All Chapters of 没落令嬢の家政婦契約 ~冷酷CEOは、初恋を逃さない~: Chapter 331 - Chapter 340

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家族編 第43話 二本目の線

 夕飯のあと、陽向はリビングで積み木を積んでいた。三段目まで積み上げては乾いた音を立てて崩し、そのたびに「あー」と大げさに悔しがる。床に転がる消防車の赤だけが、やけに鮮やかだった。  食器を片づけ終えた征也が、入り口で私を見る。私は頷いて、陽向のそばへ行った。 「陽向」  呼ぶと、ぱっと顔を上げる。「なあに?」  私は隣へ座り、まだ平らなお腹に手を置いた。「ここにね、とても小さい赤ちゃんがいるの」  陽向は私のお腹を見た。それから征也を見る。最後にもう一度お腹へ視線を戻し、真剣な顔で首を傾げた。 「どこ?」 「まだ見えないくらい小さいの」  陽向は身を屈め、私の服の裾を少し持ち上げようとした。見えない、と言われたことが、まだ腑に落ちないらしい。 「おもちゃ?」  征也が噴き出しそうになって咳払いをした。「違う。お前の弟か妹だ」 「ぼくの?」 「そうよ。陽向がお兄ちゃんになるの」  数秒の沈黙。陽向は急に立ち上がり、床を見回した。積み木の陰から赤い消防車を引っ張り出すと、両手で持って私の前へ戻ってくる。 「これ、かしてあげる」  胸が詰まった。 「まだ遊べないわよ」 「じゃあ、ここに置いとく」  征也が床へ片膝をついた。息子の手から落ちかけた消防車の梯子を指で戻し、そのまま陽向の話に耳を傾けている。  陽向は私のお腹の前へ消防車を置き、しゃがみ込む。「あかちゃん、だいじ。……これ、ちょっとなら、こわしてもいいよ」  征也が鼻の付け根を押さえた。私は笑いながら陽向を抱き寄せる。  その夜、ベッドへ入る前、征也は赤い消防車を手に取っていた。「あいつがこれを貸すとはな。俺が触った時は怒ったくせに」 「あなたも落ち着かないくせに。今日だけで育児用品のサイト、何件見たの?」 「必要な情報収集だ」 「まだ性別も分からないのに?」  彼は言い返さず、消防車をそっと元の場所へ戻した。  私のお腹の前に置かれた、小さな兄からの最初の贈り物。それを見つめる征也の横顔は、もう不安だけではなかった。  陽向はその夜から、消防車を私のお腹の近くへ置くのが日課になった。寝る前には必ず「おやすみ」を言い、朝になると「まだいる?」と聞く。 「いるわよ」 「きょうも?」 「今日も」  その確認を何度も繰り返す。幼い息子にとって、目に見えない
last updateLast Updated : 2026-04-05
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家族編 第44話 二本目の線

 妊娠が分かってから一週間。洗い立てのタオルを畳んでいると、征也が隣へ腰を下ろした。自分のシャツ一枚なら誰かに任せる人が、私の手元を見ながらタオルの端を合わせている。端を何度も折り込むので、できたタオルは小さく厚い塊になっていた。 「そんなに折ったら、厚くて棚に入らないよ」  征也は棚とタオルを見比べ、黙って一枚を開き直した。何もかも代わってやると言われるより、その手際の悪さを見ている方が、私は楽だった。  夜中に目を覚ますと、征也が私の呼吸を確認していることがある。「何してるの」「……起こしたか」「起きるわよ、そんなに見られたら」  彼は目を逸らす。「陽向の時より、怖いんだ」  意外だった。 「一度経験してるのに?」 「経験したからだ。何が起こり得るか知ってしまった」  暗い中で、征也の目だけが眠らずにいた。私が布団の中から腕を伸ばすと、彼は少し驚いたように身を寄せた。 「私も、時々考えちゃう。陽向の時と同じようにいくかなって」  自分で口にした途端、お腹の奥が冷えるような気がした。平気だと返してきた昼間の言葉まで、急に頼りなくなる。  征也の手が私の背へ回った。抱き寄せる力は強かったが、私はそのまま胸元へ額を押しつけた。布越しに心臓が打っている。眠れないのは私一人ではないと思うと、ようやく長く息が吐けた。 「……明日、眠くても俺のせいにするなよ」 「もうしてる」  低い笑いが髪の上へ落ちた。  廊下の向こうから小さな足音がし、眠そうな陽向が扉を開けた。「ママ、パパ、ねむれない」  征也は何も言わず布団を持ち上げた。陽向が間へ潜り込み、私のお腹に手を置く。  まだ見えない四人目を囲むように、三人の体温が重なった。  週末、三人でいつものスーパーへ行った。征也はカートを押し、私は果物を選び、陽向は子供用の小さな籠を持つ。  果物売り場で私が袋を持ち上げると、征也の手も動いた。けれど、受け取ったのは陽向の籠だった。息子が選んだヨーグルトが重なり、持ち手が小さな指に食い込んでいる。 「そっちは俺によこせ」  陽向は一つだけ自分で持つと言い張り、いちばん上のカップを抜き取った。征也は残りをカートへ入れ、空になった籠の持ち手を倒した。  陽向は手に残したヨーグルトを私へ見せた。「赤ちゃんもたべる?」 「まだママからね」 「じゃ
last updateLast Updated : 2026-04-05
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家族編 第45話 お兄ちゃんになる日

 季節が一つ進み、お腹の膨らみが服の上からでも分かるようになった頃、陽向の様子が少し変わった。脱がせてほしいと差し出す腕も、膝へ乗る時の体重も、以前よりずっと大きい。それなのに、私の袖を掴んで離さない指だけが、赤ん坊の頃に戻ったようだった。  以前なら一人でできた着替えを「ママやって」と言う。食事の時も「食べさせて」と口を開ける。夜は自分のベッドで眠っていたのに、気づけば枕を抱えて私たちの寝室へやって来る。  最初は甘えたい時期なのだと思っていた。でも、ある晩、征也が陽向を風呂へ入れている時、浴室から小さな声が聞こえた。 「パパ。あかちゃん来たら、ママ、ぼくいらない?」  タオルを畳んでいた手が止まった。  浴室の中もしばらく静かだった。 「誰がそんなことを言った」 「だれも。でも、ママ、あかちゃんのおはなしばっかり」  胸が痛んだ。私にはそんなつもりはなかった。けれど、病院の予定や体調の話が増え、陽向が感じ取るものは確かに変わっていたのだ。  風呂上がり、陽向はパジャマのまま私の膝へ座った。少し重くなった身体を抱きしめる。 「陽向。赤ちゃんが生まれても、陽向がいらなくなることなんて絶対にないよ」  陽向は膝の上で身体を固くしたまま、パジャマの裾を握っていた。私は抱き直し、風呂上がりでまだ湿った髪を頬に寄せた。 「ほんと?」 「本当」  征也が隣へ座る。「むしろ、お前がいないと困る」 「なんで?」 「俺は赤ん坊に泣かれると弱い。お前の方が先輩だ」  陽向が少し笑った。 「パパ、あかちゃんこわいの?」 「怖い」  即答に、今度は声を立てて笑う。  笑いに合わせて、膝の上の重みが小さく揺れた。征也も笑っていたが、息子がこちらを向くと、濡れた前髪を掻き上げるふりをして目元を隠した。  私は陽向の後頭部に唇を寄せた。シャンプーの匂いがする。赤ちゃんの話をしていた間、この頭を何度撫でてやっただろう。数えようとして、途中でやめた。陽向が「くすぐったい」と首を竦めたので、もう一度だけ、強く抱いた。  その夜、陽向が寝た後、私は征也と二人で話した。 「私、陽向の不安に気づくの遅かった」 「俺もだ」 「あなたは気づいてたんじゃない?」 「聞かれるまで気づかなかった。……俺なら、増えたらその分守ればいいと思っていた」  陽向にとっ
last updateLast Updated : 2026-04-06
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家族編 第46話 お兄ちゃんになる日

 翌日、私たちは陽向と一緒にベビー用品店へ出かけた。店内は新しい布と紙箱の匂いがして、棚に並ぶ靴下は指先で摘まめるほど小さい。陽向はその一つ一つを宝物のように触りながら、赤ちゃんのために何ができるのかを真剣に考えていた。  ベビー服を選ぶ時も、「どっちがいい?」と聞く。小さな靴下を見せると、陽向は青いものと黄色いものを両方持ち、「あかちゃん、ふたつ足あるから」と真顔で言った。左右で色が違うことには気づいていない。  征也は最初、陽向の選んだ派手な動物柄を見て眉を寄せた。「もっと落ち着いたものが」「赤ちゃんは役員会に出ないわよ」。私が言うと黙った。  結局、陽向が選んだのは、小さな雲と星が散った白いおくるみだった。 「これ、ふわふわ」  頬へ当てる息子に、征也がそっと手を伸ばす。「汚すな」と言うのかと思ったら、布の端を一緒に触った。 「……柔らかいな」  征也は布を摘まんだまま、洗濯表示の小さな文字を読もうと裏返した。陽向が自分の方へ引っ張るので、二人の間で星の模様がゆっくり動いた。 「パパもさわる?」 「触っている」  三人で一枚のおくるみを撫でている姿が可笑しくて、私は笑った。  会計を終えてからも、陽向はおくるみの袋を自分で持つと言い張った。征也が手を出すと身体ごと背を向け、空いている方の手だけを父へ差し出す。征也は少し困った顔で、その手を取った。  帰り道、陽向はおくるみの袋を膝に抱えて離さなかった。車が揺れるたび持ち手を握り直し、中を覗いては口元を緩める。 「あれほど気に入ったなら、自分の分も欲しがると思ったんだが」  征也が小声で言った。私は、お腹の前に消防車を置いてくれた日のことを思い出した。 「消防車だって貸してくれたものね」  彼は陽向を見た。袋の上で眠りかけている息子の頭が傾くと、膝から袋が滑り落ちないよう手を添える。窓の外の景色が、二人の頬を明るくしては過ぎていった。  帰宅すると、陽向は玩具箱からぬいぐるみを選び、おくるみを自分のベッドへ広げた。赤い消防車も持ってきたが、少し考えて枕元へ戻す。「これは、いっしょにあそぶ」と言ってから、ぬいぐるみを布の上へ寝かせた。 「れんしゅう」 「何の?」 「赤ちゃん、ねかせる」  ぬいぐるみの頭が半分はみ出している。征也はベッドの端へ腰を下ろし、その小さな頭の下へ指
last updateLast Updated : 2026-04-06
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家族編 第47話 お兄ちゃんになる日

 妊娠後期に入ると、身体は思うように動かなくなった。ある朝、キッチンで落としたスプーンがタイルを打ち、テーブルの下へ滑り込んだ。拾おうとかがんだだけで息が上がる。焼けたトーストの匂いの中でお腹を支えていると、足元から小さな手が伸びた。 「ママ、だめ」  陽向だった。  スプーンを拾い、得意げに差し出す。「ぼく、おにいちゃんだから」 「ありがとう。助かった」  受け取ると、陽向は私のお腹を見上げた。私は椅子へ腰を下ろし、手の甲で息子の頬に触れる。朝の頬は温かく、パンくずが一つついていた。 「陽向も、ママにしてほしいことがあったら言ってね。抱っこは、座ってでよければだけど」 「おにいちゃんなのに?」  私は両腕を開いた。陽向は一度廊下の方を見てから、小さく笑って膝へ登ってきた。お腹を押さないように、横向きに座ろうとしている。  そこへ征也がコーヒーを持って入ってきた。「俺も抱っこされたい時がある」 「あなたは自分で言えるでしょ」 「言えばしてくれるのか」  陽向がケラケラ笑う。  その日の夜、珍しく陽向が泣いた。寝る前になって突然、「赤ちゃん、いらない」と言ったのだ。  胸の奥に、思いがけない痛みが走った。すぐに返事ができず、私は陽向の顔を見た。 「ママとパパ、赤ちゃんばっかり」  征也が口を開きかけた。その袖を掴んだのは私だった。息子の言葉が、まだ続きそうだったからだ。  私は陽向を膝へ引き寄せた。泣き声が近くなる。何を言えばいいのか迷ったまま、背中を撫でる手だけを動かし続けた。  陽向は泣き疲れるまで私の胸元へ顔を押しつけ、最後にお腹を一度だけ撫でた。「でも、ちょっとだけ来てもいい」。私は笑わず、「うん」とだけ答えた。  陽向は翌朝、何事もなかったような顔でシリアルを食べていた。昨夜あれだけ泣いたのに、スプーンで牛乳をすくいながら鼻歌まで歌っている。  私は昨日のことを蒸し返さなかった。代わりに、幼稚園へ送る車の中で「今日は帰ったら何したい?」と聞いた。 「ママとクッキーつくる」 「じゃあ二人で作ろう」  征也が運転席の後ろから言う。「俺は?」 「パパはおしごと」  冷たい。私は笑いを堪えた。  夕方、約束通り陽向と二人でクッキーを作った。粉だらけになり、形はいびつ。でも、焼き上がった一枚目を陽向は征也の皿へ置いた
last updateLast Updated : 2026-04-07
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家族編 第48話 お兄ちゃんになる日

 日曜日、征也と陽向が二人で出かけた。行き先は秘密だと言う。夕方、玄関の開く音で昼寝から目を覚ますと、陽向が木屑の匂いを残した小さな踏み台を抱えて立っていた。角は丸く削られ、塗装にはところどころむらがある。 「ママ、見て!」「これ、陽向が作ったの?」 「パパと!」  後ろの征也を見る。高級なジャケットの袖に薄く木くずがついていた。 「工作教室へ行った」 「あなたが?」 「何か問題か」  陽向が説明する。赤ちゃんのおむつを取ったり、棚の上のタオルを取ったりする時、自分も手伝えるように踏み台を作ったらしい。 「でも、赤ちゃん抱っこはしない。まだあぶないから」 「誰に言われたの?」 「パパがね、『あぶないのはだめ』って。ぼく、できるのだけやる」  征也は少し気まずそうに目を逸らした。  私は踏み台へ手を置いた。木の表面は不揃いで、店で売られている家具のようには滑らかではない。でも、指先に残る小さな凹凸がどうしようもなく愛おしい。 「ありがとう。すごく助かる」  陽向は胸を張った。  その夜、踏み台は洗面所へ置かれた。陽向は何度も乗って高さを確かめる。征也が後ろから支えようとすると、「パパ、さわらないで。じぶんでできる」と言われ、手を引っ込めた。  私は洗面台の鏡越しに征也を見た。息子に断られた手を持て余し、今度は私の腰へ回してくる。 「そっちは支えなくていいのに」 「お前まで断るな」  笑い声を聞きつけた陽向が振り向き、踏み台の上で得意そうに背を伸ばした。鏡の中では、その頭が昨日より少し高いところにある。  工作教室で作った踏み台には、裏側に小さな文字があった。陽向の拙い字で「ゆい」と書かれている。まだ名前も決まっていないのに、いつの間にかそう書いたらしい。 「これ、誰?」  私が聞くと、陽向は少し恥ずかしそうに肩をすくめた。「あかちゃん。……ゆい、がいい」  征也もその文字を見ていた。 「ゆい、か」  その響きは、その時初めて私たちの間に落ちた。  踏み台を使い始めてから、陽向は洗面所で自分の手を洗うだけでなく、私のタオルを取ってくれるようになった。ただ、手伝いが楽しくなりすぎて、何でも「ぼくやる」と言い出す。  ある日、熱いスープの鍋へ手を伸ばしかけた時だけは、征也がすぐにその手を押さえた。 「これは駄目だ。火
last updateLast Updated : 2026-04-07
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家族編 第49話 結衣という名前

 健診の日、医師から「性別も分かりそうですよ」と言われた。青白いモニターの光と機械の小さな作動音の中、私は征也の横顔を見る。彼は平静を装っていたが、膝の上で組んだ指だけが、わずかに強張っていた。  モニターを見ながら医師が笑った。「女の子ですね」  征也の呼吸が止まった。 「……女の子か」 「はい。今のところ元気ですよ」  帰りの車でも、彼はほとんど喋らなかった。私は不安になって尋ねる。「どうしたの。女の子、嫌だった?」 「逆だ」  車窓を流れる街路樹の影が、彼の膝の上を横切った。封筒の口からエコー写真が少し覗いている。征也はそれをしまいかけ、また手を止めた。 「……陽向の時と、同じように抱いていいんだよな」  思わず笑ってしまう。「陽向と同じよ。赤ちゃんなんだから」 「違うだろう。娘だぞ」 「まだ生まれてもないのに」  征也は真剣だった。「いつか男が近づく」 「話が十八年くらい早い」 「十八年など一瞬だ」  その夜、陽向へ妹だと伝えると、息子は嬉しそうに跳ねた。「いもうと! ぼく、まもる!」 「お前が守るのか」  征也が聞くと、陽向は両腕を広げた。相手がどのくらい小さいのか、身体で示そうとしているらしい。 「ぼく、大きいもん」  その腕の間へ、征也が自分の大きな掌を入れた。小さい、もっと小さいと息子が直す。私は二人のやり取りを見ながらお腹を撫でた。先ほどまで女の子を抱くことさえ案じていた人が、今は陽向の説明を大真面目に聞いている。 「あなたたち、取り合いだけはしないでね」  二人とも返事をしなかった。それが同じ顔だったので、私はとうとう笑ってしまった。  その晩から、征也は娘の未来を勝手に想像し始めた。 「女子校の方がいいか」 「まだ胎児です」 「共学には男がいる」 「社会にもいる」  質問を重ねようとするたび、彼の視線が私のお腹へ戻る。私はクッションを引き寄せ、その背に顎を乗せた。 「その前に、おむつと夜泣きよ。十八年分、一晩で心配しないで」  征也は言い返せず、陽向の頭を撫でた。息子は父の手を払い、「ぼく、もう赤ちゃんじゃない」と抗議する。  やがて彼は、窓の向こうの暗い庭を見た。 「……出ていくことはあっても、部屋は残しておく」  急に遠い先の話へ戻ったので、私は笑いかけてやめた。ガラスに映った
last updateLast Updated : 2026-04-08
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家族編 第50話 結衣という名前

 女の子だと分かってから、名前を決める会議が始まった。まだ誰も袖を通していない小さなベビー服を畳むたび、柔軟剤の匂いと柔らかな布の感触が指に残る。その服だけが、三人の暮らしの中で一足先に新しい家族の居場所を作っていた。  征也は本気だった。由来、字画、海外での発音、書類上の視認性まで一覧表にしてきた。「赤ちゃんの名前を企業名みたいに分析しないで」と言っても、「一生使う識別情報だ」と譲らない。  陽向はクレヨンで紙いっぱいに丸を書き、その真ん中へ「ゆ」とだけ書いた。「これがいい」 「なぜ『ゆ』なんだ」  陽向はクレヨンを握ったまま、紙を父の方へ押した。端から端まで使って描いた丸の中で、一文字だけの名前が小さく見えた。 「かわいいから」  征也の一覧表より説得力がある気がした。  数日間、候補は決まらなかった。ある夜、夕食後に三人分の洗濯物と、洗っておいた小さなベビー服を畳んでいると、陽向が私のお腹へ耳を当てた。ちょうどその時、内側から強く蹴られる。 「うごいた!」  陽向が目を輝かせる。征也も床へ膝をつき、少し離れた位置から見た。「俺にも分かるか」 「手を置いてみて」  彼の大きな手をお腹へ導く。しばらく何も起きない。 「寝たのか」  残念そうに呟いた直後、ぽこん、と掌の下が動いた。  征也の瞳が大きく見開かれる。 「……いた」 「いるわよ、ずっと」  その瞬間、陽向がいつか踏み台に書いた名を呼んだ。「ゆいちゃん」  私と征也が同時に見る。 「やっぱり、ゆいちゃん」  結ぶ、という字が頭に浮かんだ。  畳みかけの小さな服が、膝の上にあった。白い襟を指で整えながら、その名で呼ばれた娘が振り向くところを想像した。まだ顔も知らないのに、不思議と声に出してみたくなる。 「結衣」  口にすると、柔らかい響きだった。  征也もゆっくり繰り返す。「……結衣」  またお腹が動く。  陽向が歓声を上げた。 「ほら、結衣も気に入ったみたい」  征也は笑わなかった。でも、その手をしばらく離そうとはしなかった。 「結衣」という字を決めた後、征也は珍しく一覧表を捨てた。 「最終候補は二十六個あったのに?」 「結衣が蹴った」 「偶然よ」 「二回蹴った」  完全に親馬鹿だ。  陽向は自分が名前をつけたことを、幼稚園で先生にまで自
last updateLast Updated : 2026-04-08
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家族編 第51話 結衣という名前

「結衣」という名前が決まってから、陽向は毎晩お腹へ話しかけるようになった。夜のリビングには、帰宅した征也のシトラスの香りと温い麦茶の匂いが混じっている。膨らんだお腹が時々小さく動くたび、父と兄の視線が同じ場所へ落ちた。  今日食べたおやつ。幼稚園で転んだこと。パパが仕事の電話で怖い声を出していたこと。征也が聞いたら眉を寄せそうな秘密まで、全部だ。 「結衣ちゃん、パパね、また『すうじがあまい』って、こわい声してた」 「陽向」  背後から低い声が飛ぶ。陽向は笑って私の後ろへ隠れた。  ある晩、征也が仕事から帰ると、陽向はすでに眠っていた。私はソファで足を投げ出し、膨らんだお腹を撫でていた。 「今日はよく動くわよ」  征也はネクタイを緩めながら隣へ座った。私がその手を取ってお腹へ乗せると、指が少し開く。手首には時計の跡が薄く残り、袖口から冷たい外気の匂いがした。  掌が触れた瞬間、結衣が強く蹴った。 「……俺には容赦がないな」 「あなたの娘だもの」 「似なくていいところまで似そうだ」  彼はお腹の上に手を置いたまま、ソファの背へ頭を預けた。目を閉じた横顔には、まだ仕事の疲れが残っている。 「結衣が最初に呼ぶの、どっちだろうね」 「俺だ」  あまりに迷いがないので笑ってしまった。征也は目を開け、私の顔を見た。 「教える。毎日」 「陽向に先を越されたりして」  その可能性は考えていなかったらしい。眉間に皺を寄せる父の掌を、お腹の中から娘が蹴った。私は笑った拍子に息を詰め、征也の肩へ額を押しつけた。今度は彼が、笑いを堪えるように背中を撫でてくれた。  胎動が強くなるにつれ、結衣には時間帯ごとの癖があることが分かってきた。夜になるとよく動き、征也が帰宅して低い声で話し始めると、決まって一度大きく蹴る。 「嫌われているのか」 「挨拶じゃない?」 「なら、かなり乱暴な挨拶だ」  陽向は「パパににてる」と笑う。  ある夜、征也が珍しく会社であった失敗をお腹へ話していた。海外支社の数字を読み違え、会議で部下に訂正されたらしい。 「パパもまちがえるの?」  陽向が驚く。 「間違える」 「怒られた?」 「指摘された」 「ごめんなさいした?」  征也が一瞬詰まる。 「……した」  私は吹き出しそうになった。  陽向が驚いたまま
last updateLast Updated : 2026-04-09
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家族編 第52話 結衣という名前

 出産予定日が近づくにつれ、征也の鞄の中身が増えた。病院までの最短ルート、予備ルート、連絡先、入院用バッグのチェックリスト。夕方の散歩でも、陽向が踏む乾いた葉の音を聞きながら、彼は半歩後ろから私の足元ばかり見ていた。 「災害対策本部みたい」 「前回より準備できることが増えた」 「増やしすぎ」  体調の良い日には、陽向の送り迎えにも出かけた。玄関で靴を履くたび征也が何か言いたそうにするので、私は先に帰る時刻を告げる。彼は時計を見て、それから自分の靴を揃えた。  夕方、三人で近所を歩いた。陽向が落ち葉を蹴る音を聞きながら、征也の腕へ手を添える。息子の足が縁石に引っかかった時、その腕が急に固くなった。  膝をついた陽向が、こちらを振り向く。征也が一歩出るより早く、息子は自分で立ち上がった。 「へいき!」  大きな声のあとで、こっそり膝を擦っていた。征也はそれに気づいていたらしく、追いつくと手袋でズボンの土を払った。「前を見ろよ」と低く言う。陽向は返事をせず、今度は父の隣を歩いた。  お腹の中の結衣が、ぽこんと動いた。  私が立ち止まると、征也も足を止めた。掌の下で、もう一度小さく動く。 「今、蹴った」  彼はお腹を見て、それから私の顔を見た。陽向が戻ってきて、二人の間へ割り込む。葉の欠片がついた息子の髪を撫でながら、私はいつかこの子の手も引いて歩くのだと思った。  帰宅すると、玄関に用意された入院バッグの上へ、陽向が小さな紙を置いた。クレヨンで四人らしき丸が描かれ、まだ生まれていない結衣だけが一番大きかった。 「なんで結衣ちゃんが大きいの?」 「これから大きくなるから!」  理屈はよく分からない。でも、征也はその絵を入院バッグの一番上にしまった。  入院バッグには、必要な物以外も増えていった。陽向の描いた家族の絵、結衣用の白いおくるみ、征也が勝手に入れた予備の充電器が三個。 「三個もいらない」 「一つ故障し、一つ紛失した場合」 「一つ壊れたら、次の日に持ってきてくれればいいでしょ」 「備えだ」  征也は聞こえなかったふりでバッグの内ポケットを閉じた。私は呆れながら、出し忘れていた自分の靴下をその横へ詰めた。  ある夕方、散歩の途中で雨が降った。征也はすぐ傘を差し、私と陽向を庇う。 「走るな。滑る」  陽向は走りかけた足を止
last updateLast Updated : 2026-04-09
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