All Chapters of 没落令嬢の家政婦契約 ~冷酷CEOは、初恋を逃さない~: Chapter 291 - Chapter 300

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スピンオフ第3話:天道征也の裏語り ~4年前の雨の夜~③

ドアの向こう側から、雨音が絶え間なく聞こえてくる。 彼女はまだ、そこにいるのではないか。 雨に打たれながら、俺がもう一度ドアを開けてくれるのを、泣きながら待っているのではないか。 そう思うと、手が勝手にドアノブへと伸びそうになる。 「開けろ……開けて、抱きしめるんだ」 本能がそう叫ぶ。 俺が守らなくて誰が守るんだ。あんな薄着で、この冷たい雨の中に放り出して、風邪でも引いたらどうする。 もし今すぐドアを開けて、彼女をこの狭い部屋に引きずり込み、毛布でくるんで「悪かった」と頭を下げれば、彼女は泣きながら俺の胸に飛び込んでくるだろう。 だが、それは破滅への第一歩だ。 俺たちがこの四畳半で抱き合ったところで、明日には神宮寺が月島家を潰しにかかる。 俺にはそれを止める術がない。 彼女が家を失い、親を失い、絶望のどん底に落ちていくのを、ただ隣で慰めることしかできない、無力な男に成り下がるしかないのだ。 「……ッ、ああぁぁッ……!」 喉の奥から、声にならない咆哮が漏れた。 俺は両手で自分の髪を乱暴に掻きむしり、床に額を擦り付けるようにしてうずくまった。 情けない。 悔しい。 自分自身の無力さが、死ぬほど憎い。 雨音の隙間に、微かに足音が聞こえた気がした。 ピチャ、ピチャと、水たまりを踏む音。 それがゆっくりと遠ざかり、やがて完全に雨のノイズに溶けて消えていく。 帰ったのだ。 彼女は、俺に完全に拒絶されたと信じ込み、絶望を抱えたまま、あの大邸宅へと戻っていった。 「……ごめん」 暗闇の三和土で、誰にも聞こえない謝罪を口にする。 冷たいコンクリートの感触が、手のひらから体温を奪っていく。 彼女の涙の熱さは、もう俺の手の甲には残っていない。 ただ、彼女を傷つけたという消えない罪悪感だけが、焼き印のように俺の魂に刻み込まれていた。 ゆっくりと、顔を上げる。 裸電球の傘に溜まった埃が、薄暗い光の中で揺れている。
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スピンオフ第4話:天道征也の裏語り ~4年前の雨の夜~④

「……神宮寺」 口の中で、憎むべき敵の名前を転がす。 あいつは、最初から全てを持っている。金も、地位も、彼女の幼馴染という特等席も。 そして俺は気づいていた。奴は彼女を「可哀想なお姫様」として見下し、自分のコレクションに加えようとしている。 そんなことは、絶対にさせない。 そのためには、何が必要か。 金だ。圧倒的な資金。そして、神宮寺銀行の圧力を跳ね除けるだけの、巨大な権力。 「……見ていろ」 窓ガラスに額を押し当て、外の暗闇に向かって低く呟く。 冷たいガラスの感触が、熱を持った脳髄を少しだけ冷やしていく。 今、この瞬間から、俺は人間であることをやめる。 誰にも情をかけず、誰にも心を許さず、ただひたすらに力だけを求めて、この泥水の中から這い上がる。 人の人生を踏み躙り、血を流させてでも、俺は必ず玉座を手に入れる。 彼女の父親の会社を、俺が買い叩く。神宮寺の手に渡る前に、俺がすべての泥を被ってでも、彼女の帰る場所を根こそぎ奪い取る。 彼女からは「会社を乗っ取った悪魔」と憎まれるだろう。 親の仇だと罵られ、軽蔑の視線を向けられるだろう。 それでいい。 彼女が俺を憎むなら、その憎しみという最も強烈な感情で、俺を一生見つめ続ければいい。 愛されなくてもいい。 ただ、俺の手の届く場所で、俺の目の前で息をしていてくれれば、それだけでいい。 「必ず……迎えに行く」 雨音にかき消されるような小さな声。 だが、その言葉には、自分自身の退路を完全に断ち切る、血の滲むような決意が込められていた。 俺は窓から離れ、部屋の隅に放り出されていたノートパソコンを開いた。 画面が青白く光り、俺の顔を照らし出す。 まずは、株の信用取引の口座。そして、裏のネットワークを通じた高利貸しとの接触。 リスクなんて関係ない。 俺の命の価値など、彼女が流した涙の一滴にも満たないのだから。 キーボードを叩く音が、部屋に響き始める。 外の雨は、一向に弱
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スピンオフ第5話:魔王、ベビーベッドの前で固まる①

【魔王と家政婦の平穏ならざる日常編】 かつて雨の夜に冷酷に突き放され、数年後「家政婦」として彼に買われた没落令嬢の月島莉子。 そして、彼女を想いながらも、歪んだ独占欲で縛り付けることしかできなかった冷酷CEO・天道征也。 すれ違い、傷つけ合い、時には互いの熱だけを頼りに泥水の中を這いずり回った二人は、数々の試練と巨大な陰謀を乗り越え、ついに本当の意味で結ばれました。 全てを取り戻し、新しい命を授かった二人の前に広がるのは、穏やかで温かい「家族」としての日常―― ……のはずが、あの「氷の魔王」がすんなりと普通のパパになれるはずもなく!? 本編では見られなかった、征也の極端すぎる過保護っぷり(と、夜の変わらぬ独占欲)や、家政婦スキルでマウンティング女たちを華麗に成敗する莉子の痛快な裏稼業、そして反抗期を迎えた息子との騒がしくも甘い日々。 これは、地獄の底から這い上がった不器用な二人が、世界で一番甘くて温かい「最強の城(かぞく)」を築いていく、その後の物語です。 ◇  春の柔らかい陽光が、リビングの無垢材の床に大きな四角い模様を落としている。  少しだけ開け放たれた窓の隙間から、かすかに湿気を帯びた土と、芽吹いたばかりの若葉の匂いが流れ込んできた。  静かで、ひだまりのように穏やかな午後。  つい数日前まで、無機質な病院の白い天井ばかりを見ていた目に、この新しい家のリビングは少しだけ眩しく映る。出産という大仕事を終えたばかりの身体は、まだあちこちの関節が軋み、鉛のように重い。  ソファの背もたれに深く身体を沈め、淹れたてのノンカフェインのハーブティーが入ったマグカップを両手で包み込む。陶器越しに伝わってくる熱が、血の巡りが悪くなっている指先の冷えを、ゆっくりと溶かしていく。  平和な時間だった。  ただ一箇所、部屋の中央に置かれた真新しいベビーベッドの周辺を除いては。  そこには、まるで地雷原のど真ん中で身動きが取れなくなった兵士のような、異様な空気を纏った男が立ち尽くしていた。  天道征也。  かつて冷酷無比なCEOとして恐れられ、近寄る者すべてを凍りつかせていた男は、今、ネイビーの薄手のニットに休日のスラックスというラフな出で立ちでありながら、全身の筋肉を岩のように硬直させている。  広い背中が、息を吸う動作に合わ
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スピンオフ第6話:魔王、ベビーベッドの前で固まる②

「あなたがまばたきをしてないだけよ。ほら、ちゃんと胸、動いてるでしょ」  よっこらしょ、と立ち上がり、彼の隣へと歩み寄る。  フローリングを歩く私の足音にさえ、彼は「足音を殺せ。振動が伝わる」と無茶な注文をつけてきた。  無視してベビーベッドを覗き込むと、オーガニックコットンの白いおくるみに包まれた小さな小さな塊が、規則正しいリズムで微かな寝息を立てていた。  陽向。  私たちの息子。  ふっくらとした頬は、まだ赤みがかっていて、産毛が光に透けて見えている。  きゅっと固く結ばれた小さな拳。閉じたまぶたの縁にある、驚くほど長いまつ毛。  ミルクの甘い匂いと、洗い立ての布の匂いが混ざり合った、無防備で純粋な命の香りがそこにあった。  鼻の奥がツンとするような、胸の奥がぎゅっと締め付けられるような、圧倒的な愛おしさ。  隣に立つ征也を見上げる。  彼の横顔は、彫刻のように整っているが、今はその美しさを堪能する余裕もないほどに切羽詰まった表情をしていた。  額には薄っすらと汗が浮かび、ベッドの柵を握る大きな手は、関節が白くなるほど力が入っている。 「見張ってないで、抱っこしてあげたら?」 「……無理だ」  即答だった。  しかも、かつて何百億円という取引を顔色一つ変えずに切り捨ててきた時よりも、はるかに切実で悲痛な響きを帯びていた。 「どうして? 病院では、看護師さんに手伝ってもらって何度か抱っこしてたじゃない」 「あれは周りに助けてくれる人間がいたからだ。ここは違う。万が一、俺が手元を狂わせても、誰も助けてくれない」 「手元を狂わせるって……」 「お前は分かっていない」  征也は低く唸るように言い、柵から手を離して自分の両の掌をじっと見つめた。  長くて骨ばった指。  私よりふた回りも大きく、分厚い手。  その手が、かすかに震えているのがわかった。 「俺のこの手が、どれほど不器用で、無骨なものか。……少しでも力加減を間違えれば、あんな細い骨など簡単に折れてしまう。首すら座っていない、自分の足で歩くこともできない、言葉で痛みを伝えることもできない小さな命を、俺みたいな人間が一人で持ち上げるなど、恐ろしすぎる」 「恐ろしいって、爆発物を処理するわけじゃないんだから。自分の子供でしょ」 「子供だからだ」  彼はパッと私の
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スピンオフ第7話:魔王、ベビーベッドの前で固まる③

 しかし、その反動は、この「陽向」という絶対的な守るべき存在の誕生によって、彼を別の極端な状態へと追い込んでいるようだった。 愛しすぎるがゆえの、失うことへの異常なまでの恐怖。 かつてすべてを自分の思い通りに支配してきた男が、今、自分の思い通りにならない脆弱な命を前にして、ひざまずいている。 私は小さく息を吐き、彼の大きな右手を両手で包み込んだ。 冷たい。 春の陽気の中にいるのに、彼の指先は氷のように冷え切っていた。「引き出しなんていらないわ」 彼のこわばった指を、一本ずつ丁寧にほぐしていく。 硬く強張った関節を撫で、血が通うように優しくさする。「あなたが今まで何を握ってきたかなんて、関係ない。今のあなたに必要なのは、理屈や計算じゃなく、ただその腕の形を少し変えることだけよ」「莉子……」「大丈夫。陽向は、あなたが思っているほど弱くないわ。あなたと私の子供なんだから」 私は彼の手を引いて、ベビーベッドの縁まで引き寄せた。 彼は抵抗するように足を踏ん張ったが、最後は諦めたようにため息をつき、私の誘導に従った。「見て。今、陽向が少し動いたでしょ」 ベッドの中の小さな身体が、モゾモゾと身を捩った。 むにゃむにゃと口を動かし、小さな拳が顔の横でかすかに揺れる。「起きるのか?」「ううん、夢を見てるのよ。さあ、腕を出して」「待て。心の準備ができていない。角度は? 頭の支えはどの程度力を入れればいい? 背骨をまっすぐに保つためには……」「うるさいな。いいから、力を抜いて。こうやって、輪っかを作るの」 私は彼の右腕を陽向の首の下へ、左腕をお尻の下へと滑り込ませるように指示した。 彼の腕の筋肉が、鉄の棒のように硬くなっているのがわかる。ニットの袖越しにも、その強張りがはっきりと伝わってくる。「もっと力を抜いて。そんなにガチガチだと、陽向が居心地悪いでしょ。水に浮かぶ丸太を想像して」「丸太……。いや、丸太は沈む可能性がある。それよりももっと軽い……」「はい、持ち上げるわよ。せーの」 彼のぶつぶつというつぶやきを無視して、私は彼
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スピンオフ第8話:魔王、ベビーベッドの前で固まる④

 私は彼から一歩下がり、その様子をじっと見守った。 彼の視線は、腕の中の小さな顔に釘付けになっている。 少しずつ、彼が息を吐き出す音が聞こえてきた。「……どう?」 声をかけると、彼は数秒遅れて、ゆっくりと口を開いた。「……軽い」「三千グラムちょっとだもの」「いや……数字の問題じゃない。羽みたいだ。……いや、羽よりも儚い。重さがないのに、圧倒的な存在感がある」 彼の喉仏が大きく上下した。「……熱いな」「赤ちゃんの体温は高いのよ」「俺の服越しに、ドクドクと心臓の音が伝わってくる。……こんなに小さな胸の中で、こんなに力強く……」 征也の言葉が、次第にとぎれとぎれになっていく。 彼の腕の中で、陽向がふたたびモゾモゾと動いた。 そして、きゅっと結ばれていた小さな拳がゆっくりと開き、征也の胸元にあるニットの網目を、不器用にまさぐり始めた。「……動いた」「あなたを探してるのよ」「俺を……?」 陽向の小さな指先が、征也の大きな手の人差し指に触れた。 その瞬間、陽向の指が、反射的に征也の指をぎゅっと握りしめた。 征也の肩が、びくっと大きく震えた。 小さな小さな、爪の先ほどの薄いピンク色の爪が生えた指。 それが、かつて誰も触れることを許さなかった男の太い指に、しっかりと巻き付いている。「……っ」 征也が短く息を吸い込む音が聞こえた。 彼の顔が、ゆっくりと歪んでいく。 眉間に深いしわが寄り、強く噛み締めた顎のラインが震えている。 瞬きをするたびに、彼の長いまつ毛の先から、水滴がぽろぽろと零れ落ちた。 透明な滴が、陽向を包む白いおくるみの上に、小さな染みを作っていく。「莉子……」「なあに」「俺は……俺は、本当に……」 言葉にならない声が、震える唇から漏れ出す。 彼は陽向を抱きしめたまま、まるで祈るように目を閉じた。「こんなに……愛おしいものが、この世にあるなんて、知らなかった……」 かすれた声には、過去のすべての孤独を洗い流すような、深い安
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スピンオフ第9話:夜泣きと不器用な子守唄①

 湿気をたっぷりと含んだ夏の重い空気が、分厚い遮光カーテンの向こう側にべったりと張り付いている。 設定温度を二十六度に保った寝室の中は、静かに稼働するエアコンの微かな風の音だけが、等間隔で空間を撫でていた。 薄いリネンのタオルケットが、汗ばんだ肌にじっとりとまとわりつく。 寝苦しい。 首筋を伝う一筋の汗の冷たさに、重い瞼をわずかに開けた。 サイドテーブルに置かれたデジタル時計の赤い文字盤が、暗闇の中で「AM2:14」という数字を無機質に浮かび上がらせている。 脳の芯に鉛が詰まったような、ひどい疲労感だった。関節という関節が錆びついたように軋み、指先一本を動かすのすら億劫に感じる。 無理もない。 生後四ヶ月を迎えた陽向は、ここ数日、狂ったような夜泣きの時期に突入していた。 昼間はあんなに天使のように微笑み、機嫌良く声を出しているのに、夜の帳が下りた途端、何かのスイッチが入ったように泣き叫ぶ。ミルクでもない、おむつでもない、室温でもない。何をどうしても泣き止まない、いわゆる「黄昏泣き」の延長戦。 寝不足が借金のように積み重なり、私の体力はすでに限界を迎えつつあった。 もう少しだけ。あと五分、いや三分だけでいいから、この泥のような眠りの底に沈んでいたかった。 しかし、容赦のない現実が、静寂を切り裂いた。「ふぇ……っ、あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ!」 サイレンのように鋭く、鼓膜を直接叩くような甲高い泣き声。 隣に置かれたベビーベッドから、命のエネルギーを爆発させるような泣き声が上がった。 びくっと肩が跳ねる。 脳が「起きろ」と命令を下すより早く、母親としての本能が身体を無理やり動かそうとする。 重い腕を持ち上げ、シーツに手をついて上半身を起こそうとした、その瞬間だった。「寝ていろ」 隣から伸びてきた大きく分厚い手が、私の肩をぽんと押さえた。 かすれた、ひどく低い声。 隣のシーツが摩擦音を立て、巨大な質量がベッドから跳ね起きる気配がした。「……征也」「顔色がひどい。お前は少しでも長く目を閉じているべきだ。俺が行く」 暗闇の中、ルー
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スピンオフ第10話:夜泣きと不器用な子守唄②

「あ゛あ゛あ゛あ゛! んぎゃあああ!」 陽向の泣き声は、征也が近づいたことで弱まるどころか、さらにボリュームのギアを一段階上げたようだった。 手足をバタバタと振り回し、顔を真っ赤にして反り返っているのが、柵の隙間から見え隠れする。「……オムツは濡れていない。最後にミルクを飲んでから一時間半しか経っていないから、空腹の可能性も低い。室温も適正値のはずだが」 征也が、ブツブツと呟きながら、慎重な手つきで陽向の脇の下に手を差し入れる。 春の頃、退院してきたばかりの陽向を「壊れそうだ」と怯えて固まっていた姿に比べれば、いくぶんマシにはなった。それでも、彼の肩甲骨のあたりには、未だに爆発物を解体する処理班のような異様な緊張感が張り付いている。「よし、持ち上げるぞ。首の角度を保持したまま、ゆっくりと……」 彼なりの完璧な計算に基づき、陽向の小さな身体が空中に持ち上げられた。 首がすわりかけているとはいえ、まだ不安定な頭を、征也の大きな手のひらがしっかりと支える。そのまま、彼自身の広い胸板へと引き寄せ、がっしりと抱き込んだ。 完璧なホールド。 これで少しは落ち着くかと思った、次の瞬間。「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ!!」 陽向は、征也の胸ぐらのTシャツを小さな両手でぎゅっと掴むと、それまで以上の大声でギャン泣きを始めた。 耳をつんざくような鳴き声に、征也の肩がビクッと大きく跳ねる。「なっ……なぜだ!」 焦燥感に駆られた低い声が寝室に響いた。「抱き上げの角度は育児書の通りだ! 密着度も申し分ないはずなのに、なぜ泣き止まない!」「……征也、ちょっと力入りすぎよ。背中がガチガチ」 私はベッドに横たわったまま、苦笑交じりに声をかけた。 陽向を抱きかかえる彼の腕の筋肉が、暗がりの中でもはっきりと隆起しているのがわかる。丸太を抱え込む熊のように、全身に余計な力が入っているのだ。「筋肉の緊張状態が、伝わっているというのか」「そうよ。赤ちゃんって、大人の心拍数とか筋肉の硬さを肌で感じるのよ。あなたがそんな『今から会社を乗っ取ります』みたいな顔してたら、陽向だって怖がるわよ」
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スピンオフ第11話:夜泣きと不器用な子守唄③

 一歩、また一歩。 カーペットを踏みしめる重い足音。 彼のがっしりとした腕の中で、陽向は相変わらず泣き叫んでいる。 征也は陽向の背中を、大きな手のひらでトントン、と一定のリズムで叩き始めた。 しかし、彼の顔には焦りの色が濃くなっていく。 仕事において、彼は自分の力で解決できない問題に直面したことがほとんどない。条件を与えられれば、必ず最適解を導き出してきた。 だが、相手は生後四ヶ月の赤ん坊だ。 言語も通じず、論理も通用しない。「……くそっ。このままでは莉子がまったく休めないじゃないか」 彼の低い呟きが聞こえた。 自分が眠れないことよりも、私の体力を心配して焦っているのだ。 その不器用な優しさに胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じながら、私はシーツを握りしめた。 彼なりに必死に頑張ってくれているのに、陽向の泣き声は一向に収まる気配がない。 歩き回っていた征也の足がピタリと止まった。 彼は腕の中の陽向を見下ろし、途方に暮れたように小さく息を吐いた。「……莉子。どうあやせばいいのか、本当に分からない」 彼が私の方を振り返った。 その瞳には、かつての冷徹なCEOの面影はなく、ただ困り果てた新米父親の戸惑いだけがあった。「言葉が通じない相手に、どう安心感を与えればいいんだ。絵本を読むような高い声は出せないし、笑顔を作ろうとすれば余計に泣かれる」「……そうね」 私はベッドの中で少しだけ身体を起こし、彼を見つめた。 普段はあんなに堂々としているのに、今は自分の大きな身体を持て余しているように見える。無理に「優しいパパ」を演じようとするから、不自然な力が入って陽向に伝わってしまうのだ。「あのね、征也。無理に高い声を出したり、笑ったりしなくていいのよ」「しかし、それではあやしていることにならないだろう」「もっと落ち着いて、いつも会社で話してる時みたいに話しかけてみたら? ほら、重要な会議でプレゼンする時みたいな感じで、堂々と、ゆっくりと」「プレゼン、か……」 落ち着いたトーンで、普段通りの彼の低い声を聞かせれば、陽向も安心
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スピンオフ第12話:夜泣きと不器用な子守唄④

 その顔には、先ほどまでの焦りや戸惑いはなく、本気で相手に真理を説こうとする真摯な眼差しがあった。「……えっと、征也?」「君が健やかに育つことが、この家にとって一番大事なことなんだ。そのためには、母親の休息も不可欠だ。分かるだろう?」 ツッコミを入れようとした私の声は、彼のよく通るバリトンボイスにかき消された。 深夜二時半。 薄暗い寝室で、生後四ヶ月の乳児に向かって、本気のトーンで会議のような説得を試みる大企業のトップ。 もし誰かがこの光景を見たら、ただの頭のおかしい人だと思うだろう。絵面があまりにもシュールすぎて、疲労で霞んでいた頭が少しだけ冴えた。 止めるべきか。それとも、もうしばらく泳がせておくべきか。 迷った私が息を吸い込んだ瞬間、不思議な現象が起きていることに気づいた。「……あ゛っ……ふぇ……」 陽向の、あれほど耳をつんざいていた泣き声のボリュームが、目に見えて小さくなり始めていたのだ。 暴れていた手足の動きが鈍くなり、征也のTシャツを握りしめていた小さな手の力がふっと抜ける。「君には今、快適な寝床と、適正な温度が提供されているはずだ。不安になる要素は何もない。俺がここにいる。莉子もそこにいる。誰も君を傷つけたりはしない」 征也は全く止まらない。 しかし、言葉の内容はともかくとして、彼自身の胸の奥から響く、低く心地よいバリトンボイスが、寝室の空気をゆっくりと支配し始めていた。 それが、ある種の「ホワイトノイズ」のような効果を生んでいるのか。あるいは、彼の分厚い胸板を通して伝わる声帯の振動が、陽向にとって胎内にいた頃の記憶を呼び覚ますような、絶対的な安心感を与えているのか。 理由は定かではない。 しかし、征也の淡々とした、自信に満ちた一定のトーンの語りは、間違いなく陽向の狂乱状態を鎮静化させていた。「……だから、今夜のところは一度目を閉じて、静かに眠ってくれ。明日の朝、また莉子の笑顔を見るために」「ひっ……ふぇ……すん……」 陽向の口から漏れる音が、泣き声から、しゃくり上げるような小さな寝息へと変わっていく。 征也の広い胸に顔を押し付け、小さな頭
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