All Chapters of 没落令嬢の家政婦契約 ~冷酷CEOは、初恋を逃さない~: Chapter 291 - Chapter 300

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家族編 第3話 ベビーベッドの魔王

 私のお腹に顔を埋め、涙を流したあの夜から、彼は確かに変わった。  過去の呪縛から解放され、感情の蓋が開いた。  しかし、その反動は、この「陽向」という絶対的な守るべき存在の誕生によって、彼を別の極端な状態へと追い込んでいるようだった。  愛しすぎるがゆえの、失うことへの異常なまでの恐怖。  かつてすべてを自分の思い通りに支配してきた男が、今、自分の思い通りにならない脆弱な命を前にして、ひざまずいている。  私は小さく息を吐き、彼の大きな右手を両手で包み込んだ。  冷たい。  春の陽気の中にいるのに、彼の指先は氷のように冷え切っていた。 「引き出しなんていらないわ」  彼のこわばった指を、一本ずつ丁寧にほぐしていく。  硬く強張った関節を撫で、血が通うように優しくさする。 「あなたが今まで何を握ってきたかなんて、関係ない。今のあなたに必要なのは、理屈や計算じゃなく、ただその腕の形を少し変えることだけよ」 「莉子……」 「大丈夫。陽向は、あなたが思っているほど弱くないわ。あなたと私の子供なんだから」  私は彼の手を引いて、ベビーベッドの縁まで引き寄せた。  彼は抵抗するように足を踏ん張ったが、最後は諦めたようにため息をつき、私の誘導に従った。 「見て。今、陽向が少し動いたでしょ」  ベッドの中の小さな身体が、モゾモゾと身を捩った。  むにゃむにゃと口を動かし、小さな拳が顔の横でかすかに揺れる。 「起きるのか?」 「ううん、夢を見てるのよ。さあ、腕を出して」 「待て。心の準備ができていない。角度は? 頭の支えはどの程度力を入れればいい? 背骨をまっすぐに保つためには……」 「うるさいな。いいから、力を抜いて。こうやって、輪っかを作るの」  私は彼の右腕を陽向の首の下へ、左腕をお尻の下へと滑り込ませるように指示した。  彼の腕の筋肉が、鉄の棒のように硬くなっているのがわかる。ニットの袖越しにも、その強張りがはっきりと伝わってくる。 「もっと力を抜いて。そんなにガチガチだと、陽向が居心地悪いでしょ。水に浮かぶ丸太を想像して」 「丸太……。いや、丸太は沈む可能性がある。それよりももっと軽い……」 「はい、持ち上げるわよ。せーの」  彼のぶつぶつというつぶやきを無視して、私は彼の腕ごと、陽向の身体をゆっくりと持ち上げた。
last updateLast Updated : 2026-03-16
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家族編 第4話 ベビーベッドの魔王

 壁掛け時計の秒針が進む音。  そして、陽向の、スースーという規則正しい寝息だけが、二人の間に響いていた。  私は彼から一歩下がり、その様子をじっと見守った。  彼の視線は、腕の中の小さな顔に釘付けになっている。  少しずつ、彼が息を吐き出す音が聞こえてきた。 「……どう?」  声をかけると、彼は数秒遅れて、ゆっくりと口を開いた。 「……軽い」 「三千グラムちょっとだもの」 「いや……数字の問題じゃない。羽みたいだ。……いや、羽よりも儚い。重さがないのに、圧倒的な存在感がある」  彼の喉仏が大きく上下した。 「……熱いな」 「赤ちゃんの体温は高いのよ」 「俺の服越しに、ドクドクと心臓の音が伝わってくる。……こんなに小さな胸の中で、こんなに力強く……」  征也の言葉が、次第にとぎれとぎれになっていく。  彼の腕の中で、陽向がふたたびモゾモゾと動いた。  そして、きゅっと結ばれていた小さな拳がゆっくりと開き、征也の胸元にあるニットの網目を、不器用にまさぐり始めた。 「……動いた」 「あなたを探してるのよ」 「俺を……?」  陽向の小さな指先が、征也の大きな手の人差し指に触れた。  その瞬間、陽向の指が、反射的に征也の指をぎゅっと握りしめた。  征也の肩が、びくっと大きく震えた。  小さな小さな、爪の先ほどの薄いピンク色の爪が生えた指。  それが、かつて誰も触れることを許さなかった男の太い指に、しっかりと巻き付いている。 「……っ」  征也が短く息を吸い込む音が聞こえた。  彼の顔が、ゆっくりと歪んでいく。  眉間に深いしわが寄り、強く噛み締めた顎のラインが震えている。  瞬きをするたびに、彼の長いまつ毛の先から、水滴がぽろぽろと零れ落ちた。  透明な滴が、陽向を包む白いおくるみの上に、小さな染みを作っていく。 「莉子……」 「なあに」 「俺は……俺は、本当に……」  言葉にならない声が、震える唇から漏れ出す。  彼は陽向を抱きしめたまま、まるで祈るように目を閉じた。 「こんなに……愛おしいものが、この世にあるなんて、知らなかった……」  かすれた声には、過去のすべての孤独を洗い流すような、深い安堵と喜びが滲んでいた。  私は何も言わず、ただ彼の広い背中にそっと手を添えた。  背中越しの筋肉の強
last updateLast Updated : 2026-03-16
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家族編 第5話 夜泣きの夜

 湿気をたっぷりと含んだ夏の重い空気が、分厚い遮光カーテンの向こう側にべったりと張り付いている。  設定温度を二十六度に保った寝室の中は、静かに稼働するエアコンの微かな風の音だけが、等間隔で空間を撫でていた。  薄いリネンのタオルケットが、汗ばんだ肌にじっとりとまとわりつく。  寝苦しい。  首筋を伝う一筋の汗の冷たさに、重い瞼をわずかに開けた。  サイドテーブルに置かれたデジタル時計の赤い文字盤が、暗闇の中で「AM2:14」という数字を無機質に浮かび上がらせている。  脳の芯に鉛が詰まったような、ひどい疲労感だった。関節という関節が錆びついたように軋み、指先一本を動かすのすら億劫に感じる。  無理もない。  生後四ヶ月を迎えた陽向は、ここ数日、狂ったような夜泣きの時期に突入していた。  昼間はあんなに天使のように微笑み、機嫌良く声を出しているのに、夜の帳が下りた途端、何かのスイッチが入ったように泣き叫ぶ。ミルクでもない、おむつでもない、室温でもない。何をどうしても泣き止まない、いわゆる「黄昏泣き」の延長戦。  寝不足が借金のように積み重なり、私の体力はすでに限界を迎えつつあった。  もう少しだけ。あと五分、いや三分だけでいいから、この泥のような眠りの底に沈んでいたかった。  しかし、容赦のない現実が、静寂を切り裂いた。 「ふぇ……っ、あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ!」  サイレンのように鋭く、鼓膜を直接叩くような甲高い泣き声。  隣に置かれたベビーベッドから、命のエネルギーを爆発させるような泣き声が上がった。  びくっと肩が跳ねる。  脳が「起きろ」と命令を下すより早く、母親としての本能が身体を無理やり動かそうとする。  重い腕を持ち上げ、シーツに手をついて上半身を起こそうとした、その瞬間だった。 「寝ていろ」  隣から伸びてきた大きく分厚い手が、私の肩をぽんと押さえた。  かすれた、ひどく低い声。  隣のシーツが摩擦音を立て、巨大な質量がベッドから跳ね起きる気配がした。 「……征也」 「顔色がひどい。お前は少しでも長く目を閉じているべきだ。俺が行く」  暗闇の中、ルームランプを一番暗い設定で点灯させる。  オレンジ色のぼんやりとした光が、彼のがっしりとした背中の筋肉の陰影を浮かび上がらせた。  薄手のダークグレーのT
last updateLast Updated : 2026-03-17
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家族編 第6話 夜泣きの夜

 彼がベビーベッドの前に立ち、中を覗き込む背中を、私はぼんやりとした視界で見つめた。 「あ゛あ゛あ゛あ゛! んぎゃあああ!」  陽向の泣き声は、征也が近づいたことで弱まるどころか、さらにボリュームのギアを一段階上げたようだった。  手足をバタバタと振り回し、顔を真っ赤にして反り返っているのが、柵の隙間から見え隠れする。 「……オムツは濡れていない。最後にミルクを飲んでから一時間半しか経っていないから、空腹の可能性も低い。室温も適正値のはずだが」  征也が、ブツブツと呟きながら、慎重な手つきで陽向の脇の下に手を差し入れる。  春の頃、退院してきたばかりの陽向を「壊れそうだ」と怯えて固まっていた姿に比べれば、いくぶんマシにはなった。それでも、彼の肩甲骨のあたりには、未だに爆発物を解体する処理班のような異様な緊張感が張り付いている。 「よし、持ち上げるぞ。首の角度を保持したまま、ゆっくりと……」  彼なりの完璧な計算に基づき、陽向の小さな身体が空中に持ち上げられた。  首がすわりかけているとはいえ、まだ不安定な頭を、征也の大きな手のひらがしっかりと支える。そのまま、彼自身の広い胸板へと引き寄せ、がっしりと抱き込んだ。  完璧なホールド。  これで少しは落ち着くかと思った、次の瞬間。 「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ!!」  陽向は、征也の胸ぐらのTシャツを小さな両手でぎゅっと掴むと、それまで以上の大声でギャン泣きを始めた。  耳をつんざくような鳴き声に、征也の肩がビクッと大きく跳ねる。 「なっ……なぜだ!」  焦燥感に駆られた低い声が寝室に響いた。 「抱き上げの角度は育児書の通りだ! 密着度も申し分ないはずなのに、なぜ泣き止まない!」 「……征也、ちょっと力入りすぎよ。背中がガチガチ」  私はベッドに横たわったまま、苦笑交じりに声をかけた。  陽向を抱きかかえる彼の腕の筋肉が、暗がりの中でもはっきりと隆起しているのがわかる。丸太を抱え込む熊のように、全身に余計な力が入っているのだ。 「筋肉の緊張状態が、伝わっているというのか」 「そうよ。赤ちゃんって、大人の心拍数とか筋肉の硬さを肌で感じるのよ。あなたがそんな『今から会社を乗っ取ります』みたいな顔してたら、陽向だって怖がるわよ」 「俺の顔が怖いだと?」  征也が、ばっと私の方
last updateLast Updated : 2026-03-17
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家族編 第7話 夜泣きの夜

 私の指示に、征也は渋々と顔の筋肉を元に戻し(その瞬間に彼自身がホッとしたような息を吐いた)、寝室の中をゆっくりと歩き始めた。  一歩、また一歩。  カーペットを踏みしめる重い足音。  彼のがっしりとした腕の中で、陽向は相変わらず泣き叫んでいる。  征也は陽向の背中を、大きな手のひらでトントン、と一定のリズムで叩き始めた。  しかし、彼の顔には焦りの色が濃くなっていく。  仕事において、彼は自分の力で解決できない問題に直面したことがほとんどない。条件を与えられれば、必ず最適解を導き出してきた。  だが、相手は生後四ヶ月の赤ん坊だ。  言語も通じず、論理も通用しない。 「……くそっ。このままでは莉子がまったく休めないじゃないか」  彼の低い呟きが聞こえた。  自分が眠れないことよりも、私の体力を心配して焦っているのだ。  その不器用な優しさに胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じながら、私はシーツを握りしめた。  彼なりに必死に頑張ってくれているのに、陽向の泣き声は一向に収まる気配がない。  歩き回っていた征也の足がピタリと止まった。  彼は腕の中の陽向を見下ろし、途方に暮れたように小さく息を吐いた。 「……莉子。どうあやせばいいのか、本当に分からない」  彼が私の方を振り返った。  その瞳には、かつての冷徹なCEOの面影はなく、ただ困り果てた新米父親の戸惑いだけがあった。 「言葉が通じない相手に、どう安心感を与えればいいんだ。絵本を読むような高い声は出せないし、笑顔を作ろうとすれば余計に泣かれる」 「……そうね」  私はベッドの中で少しだけ身体を起こし、彼を見つめた。  普段はあんなに堂々としているのに、今は自分の大きな身体を持て余しているように見える。無理に「優しいパパ」を演じようとするから、不自然な力が入って陽向に伝わってしまうのだ。 「あのね、征也。無理に高い声を出したり、笑ったりしなくていいのよ」 「しかし、それではあやしていることにならないだろう」 「もっと落ち着いて、いつも会社で話してる時みたいに話しかけてみたら? ほら、重要な会議でプレゼンする時みたいな感じで、堂々と、ゆっくりと」 「プレゼン、か……」  落ち着いたトーンで、普段通りの彼の低い声を聞かせれば、陽向も安心するのではないか。  そう思っ
last updateLast Updated : 2026-03-18
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家族編 第8話 夜泣きの夜

「泣くことでしか伝えられないのは理解している。だが、我々親は君の要求を満たしたいと心から思っているんだ。だから、まずは泣くのをやめて、少し落ち着いてくれないか」  征也は、泣き叫ぶ陽向の背中を一定のリズムでトントンと叩きながら、大真面目な顔で語り続けた。  その顔には、先ほどまでの焦りや戸惑いはなく、本気で相手に真理を説こうとする真摯な眼差しがあった。 「……えっと、征也?」 「君が健やかに育つことが、この家にとって一番大事なことなんだ。そのためには、母親の休息も不可欠だ。分かるだろう?」  ツッコミを入れようとした私の声は、彼のよく通るバリトンボイスにかき消された。  深夜二時半。  薄暗い寝室で、生後四ヶ月の乳児に向かって、本気のトーンで会議のような説得を試みる大企業のトップ。  もし誰かがこの光景を見たら、ただの頭のおかしい人だと思うだろう。絵面があまりにもシュールすぎて、疲労で霞んでいた頭が少しだけ冴えた。  止めるべきか。それとも、もうしばらく泳がせておくべきか。  迷った私が息を吸い込んだ瞬間、不思議な現象が起きていることに気づいた。 「……あ゛っ……ふぇ……」  陽向の、あれほど耳をつんざいていた泣き声のボリュームが、目に見えて小さくなり始めていたのだ。  暴れていた手足の動きが鈍くなり、征也のTシャツを握りしめていた小さな手の力がふっと抜ける。 「君には今、快適な寝床と、適正な温度が提供されているはずだ。不安になる要素は何もない。俺がここにいる。莉子もそこにいる。誰も君を傷つけたりはしない」  征也は全く止まらない。  しかし、言葉の内容はともかくとして、彼自身の胸の奥から響く、低く心地よいバリトンボイスが、寝室の空気をゆっくりと支配し始めていた。  それが、ある種の「ホワイトノイズ」のような効果を生んでいるのか。あるいは、彼の分厚い胸板を通して伝わる声帯の振動が、陽向にとって胎内にいた頃の記憶を呼び覚ますような、絶対的な安心感を与えているのか。  理由は定かではない。  しかし、征也の淡々とした、自信に満ちた一定のトーンの語りは、間違いなく陽向の狂乱状態を鎮静化させていた。 「……だから、今夜のところは一度目を閉じて、静かに眠ってくれ。明日の朝、また莉子の笑顔を見るために」 「ひっ……ふぇ……すん……」
last updateLast Updated : 2026-03-18
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家族編 第9話 夜泣きの夜

 一切の音を立てない、完璧なステルス動作。  膝の関節を柔らかく使い、腰を落とし、陽向の背中と頭を支えたまま、ゆっくりとマットレスの上に降ろす。  手を抜くタイミング。  ここで失敗すれば、これまでの苦労が水の泡となる。  彼は息を止め、一ミリずつ、自分の腕を陽向の身体の下から引き抜いていった。  数秒間の、永遠にも感じられる緊迫した沈黙。  陽向は身じろぎ一つせず、スースーと規則正しい寝息を立て続けたままだ。  ミッション完了。  征也が大きく、音を立てないように長い息を吐き出した。  彼が振り返り、私の寝ているベッドの方へと歩み寄ってくる。  カーペットを踏む音すらない。  ベッドの縁が沈み込み、彼が私の隣に潜り込んできた。  熱い。  彼が布団に入ってきた瞬間、むわっとした熱気が伝わってくる。  Tシャツ越しに触れた彼の腕は、体温が上がり、うっすらと汗ばんでいた。たった五分ほどの抱っこで、彼は全身の筋肉を使い切り、極限の緊張状態を乗り越えたのだ。 「お疲れ様。……名プレゼンだったわよ」  私が小声でからかうように囁くと、彼は私の腰に太い腕を回し、強引に身体を引き寄せてきた。 「俺は本気で語りかけただけだ。笑い事ではない」 「ふふっ、大真面目な顔で赤ちゃんに説教するんだもの。でも、本当に泣き止むなんてすごいわね」 「低い一定の周波数と、胸の振動が安心感を与えたのだろう。結果が全てだ」  彼の低い声が、私の耳元をくすぐる。  暗闇の中で、彼の鼻先が私の首筋に触れた。微かな汗の匂いと、彼特有の清潔なシトラスの香りが混じり合い、鼻腔を満たす。  先ほどまでの緊張が嘘のように、彼自身の筋肉も柔らかくほぐれているのがわかった。 「……少しは休めそうか?」 「うん。あなたのあの声を聞いてたら、私もすごく眠くなってきた」 「ならば、俺の報酬はどうなる」 「報酬?」 「深夜の特別手当だ」  彼の手が、私の背中から腰へと滑り落ち、薄いパジャマ越しに肌の起伏をなぞる。  その手のひらの熱さに、思わず身体がびくっと反応した。  まさか。こんなに疲れているのに。でも、陽向を寝かしつけてくれた彼を無下に突き放すこともできない。 「ば、ばか。陽向が起きるでしょ。それにあなたも明日仕事なんだから……」 「起きない。一度深く眠れば
last updateLast Updated : 2026-03-19
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家族編 第10話 夜泣きの夜

 彼は私の上に馬乗りになるような姿勢のまま、両手の親指を使って、背骨に沿ってゆっくりと圧をかけていく。  力任せではない。筋肉の繊維を確かめるような、正確で丁寧なマッサージだった。  かつて彼が過労で倒れた時、私が彼に施したマッサージの見よう見まねなのだろう。だが、彼の手は私よりもずっと大きく、分厚く、そして驚くほど熱かった。 「……特別手当って……」 「お前の身体のメンテナンスだ。俺の大事な人がボロボロのままでは困るからな」  少しだけ意地悪く、しかしどこか照れ隠しのような響きを帯びた声が上から降ってくる。 「んっ……そこ、すごく張ってて……」 「ああ、指が弾き返されそうだ。一日中、七キロ近い重りを抱えていれば当然だがな」  彼の親指が、今度は肩から首筋にかけての凝りをゆっくりとほぐしていく。  じんわりと温かい手のひらが肌を滑るたびに、背中に溜まっていた鉛のような疲労が、少しずつ外へと押し流されていくのがわかった。  ただの指圧ではない。  直接肌に触れる彼の指の腹の少しだけざらついた感触、私の呼吸に合わせてゆっくりと力を込めてくる絶妙なタイミング。  それがどうしようもなく心地よくて、同時に、ひどく甘やかな痺れを誘った。 「……っ、ふぁ……」  思わず、情けない吐息が漏れてしまう。 「……ずいぶん可愛い声を出すな。俺がただマッサージをしているだけだというのに」 「うるさい……あなたが、上手いから……」 「そうか。ならば、もっと徹底的にほぐしてやる」  彼の手が背中から腰へと下がり、パジャマのズボンの上から、骨盤の周りの硬くなった筋肉を手のひら全体で円を描くように揉みほぐす。  大きく、力強いストローク。  押し付けられる彼の膝の感触と、リズミカルに揺れるベッドのスプリングの音。  疲労で麻痺していた身体に、彼が直接、熱と血液を送り込んでくれているようだった。  さっきまでの緊張や、夜泣きの焦りが嘘のように消えていく。 「……ねえ、征也」  シーツに顔を押し付けたまま、ぽつりと呟いた。 「なんだ」 「……ありがとう」  手が止まった。  ほんの数秒の沈黙の後、彼の手のひらが、私の腰のあたりを温めるように、ただじっと置かれた。 「……礼を言われるようなことはしていない」  彼の低い声が、すぐ耳元に落ちてき
last updateLast Updated : 2026-03-19
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家族編 第11話 はじめての離乳食

 網戸を通り抜けてくる風が、かすかに乾いた落ち葉の匂いを運んできた。  夏の間、けたたましく鳴り響いていた蝉の声はいつの間にか遠ざかり、代わりに高く澄んだ秋の空が窓枠いっぱいに広がっている。  フローリングを歩く足裏に伝わる温度も、ほんの少しだけ冷たさを帯びるようになっていた。  生後六ヶ月。  季節が一つ巡り、私たちの生活もまた新しいフェーズへと移行しようとしている。  その象徴とも言える一大イベントが、今日の午前中に予定されていた。  ――離乳食の開始。  ミルク以外のものを初めて口にする、記念すべき第一歩だ。  準備のためにキッチンへ向かおうとした私の耳に、インターホンの電子音が鳴り響いた。  モニターを確認すると、見覚えのある宅配業者の制服を着た男性が、なぜか台車を押して立っている。画面越しでもわかるほど、その表情には困惑と疲労が滲んでいた。 「はい」 『あ、天道様のお宅でよろしかったでしょうか。お荷物のお届けに上がりました』 「荷物……? はい、今開けます」  玄関の重い扉を開けると、ひんやりとした秋の空気がどっと流れ込んできた。  しかし、視線を釘付けにしたのは季節の変化などではなく、玄関ポーチを占拠している巨大な物体だった。  木箱。  それも、高級なビンテージワインでも入っていそうな重厚な作りの木製のクレートが、縦に三つも積み上げられている。表面には見慣れないアルファベットの羅列と、何かの紋章のような焼印が押されていた。 「あの、これは……」 「私共も少し驚きまして。海外からの空輸便で、冷蔵指定の生鮮食品となっております。サインをお願いできますでしょうか」  配達員から受け取った端末にタッチペンでサインをしながら、伝票の「品名」欄を盗み見た。 『オーガニック指定農園・特別栽培野菜セット(スイス産・フランス産混合)』  嫌な予感しかしない。  重い木箱をどうにか玄関の土間に入れ込み、一番上の箱の留め具を外す。  パカッという音と共に蓋を開けると、ふわりと、湿った黒土の濃い匂いが鼻を突いた。  大量の緩衝材に包まれていたのは、まるで宝石のように一つ一つ丁寧に和紙で包まれた野菜たちだった。葉付きのニンジン、泥のついたジャガイモ、艶やかなほうれん草。どれもこれも、異常なほど形が美しく、そして一枚の厚手の紙が添え
last updateLast Updated : 2026-03-20
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家族編 第12話 はじめての離乳食

「ああ、届いたか。税関で手間取ったと報告があったが、予定時刻通りだな」 「予定時刻通り、じゃないわよ。これ、どう見ても野菜よね。しかも空輸って」 「当然だろう」  征也はマグカップを持たない方の手で、私の頭をポンと撫でた。 「今日から、陽向の小さな胃袋に、初めてミルク以外のものが入るんだぞ。陽向の身体は、まだ外の世界の汚れを何一つ知らない、無垢な状態だ。そこに初めて入れるものが、農薬や化学肥料まみれの安物であっていいはずがない」 「安物って……ただのお野菜でしょ」 「スイスの標高一千メートルに位置する契約農家から、土壌のpH値まで細かく指定して栽培させた。空輸の際の温度管理も一分単位で報告させている。陽向の初めての食事にふさわしい、完璧な素材だ」  彼は誇らしげに胸を張り、木箱の中のニンジンを愛おしそうに見つめている。  私は呆れてため息をつき、彼の手から逃れるように一歩下がった。 「あのねえ、征也。陽向を大事に思う気持ちはわかるけど、やりすぎよ」 「やりすぎ? 親としての当然の危機管理だろう。出所不明のものを、我が家の後継者の体内に入れるわけにはいかない」 「出所不明って……」  エプロンのポケットから、昨日の夕方に買ってきたスーパーのレジ袋を取り出した。  中から、ビニール袋に入った三本入りのニンジンを取り出し、彼の目の前に突きつける。 「これ、昨日駅前のスーパーの特売で買ったニンジンよ。千葉県産。百九十八円。出所、ばっちり書いてあるわ」  征也の眉間が、ぴくりと動いた。  その視線が、手の中にある少し不格好な泥付きニンジンと、木箱の中の宝石のようなニンジンを往復する。 「……莉子。まさか、それで陽向の離乳食を作るつもりか?」 「当たり前じゃない。私だって、ちゃんと新鮮で美味しそうなのを選んできたのよ。農家さんが一生懸命作ってくれた立派な野菜よ」 「しかし、そのビニール袋には安全性を完全に保証する証明書もなければ、生産工程の厳密な記録もない。万が一のリスクをどう担保する気だ」 「スーパーの野菜は毒じゃないわよ! あなただって、私がこのスーパーの野菜で作ったご飯を毎日食べてるじゃない!」 「大人の俺なら構わない。俺の身体は既に社会の荒波に晒されて慣れているが、陽向は違う」  言い合いになりかけたその時、リビングの奥から「
last updateLast Updated : 2026-03-20
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