「君のお母さんは、僕にとって神様みたいな人だ。だから……その大切な娘さんを、こんな泥水すするような底辺の生活に、引きずり込むわけにはいかない」 レイは、柔らかく、けれど決定的な拒絶の色を帯びた微笑みを浮かべた。 「僕は、君の王子様にはなれないよ、ユイ」 その言葉が、結衣の初恋に、静かに、けれど確実に終止符を打った。 胸の奥が、鋭い刃物でえぐり取られるように痛む。 失恋の悲しみ。 知らなかったレイの一面に触れた驚き。 それでも好きだった気持ちは消えず、だからこそ、レイ自身の意思で拒まれた痛み。 そして何より、母の深い愛情に触れたことへの、言葉にならない感動。 いくつもの感情が濁流となって結衣の身体を駆け巡り、ただ止めどなく涙が溢れ続ける。 レイはそれ以上何も言わず、ただ結衣が泣き止むのを、静かに待ち続けていた。 冷めていくインスタントコーヒーの匂いと、古い畳の匂い。 窓の外から、風が窓ガラスをガタガタと揺らす音が聞こえてくる。 どれくらいの時間が経っただろうか。 結衣は手の甲で乱暴に涙を拭い、ゆっくりと立ち上がった。 膝の震えは、いつの間にか止まっていた。 「……ありがとう、レイ」 鼻声になりながらも、結衣は真っ直ぐにレイの琥珀色の瞳を見つめ返した。 「私に、本当のことを話してくれて。……ママのこと、教えてくれて」 レイは座ったまま、優しく目を細めた。 「気をつけて帰るんだよ。雨、降りそうだから」 「ええ。……さようなら」 結衣は深く頭を下げ、部屋のドアノブに手をかけた。 アルミのドアを開け、外の通路に出る。 冷たい夜の空気が、火照った顔を撫でていく。 ドアが背後でカチャリと閉まる音を聞き届けた瞬間、結衣は走り出していた。 錆びた鉄の階段を、ローファーの底で激しく叩きながら駆け下りる。 一段降りるたびに、レイの匂いが、あの高架下の熱が、自分の中から剥がれ落ちていくような気がした。 アパートの外へ飛び出すと、頬に冷たい水滴が一つ、当たった。 空を見上げると、厚い雲の隙間から、ぽつり、ぽつりと雨が降り始めている。 結衣は立ち止まることなく、夜の下町の路地を、無我夢中で走り続けた。 息が切れ、肺が焼けるように痛む。 制服のブラウスに雨水が染み込み、肌に冷たく
Last Updated : 2026-05-30 Read more