公衆トイレの裏手。人目につかないブロック塀の陰。 私はそこに滑り込むなり、目の前に立つ巨大な黒い影のコートの胸ぐらを、両手でガシッと掴んだ。「何やってるのよ!!」 押し殺した、しかし最大限の怒りを込めた声。 私の手が掴んだ滑らかなカシミヤの生地の奥から、岩のように硬い胸板の感触がダイレクトに伝わってくる。「……声が大きい、莉子」 サングラスの奥から、ひどく低く、落ち着き払った声が降ってきた。 間違いない。天道征也だ。「会議はどうしたの! それに何よその格好! 完全に通報される一歩手前だったんだからね!」「会議は予定を変えさせた。ロンドン支社の通信回線の不具合という名目でな」「嘘ばっかり! どう見てもサボりじゃない!」「サボりではない。これは自分の目で安全を確かめるための、重要な任務だ」 征也は全く悪びれる様子もなく、レザーグローブに包まれた手で、スッとサングラスのブリッジを押し上げた。「俺の息子が、初めて見知らぬ人間の群れに放り込まれる日だ。周囲の人間関係や、危険な要素がないか、この目で直接確認しておく義務があるだろう」「だからって、木陰から監視する親がいるわけないでしょ! ストーカーよ、それ!」「ストーカーではない。俺の変装は完璧なはずだが」「完璧に浮いてたわよ! オーラが強すぎて鳩すら逃げてたじゃない!」 私が怒りで肩で息をしていると、胸元の抱っこ紐の中で、陽向が「あー?」と不思議そうに首を傾げた。 視線の先にいる黒ずくめの男が、自分の父親だと気づいているのかいないのか、陽向は小さなミトンに包まれた手を伸ばし、征也のコートの裾をペチペチと叩き始めた。 その途端、征也の口元がわずかに緩んだ。「陽向。……寒くないか。顔が冷たくなっているぞ」 先ほどまでの冷徹な声はどこへやら、急に甘く低い声に切り替わり、彼は黒い手袋を外すと、大きな素手で陽向のふっくらとした頬をそっと包み込んだ。 私の首筋にも、彼の長い指先がかすかに触れる。 外の冷気
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