の音が聞こえた。 誰かが拍手をしたのをきっかけに、それは波紋のように広がり、やがてロビー全体を包む温かい拍手へと変わった。「すごいです、月島さん……!」「あんな剣幕の人を、一人で追い返すなんて」「今まで誤解してました……すみません」 社員たちが口々に声をかけてくれる。 彼らの瞳には、もう不信感はない。 そこにあるのは、共に会社を守った「仲間」への信頼だった。 私は二階を見上げた。 回廊の手すりにもたれ、征也がこちらを見ている。 彼は満足げに口角を上げ、音もなく唇を動かした。 『よくやった』 その一言だけで、強張っていた胸の奥が熱くなる。 私は小さく頷き返し、床に落ちていた週刊誌を拾い上げた。 表紙の悪意ある見出しは、もう何の力も持っていない、ただの紙屑に見えた。 けれど、私はまだ知らなかった。 追い詰められたエリカが、プライドを粉々にされた復讐として、最後の、そして最悪の手段に打って出ることを。 ◇ それから、三日が過ぎた。 嵐のような騒ぎが嘘だったかのように、会社には穏やかな日常が戻
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第182話 離れるという選択肢①

 非通知設定の着信。 嫌な予感が、背筋を氷の指で撫で上げた。 私はロビーの喧騒から離れ、人気のない非常階段の踊り場で通話ボタンを押した。「……もしもし」『……優秀な秘書さんね』 くぐもった、機械で加工されたような声。 でも、その抑揚には聞き覚えがあった。高嶺エリカだ。『素晴らしい演技だったわ。社員たちのハートを掴んで、まさに天道グループの守護神ってところかしら』「……何の用ですか」『教えてあげようと思って。あなたが守ろうとしているその城が、今まさに崩れ落ちようとしている音を』 プツン、と通話が切れた。 直後、私のスマートフォンのニュースアプリが、一斉に通知を弾き出した。 『速報:天道グループ、不正会計疑惑』 『主要取引銀行、融資凍結を検討か』 『高嶺商事、天道グループとの資本提携を完全白紙化』 血の気が引いた。 画面の中で、赤い文字が点滅している。株価のチャートが、断崖絶壁のように垂直に落下していく。 これは、ただの嫌がらせじゃない。 天道征也という男が、血と汗と、命を削って築き上げてきた帝国を、根底から破壊しようとする飽和攻撃だ。 そして、そのトリガーは――私だ。  ◇  その夜、征也が帰宅したのは深夜二時を回っていた。 ドアが開く音。 重たい足音。 私はソファで膝を抱えたまま、彼を出迎えることができなかった。 ただ、廊下の角から、リビングに入ってくる彼の姿を盗み見た。 彼はネクタイを緩め、ソファに沈み込むように倒れ込んだ。 天井を見上げるその顔は、見たこともないほど憔悴しきっていた。 完璧だった髪は乱れ、目の下には濃い隈が浮かび、自慢のスリーピーススーツは皺だらけだ。「……クソッ」 彼が低く呻き、拳でソファの肘掛けを殴りつけた。 ドン、と
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第183話 離れるという選択肢②

 ――違う。 私は首を振った。 逃げる理由を探しているだけだ。 辛い現実から目を逸らして、「彼のため」という綺麗な包装紙で包んで、楽になろうとしているだけだ。 私は彼を愛している。 だから、そばにいるべきだ。苦しい時こそ、支えるのがパートナーだ。 そう自分に言い聞かせ、私はリビングへと足を向けた。  しかし。 ソファで仮眠を取る征也の寝顔を見た瞬間、足が止まった。 彼は眉間に深い皺を寄せ、眠っていてもなお苦しそうに歯を食いしばっていた。 その手には、一枚の書類が握りしめられている。 そっと覗き込む。 それは、高嶺商事からの『最後通告』だった。 『条件:月島莉子との関係断絶、および彼女の国外追放。左記を履行した場合のみ、支援を再開する』  息が止まった。 心臓が早鐘を打つ。 これが、現実だ。 私が彼のそばにいること。それが彼を苦しめている最大の要因。 彼がこの書類を握りしめたまま、破り捨てることもできずに苦悩している姿が、全てを物語っていた。 彼は私を選ぼうとしている。 会社を捨て、従業員を捨て、未来を捨ててでも、私を選ぼうとしている。 ……それでいいの? 月島莉子。 あなたは、愛する男に「破滅」を選ばせるの? 彼の優しさに甘えて、彼の人生を食い潰す寄生虫になるの?  ――いいえ。 答えは、唐突に、しかし静かに降りてきた。 違う。 別れるのではない。 「一時的な撤退」だ。 今、私が彼の目の前から消えれば、高嶺商事は攻撃の大義名分を失う。 征也は会社を守れる。力を取り戻せる。 そして、彼が再び誰にも脅かされない絶対的な力を手に入れた時、また迎えに来てもらえばいい。 ……そんな虫のいい話が、あるわけない。 一度離れれば、もう二度と会えないかもしれない。 お腹の子の存在を知られ
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第184話 離れるという選択肢③

 ◇  静寂に包まれたキッチン。 私はエプロンを締め、髪を束ねた。 冷蔵庫を開ける。 野菜、肉、卵。見慣れた食材たちが、最後の名残惜しさを訴えかけてくるようだ。 包丁を握る。 トントントン、と軽快な音が響く。 この音で彼が目を覚まさないように、いつもより少しだけ慎重に、優しくリズムを刻む。 作り置きのおかず。 彼が好きな、少し甘めの卵焼き。 胃に優しい野菜の煮浸し。 深夜に帰宅しても温めるだけで食べられる、具沢山のスープ。 一つ一つのタッパーに、日付と中身を書いた付箋を貼っていく。『レンジで2分温めてください』『お醤油はかけすぎないで』 文字が滲む。 涙が止まらない。 こんなことをしても、彼は怒るだけかもしれない。「余計なことを」と捨ててしまうかもしれない。 それでも、手が止まらなかった。 彼が明日、明後日、その先も生きていくために。私の痕跡が、少しでも彼の生活を支えられるように。  次は、ウォークインクローゼット。 アイロン台を出す。 彼の白いシャツに、スチームの熱を当てる。 シュウウ、という音と共に、シワが伸びていく。 彼の背中。彼の広い肩。 シャツを通して、彼の体温を幻視する。 襟元のプレスの角度、袖口のボタンの糸のほつれ。 全て点検し、完璧な状態に仕上げる。 明日のコーディネートを一式、ハンガーラックの先頭にかける。 ネクタイは、彼が勝負の時によく締める、深紅のシルク。 カフスボタンは、私が初任給でプレゼントしたシルバーのもの。 靴を磨く。 黒い革靴が、鏡のように輝くまで、無心で布を動かす。 この靴で、彼はまた戦場へ向かうのだ。 私のいない、荒野へ。  最後に、リビングのテーブル。 常備薬のケース。 頭痛薬と胃薬を、分かりやすく小分けにする。 そし
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第185話 離れるという選択肢④

 私は嘘つきだ。「耐えられない」なんて嘘。本当はずっとそばにいたい。「探さないで」なんて大嘘。本当は今すぐ抱きしめて止めてほしい。 でも、書かなければいけない。 彼が私を諦められるように。 彼が私を「薄情な女」だと思って、軽蔑して忘れられるように。 私はサファイアのネックレスを外し、手紙の上に置いた。 身軽になった身体は、幽霊のように心もとない。 キャリーバッグ一つ。 中に入っているのは、着替えと母子手帳だけ。「……さようなら、征也くん」 眠る彼の額に、触れるか触れないかの距離でキスをした。 彼の寝息が、私の鼓膜を震わせる。 その温かさを一生分の記憶として胸に刻み、私は逃げるように玄関を出た。  朝焼けが、東京の空を白々と染め始めていた。 世界は残酷なほど美しく、そして静かだった。  ◇  駅のホーム。 通勤ラッシュ前のターミナル駅は、まだ人がまばらだった。 始発の新幹線を待つ列に並ぶ。 どこへ行くかは決めていない。とにかく遠くへ。彼の力の及ばない場所へ。 身体が鉛のように重い。 お腹の子が、不安そうに動くのを感じた。 ごめんね。パパと引き離してごめんね。 でも、これがパパを守るためなの。 自分に言い訳を繰り返しながら、私は冷たいベンチに座り込んだ。  その時だった。 「――莉子!!」  幻聴かと思った。 あまりにも強く願いすぎて、脳が作り出した幻だと。 でも、その声は駅の構内に響き渡り、人々の視線を集めていた。 顔を上げる。 改札の向こう。 息を切らし、髪を振り乱して走ってくる男の姿。 スウェット姿に、サンダル履き。 あの完璧主義の天道征也が、部屋着のままで、なりふり構わず走ってくる。 「征也&helli
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第186話 離れるという選択肢⑤

「……っ!」  強い力。  痛いほどの握力。  でも、彼の手は、私よりもずっと激しく震えていた。 「な……どうして……」 「どうして、じゃない!!」  征也が叫んだ。  その瞳には、怒りと、恐怖と、そして溢れ出しそうな涙が溜まっていた。 「ふざけるな……! 勝手な真似をするな!」 「だ、だって……私がいれば、あなたがダメになる……! 会社も、夢も、全部失っちゃう……!」 「だからなんだ! そんなもの、くれてやる!」  彼は私の言葉を遮り、私の肩を揺さぶった。 「お前がいない世界で、会社のトップに立って何になる! お前が隣にいない城なんて、ただの廃墟だ!」 「でも……!」 「見たぞ……全部」  彼の声が、急にかすれた。  力が抜け、彼は私にすがりつくように膝を折った。 「冷蔵庫の中も……クローゼットも……。あんな……あんなに完璧に用意して……」  彼は私の腰に腕を回し、お腹に顔を埋めた。  熱い滴が、私の服を濡らしていく。 「……卑怯だぞ、莉子」 「……っ」 「こんなに世話を焼いておいて、俺をこんなに甘やかしておいて……無責任に逃げるのか!」  子供のような、慟哭。 「……自分で選んだはずのネクタイが、首を絞めるだけの紐に感じる。  高級店の食事も、サプリメントも、すべて砂を噛んでいるようだ。  ……責任を取れ。俺の感覚を、ここまで狭く歪めたのはお前だ」 「征也くん……」 「行くな……頼むから、行くな」  彼は私のお腹を抱きしめたまま、泣きじゃくった。 「弱点でいい。……お前が俺の弱点なら、俺は世界一弱い男でいい。だから……俺のそばにいてくれ」    張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。  キャリーバッグから手が離れ、床に倒れる。  私は彼の方へ崩れ落ち、その頭を抱きしめた。 「……ごめんなさい……ごめんなさい……!」  涙が溢れて止まらない。  彼の髪の匂い。汗の匂い。  生々しい、彼という人間の存在証明。
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第187話 誇り高き掃除人①

 雨に濡れたスウェット生地が、彼と私の肌の間で不快な重みを伴って張り付いていた。 タクシーの後部座席。 密室に充満するのは、湿った布の匂いと、雨の鉄臭さ。そして、天道征也という男が発する、過剰なほどの熱量。 彼は私の右手を両手で包み込み、自身の太腿の上に固定して放さない。指の関節が白く浮き出るほどの力強さだが、掌からは小刻みな震えが伝わってくる。「……寒くないか」 掠れた声が、喉の奥から絞り出される。「大丈夫です。征也くんこそ……そんな格好で」 視線を落とす。最高級のオーダーメイドスーツを鎧のように纏っていた彼が、今は膝の抜けた部屋着と、泥で汚れたサンダル姿だ。 滑稽で、無様で。 けれど、今まで見たどの姿よりも、胸が締め付けられるほど愛おしい。 彼は私の視線に気づくと、自嘲気味に口角を歪めた。「笑いたければ笑えばいい。天道征也の成れの果てだ」「笑いませんよ」 私は繋がれた手に力を込め返す。彼の体温が、冷え切った私の指先を侵食していく。「世界で一番、かっこいいです」 征也の瞳が揺れた。彼は何かを言いかけ、喉を鳴らして飲み込むと、代わりに私の肩に頭を預けてきた。 濡れた髪が首筋に触れる。 重い。 一人の成人男性の体重と、彼が背負ってきた孤独の質量が、そのまま私にのしかかってくるようだ。 タクシーがカーブを曲がるたび、私たちの体は触れ合い、離れ、また吸着する。 窓の外を流れる東京の街並みは、雨に煙って灰色に沈んでいた。 ◇ マンションの重厚なドアが閉まると、世界から音が遮断された。 玄関のタイルに、服から滴り落ちた雫が黒い染みを作る。「風呂へ行け。風邪を引く」 征也は濡れた髪をかき上げながら、洗面所を指差した。その仕草一つにも、先刻までの取り乱した様子は消え、わずかに「主人」としての威厳が戻りつつある。 だが、私は動かなかった。 じっと彼を見つめる。「…&he
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第188話 誇り高き掃除人②

「……ドア、開けておきますから。私はキッチンで温かいものを作ってきます」 精一杯の妥協案に、彼は少しだけ残念そうに、しかし安堵したように頷いた。 シャワーの音が響き始めるのを確認し、私はキッチンに立った。 慣れ親しんだステンレスの冷感。 冷蔵庫から生姜と蜂蜜を取り出す。包丁を握る指先は、まだ微かに震えていた。 作業台の隅に置かれたタブレット端末が、無慈悲に点滅している。 画面をタップする。 ニュースサイトのヘッドラインが、暴力的なフォントで目に飛び込んできた。 『天道グループ、粉飾決算の疑いで強制捜査か』 『高嶺商事、関係断絶を表明』 『天道征也社長、行方不明の情報も』 コメント欄には、彼を罵倒する言葉が溢れかえっている。 「独裁者の末路」「ざまあみろ」「成金が」 吐き気がした。 誰も知らないくせに。 彼がどれだけ努力して、どれだけ傷ついて、あの会社を守ってきたか。誰も知らないくせに。 ギリ、と奥歯が鳴る。 包丁を握る手に力が入りすぎ、指先が白くなる。 彼らは安全圏から石を投げているだけだ。 でも、その石礫(つぶて)は確実に、征也の心と身体を殺そうとしている。  ――お湯が沸く音が、思考を引き戻した。 マグカップに生姜湯を注ぐ。立ち上る湯気が、私の顔を優しく撫でる。 ふと、昨夜の自分が書いた「置手紙」が目に入った。 『探さないでください』 ゴミ箱へ放り込む。 くしゃくしゃに丸められたその紙くずは、私の弱さの残骸だ。 逃げて解決するなんて、おとぎ話だ。 私が消えても、高嶺エリカは攻撃を止めないだろう。彼女の目的は、私を排除することだけではない。征也を完全に破壊し、自分の手元でしか生きられない「人形」にすることなのだから。  風呂場から、征也が出てきた。 髪をタオルで拭きながら、新しいスウェットに着替えている。 その顔色は、シャワーを浴びてもなお蒼白だった。
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第189話 誇り高き掃除人③

  ――いいえ。  私の脳裏に、かつて派遣された数々の屋敷での記憶が蘇る。 煌びやかなパーティーの裏側。 完璧な家族の肖像画の裏に隠された、ドロドロとした欲望。 使用人たちは見ていた。 主人が何を捨て、何を隠し、誰と密会していたか。 ゴミ箱の中身。 シーツの染み。 通話の履歴。 私たちは「家具」として扱われるがゆえに、最も無防備な彼らの姿を目撃している。 「征也くん」 私は彼の正面に座り、その瞳を真っ直ぐに見据えた。「会社のこと、詳しく教えてください。高嶺家が握っている『弱み』って、具体的に何ですか?」 征也はカップを置く手を止めた。「……お前が知る必要はない。これは俺の問題だ」「いいえ、私たちの問題です」 私は彼の手からカップを取り上げ、テーブルに置いた。そして、その冷たい手を自分の両手で挟み込む。「あなたが私を守ろうとしてくれたように、私もあなたを守りたい。……私にしかできない方法で」「お前にしかできない方法?」 彼は怪訝そうに眉を寄せた。「ええ。……『掃除』です」  私は立ち上がり、自分のバッグから古いスマートフォンを取り出した。 家政婦派遣会社時代に使っていた、ボロボロの端末だ。 電源を入れると、数年分の未読メッセージが通知音と共に雪崩れ込んでくる。「高嶺家は、表向きは完璧な名家です。でも、埃が出ない家なんてありません」 私は連絡先リストをスクロールする。 『高嶺家・本邸 料理長』 『高嶺商事・役員宅 シッター』 『高嶺エリカ・別宅 清掃担当』 かつての同僚たち。 過酷な労働環境を共に生き抜き、時には理不尽な雇い主の愚痴を肴に安酒を飲んだ戦友たち。 彼女たちは、金持ち連中の「綺麗な表の顔」には興味がない。 興味があるのは、その裏にある「汚れた真実
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第190話 女たちの代理戦争①

 高嶺商事が主催するチャリティーガラ・パーティーの会場は、むせ返るような百合の香りと、シャンパンの甘い気配で満たされていた。  都内ホテルの大広間。天井を埋め尽くすクリスタルシャンデリアの下、着飾った紳士淑女たちが、まるで色とりどりの魚群のように回遊している。  その中心にいるのは、今夜の主役――高嶺エリカだ。  純白のオートクチュールドレス。胸元には大粒のルビー。  彼女は女王のように振る舞い、周囲の賛辞を一身に浴びていた。その笑顔の裏で、天道グループへの融資引き揚げを主導し、征也を追い詰めた張本人だとは、誰も思わないだろう。 「……場違いね」  私は会場の入口で足を止め、小さく息を吐いた。  招待状などない。  警備員の目を盗んで入ったわけでもない。ただ、受付で堂々と名刺を出しただけだ。『天道グループ社長秘書室・月島莉子』と。  一瞬の動揺の後、受付係は私を通した。今の私は、スキャンダルの渦中の人物。ここで騒ぎを起こして追い返すよりも、中に入れて監視する方が得策だと判断されたのだろう。あるいは、エリカ自身が「獲物が罠にかかった」と招き入れたのかもしれない。  私は背筋を伸ばし、一歩を踏み出した。  身につけているのは、征也が以前贈ってくれた、深い夜色のロングドレス。  派手な装飾はない。けれど、そのシンプルさが、かえって肌の白さと、首元で揺れるサファイアの冷徹な輝きを際立たせている気がした。  カツ、カツ、カツ。  ヒールの音が、ワルツの旋律に割り込む。  人々が振り返る。  さざ波のように、静まり返っていく会場。  視線の集中砲火。  好奇、蔑み、そしてあからさまな嘲笑。 『あれが……』『よく来られたものだわ』  ひそひそ話が聞こえてくる。でも、もう膝は震えなかった。  お腹に手を当てる。  ここに、小さな命がある。征也との未来がある。  それを守るためなら、私はどんな泥の中でも、ドレスを着たまま歩ける。 「……あら」  人垣が割れ、エリカが姿を現した。  彼女は私を見るなり、真っ赤に塗られた唇を三
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