All Chapters of 没落令嬢の家政婦契約 ~冷酷CEOは、初恋を逃さない~: Chapter 301 - Chapter 310

475 Chapters

家族編 第13話 はじめての離乳食

 私がキッチンへ向かうのを見届けると、マグカップを置き、そそくさと陽向の待つベビーベッドへと向かっていく。  キッチンのシンクに水を張り、特売のニンジンを丁寧に洗う。  冷たい水が指先を通り抜け、微かに土の匂いが立ち昇る。  ピーラーで皮を薄く剥き、輪切りにする。包丁がまな板を叩くトントンという音が、静かな秋の朝のキッチンに響いた。  小鍋に少量の水を沸かし、ニンジンを入れる。  コトコトという小さな沸騰音と共に、湯気が立ち上る。次第に、ニンジン特有の甘く優しい香りがキッチンに広がっていった。  指でつまんで、すっと崩れるくらいまで柔らかく煮る。  それを今度は、裏ごし器に乗せ、木べらを使って丁寧にすり潰していく。  ゴリッ、という微かな摩擦音。  最初は固形だったオレンジ色の塊が、網目を通って、滑らかなペースト状へと変わっていく。  ただの一さじ。ほんの小さじ一杯分の量を作るために、これほどの手間と時間をかける。  不思議と、苦ではなかった。  すり潰しているのは、ただの野菜ではない。陽向の身体を作り、成長させていくための「命の欠片」なのだと思うと、木べらを動かす手に自然と力が入る。 「……よし、こんなもんかな」  小鉢に、ほんの少しのお湯で伸ばした十倍粥と、鮮やかなオレンジ色のニンジンペーストを並べる。  温度を確かめるために、スプーンの先で少しだけすくい、自分の手の甲に落としてみた。  人肌より少し温かいくらい。完璧だ。  小鉢をお盆に乗せてダイニングへ向かうと、そこには異様な光景が広がっていた。  ダイニングテーブルの端に設置された、真新しい木製のベビーチェア。  そこに、首の周りにシリコン製の青いエプロンを着けられた陽向が、ちょこんと座っている。  ご機嫌な様子で、両手でテーブルの板をバシバシと叩きながら、よだれを垂らして笑っていた。  問題は、その横に立つ男だ。  征也は腕組みをしたまま、まるで重大な契約の署名を見届けるかのような鋭い眼差しで、陽向の口元をじっと監視している。 「……征也、そんなに睨みつけたら、陽向が緊張して食べなくなっちゃうわよ」 「睨んでなどいない。ただ、口への運び方は適切か、万が一喉に詰まらせた場合の応急処置に備えて、観察しているだけだ」 「大げさなのよ。ただのお粥とニンジンをすり潰
last updateLast Updated : 2026-03-21
Read more

家族編 第14話 はじめての離乳食

 スプーンの先が、下唇にそっと触れた。  一瞬の戸惑いの後、本能的に、小さく口を開けた。  スプーンを滑り込ませる。  上唇が下りてきて、お粥を口内に取り込んだ。  スプーンを引き抜くと、陽向の口元が、もぐもぐと不器用に動き始めた。  静寂。  エアコンの微かな稼働音だけが聞こえる中、私と征也は、食い入るように陽向の表情を見つめた。  陽向の眉間に、きゅっと小さなシワが寄る。  ミルクとは違う、初めての食感。初めての味。  頭の中で、必死に新しい情報を処理しているのがわかる。  数秒後。  陽向の顔が、ぱあっと明るくほころんだ。 「んーっ!」  両手をバタバタと振るわせ、もっとくれと言わんばかりに、スプーンに向かって前のめりになった。  口の端から、少しだけ白いお粥が垂れている。 「……嚥下したな。拒絶反応もない」  横で征也が、強張っていた肩の力を抜き、深く長い息を吐き出した。 「よかった。次はニンジンにしてみるね」  オレンジ色のペーストをすくい、再び陽向の口へと運ぶ。  今度は迷うことなく口を開け、ぱくりと食いついた。  ニンジン特有の甘みが口に広がったのか、先ほどよりもさらに嬉しそうに目を細め、足をバタつかせた。 「あー! うーっ!」 「美味しいの? よかったねえ、陽向」  小鉢のペーストを綺麗に拭い取るようにして食べさせ終えると、陽向は満足そうに口の周りをオレンジ色に染めて、ケラケラと笑った。  その無邪気な笑顔に、胸の奥がじんわりと温かくなる。  手間はかかったけれど、この笑顔が見られただけで、すべての苦労が報われたような気がした。  ふと、横にいる征也の気配が妙に静かなことに気がついた。  顔を向けると、彼は腕組みをしたまま、なぜかひどく不機嫌そうな、あるいはすねたような目で、陽向と私の手元を交互に見つめていた。 「……どうしたの?」 「……いや。何でもない」  低い声で短く答え、視線をふいっと窓の外へそらした。  その横顔には、かつての冷酷なCEOの面影はなく、おもちゃを取られた子供のような、微かなふてぶてしさが漂っている。 「何でもなくないでしょ。どうしたの、うまく食べられたのに」  尋ねても、彼はしばらく口を閉ざしていたが、やがて観念したようにため息をつき、こちらを向いた。 「…
last updateLast Updated : 2026-03-21
Read more

家族編 第15話 はじめての離乳食

「事実を述べているだけだ。俺の夕食の献立は常に完璧に計算されているが、俺の肉をあんな風に裏ごしして、スプーンで口まで運んでくれたことはないだろう」 「当たり前でしょ! あなたには立派な歯が生えてるんだから! 自分で噛んで飲み込みなさいよ!」 「咀嚼の問題ではない。俺に向ける手間の話をしているんだ」  真顔でとんでもないことを言い出す彼に、思わず吹き出してしまった。  笑い声を殺そうとするが、お腹の底からこみ上げてくるおかしさに、肩が震えて止まらない。  かつて、冷徹な決断で業界を牛耳ってきた男が、生後六ヶ月の自分の息子に向かって、百九十八円の特売ニンジンと手間の掛け方を巡って本気で張り合っているのだ。 「笑い事ではない。俺はお前が、あんな安物のニンジンのために何十分も時間をかけ、陽向にばかり意識を向けていることが……どうにも面白くない」 「はいはい、わかったから」  笑いをこらえきれないまま立ち上がり、彼の正面に立った。  そして、まだほんの少しだけペーストが残っていたスプーンをすくい上げ、彼の薄い唇の前に突きつけた。 「……何をしている」 「裏ごししたニンジン。食べるんでしょ?」  彼が眉をひそめて後退りしようとする。 「馬鹿なことを言うな。それは陽向の……」 「いいから、あーん」  強引にスプーンを押し付けると、彼は不本意そうに唇を開き、そのオレンジ色のペーストを口に含んだ。  彼の大きな口には、あまりにも少なすぎる量だ。  しかし彼は、そのわずかなペーストを真剣な顔で舌の上で転がし、やがてゆっくりと喉の奥へと飲み込んだ。 「……どう?」 「……味が薄い。塩分が完全に足りていない」 「赤ちゃんなんだから当たり前でしょ」  呆れてスプーンを引こうとすると、彼の大きな手がそっと私の手に重なった。  冷たい水で洗っていた指先とは違う、彼特有の、熱くて硬い手のひら。  私が逃げないのを確かめてから、彼は少しだけ距離を縮めた。  至近距離で、彼の黒い瞳が見下ろしてきた。 「だが……」  低い声が、耳元に落ちる。 「悪くない」  顔が近づき、唇の端に、ちゅっと軽い音を立ててキスを落とした。  ほんの一瞬の、羽が触れるような接触。  しかし、その後に残った彼の唇の熱と、微かに移ったニンジンの甘い匂いが、顔を一気に熱く
last updateLast Updated : 2026-03-22
Read more

家族編 第16話 ママ友

 肺の奥まで冷えるような冬の風が、公園のフェンス沿いに枯れ葉を転がしていた。  生後八か月の陽向を抱っこ紐に収め、私は砂場の近くにできた母親たちの輪へ足を踏み入れた。  会社の会議なら資料がある。家政婦の仕事なら汚れを見れば手順が分かる。けれど、「ママ友」というものには正解の一覧表がない。 「陽向くん、ずいぶん大きくなったね」  声をかけられ、私は少し遅れて笑った。 「はい。最近は何でも口に入れたがって……目が離せません」  それだけ言うと、隣の母親が「うちも」と笑った。別の人が夜泣きの話を始める。私は相槌を打ちながら、少しずつ肩の力が抜けていくのを感じた。  誰も、月島家の没落を聞かなかった。天道征也の妻として値踏みもしない。ただ、眠らない赤ん坊と離乳食と、昨日できなかったことが今日できた喜びを話している。  陽向が「あぶ」と声を上げ、近くの子が差し出した赤いボールへ手を伸ばした。 「借りてもいい?」  私が尋ねると、その子の母親が頷いた。  たったそれだけのやり取りなのに、胸の奥が妙に温かい。  ここには、私の知らなかった生活がある。  その時、陽向が私の肩越しへ顔を向け、急に満面の笑みを浮かべた。 「ぱ!」  誰かを見つけた時の声だった。  私は嫌な予感と一緒に、ゆっくり振り返った。  公園の外周道路に、一台だけ場違いな黒いセダンが停まっていた。  濃いスモークガラスの向こうに人影は見えない。けれど、私は知っている。あの車も、あの妙に整った停め方も。  スマートフォンを取り出して一行だけ送った。 『帰って』  十秒後。 『危険がないことを確認しているだけだ』  思わず額を押さえた。 『それを監視って言うの』  返信はない。  私は陽向を抱いたまま公園の外へ出た。車の後部ドアが開き、サングラスをかけた征也が、悪びれもせず降りてくる。 「変装の意味ある?」 「ある。誰も俺だと気づいていない」 「陽向は一秒で気づいたけど」  征也は息子を見た。陽向は嬉しそうに両手を伸ばしている。  その顔を見た征也の表情が、一瞬だけ緩んだ。 「……お前たちだけで来る必要があるのか」 「あるわ」  私は即答した。 「陽向には、パパとママ以外の世界も必要。私にも、あなたの妻じゃない時間が少しくらい必要なの」  征也
last updateLast Updated : 2026-03-22
Read more

家族編 第17話 公園を買う男

 その日の夜、食卓に一冊の分厚いファイルが置かれていた。  表紙には『児童公園安全性改善案』。  嫌な予感しかしない。 「征也くん」 「先に言っておくが、買収ではない」 「“ではない”ってことは、考えたのね?」  彼は黙った。  ファイルを開く。遊具の老朽化、照明の死角、横断歩道の視認性、防犯カメラの位置。専門業者が調査したらしい数字が几帳面に並んでいる。 「市へ寄付して全面改修する。管理人も常駐させる」 「公園を要塞にしないで」 「事故が起きてからでは遅い」 「そうね。でも、危険をゼロにすることと、子供が自分で危険を覚えることは別よ」  征也の指が止まった。  私は陽向の食べこぼした米粒を拾いながら続けた。 「転びそうなら見ている。転んだら助ける。でも、転ぶ前に全部の石をどかしていたら、陽向は自分の足元を見なくなるでしょう?」  征也は息子を見る。  陽向はスプーンを握り、皿の端にあるニンジンを必死に追いかけていた。 「……守ることと、閉じ込めることは違う、か」  その言葉を彼自身が口にしたことに、私は少し驚いた。 「うん」  長い沈黙のあと、征也はファイルを閉じた。 「危険箇所の改修だけ、市に提案する」 「それなら賛成」 「管理人は」 「増やさない」 「警備員は」 「増やさない」 「……交渉の余地がないな」 「あなたにだけは言われたくないわ」  陽向が何も分からず「ぱぱ」と笑い、征也は不満そうな顔のまま、その頭をそっと撫でた。  一週間後、私はまた同じ公園にいた。  征也の車はない。黒服のSPも見当たらない。  本当に約束を守ったらしい。  ママ友たちと話し、陽向を芝生に下ろす。小さな手が土に触れ、驚いたように指を開いた。そのまま草を掴み、転び、泣きそうな顔をして私を見上げる。  私はすぐには抱き上げなかった。 「大丈夫。立てるよ」  陽向は鼻をすすりながら、自分で両手をついて立ち上がった。  その瞬間、胸がいっぱいになる。  帰宅すると、玄関で征也が腕を組んで待っていた。 「三分遅い」 「時計見てたの?」 「見ていた」  呆れて靴を脱ぐ私の前で、彼は陽向の膝についた土を見つけた。  一瞬、顔が険しくなる。 「転んだのか」 「うん。でも、自分で立ったわ」  征也はしゃがみ
last updateLast Updated : 2026-03-23
Read more

家族編 第18話 はじめての発熱

 春の陽気が、厚手のカーテンの隙間から細い光の帯となって寝室の床に長く伸びている。  少しだけ開け放たれた窓の向こうからは、かすかに小鳥のさえずりと、遠くの道路を走る車の低いエンジン音が聞こえてくる。とても穏やかで、平和な朝の風景。  しかし、キングサイズのベッドの上に広がる空気は、春のそれとは程遠く、ひどく息苦しくて淀んだ熱を帯びていた。 「……ふぇ、あーっ、あーっ……」  ぐずり声とも泣き声ともつかない、掠れた小さな音がシーツに吸い込まれる。  隣で寝ていた私は、その異常なリズムの浅い呼吸音に弾かれたように目を覚ました。  一歳を迎えたばかりの陽向は、普段ならこの時間はとっくに目を覚まし、ベッドの柵を掴んで立ち上がり、ニコニコと笑いながら私の髪を引っ張るのが日課だ。  だが、今朝は違った。  仰向けのまま、苦しそうに顔を真っ赤にして、小さな身体をよじらせている。 「陽向?」  嫌な予感がして、パジャマの袖をまくり、小さな額に手のひらを当てた。  その瞬間、ビリッとした鋭い熱が皮膚を伝わってきた。  熱い。  ただの寝汗や、布団を被りすぎたせいではない。内側から燃えるような、異常な熱さだ。触れた手のひらがじんわりと汗ばむほど、陽向の全身が火の玉のように熱を持っていた。  慌ててナイトテーブルの引き出しを開け、電子体温計を取り出す。  陽向の小さな脇の下に差し込み、ピピッと鳴るまでの数十秒間。心臓が嫌な音を立てて早鐘を打ち、その時間が永遠のように長く感じられた。  短い電子音。  恐る恐る液晶画面を見ると、そこに表示された赤い数字は、「39.2」を示していた。 「嘘……」  思わず息を呑む。  一歳になるまで、鼻水一つ垂らしたことのなかった陽向の、これが初めての発熱だった。  バスルームの方から、シャワーの止まる音がした。  少しして、湿気を帯びた空気と共に、ダークスーツのズボンと白いシャツだけを身につけた征也が寝室に入ってくる。  濡れた黒髪から水滴が落ち、シャツの肩口を小さく染めている。彼は首元にタオルを掛けたまま、いつもと違うベッドの上の異変に気づき、ピタリと足を止めた。 「……どうした。起きる時間だが、様子がおかしいな」 「熱があるの。すごく高いわ」 「熱?」  征也の顔から、スッと表情が消え去った。
last updateLast Updated : 2026-03-23
Read more

家族編 第19話 はじめての発熱

「赤ちゃんの熱は急に上がるの! それに、いきなり救急車を呼ぶような状態じゃ……」 「……あ、俺だ。今すぐK総合病院の院長に繋げ。小児科の特別病棟を1フロア完全に空けさせろ。外部からの接触を一切断つんだ。それと、都内の小児感染症の権威をリストアップし、ヘリで迎えに行かせろ。三十分以内にチームを作れ!」 「ちょっと!!」  私はベッドから飛び降り、彼の手からスマートフォンを強引に奪い取った。  通話口の向こうで、秘書が「社長!? ヘリの許可申請は……」と混乱している声が聞こえる。私は容赦なく赤い通話終了ボタンを押した。 「何をやってるのよ! 病院を丸ごと貸し切る気!?」 「貸し切るんじゃない、安全を確保するための一時的な措置だ! 陽向の命がかかっているんだぞ!」 「かかってない! いいから、あなたはその無駄に響く大きな声のボリュームを下げなさい!」  私の怒鳴り声に、征也はびくっと肩を震わせた。  ベッドの上では、陽向が私たちの怒鳴り合いに驚いたのか、さらに大きな声で泣き始めている。 「ほら、陽向が怖がってるじゃない。……いい? これはおそらく『突発性発疹』よ。一歳前後の赤ちゃんが初めてかかる、洗礼みたいなもの。三日くらい高熱が続くけど、それが終われば赤いブツブツが出て治るの」 「突発性……? ただの熱だという確証はどこにある。もし得体の知れない病気だったらどうするつもりだ」 「だから、かかりつけの小児科が九時に開くから、そこに行くの。ヘリも特別病棟もいらない。今一番必要なのは、熱を物理的に下げることと、水分補給よ」  私が早口でまくしたてると、彼はスマートフォンのない空っぽの右手を、どうしていいか分からないように宙で彷徨わせていた。  かつて、数千億円の資本を顔色一つ変えずに動かしていた男が、今はただの一歳児の熱を前にして、完全に思考が停止している。  その滑稽さと、不器用すぎる愛情に、私は小さくため息をつき、口調を少しだけ和らげた。 「……いい? 征也。あなたにお願いがあるの。今すぐ動いて」 「お願い……」 「そう。今すぐキッチンに行って、冷凍庫から小さな保冷剤を四つ持ってきて。あと、フェイスタオルを四枚。それから、麦茶を常温で薄めたものをマグマグに入れてきて」  具体的な役割を与えられたことで、征也の顔に少しだけ理性の光が戻っ
last updateLast Updated : 2026-03-24
Read more

家族編 第20話 はじめての発熱

「脇の下と、足の付け根……」 「そう。私が右側をやるから、あなたは左側をお願い」  征也はゴクリと唾を飲み込み、手渡されたタオル巻きの保冷剤を、まるで割れ物でも受け取るかのように両手で慎重に受け取った。  彼の手が小刻みに震えているのがわかる。 「……押し付けすぎて痛がらないか。血流を止めてしまわないか」 「大丈夫よ。そっと添えるだけでいいの。陽向が動いたら、また優しく当て直してあげて」 「分かった」  彼はベッドサイドに膝をつき、真剣な眼差しで陽向の左脇に保冷剤を当てた。  冷たさに陽向が「びくっ」と身をよじり、不満げな声を漏らす。 「う……あーっ」 「冷たいな、すまない。だが、熱を下げるために少しだけ我慢してくれ」  ひどく低い、けれど優しい声で説得を試みる征也。  私は反対側から保冷剤を当てつつ、マグマグのストローを陽向の口元に運んだ。 「ほら、陽向、お茶飲もう。喉乾いたでしょ」  陽向は最初は嫌がったが、熱で喉が渇いていたのか、ちゅうちゅうと少しずつ麦茶を飲み始めた。  嚥下するたびに、小さな喉が上下する。 「……飲んでいるな」 「ええ。水分さえ取れていれば、まずは一安心よ」 「そうか……」  征也の肩から、ほんの少しだけ余計な力が抜けたのがわかった。  彼の長い指が、陽向の熱い額にかかった前髪を、そっと横へ流す。 「熱いな。……本当に、大丈夫なのか」 「小児科が開いたらすぐに連れて行くわ。今日は大事な会議があるって言ってたけど、どうするの?」 「すべて白紙だ。連絡も入れない」  即答だった。 「陽向がこんな状態で、会社の数字など頭に入るわけがない。今日の俺の予定は、このベッドの横から一歩も動かないことだ」 「……そう。じゃあ、一緒に看病しましょう」  私はそれ以上何も言わず、彼の大きな手の甲に自分の手を重ねた。  シャツ越しに伝わる彼の体温も、緊張のせいで少し高くなっている気がした。◇ 数時間後。  午前中のうちに近所の小児科を受診し、医師から「突発性発疹の可能性が高いですね」と診断を受けた。  解熱剤の座薬と、水分補給の指示を受けて帰宅した頃には、太陽はすっかり高い位置に昇っていた。  陽向は座薬が効いてきたのか、熱が三十八度台に下がり、少しだけ呼吸も落ち着いて、今はベッドの真ん中でスース
last updateLast Updated : 2026-03-24
Read more

家族編 第21話 はじめての発熱

「金を使えば、最高の医者も、最新の設備も手に入る。力を使えば、大抵の人間は思い通りに動かせる。……だが、俺の力では、陽向の体温をたった一度下げることすらできない。あの小さな身体が熱に焼かれているのを、ただ横で見ていることしかできなかった。……それが、どれほど恐ろしいことか」  彼の手が、シーツを握りしめたままかすかに震えている。  かつて、すべてを金と力で支配しようとしていた男。  自分の思い通りにならないものなど、この世に存在しないと信じていた男。  その彼が今、自分ではどうすることもできない「命の揺らぎ」を前にして、ひざまずいている。  私は立ち上がり、ベッドを迂回して彼の隣に歩み寄った。  カーペットの上に膝をつき、彼の広い背中にそっと手を添える。  シャツ越しの背中の筋肉が、硬く強張っているのが手のひらから伝わってくる。 「……親なんて、みんな無力よ」  私は、彼の背中を一定のリズムでゆっくりと撫でた。 「熱を代わってあげることもできないし、痛みを消してあげることもできない。ただ隣にいて、水分を取らせて、汗を拭いてあげることしかできないの。……でもね、征也」 「……」 「陽向は、あなたが隣にいてくれるだけで、安心しているわ」 「……俺が、か」 「ええ。さっきだって、あなたが保冷剤を当ててくれた時、少しだけ顔の力が抜けたでしょ? あなたの低い声と、大きな手の手応えが、陽向には一番の薬なのよ」  私の言葉に、征也は何も答えなかった。  ただ、彼の背中の強張りが、少しずつ解けていくのがわかった。  彼はシーツから手を離し、ゆっくりと振り返ると、そのまま私の肩に重い頭を預けてきた。 「……っ」  不意の重みに、私が少し体勢を崩しそうになると、彼の太い腕が私の腰に回り、ぎゅっと引き寄せた。  首筋に、彼の熱い吐息がかかる。 「……少しだけ、このままでいさせろ」 「……うん」 「……本当に、生きた心地がしなかった」  子供のような弱音。  私は彼の硬い髪の毛にそっと指を入れ、ゆっくりと梳いた。  少し湿った髪の感触。  微かなシトラスの香水と、汗の匂いが入り混じった、彼特有の匂い。  私にしか見せない、この無防備な重みが、どうしようもなく愛おしかった。  私たちはそのまま、言葉を交わすことなく、陽向の規則正しい寝
last updateLast Updated : 2026-03-25
Read more

家族編 第22話 留守番パパ

 どこからか漂ってくる金木犀の甘い香りが、少しだけ冷たさを帯び始めた秋の空気に溶け込んでいる。  玄関の土間に、真新しいベージュのパンプスが揃えられていた。  靴べらを使ってヒールに踵を滑り込ませると、コツンという硬い音が静かな空間に響く。  肩から掛けた小さめのレザーバッグのストラップを握り直し、私は目の前に立つ大きな男と、その足元でうろちょろしている小さな影を交互に見上げた。 「……本当に、大丈夫よね?」 「俺の対応能力を疑っているのか」  腕組みをして仁王立ちしている征也は、休日の定番であるダークグレーのニットに黒のチノパンという出で立ちだ。相変わらず無駄のない筋肉のシルエットが厚手の服の上からでもわかり、その整った顔立ちには「余裕」の二文字が張り付いている。  彼の足元では、一歳半になった陽向が、私のパンプスのつま先を不思議そうに指でツンツンと小突いていた。  歩き始めたばかりの不安定な足取りは、まるでゼンマイ仕掛けのペンギンのようだ。お尻にオムツの丸みを抱えながら、あっちへよろよろ、こっちへよろよろと、重力と戦いながら絶えず動き回っている。 「疑ってるわけじゃないけど。……陽向、最近すごく動きが早くなったし、何でも口に入れちゃうから」 「怪我をするようなものは、すべて手の届かない場所に隠した。テーブルの角にはシリコン製の緩衝材をつけてあるし、コンセントの穴には防護キャップをはめ込んである。危ないものは何一つ置いていない」  彼は淡々と、自らが施した安全対策を読み上げる。 「それはそうだけど……お昼ご飯のうどんは、ちゃんと細かく刻んでね。長いままだと喉に詰まらせちゃうから。あと、眠くなったらぐずって泣き出すから、背中をゆっくりトントンして……」 「同じことを何度も言うな。俺は記憶喪失ではない」  彼が手を伸ばし、私の少し肩にかかる毛先を長い指ですくった。  硬い指の腹が、首筋の素肌に微かに触れる。  ゾクッとした感覚が走り、私は思わず肩をすくめた。 「お前はただ、その伸びた髪を切り、パーマなりカラーなり、好きに自分の時間を過ごしてくればいい」 「……好きにって。美容院くらい、たまにはゆっくり行きたいのよ」 「だから行けと言っている。半日だろうが一日だろうが、心ゆくまで満喫してこい」  彼の指が髪から離れ、ぽん、と私の肩
last updateLast Updated : 2026-03-25
Read more
PREV
1
...
2930313233
...
48
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status