All Chapters of 没落令嬢の家政婦契約 ~冷酷CEOは、初恋を逃さない~: Chapter 221 - Chapter 230

334 Chapters

第221話 家政婦莉子、本領発揮⑥

 食事が終わり、彼が食器を洗うと買って出た。 私はその背中を眺めながら、古い畳の上の座布団で足を伸ばす。 お腹の中にいる小さな命が、この温かい時間を感じ取っているのか、微かにポコポコと動いた気がした。 夜。 窓の外を走る車のヘッドライトが、薄いカーテンを透過して、天井を白い光の帯となって移動していく。 床に並べて敷かれた、二組の布団。 狭い部屋の大部分を、その布団が占領している。「……寒くないか」 隣から、低い声がする。 電気はすでに消してある。暗闇の中で、彼の体温だけが圧倒的な存在感を放っていた。「平気。……あなたが、熱いから」 私は彼の方へ寝返りを打ち、その胸に顔を埋めた。 征也の長い腕が、私の背中を包み込む。 布団が薄いせいで、床の硬さが直接伝わってくる。 でも、彼の身体がクッション代わりになって、私を守ってくれていた。「……壁が薄い」 彼が、私の耳を甘く噛みながら囁いた。「隣のいびきが聞こえるくらいだ。……少しでも声を出したら、丸聞こえだぞ」 その言葉に含まれた熱に、背筋がゾクリと跳ねる。「……出さないわ」「本当か? ……俺の指が、どこを触っても?」 彼の手が、私のパジャマの裾から滑り込み、素肌を直接撫で上げる。 ごつごつとした指先が、背骨のラインをなぞり、腰のくびれを確かめるように強く握る。「んっ……」 私は慌てて自分の口を塞いだ。 征也が、喉の奥で低く笑う。「ほら。もう声が漏れている」 彼は私の手首を掴み、口元から引き剥がした。 代わりに、彼自身の唇が、私の唇を深く塞ぐ。 息ができない。 彼の舌が、私の口内を荒々しく、けれどどこまでも甘く蹂躙していく。 外の雨音が、微かに窓を叩き始めた。
Read more

第222話 1000円のディナー①

 狭いキッチンの換気扇が、低く重たいモーター音を響かせている。 午後六時。窓の外の空はすでに鈍色に沈み、冷たい雨がトタン屋根を叩く不規則な音が絶え間なく聞こえていた。 私は丸椅子に腰掛けたまま、プラスチックのボウルの中で合挽き肉をこねていた。 絶対安静の身だ。立って作業を続けると下腹部に嫌な張りが生じるため、三田村さんが調達してくれたキャスター付きの丸椅子が今の私の定位置になっている。 指先に伝わる冷たい肉の感触。 手の熱で肉の脂が溶け出してしまわないよう、ボウルの下には氷水を張った別のボウルを重ねている。塩とナツメグ、少しの黒胡椒を振り、粘り気が出るまで指の間から肉を押し出すようにして練り上げる。 飴色になるまでじっくりと炒め、完全に粗熱を取った玉ねぎのみじん切り。牛乳に浸してふやかしたパン粉。それらをボウルに加え、さらに素早く混ぜ合わせる。 傍らの小さなローテーブルには、今日三田村さんに買ってきてもらったスーパーのレシートが置かれていた。 合挽き肉の特売パック、じゃがいも、玉ねぎ、人参、そして少しの卵。 合計金額は、980円。 かつての豪邸のキッチンに並んでいた、グラム数千円の霜降り肉や、海外から空輸された高級食材は一つもない。 でも、お金がないからといって、惨めな食卓にするつもりはなかった。 手間と時間さえかければ、食材の旨味を極限まで引き出すことができる。それが、何年もの間、他人の家で這いつくばるようにして技術を磨いてきた「プロの家政婦」としての私の誇りだった。 手のひらにサラダ油を薄く塗り、肉だねを二つに分ける。 両手を行き来させるようにしてパンパンと空気を抜き、中央を少し凹ませて小判型に整える。 隣のコンロでは、ポテトサラダ用のじゃがいもが、湯気を立てながらコトコトと茹で上がっていた。竹串を刺して芯まで柔らかくなっているのを確認し、お湯を切ってからマッシャーで粗く潰す。マヨネーズは少なめにし、お酢と少しの砂糖で味を整えることで、さっぱりとした口当たりに仕上げていく。 部屋の中に、肉の脂が焼ける匂いと、玉ねぎの甘い香りが充満していく。 換気扇の能力が
Read more

第223話 1000円のディナー②

 ◇ ガチャリ。 鈍い金属音がして、ドアノブがゆっくりと回された。 私はハッとして丸椅子から立ち上がり、三和土へと向かう。 重たい鉄のドアが開き、湿った外気とともに、彼が入ってきた。「……ただいま」 喉の奥から絞り出したような、砂を噛んだように掠れた声だった。 狭い玄関に立つ征也の姿を見て、私は息を呑んだ。 彼が身に纏っているのは、昨夜私が丁寧にアイロンをかけたチャコールグレーのスーツだ。 だが、その肩口や膝のあたりは雨に濡れて黒く変色し、泥の跳ねた跡が点々とこびりついている。 完璧に撫でつけられていたはずの黒髪は、湿気と汗で額に張り付き、水滴が顎のラインを伝って落ちていた。 彼が発する気配は、まるで重たい鉛の塊のようだった。 かつて周囲を威圧していたあの絶対的な自信と覇気は影を潜め、ただひたすらに歩き疲れた男の、泥のような疲労だけがそこにある。「……おかえりなさい、征也くん」 私は努めて明るい声を作り、彼に歩み寄った。「雨、酷かったわね。……ジャケット、貸して」 彼が力なく腕を下げると、私はその肩から濡れたジャケットをそっと剥ぎ取った。 ずしりと重い。 上質なウールの生地が水分を吸い込み、冷たい塊になっている。 彼の手が、私の手首に触れた。「……っ」 氷のように冷たい。 あの、私を抱きしめる時に火傷しそうなほど熱かった彼の手が、今は血の気を失い、石のように冷え切っている。「……ごめん。手が、冷たいだろう」 征也は自嘲するように口の端を歪め、私の手首から指を離そうとした。「ううん。大丈夫よ」 私は彼の冷たい両手を自分の両手で包み込み、頬に押し当てた。 私の体温を、少しでも彼に分け与えるように。「お風呂、沸かしてあるわ。……狭いユニットバスだけど、一番熱い温度設定
Read more

第224話 1000円のディナー③

 ◇ 風呂から上がってきた征也は、少しだけ顔に血の気が戻っていた。 私が用意しておいたグレーのスウェット姿に着替え、濡れた髪をタオルで乱暴に拭いている。「……髪、拭くわ」 私は彼からタオルを受け取り、その後ろに回って濡れた黒髪を優しく包み込んだ。 ゴシゴシと擦るのではなく、水分を押し当てるように吸い取っていく。 彼の髪は少し硬くて、指の間をすり抜ける感触が心地よい。 シャンプーの安い石鹸の匂いと、彼自身の体臭が混ざり合い、鼻腔をくすぐる。「……いい匂いがするな」 征也が、目を閉じたまま低い声で呟いた。「石鹸の匂い?」「いや。……キッチンの匂いだ。ソースが焦げるような、甘い匂い」「ふふ、もうすぐできるわよ。……そこに座ってて」 私は彼の髪からタオルを離し、キッチンへと戻った。 フライパンの中で保温しておいたハンバーグに、赤ワインとケチャップ、中濃ソース、そしてバターを煮詰めて作った特製のデミグラスソースを絡める。 ジューッという食欲をそそる音とともに、濃厚な香りが一気に立ち昇った。 ローテーブルの上に、二人分の皿を並べる。 メインのハンバーグの横には、マッシュポテトで作ったポテトサラダと、千切りキャベツ。 そして、玉ねぎの端材とコンソメで作った、シンプルな温かいスープ。 四畳半の部屋の中央に置かれた、小さなテーブル。 向かい合って座ると、どうしても膝と膝が触れ合ってしまうほどの距離だ。「……いただきます」 征也が割り箸を割り、ハンバーグに箸の先を入れた。 表面の焼き目を突き破ると、中から透明な肉汁がじゅわりと溢れ出し、濃い茶色のソースと皿の上で混ざり合う。 彼は大きめに切り取った一口を、そのまま口に運んだ。 私は息を潜め、彼の表情をじっと見つめる。 咀嚼する音。 彼の喉仏が、ゆっくりと上下に動く。
Read more

第225話 1000円のディナー④

 深い、魂の底から吐き出されたような溜息とともに、その一言が漏れた。「本当?」「ああ。……肉が驚くほど柔らかい。それに、このソースの味が……舌から直接、胃の底に染み込んでいくようだ」 彼は次々と箸を進める。 黙々と、ただひたすらに、目の前の食事を胃に流し込んでいく。 かつて彼が、高層ホテルの最上階で、何万もするフレンチのフルコースを無表情で口にしていた姿を知っている。 その彼が今、スーパーの特売品の合挽き肉を、まるで世界で一番の御馳走であるかのように頬張っているのだ。「今日の夕食、全部合わせても千円かかってないんですよ」 私がクスリと笑って言うと、征也は箸を止め、驚いたように私を見た。「……これがか?」「はい。特売のお肉と、お野菜の切れ端で作りましたから。……お口に合ってよかった」 征也は皿の上のソースをじっと見つめ、それからゆっくりと首を横に振った。「……千円だろうが、一万円だろうが関係ない。今まで食ってきたどんな高級フレンチより、俺はこれが美味いと思う」 その言葉に嘘はないと分かった。 彼の瞳の奥にあった冷たい焦燥感が、温かい食事によって少しずつ溶かされ、生気を取り戻していくのが見える。 冷え切っていた彼の細胞の隅々にまで、栄養と熱が染み渡っていく。「ポテトサラダも食べてみてください。お酢を少し利かせているから、お肉の脂をさっぱりさせてくれますよ」「……ああ」 彼はポテトサラダを口に運び、また一つ、小さく頷いた。 外の世界では、彼を陥れようとする陰謀が渦巻き、容赦のない攻撃が続いている。 明日の資金の目処も立たず、この先どうなるかも分からない。 でも、この四畳半の空間で、向かい合って温かい食事を共有しているこの時間だけは、誰にも侵すことのできない絶対的な聖域だった。
Read more

第226話 1000円のディナー⑤

 ◇ 食事が終わり、私が狭いシンクで食器を洗い終える頃には、すっかり夜が更けていた。 雨音は相変わらず、窓ガラスを一定のリズムで叩き続けている。 手を拭きながら振り返ると、征也は壁に背中を預け、目を閉じて座り込んでいた。 長い脚を投げ出し、頭を後ろに傾けている。 食事によって一時的に和らいでいた疲労が、再び彼の全身を重く包み込んでいるようだった。 私は彼に歩み寄り、敷きっぱなしになっていた布団の上に腰を下ろした。「……征也くん」「ん……」「こっちに来て」 私は自分の膝を、手のひらでポンと叩いた。 征也はゆっくりと薄目を開け、私の意図を理解すると、わずかに躊躇うようなそぶりを見せた。「……お前のお腹を、圧迫しないか」「これくらい平気よ。赤ちゃんも、パパの重みなら喜ぶわ」 私が微笑んで促すと、彼は抵抗する気力を失ったように身体を傾け、私の太腿の上に頭を乗せた。 ズシリと、確かな重量感が膝に伝わる。 男性特有の、硬い頭蓋骨の感触。 私は彼を見下ろし、その少しごわついた黒髪に指先を差し込んだ。 ゆっくりと、髪を梳くように撫でていく。 指の間をすり抜ける髪の感触と、頭皮から伝わる微かな熱。 彼は私の膝の上で目を閉じ、深く、長く息を吐き出した。「……情けないな」 静かな部屋に、彼の低く、震える声が落ちた。「え?」「今日、一日中頭を下げて回った。……かつて俺にすり寄ってきていた連中が、俺の顔を見るなり、虫を払うような手つきで追い返してきた」 彼が、誰にも見せたことのない「弱音」を、私の前でこぼし始めた。「どこも相手にしてくれない。……神宮寺の圧力が、ここまで徹底しているとはな」 彼の声には、怒りよりも、深い無力感が滲んでいた。「資金がショートすれば、会社は終わりだ。&hell
Read more

第227話 1000円のディナー⑥

 恐怖。 あの天道征也を支配していたのは、プライドを折られたことへの怒りではなく、私と、私のお腹の中にいる小さな命を失ってしまうかもしれないという、根源的な恐怖だったのだ。 自分が無力になることで、私たちに泥水をすすらせてしまうことへの激しい恐怖。「……大丈夫よ」 私は彼の額に落ちた髪を優しく払い、そっと囁いた。「大丈夫。……私たちが、ついているわ」 私は彼の震える手を取り、そっと私の下腹部へと導いた。 パジャマの生地越しに、彼のごつごつとした掌が、私の小さな丸みに触れる。「家なんてなくてもいい。……お金がなくたって、千円でこんなに美味しいご飯が食べられるじゃない」 彼の手のひらを通して、私の体温が、そして奥深くにいる赤ちゃんの熱が、彼に伝わっていくように祈る。「あなたが諦めない限り、私たちは絶対にあなたを離れない。……だから、一人で全部背負い込まないで」 征也の瞳が、激しく揺れた。 彼はゆっくりと目を開け、私を見上げた。 その瞳の奥で、強張っていた氷のような恐怖が、私の言葉の熱に触れて溶け出していくのが分かった。「……莉子」 彼は私の腰に腕を回し、顔を私の腹部――彼の手が置かれたその場所に、ゆっくりと押し付けた。 彼の熱い吐息が、服越しに肌に伝わる。「……ああ。そうだな」 彼が、鼻をすするような音を立てて、低く呟いた。「……俺には、お前たちがいる」 彼を縛っていた見えない鎖が、解き放たれていく。 金で買えるものなんて、いつかは失われる。会社も、地位も、豪邸も、誰かの悪意で簡単に奪われてしまうものだ。 でも、この狭いアパートにある、千円で作った温かい食事と、重なり合う体温と、家族の絆は、神宮寺の権力をもってしても決して奪うことはできない。 征也の腕の力が少しだけ緩み、呼吸が穏やかになっていく。
Read more

第228話 女神のロビー活動①

 薄いカーテンの隙間から、白々と頼りない朝の光が差し込んでくる。 狭い四畳半の和室。色褪せた畳の上に敷かれた薄い布団の中で、私はゆっくりと目を開けた。 隣にはもう、彼の姿はない。 シーツに残された窪みと、微かに漂うムスクと煙草の残り香だけが、つい先ほどまで彼がそこにいたことを証明していた。 耳を澄ませば、玄関のほうで微かな衣擦れの音と、靴を履くくぐもった音が聞こえる。 私は重い身体をどうにか動かし、布団の中で寝返りを打った。「……征也くん」 掠れた声で呼ぶと、三和土にいた彼が振り返り、引き戸の隙間からこちらを覗き込んだ。 安物のハンガーラックにかけておいた、唯一の予備のスーツ。それを身に纏った彼は、ひどく疲れた顔をしていた。 ここ数日、彼は資金繰りのために東京中を駆け回っている。神宮寺頭取の根回しは徹底しており、銀行はおろか、かつての取引先すら天道グループからの電話に出ようとしない。 冷たく閉ざされた無数の扉を叩き続け、頭を下げ、それでも無慈悲に拒絶される日々。 その屈辱と疲労が、彼の眼の下の濃い隈となって刻み込まれている。「……起こしたか」 征也は低い声で言い、ネクタイの結び目を整えながら布団のそばまで歩み寄ってきた。「ううん。……もう行くの?」「ああ。今日は、古株の株主たちのところを回る。……なんとしても、明日の手形決済の資金を掻き集めなければならない」 彼は片膝をつき、布団から出ている私の右手をそっと握った。 外の冷たい雨を含んだような、ひんやりとした指先。 あの火傷しそうなほど熱かった彼の手が、今は血の気を失い、石のように冷え切っている。 私は彼の手を両手で包み込み、自分の頬に押し当てた。「……無理しないで。少しでも、休んで」「お前がそれを言うか」 征也は自嘲気味に口角を上げ、空いた手で私の額にかかった前髪を優しく払った。「絶対安静と言われているのはお前だ。……腹の痛みはどうだ」「全然痛くないわ。この子も、とってもいい子にしてる」 下腹部に視線を落として微笑むと、征也の瞳に痛切な色が浮かんだ。 切
Read more

第229話 女神のロビー活動②

 壁の向こうからは、隣の部屋のテレビの音や、外を走る車のタイヤが水を跳ね上げる音が聞こえてくる。 静かだ。そして、どうしようもなくもどかしい。 征也が外で泥にまみれて戦っているというのに、私はこうして布団の中で天井を眺めていることしかできない。 彼を守ると誓ったのに。共に戦うと決めたのに。「……私にできること」 布団の中で、そっとお腹に手を当てる。 この子を守るのが、私の最優先の仕事だ。それは分かっている。 身体を動かすことはできない。外に出て、誰かに会いに行くこともできない。 でも、頭と指先なら動かせる。 私は枕元に置いてあったスマートフォンを手に取った。 冷たいガラスの画面が、指先の熱で微かに曇る。 画面をタップし、メッセージアプリを開いた。 彼が一人で戦っているなら、私には私の戦い方がある。 家政婦として這いつくばっていた時代に培った、泥臭いネットワーク。 私は迷うことなく、二つの連絡先にメッセージを打ち込んだ。 ◇ 一時間後。 コン、コン、と控えめなノックの音がして、合鍵を持たせていた人物たちが部屋に入ってきた。「……失礼いたします、莉子様」「よう、嬢ちゃん。呼び出しとは穏やかじゃねえな」 狭い三和土に立っていたのは、高嶺家を追われた元メイド頭の鈴木さんと、ヨレヨレのジャンパーを着た探偵の三田村さんだった。 鈴木さんは相変わらずの一分の隙もない姿勢で、三田村さんは周囲を警戒するように油断なく目を光らせている。 私は布団の中で上体だけを起こし、壁に寄りかかるようにしてクッションを背に当てた。「急に呼び出してごめんなさい。……お二人に、お願いがあるの」「お願い、ですか」 鈴木さんが靴を脱ぎ、音を立てずに部屋へ上がってくる。「旦那の会社の資金繰り、かなりヤバいらしいな。……俺の耳にも、銀行団が完全に手を引いたって噂が入ってきてるぜ」 三田村さんが腕を組みながら、壁に背中を預けた。「ええ。神宮寺が、完全に息の根を止めようとしてる」 私はスマホの画面を操作し
Read more

第230話 女神のロビー活動③

「神宮寺や高嶺のような大企業は、もう動かせない。……でも、彼に恩義を感じている中小の社長たちなら、話を聞いてくれるかもしれない」「なるほどな。塵も積もれば山となる、か」 三田村さんが顎を撫でながらニヤリと笑う。「でもよ、嬢ちゃん。今の天道グループは泥舟だ。いくら恩があっても、自分たちの会社を危険に晒してまで金を出してくれる奴がいるか?」「ええ。ただの業務連絡や、事務的な依頼状では、誰も動いてくれないわ」 私は布団の上に置かれた折りたたみ式の小さなテーブルを引き寄せた。「だから、彼らの『心』を動かすのよ」「心、ですか」「鈴木さん、悪いけれど、そこの紙袋を取って」 私が指差すと、鈴木さんは部屋の隅に置かれていたスーパーの紙袋をテーブルの上に運んできた。 中に入っているのは、小麦粉、バター、砂糖、卵。そして、香りの良いアールグレイの茶葉だ。「……お菓子、ですか?」「ええ。手作りのパウンドケーキを焼くわ。……三田村さん、キッチンからボウルと泡立て器を出して」「おいおい、絶対安静だろ? 起き上がって料理なんて……」「私はここで座ったまま、混ぜるだけよ。……オーブンへの出し入れは、鈴木さんにお願いするわ」 私の決意に満ちた目を見て、二人は顔を見合わせ、やれやれといった風にため息をついた。「分かりました。……粉の計量はこちらでやります」 鈴木さんが手際よくボウルを準備し、私の手元に置く。 ◇ バターが室温で柔らかく溶け、砂糖と混ざり合う甘い匂いが、カビ臭かった狭いアパートの部屋を少しずつ満たしていく。 私は布団の上に座ったまま、ボウルを抱え込み、泡立て器を動かした。 カチャカチャカチャ、と金属が擦れ合う音が響く。 腕の筋肉が張り、息が少し上がる。 下腹部に負担がかからないよう、背筋を伸ばし、腕の力だけで生地を練り上げていく。
Read more
PREV
1
...
2122232425
...
34
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status