陽向は満面の笑みで、短い腕をぶんぶんと振り回した。私の言葉を完全に理解しているのかどうかは怪しいが、ご機嫌なことだけは確かだ。 後ろ髪を引かれる思いで立ち上がり、玄関の重いドアノブに手をかける。 「行ってきます」 「ああ」 ドアが閉まる直前、征也が陽向をひょいと軽々と抱き上げるのが見えた。 バタン、という音と共に、静かな秋の空気が私を包み込む。 少しだけひんやりとした風を深呼吸して、私は駅の方へと歩き出した。 ドアの向こう側の静寂が、こんなにも一瞬で打ち破られることになるとは、この時の征也は全く予想していなかったに違いない。◇ 莉子の足音が完全に遠ざかるのを確認し、征也は腕の中の陽向を見下ろした。 丸い顔、黒目がちな大きな瞳。 妻に似た柔らかい髪の毛が、秋の陽光を透かして茶色く光っている。 「さて。男同士の時間の始まりだな」 低い声で語りかけると、陽向は「んあー」と気の抜けた声で応え、征也のニットの首元を小さな手でギュッと掴んだ。 愛おしさが胸の奥で静かに膨らむ。 この幼く未完成な命を守り育てることは、何百億という資金を動かすビジネスよりも、はるかにやりがいのあることだと彼は本気で思っていた。 征也は陽向を抱えたままリビングへと戻り、ふかふかのラグの上にそっと下ろした。 「俺は少し本を読む。お前はそこのブロックで遊んでいろ」 ローテーブルに置かれた分厚い経済書を手に取り、ソファに深く腰を下ろす。 視界の端で、陽向がカラフルなプラスチック製のブロックに向かってよちよちと歩いていくのが見えた。 完璧な手はずだ。 何も難しいことはない。莉子は少し心配しすぎるのだ。 活字に目を落とし、思考を深い場所へ沈めようとした、その時だった。 シュッ。 背後から、微かな摩擦音が聞こえた。 シュッ、シュッ、シュッ。 一定のリズムで繰り返される、薄い紙が擦れ合うような音。 征也は本から目を離し、ゆっくりと振り返った。 「……なっ」 言葉を失った。 ソファの裏側に置かれていた、新品のボックスティッシュ。 その前に陣取った陽向が、小さな両手を交互に使い、猛烈なスピードでティッシュを引き抜いていたのだ。 白い紙が、まるで吹雪のように宙を舞い、ラグの上へと次々に降り積もっていく。
Last Updated : 2026-03-26 Read more