All Chapters of 没落令嬢の家政婦契約 ~冷酷CEOは、初恋を逃さない~: Chapter 461 - Chapter 470

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次世代編 第80話 病室の食卓

「ごちそうさまでした」  小さな声が重なる。  窓の外で雲が切れ、午後の日差しが床へ伸びていた。  陽向は丸椅子に座り直し、大きく伸びをした。  背骨がポキポキと鳴る。 「……腹いっぱいだ」 「私も。お腹苦しい」  結衣が自分のお腹を軽くさすりながら、満足げに息を吐く。  征也は、再び莉子のベッドの横に寄り添い、シーツの下から右手をそっと取り出した。  大きな両手で、その冷たい指先を包み込む。  いつもと同じ、静かな動作。  片づけを終えた結衣が、保温ボトルを袋へしまっている。蓋を締める音に、征也は肩越しに目を向けた。  その時、掌の中で、莉子の人差し指がかすかに動いた。 「……!」  征也の肩が、ビクンと大きく跳ねた。  息を呑む音が、病室に響く。  陽向と結衣が、弾かれたように顔を上げた。 「親父……? どうした」  陽向が身を乗り出す。  征也は、莉子の手元を食い入るように見つめたまま、完全に硬直していた。  琥珀色の瞳が、信じられないものを見るように大きく見開かれている。  征也の包み込むような両手の中で、莉子の指先は、再び動くことはなかった。  指を動かしたのは自分だったのかもしれない。征也は呼吸を止めたまま、手を緩めた。  もう一度。ほんの少しでいい。  白い指先を見つめても、さっき掌を擦った感触は戻らなかった。 「……いや」  征也は、震えそうになる声を必死に押し殺し、ゆっくりと首を横に振った。  莉子の手を、今まで以上に優しく、大切に握り直す。 「なんでもない。……ただの、気のせいだ」  そう答えながらも、征也の心臓は、肋骨を突き破るほどの激しい早鐘を打っていた。  十二年間。  どんなに呼びかけても、どんなに手を握りしめても、一度たりとも返ってくることのなかった微かな反応。  今の動きは、本当に莉子が返してくれたものなのだろうか。  ベッド脇では、電子音が変わらず続いていた。窓からの光が、莉子の頬と、シーツの上に重なった二人の手を照らしている。 「親父」  陽向が立ちかけた。征也は顔を上げ、首を横に振る。 「……もう少し、座っていろ」  息子は何も聞き返さず、椅子を引き寄せた。結衣も袋を床へ下ろし、ベッドの向こうへ回る。  せっかく三人で笑っていた。子供たちを期待させて、ま
last updateLast Updated : 2026-06-08
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次世代編 第81話 継承

 初夏の湿った風が、汗ばんだ首筋を撫でていく。  駅前の雑踏を抜け、見覚えのある路地へと足を踏み入れた。  営業回りで一日中歩き回った革靴の底が、アスファルトを硬く叩く。すり減った踵の感触が、足の裏に確かな疲労と重みを伝えてきていた。  ネクタイの結び目を少しだけ緩め、深く息を吸い込む。  色褪せた暖簾が下がる『あさひな食堂』の前に立ち止まった。  数週間前、引き戸のガラスに投げつけられていた生卵の痕も、散乱していたゴミも、今はない。綺麗に掃き清められた入り口からは、出汁と醤油の甘辛い匂いが漂い、店内から複数の客の笑い声と食器の触れ合う音が漏れ聞こえてくる。  木崎たちによる嫌がらせが、警察と大学の調査、投稿削除などの手続きを経て収まってから、店には少しずつ穏やかな日常が戻っていた。  引き戸に手をかけ、ゆっくりと横へ滑らせる。  ガラガラと鳴る音に、店内から「いらっしゃいませ」という活気のある声が響いた。  パイプ椅子の並ぶテーブル席は、仕事帰りのサラリーマンや近所の常連客で八割方埋まっている。  カウンターの奥で、白髪交じりの結月の父親が、小気味良い音を立ててフライパンを振っていた。 「……あ」  お盆に水の入ったグラスを乗せて歩いていた結月が、入り口に立つスーツ姿の客に気づき、ピタリと足を止めた。  ネイビーのカーディガンに、白いエプロン姿。  グラスの中の氷が、カランと小さな音を立てる。  結月の眼鏡の奥の瞳が、驚きで見開かれていた。  以前、この場所で会った時に見せた、震えるような恐怖の色はない。だが、戸惑いと緊張で、お盆を持つ指先が微かに白くなっている。 「……一人だ」  短く告げると、結月は弾かれたように瞬きをし、一番端の空いているカウンター席へと視線を泳がせた。 「……どうぞ」  掠れた声に促され、パイプ椅子に腰を下ろす。  冷たい水が目の前に置かれた。グラスの表面に結露した水滴が、蛍光灯の光を反射している。 「日替わり定食を」 「……はい」  結月は足早に調理場へと戻っていった。  周囲の客の話し声や、テレビから流れるニュースの音を聞きながら、冷たい水を一口飲む。  乾ききった喉を、冷気が滑り落ちていった。  五分ほどで、湯気を立てるお盆が目の前に運ばれてきた。  生姜焼きの濃厚な匂いと、味噌
last updateLast Updated : 2026-06-09
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次世代編 第82話 継承

 店の裏手にある児童公園では、街灯の光が錆びたブランコを薄く照らしていた。  陽向は自販機で買った缶のお茶を、ベンチに座った結月へ渡した。受け取る指に触れそうになって、手を引く。 「店、賑わってたね」 「うん。電話も、もう鳴らなくなった。お父さん、久しぶりに仕込みが足りないって言ってた」  結月が缶を両手で包んだ。昼間の熱を残した地面を、風が低く渡っていく。 「天道くんにも、お礼を言いたいって。今日、来てくれたのに言いそびれちゃった」  陽向は膝に置いた自分の缶を見つめた。礼を言われるたび、あの日の彼女の顔を思い出す。 「結月さん。俺、謝りたくて来たんだ」  隣で、服の擦れる音が止まった。 「木崎のことも、結月さんにしたことも。怖がってるのに、俺は、自分が何とかしなきゃって、そればっかりで」  用意していた言葉が途切れた。こんな時まで自分の話をしていると思い、陽向は俯いた。 「……ごめん」  ブランコの鎖が風に鳴った。結月は缶の飲み口を指で撫でていたが、やがて小さく息を吐いた。 「あの時、何を言っても聞いてもらえない気がしたの」  陽向は顔を上げた。 「助けてもらったのに、こんなこと言っちゃいけないのかなって。それも、嫌だった」 「言っていいよ。俺に遠慮しないで」  そう答えてから、簡単に言いすぎた気がした。彼女は、その一言さえ言えなくなっていたのだ。  結月の目を見ようとすると、視線がぶつかった。陽向は逸らさずにいたが、何を言えばいいかは、もう分からなかった。 「電話で、二度と来ないでって言ったでしょう」  結月の声が揺れた。 「今日、お店に入ってきた時、びっくりした。でも……帰ってほしいとは、思わなかった」  陽向の缶を握る指が緩んだ。口にしかけた言葉を飲み込み、深く息を吐く。 「会いたかった」  ようやくそれだけ言うと、結月が俯いた。髪に隠れた耳が、少し赤く見えた。  しばらく、二人とも黙っていた。 「スーツ、似合ってたね」  思いがけない言葉に、陽向は自分の袖を見た。 「中身が追いついてない。見積書、何度も戻されるし、今日も一日、先輩に聞いてばっかりだった」 「お仕事、始めたんだ」 「親父の会社で。まだ、覚えることだらけ」  結月が小さく笑った。陽向も笑い、ベンチに置いた手を少しずらす。その指先に
last updateLast Updated : 2026-06-09
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次世代編 第83話 継承

「急だよね。嫌なら、別の日でも……」  言い足すうちに、結月の指が下からそっと握り返してきた。 「日曜日、お店はお父さんに頼めると思う」  顔を上げると、彼女もこちらを見ていた。 「私でよければ、会わせて」  陽向は頷いた。嬉しいと言えばいいのに、うまく声にならなかった。結月の手を握り返すと、触れている指先から、ゆっくり力が返ってきた。◇ 日曜日の午後。  特別病棟の廊下は、いつものように消毒液とリノリウムの冷たい匂いに包まれていた。 「……どうしよう、すごく緊張する」  隣を歩く結月の声は、いつもより少し高かった。  淡いベージュのワンピースに、白いカーディガンという控えめな装い。だが、その足元はヒールの低いパンプスの中で不自然に強張っており、歩くたびにコツン、コツンとぎこちない音が響いている。 「大丈夫だ。取って食われやしない」 「でも、あんなすごい会社の社長さんだし……挨拶くらいきちんとするようにって、お父さんにも散々言われて……」 「面接じゃないんだから」  苦笑しながら、重厚な二重扉の前に立つ。  待機しているSPたちが、見慣れない少女の姿に一瞬だけ鋭い視線を向けたが、陽向が短く顎を引くと、無言で道を開けた。 「……行くぞ」  結月の右手を、しっかりと握りしめる。  冷え切って汗ばんだ小さな手が、ビクッと強張ったが、すぐに陽向の指の間にギュッと力を込めてすがりついてきた。  その温もりと震えを掌に感じながら、ドアノブを回した。  病室の中は、西日が差し込み、カサブランカの白い花びらを淡いオレンジ色に染め上げていた。  ピッ、ピッというモニターの規則正しい音が、静かな空間に響いている。  ベッドの横に置かれた丸椅子には、ダークグレーのシャツにスラックス姿の征也が腰掛けていた。  シーツの上に置かれた莉子の手を、大きな両手で包み込んでいる。  ドアの開く音に気づき、征也がゆっくりと振り返った。  その瞬間。  病室の空気が、ピリッと張り詰めたような気がした。  征也の琥珀色の瞳が、陽向の隣に立つ結月に向けられる。  頭のてっぺんから足の先までを見透かすような、鋭く、重みのある視線。  結月の肩が、ビクンと大きく跳ね、握られた手にギュッとさらに強い力がこもった。 「……親父。紹介する」  陽向は、結
last updateLast Updated : 2026-06-10
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次世代編 第84話 継承

「天道征也です。陽向が、お世話になっています」  結月が目を瞬かせた。陽向も思わず征也を見た。征也はその視線を受けたまま立ち上がり、壁際の椅子をこちらへ向けている。 「は、はい。いえ、こちらこそ……」  また頭を下げかけた結月へ、陽向は小さく笑いかけた。自分まで緊張していたことに気づく。 「親父。この前の店のことで、結月さんのお父さんも、お礼をって」 「営業は、もう落ち着きましたか」  結月は椅子の背に指を添え、今度は征也の顔を見て頷いた。 「はい。おかげさまで。父も、元気にしています」 「それはよかった」  征也はそれ以上仕事の話をせず、莉子の方へ身体を向けた。陽向は結月と一緒にベッドへ近づく。 「母さん。朝比奈結月さんだよ。俺の、大事な人」  自分の声が、静かな部屋に思いのほか大きく響いた。  透き通るように白い莉子の頬には、午後の日差しが当たっている。鼻元の細いチューブを見て、隣の結月が息を呑んだ。  陽向は握っていた手を少し緩めた。結月は手を離さず、空いている方の手でカーディガンの裾を直す。 「初めまして、朝比奈結月です」  ベッドの上へ向けた声は、征也への挨拶よりもずっと柔らかかった。 「今日、お会いできて嬉しいです」  莉子は目を閉じたままだった。陽向は返事のないことを知っていたのに、唇のあたりを見つめてしまった。  結月がそっとこちらを見た。 「……お母様、お綺麗な方だね」 「ああ。自慢の妻だ」  答えたのは征也だった。陽向より先に口を出したことなど気にする様子もなく、枕にかかった莉子の髪を整えている。 「そこは譲らないんだな」  陽向が言うと、結月の口元がほころんだ。  征也は妻の手をシーツの上へ戻し、二人を見た。陽向の手は、まだ少し汗ばんでいた。結月が指を動かし、握りやすいように繋ぎ直してくれる。  征也の視線がそこへ落ちたので、陽向は照れくさくなった。それでも離したくはなかった。 「結月さん」  呼ばれた結月が背を伸ばす。 「こいつは意地を張ると、ろくに人の話を聞かん。困らせているでしょう」 「親父」  止めかけた陽向より早く、結月が小さく笑った。 「……少し。でも、今日は聞いてくれています」  陽向は彼女の顔を見た。言ってから困ったように笑う結月へ、征也も口元を緩める。 「そうで
last updateLast Updated : 2026-06-10
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次世代編 第85話 十二年目の異変

 深夜。特別病棟の空気は、日中のそれよりも一段と密度を増し、重たく張り詰めていた。  無機質な照明に照らされた室内で、莉子の身体を包むシーツが、ベッド脇のモニター音に合わせて規則正しく上下している。  征也は、いつものようにベッドサイドの丸椅子に腰を下ろしていた。  手元には、秘書の三田村が用意した大量の書類が入ったアタッシュケースがある。だが、今日の征也の手は、万年筆を握ることも、タブレット端末をスワイプすることさえなかった。  ただ、莉子の右手を自らの掌の中に納め、その細い指先を親指の腹で何度も、何度もなぞり続けている。  十二年。  この閉ざされた空間で、莉子の体温を感じるためだけに費やしてきた時間。  どれほど世間から冷血な独裁者と後ろ指を指されようと、どれほど子供たちを過保護という名の壁で囲ってしまおうと、この病室に戻れば、征也はただ一人の無力な男に戻れた。  莉子の瞳が開くことはない。  その事実を、毎夜、毎夜、自分自身に言い聞かせてきた。  シュコー、シュコー。  一定の呼吸音が耳に馴染む。  征也は目を閉じ、莉子の指の関節を一つずつ丁寧に解すようにマッサージを続けた。  皮膚は驚くほど薄く、まるで和紙のように繊細だ。少し力を入れるだけで、壊れてしまいそうな危うさを、その肌は常に纏っている。  その時。  視界の端で、莉子の指先が微かに動いた。  征也は目を見開いた。  幻覚ではない。確かに、握りしめていた莉子の人差し指が、征也の掌の中で、頼りない力でピクリと引き金を引くように跳ねたのだ。  心臓が、肋骨を内側から激しく叩く。  征也は莉子の指先を固定し、食い入るように見つめた。  だが、莉子の人差し指は再び静止した。  以前と変わらぬ、冷たいままの白い指。 「……莉子?」  掠れた声が口から出る。  返事はない。  征也は莉子の手を両手で包み込み、自分の頬に押し当てた。  滑らかな肌の感触が、頬の熱をじわりと奪っていく。  何か、変化があるのかもしれない。  医者はいつも「現状維持」と言い続けてきた。だが、あの日、陽向と結衣と共にこの病室で食事をしてから、莉子の周りの空気が、ほんの少しだけ、揺らぎ始めているように感じていた。  征也は、ベッドの横に置かれたモニターへ視線を移した。  一定のピ
last updateLast Updated : 2026-06-11
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次世代編 第86話 十二年目の異変

 征也は莉子の手を握りしめたまま、その顔を覗き込んだ。  起きてくれ。  起きてくれ、莉子。  征也の喉の奥から、うめきのような祈りが漏れる。  モニターの数値が、さらに激しく変動する。  まるで誰かと会話をしているかのように、脳波のパターンが複雑な形を描く。  莉子のまぶたが、ゆっくりと、ひどく重そうに持ち上がった。  征也は息を止める。  莉子の瞳が、光を求めて彷徨っている。  焦る気持ちを抑え、征也は莉子の頬に手を添えた。 「莉子……帰ってきたのか」  莉子の唇が、微かに開く。  呼吸器の空気がシューッと漏れ、かすかな音が唇の間から紡がれる。  それは、言葉にならない、無意味な吐息だった。  莉子は再び目を閉じ、長い溜息と共に、深い眠りの中へと沈んでいった。  モニターの数値が、ゆっくりと、元の一定した波形へと戻っていく。  征也は、肩から力が抜けるのを感じて、その場に崩れ落ちそうになった。  まだ、だった。  莉子は帰ってきていない。  今の反応は、ただの神経の暴走か、あるいは深い眠りの中で見た、一瞬の夢の残滓に過ぎないのか。  征也は莉子の頬を撫でる指先に、自分の額を預けた。  期待した分だけ、全身が泥に沈むような重たさに支配される。 「……また、夢か」  莉子の冷たい手を、もう一度自分の胸元へと引き寄せる。  あの日、事故に遭った時。  自分は、彼女を本当に失ってしまったのかもしれない。  自分に見せていたあの温かい笑顔も、優しい声も、すべては十二年前に、アスファルトの上で砕け散ってしまったのではないか。  征也の瞳から、一筋の熱い雫がこぼれ、莉子のシーツの上に落ちた。  窓の外、深夜の街には、まだ暗い闇が広がっている。  病院の廊下では、当直の医師たちが、莉子のモニターの変化について緊急の検討を始めている声が聞こえる。  征也は莉子の手を握ったまま、動かなくなった彼女の横顔をじっと見つめ続けた。  奇跡など、この世には存在しない。  ただ、残酷なまでの冷たい時間が、彼女の命を少しずつ、少しずつ摩耗させていくだけだ。  征也は、そう自分に言い聞かせるように、莉子の手のひらに何度も唇を寄せた。  どれほど時間が流れても、この部屋から出るつもりはない。  たとえ、莉子が永遠に目覚めることの
last updateLast Updated : 2026-06-11
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次世代編 第87話 魔王の涙

 夜明け前の病室には、静けさだけが戻っていた。  数時間前、莉子の脳波にこれまでとは違う揺らぎが現れた。担当医は慎重な顔で、断定はできない、と何度も繰り返した。外部刺激への反応の可能性。浅い眠りと深い眠りの境目に似た波形。医学的には、まだ希望と呼ぶには早すぎるもの。  それでも、征也には十分すぎた。  十分すぎるほど、怖かった。  医師たちが経過観察へ移り、看護師が計器の数値を確認して病室を出ていくと、白い扉が音を吸い込むように閉まった。廊下の足音が遠ざかり、モニターの規則正しい電子音だけが、また莉子の傍らに残る。  征也はベッドサイドの椅子に座り直し、莉子の手を両手で包み込んだ。  冷たい。  けれど、完全な冷たさではない。皮膚の奥に、ごく細く、消えかけの火種のような体温がある。十二年間、征也はその火種だけを信じてきた。  信じてきたはずなのに。  今夜だけは、その小さな温度が、刃物のように胸を切った。 「……陽向がな」  いつものように、征也は報告から始めた。  報告ならできる。業績の数字を読み上げる時と同じように、感情を閉じ込め、事実だけを並べればいい。莉子が眠り続けた十二年間、征也はそうやって、毎夜この病室に言葉を置いてきた。 「俺のところで学ぶと言い出した。営業の現場からだ。あいつらしい。最初から役員室に座らせろと言えば簡単だったが、陽向はそれを選ばなかった」  莉子の指先を親指でなぞる。 「似ている。嫌になるほど、俺に似ている。怒り方も、守ろうとする時に力で押し切ろうとするところも、相手の怖がる顔に気づくのが遅いところも」  そこで、言葉が少しだけ途切れた。  酸素を吸い込んでも、胸の奥まで届かない。喉の奥に、ざらついた石のようなものが引っかかっていた。 「だが、俺よりはずっとましだ」  征也は、莉子の手を握る力を弱めた。  強く握れば壊してしまう。そんな当たり前のことに、ようやく気づき始めた自分が、ひどく滑稽だった。 「陽向は、相手の顔を見る。怖がらせたと気づけば、手を離そうとする。……俺には、それができなかった」  心電図の音が、規則正しく耳を打つ。  ピッ、ピッ、ピッ。  その間隔の一つひとつが、征也に言葉を強いた。 「結衣は、失恋した」  かすかに口元を緩めようとして、失敗した。 「お前に似て
last updateLast Updated : 2026-06-12
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次世代編 第88話 魔王の涙

「莉子」  名前を呼んだ瞬間、喉が震えた。  もう、報告では逃げられなかった。 「俺は……」  言葉が出ない。  十二年前から、ずっと胸の奥に沈めてきた一言がある。認めてしまえば、自分のしてきたすべてが崩れる。莉子を守るためだと積み上げてきた城が、ただの独りよがりな檻だったと認めなければならない。  征也は、莉子の手を額に押し当てた。  冷たい指先に、熱い呼吸がかかる。 「俺が、間違っていた」  ようやく吐き出した声は、ひどく小さかった。  だが、その一言は病室の白い壁にぶつかり、逃げ場もなく征也へ跳ね返ってきた。 「守っているつもりだった。お前を、世界の汚いものから遠ざけて、傷つかない場所に閉じ込めておけば、それでいいと思っていた」  莉子のまぶたは動かない。 「違う。俺は、お前を守ったんじゃない。奪ったんだ」  言い切った瞬間、胸の奥で何かが折れた。  征也の肩が落ちる。背筋を支えていた見えない鋼線が、一本ずつ切れていくようだった。 「お前の自由を奪った。息苦しさも見なかった。愛していると言いながら、お前が何を望んでいるか、聞こうともしなかった。俺の手の届く場所にいれば安心できる。俺が安心したいだけだった」  掌の中の莉子の手は、相変わらず細い。  事故の日から、少しずつ肉が落ちてしまった手。かつては陽向の頬を叩き、結衣の髪を結い、征也の不器用なネクタイを直してくれた手。  その手に、征也はどれだけ縋ってきたのだろう。 「莉子が倒れてからも、俺は同じことをした。眠っているお前をこの部屋に閉じ込めて、誰にも触れさせず、誰にも近づけず、俺だけが分かっているような顔をしていた」  声が、少しずつ崩れていく。 「子供たちを守ると言いながら、見ていなかった。陽向がどんな顔で家を出たか。結衣がどれだけ俺の顔色を窺って笑っていたか。知っていたはずなのに、見なかった。見れば、自分が壊したものを認めなければならなかったからだ」  征也は歯を食いしばった。  それでも、涙は止まらなかった。  一滴、莉子の手の甲へ落ちる。  透明な雫が、白い肌の上で小さく弾けた。 「陽向が俺を憎むのは当然だ。あいつは、俺の怪物じみたところを一番近くで見ていた。俺の血を怖がって、自分が俺と同じになることを拒んだ。……それでも、あいつは戻ってきた。俺
last updateLast Updated : 2026-06-12
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次世代編 第89話 魔王の涙

「だから……一度でいい」  征也の喉から、子供のような息が漏れた。 「一度でいいから、俺の名前を呼んでくれ」  その瞬間、病室の扉の外で、小さな衣擦れの音がした。  征也は気づかなかった。  扉は、完全には閉まっていなかった。看護師が出入りした時に、ほんの指一本分だけ隙間が残っていたのだ。  その向こうで、陽向と結衣が立ち尽くしていた。  陽向は、握っていたスマートフォンの電源を落とすことも忘れていた。画面には父からの短いメッセージが残っている。  ――莉子に変化があった。まだ確定ではない。来られるなら来い。  命令のようでいて、初めて共有された弱さだった。  陽向は、扉の隙間から見える父の背中を見つめた。  かつては壁のように巨大だと思っていた背中が、今はベッドの脇で折れ曲がっている。莉子の手に縋りつき、顔を上げることもできず、何度も、何度も謝っている。  陽向の胸に、長く張りついていた硬いものが、ほんの少し形を変えた。  怒りは消えない。けれど、目の前の父は、初めて弱い人間の顔をしていた。  そう分かったからといって、陽向の中の怒りがすべて消えるわけではなかった。十二年の孤独は、たった一夜の懺悔で帳消しにできるほど軽くない。  それでも、父が怪物ではなく、怪物のふりをしなければ立っていられなかった人間だったのだと、初めて思った。  隣で、結衣が両手で口元を覆っている。  涙が、指の隙間から零れていた。  理想の父。完璧な父。どんな願いも叶えてくれる、強くて冷たい魔王。  その幻が、音もなく崩れていく。  崩れた下にいたのは、莉子の名を呼ぶことしかできない、不器用すぎる夫だった。  結衣は胸の奥を押さえた。  レイに拒まれた夜の痛みが、遠い場所で微かに疼く。  あの時の自分も、相手を見ているつもりで、本当は自分の寂しさばかり見ていたのかもしれない。  唇を噛むと、涙の味がした。  病室の中で、征也はまだ莉子の手を握っていた。 「戻ってこい、莉子」  声は、もう命令ではなかった。 「俺のためじゃなくていい。陽向のためでも、結衣のためでもいい。お前が戻りたいと思う場所へ戻ってこい。……俺は、そこにいる。今度は、お前を閉じ込めるためじゃない。お前が歩く時、転ばないように、隣で手を出すためにいる」  言い終えると、
last updateLast Updated : 2026-06-12
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