スピンオフ第183話:おかえり、私だけの魔王① 征也は、最初、それを錯覚だと思った。 十二年も待ち続けていれば、人は都合のいい幻をいくらでも見る。指先が動いた気がする。まぶたが震えた気がする。声にならない声が、自分の名前を呼んだ気がする。 そのたびに、征也は期待して、すぐに自分を戒めた。 奇跡などない。 数字は冷たく、医師の説明は慎重で、朝はいつも何事もなかったようにやって来る。 だから、莉子の指が掌の中でかすかに力を帯びた時も、征也はすぐには顔を上げなかった。「……また、俺の都合のいい夢か」 掠れた声で呟く。 だが、次の瞬間。 莉子の指が、もう一度、征也の手の内側を弱く押した。 それは、反射にしては遅く、偶然にしては確かだった。 征也の呼吸が止まる。 顔を上げるまでの一秒が、ひどく長かった。 ベッドの上で、莉子の睫毛が震えている。病室の淡い朝の光を受けたその睫毛は、薄い影を白い頬に落としながら、何度も、何度も、小さく揺れた。「莉子」 声が出たのか、自分でも分からなかった。 扉の外で、陽向が弾かれたように一歩踏み出す。結衣がその腕を掴み、二人は息を詰めたまま病室の中を見つめた。 莉子のまぶたが、ゆっくりと持ち上がる。 眩しさに耐えきれないように、瞳が細く震えた。 琥珀色の瞳。 十二年間、征也が夢の中で何度も見た色だった。 その瞳が、ぼやけた天井を映し、白い照明を映し、やがて、涙で濡れた征也の顔を捉えた。 征也の身体から、力が抜けた。 膝が床に落ちる。椅子が後ろへずれ、かすかな音を立てる。だが、征也の手は莉子の手を離さなかった。離せるはずがなかった。「……莉子」 今度は、声になった。 喉の奥から絞り出した名前が、病室の白い空気に溶けていく。 莉子の唇が動いた。 乾いた唇は、すぐには言葉を作れない。呼吸の管に支えられてきた身体は、長い眠りから急に戻されたばかりで、声
Last Updated : 2026-06-13 Read more