没落令嬢の家政婦契約 ~冷酷CEOは、初恋を逃さない~ のすべてのチャプター: チャプター 261 - チャプター 270

334 チャプター

第261話 本当のプロポーズ②

 風が彼の前髪を揺らす。 漆黒の瞳の奥に、昨夜の——狭い布団の中で互いの体温だけを貪り合った、あの濃密な暗闇の記憶が揺らめいているのがわかった。 「何百億という金を取り戻し、この広大な土地を再び手に入れても……あの四畳半で、お前が俺の隣で笑ってくれた瞬間の熱に比べれば、こんなものはただのコンクリートと木の塊にすぎない」 彼の言葉に、胸の奥がきゅうっと締め付けられる。 彼も同じだったのだ。 すべてを失った泥水の中で、地位も名誉も着飾る服さえもない状態で、私たちが手に入れたのは、「生きている」という強烈な実感だった。 「家なんて、雨風がしのげて、二人が並んで眠れるスペースがあれば、それで十分なのかもしれないわね」 少しだけ冗談めかして笑うと、征也の顔がハッとしたように強張り、そしてすぐに、ひどく不器用な、柔らかい笑みへと崩れた。 彼がこんな風に、鎧を完全に脱ぎ捨てたような顔で笑うのを、私はあの貧しいアパートで初めて知った。 「……全くだ。だが、生まれてくるこいつには、あんな隙間風の吹く場所で震えるような思いはさせたくない」 繋いでいない方の彼の手が、私のコートの向こう側、下腹部のあたりにそっと触れる。 分厚い布地越しでも、彼の手のひらの異常なほどの熱の高さが伝わってくる。 「それに……俺の我儘だ。お前には、俺が用意できる最高の場所で、何一つ不自由のない生活を送らせてやりたい。……俺の横で、ずっと」 後半の言葉は、ほとんど吐息のように風に溶けた。 だが、その声に含まれた執念にも似た強烈な熱量は、鼓膜を通り越して直接心臓を鷲掴みにする。 ◇ 作業員たちの邪魔にならないよう、敷地の端、かつて庭になる予定だった開けた場所へと歩みを進める。 ぬかるんだ土にヒールが沈まないよう、征也が常に私の腰を抱き寄せるようにして支えてくれていた。 彼のスーツから漂う、微かなアイロンの熱と、彼自身の雄の匂い。 呼吸をするたび
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第262話 本当のプロポーズ③

 「え……」 泥で汚れた地面。 仕立てたばかりの最高級のスーツの膝が土に塗れることなど、微塵も気にしていない。 ただ、下から私を見上げるその瞳は、獲物を逃さない捕食者のような鋭さと、すべてを捧げる殉教者のような脆さが、狂気的なバランスで同居していた。 「四年前、俺はお前を拒絶し、雨の中に置き去りにした」 箱を持ったままの彼の手が、微かに震えている。 「再会してからは、借金と契約という脅迫で、お前を無理やり俺の足元に縛り付けた。家政婦という名目で尊厳を奪い、傷つけ、力で支配しようとした。……お前が離れていくのが、どうしようもなく怖かったからだ」 彼の口から語られる過去の罪。 だが、そこに以前のような自己嫌悪の闇はない。ただ、事実として受け止め、私にすべてを曝け出そうとする覚悟があった。 「お前の父親に突きつけた、あの馬鹿げた契約書も」 パチン、と。 ベルベットの箱が開かれる、硬質な音が鳴った。 「無理やりお前にサインさせた、ただの紙切れの婚姻届も。……もう、何もいらない」 箱の中で、冷たい冬の太陽の光を反射して、鮮烈な青い光が爆発するように輝いた。 息を呑む。 そこにあったのは、プラチナの華奢なアームの真ん中で、深い、海の底のような青色を湛えたサファイアの指輪だった。 光の当たる角度によって、内部に星のような閃光が走る。 その石の色を、その輝きを、私はよく知っていた。 「これ……」 震える声が漏れた。 「かつて俺が、お前に無理やり身につけさせたネックレスだ」 征也の低い声が、私の記憶の扉をこじ開ける。 初めて彼に抱かれた夜。逃げ出せないようにと、彼が私の首に巻きつけた、冷たくて重いサファイアのネックレス。 『お前は俺のものだ。この鎖をつけている限り、どこへも逃がさない』 そう言って私の首筋に刻みつけられた、あの支配の証。 「あの石を、砕いて切り出させた」
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第263話 本当のプロポーズ④

 箱から取り出されたサファイアの指輪が、私の薬指の先端に触れる。 プラチナの冷たい感触と、彼の指先の火傷しそうなほどの熱さが、同時に肌に伝わってきた。 「俺が、お前に永遠の忠誠を誓うための……愛の証だ」 ゆっくりと、第二関節、そして指の根元へと、指輪が押し込まれていく。 ぴったりと、吸い付くように収まった冷たい金属の輪。 それはかつて首を絞めつけていた重苦しい鎖とは全く違う、私の体の一部として溶け込むような、不思議な安心感を持っていた。 「……一生、俺の専属でいてくれ」 喉の奥から絞り出された、血の滲むような懇願。 「俺の隣で息をして、俺の隣で笑って、俺の隣で死んでくれ。……お前がいなければ、俺はもう、一日だって生きていけない」 それは、プロポーズというにはあまりにも重く、湿度が異常に高い、呪いのような言葉だった。 だが、その強烈な重さこそが、私を満たしていく。 彼がどれほど私に飢え、どれほど私を必要としているか。 その事実が、かつて空っぽにされていた私の胸の奥を、熱い液体で満たしていく。 「……っ、う……」 視界が、ぐにゃりと歪んだ。 せき止めていた感情が限界を超え、目頭から熱い涙がボロボロと溢れ出す。 冷たい風が涙を冷やしていくのも構わず、私はしゃくり上げながら、彼の両肩にすがりついた。 「……っ、ずるいわ……そんなの……っ」 声にならない声で泣きじゃくる私を、征也は立ち上がり、そのまま力強く抱きすくめた。 彼の分厚い胸板に顔を押し付けられる。 上質なスーツの生地が、私の涙と鼻水で汚れていくのも気にせず、彼は私の背中に腕を回し、骨が軋むほどの力で抱きしめた。 「……ずるくて構わない。お前を手に入れられるなら、俺はどんな手だって使う」 頭の上から降って
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第264話 出産の夜①

 深い、海の底のような静寂が部屋を満たしていた。 分厚い遮光カーテンが外の光を完全に遮断し、広大な寝室は温度の定まらない薄闇に沈んでいる。 ふかふかとした最高級のマットレスに体が沈み込み、肌に触れるシルクのシーツは、かすかにひんやりとした滑らかな感触を伝えてくる。 あのアパートの、寝返りを打つたびに軋む硬いせんべい布団とはまるで違う。 けれど、隣から伝わってくる圧倒的な熱量と、規則的に繰り返される深い寝息の音だけは、何も変わっていなかった。 「……ん……」 ふと、下腹部の奥底から這い上がってくるような、鈍い重さに意識が引き戻された。 最初は、ただの消化不良か、それとも冷えからくる軽い痛みかと思った。 骨盤のあたりに、重い鉛を直接埋め込まれたような、ズーンとした圧迫感。 仰向けの姿勢のまま、ゆっくりと息を吸い込み、限界まで膨らんだ自分のお腹の上にそっと両手を乗せる。 パンパンに張った皮膚のすぐ下で、小さな命が確かに脈打っているのがわかる。 痛みの波は、数秒間滞在した後、潮が引くようにすーっと消えていった。 安堵の息を吐き出し、再び目を閉じようとした、その時だった。 ——ギシッ。 内臓を雑巾のように力任せに絞り上げられるような、鋭い収縮が走った。 「あ……っ」 思わず、短い悲鳴が喉から漏れる。 先ほどとは比べ物にならない、明確で、暴力的な痛み。 子宮全体が硬く痙攣し、背骨の根元から腰にかけて、ミシミシと骨が軋むような感覚が広がっていく。 額からじわりと冷や汗が滲み出し、こめかみを伝ってシーツへと落ちた。 痛みを逃がそうと、無意識に体を丸め、シーツを握りしめる。 指の関節が白くなるほど強く布を握り込んでも、内側から押し寄せる強烈な圧迫感は一向に治まらない。 息が浅くなり、ヒュー、ヒューと喉の奥で空気が擦れる音が鳴り始めた。 「……莉子?」 私のわずか
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第265話 出産の夜②

 彼の手のひらから伝わる熱が、パニックになりかけていた私の意識をほんの少しだけ現実に引き戻す。 「はぁっ、はぁ……っ、ふぅー……っ」 教わっていた呼吸法を必死に思い出しながら、長く息を吐き出す。 数分間の永遠にも似た痛みの後、ふっと全身の力が抜け、筋肉の痙攣が治まっていった。 「……陣痛だ」 荒い息を繰り返す私を見下ろしながら、征也がギリッと奥歯を噛み鳴らした。 彼の顔から血の気が引き、額には私と同じようにびっしりと汗が浮かんでいる。 普段の、どんな危機的状況でも冷徹な判断を下す絶対的なCEOの姿はそこにはない。 ただ、愛する女の苦痛を前にして、どうすることもできない無力感に怯える、一人の不器用な男がそこにいた。 「病院に連絡する。車を回させるから、少し待っていろ」 そう言いながら、彼はベッドサイドのインターホンに手を伸ばした。 だが、その指先が、微かに、しかしはっきりと小刻みに震えているのが見えた。 ボタンを押す手つきもどこかぎこちなく、何度も押し間違えそうになっている。 「……征也、くん」 痛みが引いている合間に、私は震える手を伸ばし、インターホンを握る彼の大きな手を下からそっと包み込んだ。 「大丈夫。……まだ、間隔は空いてるみたいだから。慌てないで」 私の言葉に、彼はハッとしたように目を見開き、そして深く、重い溜息を吐き出した。 「……すまない」 私の手を強く握り返し、彼は自分の額を私の手の甲に押し当てた。 彼の肌の熱さと、冷や汗の湿り気が伝わってくる。 「俺の方がパニックになってどうする。……お前が一番、不安で痛いはずなのに」 自嘲するような低い声。 彼自身の心臓の音が、私の手のひらを通してドクドクと伝わってくる。 異常なほどに速く、乱れた鼓動。 彼がどれほど私を失うことを恐れ
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第266話 出産の夜③

 今度の痛みは、先ほどまでの比ではなかった。 骨盤を内側から重機でこじ開けられるような、肉体そのものが破壊されていくような激烈な痛み。 「ぐぅっ……あぁぁっ……!」 シーツを握りしめ、腰を浮かせようとする私の身体を、強烈な力で押さえつける手があった。 「莉子、俺を見ろ!」 ベッドの脇に片膝をつき、征也が私の顔を覗き込んでいる。 彼はスーツのジャケットをとうに脱ぎ捨て、シャツの袖を腕まくりして、ネクタイも無造作に引き外していた。 「腰だろ。……ここか」 彼の大きな手のひらが、パジャマの上から私の腰の骨のあたりにピタリと当てられた。 瞬間、彼の手のひらから放たれる圧倒的な熱と、強い圧力が、背骨の軋むような痛みをほんの少しだけ和らげる。 「はぁっ、はぁっ……も、もっと……強く……っ」 「わかった。息を吐け。痛みに抗うな」 私の要求に合わせて、彼は体重を乗せるようにして腰をさすり始めた。 ごつごつとした骨ばった掌が、的確な力加減で腰の痛みの芯を捉え、押し返す。 その手つきには、迷いがなかった。 あのアパートでの生活が、ふと脳裏をよぎる。 私が重い生理痛で寝込んでいた時、彼は一晩中、文句一つ言わずに私の腰をさすり続けてくれた。 冷たい床に膝をつき、不器用な手つきで、それでも必死に私の痛みを和らげようと徹夜してくれた夜。 あの時培われた彼の手の感覚が、今、極限の苦痛の中で私を支えている。 何百億の金でも買えない、彼が自分の体で覚え込んだ「私への献身」という確かなスキルが、そこにあった。 痛みの波が一旦引くと、私は全身の力が抜け、荒い息を吐きながらベッドに沈み込んだ。 汗で髪が額に張り付き、視界がぼやける。 「……水」 掠れた声で呟くと、すぐに口元に冷たい感触が当てられた。 「ゆっくり飲め」
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第267話 出産の夜④

 「……ありがとう」 荒い息の合間に、無理に口角を上げて笑いかけると、彼の顔がわずかに歪んだ。 「喋るな。体力を温存しろ」 厳しい口調とは裏腹に、私を見る彼の瞳は、痛いほどの情に満ちていた。 「あの狭い部屋で、お前に散々しごかれたからな。……水のおかわりくらい、一秒で用意してやる」 彼の不器用な冗談に、胸の奥が温かくなる。 そうだ。私たちは、あの何もない泥水の中で、生きるためのあらゆる術を二人で共有してきたのだ。 彼が私に教え、私が彼に教えた。 その積み重ねが、今、この出産という極限の戦いにおいて、最強の武器となっている。 ◇ 時間がどれくらい経過したのか、もうわからなかった。 窓の外の暗闇が、少しずつ白み始めているような気がするが、時計を見る余裕など微塵もない。 陣痛の波は数分おきに押し寄せ、その度に私は理性を失いそうになるほどの痛みに苛まれた。 「あぁぁぁっ……! いやっ、痛い……っ、割れる……!」 子宮が完全に開ききり、赤ん坊が産道を下りてくる感覚。 内臓を無理やり引きずり出されるような、肉体が真っ二つに裂けるような絶望的な痛み。 酸素が足りない。視界の端が白くチカチカと明滅し、耳鳴りが大きくなっていく。 「莉子! 目を開けろ!」 遠のきかける意識を、鋭い怒声が引き戻した。 征也が、私の両手を自分の手で固く握りしめている。 骨が砕けそうなほどの強い握力。彼の掌から伝わる、火傷しそうなほどの熱。 「俺がいる! ここにいる! 絶対に手を離さない!」 彼の顔を見ると、彼自身もまた、限界を迎えているのがわかった。 額には大粒の汗が浮かび、首筋の血管が今にも破裂しそうに隆起している。 奥歯を強く噛み締めすぎているせいで、顎の筋肉がピクピクと痙攣していた。 まるで、彼自身が私の痛みを半分引き受け、内側から引き裂かれるような苦痛
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第268話 出産の夜⑤

 「ふぅーっ、はぁっ、はぁっ……」 一度息を吐き出し、再び波が来るのを待つ。 汗で滑る手を、征也が何度も握り直し、決して離そうとしない。 「……せ、や……くん……」 「俺はここだ。お前の前だ。……俺たちの子だ、莉子。俺たちの……証だ」 彼の声は、もう完全に涙声に変わっていた。 あの、他人の感情を踏みにじり、力ですべてを支配してきた冷酷な男が。 顔をくしゃくしゃに歪ませ、鼻水をすする音さえ隠そうとせず、ただひたすらに私に祈りを捧げている。 「次で、頭が出ますよ! ゆっくり、息を吐いて!」 最大の収縮が襲いかかる。 股の間に、焼け付くような、引き裂かれるような熱を感じた。 「あぁぁぁぁっ……!」 理性を投げ捨てた絶叫が、病室に響き渡る。 征也の手を、爪が食い込むほどに強く握りしめる。 彼の血の味がするほどの力。それでも彼は痛がる素振りすら見せず、私の手を握り返し続けた。 ズン、と。 何か巨大なものが、骨盤をすり抜け、外へと押し出される明確な感覚があった。 痛みが、一瞬にして別の熱に変わる。 「頭出ました! はい、もう力抜いて。短く息を吐いて」 「はっ、はっ、はっ……」 肩の力を抜き、浅い呼吸に切り替える。 ずるり、と。 温かくて、重たくて、ぬるぬるとした塊が、私の身体から滑り出していくのがわかった。 その瞬間、内臓を締め付けていた激烈な痛みが、嘘のようにスッと消え去る。 数秒の、完全な静寂。 時計の秒針の音すら止まったかのような、真空の空間。 「——オギャアッ! オギャアアアッ!」 空気を震わせる、生命力に満ちた、甲高い泣き声。 その声が鼓膜を叩いた瞬間、せき止めていた涙が一気に決壊した。
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第269話 出産の夜⑥

 肩を激しく震わせ、嗚咽を漏らし、子供のようにしゃくり上げている。  彼が泣く姿など、四年前のあの雨の夜から、ただの一度も見たことがなかった。  絶対的な支配者としての仮面も、私に対する歪んだ執着も、すべてが崩れ去り、ただの「父親」という一人の無力な人間に生まれ変わった瞬間だった。  「……征也、くん」  胸の上に赤ん坊を抱いたまま、私は彼に向かって手を伸ばした。  彼がゆっくりと顔を上げる。  漆黒の瞳は涙で真っ赤に充血し、頬は濡れそぼっていた。  「……ありがとう」  彼は震える両手で、私の手と、赤ん坊の小さな足をまとめて包み込んだ。  「ありがとう、莉子。……俺に、こんな……こんな光を与えてくれて」  彼の額が、私と赤ん坊の手に押し当てられる。  彼の涙が、私の皮膚を伝って落ちていくのがわかった。  窓の外のカーテンの隙間から、薄紅色の光が差し込んでくる。  夜明けだ。  長く、苦しかった私たちの夜が終わりを告げ、新しい朝の光が、この小さな命を祝福するように降り注いでいる。  「……見て」  涙声のまま、私は微笑みかけた。  「あなたの、パパよ」  赤ん坊はまだ目を開けていないが、小さな口をもごもごと動かし、懸命に生きようとしている。  その姿に、征也はさらに声を上げて泣き崩れた。  彼の大きな肩が激しく上下に揺れ、しゃくり上げるたびに、私の手に押し当てられた彼の額から熱い涙が止めどなく流れ落ちてくる。  シーツを濡らす彼の嗚咽と、赤ん坊の元気な産声が、白い病室の空気を震わせ続けていた。  胸の上に乗せられた小さな体は、驚くほど重く、そして焼け付くように熱かった。  血と羊水の匂いに混じって、新しい細胞が呼吸を始める、生々しい命の匂いがする。  すきま風の吹く四畳半のアパートで、一つの小さな布団に身を寄せ合い、互いの体温だけを貪るように求めた夜。  何も持たなかったあの暗闇の中で、私たちが必死に分け合った熱が、今、確かにここで一つの鼓動となって脈打っている。  冷たいサファイアの鎖も、脅迫めいた契約
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第270話 新しい家族と涙①

 消毒液の微かな匂いと、真っ白なシーツの糊の香りが、静かな個室を満たしていた。 分娩室での凄絶な痛みの嵐が嘘のように、今はただ穏やかで、気の抜けたような静寂が空間を支配している。 窓に取り付けられたブラインドの隙間から、高く昇った冬の太陽の光が、幾筋もの白い直線となって床に落ちていた。 点滴の落ちる微かな水音だけが、等間隔に時を刻んでいる。 重くのしかかっていた麻痺のような疲労感の底から、ゆっくりと意識が浮上してきた。 瞬きを何度か繰り返し、乾燥した室内の空気に目を慣らす。 全身の筋肉は悲鳴を上げ、骨盤のあたりには重い鈍痛が残っているものの、心の中には今までに感じたことのない、透き通ったような充足感が広がっていた。 ゆっくりと首を巡らせる。 視界の先、ベッドのすぐ脇に置かれた透明なプラスチック製の新生児用コット。 その真横に、丸椅子を引き寄せて座り込む、見慣れた大きな背中があった。 征也は、身じろぎ一つしていなかった。 仕立ての良かったはずの上質なシャツは、私の陣痛に付き合って一晩中汗と力にまみれたせいで、見る影もなく皺だらけになっている。 ネクタイは外され、袖は肘まで無造作に捲り上げられたままだ。 剥き出しになった太い前腕を膝に乗せ、前のめりになってコットの中を覗き込んでいる。 呼吸をしているのかどうかさえ疑わしいほど、微動だにしない。 ただ、鋭い漆黒の瞳だけが、透明なケースの向こう側の小さな命に完全に釘付けになっていた。「……ずっと、そうやって見ているの?」 長時間の絶叫でひどく掠れた声が、喉の奥からこぼれ落ちた。 その僅かな音に、弾かれたように征也の肩が跳ねる。 バサッと丸椅子が軋む音を立て、彼が慌てたようにこちらを振り向いた。「起きたか。痛みは……どうだ。水、飲むか。それともナースコールを……」「ふふ、平気よ。痛いのは痛いけど、さっきの地獄に比べたら、天国みたいなもの」 早口で捲し立てようとする彼を、微かな笑い
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