All Chapters of 没落令嬢の家政婦契約 ~冷酷CEOは、初恋を逃さない~: Chapter 301 - Chapter 310

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スピンオフ第13話:夜泣きと不器用な子守唄⑤

 数秒間の、永遠にも感じられる緊迫した沈黙。 陽向は身じろぎ一つせず、スースーと規則正しい寝息を立て続けたままだ。 ミッション完了。 征也が大きく、音を立てないように長い息を吐き出した。 彼が振り返り、私の寝ているベッドの方へと歩み寄ってくる。 カーペットを踏む音すらない。 ベッドの縁が沈み込み、彼が私の隣に潜り込んできた。 熱い。 彼が布団に入ってきた瞬間、むわっとした熱気が伝わってくる。 Tシャツ越しに触れた彼の腕は、体温が上がり、うっすらと汗ばんでいた。たった五分ほどの抱っこで、彼は全身の筋肉を使い切り、極限の緊張状態を乗り越えたのだ。「お疲れ様。……名プレゼンだったわよ」 私が小声でからかうように囁くと、彼は私の腰に太い腕を回し、強引に身体を引き寄せてきた。「俺は本気で語りかけただけだ。笑い事ではない」「ふふっ、大真面目な顔で赤ちゃんに説教するんだもの。でも、本当に泣き止むなんてすごいわね」「低い一定の周波数と、胸の振動が安心感を与えたのだろう。結果が全てだ」 彼の低い声が、私の耳元をくすぐる。 暗闇の中で、彼の鼻先が私の首筋に触れた。微かな汗の匂いと、彼特有の清潔なシトラスの香りが混じり合い、鼻腔を満たす。 先ほどまでの緊張が嘘のように、彼自身の筋肉も柔らかくほぐれているのがわかった。「……少しは休めそうか?」「うん。あなたのあの声を聞いてたら、私もすごく眠くなってきた」「ならば、俺の報酬はどうなる」「報酬?」「深夜の特別手当だ」 彼の手が、私の背中から腰へと滑り落ち、薄いパジャマ越しに肌の起伏をなぞる。 その手のひらの熱さに、思わず身体がびくっと反応した。 まさか。こんなに疲れているのに。でも、陽向を寝かしつけてくれた彼を無下に突き放すこともできない。「ば、ばか。陽向が起きるでしょ。それにあなたも明日仕事なんだから……」「起きない。一度深く眠ればしばらくは覚醒しないだろう。それに、俺はまだ体力は残っている」 彼が私の肩口に手をかけ、ぐいっと押し倒すような形で、私をうつ伏せに
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スピンオフ第14話:夜泣きと不器用な子守唄⑥

「……特別手当って……」「お前の身体のメンテナンスだ。俺の所有物がボロボロのままでは困るからな」 少しだけ意地悪く、しかしどこか照れ隠しのような響きを帯びた声が上から降ってくる。「んっ……そこ、すごく張ってて……」「ああ、指が弾き返されそうだ。一日中、七キロ近い重りを抱えていれば当然だがな」 彼の親指が、今度は肩から首筋にかけての凝りをゆっくりとほぐしていく。 じんわりと温かい手のひらが肌を滑るたびに、背中に溜まっていた鉛のような疲労が、少しずつ外へと押し流されていくのがわかった。 ただの指圧ではない。 直接肌に触れる彼の指の腹の少しだけざらついた感触、私の呼吸に合わせてゆっくりと力を込めてくる絶妙なタイミング。 それがどうしようもなく心地よくて、同時に、ひどく甘やかな痺れを誘った。「……っ、ふぁ……」 思わず、情けない吐息が漏れてしまう。「……ずいぶん可愛い声を出すな。俺がただマッサージをしているだけだというのに」「うるさい……あなたが、上手いから……」「そうか。ならば、もっと徹底的にほぐしてやる」 彼の手が背中から腰へと下がり、パジャマのズボンの上から、骨盤の周りの硬くなった筋肉を手のひら全体で円を描くように揉みほぐす。 大きく、力強いストローク。 押し付けられる彼の膝の感触と、リズミカルに揺れるベッドのスプリングの音。 疲労で麻痺していた身体に、彼が直接、熱と血液を送り込んでくれているようだった。 さっきまでの緊張や、夜泣きの焦りが嘘のように消えていく。「……ねえ、征也」 シーツに顔を押し付けたまま、ぽつりと呟いた。「なんだ」「……ありがとう」 手が止まった。 ほんの数秒の沈黙の後、彼の手のひらが、私の腰のあたりを温めるように、ただじっと置かれた。「……礼を言われるようなことはしていない」 彼の低い声が、すぐ耳元に落ちてきた。 彼が上体を伏せ、私の背中にそっと自分の胸板を預けてきたのだ。 背中越しに伝わる、彼の心臓の音。 ドクン、ドクンという一定のリズムが、私
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スピンオフ第15話:過保護すぎる離乳食①

 網戸を通り抜けてくる風が、かすかに乾いた落ち葉の匂いを運んできた。 夏の間、けたたましく鳴り響いていた蝉の声はいつの間にか遠ざかり、代わりに高く澄んだ秋の空が窓枠いっぱいに広がっている。 フローリングを歩く足裏に伝わる温度も、ほんの少しだけ冷たさを帯びるようになっていた。 生後六ヶ月。 季節が一つ巡り、私たちの生活もまた新しいフェーズへと移行しようとしている。 その象徴とも言える一大イベントが、今日の午前中に予定されていた。 ――離乳食の開始。 ミルク以外のものを初めて口にする、記念すべき第一歩だ。 準備のためにキッチンへ向かおうとした私の耳に、インターホンの電子音が鳴り響いた。 モニターを確認すると、見覚えのある宅配業者の制服を着た男性が、なぜか台車を押して立っている。画面越しでもわかるほど、その表情には困惑と疲労が滲んでいた。「はい」『あ、天道様のお宅でよろしかったでしょうか。お荷物のお届けに上がりました』「荷物……? はい、今開けます」 玄関の重い扉を開けると、ひんやりとした秋の空気がどっと流れ込んできた。 しかし、視線を釘付けにしたのは季節の変化などではなく、玄関ポーチを占拠している巨大な物体だった。 木箱。 それも、高級なビンテージワインでも入っていそうな重厚な作りの木製のクレートが、縦に三つも積み上げられている。表面には見慣れないアルファベットの羅列と、何かの紋章のような焼印が押されていた。「あの、これは……」「私共も少し驚きまして。海外からの空輸便で、冷蔵指定の生鮮食品となっております。サインをお願いできますでしょうか」 配達員から受け取った端末にタッチペンでサインをしながら、伝票の「品名」欄を盗み見た。『オーガニック指定農園・特別栽培野菜セット(スイス産・フランス産混合)』 嫌な予感しかしない。 重い木箱をどうにか玄関の土間に入れ込み、一番上の箱の留め具を外す。 パカッという音と共に蓋を開けると、ふわりと、湿った黒土
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スピンオフ第16話:過保護すぎる離乳食②

 休日のため、ダークネイビーのルームウェアというラフな格好だが、その長身と無駄のない筋肉が発する威圧感は相変わらずだ。片手には、淹れたてのブラックコーヒーが入ったマグカップが握られている。「どうした、莉子。朝からそんなに声を張って。陽向が驚く」「驚くのはこっちよ! 何これ、この木箱の山は!」 玄関の惨状を指差すと、彼は涼しい顔でコーヒーを一口飲み、木箱を一瞥した。「ああ、届いたか。税関で手間取ったと報告があったが、予定時刻通りだな」「予定時刻通り、じゃないわよ。これ、どう見ても野菜よね。しかも空輸って」「当然だろう」 征也はマグカップを持たない方の手で、私の頭をポンと撫でた。「今日から、陽向の小さな胃袋に、初めてミルク以外のものが入るんだぞ。陽向の身体は、まだ外の世界の汚れを何一つ知らない、無垢な状態だ。そこに初めて入れるものが、農薬や化学肥料まみれの安物であっていいはずがない」「安物って……ただのお野菜でしょ」「スイスの標高一千メートルに位置する契約農家から、土壌のpH値まで細かく指定して栽培させた。空輸の際の温度管理も一分単位で報告させている。陽向の初めての食事にふさわしい、完璧な素材だ」 彼は誇らしげに胸を張り、木箱の中のニンジンを愛おしそうに見つめている。 私は呆れてため息をつき、彼の手から逃れるように一歩下がった。「あのねえ、征也。陽向を大事に思う気持ちはわかるけど、やりすぎよ」「やりすぎ? 親としての当然の危機管理だろう。出所不明のものを、我が家の後継者の体内に入れるわけにはいかない」「出所不明って……」 エプロンのポケットから、昨日の夕方に買ってきたスーパーのレジ袋を取り出した。 中から、ビニール袋に入った三本入りのニンジンを取り出し、彼の目の前に突きつける。「これ、昨日駅前のスーパーの特売で買ったニンジンよ。千葉県産。百九十八円。出所、ばっちり書いてあるわ」 征也の眉間が、ぴくりと動いた。 その視線が、手の中にある少し不格好な泥付きニンジンと、木箱の中の
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スピンオフ第17話:過保護すぎる離乳食③

「大人の俺なら構わない。俺の身体は既に社会の荒波に晒されて慣れているが、陽向は違う」 言い合いになりかけたその時、リビングの奥から「あーっ、うーっ」という元気な声が聞こえてきた。 陽向が目を覚ましたらしい。 その声を聞いた瞬間、征也の表情から険しさがスッと消え、代わりにあの「不器用な父親」の甘い顔が浮かび上がった。「……起きたか」「ほら、行くわよ。とりあえず、この木箱の野菜は私とあなたが後で美味しくいただきます。陽向の最初のご飯は、この千葉県産ニンジンで作るからね」「待て、莉子。せめて半分だけでもスイス産をブレンドしては……」「却下。離乳食の基本は、身近にある旬のものを、少しずつ慣らしていくことなの。スイスの高山植物みたいなのばかり食べさせてたら、将来、普通の給食が食べられなくなるわよ」 ビシッと言い放つと、彼は不満そうに唇を引き結んだが、それ以上は反論してこなかった。 私がキッチンへ向かうのを見届けると、マグカップを置き、そそくさと陽向の待つベビーベッドへと向かっていく。 キッチンのシンクに水を張り、特売のニンジンを丁寧に洗う。 冷たい水が指先を通り抜け、微かに土の匂いが立ち昇る。 ピーラーで皮を薄く剥き、輪切りにする。包丁がまな板を叩くトントンという音が、静かな秋の朝のキッチンに響いた。 小鍋に少量の水を沸かし、ニンジンを入れる。 コトコトという小さな沸騰音と共に、湯気が立ち上る。次第に、ニンジン特有の甘く優しい香りがキッチンに広がっていった。 指でつまんで、すっと崩れるくらいまで柔らかく煮る。 それを今度は、裏ごし器に乗せ、木べらを使って丁寧にすり潰していく。 ゴリッ、という微かな摩擦音。 最初は固形だったオレンジ色の塊が、網目を通って、滑らかなペースト状へと変わっていく。 ただの一さじ。ほんの小さじ一杯分の量を作るために、これほどの手間と時間をかける。 不思議と、苦ではなかった。 すり潰しているのは、ただの野菜ではない。陽向の身体を作り、成長させてい
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スピンオフ第18話:過保護すぎる離乳食④

 そこに、首の周りにシリコン製の青いエプロンを着けられた陽向が、ちょこんと座っている。 ご機嫌な様子で、両手でテーブルの板をバシバシと叩きながら、よだれを垂らして笑っていた。 問題は、その横に立つ男だ。 征也は腕組みをしたまま、まるで重大な契約の署名を見届けるかのような鋭い眼差しで、陽向の口元をじっと監視している。「……征也、そんなに睨みつけたら、陽向が緊張して食べなくなっちゃうわよ」「睨んでなどいない。ただ、口への運び方は適切か、万が一喉に詰まらせた場合の応急処置に備えて、観察しているだけだ」「大げさなのよ。ただのお粥とニンジンをすり潰したものよ」 ため息をつきながらベビーチェアの正面に座ると、陽向が「あー!」と声を上げ、短い腕をこちらへ伸ばしてきた。 その視線は、私の顔ではなく、手元にある小鉢に釘付けになっている。「陽向、今日からご飯よ。美味しいかな?」 小さく笑いかけながら、子供用のプラスチック製の小さなスプーンを手に取った。 ほんの少し、米粒の半分ほどの量のお粥をすくう。 征也が、すぐ横で息を止めたのがわかった。 彼の広い背中がガチガチに緊張し、テーブルの縁を握る手は関節が白くなっている。「……温度は。熱すぎて火傷しないだろうな」「手の甲で確認したわよ。ほら、静かにしてて」 スプーンをゆっくりと、陽向の小さな唇へと近づけていく。 初めて見る物体に、陽向は目を丸くして不思議そうに見つめている。 スプーンの先が、下唇にそっと触れた。 一瞬の戸惑いの後、本能的に、小さく口を開けた。 スプーンを滑り込ませる。 上唇が下りてきて、お粥を口内に取り込んだ。 スプーンを引き抜くと、陽向の口元が、もぐもぐと不器用に動き始めた。 静寂。 エアコンの微かな稼働音だけが聞こえる中、私と征也は、食い入るように陽向の表情を見つめた。 陽向の眉間に、きゅっと小さなシワが寄る。 ミルクとは違う、初めての食感。初めての味。
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スピンオフ第19話:過保護すぎる離乳食⑤

 ニンジン特有の甘みが口に広がったのか、先ほどよりもさらに嬉しそうに目を細め、足をバタつかせた。「あー! うーっ!」「美味しいの? よかったねえ、陽向」 小鉢のペーストを綺麗に拭い取るようにして食べさせ終えると、陽向は満足そうに口の周りをオレンジ色に染めて、ケラケラと笑った。 その無邪気な笑顔に、胸の奥がじんわりと温かくなる。 手間はかかったけれど、この笑顔が見られただけで、すべての苦労が報われたような気がした。 ふと、横にいる征也の気配が妙に静かなことに気がついた。 顔を向けると、彼は腕組みをしたまま、なぜかひどく不機嫌そうな、あるいはすねたような目で、陽向と私の手元を交互に見つめていた。「……どうしたの?」「……いや。何でもない」 低い声で短く答え、視線をふいっと窓の外へそらした。 その横顔には、かつての冷酷なCEOの面影はなく、おもちゃを取られた子供のような、微かなふてぶてしさが漂っている。「何でもなくないでしょ。どうしたの、うまく食べられたのに」 尋ねても、彼はしばらく口を閉ざしていたが、やがて観念したようにため息をつき、こちらを向いた。「……陽向のやつ、俺がわざわざスイスから取り寄せた一箱三万円のニンジンには見向きもせず、お前がスーパーで買ってきた百九十八円のニンジンを、あんなに嬉しそうに食べている」「見向きもせずって、スイスのニンジンはまだ箱の中なんだから当たり前でしょ」「それに……」 征也の視線が、手に持っている小さなスプーンと、空になった小鉢へと落ちた。「お前は、さっきから三十分近くもかけて、あのオレンジ色の根菜を丁寧に煮込み、裏ごしし、温度を測り、愛情のすべてを注ぎ込んでいた。俺には、あそこまで手間をかけた料理を作ってくれたことなど、一度もないというのに」 自分が今どんな顔をしているのかわからなかった。 瞬きを二、三回繰り返す。「……えっと。もしかして、嫉妬
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スピンオフ第20話:過保護すぎる離乳食⑥

「笑い事ではない。俺はお前が、あんな安物のニンジンのために何十分も時間をかけ、陽向にばかり意識を向けていることが……どうにも面白くない」「はいはい、わかったから」 笑いをこらえきれないまま立ち上がり、彼の正面に立った。 そして、まだほんの少しだけペーストが残っていたスプーンをすくい上げ、彼の薄い唇の前に突きつけた。「……何をしている」「裏ごししたニンジン。食べるんでしょ?」 彼が眉をひそめて後退りしようとする。「馬鹿なことを言うな。それは陽向の……」「いいから、あーん」 強引にスプーンを押し付けると、彼は不本意そうに唇を開き、そのオレンジ色のペーストを口に含んだ。 彼の大きな口には、あまりにも少なすぎる量だ。 しかし彼は、そのわずかなペーストを真剣な顔で舌の上で転がし、やがてゆっくりと喉の奥へと飲み込んだ。「……どう?」「……味が薄い。塩分が完全に足りていない」「赤ちゃんなんだから当たり前でしょ」 呆れてスプーンを引こうとしたが、その手首を、彼の大きな手がガシッと掴んだ。 冷たい水で洗っていた指先とは違う、彼特有の、熱くて硬い手のひら。 そのまま引き寄せられ、彼の広い胸板にぶつかりそうになる。 至近距離で、彼の黒い瞳が見下ろしてきた。「だが……」 低い声が、耳元に落ちる。「悪くない」 顔が近づき、唇の端に、ちゅっと軽い音を立ててキスを落とした。 ほんの一瞬の、羽が触れるような接触。 しかし、その後に残った彼の唇の熱と、微かに移ったニンジンの甘い匂いが、顔を一気に熱くさせた。「ば、ばか。陽向が見てるでしょ」「見させておけばいい。俺の方が、ずっと前からお前を独占しているのだと、今のうちから教えておく必要がある」 子供じみた独占欲を隠そうともしない彼の言葉に、顔を真っ赤にして彼を睨み
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スピンオフ第21話:ママ友という未知の生態①

 肺の奥まで一瞬で凍りつくような、鋭く冷たい冬の風が吹き抜けた。 公園の隅のフェンスに吹き寄せられた枯れ葉が、カサカサと乾いた音を立ててアスファルトの上を転がっていく。 巻いていたマフラーの隙間から入り込む冷気に思わず首をすくめながら、私は肩に深く食い込む抱っこ紐の重みを、両手で少しだけ上に持ち上げた。 生後八ヶ月。 陽向の体重はすでに九キロ近くに達している。その上、モコモコとしたクマの耳がついた分厚い防寒着を着せているせいで、私の胸にピタリとしがみつくその物体は、もはや立派な米俵のような存在感を放っていた。 ズッ、と抱っこ紐の太いベルトが肩口で擦れる音がする。 重い。物理的にもずっしりと重いが、今の私には、それ以上に背中へのしかかっている見えないプレッシャーがあった。 目の前に広がる、色とりどりのダウンジャケットの群れ。 ――ママ友の輪、である。「それでね、うちの主人が急に『離乳食の作り置きに挑戦する』とか言い出して。キッチンがもう粉まみれで大惨事になっちゃって!」「わかるー! 男の人って変に凝るから、結局後片付けが大変なのよねえ。あ、月島さんのところはどうですか?」「えっ」 突然話を振られ、私の肩がびくっと不自然に跳ねた。 ベージュのキルティングコートを着た、リーダー格らしき女性の視線が、私の顔に真っ直ぐに突き刺さる。その周囲に丸く集まっている三人の母親たちも、一斉にこちらへ興味深げな瞳を向けた。 公園デビュー。 それは、子供に同世代との関わりを持たせるための重要な第一歩であり、親にとっては高度な外交術を要求される戦場だ。没落令嬢として裏社会に近い場所で家政婦として這いずり回ってきた私にとって、この「平和で平均的な日常の会話」というものは、銃弾が飛び交う場所よりもはるかに難易度が高く、息が詰まる。「あ……えっと、うちは……主人が、その、少しばかりこだわりが強い人で……」 ひきつった笑みを浮かべながら、私は頭の中で必死に言葉を選んだ。 特売のニンジンをめぐってスイ
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スピンオフ第22話:ママ友という未知の生態②

 背筋を、ゾクリと冷たいものが撫で上げた。 冬の寒風の冷たさとは全く違う。 もっと重く、ねっとりとした、明確な「殺気」にも似た視線。 私は反射的に息を止め、視線を足元の砂場から、公園の周囲を取り囲む植え込みの方へと巡らせた。 滑り台。ブランコ。鉄棒。 そして、公園の南側にそびえ立つ、巨大なイチョウの木の陰。 そこだけ、空間の歪みが生じているかのような異様なオーラが漂っていた。 枯れ枝ばかりになった薄暗い木陰に、一人の男が直立不動で立っている。 黒のロングコートに、目深に被った黒のキャップ。さらに、冬の分厚い曇り空だというのに、顔の半分を覆い隠すような漆黒のサングラスを装着している。 一見すれば、不審者そのものだ。 しかし、そのシルエットには、その辺の変質者には決して出せない異質な「高級感」がまとわりついていた。 風に揺れるコートの裾は、一目で最高級カシミヤだとわかる滑らかな光沢を放ち、キャップのつばの下から覗く骨格のラインは彫刻のように美しい。ポケットに突っ込まれた手は黒のレザーグローブに包まれており、足元の革靴はチリ一つなく磨き上げられている。 まるで、ハリウッドのトップスターがお忍びでスラム街を視察に来たか、あるいは冷酷なマフィアのボスが暗殺の標的を品定めしているかのような、圧倒的で暴力的な存在感。 しかも、そのサングラスの奥の視線は、一寸の狂いもなく「私と陽向」の方向へ固定されていた。「……っ」 私は喉の奥で悲鳴を噛み殺した。 何をやってるの、あの男は。 今日、彼は重要な海外の取引先とのオンライン会議が立て続けに入っているから、夕方まで書斎から出られないと言っていたはずだ。 なぜ、平日の昼下がりの区立公園に、フル装備の暗殺者のような出で立ちで張り込んでいるのか。「……あれ。見て、あの木の下の人」 リーダー格の母親が、不意に声を潜めた。「え、嘘。なんかすごくない? 芸能人?」「でも、こっちずっと見てない? ちょっと怖いんだけど…
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