All Chapters of 没落令嬢の家政婦契約 ~冷酷CEOは、初恋を逃さない~: Chapter 441 - Chapter 450

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次世代編 第60話 サヨナラの調べ

「君のお母さんは、僕にとって神様みたいな人だ。だから……その大切な娘さんを、こんな泥水すするような底辺の生活に、引きずり込むわけにはいかない」  レイは、柔らかく、けれど決定的な拒絶の色を帯びた微笑みを浮かべた。 「僕は、君の王子様にはなれないよ、ユイ」  その言葉が、結衣の初恋に、静かに、けれど確実に終止符を打った。  胸の奥が、鋭い刃物でえぐり取られるように痛む。  失恋の悲しみ。  知らなかったレイの一面に触れた驚き。  それでも好きだった気持ちは消えず、だからこそ、レイ自身の意思で拒まれた痛み。  そして何より、母の深い愛情に触れたことへの、言葉にならない感動。  いくつもの感情が濁流となって結衣の身体を駆け巡り、ただ止めどなく涙が溢れ続ける。  レイはそれ以上何も言わず、ただ結衣が泣き止むのを、静かに待ち続けていた。  冷めていくインスタントコーヒーの匂いと、古い畳の匂い。  窓の外から、風が窓ガラスをガタガタと揺らす音が聞こえてくる。  どれくらいの時間が経っただろうか。  結衣は手の甲で乱暴に涙を拭い、ゆっくりと立ち上がった。  膝の震えは、いつの間にか止まっていた。 「……ありがとう、レイ」  鼻声になりながらも、結衣は真っ直ぐにレイの琥珀色の瞳を見つめ返した。 「私に、本当のことを話してくれて。……ママのこと、教えてくれて」  レイは座ったまま、優しく目を細めた。 「気をつけて帰るんだよ。雨、降りそうだから」 「ええ。……さようなら」  結衣は深く頭を下げ、部屋のドアノブに手をかけた。  アルミのドアを開け、外の通路に出る。  冷たい夜の空気が、火照った顔を撫でていく。  ドアが背後でカチャリと閉まる音を聞き届けた瞬間、結衣は走り出していた。  錆びた鉄の階段を、ローファーの底で激しく叩きながら駆け下りる。  一段降りるたびに、レイの匂いが、あの高架下の熱が、自分の中から剥がれ落ちていくような気がした。  アパートの外へ飛び出すと、頬に冷たい水滴が一つ、当たった。  空を見上げると、厚い雲の隙間から、ぽつり、ぽつりと雨が降り始めている。  結衣は立ち止まることなく、夜の下町の路地を、無我夢中で走り続けた。  息が切れ、肺が焼けるように痛む。  制服のブラウスに雨水が染み込み、肌に冷たく
last updateLast Updated : 2026-05-30
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次世代編 第61話 雨上がりの涙

 冷たい雨粒が、容赦なく頬を打ち据えていた。  肺に吸い込む空気は水気をたっぷりと含み、気管を焼くように冷たい。  濡れたアスファルトを蹴るたびに、革製のローファーがバシャリと重たい音を立て、泥水がふくらはぎへと跳ね返る。  紺色の制服のブラウスはすでに限界まで雨水を吸い込み、氷のように冷たくなって肌にぴったりと張り付いていた。  髪を固定していたスプレーはとうの昔に流れ落ち、重くなった黒髪の束が視界を遮るように顔にまとわりついている。  走っても、走っても、息が苦しいだけだった。  膝の関節が軋み、太腿の筋肉が悲鳴を上げている。  それでも、足をとめることはできなかった。  立ち止まれば、あの四畳半のアパートの光景が、強烈な色彩を持って脳裏に蘇ってくるからだ。  白熱灯の下に滑り落ちた、白いサラシ。  露わになった、柔らかな胸の膨らみ。  そして、錆びたお菓子の缶から取り出された、色褪せた一枚の写真。 『僕は、君の王子様にはなれないよ、ユイ』  レイの、少し困ったような、けれどすべてを見透かしたような優しい声。  その響きが、鼓膜の内側に張り付いて離れない。 「……はぁっ、はぁっ……」  喉の奥から、ヒューという間抜けな呼吸音が漏れる。  限界に達した足がもつれ、水たまりの中で大きく体勢を崩した。  咄嗟に手をつこうとしたが間に合わず、膝から激しく地面に倒れ込む。  ザリッ、とアスファルトの表面がストッキングを破り、膝小僧の皮膚を削り取った。  鋭い痛みが走り、思わず顔をしかめる。  起き上がろうと手のひらを地面についたが、力が全く入らない。  擦りむいた膝から、じんわりと血が滲み、雨水に薄まってアスファルトへ流れていく。  冷たい泥水の中に四つん這いになったまま、大きく息を吐き出した。  泥だらけの両手を見つめる。  つい先日まで、三百万円のヴィンテージギターが入った革張りのハードケースを、得意げに握りしめていた手だ。  お金の力で、相手の世界を買い取れると信じて疑わなかった、傲慢で無神経な手。  (……滑稽ね)  自嘲するような笑いが、濡れた唇からこぼれ落ちる。  冷たくて息の詰まる白亜の牢獄から、自分を連れ出してくれる存在を探していた。  あの高架下の暗闇で、熱い缶コーヒーを手渡してくれた時。  
last updateLast Updated : 2026-05-30
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次世代編 第62話 雨上がりの涙

 そして、母の残した温もりが、全く知らない場所で誰かの心臓を動かし続けていたことへの、言葉にならないほどの強い揺さぶり。  様々な感情が濁流となって胸の奥で渦を巻き、ただ涙となって溢れ続ける。  シャーッ、という水飛沫の音と共に、一台の車が横を通り過ぎていった。  ヘッドライトの強い光が、水たまりに倒れ込んでいる無様な姿を一瞬だけ照らし出す。  窓越しに、怪訝そうな視線を向ける運転手の顔が見えた。  ここにいるのは、完璧な微笑みと隙のない身のこなしで周囲を圧倒していた「天道家の令嬢」ではない。  雨に打たれ、泥にまみれ、膝を擦りむいて泣きじゃくる、ただの子供だった。  ゆっくりと立ち上がる。  擦りむいた膝がズキズキと痛むが、もう走る気力は残っていなかった。  肩を落とし、重い足を引きずるようにして、とぼとぼと歩き始める。  少し歩いた先に、錆びついたトタン屋根の小さなバス停があった。  プラスチック製の青いベンチが、街灯の光の下で冷たく光っている。  ふらつく足取りでベンチに近づき、崩れ落ちるように腰を下ろした。  屋根に当たる雨の音が、バラバラとやかましく響く。  腕を組んで、ガタガタと震える肩を抱きしめた。  寒さが骨の髄まで浸透してくる。  こんな時、あの高架下なら、柔軟剤の匂いがする大きなパーカーを頭から被せてくれたのに。  あの硬い指先が、髪を優しく撫でてくれたのに。  (……もう、あの匂いにも、あの熱にも、触れることはできない)  目を閉じると、白熱灯に照らされたサラシと、滑らかな肌の輪郭が浮かび上がる。  レイは、自分の世界を侵すことをはっきりと拒絶した。 『君の王子様にはなれない』  その言葉は、優しくて、だからこそ残酷だった。  ベンチに座ったまま、どれくらいの時間が過ぎたのかわからなかった。  雨の勢いが、少しずつ弱まってきていることに気づく。  屋根を叩く音が、バラバラという激しいものから、ポツ、ポツ、という間隔の空いたものへと変わっていた。  濡れた前髪の隙間から、ぼんやりと通りを眺める。  ネオンの光が減り、立ち並ぶ建物の背が少しずつ高くなっている。  無我夢中で走っているうちに、下町の路地を抜け、大通りへと出ていたらしい。  ふと、道路の反対側にあるショーウィンドウに目が止まった
last updateLast Updated : 2026-05-31
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次世代編 第63話 雨上がりの涙

 自分の靴が汚れることなど気にも留めず、大理石の床に這いつくばるようにして、ただ母の命を乞うていた。  (……パパ)  冷え切った唇が、微かに動く。  不思議なことだった。  あんなに息苦しくて、少しでも早く逃げ出したかったはずの家。  父親の偏執的な愛情が充満する、あの白亜の牢獄。  なのに今、頭の中に浮かんでくるのは、あの日、泣き崩れる自分を不器用に支えようとして空を切った、父親の震える大きな手だった。  そして、ベッドの中で静かに呼吸を繰り返す、母の冷たい足先。  外の世界に、王子様なんていなかった。  自分が本当に欲しかったのは、お金で買えるような熱でも、都合よく自分を連れ出してくれる幻想でもなかった。  ただ、自分を見て、その手でしっかりと抱きしめてくれる「家族」の体温だったのではないか。  ベンチから、ゆっくりと腰を上げる。  雨は、いつの間にか完全に上がっていた。  厚い雲の隙間から、青白い月光が真っ直ぐに差し込み、濡れたアスファルトを水鏡のように光らせている。  風が吹き抜け、雨上がりの湿った土の匂いと、アスファルトの埃っぽい匂いが鼻腔をくすぐった。  足の裏の痛みも、膝の擦り傷の痛みも、今は不思議と遠のいていた。  ただ、胸の奥で燻っている、一つの確かな方向へと、足が勝手に動き出す。  大通りを外れ、緩やかな坂道を登っていく。  周囲の建物が、少しずつ低く、そして重厚な門構えを持つ邸宅へと変わっていく。  見慣れた、高級住宅街の景色。  防犯カメラの赤いランプが、一定の間隔で静かに点滅している。  重い足取りで坂を登り切った先に、その場所はあった。  黒光りする、巨大な錬鉄製の門。  その奥にそびえ立つ、白亜の豪邸。  すべての窓には厚いカーテンが引かれ、外からは一切の生活音も光も漏れてこない。  外界を完全に拒絶する、城のような家。  天道邸だった。  門の前に立ち止まる。  見上げる鉄の門は、いつもと変わらず冷たく、威圧的に立ちはだかっている。  自分の足でここから逃げ出したはずなのに、気がつけば、結局ここに戻ってきていた。  ゆっくりと手を伸ばし、門の脇にあるインターホンのボタンを押した。  指先が微かに震える。  ピンポーン、という無機質な電子音が、夜の静寂に吸い込まれていく。
last updateLast Updated : 2026-05-31
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次世代編 第64話 雨上がりの涙

 その顔には、隠しきれない焦燥と驚きが張り付いている。  だが、そのSPたちを押しのけるようにして、前へ進み出てきた影があった。  ネクタイを外し、ワイシャツの第一ボタンを開けたままの、長身の男。 「……結衣」  低く、地を這うような声。  エントランスの明かりを背に受け、父親が立っていた。  いつもなら一分の隙もないはずのシャツの袖は腕まくりされ、髪も無造作に乱れている。  ローファーの底が、敷地内の石畳を踏みしめる。  一歩、また一歩と、エントランスに向かって歩を進めた。  父親の視線が、泥水で汚れきった制服、破れたストッキング、そして血の滲む膝へと向けられる。  普段なら、その不完全な姿に激怒するか、冷たくSPに処理を命じていたはずだ。  だが、今の父親の顔に怒りはなかった。  大きく見開かれた瞳の奥にあるのは、ICUの前で見せたのと同じ、愛するものを失うかもしれないという恐怖の残滓と、ただ無事であったことへの安堵だけだった。  数メートルの距離まで近づいた時。  足の力が完全に抜け、その場に崩れ落ちそうになった。 「っ……!」  だが、冷たい石畳に膝をつくよりも早く。  強い力で、腕を引かれた。  勢いよく前へ引き寄せられ、硬い胸板に額がぶつかる。  シトラスの香水と、微かな汗の匂い。  そして、圧倒的な熱。 「……っ」  父親の大きな腕が、背中から、ずぶ濡れの身体をきつく、きつく抱きしめていた。  泥水で自分の高価なシャツが汚れることなど、微塵も気にしていないかのように。  ただ、骨が軋むほどの強い力で。 「……どこに、行っていた」  頭上から降ってくる声は、怒っているわけではなく、ただ不器用に震えていた。  その体温に触れた瞬間。  雨の中でずっと堪えていたものが、再び決壊した。  レイの部屋から逃げ出し、雨の路地を泣きながら走り続けたあの時よりも、ずっと深い場所から。 「パパ……っ、パパぁ……っ!」  両腕を伸ばし、その硬い背中にしがみつく。  濡れた顔をシャツの胸元に押し付け、子供のように声を上げて泣きじゃくった。 「胸が……痛いの……っ。王子様なんて、いなかった……。誰も、私を連れ出してなんて、くれなかった……っ!」  しゃくり上げるたびに、肺がひきつり、涙が止まらない。  完璧
last updateLast Updated : 2026-06-01
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次世代編 第65話 父の抱擁

 頬を押し付けた硬い胸板の奥から、低く、規則正しい鼓動が伝わってくる。  ドクン、ドクンという一定のリズムは、結衣が幼い頃、雷を怖がって潜り込んだベッドの中で聞いた記憶の中の音と同じだった。  エントランスの大理石の床には、制服から滴り落ちる雨水と泥が、黒いシミを作って広がっている。  征也が羽織っているオーダーメイドの高級な白シャツは、結衣がしがみついている胸元から無残に濡れそぼり、土の汚れがベッタリとこびりついていた。  普段なら、スーツの皺一つ、ネクタイの僅かな歪みすら許さない完璧主義の男だ。  だが今は、泥まみれになることなど微塵も気にかける素振りもなく、ただ大きな腕で、ずぶ濡れの身体を力強く抱きすくめている。  泣き声が喉につかえ、息を吸おうとすると、またしゃくり上げてしまう。  征也のシャツのボタンが頬に当たっていた。痛いのに、顔を離すことができなかった。レイの部屋を出てからずっと、このままどこにも辿り着けないような気がしていた。  背中を包む腕が緩むと、結衣は慌てて濡れたシャツを掴み直した。  征也が抱き直すと、濡れたシャツが頬に冷たく貼りついた。 「離さない。……少し、息をしろ」  頭頂部に乗せられた大きな手のひらが、不器用に、けれど確かな重みを持って髪を撫でる。  その手は、ギターの弦で角質化したレイのざらついた指先とは違う。ペンを握り、何千人もの社員の運命を左右する決断を下してきた、なめらかで硬い大人の手だ。  シトラスの香水と、微かに混じる大人の男の汗の匂い。  濡れたシャツ越しにも征也の身体は温かく、結衣はその胸に、もう少しだけ顔を押しつけた。  エントランスの奥から、足音が近づいてきた。  SPの一人が、大判のバスタオルを抱えて小走りでやってくる。  征也は片手でそれを受け取ると、SPを顎で制して退がらせた。  バサリ、と。  視界が、分厚いコットンの布地で覆われた。  頭からすっぽりとバスタオルを被せられ、両側からゴシゴシと乱暴に水気を拭き取られる。 「痛っ……パパ、痛い」  あまりにも手加減のない力強さに、結衣は涙声のまま抗議した。  布越しの征也の手は、一瞬だけピタリと止まり、次からは少しだけ力が緩んだ。 「……冷える。早く風呂に入れ」  頭にタオルを乗せたまま顔を上げると、征也の険し
last updateLast Updated : 2026-06-01
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次世代編 第66話 父の抱擁

 階段を上る途中、一度だけ振り返ると、征也は濡れたシャツのまま、大理石の床に落ちた泥の染みを静かに見つめていた。◇ シャワールームは、白い湯気で真っ白に曇っていた。  熱いお湯が、冷え切った頭頂部から肩、背中へと流れ落ちていく。  氷のように冷たくなっていた皮膚が、急激な温度変化にビリビリと痺れるような感覚を覚える。  結衣は壁のタイルに両手をつき、流れ落ちるお湯に顔を晒した。  擦りむいた膝の傷口にお湯が染み、鋭い痛みが走る。  だが、その痛みよりも、胸の奥で渦巻く感情の方がよほど痛かった。  シャワーの音に紛れて、再び嗚咽が漏れる。  白熱灯の下でサラシを解いた、レイの滑らかな肩のライン。  錆びた缶から取り出された、莉子の古い写真。  そして、レイの左胸の下で静かに鼓動を刻んでいる、莉子が繋いだ命の音。 「私……ママみたいに、優しくなれなかった……っ」  タイルに額を押し付け、声を出して泣いた。  三百万円のヴィンテージギターを差し出した時、レイがすぐには手を伸ばさなかったことを思い出す。あの沈黙を、驚いているのだと思った。喜んでいるのだと、勝手に決めてしまった。  何を言えばよかったのだろう。歌を聴かせてほしい。それだけでは足りなくて、自分のためだけに歌ってほしくなった。  征也に行き先を決められるたび、あんなに嫌がっていたくせに。  指で腕を擦ると、爪の跡が白く残った。さっきまで、その腕を抱いてくれていた征也にまで腹が立ち、そんな自分がますます嫌になる。  レイに会いたかった。もう会いに行けないと思うと、せっかく止まりかけた涙が、また熱い湯に混ざった。  シャワーの蛇口を捻り、お湯を止める。  換気扇の回る低い音だけが、浴室に響いている。  結衣はバスタオルで身体を拭き、用意されていた清潔なパジャマに袖を通した。  柔らかいコットンの感触が、今はひどく居心地が悪く感じられた。  洗面台の鏡を見る。  泣き腫らした目は赤く充血し、まぶたは無様に腫れ上がっていた。  完璧な令嬢の面影はどこにもない。  ただの、失恋して、自分の愚かさに打ちのめされた十五歳の子供の顔だ。  結衣は深呼吸を一つして、洗面所のドアを開けた。◇ 階段を降りて一階のリビングへ向かうと、部屋の明かりは間接照明だけが点灯され、薄暗く落
last updateLast Updated : 2026-06-02
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次世代編 第67話 父の抱擁

 天道家で出される飲み物といえば、完璧に抽出された紅茶か、専門の業者が焙煎したコーヒーが常だ。こんな市販のココアのような、子供じみた甘い匂いがリビングに漂うのは、莉子が倒れて以来、初めてのことかもしれない。 「冷めないうちに飲め」  征也がマグカップを指差す。  結衣は両手でカップを包み込むようにして持ち上げた。  陶器の厚みを通して伝わってくる、火傷しそうなほどの熱。  あの高架下の自動販売機でレイが手渡してくれた、赤い缶コーヒーの熱さを思い出し、胸の奥がチクリと痛む。  フーフーと息を吹きかけ、一口だけ口に含む。  舌が痺れるほどの甘さが、喉の奥へと流れ込んでいった。 「……パパが、淹れたの?」  結衣がカップから顔を上げずに尋ねると、征也はわずかに眉を動かした。 「三田村に頼んだ」  即答だった。 「……やっぱり」  結衣の口から、ふっと小さな笑い声が漏れた。  あの完璧な秘書が、キッチンでココアの粉をお湯で溶かしている姿を想像すると、少しだけ滑稽で、張り詰めていた肩の力が抜けた。  征也は自分の前のマグカップには手をつけず、ただ結衣がココアを飲む様子を静かに見つめている。  カチャリ、とマグカップをソーサーに戻す音が、静寂のリビングに響いた。 「怒らないの」  結衣は、膝の上で両手を組みながら、征也の顔を真っ直ぐに見た。 「SPの目を盗んで、勝手に出歩いて……あんな泥だらけになって帰ってきて」  普段なら、烈火の如く怒るか、あるいは冷たく失望の言葉を口にするはずだ。  だが、征也の瞳は、凪いだ水面のように静かだった。  征也は口を開きかけ、結衣の膝へ目を落とした。パジャマの裾が、さっき貼った絆創膏に引っかかっている。 「膝は」 「洗って、薬も塗った。……そんなに痛くない」  裾を直すふりをして、結衣は膝を隠した。征也の前でまで痛がったら、また子供扱いされそうだった。 「次は電話をしろ。迎えに行く」 「怒るくせに」 「怒るだろうな」  征也はそう言って、手をつけていなかったココアを持ち上げた。ひと口飲むなり眉を寄せたが、カップを置かずに続けた。 「それでも、電話をしろ」  結衣は返事の代わりに、カップの縁へ口をつけた。 「……私ね」  結衣はカップを戻し、膝の上で手を組んだ。 「好きな人がいた
last updateLast Updated : 2026-06-02
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次世代編 第68話 父の抱擁

 征也はしばらく黙っていた。  結衣が膝の上で指をほどくと、その小さな動きに気づいたように目を上げる。 「莉子にも、同じような顔をさせた」  低い声だった。結衣は、抱えていたタオルから手を離した。 「何でも揃えた。どこへも行かなくていいように。……それで、あいつが喜ぶと思っていた」  征也はソファーに深く座り直した。いつもなら膝の上にある書類も、鳴り続ける電話も、今はない。何も持たない両手が、ひどく大きく見えた。 「ママは、嫌だったの?」  征也の口元が歪む。 「嫌だと言っていた。俺が聞かなかった」  結衣はカップへ目を落とした。薄い膜の張ったココアに、照明がぼやけて映っている。 「事故のあとも、考えた。あの日、俺が止めていれば、と」  征也はそこで言葉を切り、寝室へ続く階段の方を見た。 「だが、莉子はあの子を見たら助けに行く。俺が何を言っても、きっとな」  莉子の声を思い出すには、結衣の記憶はあまりにも頼りなかった。それでもレイの部屋で見た写真の笑顔なら、まだ瞼の裏にはっきりと残っている。 「分かっていても、怖い。お前たちが帰るのが遅いだけで、ろくでもないことを考える」  征也は結衣の膝に視線を戻した。タオルの隙間から覗いた絆創膏を見て、眉間にまた皺が寄る。 「パパ。これは転んだだけ」 「……分かっている」  そう答えるまでに間があった。結衣はタオルを膝からどけた。隠している方が、この人は心配するのかもしれない。 「あの人に、謝ったの。でも、もう会いに行けないと思う」 「そうか」 「まだ好きなのに」  最後の言葉は、口の中で潰れた。征也に聞かせるつもりではなかった。  鼻の奥が痛み、慌ててカップを持ち上げた。征也は立ち上がると、向かい側から結衣の隣へ移ってきた。何か言われると思って身を固くしたが、頭へタオルがかけ直されただけだった。  今度の手つきは、さっきよりずっと静かだった。 「……ココア、こんなに甘くなくていいのに」  征也の手が止まる。 「お前は、甘いものが好きだったから」 「好きだけど。……パパは飲めないでしょう」  笑おうとした声が震えた。カップを置き、タオルの端で目を押さえる。征也は手を引っ込めず、結衣の髪が乾くまで、そこに座っていた。◇ ココアがすっかり冷める頃、窓の外に薄い月明かりが戻
last updateLast Updated : 2026-06-02
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次世代編 第69話 似た者同士

 天道グループ本社ビルのエントランスを抜けると、磨き上げられた大理石に、真新しい革靴の音が響いた。  以前ここへ乗り込んだ時は、雨で黒ずんだスニーカーを履いていた。ネクタイなど締めず、征也に叩きつける言葉ばかり考えていた。今日は用意してきた言葉が、エレベーターの階数表示を見上げているうちに、ひどく頼りなくなっていく。  三田村に通された社長室で、征也は書類へサインしていた。  陽向が立ち止まると、万年筆の先が紙から離れた。 「その靴、まだ痛むのか」  知らず、右足に体重をかけていた。踵の靴擦れを言い当てられたようで、陽向は足を揃える。 「もう平気だ。それより、親父」  征也が顔を上げた。 「ここで働かせてほしい。講義のない時間からでいい。ちゃんと仕事を覚えたい」  言ってしまうと、喉が乾いた。征也は万年筆の蓋を閉め、机に置いたが、すぐには何も言わなかった。 「結月さんの店の時、俺、何もできなかっただろ。怒鳴って、相手を怖がらせて……結局、あの人まで怖がらせた」  征也の前で口にするのは、思った以上にきつかった。木崎を黙らせた時の自分の声が、耳に戻ってくる。 「あんたが呼んだ人たちは、俺ができなかったことをやった。録音を聞いて、書類を作って。それで店の嫌がらせが止まった」  陽向は机の端を見つめた。整然と積まれた書類のどれ一つ、今の自分には扱えない。 「悔しいけど、教えてほしい。あんたの下で」  頭を下げると、椅子の軋む音が聞こえた。 「顔を上げろ。まず、履修の予定を三田村に渡せ」  陽向が顔を上げても、征也はいつもの顔をしていた。 「明日から営業部第三課へ行け。授業と重なる日は先に伝えておけよ。先輩がつく」 「社長室で使うんじゃないのか」 「俺が教えるより、よほど仕事になる」  征也は内線を取り、配属先へ短い連絡を入れた。陽向の知らない人の名が出て、勤務の話が進んでいく。その間も、下げた頭の熱がなかなか引かなかった。  受話器を戻した征也が、陽向を見た。 「向こうにも仕事がある。分からないまま引き受けて、黙って抱え込むな」 「分かった。……一番下からやるよ」 「当然だ。誰の上に立てるつもりだった」  言い返しかけて、やめた。机に置かれた書類の厚みに、初めて少し気後れしていた。 「ただ、親父みたいになりたいわけじゃ
last updateLast Updated : 2026-06-03
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