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スピンオフ第163話:似たもの同士の晩酌②

 そして、腰を深く折った。 頭を下げるという行為。 これまでは、屈辱でしかなかった。天道の力に頼ることは、自分の敗北を意味すると思っていたからだ。 だが今は違う。 愛するものを守るためには、力が必要だ。相手の世界を丸ごと背負うだけの、圧倒的な覚悟と手段が。 その力を手に入れるためなら、どんな泥でもすする。 頭を下げたまま、絨毯の毛足を見つめる。 デスクの向こう側から、衣擦れの音が聞こえた。 征也が立ち上がり、ゆっくりとした足取りでデスクを回り込んでくる。 目の前に、仕立ての良いスラックスと、一点の曇りもない革靴が止まった。「……頭を上げろ」 静かな声に促され、陽向は顔を上げた。 至近距離で対峙する父親の顔には、嘲笑も、勝者の優越感もなかった。 あるのは、ただ静かに相手の覚悟の底を測るような、深い眼差しだけだ。「俺のやり方は、甘くないぞ。お前が今まで信じてきた『正しいだけの正義』など、通用しない世界だ。泥を被り、理不尽を飲み込み、時には他人の人生を踏み躙る決断を下さなければならない時が必ず来る」「分かってる。……もう、自分の無力さで誰かを泣かせるのは、ごめんだ」 陽向の声には、微かな震えがあった。 結月が電話口で流した涙の匂いと、しゃくり上げる声が、今でも鼓膜の裏側にこびりついている。 あんな思いは、もう二度とごめんだ。 征也は陽向の目をじっと見つめ返し、やがて短く息を吐いた。「明日から、本社営業部の第三課に入れ。平社員からのスタートだ。身分を隠す気はない。周囲の妬みや足の引っ張り合いも、すべて自分の力で切り抜けろ」「……分かった。よろしく頼む」 陽向が再び短く頭を下げると、征也は窓の外へと視線を移した。 いつの間にか日が完全に沈み、東京の街には無数のネオンが海のように広がっていた。「……三田村。今日の予定は」「本日はこれ以降、来客および会議の予定は入ってお
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スピンオフ第164話:似たもの同士の晩酌③

 真っ黒な液体の表面には、きめ細かい褐色の泡が浮かんでいる。 征也は向かいのソファーに座り、無言でカップを手に取った。 陽向もそれに倣う。 一口含むと、舌が痺れるほどの強烈な苦味と、その奥にある濃厚なコクが口の中を満たした。 砂糖もミルクも入っていない、容赦のない大人の味だ。 喉を通る熱さに、思わず小さく咳き込む。 征也は、微かに口元を緩めた。「……酒にはまだ早いからな」 からかうような響きに、陽向は少しだけ顔をしかめながら、もう一口コーヒーを流し込んだ。 苦味が、不思議と胃の奥をじんわりと温める。「親父」 カップを持ったまま、陽向は口を開いた。「一つだけ、聞かせてくれ。……あんたは、なんでそこまでして、母さんを守り続けられるんだ。自分の人生の全部を犠牲にしてまで」 あの日、ICUの前で見せた父親の姿。 そして、自分の力をすべて使って、敵対者を容赦なく叩き潰す執念。 そこにあるのは、ただの「愛」という言葉では片付けられない、狂気にも似た重力だ。 征也はカップをソーサーに戻し、深く息を吐き出した。 窓の外の夜景の光が、征也の横顔に深い陰影を落としている。「……犠牲、か。お前たちの目には、そう映っているのだろうな」 征也の視線が、ローテーブルの木目へ落ちた。「お前の母親は……かつて、俺のすべてを奪い、そしてすべてを与えた、恐ろしい女だ」「……奪った?」 陽向の記憶にある母親は、いつもエプロン姿で優しく微笑み、家中に温かい食事の匂いを漂わせている、太陽のような存在だった。「恐ろしい」という言葉とは、最も対極にある女性だ。 征也は、ゆっくりと話し始めた。「十二年前。いや、もっと前の話だ。……俺が天道グループの実権を握るため、血で血を洗うような権力闘争を繰り広げていた頃。俺は、周りの人間すべてを敵だと思っていた
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スピンオフ第165話:似たもの同士の晩酌④

「気がつけば、俺の孤独も、憎悪も、あいつの前では何の意味も持たなくなっていた。あいつが淹れてくれる温かい紅茶の匂いや、アイロンの掛かったシャツの糊の匂い。それがないと、俺はもうまともに呼吸すらできなくなっていた」 征也の大きな手が、ソファーの肘掛けを強く握りしめる。「あいつは、俺の孤独を奪い去った。そして代わりに、『家族』という、俺が一番恐れていた、どうしようもなく脆くて愛おしいものを与えたんだ。……お前や、結衣という存在をな」 陽向の胸の奥が、熱く締め付けられた。 父親が、自分たちを疎ましく思っていたわけではないこと。 ただ、母親の与えてくれた温かさが大きすぎて、それを失う恐怖にずっと囚われていただけなのだと、痛いほどに理解できた。「俺は、あいつを鳥籠に閉じ込めようとした。外の世界のあらゆる危険から遠ざけ、俺の目の届く安全な場所でだけ笑っていてほしかった。……その息苦しさが、あいつから自由を奪い、あの日の事故を招いた」 征也の言葉が、ひどく掠れる。「あいつの時間が止まったあの日から、俺は自分に罰を与え続けている。二度と、大切なものを失わないための力を手に入れるために、魂を悪魔に売り渡してでも、この世界を支配するとな」 その覚悟の重さに、陽向は言葉を失った。 圧倒的な暴力も、非情な決断も。 すべては、二度と同じ過ちを繰り返さないための、不器用すぎる愛の形。「……だから、お前に教えられるのは、綺麗な理想論じゃない。血と泥にまみれた、魔王の流儀だけだ」 征也は真っ直ぐに陽向を見た。 その瞳は、父親として息子を導こうとするものではなく、同じように一人の女性を深く愛し、守りたいと願う一人の男としての眼差しだった。 陽向は、冷めかけたコーヒーのカップを手に取った。 残っていた黒い液体を一気に飲み干す。 口いっぱいに広がる強烈な苦味と、その後に残る微かな甘み。「……上等だ」 カップをソーサーに叩きつけるように置く。 カチャリ、
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スピンオフ第166話:封印されたクローゼット①

 週末の天道邸は、いつもより少しだけ空気が弛んでいるように感じられた。 広大な廊下を歩く足音が、分厚い絨毯に吸い込まれていく。 二階の最奥。 重厚なマホガニーの扉の前に立ち、ゆっくりと息を吸い込んだ。 主寝室。 両親の部屋であり、十二年前から父親だけが生活している空間。 幼い頃は、雷が鳴るたびにこの扉を叩き、二人の間に潜り込んでいた記憶が微かにある。だが、母親が病院のベッドで眠り続けるようになってからは、なんとなく近づくことを避けてきた場所だった。 父親のテリトリーであると同時に、母親の不在が最も色濃く残る場所だからだ。 ひんやりとした真鍮のドアノブに指をかける。 カチャリ、と静かな音が鳴り、重い扉が内側へと開いた。 部屋の中は、遮光カーテンが半分だけ引かれ、薄暗かった。 キングサイズのベッドのシーツは、シワ一つなくピンと張られている。父親がここで眠っているはずなのに、生活の生々しい匂いはほとんどしない。微かに漂うのは、父親がいつも纏っているシトラスの香水と、無機質な清潔さの匂いだけだ。 ベッドの横を通り過ぎ、部屋のさらに奥へと足を踏み入れる。 そこには、壁一面を占めるウォークインクローゼットの扉があった。 取っ手を握り、横へスライドさせる。 シューッという滑らかな音と共に扉が開くと、密閉されていた空気がふわりと押し寄せてきた。 鼻腔を突いたのは、樟脳のような防虫剤の匂い。 そして、その奥からゆっくりと立ち上ってくる、甘く、少しだけ粉っぽいフローラルの香り。「……ママの、匂い」 喉の奥で小さく呟いた。 十二年間、一度も主の帰還を迎えていないその空間には、数え切れないほどの衣服が、色や季節ごとに完璧な状態でハンガーに掛けられていた。 定期的に手入れがされているのだろう。カビの匂いやホコリっぽさは一切ない。 並んでいるのは、女性物の服ばかりだった。 父親のスーツやシャツは別のクローゼットに収納されているらしい。ここは、完全に母親のためだけの場所として、時間が止められ
last updateآخر تحديث : 2026-06-05
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スピンオフ第167話:封印されたクローゼット②

 少しだけ、丈が長い。 母親は、今の自分よりも少しだけ背が高かったのだろうか。 胸元にドレスを押し当てると、生地に染み込んだフローラルの香りがさらに強く漂ってきた。 病室で眠り続ける母親の姿しか、記憶にはない。 チューブに繋がれ、消毒液の匂いに包まれた、冷たい肌の感触。 けれど今、このドレスから漂う匂いと、布地の柔らかい手触りが、母親が確かにここで呼吸をし、笑い、生活していたという事実を、強烈な実感を伴って伝えてくる。 見ず知らずの施設の子に、心臓の手術費用を全額寄付した人。 その優しさが、レイという一人の歌い手の命を救い、透明な歌声となって、巡り巡って自分の冷え切った心を溶かしてくれた。「ママ……」 ドレスの胸元のレースを、ギュッと強く握りしめる。 目頭がツンと熱くなり、視界がわずかに滲んだ。 その時。 背後で、カチャリというドアの開く音が響いた。 続いて、絨毯を踏む硬い足音が、寝室の中へと入ってくる。 ビクッと肩を跳ねさせ、弾かれたように振り返る。 クローゼットの入り口に立っていたのは、ジャケットを脱ぎ、ネクタイを緩めた姿の父親だった。 息が止まりそうになる。 勝手に部屋に入り、しかも母親の服を引っ張り出している。 あの日、ICUの前で一緒に泣き、和解したとはいえ、父親が母親のものをどれほど偏執的に守り抜いてきたかを知っている。 激怒されるかもしれない。冷たい声で、今すぐ出て行けと怒鳴られるかもしれない。 ドレスを持ったまま、全身の筋肉が硬直する。 父親の鋭い視線が、鏡の前に立つ姿と、手に握りしめられたミントグリーンのドレスを捉えた。 沈黙が落ちる。 空調の低い駆動音だけが、耳元でやけに大きく響いていた。 やがて、父親がゆっくりと歩み寄ってくる。 革靴のつま先が、クローゼットの入り口で止まった。「……何をしている」 低く、響くような声。 ドレスを握る指先から、サァッと血の
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スピンオフ第168話:封印されたクローゼット③

「母親の服に興味を持つのは、娘として当然のことだろう。……それに」 父親の大きな手が伸びてきて、ドレスを持ったまま固まっている結衣の頭頂部に、ポンと乗せられた。 少しざらついた、熱い手のひらの感触。「……莉子に、よく似てきたな」 その言葉が落ちた瞬間。 胸の奥に、熱い塊が込み上げてきた。 今まで、何度も「母親に似ている」と言われてきた。 だが、それはいつも、父親が自分の顔の向こう側に母親の幻影を探しているような、どこか息苦しい響きを伴っていた。 自分を見てくれない。母親の代わりとしてしか扱ってくれない。 そんなコンプレックスを抱き続けてきた。 けれど今、頭を撫でながら向けられたその視線は、過去の幻影を追うものではなかった。 目の前にいる『娘』の成長を、純粋に喜び、愛おしむような、確かな父親の眼差しだった。「……本当?」 鼻声にならないよう、必死に喉の奥を締める。「ああ。背格好も、その頑固なところもな」「頑固はパパに似たのよ」 言い返すと、父親は声を立てずに肩を揺らして笑った。 その屈託のない笑い方を見て、また少しだけ目頭が熱くなる。 頭に乗せられていた手が離れ、父親はクローゼットの中をゆっくりと見渡した。「……十二年だ。あいつが目覚めた時、すぐにでも袖を通せるように、すべて当時のまま保管してきた。流行遅れだと、怒るかもしれないがな」 ハンガーに掛かった服の肩口を、父親の指先がそっとなぞる。 その動作には、眠り続ける妻への底知れぬ執着と、途方もない時間の重さが滲み出ていた。「怒らないわよ、ママは。……パパが、ずっと大事に守ってくれてたこと、絶対に分かってくれる」 ドレスを胸に抱いたまま、はっきりと口にする。 父親は少しだけ驚いたように目を見開き、やがて、深く息を吐き出した。「そうだといいがな」 父親はクローゼットの出口
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スピンオフ第169話:病室の食卓①

 特別病棟の廊下は、いつ来ても冷たいリノリウムの匂いと、無機質な消毒液の匂いで満たされている。 陽向は、右手に提げた大きな白いビニール袋が、歩くたびにシャカシャカと擦れる音を聞きながら歩幅を調整した。 隣を歩く結衣は、淡いミントグリーンのカーディガンを羽織り、両手で温かいお茶の入った保温ボトルを抱えている。「ひな兄ちゃん、ちょっと歩くの早い」 少し小走りに追いかけてきた結衣が、ヒールの低いパンプスで床をコツリと鳴らした。 陽向は足を緩め、振り返る。「悪い。……営業部に配属されてから、なんか常に急ぎ足で歩く癖がついちまったみたいだ」「パパの会社、そんなに厳しいの?」「平社員の扱いなんて、どこも同じだろ。コピー取りに資料作り、外回りで靴の底が減るスピードが異常だ。……まあ、嫌じゃないけどな」 首の後ろをさすりながら軽く肩を回すと、スーツのジャケット越しに凝り固まった筋肉がミシッと音を立てるような気がした。 天道の看板を背負っているとはいえ、現場の最前線で浴びる冷ややかな視線や泥臭い雑務は、陽向の身体に確かな疲労と、それ以上の充実感を刻み込んでいた。「医師からは短時間ならって許可をもらえたけど……パパ、怒るかな。病室にこんなもの持ち込んで」 結衣が、陽向の提げているビニール袋に視線を落とした。 袋の中には、デパ地下で買ってきた色とりどりの弁当箱と、プラスチックのパックに入った唐揚げ、そして分厚い卵焼きが詰まっている。 揚げ油の香ばしい匂いと、甘い出汁の匂いが、ビニール越しに微かに漏れ出していた。「怒るだろうな。百パーセント」 陽向は短く鼻で笑った。「親父にとって、あの病室は神聖な場所だ。母さんの呼吸と、心電図の音と、カサブランカの匂い以外は不純物だと思ってる。……でも、だからこそ持ち込むんだよ。十二年も止まっていた空気を入れ替えるには、これくらい俗っぽい匂いが必要だ」 重厚な二重扉の前に到着する。 待機していたSPたちが、二人の姿を
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スピンオフ第170話:病室の食卓②

 眉間が、わずかに険しく寄る。「なんだ、それは」「昼飯だよ」 陽向は事もなげに答え、ベッドの足元にあるキャスター付きのオーバーテーブルを引き寄せた。 ビニール袋をテーブルの上に置き、中から弁当箱と惣菜のパックを次々と取り出していく。 プラスチックの擦れる音と、輪ゴムを弾くパチンという音が、無機質な機械音だけの部屋に異質に響き渡った。「……ここで食う気か」 征也の声が、一段と低くなる。 立ち上がり、莉子の手を静かにシーツの下へ戻した。「外のラウンジで食ってこい。ここは食堂ではない。匂いが……莉子の空気が汚れる」 予想通りの反応に、陽向は弁当の透明な蓋をパカッと開けながら口の端を上げた。 一気に、醤油とニンニクの下味が効いた唐揚げの匂いと、出汁巻き卵の甘い匂いが、消毒液とカサブランカの香りを押しのけるように広がる。「空気なんて、たまには入れ替えた方がいい。それに、母さんは飯の匂い、嫌いじゃなかっただろ」「そういう問題ではない。あいつは今、静かに……」「パパ」 結衣が、保温ボトルをテーブルの端に置きながら、征也の言葉を遮った。 ミントグリーンのカーディガンの袖を少しだけ捲り、唐揚げのパックに割り箸を添える。「ママ、私たちが美味しそうにご飯食べてるの、見るの好きだったじゃない。……キッチンに立って、フライパンで何かを炒める音とか、油の跳ねる音とか。そういうのが聞こえなくなって十二年だよ。ママだって、たまにはお腹が空くような匂いを嗅ぎたいと思ってるかもしれないわ」 真っ直ぐに見つめてくる娘の瞳に、征也は一瞬言葉を詰まらせた。 数日前の夜、大理石のリビングでココアを飲みながら交わした会話。 相手の誇りを傷つけたことを悔やみ、母親に似た芯の強さを見せ始めた娘の言葉は、征也の冷たい拒絶を鈍らせるには十分だった。「……うるさくするなよ」 深く息を吐き出し、征也は再び丸椅子に腰を下ろ
last updateآخر تحديث : 2026-06-07
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スピンオフ第171話:病室の食卓③

 陽向は、パックに入った唐揚げを一つ箸で摘み、口に放り込んだ。 衣がカリッと音を立て、中から鶏肉の脂がじゅわっと滲み出す。 ニンニクと生姜の風味が鼻腔を抜け、空きっ腹にガツンと響いた。「……デパ地下の惣菜にしては、結構味が濃いな」 もぐもぐと咀嚼しながら陽向が言うと、結衣が隣で出汁巻き卵をかじった。「これ、甘い。……お砂糖がたくさん入ってる」 結衣は卵焼きの断面を見つめながら、少しだけ眉を下げた。「ママの卵焼きは、もっとお出汁の味が強かったよね。甘いんじゃなくて、少ししょっぱくて、でも噛むとお出汁がジュワッて出てきて……」 その言葉に、陽向の箸がピタリと止まった。 脳裏に、十二年前の食卓の光景が鮮明に蘇る。 白い湯気を立てる味噌汁。 焼き魚の香ばしい匂い。 そして、不恰好に巻かれた、けれど抜群に美味しかった莉子の卵焼き。 台所に立つ母親の背中からは、いつも醤油と味醂が少し焦げたような、温かい生活の匂いがしていた。「……あいつの卵焼きは、出汁を入れすぎていつも形が崩れていた」 不意に、低い声がテーブルの向かい側から降ってきた。 陽向と結衣が顔を上げると、征也が幕の内弁当の鮭の切り身を箸でほぐしながら、ベッドの上の莉子へと視線を向けていた。「見栄えは悪かったが、味だけは文句のつけようがなかった。……朝早く起きて、一番に鰹節を削る音が、いつも二階の寝室まで聞こえてきていた」 征也の箸が、ほぐした鮭を口に運ぶ。 ゆっくりと咀嚼する顎の動き。 その表情は、いつもの冷徹な経営者のものではなく、遠い過去の温かい記憶を反芻しているような、ひどく穏やかなものだった。「親父……削り節の音なんて、気にしてたのか」 陽向が驚いたように尋ねると、征也は箸を止め、ほうじ茶の入った紙コップに手を伸ばした。「あいつがこの家に来るまで、天道邸の朝は無音だった
last updateآخر تحديث : 2026-06-07
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スピンオフ第172話:病室の食卓④

「音楽の成績、絶対に悪かったはずだ。俺が幼稚園のお遊戯会で歌う曲の練習に付き合ってくれた時も、途中でリズムが分からなくなって、二人で腹抱えて笑った記憶がある」「……あいつは、ピアノの鍵盤を指一本で叩くのが精一杯だった」 征也も、微かに目を細めて相槌を打つ。 病室という無機質で冷たい空間に、油と醤油の匂い、そして三人の咀嚼音と低い笑い声が満ちていく。 カサブランカの濃厚な香りは、いつの間にか、庶民的な弁当の匂いに完全に上書きされていた。 十二年間。 この部屋には、消毒液の匂いと、機械の駆動音、そして征也の重苦しい懺悔しか存在しなかった。 父親は母親の静寂を守るために、すべてを拒絶して冷たい壁を作り。 息子はその壁に怒りをぶつけて拳を振り上げ。 娘は壁の外で、ただ孤独に震えていた。 バラバラだった三人が。 今、同じ小さなテーブルを囲み、プラスチックの弁当箱を広げ、割り箸を動かしている。 高級なフレンチでも、完璧に計算されたフルコースでもない。 スーパーやデパ地下で買ってきた、冷めた唐揚げと卵焼き。 だが、その安っぽい弁当の味が、三人の間に横たわっていた十二年分の氷を、少しずつ、確実に溶かしていくのを感じた。「ひな兄ちゃん、その唐揚げ、一つ頂戴」 結衣が、自分の弁当のハンバーグと交換するように割り箸を突き出す。「お前、さっきからカロリー高いもんしか食ってないぞ。野菜も食え」「いいの。今日はチートデイだから。それに、パパの会社でこき使われてるお兄ちゃんより、私の方がエネルギー消費してるかもしれないし」「生意気言うな」 陽向は文句を言いながらも、一番大きな唐揚げを結衣の弁当箱の端に乗せてやった。「……陽向。お前、昨日の会議用の資料、数字の桁を一つ間違えていたぞ」 唐突に、征也が弁当に目を落としたまま口を開いた。「えっ……嘘だろ」 陽向の箸がピタリと止まり、顔からサァッと血の気が引く。「最終チェ
last updateآخر تحديث : 2026-06-08
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