All Chapters of 没落令嬢の家政婦契約 ~冷酷CEOは、初恋を逃さない~: Chapter 311 - Chapter 320

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家族編 第23話 留守番パパ

 陽向は満面の笑みで、短い腕をぶんぶんと振り回した。私の言葉を完全に理解しているのかどうかは怪しいが、ご機嫌なことだけは確かだ。  後ろ髪を引かれる思いで立ち上がり、玄関の重いドアノブに手をかける。 「行ってきます」 「ああ」  ドアが閉まる直前、征也が陽向をひょいと軽々と抱き上げるのが見えた。  バタン、という音と共に、静かな秋の空気が私を包み込む。  少しだけひんやりとした風を深呼吸して、私は駅の方へと歩き出した。  ドアの向こう側の静寂が、こんなにも一瞬で打ち破られることになるとは、この時の征也は全く予想していなかったに違いない。◇ 莉子の足音が完全に遠ざかるのを確認し、征也は腕の中の陽向を見下ろした。  丸い顔、黒目がちな大きな瞳。  妻に似た柔らかい髪の毛が、秋の陽光を透かして茶色く光っている。 「さて。男同士の時間の始まりだな」  低い声で語りかけると、陽向は「んあー」と気の抜けた声で応え、征也のニットの首元を小さな手でギュッと掴んだ。  愛おしさが胸の奥で静かに膨らむ。  この幼く未完成な命を守り育てることは、何百億という資金を動かすビジネスよりも、はるかにやりがいのあることだと彼は本気で思っていた。  征也は陽向を抱えたままリビングへと戻り、ふかふかのラグの上にそっと下ろした。 「俺は少し本を読む。お前はそこのブロックで遊んでいろ」  ローテーブルに置かれた分厚い経済書を手に取り、ソファに深く腰を下ろす。  視界の端で、陽向がカラフルなプラスチック製のブロックに向かってよちよちと歩いていくのが見えた。  完璧な手はずだ。  何も難しいことはない。莉子は少し心配しすぎるのだ。  活字に目を落とし、思考を深い場所へ沈めようとした、その時だった。  シュッ。  背後から、微かな摩擦音が聞こえた。  シュッ、シュッ、シュッ。  一定のリズムで繰り返される、薄い紙が擦れ合うような音。  征也は本から目を離し、ゆっくりと振り返った。 「……なっ」  言葉を失った。  ソファの裏側に置かれていた、新品のボックスティッシュ。  その前に陣取った陽向が、小さな両手を交互に使い、猛烈なスピードでティッシュを引き抜いていたのだ。  白い紙が、まるで吹雪のように宙を舞い、ラグの上へと次々に降り積もっていく。
last updateLast Updated : 2026-03-26
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家族編 第24話 留守番パパ

 目標は、テレビボードの引き出し。 「あーっ!」  陽向は引き出しの取っ手に手をかけ、体重を後ろにかけて力任せに引っ張った。  ガラッという音と共に、引き出しが勢いよく開く。  中に入っていたDVDのケースや、リモコン、各種のケーブル類が、次々と床に放り投げられていく。  ガチャン、ゴトッ、という鈍い音がリビングに響き渡る。 「おい! それは精密機器だ! 投げるな!」  征也は拾いかけたティッシュを放り出し、今度はテレビボードの方へと走る。  彼が散らばったケースを拾い、引き出しを閉めようとすると、陽向はその腕の下をぬるりとくぐり抜け、今度は窓際の観葉植物の鉢へと向かっていった。 「だあっ! 土を触るな! 手が汚れるだろうが!」  鉢の黒い土を掘り返そうとする小さな手を、間一髪で掴む。  手首を握られた陽向は、一瞬きょとんとした後、顔を真っ赤にして泣き出した。 「あ゛あ゛あ゛あ゛っ!!」 「泣きたいのは俺の方だ。どうしてわざわざ危ないことばかりするんだ」  耳をつんざくような泣き声に耐えながら、征也は陽向を脇に抱え上げ、鉢から遠ざけた。  暴れる小さな身体。短い足が、征也の腹部をドスドスと連続で蹴り飛ばす。  地味に痛い。  開始からわずか十五分。  完璧に整頓されていたリビングは、すでに嵐が通過した後のような惨状を呈していた。 「……とりあえず、麦茶だ」  泣き叫ぶ陽向をあやすため、征也は片手で彼を抱えたままキッチンへ向かい、麦茶の入ったマグマグを取ってきた。  ストローを口元に近づけると、陽向はぴたりと泣き止み、ちゅうちゅうと勢いよく飲み始めた。  ようやく静寂が戻る。  征也は大きく息を吐き、額に滲んだ汗を手の甲で拭った。  たかが一歳半の子供一人。大の大人、しかも体力には絶対の自信がある自分が、なぜこんなにも息を切らしているのか。 「……動きが早すぎる。それに、予想もつかない動きばかりだ。俺の計算がまったく通用しない」  ブツブツと呟きながら、陽向が麦茶を飲み終わるのを待つ。  マグマグをテーブルに置いた瞬間だった。  ぷりっ。  かすかな、しかし明確な破裂音が、陽向のお尻のあたりから聞こえた。  同時に、むわっとした特有の臭気が、鼻腔をかすめる。  征也の動きが、完全にフリーズした。 「……お
last updateLast Updated : 2026-03-26
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家族編 第25話 留守番パパ

 オムツのテープに手をかけた瞬間、陽向が「きゃーっ!」と奇声を上げ、猛烈な勢いで体を捻った。 「待て! 裏返るな! 中身が漏れるだろうが!」  征也は慌てて陽向の太ももを押さえつけるが、子供の関節は驚くほど柔らかく、ぬるりと手から抜け出していく。  仰向けに戻そうとすると、今度は両足をバタバタと激しく上下させ、征也の手を蹴り飛ばした。 「痛っ……お前、どこでそんな足腰の強さを……」  格闘すること数分。  どうにかテープを外し、中身を確認する。  凄惨な光景だった。 「……量が多い。完全に許容量を超えている」  被害を最小限に食い止めるため、おしりふきを三枚重ねて素早く拭き取る。  しかし、陽向のお尻の動きは止まらない。  拭こうとした指先を絶妙なタイミングでかわし、ラグの上に逃げ出そうとする。 「させるか!」  征也は片腕で陽向の腰をがっちりとホールドし、もう片方の手でおしりふきを繰り出す。  右へ、左へ。  激しい攻防戦。  かつて、強大なライバル企業を返り討ちにした時でさえ、これほどの緊張感と焦燥感を味わったことはなかった。  少しでも手元が狂えば、自分自身の手に、あるいはこの高級なペルシャ絨毯に、取り返しのつかない染みを作ることになる。額から冷や汗が流れ落ちる。 「……よし、綺麗になった」  綺麗になったお尻に、新しいオムツを素早く滑り込ませる。  テープを左右均等に引っ張り、ビリッという音と共に固定する。  ギャザーがしっかりと立っているか確認し、ズボンを履かせる。 「……どうにか、終わった」  征也はラグの上に仰向けに倒れ込んだ。  天井のシャンデリアが、ぐるぐると回っているように見える。  呼吸が荒い。心臓が早鐘のように打っている。  隣では、綺麗になってスッキリした陽向が、征也の顔を覗き込みながら「あー?」とよだれを垂らしていた。 「……お前というやつは」  征也は大きな手を伸ばし、陽向の柔らかい頬を軽くつねった。 「俺の体力をここまで削るとは、たいした男だ」  陽向はつねられたのが楽しかったのか、ケラケラと笑い、そのまま征也の胸の上にどすんと乗りかかってきた。  九キロの重みが、胃のあたりを圧迫する。 「ぐっ……お腹に乗るな」  しかし、退かす気力はもう残っていなかった。  征也は
last updateLast Updated : 2026-03-27
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家族編 第26話 留守番パパ

◇ ガチャッ、と玄関のドアを開ける。  外の冷たい空気とは違う、家の中特有の暖かく淀んだ空気が頬を撫でた。 「ただいまー」  声をかけても、返事はない。  靴を脱ぎ、リビングのドアを開けた瞬間、私は言葉を失ってその場に立ち尽くした。 「……泥棒?」  それが、最初の感想だった。  床には無数のティッシュが散乱し、テレビボードの引き出しは開けっ放し。おもちゃ箱からはブロックが溢れ出し、部屋の隅にはなぜか靴下が片方だけ落ちている。  そして、そのカオスの中央。  ペルシャ絨毯の上で、大の字になって仰向けに倒れている大きな身体があった。  征也だ。  ダークグレーのニットは盛大にヨレており、胸元にはよだれらしき丸い染みができている。  その彼のお腹の上で、陽向がうつ伏せになり、口を半開きにして爆睡していた。  スースーという小さな寝息と、低く重いイビキが、見事な和音を奏でている。  私は持っていたバッグをそっとソファに置き、足音を立てないように二人の元へと近づいた。  征也の顔を覗き込む。  いつもは冷徹に引き締まっている眉間が、今は完全に緩みきっている。目の下にはうっすらとクマが浮かび、口の端が少しだけ開いていた。  どれだけ壮絶な戦いがあったのか、部屋の惨状と彼の顔を見れば一目瞭然だった。  私は思わず、小さく吹き出してしまった。  笑い声を殺すために、急いで口元を両手で覆う。 「……ん」  私の気配を感じたのか、征也の長いまつ毛が震え、ゆっくりとまぶたが持ち上がった。  焦点の定まらない黒い瞳が、しばらく宙を彷徨った後、私を捉える。 「……莉子」  掠れた、ひどく低い声。 「おかえり。……美容院は、終わったのか」 「ええ。ついさっきね」  私は床にしゃがみ込み、彼を見下ろした。  シャンプーの甘い香りと、新しく当てたパーマの薬品の匂いが、私の髪からふわりと落ちる。  征也はゆっくりと鼻から息を吸い込み、少しだけ眉を寄せた。 「……いい匂いだ。花の匂いがする」 「でしょ。少しだけ短くしたの」 「……ああ。似合っている」  彼は重い腕を持ち上げようとしたが、途中で力尽きたように床に落とした。 「……すまない。昼食のうどん、まだ作っていない」 「いいわよ。陽向も寝てるみたいだし」 「……ティッシュは
last updateLast Updated : 2026-03-27
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家族編 第27話 大人げない嫉妬

 冬の夜。陽向を寝かしつけてキッチンへ戻ると、征也が二つのマグカップを前に待っていた。 「……遅い」 「今日は絵本を三回読まされたの」 「二時間四十分だ」  時計まで確認していたらしい。  私は思わず笑った。 「また息子に嫉妬してるの?」 「嫉妬ではない。配分の問題だ」  征也は真顔で言った。  夕食中、私が陽向の口元ばかり拭いていたこと。風呂上がりに何度も頬へキスしたこと。自分とは三日まともに話していないこと。  ひとつずつ列挙され、笑いは次第に苦笑へ変わった。 「……ごめん。私も余裕がなくて」  そう口にした瞬間、自分でも驚くほど疲れた声が出た。  征也の顔から、不満の色が消える。 「座れ」  命令口調に聞こえたが、彼が引いたのは椅子だった。  温かいカモミールティーを私の前に置き、自分は向かいへ座る。 「今日、夕食をほとんど食べていなかった」 「見てたの?」 「見ている」  少し間を置いて、征也は続けた。 「お前が俺を見ないことより、お前自身を見る余裕を失っている方が問題だ」  その言葉に、胸の奥がじわりと熱くなった。  嫉妬していたのは本当だろう。  でも、その奥にあるのは、私を独占したい欲だけではない。 「明日の寝かしつけは俺がやる」 「陽向、嫌がるかも」 「嫌がられても覚える」  征也は湯気の向こうで、少しだけ眉を寄せた。 「俺も父親だからな」  翌晩、寝室へ戻ったのは私の方が先だった。  陽向の部屋からは、征也の低い声が聞こえてくる。  絵本を読んでいるらしい。抑揚がほとんどなく、童話なのに取締役会の議事録みたいだった。  思わず笑ってしまう。  二十分ほどして、そっとドアが開いた。 「寝た」  征也は勝者のような顔で入ってきた。 「一回で?」 「二回読んだ」 「成長したわね」 「誰がだ」  ベッドの端に座る私の前へ来ると、征也は一度、手を伸ばしかけて止めた。  その小さなためらいが目に入る。 「莉子」 「なに?」 「……今日は、抱きしめてもいいか」  一瞬、言葉が出なかった。  昔の彼なら、聞かなかった。  欲しいと思えば囲い、怖いと思えば逃げ道ごと塞いだ。  私は立ち上がり、自分から彼の胸へ腕を回した。 「聞いてくれてありがとう」  征也の身体が僅
last updateLast Updated : 2026-03-28
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家族編 第28話 完璧じゃない朝

 朝、目を覚ますと隣が空いていた。  少し驚いて寝室を出ると、キッチンから焦げた匂いがする。  征也がフライパンを睨んでいた。 「……何してるの?」 「朝食だ」  皿の上には、形の崩れた目玉焼きと、焼き過ぎたトースト。  陽向はベビーチェアでそれを見ながら、楽しそうにテーブルを叩いている。 「ママ、ねんね」 「そうだ。ママは昨日疲れていたからな」  征也が息子へ説明する。  私は胸の奥がふっと軽くなった。  夫婦の時間を取り戻すことは、母親をやめることではない。彼に甘えることも、彼が父親として役割を引き受けることも、同じ家族の中に共存していい。 「征也くん」 「なんだ」 「昨日のこと、ありがとう」  彼は一瞬こちらを見て、それから焦げたトーストへ視線を戻した。 「礼を言うなら食べろ」 「これを?」 「味は保証しない」 「珍しい。完璧じゃないものを出すなんて」 「お前が完璧でなくていいと言ったんだろう」  言われて、私は笑った。  ひと口かじる。少し苦い。  それでも、今まで食べたどんな高級ホテルの朝食より、妙に温かかった。  陽向が「ぱぱ、こげ!」と笑い、征也の眉間に皺が寄る。 「次は焦がさない」 「次も作るの?」 「当然だ。リソース配分を是正する」  結局そこへ戻るのかと、私は声を上げて笑った。  朝食を終えるころ、陽向が焦げたトーストの端を指で摘み、「パパ、またつくる?」と聞いた。  征也は少しだけ考え、「作る」と答えた。 「次は、卵も割らせて」  私が言うと、彼は眉を寄せる。 「危ない」 「ほら、それ」  指摘すると征也は黙り、数秒後に言い直した。 「……一緒に割る」  その修正が嬉しくて、私は笑った。  何かが変わる時は、大きな宣言より、こんな小さな言い直しから始まるのかもしれない。  陽向が何も分からず両手を叩く。 「たまご!」 「次の休日だ」  征也が約束すると、陽向は満足そうに頷いた。  その日の午後、征也は本当に陽向を連れて買い物へ出た。  二人だけで牛乳と卵を買ってくる。それだけの用事なのに、出発前の征也は海外企業の買収より真剣な顔で持ち物を確認していた。  一時間後、帰ってきた陽向の手には、小さなプリンが一つ握られている。 「ママの!」 「自分で選んだ」
last updateLast Updated : 2026-03-28
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家族編 第29話 ママと結婚する

 春の昼下がり。二歳半になった陽向と絵本を読んでいると、ページの中の花嫁を指差して尋ねられた。 「ママ、これなに?」 「結婚式。大好きな人と、これからも一緒にいますって約束する日よ」  陽向は真剣に考えたあと、突然私の首へ抱きついた。 「ひなた、ママとけっこんする!」  あまりに真っ直ぐな宣言に、私は吹き出した。 「ありがとう。ママも陽向が大好き」 「ずっといっしょ!」 「うん。ママはずっと陽向のママよ」  その時、背後で紙が一枚、静かに置かれる音がした。  振り返る。  在宅勤務中だった征也が、タブレットを片手に立っていた。 「異議がある」 「何に?」 「その婚姻は成立しない」  陽向が私から顔を上げ、父親を睨む。 「する!」 「しない。莉子は俺の妻だ」 「ママ、ひなたの!」 「二歳児と張り合わないで」  私が止めても、二人は聞かない。  征也はソファへ膝をつき、息子と同じ目線まで下がった。 「いいか。お前にはこれから、好きな人ができる」 「ママ!」 「母親以外でだ」 「いらない!」 「……頑固だな」 「誰に似たのかしらね」  私が呟くと、征也がこちらを見た。  その顔が本気で心外そうで、また笑いが込み上げた。  夕食の頃には、陽向の「結婚宣言」はすっかり忘れられたらしい。  本人はハンバーグに夢中で、父親との争いなどなかった顔をしている。  征也だけが、まだ少し納得していない。 「さっきの話だが」 「まだ続くの?」 「確認しておく。お前は陽向の母親だが、俺の妻でもある」 「知ってるわよ」 「順番としては俺の方が先だ」 「愛情に整理券はないの」  征也は黙った。  陽向がケチャップのついた口で、こちらを見る。 「ママ、ひなたのママ?」 「そうよ。ずっと陽向のママ」  私は頬を拭ってやった。 「でもね、陽向が大きくなったら、陽向には陽向の大切な人ができるかもしれない。その人を自分で選ぶの」 「じぶんで?」 「うん。パパにもママにも決められない」  征也の箸が止まった。  私は彼を見る。 「ね?」  少し長い沈黙。 「……そうだな」  征也は息子へ視線を戻した。 「誰を好きになるかは、お前が決めろ。だが、相手を泣かせたら俺が許さない」 「そこは普通に“幸せにしろ
last updateLast Updated : 2026-03-29
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家族編 第30話 二人きりの夜

 重厚なオーク材の扉が背後で閉まり、ガチャンと低く重い金属音が耳の奥を震わせた。  初夏の夕暮れ。少しだけ湿気を帯びた生ぬるい風が、足首にまとわりつくように通りを吹き抜けていく。  ふと、足元へ視線を落とす。  わずかにざらついたアスファルトの上に並んでいるのは、一切の曇りなく磨き上げられた黒の革靴と、つま先をシャープに覆うスウェードのパンプスだけだ。  いつもなら、この二つの靴の隙間に、マジックテープのついた小さなスニーカーが強引に割り込んでくる。そして、舌足らずな声とともに両側から指をギュッと握られ、不規則なリズムに合わせてゆっくりと歩幅を合わせるのが、ここ三年間の揺るぎない日常だった。 「……なんか、変な感じ」  ぽつりとこぼれ落ちた声に、隣に立つ背の高い影が、少しだけ所在なさげにネクタイのない首元へ指を這わせた。 「ああ。両手が空いているのが、どうにも落ち着かない。……大事な書類をどこかに置き忘れてきたような気分だ」 「ふふっ、わかる。肩が軽すぎて、忘れ物してるんじゃないかって何度も確認しちゃいそう」  肩から提げた、手のひらサイズの小さなレザーバッグをポンと叩く。  オムツも、お尻拭きも、着替えも、ストローマグも入っていない。中身はリップとスマートフォン、ハンカチくらいのものだ。  今日身に纏っているのは、体のラインに滑らかに沿うネイビーのシルクワンピース。子供のよだれや食べこぼし、砂まみれの手で叩かれることを一切想定しなくていい服を選ぶのは、本当にいつぶりだろうか。  たった五センチのヒールでさえ、ふくらはぎの筋肉に心地よい緊張感をもたらし、背筋をピンと伸ばしてくれる。 「でも、せっかく三田村と鈴木が買って出てくれたんだ。今日はしっかり楽しもう。……すごく、綺麗だ」  少しだけ照れくさそうに口角を上げ、真っ直ぐな視線が降ってくる。  普段の戦闘服であるスリーピースのスーツとは違う、仕立てのいいダークグレーのテーラードジャケット。休日に公園で泥だらけになって滑り台を滑っている時とは全く違う、出会った頃のままの、触れれば火傷しそうな大人の男の顔がそこにあった。 「ありがとう。そっちも、すごくかっこいいよ」 「よし、行こうか。予約の時間まで少しあるから、ゆっくり歩ける」  自然な動作で、大きな手のひらが差し出される。  少
last updateLast Updated : 2026-03-29
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家族編 第31話 二人きりの夜

『社長たち、お子さんが産まれてから一度も二人で出かけてないじゃないですか! たまには夫婦水入らずで美味しいもの食べてきてください。相手なら、俺たち二人が完璧にこなしてみせますから!』  普段から休みのたびに家に押しかけ、異常な熱量で一緒に遊んでくれる二人の申し出。最初は「三歳児の無尽蔵の体力を甘く見るな」と眉間に皺を寄せていた隣の男も、「たまには、お言葉に甘えてみない?」という一言で、ようやく重い首を縦に振ったのだ。  大通りから一本路地に入り、喧騒から切り離されたような閑静なエリア。  蔦の絡まる一軒家を改装した、看板すらない隠れ家的なフレンチレストランの前に着く。  ドアマンが恭しく開けた扉の向こうには、ほのかにシトラスとウッドの香りが漂い、間接照明のオレンジ色の光が落とされた、しっとりとした空間が広がっていた。  ファミレスの明るすぎる蛍光灯や、プラスチックの食器が床に叩きつけられる音とは完全に無縁の世界。  案内されたのは、フロアの一番奥にある、手入れの行き届いた中庭が見える窓際のテーブル席だった。  純白のリネンのテーブルクロスには一本のシワもなく、磨き上げられたシルバーのカトラリーと、指で弾けば高く鳴りそうな極薄のワイングラスが整然と並んでいる。 「……静かね」  厚みのあるメニュー表を開きながら、思わず声を潜める。 「そうだな。もし連れてきていたら、三秒でこのグラスを薙ぎ払って出禁になっているところだ」 「絶対そう。この真っ白なクロスも、一瞬でミートソースのキャンバスに早変わりだよ」  クスクスと、忍び笑いが漏れる。  どんなに非日常的な空間に足を足を踏み入れても、結局口をついて出るのは子供のことばかりだ。  足音もなく近づいてきたソムリエが、食前酒のオーダーを尋ねる。  シャンパンと、ノンアルコールのスパークリングカクテルを注文した。 「本当に、久しぶりだな。こういう静かな店に座るの」  テーブルの上で組まれた長い指先を眺めていると、低い声が降ってきた。 「うん。結婚記念日も、ずっと家でケーキを食べるくらいだったしね。……連れ出してくれて、ありがとう」 「いや、俺の方こそ、いつも任せきりで悪かったと思ってる。今日は、家事も育児も頭から追い出して、好きなものを頼んでくれ」  運ばれてきたグラスの縁を合わせると、チ
last updateLast Updated : 2026-03-30
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家族編 第32話 二人きりの夜

「さっき、育児のことは頭から追い出すって言ったばかりじゃない」 「あ、いや……すまん。つい、無意識に」  バツが悪そうに鼻の頭をこすり、グラスのシャンパンを大きめに煽る姿がおかしくて、口元をハンカチで覆う。  その時だった。  ブー、ブー。  テーラードジャケットの左胸のあたりから、くぐもった短い振動音が鳴った。  マナーモードのバイブレーションだが、BGMすらない静かなレストランの中では、耳元で鳴らされたようにやけに大きく響く。  向かいに座る大きな肩が、ビクンとあからさまに跳ねた。 「……三田村くんたちから?」  小声で尋ねると、「いや、緊急の連絡以外は無視すると伝えてある。仕事のトラブルかもしれない」と、誰に対する言い訳かわからない早口で呟きながら、素早い手つきで内ポケットへ手を入れる。  黒い端末を引きずり出し、画面のロックを解除した瞬間。  険しい「天道グループCEO」の顔が、氷が溶けるように一瞬でだらしなく崩れ落ちるのを、テーブル越しの視界は絶対に見逃さなかった。  目尻は限界まで下がり、口元はだらしなく半開きになっている。 「……仕事のトラブル、じゃないみたいね」 「あ、いや……三田村から写真が送られてきた。これ、見てみろ」  テーブルの中央へと差し出された画面を覗き込む。  映っていたのは、見慣れたリビングのカラフルなジョイントマットの上。大量のプラスチックブロックの山に埋もれるようにして、ふんぞり返って座っている小さな姿だった。  頭には新聞紙で作られた異様に角の長い兜のようなものが被せられ、両手には不格好なブロックの剣。  そしてその両脇には、三田村と鈴木がなぜかスーツのまま正座をし、床に額を擦り付けるようにして深々と平伏しているという、シュール極まりない構図だった。  画像の下には、三田村からのメッセージが添えられている。 『大王様の居城が完成いたしました。我々は下等な忠実なるしもべとして、これから夕食の献上に上がります。大王様の機嫌はすこぶる良好であります』 「なにこれ……あの二人、何やってるの」 「完全に遊ばれてるな。……でも、泣き叫んでいなくてよかった。少しは寂しがるかと思ったが、案外ケロッとしている」  声のトーンには、深い安堵の響きとともに、ほんのわずかな寂しさが混じっている。  自分た
last updateLast Updated : 2026-03-30
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