没落令嬢の家政婦契約 ~冷酷CEOは、初恋を逃さない~ のすべてのチャプター: チャプター 251 - チャプター 260

334 チャプター

第251話 敗者への引導④

 面会室の冷たい空気に、征也の吐息が白く混ざる。「地位も、名誉も、金も。すべてを失った泥水の中で、俺たちは……お前が一生かけても辿り着けない場所にいた」 アクリル板を挟んで、二つの視線が交錯する。 すべてを手に入れ、揺るぎない現実をその手で抱きしめる男の、静かで熱を帯びた瞳。 そして、すべてを奪われ、執着していた女の心すら最初から自分には向けられていなかったという事実を突きつけられた敗者の、ひび割れた瞳。 「……ぁ……あ……」 蒼の口から、言葉にならない音が漏れ始めた。 視線の先にある、白黒の不鮮明な写真。そこに写る小さな命の影が、蒼が胸の奥で大切に守り続けてきた「完璧な箱庭」の幻想を、音を立てて粉砕していく。 彼が欲しかったのは、ただ莉子の隣で微笑む未来だったはずだ。幼い頃、泥だらけになって笑い合っていた彼女を、誰よりも美しく、誰よりも純粋なまま、永遠に自分だけのものにしておきたかった。 けれど、彼が用意した無菌で冷たいショーケースの中では、彼女は決して笑わなかった。 地位も金もない泥水の中でも、この憎き男の隣でなら、彼女はあんなにも鮮やかに、息を吹き返したように笑うというのか。 「……違う、僕は……」 震える両手が、ゆっくりと持ち上がり、自らの顔を覆った。 指の隙間から、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちる。 力で縛り付け、外の世界のすべてを奪い去れば、彼女は自分にすがるはずだと信じていた。自分の愛し方だけが正解なのだと。自分の用意した城こそが、彼女の幸せなのだと。 だが、その執着こそが、彼女を一番遠くへと追いやっていたのだ。自分自身の手で、彼女の心を永遠に殺してしまっていたことに、今更ながら気づかされた。 「僕が……僕が、莉子ちゃんを……」 パイプ椅子から滑り落ちるようにして、蒼は冷たいコンクリートの床に崩れ折れた。 暴れ狂う
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第252話 4年前の答え合わせ①

 古い換気扇の低い唸り声が、頭上から降り注いでいる。 錆びついたステンレスのシンクに、蛇口から水滴が一つ、また一つと落ちて、規則的な破裂音を立てていた。 窓ガラスは外の冷気で白く結露し、水滴が幾筋もの跡を残して流れ落ちている。 すきま風が入り込む足元はひどく冷たいのに、コンロの火の熱と、背後から無言で注がれる視線のせいか、首筋にはうっすらと汗が滲んでいた。 菜箸を持った手で、フライパンの中の卵焼きを慎重に裏返す。 ジュッ、と油の跳ねる音とともに、焦げた醤油と出汁の香りが、狭いキッチン——いや、キッチンと呼ぶのもおこがましい、玄関に隣接しただけの土間のような空間——に立ち込めた。 スーパーの特売で買った、形作りの悪い不揃いな卵。 それに、少しだけ奮発して買ったひき肉を混ぜ込んだ、見栄えのしないおかず。 それでも、フライパンから立ち上る湯気は温かく、胃の腑をきゅっと鳴らさせるような暴力的な匂いを放っている。 「……焦げるぞ」 背中越しに、低い声が降ってきた。 振り返らなくても、声の振動が空気を伝い、直接背骨を震わせるのがわかる。 肩越しに視線だけを後ろへ向けると、色褪せた畳の上に胡座をかいた征也が、頬杖をつきながらこちらを見つめていた。 四畳半という限られた空間に、彼のような大柄な男がいるだけで、部屋の酸素が半分に減ってしまったかのような錯覚を覚える。 オーダーメイドのスーツも、高級な革靴も、今ここにはない。 ドラッグストアで特売になっていた、毛玉だらけの灰色のスウェット上下。 無造作に下ろされた前髪が、鋭い目元に柔らかな影を落としている。 ここへ逃げ込んできた最初の夜、この狭さと彼の放つ圧倒的な存在感に、息が詰まって死んでしまうのではないかと思った。 逃げ場のない檻に閉じ込められたような、絶え間ない緊張感。 けれど今は違う。 視界の端に映る彼の大きな背中も、畳を踏む微かな衣擦れの音も、同じシャンプーの匂いも。 すべてが、凍える世界から切り離
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第253話 4年前の答え合わせ②

 出来上がったおかずと、湯気を立てる味噌汁、それに炊きたての白いご飯。 お盆にすべてを乗せ、振り返って部屋の中央——ちゃぶ台代わりの、傷だらけの折りたたみテーブルへと歩み寄る。 たった三歩。 それが、この部屋の端から端までの距離だ。 テーブルを挟んで、向かい合うように腰を下ろす。 座布団なんて上等なものはない。薄っぺらいカーペットの上に直接膝をつくと、冷たさがじんわりと布越しに伝わってくる。 けれど、膝の先が、向かいに座る彼の長い脚にコツンとぶつかった瞬間、そこから火が点いたように熱が広がっていった。 謝って引っこめようとした足首を、スウェット越しの太い脚が、逃さないようにぐっと挟み込んでくる。 「あ……」 抗議の声を上げようと顔を上げると、視線が真正面からぶつかった。 漆黒の瞳の奥で、静かな熱が揺れている。 テーブルの下で、足首に絡みつく彼の体温が高く、脈打つのが伝わってくる。 「……食おう」 視線を逸らすことなく、征也は短く言い放った。 割箸を割り、器用に卵焼きを一切れ口に運ぶ。 咀嚼するたびに、男らしい鋭い顎のラインが動き、首筋の太い血管がわずかに隆起する。 ただご飯を食べているだけなのに、その些細な動作のすべてから目が離せなくなる。 「どうだ」 「……うん。焦げてない」 「だろう」 自慢げに鼻を鳴らす様子に、思わず口元が緩む。 自分でも驚くほど、自然な笑みがこぼれていた。 今日、弁護士から連絡があった。 神宮寺による不正な工作がすべて公にされ、差し押さえられていた天道家の資産、そしてあの広大な屋敷の凍結が完全に解除されたと。 明日には、迎えの黒塗りの車がこのアパートの下に横付けされる。 この、すきま風だらけで、隣の部屋のテレビの音まで筒抜けになる安アパートでの生活は、今夜で終わりを迎えるのだ。 何百億という金が再び彼の手元に戻り、明日からは
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第254話 4年前の答え合わせ③

 ◇ 食事が終わり、狭いシンクで洗い物を済ませる。 冷たい水が指先の感覚を奪っていくが、背中に張り付いた視線の熱のせいで、身体の芯は燃えるように熱かった。 蛇口をきつく締め、タオルで手を拭きながら振り返る。 すでにテーブルは壁際に片付けられ、部屋の中央には、二人が寝るための布団が敷かれていた。 シングルサイズの、薄っぺらいせんべい布団。 大柄な男と、妊娠中の女が並んで寝るには、あまりにも狭すぎる面積。 どうしても、身体のどこかが密着してしまう。逃げ場のない四角い布の上。 天井の蛍光灯から伸びる紐を引き、部屋の明かりを消した。 カチッ、という音と共に、視界が闇に沈む。 直後、窓の外から差し込むオレンジ色の街灯の光が、部屋の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせた。 網入りガラスの影が、畳の上に歪な格子模様を描いている。 「……来い」 暗闇の中から、ひどく掠れた、だが抗いがたい引力を持った声が響いた。 布団の上で横になっている彼の影が、腕を差し出しているのが見える。 足音を忍ばせるようにして畳の上を歩き、冷え切った足先を布団の隙間へと滑り込ませた。 瞬間、強烈な熱源に身体全体が引き寄せられる。 「きゃっ……」 短い悲鳴は、逞しい腕の中に閉じ込められた。 分厚い胸板に顔が押し付けられ、鼻先をスウェットの生地が擦る。 洗剤のチープな香りの奥から、彼自身の、むせ返るような雄の匂いが直接脳を揺さぶってくる。 ドクン、ドクン、と。 耳を押し当てた胸の奥から、規則的で力強い心音が高鳴っているのが聞こえた。 狭い布団の中。 背中を丸め、お腹を庇うようにして彼の腕の中に収まると、背後から大きな脚が覆い被さってきた。 太ももが絡み合い、逃げ出せないように完全にロックされる。 背中に回された手のひらが、薄いパジャマの上から、背骨のラインをゆっくりとなぞり始めた。 ビクッ、と身体が跳ねる。 「寒いか」
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第255話 4年前の答え合わせ④

 その言葉には、なぜか勝利の響きではなく、何かを惜しむような、微かな未練の色が混じっていた。 顔を上げようとするが、後頭部に添えられた彼の手が、それを許さない。 「窮屈なんかじゃ、なかった」 胸板に顔を埋めたまま、くぐもった声で返す。 布越しに伝わる体温。心臓の音。 「私、ここでの生活、嫌じゃなかったよ。……むしろ」 むしろ、すべてを失った泥水の中で、ただ互いの熱だけを信じて生きるこの日々が、本当の『生』を実感させてくれた。 「……俺は」 遮るように、低い声が頭上から落ちてきた。 いつもより、ずっと低く、どこかひび割れたような声。 「俺は、怖かった」 背中に回された腕の力が、ギリ、と強くなる。 骨が軋むほどの強い抱擁。 呼吸が苦しくなるほどの密着の中で、彼の心音が、先ほどよりも明らかに早く、激しく打ち始めているのがわかった。 「……え?」 「何もかもを失って、この薄暗い穴ぐらに転がり落ちた時。神宮寺への怒りよりも、何もできなくなった自分の無力さよりも……」 ゴクリ、と彼が喉を鳴らす音が、耳のすぐそばで響く。 「お前が、離れていくんじゃないかって。……それが、死ぬほど怖かった」 息を、呑んだ。 あの絶対的な自信に満ち、誰にも弱みを見せることのなかった彼が。 人を支配することしか知らないと思っていた、冷酷な彼が。 震えるような声で、恐怖を口にしている。 「……四年前だ」 唐突に、彼が過去への扉を開いた。 部屋の空気が、一瞬にしてピンと張り詰める。 四年前。 私が彼のもとを訪れ、雨の中で決定的な拒絶を受けた、あの絶望の夜。 「お前が、雨に濡れて俺の前に現れたあの夜」 背中をなぞっていた指先が、今度はうなじへと移動し、髪の毛の根元をギュッと掴む。 痛みはない。た
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第256話 4年前の答え合わせ⑤

 暗闇の中で、彼の吐息が荒くなる。 うなじを掴む指の力が、さらに強くなった。 「……これでやっと、お前を俺の世界に引き摺り込める。俺だけのものにできる」 ——狂気。 それは間違いなく、常軌を逸した歪な独占欲の告白だった。 けれど、なぜだろう。 怖いとは思わなかった。 むしろ、彼のその生々しい、血を吐くような本音の奥にある、強烈な飢えと孤独が、痛いほどに伝わってくる。 彼はずっと、一人でこの真っ暗な感情を抱えて、もがいていたのだ。 「だが、あの夜のお前は……俺の手を払いのけた」 違う、と叫びたかった。 払いのけたんじゃない。手が届かなかっただけだ。あなたの拒絶の言葉に、心が粉々に砕け散ってしまったから。 口を開こうとしたが、彼の唇が私の額に押し当てられ、言葉を封じられた。 熱い、焼け付くような唇の感触。 「拒絶されて、俺の中で何かが壊れた。お前を傷つけることでしか、繋ぎ止める方法がわからなくなった。……家政婦という名目で縛り付け、尊厳を奪い、俺の足元に跪かせれば……お前はもう、どこへも行けないと」 自嘲するような、乾いた笑い声が喉の奥で鳴る。 「馬鹿な男だ。力で縛り付ければ縛り付けるほど、お前の心は遠ざかっていくのに。……それに気づくのに、どれだけの時間と痛みを無駄にしたか」 額に押し当てられていた唇が、ゆっくりと滑り落ち、目尻へ、そして頬へと移動していく。 チクチクと無精髭が肌を擦る感触に、身体の奥が痺れるように熱くなる。 「このアパートに来て。何もない、本当に何一つ持っていないただの男になった俺を……お前は、見捨てなかった」 彼の指が、私の顎をすくい上げ、無理やり上を向かせる。 暗闇の中でも、彼の瞳が潤みを帯びて、激しく揺らいでいるのがはっきりと見えた。 オレンジ色の街灯の光を反射して、濡れたように光る黒曜石の
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第257話 4年前の答え合わせ⑥

 すれ違っていた。 お互いに、相手の姿を歪んだ鏡越しに見つめ、勝手に絶望し、傷つけ合っていただけだったのだ。 彼は、私の住む世界が眩しすぎて、手が届かないと諦めながらも飢えていた。 私は、彼の冷たい態度と容赦ない言葉に怯え、もう昔の優しい幼馴染は死んでしまったのだと思い込んでいた。 四年間という、あまりにも長くて残酷な空白。 互いの体温を知ることを拒み続け、意地を張り、泥沼の中で首を絞め合っていた。 「……ばか」 震える唇から、掠れた声がこぼれ落ちる。 「本当よ。……ばかみたい。私も、あなたも」 視界が急激に滲み、オレンジ色の街灯の光がぼやけていく。 瞬きをした途端、限界まで堪えていた涙が、つつーっと頬を伝って冷たい畳の方へと落ちていった。 「……泣くな」 不器用な声が頭上から降ってくる。 頬を伝う涙の痕を、ざらついた親指の腹が、ひどく慎重な手つきで拭い去っていく。 壊れ物に触れるような、その優しさが、さらに涙腺を緩ませた。 「泣くわよ。……だって、悔しいじゃない」 胸板に顔を押し付けたまま、鼻をすする。 「四年前のあの夜。……あなたが、あんなに冷たい目をして、私を追い返したから。私はずっと、自分があなたにとって、目障りなだけのゴミなんだって……そう思って、毎日泣いてたのに」 思い出すだけで、胸の奥がチクチクと痛む。 雨の冷たさ。突き放された時の、足元が崩れ落ちるような絶望。 「……すまなかった」 うなじを撫でていた大きな手が、ぴたりと止まる。 「お前を傷つけることでしか、自分を保てなかった。本当に、愚かだった」 耳元で囁かれる謝罪は、かつて私を支配し、踏み躙っていた絶対者のものではない。 ただ一人の、後悔に苛まれる不器用な男の肉声だった。 「…&hellip
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第258話 4年前の答え合わせ⑦

 この狭いアパートの、薄っぺらい布団の上。 明日には消えてしまうこの貧しい空間だからこそ、すべての見栄も虚勢も脱ぎ捨てるべきなのだ。 「……莉子」 喉の奥で、名前を呼ぶ声がくぐもる。 交わっていた視線が熱を帯び、ゆっくりと下へ、私の唇へと注がれる。 暗闇の中でも、そこから放射される強烈な熱量が、肌を焼くように伝わってくる。 ゆっくりと、影が覆い被さってきた。 逃げる気など、最初からなかった。 目を閉じると、微かな無精髭のチクチクとした感触に続いて、熱く湿った唇が重なり合った。 「ん……っ」 最初の一触れは、ためらいがちで、鳥の羽が触れるような軽いものだった。 だが、私が拒まないことを確かめると、すぐに堰を切ったように激しさを増していく。 下唇を軽く噛まれ、開いた隙間から、熱い舌が容赦なく侵入してくる。 口蓋を舐め上げられ、舌の裏側を絡め取られる。 ジュッ、と粘膜が吸着する淫靡な音が、静かな部屋に響き渡った。 息継ぎの隙すら与えられない、貪るような口づけ。 四年間、互いに抑え込んでいた渇きと飢えを、直接流し込み合うような激しい交わり。 背中に回された腕の力がさらに強くなり、身体の隙間という隙間が潰されていく。 パジャマ越しでもわかる、彼の体温。 隆起した筋肉の硬さ。 心拍数が跳ね上がり、全身の血液が沸騰したように駆け巡る。 「……ぁ、はぁ……っ、せ、や……」 唇が離れた瞬間、肺に冷たい空気が流れ込んでくるが、すぐにまた塞がれる。 角度を変え、何度も、何度も。 唾液が絡み合い、口の端から一筋、つーっと首筋へとこぼれ落ちていくのがわかった。 「お前を……誰にも、渡さない」 唇を離し、息を荒らげながら、額を擦り合わせてくる。 「二度と、俺の手から逃がさない。…&helli
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第259話 4年前の答え合わせ⑧

 「……明日」 手のひらに唇を押し当てたまま、低く響く声。 「あの屋敷に戻る。だが……そこがお前の『帰る場所』じゃない」 顔を上げ、暗闇の中で私を見据える。 「俺がいる場所が、お前の帰る場所だ。……どんな立派な屋敷でも、どんな狭いアパートでも。俺とお前が、こうして一緒に息をしている場所だけが」 胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。 嬉しくて、切なくて、また視界が歪む。 「……うん」 頷くと同時に、彼の大きな手が、ゆっくりと私のパジャマの裾から内側へと滑り込んできた。 直接触れる指先の熱さに、ビクッと肩が跳ねる。 背筋をなぞり、ゆっくりと前に回り込んでくる手。 まだ少しだけ膨らみ始めたばかりの、下腹部。 そこに、大きく温かい掌が、そっと置かれた。 乱暴に抱きすくめていた先ほどまでの力強さが嘘のように、極めて慎重で、慈しむような手つきだった。 「……ここにも、俺たちの理由がある」 お腹の上の掌から、ジンジンと熱が浸透してくる。 「四年前の亡霊は、もう消えた。……これからは、この命と一緒に、前だけを見る」 彼の言葉が、狭い四畳半の空間に、確かな重みを持って響き渡る。 過去のすれ違いも、身を焦がすような憎しみも。 すべてが、この狭い布団の中で、互いの体温に溶けて消えていく。 「……ええ」 お腹の上に置かれた彼の手の上に、自分の手を重ねる。 ごつごつとした指の関節。刻み込まれた無数の傷跡。 そのすべてが、愛おしかった。 「……だから」 急に、彼の声が一段低く、粘着質に変わった。 お腹の上に置かれていた手が、そのままゆっくりと上へ滑り、パジャマ越しの胸の膨らみを確かな力で揉みしだく。 「ひゃっ……!」
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第260話 本当のプロポーズ①

 黒塗りの高級車の重厚なドアが、くぐもった音を立てて開かれた。 暖房の効いた車内から一歩外へ踏み出すと、肌を刺すような冷たい外気が頬を打つ。 ざわり、と風が吹き抜け、巻き上げられた土埃の匂いと、切り出されたばかりの青々しい木材の香りが鼻腔をくすぐった。 革靴の底が、まだ舗装されていない剥き出しの地面を踏みしめる。 ジャリ、という砂利の鳴る音が、静寂の中に吸い込まれていく。 「足元、気をつけて」 背後から降りてきた大きな影が、横に並ぶよりも早く、私の右手をそっと包み込んだ。 ごつごつとした指の関節。厚みのある掌。 つい昨日まで、あのすきま風だらけの四畳半のアパートで、安物の毛布の下で絡ませ合っていたのと同じ体温。 けれど今、彼が身にまとっているのは、毛玉のついたスウェットではなく、採寸から仕立てられた隙のない漆黒のスーツだ。 風に煽られても微塵も型崩れしない上質な生地が、彼の広い肩幅と分厚い胸板を縁取っている。 「……ありがとう」 繋がれた手から伝わる熱に、冷え切っていた指先がじんわりと解れていく。 彼の大きな手の中で、自分の手がひどく小さく、頼りなく感じられる。だが、そこにあるのはかつて私を恐怖で縛り付けていた暴力的な力ではない。 絶対に転ばせないように、絶対に離さないようにと、慎重に力を込めて握ってくれる確かな保護の熱だ。 顔を上げると、視界の先には巨大な骨組みがそびえ立っていた。 神宮寺による不当な資産凍結のせいで、数ヶ月間ずっと放置され、錆びついた鉄骨だけが風雨に晒されていた建設途中の新居。 差し押さえが解除された今日、すでに何十人もの作業員たちがヘルメットを被り、慌ただしく足場を行き交っている。 カンカンカン、と金属を叩く甲高い音。重機が土を掘り返す低い唸り声。 すべてが、止まっていた時間が再び動き出したことを、圧倒的な物理量で証明していた。 「……大きいわね」 見上げる私の口から、無意識にそんな言葉がこぼれ落ちた。 本当に、途方もなく大
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