All Chapters of 没落令嬢の家政婦契約 ~冷酷CEOは、初恋を逃さない~: Chapter 61 - Chapter 70

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第61話 出張と離れる不安①

 その翌朝、CEO執務室は、息が詰まるような静寂に支配されていた。 空調の低い唸りだけが、広すぎる部屋の隅々まで染み渡っている。 私は自分のデスクに向かい、パソコンのキーボードを叩くふりを続けながら、ガラスの壁越しに見える隣室へ、何度も視線を盗ませていた。 天道征也は、いつもと変わらぬ冷ややかな横顔で、積み上げられた書類の山にペンを走らせている。 一分の隙もなく整えられた髪、獲物を射抜くような眼差し、彫像のように微動だにしない背筋。 その姿は、感情を持たない冷徹な経営者そのものだ。 けれど、昨日の会議室での出来事――テーブルの下で私のヒールを脱がせ、足先を執拗に愛撫した指の熱さや、会議が終わった瞬間に誰もいない部屋で抱き潰されたあの獣のような熱狂――が、まるで悪い夢だったのではないかと疑いたくなるほど、今の彼は遠くに見える。「……莉子」 不意にインターホンが鳴り、スピーカー越しに低い声が響いた。 油断していた心臓が、痛いほど大きく跳ねる。「は、はい」「入れ」 短く命じられただけで、通話はぷつりと切れた。 私は立ち上がり、スカートの裾を無意識に撫でつけて皺を伸ばすと、重厚なマホガニーの扉に手をかけた。 ノブを回して中へ入ると、鼻孔をくすぐるのは微かなコーヒーの香りと、そして彼が纏う独特の空気感。 征也は書類から顔を上げず、さらさらとサインを続けながら口を開いた。「急だが、今日から一週間、日本を離れる」「……え?」 思考が、一瞬で凍りついた。 日本を、離れる?「ニューヨークで緊急の買収交渉が入った。今夜のフライトで発つ」 征也はようやくペンを置き、ゆっくりと私を見上げた。 その瞳はいつものように鋭く私を射抜いていたけれど、その奥には、どこか噛み殺したような苛立ちの色が滲んでいる。「一週間……ですか」「ああ。予定ではな」 たった一週間。 頭ではそう理解しようとするのに、胸の奥底
last updateLast Updated : 2026-01-16
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第62話 出張と離れる不安②

「あっ……」 いつもの、あばらが軋むほど強い抱擁ではない。 どこか確かめるような、重く、粘りつくような抱擁だった。 私の顔が、硬い胸板に埋もれる。上質なスーツの生地越しに、彼の高い体温と、微かな鼓動が伝わってくる。 ムスクと煙草が混じり合った、私の脳髄を痺れさせるあの匂いが、肺いっぱいに満ちた。「……お前を連れて行くことも考えたが、向こうは戦場だ。お前を守りきれる保証がない」 耳元で、征也が低く唸るように囁く。 その声には、明らかな悔しさが滲んでいた。「だから、お前はこの屋敷に残れ。……いいか、よく聞け」 彼は私の肩を掴んで身体を離すと、逃がさないと言わんばかりに瞳を覗き込んできた。 その目は、今まで見たことがないほど真剣で、そして怖いくらいに昏い光を宿している。「俺がいない間、一歩も屋敷から出るな」「え……会社は……」「休め。有給扱いでいい。お前が一人で通勤し、俺の目の届かない場所で男どもの目に晒されるのは我慢ならない」「でも、ずっと家に籠もっているなんて……」「命令だ」 有無を言わせない、絶対的な響き。 征也の手が、私の首元に巻かれたスカーフに触れた。その下にある赤い痕を、親指の腹でぐり、と強くなぞる。「っ……」「神宮寺が嗅ぎ回っている。俺が日本にいないと知れば、必ず接触してくるはずだ。……あの偽善者に、指一本でも触れさせるな」 嫉妬と独占欲。 それは重たい鎖となって、私をがんじがらめに縛り付ける。 けれど、その理不尽な鎖の重みだけが、今の私にとっては「守られている」という唯一の証でもあった。「……携帯は常に肌身離さず持て。俺からの連絡には、いかなる時も即座に出ろ。……もし一度でも無視したら、帰国後にお前がどう
last updateLast Updated : 2026-01-16
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第63話 出張と離れる不安③

 その夜、征也は慌ただしく屋敷を出て行った。 広大な玄関ホールに、重厚な扉が閉まる音が響き渡る。 ダンッ、というその重たい音は、まるで巨大な金庫の鍵が下ろされたかのように、私の世界と外の世界を完全に隔絶した。「……行って、しまった」 残されたのは、私一人。 そして、数十人の使用人たち。 けれど、彼らはプロフェッショナルな「影」であり、私と親しく言葉を交わすことはない。 主人の命令通り、私を監視し、身の回りの世話をするだけの存在だ。 私は、あまりにも広すぎるリビングの真ん中で、呆然と立ち尽くしていた。 静かだ。 耳が痛くなるほど、静かだ。 いつもなら、この空間には征也の気配が満ちていた。 革のソファがきしむ音。新聞をめくる乾いた音。琥珀色の酒をグラスに注ぐ、氷の澄んだ音色。そして、私を呼ぶ低い声。『莉子』 その声が聞こえるたびに、私の肩は強張り、心臓が早鐘を打った。 次はどんな無理難題を言われるのか、何をされるのかという恐怖と、恥ずかしいほどの期待。 その張り詰めた緊張感が、私の日常だった。 それが、ない。「……寒い」 空調の設定温度は変わっていないはずなのに、二の腕が粟立つほど寒かった。 私は無意識に、自分の身体を抱きしめる。 シルクのブラウス越しに触れる自分の掌は冷たくて、何の慰めにもならない。 征也の熱がない。 私を拘束し、支配し、焼き尽くすようなあの体温が、ここにはない。 自由になったはずだ。 彼がいない間、私は誰にも命令されず、好きな時間に起き、好きなことをして過ごせる。 あの息苦しい視線からも、理不尽な命令からも解放されたのだ。「……嬉しいはず、なのに」 口に出してみた言葉は、広すぎる空間に空虚に響いて消えた。 嬉しい? 本当に? 私の胸の奥に広がっているのは、解放感なんかじゃなかった。 ぽ
last updateLast Updated : 2026-01-16
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第64話 出張と離れる不安④

 昨夜まで、ここで彼に抱かれていた。 この広いベッドの半分は彼が占めていて、私は彼の腕の中に閉じ込められるようにして眠っていた。 狭くて、苦しくて、熱くて。 でも、そこが世界で一番安全な場所だった。 シーツの上に、ぽつんと座り込む。 広い。 あまりにも、広すぎる。 手を伸ばしても、そこにあるのは冷え切ったリネンだけ。 誰もいない。 誰も私を叱らない。 誰も私を抱きしめない。「……社長……」 呼びかけても、返事はない。 手の中のスマホを握りしめる。 画面は真っ暗なままだ。 日本とニューヨークの時差は十三時間。今頃、彼は機上の人だろうか。それとも、もう到着して、戦場のようなビジネスの世界に身を投じているのだろうか。 私のことなんて、忘れているかもしれない。 あの人は、仕事の鬼だ。私という玩具を檻に入れて鍵をかけたことで満足して、今はもう次の獲物――企業の買収や、巨額の利益――のことしか考えていないかもしれない。 そう思うと、胃の奥が雑巾絞りされたようにきりきりと痛んだ。 ズキリ、と首筋が疼く。 鏡を見なくてもわかる。彼が残した刻印が、心臓に合わせて脈打っている。 この痛みと痕だけが、私が彼のものであるという唯一の繋がりだ。 私は、得体の知れない不安から逃げるようにベッドに潜り込んだ。 掛け布団を引き上げ、頭まで被る。 闇の中、自分の荒い呼吸音だけが聞こえる。 寒い。 布団に入っているのに、身体の芯から冷えていくようだ。 手足の先が氷のように冷たくて、震えが止まらない。 どうして? 一人で寝るなんて、家政婦になる前はずっとそうだったじゃない。 ボロアパートの万年床で、母の咳を聞きながら、明日の生活費の心配をして眠る夜。 あの頃の方が、よほど孤独で、絶望的だったはずだ。 今は、最高級の羽毛布団に包まれている。 お金の心配もな
last updateLast Updated : 2026-01-16
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第65話 出張と離れる不安⑤

 顔をうずめて、理性を手放したように深く、何度も何度も息を吸い込む。 肺の奥まであの人の匂いで満たしてしまえば、震える指先が少しだけ落ち着くような気がしたからだ。 まるで、すぐ隣にあの人がいて、その大きな身体で守られているような錯覚。けれど、ふと顔を上げた瞬間に襲ってくる現実は、あまりにも静かで冷たい。「……変だよ、私……ほんとに、おかしい」 自分が自分でなくなっていく感覚が怖くて、枕に額を押し付けたままかぶりを振る。 あんなに酷いことをされたはずだった。 お金で買われて、自由を取り上げられて、意地悪な言葉で心をかき乱されて。 憎んでもいい。逃げ出したいと願うのが普通だ。 それなのに、どうして今、胸がちぎれそうなほど寂しいのだろう。 認めたくなかったけれど、身体は正直だった。 私はもう、一人では夜の闇さえ越えられないほど、弱くなってしまったのかもしれない。あの人という熱がないと、呼吸の仕方さえ忘れてしまいそうになる。「……会いたい」 考えたわけじゃない。唇が勝手に動いて、熱を持った吐息と一緒に本音がこぼれ落ちた。 一度口にしてしまうと、もう止めどめがなかった。堰を切ったように、抑え込んでいた感情があふれ出してくる。「会いたいよ……征也くん……」 社長でもなく、ご主人様でもない。 ずっと昔の呼び方。 私が密かに憧れて、けれど私のせいで傷つけてしまった、あの人の名前。「寂しい……早く帰ってきて……っ」 誰もいない寝室は、恐ろしいほど広く感じられた。 私は征也くんの残り香が染み付いた枕を、命綱にでもすがるようにぎゅっと抱きしめる。子供みたいに声を上げて泣くなんて、いつぶりだろうか。 窓の外では風が唸っている。 広い屋敷のどこかで、ガタ、と窓ガラスが揺れる硬質な音が響いた。 その乾いた物音が、隣に誰もいな
last updateLast Updated : 2026-01-16
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第66話 深夜の侵入者①

 征也が日本を発ってから、三度目の夜が更けようとしていた。 たった三日。言葉にしてしまえば指折り数えるほどの短い時間だというのに、主を失った屋敷はあまりにも広く、流れる時間だけが澱んだように重くのしかかってくる。 窓の外は、また雨が降っていた。 この季節特有の、肌にまとわりつくような湿気を孕んだ風が、昼も夜も関係なくガラスを叩き続けている。 私は、征也からきつく言いつけられた言いつけを破らぬよう、一歩も外には出ず、この豪奢な鳥籠の中で息を潜めていた。 一人で過ごすには広すぎるリビングをあてもなく歩き回り、書庫に並ぶ革張りの背表紙を指でなぞっては、また元の場所に戻す。時折、どこかで鳴る固定電話の電子音にびくりと肩を震わせては、それが自動的に秘書室へ転送されていくのを確認して、ほうと息を吐く。 電話に出ることは許されていない。外の世界と繋がる手段は、すべて彼によって徹底的に管理されているからだ。「……暇、だなあ」 ぽつりと漏れた独り言が、がらんとした空間に吸い込まれて消えていく。 暇だなんて、かつての私なら喉から手が出るほど欲しかった贅沢な悩みだ。母の入院費を工面するために睡眠時間を削り、皿洗いや清掃のバイトを掛け持ちして泥のように眠っていた日々が、すでにはるか遠い昔のことのように思える。 けれど、今のこの「空っぽの時間」は、体を酷使する疲れよりもずっと深く、私の心を内側から削り取っていくようだった。 何もしていないと、思考はどうしても悪い方へ、暗い沼の底へと引きずり込まれていく。『神宮寺が嗅ぎ回っている』 出発の朝、征也が残していった低い声が、呪いのように耳にこびりついて離れない。 蒼くん。かつての幼馴染であり、優しい記憶の中にいたはずの彼。 けれど今の彼は、どうして征也をそこまで憎むのだろう。そして、なぜ私ごときにそこまで執着するのか。 征也は彼を「ネズミ」と呼んだ。その響きに含まれる不吉な予感が、背筋を冷たい指先でなぞっていくような錯覚を覚えさせる。 私は無意識のうちに、首元に巻いたシルクのスカーフの上から、うなじにある痕を指で押
last updateLast Updated : 2026-01-17
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第67話 深夜の侵入者②

 私は見えない何かに追われるようにして、早足で主寝室のベッドに潜り込んだ。 ここだけが、今の私に残された安全な場所だ。 征也の匂いが染み付いた枕と、彼が使っていた重たい毛布。 それに包まれている時だけ、浅くなっていた呼吸がいくらか楽になる。「……征也くん」 スマートフォンの画面を指先でタップする。 メッセージアプリには、私からの『おやすみなさい』という送信履歴だけが、既読の文字を添えて白々しく残っていた。 目を通していることはわかる。けれど、返信はない。 向こうは今、何時だろうか。重要な商談の最中かもしれないし、あるいは誰かと食事をしているのかもしれない。 声を、聞きたい。 あの低い、威圧的な、けれど不思議と私を安心させてくれる声が聞きたい。 でも、「緊急時以外はかけるな」と言われているわけではないのに、彼の仕事を邪魔することへの恐怖が指先を止める。 もし会議中に私の電話が鳴って、数億の取引がダメになったら。 そうすれば私は、ただのお荷物になってしまう。彼に捨てられる理由を、自分から作ることになってしまう。「……我慢、しなきゃ」 私は彼が使っていた枕を強く抱きしめ、ぎゅっと目を閉じた。 雨音が強くなっている。 遠くで、重い鉄板を引きずるような低い雷鳴が、腹の底に響くように轟いた気がした。  ◇ 異変に気づいたのは、深夜二時を回った頃だった。 ふと、目が覚めた。 夢を見ていたわけではない。張り詰めていた糸がぷつりと切れたように、唐突に意識が浮上したのだ。 静かだ。 雨音だけが、ザアザアと降り続いている。 けれど、何かが違う。 肌が粟立つような、生理的な嫌悪感。胃の腑がきゅっと縮み上がるような冷たい予感。 誰かに見られているような、じっとりとした湿度の高い気配が漂っている。(……気のせいよ) 自分に言い聞かせ、寝返りを打とうとした、その時だった。
last updateLast Updated : 2026-01-17
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第68話 深夜の侵入者③

 一歩、また一歩。 重く、慎重な、男の足音。(泥棒? それとも……)『神宮寺が嗅ぎ回っている』 征也の警告が、警報のように脳裏で激しく点滅する。 まさか、蒼くんが? いや、蒼くん自身が入ってくるなんてありえない。でも、彼が金で雇った人間なら?「……っ」 恐怖で喉が引きつり、ひゅっ、と乾いた音が漏れる。 どうしよう。どうすればいい。 布団を被って震えているべきか。 それとも、鍵をかけて……そうだ、鍵! 私はベッドから転がり落ちるようにして床に降りた。 裸足で冷え切った絨毯を踏みしめ、ドアへと忍び寄る。 この寝室のドアには、内側からかけられる真鍮の鍵があるはずだ。 震える指を伸ばし、冷たいノブに触れようとした、その瞬間だった。  ガチャリ。 ノブが、ゆっくりと、音もなく回った。 短い悲鳴を飲み込み、私は反射的に後ずさった。 鍵をかけていなかった。 嘘でしょう。 屋敷の堅牢さを過信して、自分を守る最後の砦である寝室の鍵を、かけ忘れていたなんて。 ドアが、数ミリだけ動く。 今、鍵をかけようと近づけば、ドアの向こうの相手と鉢合わせになる。 逃げなきゃ。 でも、出口はあの男が塞いでいるドア一つだけ。 窓から飛び降りれば、打ち所が悪ければ死ぬ高さだ。 バスルーム? いや、あそこも逃げ場がない、ただの行き止まりだ。 ウォークインクローゼットだ。あそこなら、確か内鍵がかかるはず。 私はスマートフォンを握りしめ、音を立てないように、けれど全力でクローゼットへと走った。 背後のドアが開く気配がする。 振り返る余裕なんてない。 クローゼットに飛び込み、内側から鍵をかける。 カチリ。 頼りない金属音が鳴った直後、寝室のドアが完全に開く音がした。「……」
last updateLast Updated : 2026-01-17
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第69話 深夜の侵入者④

 コール音が鳴る。 一度、二度。 長い。永遠のように長い。 その間にも、寝室からは男の気配が近づいてくる。 ベッドを確認し、そこに誰もいないことを悟った足音が、ゆっくりとバスルームへ、そしてこちらへ向かってくる。『……莉子か?』 スピーカーから、低く、少し驚いたような声が聞こえた。 繋がった。「っ、征也くん……! 助けて……!」 声にならない悲鳴を上げると、向こうの空気がぴりりと一変したのがわかった。『どうした。何があった』 声色が、瞬時に鋭く研ぎ澄まされた刃物のように変わる。「だ、誰かいるの……! 屋敷の中に、知らない人が……!」『なんだと?』「部屋に入ってきたの……私、今、クローゼットに隠れてて……でも、すぐそこに……!」 コツ、コツ。 すぐ外、クローゼットの扉の前で、足音が止まった。 バレている。 プロが、この部屋の中で隠れられる場所など、ここくらいしかないと当たりをつけているのだ。 ガチャリ。 クローゼットのドアノブが、外からゆっくりと回された。 鍵がかかっていることを確認するように、静かに、執拗に。「ひっ……!」 私は小さな悲鳴を上げて、口元をさらに強く覆った。 開けられる。 この薄い板一枚向こうに、捕食者がいる。『莉子! 落ち着け! 今どこにいる!』 征也の怒鳴り声が、耳元で炸裂する。 その声だけが、暗闇の中の細い命綱だった。「クローゼット……あなたの服があるところ……っ、怖い、怖いよ征也くん……開けられちゃう……!」『大丈夫だ、その扉は
last updateLast Updated : 2026-01-17
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第70話 深夜の侵入者⑤

『俺は天道征也だ。……貴様がどこの誰の手先かは知らんが、今すぐそこから失せろ! その女に指一本でも触れてみろ……地の果てまで追い詰めて、貴様の一族郎党、根絶やしにしてやるぞ!』 ビリビリと空気が震えるほどの威圧感。 電話越しでも、その殺気は鮮明に伝わってくる。 それは、単なる脅しではない。本当にそれを実行する力と狂気を孕んだ男の、本気の宣告だった。『警備会社と警察には通報済みだ。あと三分で到着する。……命が惜しければ、今のうちに消えろ』 沈黙。 雨音だけが、不気味に聞こえる。 そして。 タタタタッ……。 足音が、遠ざかっていった。 一言も発さず、目的が達成できないと悟った瞬間に撤退する、迅速な判断。 廊下の方へ、走り去っていく気配。「……い、いなくなった……?」 私はへなへなと、その場に崩れ落ちた。 全身の力が抜け、スマートフォンを取り落とす。『莉子、聞こえるか。奴は去ったか?』「う、うん……たぶん……」『よく頑張った。……怖がらせてすまなかった』 征也の声が、苦しげに歪む。『今、空港へ向かっている。ジェットを飛ばす。……必ず帰るから。それまで、絶対にそこから動くな』「うん……待ってる……」『切るなよ。俺が着くまで、ずっと繋いでおく』 電話の向こうから、車のエンジン音と、征也の荒い息遣いが聞こえる。 一万キロ離れた場所にいる彼。 でも、その声だけが、恐怖で凍りついた私の体を温めてくれていた。  ◇ それからの時間は、現実感が希薄だった。 駆けつけた警備員と警察が屋敷内を捜索したが、侵入者の姿はすで
last updateLast Updated : 2026-01-18
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