All Chapters of 没落令嬢の家政婦契約 ~冷酷CEOは、初恋を逃さない~: Chapter 271 - Chapter 280

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第271話 新しい家族と涙②

「目を離したら……この小さな塊が、ふっと消えてなくなってしまうんじゃないかって。……そう思ったら、瞬きすら惜しい」 かつて、何百億という金を動かし、他人の人生を容赦なく切り捨ててきた冷酷な男の口から出たとは到底思えない、ひどく怯えた、脆い言葉。 私はゆっくりと身体を起こし、ベッドの背もたれに寄りかかった。 腹部の痛みに小さく顔をしかめると、彼がすかさず腰の後ろにクッションを滑り込ませてくれる。「消えたりしないわ。ちゃんと、ここで息をしてる」 コットの中を覗き込む。 真っ白なおくるみに包まれた、赤黒くてシワシワの小さな顔。 まぶたは固く閉じられ、微かに開いた口から、スースーと規則的な寝息が漏れている。 握り締められた小さな拳は、私の親指の第一関節ほどの大きさしかない。 けれど、その薄い皮膚の下には青い血管が透けて見え、確かな血液が脈打って、全身に熱を運んでいるのがわかる。「……触ってみたら?」 横に立つ征也を見上げて、そっと提案する。 彼はハッとして、後退るように一歩身を引いた。 その大きな手が、迷うように宙を彷徨う。「いや……俺の手は、大きすぎる。それに、力加減が……」 自分の分厚い掌を裏返し、じっと見つめながら、彼は喉の奥で苦しそうに息を吐き出した。「俺は今まで、この手で何かを壊すことしかしてこなかった。他人を踏み躙り、力で押さえつけ、奪うことしか知らない。……こんな、ガラス細工よりも脆そうなものに触れたら、俺の無神経な力が、こいつを……」「征也くん」 自己嫌悪に沈み込みそうになる彼の言葉を、私は強い語気で遮った。 ベッドの端から手を伸ばし、空中で迷子になっていた彼の右手首をきゅっと握る。「あなたはこの手で、私を地獄から引き上げてくれた。あの狭いアパートで、冷たい床から私の腰をさすり続けてくれた。……私
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第272話 新しい家族と涙③

 コットの真横に立つ彼に、私は手順を教える。「片方の手は、首と後頭部の下。もう片方の手は、お尻から腰のあたりを包み込むように」 私の指示に、彼は無言のまま、ひどくぎこちない動作でコットの中へと手を伸ばした。 その大きな手が、おくるみに包まれた小さな体に近づいていく。 あと数センチというところで、彼の手がピタリと止まった。「……莉子」 助けを求めるような声。「大丈夫。ゆっくり、そのまま滑り込ませて」 意を決したように、彼のごつごつとした指先が、赤ん坊の背中とマットの隙間へと潜り込んでいく。 ビクッ、と。 初めて直接触れた我が子の感触に、彼の肩が大きく跳ねた。「……熱い」 掠れた声がこぼれる。「信じられないくらい、熱い。……俺の体温より、ずっと高い」「そうよ。命の熱よ。……そのまま、ゆっくり持ち上げて」 息を詰め、彼は極めて慎重な動作で、その小さな塊をコットから引き上げた。 まるで、世界で最も尊い宝物を扱うかのような、手探りのような手つき。 彼のがっしりとした胸板の前に、真っ白なおくるみが収まる。 彼の腕の太さと比べると、赤ん坊の小ささがさらに際立って見えた。「……っ」 腕の中に収まった途端、征也の口から、言葉にならない短い息が漏れた。 彼の目が見開かれ、腕の中の小さな顔に完全に釘付けになっている。 赤ん坊は、持ち上げられた反動で少しだけ顔をしかめると、ふにゃりと小さくあくびをした。 ピンク色の小さな舌が見え隠れし、ミルクの甘い匂いがほんのりと漂う。 その、無防備で、全くの無垢な反応。 征也の顔が、くしゃくしゃに歪んだ。「あ……、あぁ……」 喉の奥で、空気が擦れるような不格好な音が鳴る。 彼の大きな肩が、ガタガタと小刻みに震え始めた。
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第273話 新しい家族と涙④

 涙で言葉を詰まらせながら、彼は何度も、何度も繰り返した。「……ありがとう、莉子。ありがとう」 私の名前を呼ぶ声は、もうかつての命令や脅迫の響きを一切持っていなかった。 ただ、心の底からの感謝と、魂を捧げるような祈りだけがそこにある。 彼の腕の中で、赤ん坊がモソモソと身じろぎをし、小さな手を伸ばして、征也のシャツの胸元をきゅっと掴んだ。「あ……」 その予想外の動作に、彼は息を呑み、さらに声を上げて泣き始めた。 小さな指が、彼の服の生地をしっかりと握りしめている。 言葉の通じない、視力もまだ定まっていないこの命が、本能的に父親の匂いと熱を感じ取り、自らそこへとしがみついたのだ。 その光景を見て、私の目からも、堪えきれずに熱いものが溢れ出した。 視界がぐにゃりと歪み、頬を伝う涙がシーツに落ちる。 鼻の奥がツンと痛み、胸の奥がきゅうっと締め付けられる。 痛いほどの幸福感が、細胞の隅々にまで浸透していく。「見て、征也くん」 涙声のまま、私は彼に向かって微笑みかけた。「……あなたのパパよ。あなたが、この子のお父さんなのよ」 私の言葉に、彼は赤ん坊を抱いたまま、ゆっくりとこちらへ顔を向けた。 涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにし、目は真っ赤に充血している。 あの隙のない完璧なCEOの面影は、微塵もない。 けれど、今の彼が、私が知るこれまでのどんな姿よりも、圧倒的に美しく、人間らしく、愛おしく見えた。 彼はベッドの脇に片膝をつき、赤ん坊を抱いたまま、私の顔のすぐ横に自分の顔を近づけてきた。 彼の頬から落ちた涙が、私の手の甲を濡らす。「……ああ。俺が、こいつの父親だ」 ひどく掠れた、だが確かな決意を込めた声。「お前と、こいつを……俺の命に代えても、絶対に守り抜く」 ベッドの上に伸ばした私の手に、彼のごつごつとした手が重なる。 そしてその上
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第274話 帰る場所①

 滑るように進んでいた黒塗りの高級車が、微かなブレーキの振動とともに静かに停車した。 エンジン音がふっと途絶え、車内には、私の腕の中で規則的な寝息を立てる小さな命の呼吸音だけが残される。「……着いたぞ」 隣に座る大柄な影が、低い声で囁いた。 声の振動が、密室の空気を震わせ、直接私の鼓膜をくすぐる。 退院に合わせて彼が着てきた、目の詰まった厚手の黒いニット。その袖口から伸びる大きな手が、私の膝に掛けられたブランケットの端をそっと直してくれた。 ごつごつとした指先が布越しに触れるだけで、火傷しそうなほどの熱が伝わってくる。 運転手が外からドアを開けると、春の気配を微かに含んだ、まだ少し冷たい風が車内へと流れ込んできた。 腕の中の小さな塊が、冷気に反応してモソモソと身じろぎをする。 真っ白なおくるみに包まれた我が子を、落とさないようにさらに強く抱き寄せた。 ミルクの甘い匂いと、新しい細胞が放つひだまりのような香りが、鼻腔をくすぐる。「ゆっくりでいい。足元に気をつけろ」 先に車を降りた彼が、差し出した両腕で私を庇うようにして立っている。 退院したばかりでまだ本調子ではない私の身体を気遣い、彼は私の腰と背中に手を回し、ほとんど抱き抱えるような慎重さで外へと誘導してくれた。 革靴が、敷き詰められたばかりの真っ白な砂利を踏みしめる。 ジャリ、という硬質な音が、澄んだ空気に高く響いた。 顔を上げると、視界を覆い尽くすほどの巨大な建造物がそびえ立っていた。 数ヶ月前、あの凍えるようなアパートから抜け出して初めてここを訪れた時は、まだ無機質な鉄骨とコンクリートの骨組みだけだった場所。 それが今、白を基調とした重厚な外壁に覆われ、いくつもの大きな窓が冬の終わりの太陽の光を反射して眩しく輝いている。 威圧的なほどの大きさ。 かつて私が住んでいた、そして彼に奪われたあの天道家の古い屋敷よりも、さらに広く、近代的なデザイン。 けれど、あの屋敷にあったような、冷え切った血の匂いや、重苦しい因習の気配は微塵もない。
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第275話 帰る場所②

 私の言葉に、彼は大きく息を呑み、そして喉の奥で安堵したような低い笑い声を漏らした。 腰を抱く手にさらに熱がこもり、私と赤ん坊ごと、彼の分厚い胸板に引き寄せられる。 ◇ 重厚な木製の玄関ドアが開かれると、真新しい空間特有の匂いが全身を包み込んだ。 切り出されたばかりの無垢材の青々しい香りと、塗り立ての漆喰の清潔な匂い。 どこにも過去の澱みがなく、これから何十年という時間をかけて、私たち自身の生活の匂いで上書きしていくための、純白のキャンバスのような空間。 一歩足を踏み入れると、床暖房の柔らかな熱が、スリッパ越しに足の裏へとじんわりと伝わってきた。 病院の無機質なタイルとは違う、足を受け止めるような木の弾力。 吹き抜けになった広大なエントランスホールは、声を出せば高く反響しそうなほどの広さがある。 それでも、隣を歩く彼の圧倒的な体温と存在感のおかげで、寒々しさは全く感じなかった。「疲れていないか。すぐにベッドへ行くか?」 リビングへと続く長い廊下を歩きながら、彼が何度も私の顔を覗き込んでくる。「大丈夫よ。ずっと車で座っていただけだし、この子もぐっすり眠っているから」 腕の中の我が子は、環境の変化に気づく様子もなく、スースーと穏やかな寝息を立て続けている。 その小さな温もりと重みが、私の腕の筋肉に確かな命の存在を伝え続けていた。 リビングの重い扉を押し開ける。 視界が一気に開けた。 南側の一面がすべて天井までの巨大なガラス窓になっており、部屋の中には溢れんばかりの自然光が降り注いでいる。 毛足の長い柔らかなラグ、体をすっぽりと包み込むような大きなソファ。 すべてが、私とこの小さな命を危険から守るために、彼が選び抜いた最高級の品々。 だが、今の私の目を釘付けにしたのは、それらの豪奢な家具ではなかった。 ガラス窓の向こう側に広がる、広大な庭。 冬の終わり、まだ周囲の木々が葉を落とし、土の色が目立つその空間の中で。 一角だけが、狂ったような色彩の爆発を起こしていたのだ。「&hel
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第276話 帰る場所③

 強烈な甘さと、フルーツのような瑞々しさ。そして、胸の奥底を直接掻き乱すような、深く濃厚なミルラの香り。 間違いない。 この匂いを、この花びらの形を、私が忘れるはずがない。「アブラハム……ダービー……?」 震える唇から、ぽつりと花の名前がこぼれ落ちる。 庭に一歩足を踏み出し、その咲き誇る薔薇の茂みへと引き寄せられるように歩み寄った。 冷たい風が頬を打ち、アプリコット色の花びらが一斉にさやさやと音を立てて揺れる。 かつて、父が何よりも大切に育てていた薔薇。 私が幼い頃、父と一緒に泥だらけになりながら剪定をし、水を与え、毎年春になるのを楽しみにしていた、天道家の庭の象徴。 会社が倒産し、屋敷が神宮寺の手に渡り、すべてが破壊された時。 あの薔薇もまた、重機によって無惨に掘り返され、踏み躙られて死んだのだとばかり思っていた。「……ああ」 背後から、彼が私を包み込むようにして立ち止まった。 私の肩越しに、彼の太い腕が伸び、咲き誇る薔薇の花の一つにそっと触れる。 彼の大きな手と、繊細で幾重にも重なった花びらのコントラスト。「あの屋敷が差し押さえられ、すべてが解体される直前。……夜中に業者を呼んで、根ごと掘り起こさせた」 鼓膜を震わせる彼の低い声に、私は息を呑んだ。「神宮寺の連中が乗り込んでくる前に、こいつだけは別の場所へ移し、専門の庭師に金を積んで管理させていたんだ」 それは、四年も前のことだ。 私が彼に拒絶され、雨の中で絶望の底に突き落とされた、あの頃。 私を憎み、私を蔑み、復讐のために私を家政婦として縛り付けようとしていた、あの狂気に満ちた時期に。 彼はその裏で、私の父との大切な思い出であるこの薔薇だけは、誰にも触れさせまいと保護していたというのか。「どうして……」 振り返ることすらできず、ただ目の前の花びらを見つめたまま、声が震える。「&hell
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第277話 帰る場所④

 その歪んだ熱の根底にある、私という存在へのどうしようもない飢えと愛の深さが、痛いほどに伝わってくる。「……ばか」 視界が、急激に熱い涙で滲んでいく。 アプリコット色の花びらが、水面越しに見るようにぐにゃりと歪んだ。「そんな計算、しなくたって……私は、とっくにあなたから逃げられなくなってたのに」 彼が私の肩を優しく引き寄せ、自分の方へと振り向かせた。 涙で濡れた私の頬を、彼のごつごつとした親指の腹が、壊れ物に触れるような慎重さで拭い去っていく。 彼の漆黒の瞳もまた、冬の太陽の光を反射して、水膜を張ったように潤んでいた。「この新居を建てるにあたって、温室育ちの環境を調整し、開花時期をずらしてここに移植した。お前が退院して、ここに帰ってくる今日、この瞬間に……一番美しい状態でお前を迎えられるように」 腕の中の赤ん坊が、私たちの声に反応したのか、小さな手をモゾモゾと動かして私のお腹のあたりを叩いた。 その小さな熱と、背中から伝わる彼の巨大な熱。 そして、鼻腔を満たす薔薇の濃厚な香り。 彼はゆっくりと片膝を突き、私の腕の中の赤ん坊の小さな頭にそっと唇を落とした後、見上げるようにして私と視線を合わせた。「おかえり、莉子」 風に揺れる薔薇の音に負けないほどの、深く、確かな響き。「ここはもう、誰にも奪われない。俺とお前と、こいつが……一生生きていく、俺たちの家だ」 冷たい鎖で縛り付ける必要なんて、どこにもなかったのだ。 四畳半のアパートですべてを失い、互いの体温だけを頼りに生きた日々が、今の私たちをこの場所に導いてくれた。 過去の幻影や、憎しみ、歪んだ支配欲。 それらすべてを泥水の中で洗い流し、最後に手のひらに残った、たった一つの真実。「……ただいま」 涙声のまま、私は彼に向かって最高の笑顔を作った。 片手を伸ばし、彼の短く刈り揃えられた髪に指を這わせる。 チクチク
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第278話 永遠の契約①

 肋骨をきつく締め上げるコルセットの圧迫感が、浅い呼吸を強いる。 肺の奥まで空気を吸い込むことができず、吐息はどうしても小刻みで熱を帯びたものになってしまう。 背中から腰にかけて、硬いボーンが背骨のラインにぴったりと添い、姿勢を強制的に真っ直ぐに伸ばさせていた。 肌に直接触れるシルクの裏地は、最初はひんやりと冷たかったが、今は私自身の体温を吸い込んで、じっとりと滑らかな熱を持っている。「……ふぅ」 メイクルームの明るすぎる照明の下で、小さく息を吐き出す。 鏡の前に座る自分の姿が、まるで精巧に作られた見知らぬビスクドールのようだった。 幾重にも重ねられた純白のチュールが、椅子の周囲にふわりと広がり、足元を完全に覆い隠している。 デコルテを大きく露出したビスチェタイプのドレス。あらわになった肩や胸元には、プロのメイクアップアーティストの手によって、真珠を砕いたような細かいパウダーがはたかれ、照明を反射して微かな光を放っていた。 いつもは無造作に束ねているだけの髪も、複雑な編み込みとともに高く結い上げられ、銀糸と小粒のダイヤモンドをあしらったティアラが乗せられている。 膝の上に置かれた両手を見る。 純白のレースのグローブに包まれた指先が、微かに、けれどはっきりと震えていた。 左手の薬指には、グローブ越しでもわかるほどの存在感を放つ、あのサファイアの指輪が収まっている。 かつて私を縛る首輪として使われていた石は、彼の手によって砕かれ、形を変え、今こうして私の薬指の根本で、脈打つ血液の熱を静かに吸収している。 数ヶ月前まで、すきま風の吹く四畳半のアパートで、特売の毛糸の靴下を履いて寒さを凌いでいた女と、鏡の中にいるこの豪奢な花嫁が、同一人物だとは到底思えなかった。 漂ってくるのは、カビの匂いでも、焦げた醤油の匂いでもない。 スプレーの甘い香りと、テーブルに飾られたカサブランカの濃厚な生花の匂い。 すべてが非日常で、足元が宙に浮いているような頼りなさがある。 ガチャリ。 不意に、背後にある重厚なオーク材のドアのノブが回る
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第279話 永遠の契約②

 スタッフたちが、空気を読んで静かに部屋を退出していく。 バタン、とドアが閉まる音が響くと、広いメイクルームの中には、私と彼の二人きりになった。 無言のまま、征也が近づいてくる。 革靴が毛足の長い絨毯を踏み沈める、微かな摩擦音。 彼が一歩近づくたびに、部屋の空気が圧縮され、酸素が薄くなっていくような錯覚に陥る。 彼から漂う、シトラスと微かなウッドの混じったオーデコロンの香り。それが、カサブランカの甘い匂いを塗り潰し、私の鼻腔の奥まで直接侵入してくる。 椅子のすぐ後ろで、ピタリと足音が止まった。 鏡越しに、視線が絡み合う。 彼の黒い瞳が、足元のドレスの裾から、ウエストのくびれ、露出した胸元、そして結い上げられた髪へと、舐めるように這い上がってくるのがわかった。 布越しに触れられているわけではないのに、視線が通った場所から肌が粟立ち、カッと熱を持っていく。「……」 征也の喉仏が、ゴクリと大きく上下に動いた。 唾液を飲み込む、ひどく生々しい音。 彼はゆっくりと右手を持ち上げ、私のむき出しになった右肩へと伸ばしてきた。 ごつごつとした指先が、鎖骨のラインにそっと触れる。「あっ……」 予想以上の熱さに、思わず短い吐息が漏れた。 彼の手は、火傷しそうなほどに熱く、そして微かに震えていた。 あの、どんな大舞台でも、どんな絶望的な泥沼の中でも、決して揺らぐことのなかった太い指が。 ただウエディングドレスを着た私を前にして、ひどく不器用な、迷子のような震えを見せている。「……綺麗だ」 頭の上から降ってきた声は、ひどく掠れ、ひび割れていた。「本当に……。息をするのも忘れるくらいに」 鎖骨をなぞっていた指が、ゆっくりと首筋へと移動し、耳の後ろの柔らかな肌を親指の腹で擦る。 硬いタコのある指先のざらつきが、過敏になっている神経を直接撫で上げ、背筋にゾクゾクとするような電流を走らせた。
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第280話 永遠の契約③

「俺みたいな男が、こんな……光そのもののようなお前の隣に立つ資格なんて、本当はないのかもしれない」「……そんなことない」 震える声で、私は鏡の中の彼に向かってはっきりと告げた。 左手を持ち上げ、私の肩を掴んでいる彼の右手の甲に、そっと重ねる。 レースのグローブの向こう側、サファイアの指輪が彼の手に触れる。「あなたがいたから、私は生きているのよ。あの四畳半で、あなたの体温があったから、私は息を繋ぐことができた。……今更、逃げようとしたって遅いわ。あなたは一生、私のものなんだから」 わざと強い言葉を選んで言うと、鏡の中の彼の目が、驚いたように見開かれた。 そして次の瞬間、堪えきれないといった様子で、喉の奥から低い笑い声が漏れた。「……ああ。全くだ」 肩を掴んでいた手が離れ、今度は私の顎を下から掬い上げるようにして、強引に上を向かせる。 鏡越しではなく、直接、彼と視線がぶつかった。 近すぎる距離。互いの吐息が混ざり合い、シトラスの香りが脳を痺れさせる。「覚悟しておけ。……このドレスを脱がせる瞬間を想像するだけで、俺はもう、気が狂いそうだ」 唇が触れるか触れないかの距離で囁かれた、露骨で粘着質な言葉。 カッと顔中から火を噴くように熱くなるのを感じながら、私は目を伏せ、小さく頷いた。 ◇ 重厚なチャペルの両開きのドアが、重々しい音を立てて左右に開かれた瞬間。 ステンドグラスから降り注ぐ冬の太陽の光が、網膜を白く焼き尽くした。 パイプオルガンの荘厳な響きが、高い天井からシャワーのように降り注いでくる。 一歩、バージンロードの赤い絨毯に足を踏み入れる。 本来なら、父親と歩くはずのこの道。 だが、私の隣には、がっしりと私の右腕をホールドし、決して逃がさないというように強く腰を引き寄せている征也の姿があった。「誰も、お前の代わりはさせない」と、彼が言い張ったのだ。
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