All Chapters of 没落令嬢の家政婦契約 ~冷酷CEOは、初恋を逃さない~: Chapter 311 - Chapter 320

334 Chapters

スピンオフ第23話:ママ友という未知の生態③

 公衆トイレの裏手。人目につかないブロック塀の陰。 私はそこに滑り込むなり、目の前に立つ巨大な黒い影のコートの胸ぐらを、両手でガシッと掴んだ。「何やってるのよ!!」 押し殺した、しかし最大限の怒りを込めた声。 私の手が掴んだ滑らかなカシミヤの生地の奥から、岩のように硬い胸板の感触がダイレクトに伝わってくる。「……声が大きい、莉子」 サングラスの奥から、ひどく低く、落ち着き払った声が降ってきた。 間違いない。天道征也だ。「会議はどうしたの! それに何よその格好! 完全に通報される一歩手前だったんだからね!」「会議は予定を変えさせた。ロンドン支社の通信回線の不具合という名目でな」「嘘ばっかり! どう見てもサボりじゃない!」「サボりではない。これは自分の目で安全を確かめるための、重要な任務だ」 征也は全く悪びれる様子もなく、レザーグローブに包まれた手で、スッとサングラスのブリッジを押し上げた。「俺の息子が、初めて見知らぬ人間の群れに放り込まれる日だ。周囲の人間関係や、危険な要素がないか、この目で直接確認しておく義務があるだろう」「だからって、木陰から監視する親がいるわけないでしょ! ストーカーよ、それ!」「ストーカーではない。俺の変装は完璧なはずだが」「完璧に浮いてたわよ! オーラが強すぎて鳩すら逃げてたじゃない!」 私が怒りで肩で息をしていると、胸元の抱っこ紐の中で、陽向が「あー?」と不思議そうに首を傾げた。 視線の先にいる黒ずくめの男が、自分の父親だと気づいているのかいないのか、陽向は小さなミトンに包まれた手を伸ばし、征也のコートの裾をペチペチと叩き始めた。 その途端、征也の口元がわずかに緩んだ。「陽向。……寒くないか。顔が冷たくなっているぞ」 先ほどまでの冷徹な声はどこへやら、急に甘く低い声に切り替わり、彼は黒い手袋を外すと、大きな素手で陽向のふっくらとした頬をそっと包み込んだ。 私の首筋にも、彼の長い指先がかすかに触れる。 外の冷気
Read more

スピンオフ第24話:ママ友という未知の生態④

「組織じゃないわよ! ただの世間話!」「それに、だ」 征也は私の抗議を完全に無視し、今度は砂場の方へと視線を移した。「あの砂場。野良猫の侵入を防ぐネットもなければ、定期的な清掃が行き届いているようにも見えない。どんな菌が潜んでいるか分かったものじゃない。さらに、ブランコの根元の金具には錆が浮いている。区の怠慢だ。あんな危険な環境の中で、陽向を遊ばせる気か?」「公園なんてそんなもんでしょ! 泥んこになって、転んで、そうやって強くなっていくんじゃない!」「俺の大事な子供に、そんな危険な真似をさせる必要はない」 征也は冷たく言い放つと、おもむろにコートの内ポケットから、黒いスマートフォンを取り出した。 画面をスワイプする親指の動きに、一切の迷いがない。「……何してるの?」「不動産部門の責任者に連絡を入れる」「は?」「この公園の土地の所有権は区にあるはずだ。今すぐ市長に話を通して、この一帯の土地を天道グループで買収する」「……え?」「周囲に高い防音の壁を設置して、入り口には指紋認証のゲートを付ける。砂場はすべて抗菌仕様の柔らかい素材に張り替え、遊具は一番頑丈な素材で作り直させる。屋根を付ければ、冬の寒さも防げる。……春には陽向専用の安全な遊び場が完成するはずだ」 彼は本気だった。 画面を見つめるその横顔には、冗談の欠片も、誇張の響きもない。 かつて、邪魔な企業を数日で解体し、街の地図を書き換えてきた男が、今、自分の息子の「公園デビュー」のためだけに、一つの公共施設を地図から消し去ろうとしている。「……やめなさい!!」 私は悲鳴のような声を上げ、彼の右腕に両手でしがみついた。 硬い。カシミヤのコートの下にある腕の筋肉が、鉄の棒のように微動だにしない。「離せ、莉子。これは必要な対策だ」「必要ない! 近所の子供たちが遊べなくなるでしょ! 犬の散歩のおじいちゃんとか、ゲートボールのおばあちゃんたちはどうするのよ!」
Read more

スピンオフ第25話:ママ友という未知の生態⑤

「……征也。お願いだから、深呼吸して」 息を切らしながら、私は彼を見上げた。 至近距離。サングラスの奥にある彼の瞳が、かすかに揺れているのがわかる。「陽向を見て」 私は彼の手を握ったまま、胸元の陽向へと視線を落とした。 陽向は、私たちが揉み合っていることなど意に介さず、ブロック塀の隙間から見える、他の子供たちが走り回る姿をじっと見つめていた。 楽しそうな笑い声。ボールが跳ねる音。 陽向は身を乗り出すようにして、自分もそこに行きたいと、短い腕をバタバタと動かしている。「……子供はね、無菌室みたいなところに閉じ込めちゃダメなの」 私の声は、冬の冷たい空気の中で、少しだけ白く濁って消えた。「泥だらけになって、知らない子とおもちゃの取り合いをして、泣いて、笑って……そうやって、普通の子供として育ってほしいの。あなたが、子供時代に持てなかったものを、全部この子にはあげたいのよ」「……」「だから、お願い。この公園は買わないで。ゲートもいらない」 沈黙が落ちた。 遠くで響く子供たちの歓声と、風が木々を揺らす音だけが、私たちの間をすり抜けていく。 征也は何も言わず、ただじっと、私の顔と、陽向の背中を交互に見つめていた。 彼の胸の奥で、強烈な保護欲と、私の言葉が激しくぶつかり合っているのが手にとるようにわかる。 彼にとって、「守る」ということは「すべてを管理して、危険を排除する」ことと同義だった。そうやって冷酷な世界を生き抜いてきた男に、手放して見守れと言うのは、あまりにも残酷な要求かもしれない。 それでも、私は譲るわけにはいかなかった。 やがて。 彼が、小さく、ひどく重いため息を吐き出した。 その吐息が、私の前髪をかすかに揺らす。「……お前には、勝てないな」 低い声の響きには、降伏のサインと、呆れるような諦めが混じっていた。 彼の手から力が抜け、スマートフ
Read more

スピンオフ第26話:ママ友という未知の生態⑥

 グローブを外した彼の手は、驚くほど熱かった。 まるで、冷え切った私の体温を、根こそぎ自分の熱で塗り替えてしまおうとするかのように、指先がこめかみから首筋へと滑り降りていく。「ちょ、ちょっと、征也。ここ外……っ」「誰からも見えない。完璧な死角だ」 言いながら、彼の親指が私の下唇を強引になぞる。 ざらりとした指の腹の摩擦が、電流のような痺れを生んで背筋を駆け上がる。「あの群れに戻る前に、お前が誰のものか、しっかり分からせておかないと気が済まない」 独占欲にまみれた、低い囁き。 抵抗する間もなく、彼の唇が落ちてくる。 冷たい空気の中で、そこだけが火傷しそうなほど熱かった。息を呑む隙間もなく塞がれ、少しだけ強引に唇をこじ開けられる。 彼の熱い舌が絡みつき、私の口内を執拗に蹂躙していく。 深い、息の詰まるようなキス。「ん……っ、んん……っ」 抱っこ紐を挟んで、彼の身体の重みが押し付けられる。 陽向が私たちの間で「うー?」と声を上げたが、彼は全く意に介さず、さらに顔の角度を変えて深く貪ってきた。 足の力が抜けそうになり、私は無意識に彼のコートの襟を強く握りしめた。 服越しに伝わってくる彼の胸板の硬さと、圧倒的な体温。 冬の寒空の下にいるはずなのに、私の身体は芯から熱く溶かされていく。彼の吐息が私の吐息と混ざり合い、頭の中が白く痺れていった。 どれくらい、そうしていただろうか。 酸欠で目の前がちかちかとし始めた頃、ようやく彼は名残惜しそうに唇を離した。 銀色の糸が、冬の光の中で微かに光って切れる。「……はぁっ……はぁ……」 私が肩で息をしていると、彼は私の真っ赤になった頬を満足げに見下ろし、鼻で小さく笑った。「これでいい。……三十分で切り上げて帰ってこい。一秒でも遅れたら、本当に市長に電話をかけるからな」
Read more

スピンオフ第27話:はじめての熱と大パニック①

 春の陽気が、厚手のカーテンの隙間から細い光の帯となって寝室の床に長く伸びている。 少しだけ開け放たれた窓の向こうからは、かすかに小鳥のさえずりと、遠くの道路を走る車の低いエンジン音が聞こえてくる。とても穏やかで、平和な朝の風景。 しかし、キングサイズのベッドの上に広がる空気は、春のそれとは程遠く、ひどく息苦しくて淀んだ熱を帯びていた。「……ふぇ、あーっ、あーっ……」 ぐずり声とも泣き声ともつかない、掠れた小さな音がシーツに吸い込まれる。 隣で寝ていた私は、その異常なリズムの浅い呼吸音に弾かれたように目を覚ました。 一歳を迎えたばかりの陽向は、普段ならこの時間はとっくに目を覚まし、ベッドの柵を掴んで立ち上がり、ニコニコと笑いながら私の髪を引っ張るのが日課だ。 だが、今朝は違った。 仰向けのまま、苦しそうに顔を真っ赤にして、小さな身体をよじらせている。「陽向?」 嫌な予感がして、パジャマの袖をまくり、小さな額に手のひらを当てた。 その瞬間、ビリッとした鋭い熱が皮膚を伝わってきた。 熱い。 ただの寝汗や、布団を被りすぎたせいではない。内側から燃えるような、異常な熱さだ。触れた手のひらがじんわりと汗ばむほど、陽向の全身が火の玉のように熱を持っていた。 慌ててナイトテーブルの引き出しを開け、電子体温計を取り出す。 陽向の小さな脇の下に差し込み、ピピッと鳴るまでの数十秒間。心臓が嫌な音を立てて早鐘を打ち、その時間が永遠のように長く感じられた。 短い電子音。 恐る恐る液晶画面を見ると、そこに表示された赤い数字は、「39.2」を示していた。「嘘……」 思わず息を呑む。 一歳になるまで、鼻水一つ垂らしたことのなかった陽向の、これが初めての発熱だった。 バスルームの方から、シャワーの止まる音がした。 少しして、湿気を帯びた空気と共に、ダークスーツのズボンと白いシャツだけを身につけた征也が寝室に入ってくる。 濡れた黒髪から水滴
Read more

スピンオフ第28話:はじめての熱と大パニック②

「……あ、俺だ。今すぐK総合病院の院長に繋げ。小児科の特別病棟を1フロア完全に空けさせろ。外部からの接触を一切断つんだ。それと、都内の小児感染症の権威をリストアップし、ヘリで迎えに行かせろ。三十分以内にチームを作れ!」「ちょっと!!」 私はベッドから飛び降り、彼の手からスマートフォンを強引に奪い取った。 通話口の向こうで、秘書が「社長!? ヘリの許可申請は……」と混乱している声が聞こえる。私は容赦なく赤い通話終了ボタンを押した。「何をやってるのよ! 病院を丸ごと貸し切る気!?」「貸し切るんじゃない、安全を確保するための一時的な措置だ! 陽向の命がかかっているんだぞ!」「かかってない! いいから、あなたはその無駄に響く大きな声のボリュームを下げなさい!」 私の怒鳴り声に、征也はびくっと肩を震わせた。 ベッドの上では、陽向が私たちの怒鳴り合いに驚いたのか、さらに大きな声で泣き始めている。「ほら、陽向が怖がってるじゃない。……いい? これはおそらく『突発性発疹』よ。一歳前後の赤ちゃんが初めてかかる、洗礼みたいなもの。三日くらい高熱が続くけど、それが終われば赤いブツブツが出て治るの」「突発性……? ただの熱だという確証はどこにある。もし得体の知れない病気だったらどうするつもりだ」「だから、かかりつけの小児科が九時に開くから、そこに行くの。ヘリも特別病棟もいらない。今一番必要なのは、熱を物理的に下げることと、水分補給よ」 私が早口でまくしたてると、彼はスマートフォンのない空っぽの右手を、どうしていいか分からないように宙で彷徨わせていた。 かつて、数千億円の資本を顔色一つ変えずに動かしていた男が、今はただの一歳児の熱を前にして、完全に思考が停止している。 その滑稽さと、不器用すぎる愛情に、私は小さくため息をつき、口調を少しだけ和らげた。「……いい? 征也。あなたにお願いがあるの。今すぐ動いて」「お願い……」
Read more

スピンオフ第29話:はじめての熱と大パニック③

 彼の手が小刻みに震えているのがわかる。「……押し付けすぎて痛がらないか。血流を止めてしまわないか」「大丈夫よ。そっと添えるだけでいいの。陽向が動いたら、また優しく当て直してあげて」「分かった」 彼はベッドサイドに膝をつき、真剣な眼差しで陽向の左脇に保冷剤を当てた。 冷たさに陽向が「びくっ」と身をよじり、不満げな声を漏らす。「う……あーっ」「冷たいな、すまない。だが、熱を下げるために少しだけ我慢してくれ」 ひどく低い、けれど優しい声で説得を試みる征也。 私は反対側から保冷剤を当てつつ、マグマグのストローを陽向の口元に運んだ。「ほら、陽向、お茶飲もう。喉乾いたでしょ」 陽向は最初は嫌がったが、熱で喉が渇いていたのか、ちゅうちゅうと少しずつ麦茶を飲み始めた。 嚥下するたびに、小さな喉が上下する。「……飲んでいるな」「ええ。水分さえ取れていれば、まずは一安心よ」「そうか……」 征也の肩から、ほんの少しだけ余計な力が抜けたのがわかった。 彼の長い指が、陽向の熱い額にかかった前髪を、そっと横へ流す。「熱いな。……本当に、大丈夫なのか」「小児科が開いたらすぐに連れて行くわ。今日は大事な会議があるって言ってたけど、どうするの?」「すべて白紙だ。連絡も入れない」 即答だった。「陽向がこんな状態で、会社の数字など頭に入るわけがない。今日の俺の予定は、このベッドの横から一歩も動かないことだ」「……そう。じゃあ、一緒に看病しましょう」 私はそれ以上何も言わず、彼の大きな手の甲に自分の手を重ねた。 シャツ越しに伝わる彼の体温も、緊張のせいで少し高くなっている気がした。 ◇ 数時間後。 午前中のうちに近所の小児科を受診し、医師から「突発性発疹の可能性が高いですね」と診断を受けた。
Read more

スピンオフ第30話:はじめての熱と大パニック④

 かつて、すべてを金と力で支配しようとしていた男。 自分の思い通りにならないものなど、この世に存在しないと信じていた男。 その彼が今、自分ではどうすることもできない「命の揺らぎ」を前にして、ひざまずいている。 私は立ち上がり、ベッドを迂回して彼の隣に歩み寄った。 カーペットの上に膝をつき、彼の広い背中にそっと手を添える。 シャツ越しの背中の筋肉が、硬く強張っているのが手のひらから伝わってくる。「……親なんて、みんな無力よ」 私は、彼の背中を一定のリズムでゆっくりと撫でた。「熱を代わってあげることもできないし、痛みを消してあげることもできない。ただ隣にいて、水分を取らせて、汗を拭いてあげることしかできないの。……でもね、征也」「……」「陽向は、あなたが隣にいてくれるだけで、安心しているわ」「……俺が、か」「ええ。さっきだって、あなたが保冷剤を当ててくれた時、少しだけ顔の力が抜けたでしょ? あなたの低い声と、大きな手の手応えが、陽向には一番の薬なのよ」 私の言葉に、征也は何も答えなかった。 ただ、彼の背中の強張りが、少しずつ解けていくのがわかった。 彼はシーツから手を離し、ゆっくりと振り返ると、そのまま私の肩に重い頭を預けてきた。「……っ」 不意の重みに、私が少し体勢を崩しそうになると、彼の太い腕が私の腰に回り、ぎゅっと引き寄せた。 首筋に、彼の熱い吐息がかかる。「……少しだけ、このままでいさせろ」「……うん」「……本当に、生きた心地がしなかった」 子供のような弱音。 私は彼の硬い髪の毛にそっと指を入れ、ゆっくりと梳いた。 少し湿った髪の感触。 微かなシトラスの香水と、汗の匂いが入り混じった、彼特有の匂い。 私にしか見せない、この無防備な
Read more

スピンオフ第31話:留守番パパの受難①

 どこからか漂ってくる金木犀の甘い香りが、少しだけ冷たさを帯び始めた秋の空気に溶け込んでいる。 玄関の土間に、真新しいベージュのパンプスが揃えられていた。 靴べらを使ってヒールに踵を滑り込ませると、コツンという硬い音が静かな空間に響く。 肩から掛けた小さめのレザーバッグのストラップを握り直し、私は目の前に立つ大きな男と、その足元でうろちょろしている小さな影を交互に見上げた。「……本当に、大丈夫よね?」「俺の対応能力を疑っているのか」 腕組みをして仁王立ちしている征也は、休日の定番であるダークグレーのニットに黒のチノパンという出で立ちだ。相変わらず無駄のない筋肉のシルエットが厚手の服の上からでもわかり、その整った顔立ちには「余裕」の二文字が張り付いている。 彼の足元では、一歳半になった陽向が、私のパンプスのつま先を不思議そうに指でツンツンと小突いていた。 歩き始めたばかりの不安定な足取りは、まるでゼンマイ仕掛けのペンギンのようだ。お尻にオムツの丸みを抱えながら、あっちへよろよろ、こっちへよろよろと、重力と戦いながら絶えず動き回っている。「疑ってるわけじゃないけど。……陽向、最近すごく動きが早くなったし、何でも口に入れちゃうから」「怪我をするようなものは、すべて手の届かない場所に隠した。テーブルの角にはシリコン製の緩衝材をつけてあるし、コンセントの穴には防護キャップをはめ込んである。危ないものは何一つ置いていない」 彼は淡々と、自らが施した安全対策を読み上げる。「それはそうだけど……お昼ご飯のうどんは、ちゃんと細かく刻んでね。長いままだと喉に詰まらせちゃうから。あと、眠くなったらぐずって泣き出すから、背中をゆっくりトントンして……」「同じことを何度も言うな。俺は記憶喪失ではない」 彼が手を伸ばし、私の少し肩にかかる毛先を長い指ですくった。 硬い指の腹が、首筋の素肌に微かに触れる。 ゾクッとした感覚が走り、私は思わず肩をすくめた。「お前はただ、その伸びた髪
Read more

スピンオフ第32話:留守番パパの受難②

「……じゃあ、お願いね。何かあったらすぐに電話して」「しない。俺が途中で投げ出すとでも思っているのか」「はいはい」 私は足元の陽向に向かってしゃがみ込み、そのふっくらとした頬を両手で優しく包み込んだ。「陽向、ママお出かけしてくるね。パパといい子でお留守番してるのよ」「あー!」 陽向は満面の笑みで、短い腕をぶんぶんと振り回した。私の言葉を完全に理解しているのかどうかは怪しいが、ご機嫌なことだけは確かだ。 後ろ髪を引かれる思いで立ち上がり、玄関の重いドアノブに手をかける。「行ってきます」「ああ」 ドアが閉まる直前、征也が陽向をひょいと軽々と抱き上げるのが見えた。 バタン、という音と共に、静かな秋の空気が私を包み込む。 少しだけひんやりとした風を深呼吸して、私は駅の方へと歩き出した。 ドアの向こう側の静寂が、こんなにも一瞬で打ち破られることになるとは、この時の征也は全く予想していなかったに違いない。 ◇ 莉子の足音が完全に遠ざかるのを確認し、征也は腕の中の陽向を見下ろした。 丸い顔、黒目がちな大きな瞳。 妻に似た柔らかい髪の毛が、秋の陽光を透かして茶色く光っている。「さて。男同士の時間の始まりだな」 低い声で語りかけると、陽向は「んあー」と気の抜けた声で応え、征也のニットの首元を小さな手でギュッと掴んだ。 愛おしさが胸の奥で静かに膨らむ。 この幼く未完成な命を守り育てることは、何百億という資金を動かすビジネスよりも、はるかにやりがいのあることだと彼は本気で思っていた。 征也は陽向を抱えたままリビングへと戻り、ふかふかのラグの上にそっと下ろした。「俺は少し本を読む。お前はそこのブロックで遊んでいろ」 ローテーブルに置かれた分厚い経済書を手に取り、ソファに深く腰を下ろす。 視界の端で、陽向がカラフルなプラスチック製のブロックに向かってよちよちと歩いていくのが見えた。 完璧な手はずだ。 何も難しいことはない。莉子は少し
Read more
PREV
1
...
293031323334
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status