没落令嬢の家政婦契約 ~冷酷CEOは、初恋を逃さない~ のすべてのチャプター: チャプター 321 - チャプター 330

475 チャプター

家族編 第33話 二人きりの夜

 運ばれてくる料理はどれも緻密に計算されており、舌の上で新しい香りと食感が弾けるたびに、小さなため息が漏れる。  最近見た映画のあらすじや、次の休みに新しくできたショッピングモールへ行く計画など、意識して「子供のいない話題」を投げる。向こうもそれに合わせ、重役会議でのバカバカしい裏話や、学生時代のくだらない失敗談などを、低い声で楽しそうに語ってくれた。  久しぶりに触れる、ただの「一人の男」としての輪郭。  目の前でワイングラスを傾ける仕草や、時折見せる少しだけ意地悪な笑み。  やっぱりこの顔がたまらなく好きだという感情が、アルコールの熱と一緒に胃の奥からじんわりと広がっていく。  しかし。  メインの肉料理、艶やかなソースをまとった牛ホホ肉の赤ワイン煮込みが運ばれてきたあたりから、向かいの席の空気が少しずつおかしくなり始めた。  会話には的確な相槌を打っているし、目も合っている。  だが、視線が数分おきに、テーブルの端に裏返して置かれた黒い長方形へと滑り落ちるのだ。  先ほどのシュールな写真以降、端末は一度も震えていない。  それなのに、まるで重要な取引先の決裁の連絡を待ちわびているかのように、無意識のうちにそわそわと肩を動かし始めている。 「……美味しいね、これ」 「ん? ああ、このソース、すごく深みがあって美味い。家じゃ絶対に出せない味だ」  声にハッとしたように、慌ててナイフとフォークを握り直す。  しかし、その肉の切り方は、普段の流れるような所作とは程遠く、少しだけ乱暴で雑なものだった。  フォークの先端で肉を突き刺し口に運びながらも、黒い瞳は再びテーブルの端をかすめる。 「……気になってる?」 「え?」 「さっきから、スマホばっかり見てる」  少しだけ首を傾け、ナイフを置いて問い詰めると、図星を突かれたように大きく咳き込んだ。  慌ててウォーターグラスを掴み、水を一気に喉へ流し込み、ナプキンで口元を覆う。 「い、いや。そんなことはない。せっかく二人きりで食事をしているんだぞ。……ただ、あまりにも静かすぎるというか、あいつらから何のSOSもないと、逆に風呂場で転んで怪我でもしたんじゃないかと……」 「何もなければ連絡しないって、約束だったじゃない」 「そうなんだけどな。……鈴木の奴、変なところで生真面目だから、
last update最終更新日 : 2026-03-31
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家族編 第34話 二人きりの夜

 静寂を壊さないよう、音量は最小に絞られている。  画面の中で揺れていたのは、見慣れた恐竜柄のパジャマに着替え、洗面台の踏み台の上に立つ小さな背中だった。  短い指で青い歯ブラシを握りしめ、一生懸命に自分の歯をシャカシャカと擦っている。その後ろで、鈴木がスマホを構えながら「上手ですねー、次は奥歯ですよー」と大袈裟に褒めそやしているのが、音声がなくても口の動きだけで伝わってくる。  カメラに気づいた小さな顔が振り返り、口の周りを真っ白な泡だらけにしながら、画面に向かって満面の笑みを弾けさせた。  そして、短い腕を大きく振り回す。 『パパ、ママ、ばいばーい! ねんねしゅるよー!』  微かに鼓膜に届く、あの舌足らずな声。  動画は数秒で終了した。  向かいの席では、再生が止まった真っ暗な画面を、まるで国宝の絵画でも鑑定するかのような真剣な眼差しで食い入るように見つめている。  目尻は完全に下がりきり、口角はだらしなく持ち上がり、冷酷で完璧主義なCEOの面影は塵ほども残っていない。  ただの、息子にメロメロな父親の顔。  最初は、せっかくの二人きりのディナーなのに、上の空で……と、ほんの少しだけ胸の奥がチクリとしたのは事実だ。  時間をかけてメイクをして、ずっとクローゼットで眠っていたワンピースに腕を通した。少しだけ「女」として見てもらいたいという、小さな欲求。  でも。  小さな画面の中で、泡だらけの口で笑う姿を見た瞬間。  そして、それを愛おしそうに見つめる、完全に武装を解除した無防備な顔を見た瞬間。  胸の奥にあったチクリとした痛みは、炭酸の泡が弾けるようにあっさりと消え去ってしまった。  なんだ。結局、私も同じだ。  動画の声を聞いた途端、心臓の辺りがギュッと締め付けられ、今すぐあの小さな体を腕の中に閉じ込めて、首筋の匂いを胸いっぱいに吸い込みたいという強烈な衝動に駆られている。  計算し尽くされたフレンチのコース料理も、洗練された大人の空間も、あの小さな体温がもたらす圧倒的な引力の前では、全く無力だ。 「……すまん」  ふと我に返ったように画面を暗くし、端末をテーブルの上に伏せる。  その顔には、深い後悔と罪悪感が色濃く張り付いている。 「俺、最低だな。せっかく三田村たちが気を使ってくれたのに、心ここにあらずで。……嫌
last update最終更新日 : 2026-03-31
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家族編 第35話 二人きりの夜

「……そうか」 「うん。私たち、もう完全に『パパとママ』になっちゃったみたい」  少しだけおどけたように笑いかけると、重ねていた手を下から掬い上げられ、ギュッと強く握り返された。  硬い骨の感触と、じんわりとした熱が手のひらから伝わってくる。 「……そうだな。もう、子供がいなかった頃のようには戻れないのかもしれない」 「残念?」 「まさか。……今の方が、何万倍も満たされている」  その低い声に、一切の迷いはなかった。  ただの恋人同士だった頃の熱情だけじゃない。もっと泥臭くて、騒がしくて、でも絶対に切れない強靭な絆が、今の二人をしっかりと結びつけている。 「……ねえ」  皿に残っていた最後の一切れを口に運び、ゆっくりと味わって飲み込んでから、いたずらっぽく目を細める。 「デザート、キャンセルしていいかな?」 「え?」 「あの動画見たら、急にベビーシャンプーの匂いが嗅ぎたくなっちゃった。……早く帰って、寝顔見たい」  数秒間、鳩が豆鉄砲を食らったような顔で固まった後。  腹の底から湧き上がるような、低く響く笑い声が静かな店内に漏れた。 「ははっ……ああ、そうだな。俺も、全く同じことを考えていたところだ」 「もう、完全に親バカだね」 「お互い様だろ」  ロマンチックなムードも何もない。でも、これこそが、一番心地よくて自然な形なのだ。  すぐにソムリエが呼ばれ、デザートと食後のコーヒーのキャンセル、そして会計が告げられる。  少し驚いたような顔をされたが、「お急ぎの用事でしょうか。またぜひゆっくりといらしてください」と完璧な笑顔で見送られた。  行きと同じように、恭しく開けられたドアをくぐり抜ける。  外は完全に夜の闇に包まれており、初夏特有の少し湿度を含んだ風が、街路樹の葉をざわざわと揺らしている。  路肩には、周囲の景色を反射するほど磨き上げられた、漆黒の大型セダンがすでに横付けされていた。  天道グループの専属運転手が、白い手袋に包まれた手で、音もなく後部座席の重厚なドアを開ける。 「どうぞ」  促されるまま、身を屈めて車内へと滑り込む。  続いて、大きな体が隣に沈み込み、重いドアが外の喧騒を完全に遮断するように閉ざされた。  車内は、上質な本革の匂いと、隣から漂う微かなシトラスの香りで満たされている。  
last update最終更新日 : 2026-04-01
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家族編 第36話 家族という城

 寝室では、陽向が布団から片足を出して眠っていた。そっと戻すと、すぐに同じ足がはみ出してくる。  エアコンの表示を確かめてから、私は布団をお腹のところまで掛け直した。  薄いリネンのタオルケットが、汗ばんだ肌に触れる。  暗闇の中、サイドテーブルに置かれた小さなルームランプのオレンジ色の光だけが、キングサイズのベッドの上の惨状をぼんやりと浮かび上がらせていた。  三歳になった陽向の寝相は、控えめに言っても暴力的だった。  寝かしつけた時は確かに私の隣で真っ直ぐ仰向けになっていたはずなのに、現在、彼はベッドのど真ん中で「H」の字の横棒のような状態になっている。つまり、頭を私の脇腹に押し付け、両足を、まだ空いている征也のスペースへ向かって大きく広げているのだ。  しかも、口を半開きにして、スースーと気の抜けた寝息を立てながら。 「……んっ」  陽向の小さな踵が、私の肋骨のあたりにクリーンヒットした。  寝返りを打った拍子の、無意識の一撃。三歳児の脚力は侮れない。地味に痛い。  少しだけ身をよじって攻撃をかわそうとしたが、ここ数日、どうも身体の芯に熱がこもっているような、重だるい感覚が抜けない。少し動くだけでも億劫で、深い眠りに引きずり込まれそうな強い睡魔が常に頭の隅にへばりついている。  夏の疲れが出たのだろうか。  そんなことをぼんやりと考えながら、陽向の頭を撫でる。  汗で少し湿った、柔らかい髪の毛。ミルクの匂いはすっかり消え、代わりに外で力いっぱい遊んできた子供特有の、太陽と土の匂いがする。  重くなった。  生まれた時はあんなに小さくて壊れそうだったのに、今では一人で走り回り、生意気な口答えまで一人前にするようになった。  その確かな成長の重みを手のひらで感じながら、ゆっくりとまぶたを閉じた、その時だった。  カチャリ。  金属製のドアノブが回る微かな音がして、廊下から細い光の帯が寝室に差し込んだ。  光はすぐに遮断され、再び暗闇が戻る。  足音はほとんど聞こえない。だが、空気がわずかに動き、洗い立てのタオルと、微かなシトラスの香水の匂いが鼻腔をくすぐった。  征也だ。  書斎でのリモート会議を終え、シャワーを浴びてきたのだろう。  彼がベッドに近づいてくる気配がする。  マットレスの端がゆっくりと沈み込んだ。
last update最終更新日 : 2026-04-01
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家族編 第37話 家族という城

 ルームランプの光を受けた彼の瞳が、私と、そしてベッドのど真ん中を占拠している陽向を交互に見下ろした。 「……なんだ、この配置は」 「寝相が悪いのよ。さっきから蹴られっぱなし」 「俺の寝るスペースが完全に確保されていない」  彼は小さくため息をつくと、ベッドに膝をつき、陽向の足元へと手を伸ばした。  かつて、「壊してしまいそうだ」と震えていた大きな手。  その手が今、なんのためらいもなく陽向のふくらはぎと背中に差し込まれる。  慣れた手つきで、しかし決して関節に無理な負担をかけないよう、絶妙な力加減で陽向の身体を持ち上げた。  空中に浮いた陽向は、「むにゃ……」と不満げな声を漏らしたが、目を覚ます気配はない。  征也はそのまま陽向の身体を九十度回転させ、ベッドの中央に真っ直ぐに寝かせ直した。  はだけていたパジャマのお腹を直し、タオルケットを胸元までしっかりとかける。  その一連の動作の、あまりの手際の良さと優しさに、私はベッドの中で思わず口元をほころばせた。 「何がおかしい」  気配で察したのか、彼が低い声で問いかけてくる。 「ううん。すっかりお父さんだなって思って」 「……馬鹿にするな。これくらい、日常のオペレーションの一環だ」  少しだけ不機嫌そうに答えながら、彼はようやく確保された自分のスペースへと潜り込んできた。  シーツが擦れる音。  彼の大きな身体が隣に横たわると、むわっとした熱気が伝わってくる。  陽向を挟んで、右側に私、左側に征也。  いわゆる「川の字」のフォーメーションだ。 「……会議、遅かったね。お疲れ様」  私が小声で囁くと、彼は天井を見上げたまま、深く長い息を吐き出した。 「ニューヨーク支社の連中が、数字の報告をごまかそうとした。徹底的に詰め直させていたから時間がかかった」 「またそんな怖い顔して。画面越しでも相手が縮み上がっちゃうわよ」 「事実を追求しただけだ」  彼の大きな右手がシーツの上を滑り、陽向の頭を越えて、私の左手に触れた。  硬い指先が、私の指の間に絡みついてくる。  そのまま、ギュッと強い力で握り込まれた。  骨が軋むほどの力ではないが、絶対に離さないという意志が伝わってくるような、熱くて重い感触。 「……莉子」 「ん?」 「少し、こっちへ来い」  彼は私の手
last update最終更新日 : 2026-04-02
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家族編 第38話 家族という城

「寝ている。それに、俺の充電が切れる」  彼は私の頭に顎を乗せ、そのまま深く息を吸い込んだ。  私の髪の匂いを嗅ぐような、動物的な仕草。  首筋に彼の鼻先が触れ、熱い吐息がかかる。ゾクッとした感覚が背筋を走り、私は無意識に彼の背中に腕を回した。  硬く張った背中の筋肉。  一日中、画面越しに見えない敵と戦ってきた彼の、緊張の欠片がまだそこにあった。  ゆっくりと手のひらで円を描くように撫でてやると、彼の喉の奥から、低く満足げな音が漏れた。 「……なあ、莉子」  耳元で、彼がぽつりと呟いた。  いつもより少しだけ、声のトーンが柔らかい。 「どうしたの?」 「……ただ、不思議に思っただけだ」  彼の大きな手が、私の背中をゆっくりと撫で下ろす。  そのリズムに合わせて、彼自身の呼吸も深く、穏やかなものへと変わっていくのがわかった。 「数年前まで、俺の手の中には、冷たくて硬いものしかなかった。金、権威、誰かを蹴落とすための情報。……泥水をすすりながら、ただ上へ登ることだけを考えていた。誰も信じず、誰にも背中を見せず、一人で生き抜くことだけが俺のすべてだった」  静かな寝室に、彼の低い声が溶けていく。  エアコンの微かな風の音が、遠くで鳴っている。 「それが今……」  彼の手の動きが止まり、私の背中をきゅっと強く抱きしめた。 「俺の腕の中には、お前がいる。……そしてすぐ隣には、俺たちの血を引いた、こんなに騒がしくて、温かい生き物が寝息を立てている」  彼の視線が、私たちの間でスースーと眠る陽向に向けられているのがわかった。  暗闇の中でも、彼の瞳がどんな色をしているのか、私にははっきりと想像できた。  かつての「氷のCEO」の欠片など微塵もない、ただの無防備で、不器用な父親の顔。 「……こんな幸せが、本当に俺のものなのか。時々、目が覚めたらすべて消えているんじゃないかと、背筋が凍ることがある」  その声の震えに、私の胸の奥が鋭く締め付けられた。  彼がどれほどの孤独を抱えて生きてきたか。誰にも愛されず、誰も愛さず、ただ復讐心だけを燃料にして生きてきた過去。  それを知っているからこそ、今の彼が感じる「喪失への恐怖」の深さが痛いほどに伝わってくる。  私は彼の胸板から顔を上げ、至近距離で彼の黒い瞳を見つめ返した。  ルーム
last update最終更新日 : 2026-04-02
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家族編 第39話 家族という城

 私の言葉に、彼は数秒間、瞬きもせずに私を見つめていた。  やがて、彼の大きな手が私の頬を包み込んだ。  少しだけざらついた親指の腹が、私の目の下を優しくなぞる。 「……そうだな」  彼の顔が近づき、額と額がコツンと触れ合った。  互いの鼻息がかかるほどの距離。 「お前がいなければ、俺は今でも、ただの空っぽな化け物のままだった」 「化け物なんて言わないで」 「事実だ。……お前が、俺を人間に戻してくれた」  ちゅっ、と軽い音がして、唇に温かいものが触れた。  何度も繰り返される、啄むようなキス。  いやらしい意味はまったくない、ただ確認するような、純粋な慈愛に満ちた接触。  その度に、彼の体温が私の中に流れ込んでくる。 「莉子」  唇をわずかに離し、彼が囁いた。 「……俺を、父親にしてくれてありがとう」  真っ直ぐで、重い言葉だった。  普段は理屈っぽくて、素直に感情を表現しない彼からの、飾らない本音。  胸の奥が熱くなり、目頭がツンとした。  こんな風に言われると、ずっと言えずに迷っていた「あのこと」を、今すぐ彼に伝えたくなってしまう。  最近の身体の不調。  熱っぽさ、異常な眠気、そして、予定日から遅れている月のもの。  今日の昼間、陽向がお昼寝をしている隙に、こっそりと薬局で買ってきた検査薬を試した。  結果は、小さな窓に浮かび上がった、はっきりとした二本の線。  いつ言おうか。  彼の仕事が落ち着いてからがいいか。それとも、病院でちゃんと確認してからの方がいいか。  ずっとぐるぐると考えていたけれど。  今、この瞬間以上に、ふさわしい時はないような気がした。 「……ねえ、征也」  私は彼の手を握ったまま、小さく声を震わせた。 「なんだ」 「あのね。……陽向、最近すごくお喋りが上手になったでしょ」 「ああ。生意気な口答えも増えた」 「自分のこと、お兄ちゃんみたいに思ってる節があるのよね。公園でも、小さい子におもちゃ貸してあげたりして」 「……それがどうかしたのか」  彼は不思議そうに眉を寄せた。  私は大きく息を吸い込み、彼の目から視線を逸らさずに言った。 「その……練習の成果を、発揮する時が来るかもしれないわ」 「練習の成果? 何の話だ」 「だから……」  ドクン、と心臓が大きく跳
last update最終更新日 : 2026-04-03
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家族編 第40話 家族という城

 絞り出すような、かすれた声。 「今日、検査薬を使ってみたの。……まだ病院に行ってないから確実じゃないけど、たぶん、そうだと思う」  私は彼の手を引き、自分のパジャマのお腹のあたりへと導いた。  まだ何も膨らみなどない、平らなお腹。  しかし、彼の手のひらがそこに触れた瞬間、ビクッと彼の肩が大きく跳ねた。 「……莉子」 「まだ小さいから、蹴ったりはしないけど」 「……」  彼は何も言わなかった。  ただ、私のお腹に当てられた彼の手が、小刻みに震え始めているのが伝わってくる。  彼の広い背中が、ゆっくりと、しかし確実に丸くなっていく。  まるで、そこに宿った見えない命の重みに、押しつぶされそうになっているかのように。 「……本当か」  低い声が、震えていた。 「うん」 「……俺たちの……二人目の……」 「そうよ」  彼は私のお腹から手を離し、今度は私の身体を、骨が痛くなるほど強く、きつく抱きしめた。  首筋に、彼の熱い息がかかる。  彼の顔が見えない。  けれど、私の肩に押し付けられた彼の額の熱さと、何度も何度も、確認するように深く吸い込まれる呼吸の音が、彼の感情のすべてを物語っていた。 「……莉子っ」  彼が私の名前を呼んだ。  その声は、かつての威圧感など微塵もない、ただの感情の塊だった。 「……ありがとう……っ」  耳元で囁かれた言葉の端が、かすかに湿り気を帯びていた。  私は彼の背中に手を回し、硬い筋肉の起伏をゆっくりと撫でた。  隣では、陽向が「んー……」と寝言を言いながら、再び寝返りを打ち、今度は征也の背中に小さな足をドンと乗せた。  いつもなら「行儀が悪い」とすぐに直す彼が、今はその小さな足の重みさえも愛おしむように、身じろぎ一つしなかった。  夏の夜の湿気。  シーツの擦れる音。  陽向の規則正しい寝息と、私の肩で荒く息を吐く征也の体温。  私の手首に絡みつく、彼のごつごつとした指の硬さ。  そのすべてが、確かにここにある現実だった。  泥水の中から這い上がり、すべてを金と力でねじ伏せてきた男。  何も持っていなかった彼の手の中に、今、絶対に手放せないものが二つ、そしてもうすぐ三つになろうとしている。  彼の手が、再びそっと私のお腹へと移動した。  服越しに伝わる、熱い手のひらの
last update最終更新日 : 2026-04-03
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家族編 第41話 二本目の線

 薄い朝の光がカーテンの隙間から差し込み、枕元に置いた小さな紙袋を白く照らしていた。昨日の昼に使った検査薬が、その中にある。目を開けると、征也は枕に片肘をつき、私の顔を覗き込んでいた。目の下に薄い影ができている。 「……おはよう。もしかして、ずっと起きてたの?」 「気分はどうだ。吐き気はないか」  挨拶より先にそれだった。私は笑いかけたまま、布団から肩を出す。背中に添えられた掌は温かく、まだ起き上がってもいないのに、もうこちらの重みを受けようとしていた。 「大丈夫よ。あなたの方が、寝不足で倒れそうな顔してる」  征也は答えず、私の背へ滑り落ちた髪を払った。指が首筋に触れた時、指先だけが少し冷えていることに気づいた。昨夜、あんなに嬉しそうに抱きしめてくれた人が、朝の光の中では、私が起きるだけで眉を寄せている。  朝食の席でも、征也は私がコーヒーへ手を伸ばしただけで眉を寄せた。「カフェインは控えた方がいいんじゃないのか」「一杯くらいなら、まだ病院で何も言われてないでしょ」「なら今日聞く」。すでにスマートフォンには産婦人科の予約画面が開かれている。  陽向はトーストをかじりながら、私たちの顔を交互に見た。「パパ、きょう変だよ」「いつも変よ」と答えると、征也が不満そうにこちらを見る。陽向は意味も分からないまま笑った。  病院へ向かう車の中でも、征也は窓の外ばかり見ていた。膝の上の手が、ときおり開いては閉じる。その指へ自分の指を差し入れると、ようやくこちらを向いた。 「昨日みたいな顔、してくれないの」 「……どんな顔だ」 「忘れたの? あんなに笑ってたくせに」  征也は口を開きかけ、私のお腹へ目を落とした。まだ服の上からは何も分からない。私自身、目覚めた時には夢だったのではないかと思ったくらいだ。 「嬉しいんだ。今も」  それきり黙って、彼は繋いだ手を持ち上げた。唇が指の付け根に触れる。少し長くそこに留まってから離れたので、私はからかう言葉を飲み込み、その肩へ寄りかかった。  病院の自動ドアが開く。消毒液の匂いと、低く流れる案内放送。私は一度深呼吸して、彼と並んで受付へ向かった。昨夜の二本の線が、本当に新しい家族へ続いているのか。それを確かめるために。  待合室では、同じくらいの年齢の女性が母子手帳を開いていた。その横で夫らしい男性が紙コップの
last update最終更新日 : 2026-04-04
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家族編 第42話 二本目の線

 診察室は、白い照明がやけに眩しかった。エコー機器の低い駆動音が続く中、モニターに映る小さな黒い影を私は息を止めて見つめる。隣では、平静を装う征也の膝の上の手だけが、不自然なくらい固まっていた。 「妊娠しています。まだごく初期ですが、今のところ経過に問題はありません」  その一言で肩から力が抜けた。隣を見ると、征也はモニターを凝視したまま動かない。 「ここが胎嚢です」  医師が指した小さな丸。まだ人の形すらない。それなのに、征也の喉仏が大きく上下した。  診察が終わると、彼は医師へ質問を始めた。食事、運動、仕事、旅行、感染症、睡眠時間。最初は丁寧に答えていた医師も、十個目を越えた辺りで苦笑する。「奥様は病気ではありません。無理を避けながら、普段通りで大丈夫ですよ」  その言葉が気に入らなかったらしい。廊下へ出た征也は低く呟いた。「普段通りという言葉は曖昧すぎる」 「家事は人を増やせばいい。送り迎えも――」  診察券の入った封筒を持ち替えながら、征也はもう次の手配を考えていた。私は廊下の窓辺で足を止める。先へ進んだ彼が振り返った。 「陽向のお迎え、楽しみなのよ。門から出てくる時の顔、あなたにも見せたいくらい」  封筒を握った指が動かなくなった。窓の向こうで、駐車場の木が風に揺れている。私はまだ少し重い脚を動かし、彼の隣へ戻った。 「疲れた日は頼むから。最初から取り上げないで」  征也は不満そうに息を吐いたが、手配の続きを口にはしなかった。エレベーターが来ると扉を押さえ、私が乗るのを待っている。 「……迎えの時間には電話に出ろ。それくらいは頼ませてくれ」  返事をする前に顔を見ると、彼はもう階数表示へ目を逸らしていた。私はその袖を軽く引き、一緒に奥へ入った。  駐車場へ向かう途中、征也が突然足を止めた。手の中のエコー写真を見下ろし、ほんの少しだけ笑う。 「……二人目か」 「そうみたい」 「また、家が騒がしくなるな」  口ではそう言いながら、その声はどうしようもなく嬉しそうだった。  病院を出ても、征也はエコー写真を封筒へ戻さなかった。駐車場の日差しを避け、自分の影の中で何度も見ている。 「見すぎると穴が開くよ」 「開くわけがない」  真顔で言い返したくせに、封筒へしまう時には写真の端をそっと撫でた。三田村への電話でも、次の健
last update最終更新日 : 2026-04-04
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