Lahat ng Kabanata ng 没落令嬢の家政婦契約 ~冷酷CEOは、初恋を逃さない~: Kabanata 451 - Kabanata 460

475 Kabanata

次世代編 第70話 似た者同士

 初日の午前中に作った見積書は、昼過ぎには赤字で埋まって戻ってきた。  数量を転記した欄にも、計算式にも線が引かれている。先輩は「ここからもう一度」とだけ言い、次の電話を取った。言い訳を挟む暇さえなかった。  顧客への同行訪問を終え、社長室へ呼ばれた時も、陽向はその紙を握っていた。 「営業ごっこだってさ。社長の息子に売り込まれるほど落ちちゃいない、って」  座るように言われる前に、口からこぼれた。征也は目を上げ、陽向の手元へ視線を移す。 「向こうで、その顔をしたのか」 「してない。……たぶん」  征也にまで見透かされた気がして、陽向は見積書を机へ伏せた。 「説明も最後まで聞いてくれなかった。だから、もう一回行く」 「先輩には話したか」  その人の顔を思い浮かべ、陽向は口を閉じた。帰り道、何度か話しかけられたが、ろくに返事をしなかった。  征也は机の書類を引き寄せた。 「去年、価格改定で揉めた相手だ。お前にではなく、うちに腹を立てている」 「だったら先に言ってくれよ」 「訪問前に、課で説明はなかったのか」  陽向は答えられなかった。覚えることが多すぎて、会社名と製品の話を追うだけで精いっぱいだった。征也はそれ以上問い詰めず、書類をこちらへ向けた。  相手の名と、打ち合わせの日付が並んでいる。今日、自分が話を通すことばかり考えている間にも、この先の仕事を続ける人たちがいるのだった。 「俺が行かなきゃ、先輩は話を聞いてもらえたのかな」  征也はすぐには答えなかった。 「かもしれんな。そこは本人に聞け」  慰めてもらえるとは思っていなかった。それでも胸の奥がちくりとした。陽向は書類の端を押さえ、今日の先輩の横顔を思い返した。客に笑って頭を下げていた。あれが、自分より悔しくなかったはずはない。 「……戻る。見積書も直さなきゃならないし」  机から紙を取り上げると、征也が赤字の欄を目で追った。 「これは、三回は戻されるな」 「二回で通す」  思わず返すと、征也はわずかに口元を動かした。 「担当にそう言ってこい。俺に勝っても通らんぞ」  社長室を出る時には、腹立たしさの向きが少し変わっていた。征也に何を言い返すかより、先輩の席へ戻って最初に何を言うかが気にかかった。◇ 営業部の窓には、傾き始めた陽が差していた。  先輩の
last updateHuling Na-update : 2026-06-03
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次世代編 第71話 似た者同士

 その夜、仕事を終えた陽向が社長室へ戻ると、征也は応接のソファーに座っていた。  ローテーブルにはコーヒーが二つ置かれている。陽向は鞄を下ろし、征也の向かいへ腰を落とした。 「酒じゃないのか」 「二十歳になってから言え」  口答えする気力もなくカップを持ち上げると、指に残ったペンの跡が見えた。砂糖のない苦味が、疲れた喉をゆっくり落ちていく。  征也はネクタイを少し緩めていた。目の下に、昼には気づかなかった影がある。 「これから病院?」  征也が時計を見た。その仕草だけで、陽向にも答えは分かった。 「毎日、よく行けるよな。十二年も」  言い方を間違えたと思った。だが征也は怒らず、カップを持ったまま、窓の外へ目を向けた。 「行かない方が落ち着かん。顔を見て帰れば、少しは眠れる」  陽向はコーヒーの表面に目を落とした。莉子のそばにいる征也はいつも黙っていて、近寄ることさえためらわれた。あそこで少し楽になっているのだとは、考えたことがなかった。 「帰る時、つらくないのか」  カップを置く音がした。 「つらいよ」  それだけ言って、征也は手を離した。持ち手にかかっていた指が、膝の上でゆっくり曲がる。  陽向には、次の言葉が出てこなかった。会社では誰も逆らえない男が、毎晩、莉子に返事をもらえないまま帰ってくる。 「朝になると、今日は何か変わっているかもしれんと思う。……馬鹿みたいだろう」  征也の声は低かった。 「そんなこと、言うなよ」  思っていたより強い声になった。征也がこちらを見たので、陽向はカップを置き直した。  窓の下を、車の灯りが途切れず流れている。莉子が眠ってからの十二年に、自分は征也と同じくらい背が伸びた。いつの間にか征也の髪には白いものが混じっていた。 「お前が家を出た夜も、眠れなかった」  征也が言った。 「車を出そうとした。警護にも連絡しかけた」  陽向の背中が強張る。追ってきてほしかったわけではない。来られたら、今度こそ戻らなかったかもしれない。 「……三田村に止められた」 「自力じゃなかったのかよ」  拍子抜けして笑うと、征也は少しだけ顔をしかめた。 「あいつも、容赦がない」  笑いは長く続かなかった。陽向は鞄の口から覗く見積書を見つめた。 「あの時、追ってこなくてよかった。俺、たぶん、ひど
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次世代編 第72話 似た者同士

「で、明日も行くのか」  征也の視線が、鞄から覗く見積書へ向いた。 「先輩に聞いてから。今日は、帰りに八つ当たりした」  陽向は紙を引き出した。赤い線の横に、自分で書いた小さな数字が並んでいる。 「謝ったら、もう一度教えてくれた。あの人だって忙しいのに」  征也が紙へ手を伸ばしかけたので、陽向は引っ込めた。 「まだ見るなよ。これから直すんだから」 「見せたのはお前だろう」  折り目を押さえているうちに、笑いがこぼれた。仕事を習い始めて一日しか経っていないのに、もう家へ持ち帰るものがある。 「昔の親父なら、相手を黙らせて終わりだった?」  聞いてから、征也の顔を窺った。征也はソファーの背にもたれ、しばらく天井を見ていた。 「そうしたこともある。そのあとが厄介だった」 「そこ、今まで省いてただろ」 「聞かなかっただろうが」 「聞ける顔、してなかったんだよ」  征也は反論せず、カップに残ったコーヒーを飲んだ。陽向も口をつけたが、冷えた苦味に眉が寄った。ほとんど同時に、向かいでもカップが皿へ戻される。  陽向は征也の手元を見て、また笑いそうになった。 「格好悪い話も、今度聞かせろよ。仕事のことも、母さんのことも」  言うだけで、少し照れた。見積書を鞄へしまい、ファスナーを端まで引く。  征也は返事を急がなかった。先ほど話していた夜のことを、まだ思い出しているのかもしれなかった。 「結月さんには、まだ会いに行ってない」  陽向は鞄に目を落としたまま言った。 「会いたいけど、また怖がらせたらと思うと……何て言えばいいか、分からなくなる」  助けたのだから、と口にしたくなる自分がいた。あの人が怯えた顔を忘れたわけでもないのに。 「父親に聞く話じゃないな」  征也が言うと、陽向は顔を上げた。 「聞いてない。ちょっと、口に出しただけ」  征也はそれ以上何も言わなかった。その沈黙が、今はありがたかった。陽向は立ち上がり、肩へ鞄をかけた。  征也も時計を見て、机の上の車の鍵を取る。 「……俺も行く。母さんのところ」  鍵の触れ合う音が止まった。 「今日は結月との約束はないのか」  陽向が頷くと、征也は上着を手に取った。袖を通すのに少し手間取り、それをごまかすように背を向ける。 「母さんに、仕事を始めたって言いたいんだ。見積
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次世代編 第73話 母のクローゼット

 週末の天道邸は、いつもより少しだけ空気が弛んでいるように感じられた。  広大な廊下を歩く足音が、分厚い絨毯に吸い込まれていく。  二階の最奥。  重厚なマホガニーの扉の前に立ち、ゆっくりと息を吸い込んだ。  主寝室。両親の部屋であり、十二年前から征也だけが使っている場所だった。  雷の夜、この扉を叩いたことがある。どちらの手に引かれてベッドへ入ったのか、そこまではもう思い出せない。莉子が病院で眠るようになってからは、扉の前を通る時、知らず足を速めていた。  今日は、ノックをする手が宙で止まった。征也は留守だと知っているのに、部屋の中で誰かが振り返る気がした。  ひんやりとした真鍮のドアノブに指をかける。  カチャリ、と静かな音が鳴り、重い扉が内側へと開いた。  部屋の中は、遮光カーテンが半分だけ引かれ、薄暗かった。  キングサイズのベッドのシーツは、シワ一つなくピンと張られている。征也がここで眠っているはずなのに、生活の生々しい匂いはほとんどしない。微かに漂うのは、征也がいつも纏っているシトラスの香水と、無機質な清潔さの匂いだけだ。  ベッドの横を通り過ぎ、部屋のさらに奥へと足を踏み入れる。  そこには、壁一面を占めるウォークインクローゼットの扉があった。  取っ手を握り、横へスライドさせる。  シューッという滑らかな音と共に扉が開くと、密閉されていた空気がふわりと押し寄せてきた。  鼻腔を突いたのは、樟脳のような防虫剤の匂い。  そして、その奥からゆっくりと立ち上ってくる、甘く、少しだけ粉っぽいフローラルの香り。 「……ママの、匂い」  喉の奥で小さく呟いた。  十二年間、一度も主の帰還を迎えていないその空間には、数え切れないほどの衣服が、色や季節ごとに完璧な状態でハンガーに掛けられていた。  定期的に手入れがされているのだろう。カビの匂いやホコリっぽさは一切ない。  並んでいるのは、女性物の服ばかりだった。  征也のスーツやシャツは別のクローゼットに収納されているらしい。ここは、完全に莉子のためだけの場所として、時間が止められたまま保存されている。  指先を伸ばし、一番手前に掛かっていたシルクのブラウスの袖に触れる。  滑らかな生地が、指の腹を滑っていく。  カシミヤのカーディガン、ツイードのジャケット、そして
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次世代編 第74話 母のクローゼット

 少しだけ、丈が長い。  莉子は、今の自分よりも少しだけ背が高かったのだろうか。  胸元にドレスを押し当てると、生地に染み込んだフローラルの香りがさらに強く漂ってきた。  病室で眠り続ける莉子の姿しか、記憶にはない。  チューブに繋がれ、消毒液の匂いに包まれた、冷たい肌の感触。  けれど今、このドレスから漂う匂いと、布地の柔らかい手触りが、莉子が確かにここで呼吸をし、笑い、生活していたという事実を、強烈な実感を伴って伝えてくる。  レイの部屋で見た、財団の名前の入った封筒を思い出した。莉子はその手続きをしていた日に、こんな服を着ていたのだろうか。  知らない莉子の姿を、ドレスの向こうへ探してしまう。もう一度話を聞きたいと思ったが、そのためにレイの部屋を訪ねる勇気はなかった。 「ママ……」  ドレスの胸元のレースを、ギュッと強く握りしめる。  目頭がツンと熱くなり、視界がわずかに滲んだ。  その時。  背後で、カチャリというドアの開く音が響いた。  続いて、絨毯を踏む硬い足音が、寝室の中へと入ってくる。  ビクッと肩を跳ねさせ、弾かれたように振り返る。  クローゼットの入り口に立っていたのは、ジャケットを脱ぎ、ネクタイを緩めた姿の征也だった。  息が止まりそうになる。  勝手に部屋に入り、しかも莉子の服を引っ張り出している。  あの日、ICUの前で一緒に泣き、和解したとはいえ、征也が莉子のものをどれほど偏執的に守り抜いてきたかを知っている。  激怒されるかもしれない。冷たい声で、今すぐ出て行けと怒鳴られるかもしれない。  ドレスを持ったまま、全身の筋肉が硬直する。  征也の鋭い視線が、鏡の前に立つ姿と、手に握りしめられたミントグリーンのドレスを捉えた。  沈黙が落ちる。  空調の低い駆動音だけが、耳元でやけに大きく響いていた。  やがて、征也がゆっくりと歩み寄ってくる。  革靴のつま先が、クローゼットの入り口で止まった。 「……何をしている」  低く、響くような声。  ドレスを握る指先から、サァッと血の気が引いていくのがわかる。 「ご、ごめんなさい……勝手に入って。ただ、少しだけ、見てみたくて……」  慌ててハンガーをラックに戻そうとした。  だが、その手が不意に止まった。  征也の顔には、怒りの色は全く
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次世代編 第75話 母のクローゼット

「破くなよ。それ、あいつが気に入っていた」  征也の手が伸びてきた。ドレスを取り上げられるのかと思ったが、頭をひと撫でされただけだった。 「……莉子に、よく似てきたな」  結衣は鏡へ目を戻した。征也が自分の顔に莉子を探しているようで、その言葉が嫌だった時もある。今日は、その視線が、ドレスの裾から覗く結衣の足元へ落ちていた。 「踏むぞ。少し持ち上げろ」  言われた通りに裾を上げると、征也の目が鏡越しに合った。 「……ママに?」  鼻声にならないよう、必死に喉の奥を締める。 「ああ。背格好も、その頑固なところもな」 「頑固はパパに似たのよ」  言い返すと、征也は声を立てずに肩を揺らして笑った。  その屈託のない笑い方を見て、また少しだけ目頭が熱くなる。  征也はクローゼットの中をゆっくりと見渡した。 「……十二年だ。あいつが目覚めた時、すぐにでも袖を通せるように、すべて当時のまま保管してきた。流行遅れだと、怒るかもしれないがな」  ハンガーに掛かった服の肩口を、征也の指先がそっとなぞる。  一本だけ傾いたハンガーを、征也が直す。使われないままの服には、どれも皺がなかった。 「怒ったら、私も一緒に謝ってあげる。勝手に着ちゃったから、私の方が叱られるかもしれないし」  ドレスを胸に抱いたまま、はっきりと口にする。  征也は少しだけ驚いたように目を見開き、やがて、深く息を吐き出した。 「頼むぞ。俺だけでは勝てん」  征也はクローゼットの出口へと向き直り、肩越しに視線を投げた。 「着替えたら、下へ降りてこい。三田村に、茶の用意をさせておく」 「うん。……すぐ行く」  征也の背中が部屋を出ていき、ドアが静かに閉まる。  クローゼットに、再び一人きりの静寂が戻った。  防虫剤の匂いと、フローラルの香り。  だが、先ほどまでの冷たい静止した空気とは違い、どこか血の通った温かさが空間を満たしているように感じられた。  姿見の前に向き直る。  手の中のミントグリーンのドレスを、もう一度身体に合わせる。  鏡に映る自分の顔は、確かに、あの古い写真の中で微笑む莉子の面影を色濃く残していた。  制服のリボンをほどき、ブラウスのボタンへ指をかける。  淡い布地に腕を通すと、肩のあたりに少し余裕があった。莉子が着ていた時は、どんなふうに
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次世代編 第76話 病室の食卓

 特別病棟の廊下は、いつ来ても冷たいリノリウムの匂いと、無機質な消毒液の匂いで満たされている。  陽向は、右手に提げた大きな白いビニール袋が、歩くたびにシャカシャカと擦れる音を聞きながら歩幅を調整した。  隣を歩く結衣は、淡いミントグリーンのカーディガンを羽織り、両手で温かいお茶の入った保温ボトルを抱えている。 「ひな兄ちゃん、ちょっと歩くの早い」  少し小走りに追いかけてきた結衣が、ヒールの低いパンプスで床をコツリと鳴らした。  陽向は足を緩め、振り返る。 「悪い。……営業部に配属されてから、なんか常に急ぎ足で歩く癖がついちまったみたいだ」 「パパの会社、そんなに厳しいの?」 「平社員の扱いなんて、どこも同じだろ。コピー取りに資料作り、外回りで靴の底が減るスピードが異常だ。……まあ、嫌じゃないけどな」  首の後ろをさすりながら軽く肩を回すと、スーツのジャケット越しに凝り固まった筋肉がミシッと音を立てるような気がした。  天道の看板を背負っているとはいえ、現場の最前線で浴びる冷ややかな視線や泥臭い雑務は、陽向の身体に確かな疲労と、それ以上の充実感を刻み込んでいた。 「パパ、怒るかな。病室にこんなもの持ち込んで」  結衣が、陽向の提げているビニール袋に視線を落とした。  袋の中には、デパ地下で買ってきた色とりどりの弁当箱と、プラスチックのパックに入った唐揚げ、そして分厚い卵焼きが詰まっている。  揚げ油の香ばしい匂いと、甘い出汁の匂いが、ビニール越しに微かに漏れ出していた。 「怒るだろうな。百パーセント」  陽向は短く鼻で笑った。 「でも、親父の分まで買ったし。看護師さんには聞いてある。片づけはちゃんとするから」  袋の持ち手が食い込み、陽向は指を入れ替えた。買いすぎたかもしれない。征也がいつも病院で何を食べているのか考えたら、小さな弁当一つでは足りないような気がしたのだった。  重厚な二重扉の前に到着する。  待機していたSPたちが、二人の姿を認めて無言で頭を下げた。  陽向はビニール袋を左手に持ち替え、静かにドアノブに指をかけた。  金属の冷たさが指先に伝わる。  ゆっくりと押し開くと、そこにはいつも通りの、時間が止まったような空間が広がっていた。  ベッド脇から、規則正しい電子音が聞こえた。  窓際に置かれた大き
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次世代編 第77話 病室の食卓

 征也の視線は、二人の顔を通り越し、陽向の左手でシャカシャカと音を立てている白いビニール袋でピタリと止まった。  眉間が、わずかに険しく寄る。 「なんだ、それは」 「昼飯だよ」  陽向は事もなげに答え、ベッドの足元にあるキャスター付きのオーバーテーブルを引き寄せた。  ビニール袋をテーブルの上に置き、中から弁当箱と惣菜のパックを次々と取り出していく。  プラスチックの擦れる音と、輪ゴムを弾くパチンという音が、無機質な機械音だけの部屋に異質に響き渡った。 「……ここで食う気か」  征也の声が、一段と低くなる。  立ち上がり、莉子の手を静かにシーツの下へ戻した。 「ラウンジで食ってこい。ここで広げたら、匂いが残るだろう」  予想通りの反応に、陽向は弁当の透明な蓋をパカッと開けながら口の端を上げた。  一気に、醤油とニンニクの下味が効いた唐揚げの匂いと、出汁巻き卵の甘い匂いが、消毒液とカサブランカの香りを押しのけるように広がる。 「空気なんて、たまには入れ替えた方がいい。それに、母さんは飯の匂い、嫌いじゃなかっただろ」 「そういう問題ではない。あいつは今、静かに……」 「パパ」  結衣が、保温ボトルをテーブルの端に置きながら、征也の言葉を遮った。  ミントグリーンのカーディガンの袖を少しだけ捲り、唐揚げのパックに割り箸を添える。 「今日くらい、ママのそばで食べたい」  結衣はベッドへ目を向けた。家を出る前にいくつか考えてきた言い訳は、征也を前にしたら忘れてしまった。 「パパも一緒に。お昼、まだでしょう?」  差し出しかけた割り箸を持ったまま、結衣が征也を見る。征也はその手と、机に広げられた三つの弁当を見比べた。  陽向も、残りのパックを開ける手を止めた。征也が妻の方を振り返り、枕元を確かめるように少し身をかがめる。  長く感じた沈黙のあと、ようやく上体が起きた。 「……うるさくするなよ」  深く息を吐き出し、征也は再び丸椅子に腰を下ろした。  それを見て、陽向はもう一つのパイプ椅子を壁際から引っ張り出し、テーブルの周りに三つの椅子を並べた。 「ほら、親父の分の弁当。幕の内だ。……鮭が美味そうだったからな」  陽向が差し出した黒いプラスチックの弁当箱を、征也は渋々といった手つきで受け取った。  結衣が保温ボトルから温
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次世代編 第78話 病室の食卓

 そのすぐ横で、三人が小さなオーバーテーブルを囲んでいる。  陽向は、パックに入った唐揚げを一つ箸で摘み、口に放り込んだ。  衣がカリッと音を立て、中から鶏肉の脂がじゅわっと滲み出す。  ニンニクと生姜の風味が鼻腔を抜け、空きっ腹にガツンと響いた。 「……デパ地下の惣菜にしては、結構味が濃いな」  もぐもぐと咀嚼しながら陽向が言うと、結衣が隣で出汁巻き卵をかじった。 「これ、甘い。……お砂糖がたくさん入ってる」  結衣は卵焼きの断面を見つめながら、少しだけ眉を下げた。 「ママの卵焼きは、もっとお出汁の味が強かったよね。甘いんじゃなくて、少ししょっぱくて、でも噛むとお出汁がジュワッて出てきて……」  その言葉に、陽向の箸がピタリと止まった。  脳裏に、十二年前の食卓の光景が鮮明に蘇る。  白い湯気を立てる味噌汁。  焼き魚の香ばしい匂い。  そして、不恰好に巻かれた、けれど抜群に美味しかった莉子の卵焼き。  台所に立つ莉子の背中からは、いつも醤油と味醂が少し焦げたような、温かい生活の匂いがしていた。 「……あいつの卵焼きは、出汁を入れすぎていつも形が崩れていた」  不意に、低い声がテーブルの向かい側から降ってきた。  陽向と結衣が顔を上げると、征也が幕の内弁当の鮭の切り身を箸でほぐしながら、ベッドの上の莉子へと視線を向けていた。 「見栄えは悪かったが、味だけは文句のつけようがなかった。……朝早く起きて、一番に鰹節を削る音が、いつも二階の寝室まで聞こえてきていた」  征也の箸が、ほぐした鮭を口に運ぶ。  ゆっくりと咀嚼する顎の動き。  鮭の身をほぐす箸が、しばらく同じところを行き来していた。征也は妻の顔を見たまま、骨を弁当の隅へ寄せた。 「親父……削り節の音なんて、気にしてたのか」  陽向が驚いたように尋ねると、征也は箸を止め、ほうじ茶の入った紙コップに手を伸ばした。 「聞こえたんだよ。朝早くから」  征也はそう言って、紙コップを持ち上げた。 「うるさいと言えば、朝ご飯はいらないんですか、と返してくる。こっちは寝ていたいだけなのに」  陽向は少し笑った。莉子なら言いそうだった。 「それで、食べたんだろ」 「食べた」  征也も口元を緩めた。その目は、すぐに莉子の枕元へ戻っていく。 「今でも、朝方に目が覚めると聞
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次世代編 第79話 病室の食卓

「音楽の成績、絶対に悪かったはずだ。俺が幼稚園のお遊戯会で歌う曲の練習に付き合ってくれた時も、途中でリズムが分からなくなって、二人で腹抱えて笑った記憶がある」 「……あいつは、ピアノの鍵盤を指一本で叩くのが精一杯だった」  征也も、微かに目を細めて相槌を打つ。  病室という無機質で冷たい空間に、油と醤油の匂い、そして三人の咀嚼音と低い笑い声が満ちていく。  カサブランカの濃厚な香りは、いつの間にか、庶民的な弁当の匂いに完全に上書きされていた。  征也の低い笑い声を聞き、陽向は箸を止めた。こんなふうに莉子の失敗を話してもいいのだと、今さら思った。  結衣の紙コップが空になっていた。征也はそれを自分の方へ寄せ、保温ボトルから茶を注いでいる。差し出されたコップを受け取る妹は、まだ卵焼きを頬張っていて、礼を言おうとして少しむせた。  莉子の布団は、さっきと同じように静かに上下していた。陽向はそちらを見てから、弁当へ目を戻した。莉子が起きたら、まずこの甘すぎる卵焼きに文句を言うかもしれない。そんなことまで思えて、ひと口分を箸で切った。 「ひな兄ちゃん、その唐揚げ、一つ頂戴」  結衣が、自分の弁当のハンバーグと交換するように割り箸を突き出す。 「お前、さっきからカロリー高いもんしか食ってないぞ。野菜も食え」 「いいの。今日はチートデイだから。それに、パパの会社でこき使われてるお兄ちゃんより、私の方がエネルギー消費してるかもしれないし」 「生意気言うな」  陽向は文句を言いながらも、一番大きな唐揚げを結衣の弁当箱の端に乗せてやった。 「……陽向。お前、昨日の会議用の資料、数字の桁を一つ間違えていたぞ」  唐突に、征也が弁当に目を落としたまま口を開いた。 「えっ……嘘だろ」  陽向の箸がピタリと止まり、顔からサァッと血の気が引く。 「部長が気づいた。月曜、どこを間違えたか聞いておけ」  陽向は喉につかえたものを茶で流し込んだ。さっきまで旨かった唐揚げが、急に飲み込みにくい。 「……分かった。でも、それ、今言うか」 「ひな兄ちゃん、会社でもその顔してるの?」  結衣が笑いを堪えながら言った。征也は箸を止め、息子の顔を見た。 「悪かった。月曜にする」  あっさり引かれて、陽向はかえって返す言葉を失った。妹が差し出してきたハンバーグを受け取
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