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スピンオフ第173話:病室の食卓⑤

「ごちそうさまでした」 小さな声が重なる。 窓の外では、夕暮れの赤い光が、厚い雲の隙間から差し込もうとしていた。 陽向は丸椅子に座り直し、大きく伸びをした。 背骨がポキポキと鳴る。「……腹いっぱいだ」「私も。お腹苦しい」 結衣が自分のお腹を軽くさすりながら、満足げに息を吐く。 征也は、再び莉子のベッドの横に寄り添い、シーツの下から右手をそっと取り出した。 大きな両手で、その冷たい指先を包み込む。 いつもと同じ、静かな動作。 だが、その背中は、以前のように孤独な重圧に押し潰されそうなものではなかった。 部屋の中には、まだ微かに唐揚げの油の匂いと、ほうじ茶の香ばしさが漂っている。 無菌室のように冷たかった空間が、人間の体温と生活の匂いで満たされている。 その時だった。 征也の両手の中で。 莉子の細い人差し指が。 ピクリと。 わずかに、本当にわずかに、痙攣するように動いた。「……!」 征也の肩が、ビクンと大きく跳ねた。 息を呑む音が、病室に響く。 陽向と結衣が、弾かれたように顔を上げた。「親父……? どうした」 陽向が身を乗り出す。 征也は、莉子の手元を食い入るように見つめたまま、完全に硬直していた。 琥珀色の瞳が、信じられないものを見るように大きく見開かれている。 征也の包み込むような両手の中で、莉子の指先は、再び動くことはなかった。 ただの筋肉の反射だったのか。 それとも、錯覚だったのか。 だが、征也の手のひらには、確かに。 冷たい指先が、内側から微かな力を込めて、こすれるような感触があった。「……いや」 征也は、震えそうになる声を必死に押し殺し、ゆっくりと首を横に振った。 莉子の手を、今まで以上に優しく、大切に握り直す。「なんでもない。&
last updateآخر تحديث : 2026-06-08
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スピンオフ第174話:紹介、そして継承①

 初夏の湿った風が、汗ばんだ首筋を撫でていく。 駅前の雑踏を抜け、見覚えのある路地へと足を踏み入れた。 営業回りで一日中歩き回った革靴の底が、アスファルトを硬く叩く。すり減った踵の感触が、足の裏に確かな疲労と重みを伝えてきていた。 ネクタイの結び目を少しだけ緩め、深く息を吸い込む。 色褪せた暖簾が下がる『あさひな食堂』の前に立ち止まった。 数週間前、引き戸のガラスに投げつけられていた生卵の痕も、散乱していたゴミも、今はない。綺麗に掃き清められた入り口からは、出汁と醤油の甘辛い匂いが漂い、店内から複数の客の笑い声と食器の触れ合う音が漏れ聞こえてくる。 木崎たちによる嫌がらせが、父親の圧倒的な力によって完全に排除されてから、店にはかつての穏やかな日常が戻っていた。 引き戸に手をかけ、ゆっくりと横へ滑らせる。 ガラガラと鳴る音に、店内から「いらっしゃいませ」という活気のある声が響いた。 パイプ椅子の並ぶテーブル席は、仕事帰りのサラリーマンや近所の常連客で八割方埋まっている。 カウンターの奥で、白髪交じりの結月の父親が、小気味良い音を立ててフライパンを振っていた。「……あ」 お盆に水の入ったグラスを乗せて歩いていた結月が、入り口に立つスーツ姿の客に気づき、ピタリと足を止めた。 ネイビーのカーディガンに、白いエプロン姿。 グラスの中の氷が、カランと小さな音を立てる。 結月の眼鏡の奥の瞳が、驚きで見開かれていた。 以前、この場所で会った時に見せた、震えるような恐怖の色はない。だが、戸惑いと緊張で、お盆を持つ指先が微かに白くなっている。「……一人だ」 短く告げると、結月は弾かれたように瞬きをし、一番端の空いているカウンター席へと視線を泳がせた。「……どうぞ」 掠れた声に促され、パイプ椅子に腰を下ろす。 冷たい水が目の前に置かれた。グラスの表面に結露した水滴が、蛍光灯の光を反射している。「日替わり定食を」「…
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スピンオフ第175話:紹介、そして継承②

 ◇ 店の裏手にある、小さな児童公園。 街灯のオレンジ色の光が、錆びたブランコとシーソーを薄暗く照らしている。 遠くの幹線道路を走る車の音が、低く響いていた。 自販機で買った温かい缶のお茶を、隣のベンチに座る結月に手渡す。「ありがとう」 結月は両手で缶を包み込み、指先を温めるようにして膝の上に置いた。 夜風が冷たく、エプロンを外したカーディガン姿の肩が微かに震えているのが見えた。「……店、落ち着いたみたいでよかった」「うん。……天道くんのおかげだって、お父さんも言ってた。あの後、すぐに嫌がらせが止まって、ネットの変な書き込みも全部消えたから」 結月の声には、感謝の響きと共に、見えない巨大な力に対する戸惑いが混じっていた。「俺の力じゃない。……全部、親父の力だ」 言い切ると、結月が顔を上げた。「俺は、自分の力だけで立って、正しい手続きを踏めば、誰かを守れると思い込んでた。でも、現実は違った。俺のちっぽけな正義感は、結月さんたちを危険に晒しただけだった」 缶のお茶の硬い感触を、手のひらで転がす。「親父は、裏から手を回して、木崎の親の会社を潰し、あいつの就職先を取り消し、大学から放校させた。……徹底的に、相手の人生を盤面ごと叩き割ったんだ」 結月の息を呑む音が聞こえた。 そのあまりにも苛烈で容赦のない報復に、怯えているのがわかる。「……怖いか?」「……うん。少し」 結月は正直に頷いた。「俺も怖いよ」 缶のプルタブを開け、一口飲む。ほうじ茶の苦味が舌の上に広がった。「でも、親父は俺に言った。大切なものを守るためには、相手の世界を丸ごと背負う覚悟を持てって。泥を被り、他人の人生を踏み躙ってでも、守り抜く覚悟がないなら正義感なんて振りかざすなって」 結月の横顔を見つめる。 眼鏡の奥の瞳が、街灯の光を受けて微か
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スピンオフ第176話:紹介、そして継承③

 驚きで固まる結月の顔を真っ直ぐに見据える。「俺がこれから背負っていく世界を、結月さんに見ておいてほしいんだ。……俺の大切な、家族の場所を」 沈黙が流れる。 風が木々の葉を揺らすザワザワという音が、やけに大きく聞こえた。 やがて、結月は重く息を吐き出し、重ねられた陽向の指先を、下からそっと握り返してきた。「……わかった。私でよければ」 少しだけ掠れた、けれど芯のある声。 重ね合わせた手のひらから、結月の体温が確かに伝わってきた。 ◇ 日曜日の午後。 特別病棟の廊下は、いつものように消毒液とリノリウムの冷たい匂いに包まれていた。「……どうしよう、すごく緊張する」 隣を歩く結月の声が、カチカチに震えている。 淡いベージュのワンピースに、白いカーディガンという控えめな装い。だが、その足元はヒールの低いパンプスの中で不自然に強張っており、歩くたびにコツン、コツンとぎこちない音が響いている。「大丈夫だ。取って食われやしない」「でも、あんなすごい会社の社長さんだし……私なんかでお茶出しとか粗相がないようにって、お父さんにも散々言われて……」「面接じゃないんだから」 苦笑しながら、重厚な二重扉の前に立つ。 待機しているSPたちが、見慣れない少女の姿に一瞬だけ鋭い視線を向けたが、陽向が短く顎を引くと、無言で道を開けた。「……行くぞ」 結月の右手を、しっかりと握りしめる。 冷え切って汗ばんだ小さな手が、ビクッと強張ったが、すぐに陽向の指の間にギュッと力を込めてすがりついてきた。 その温もりと震えを掌に感じながら、ドアノブを回した。 病室の中は、西日が差し込み、カサブランカの白い花びらを淡いオレンジ色に染め上げていた。 シュコー、シュコーという人工呼吸器の規則正しい音が、静かな空間に響いている。 ベッドの横に置か
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スピンオフ第177話:紹介、そして継承④

 目尻の皺が少しだけ緩み、張り詰めていた空気がふっと解ける。「天道征也だ。……息子の選んだ女だ。悪くない」 短く、簡潔な言葉。 だが、その響きには、相手の背景や家柄を値踏みするような色は一切なく、ただ息子の連れてきた一人の少女として認める、静かな受容があった。「え……あ、ありがとうございます……!」 結月が再び慌てて頭を下げようとするのを、陽向が繋いだ手でそっと制する。「親父、結月さんの実家は定食屋なんだ。この前、色々迷惑をかけた」「……気にするな。天道の人間として、当然の処理をしたまでだ」 征也は短く答え、再びベッドの上の莉子へと視線を戻した。「母さん、結月さんだよ。……俺の、大事な人だ」 陽向がベッドに近づき、眠り続ける莉子の顔を覗き込んだ。 透き通るような白い肌。人工呼吸器のマスク。 結月は、陽向の隣で息を呑み、そっと口元を手で覆った。「……お母様、お綺麗な方ですね」 結月の口から、無意識のうちに漏れた言葉。 征也の背中が、わずかに反応した。「……ああ。自慢の妻だ」 征也の大きな手が、莉子の細い指を優しく撫でる。 陽向は、結月の手をさらにしっかりと握り直した。 結月の指先が、陽向の指の間にぴったりと収まり、冷たかった体温が徐々に陽向の熱と同化していく。 征也は、二人の固く繋がれた手元に、静かに視線を落としていた。 結月の指は震えている。 陽向の手も、決して落ち着いているわけではない。 それでも陽向は、彼女を背後へ隠さなかった。無理に引っ張りもしなかった。半歩だけ隣に立ち、逃げる場所を塞がない距離で支えている。 征也の胸の奥で、古い痛みが軋んだ。 かつて自分は、莉子を守ると言いながら、扉を閉めた。世界から遠ざけ、安全な場所に置いたつもりで、息の仕方まで奪った。
last updateآخر تحديث : 2026-06-10
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スピンオフ第178話:十二年目の異変①

 深夜。特別病棟の空気は、日中のそれよりも一段と密度を増し、重たく張り詰めていた。 無機質な照明に照らされた室内で、莉子の身体を包むシーツが、人工呼吸器の駆動音に合わせて規則正しく上下している。 征也は、いつものようにベッドサイドの丸椅子に腰を下ろしていた。 手元には、秘書の三田村が用意した大量の書類が入ったアタッシュケースがある。だが、今日の征也の手は、万年筆を握ることも、タブレット端末をスワイプすることさえなかった。 ただ、莉子の右手を自らの掌の中に納め、その細い指先を親指の腹で何度も、何度もなぞり続けている。 十二年。 この閉ざされた空間で、莉子の体温を感じるためだけに費やしてきた時間。 どれほど世間から冷血な独裁者と後ろ指を指されようと、どれほど子供たちを孤独という名の檻に押し込めてしまおうと、この病室に戻れば、征也はただ一人の無力な男に戻れた。 莉子の瞳が開くことはない。 その事実を、毎夜、毎夜、自分自身に言い聞かせてきた。 シュコー、シュコー。 一定の呼吸音が耳に馴染む。 征也は目を閉じ、莉子の指の関節を一つずつ丁寧に解すようにマッサージを続けた。 皮膚は驚くほど薄く、まるで和紙のように繊細だ。少し力を入れるだけで、壊れてしまいそうな危うさを、その肌は常に纏っている。 その時。 視界の端で、莉子の指先が微かに動いた。 征也は目を見開いた。 幻覚ではない。確かに、握りしめていた莉子の人差し指が、征也の掌の中で、頼りない力でピクリと引き金を引くように跳ねたのだ。 心臓が、肋骨を内側から激しく叩く。 征也は莉子の指先を固定し、食い入るように見つめた。 だが、莉子の人差し指は再び静止した。 以前と変わらぬ、冷たいままの白い指。「……莉子?」 掠れた声が口から出る。 返事はない。 征也は莉子の手を両手で包み込み、自分の頬に押し当てた。 滑らかな肌の感触が、頬の熱をじわりと奪っていく。 何か、変化があるのかもしれな
last updateآخر تحديث : 2026-06-11
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スピンオフ第179話:十二年目の異変②

 征也は莉子の手を握りしめたまま、その顔を覗き込んだ。 開け。 目を、開いてくれ、莉子。 征也の喉の奥から、うめきのような祈りが漏れる。 モニターの数値が、さらに激しく変動する。 まるで誰かと会話をしているかのように、脳波のパターンが複雑な形を描く。 莉子のまぶたが、ゆっくりと、ひどく重そうに持ち上がった。 征也は息を止める。 莉子の瞳が、光を求めて彷徨っている。 焦る気持ちを抑え、征也は莉子の頬に手を添えた。「莉子……帰ってきたのか」 莉子の唇が、微かに開く。 呼吸器の空気がシューッと漏れ、かすかな音が唇の間から紡がれる。 それは、言葉にならない、無意味な吐息だった。 莉子は再び目を閉じ、長い溜息と共に、深い眠りの中へと沈んでいった。 モニターの数値が、ゆっくりと、元の一定した波形へと戻っていく。 征也は、肩から力が抜けるのを感じて、その場に崩れ落ちそうになった。 まだ、だった。 莉子は帰ってきていない。 今の反応は、ただの神経の暴走か、あるいは深い眠りの中で見た、一瞬の夢の残滓に過ぎないのか。 征也は莉子の頬を撫でる指先に、自分の額を預けた。 期待した分だけ、全身が泥に沈むような重たさに支配される。「……また、夢か」 莉子の冷たい手を、もう一度自分の胸元へと引き寄せる。 あの日、事故に遭った時。 自分は、彼女を本当に失ってしまったのかもしれない。 自分に見せていたあの温かい笑顔も、優しい声も、すべては十二年前に、アスファルトの上で砕け散ってしまったのではないか。 征也の瞳から、一筋の熱い雫がこぼれ、莉子のシーツの上に落ちた。 窓の外、深夜の街には、まだ暗い闇が広がっている。 病院の廊下では、当直の医師たちが、莉子のモニターの変化について緊急の検討を始めている声が聞こえる。 征也は莉子の手を握ったまま、動かなくなった彼女の横顔をじっと見つめ続けた。
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スピンオフ第180話:魔王の涙、終わらない懺悔①

 夜明け前の病室には、静けさだけが戻っていた。 数時間前、莉子の脳波にこれまでとは違う揺らぎが現れた。担当医は慎重な顔で、断定はできない、と何度も繰り返した。外部刺激への反応の可能性。浅い眠りと深い眠りの境目に似た波形。医学的には、まだ希望と呼ぶには早すぎるもの。 それでも、征也には十分すぎた。 十分すぎるほど、怖かった。 医師たちが経過観察へ移り、看護師が計器の数値を確認して病室を出ていくと、白い扉が音を吸い込むように閉まった。廊下の足音が遠ざかり、人工呼吸器の規則正しい音だけが、また莉子の傍らに残る。 征也はベッドサイドの椅子に座り直し、莉子の手を両手で包み込んだ。 冷たい。 けれど、完全な冷たさではない。皮膚の奥に、ごく細く、消えかけの火種のような体温がある。十二年間、征也はその火種だけを信じてきた。 信じてきたはずなのに。 今夜だけは、その小さな温度が、刃物のように胸を切った。「……陽向がな」 いつものように、征也は報告から始めた。 報告ならできる。業績の数字を読み上げる時と同じように、感情を閉じ込め、事実だけを並べればいい。莉子が眠り続けた十二年間、征也はそうやって、毎夜この病室に言葉を置いてきた。「俺のところで学ぶと言い出した。営業の現場からだ。あいつらしい。最初から役員室に座らせろと言えば簡単だったが、陽向はそれを選ばなかった」 莉子の指先を親指でなぞる。「似ている。嫌になるほど、俺に似ている。怒り方も、守ろうとする時に力で押し切ろうとするところも、相手の怖がる顔に気づくのが遅いところも」 そこで、言葉が少しだけ途切れた。 酸素を吸い込んでも、胸の奥まで届かない。喉の奥に、ざらついた石のようなものが引っかかっていた。「だが、俺よりはずっとましだ」 征也は、莉子の手を握る力を弱めた。 強く握れば壊してしまう。そんな当たり前のことに、ようやく気づき始めた自分が、ひどく滑稽だった。「陽向は、相手の顔を見る。怖がらせたと気づけば、手を離そうとする。……
last updateآخر تحديث : 2026-06-12
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スピンオフ第181話:魔王の涙、終わらない懺悔②

「莉子」 名前を呼んだ瞬間、喉が震えた。 もう、報告では逃げられなかった。「俺は……」 言葉が出ない。 十二年前から、ずっと胸の奥に沈めてきた一言がある。認めてしまえば、自分のしてきたすべてが崩れる。莉子を守るためだと積み上げてきた城が、ただの独りよがりな檻だったと認めなければならない。 征也は、莉子の手を額に押し当てた。 冷たい指先に、熱い呼吸がかかる。「俺が、間違っていた」 ようやく吐き出した声は、ひどく小さかった。 だが、その一言は病室の白い壁にぶつかり、逃げ場もなく征也へ跳ね返ってきた。「守っているつもりだった。お前を、世界の汚いものから遠ざけて、傷つかない場所に閉じ込めておけば、それでいいと思っていた」 莉子のまぶたは動かない。「違う。俺は、お前を守ったんじゃない。奪ったんだ」 言い切った瞬間、胸の奥で何かが折れた。 征也の肩が落ちる。背筋を支えていた見えない鋼線が、一本ずつ切れていくようだった。「お前の自由を奪った。息苦しさも見なかった。愛していると言いながら、お前が何を望んでいるか、聞こうともしなかった。俺の手の届く場所にいれば安心できる。俺が安心したいだけだった」 掌の中の莉子の手は、相変わらず細い。 事故の日から、少しずつ肉が落ちてしまった手。かつては陽向の頬を叩き、結衣の髪を結い、征也の不器用なネクタイを直してくれた手。 その手に、征也はどれだけ縋ってきたのだろう。「莉子が倒れてからも、俺は同じことをした。眠っているお前をこの部屋に閉じ込めて、誰にも触れさせず、誰にも近づけず、俺だけが分かっているような顔をしていた」 声が、少しずつ崩れていく。「子供たちを守ると言いながら、見ていなかった。陽向がどんな顔で家を出たか。結衣がどれだけ俺の顔色を窺って笑っていたか。知っていたはずなのに、見なかった。見れば、自分が壊したものを認めなければならなかったからだ」 征也は歯を食いしばった。 それでも、涙は止まらなかった。 一滴、莉子
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スピンオフ第182話:魔王の涙、終わらない懺悔③

 莉子は眠ったままだ。 「だから……一度でいい」  征也の喉から、子供のような息が漏れた。 「一度でいいから、俺の名前を呼べ」  その瞬間、病室の扉の外で、小さな衣擦れの音がした。  征也は気づかなかった。  扉は、完全には閉まっていなかった。看護師が出入りした時に、ほんの指一本分だけ隙間が残っていたのだ。  その向こうで、陽向と結衣が立ち尽くしていた。  陽向は、握っていたスマートフォンの電源を落とすことも忘れていた。画面には父からの短いメッセージが残っている。  ――莉子に変化があった。まだ確定ではない。来られるなら来い。  命令のようでいて、初めて共有された弱さだった。  陽向は、扉の隙間から見える父の背中を見つめた。  かつては壁のように巨大だと思っていた背中が、今はベッドの脇で折れ曲がっている。莉子の手に縋りつき、顔を上げることもできず、何度も、何度も謝っている。  陽向の胸に、長く張りついていた硬いものが、ほんの少し形を変えた。  怒りは消えない。けれど、目の前の父は、初めて弱い人間の顔をしていた。  そう分かったからといって、陽向の中の怒りがすべて消えるわけではなかった。十二年の孤独は、たった一夜の懺悔で帳消しにできるほど軽くない。  それでも、父が怪物ではなく、怪物のふりをしなければ立っていられなかった人間だったのだと、初めて思った。  隣で、結衣が両手で口元を覆っている。  涙が、指の隙間から零れていた。  理想の父。完璧な父。どんな願いも叶えてくれる、強くて冷たい魔王。  その幻が、音もなく崩れていく。  崩れた下にいたのは、莉子の名を呼ぶことしかできない、不器用すぎる夫だった。  結衣は胸の奥を押さえた。  レイに拒まれた夜の痛みが、遠い場所で微かに疼く。  あの時の自分も、相手を見ているつもりで、本当は自分の寂しさばかり見ていたのかもしれない。  唇を噛むと、涙の味がした。  病室の中で、征也はまだ莉子の手を握っていた。 「戻ってこい、莉子」  声は、もう命令で
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