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第311話

その言葉に、萌花と時雄は同時に息をのんだ。けれど次の瞬間、時雄の目に激しい苦しみが浮かぶ。須恵がどうして自分が妊娠していたことを知っているのか、萌花には分からない。時雄は低く言った。「子どもは……もういないので」萌花の心臓は一瞬止まったようになり、次の瞬間、激しく脈を打ち始めた。須恵は萌花に目を向けた。「いつまで隠すつもり?」萌花は指先が掌に食い込むほど、強く手を握りしめた。子どものことは時雄には隠し通せたが、須恵には見抜かれた。それでも萌花は、すぐに気持ちを立て直した。「この子は私ひとりの子です。時雄との離婚協議書にも、はっきり書いてあります。時雄は、親権をすべて放棄すると」その言葉を聞いた瞬間、時雄は弾かれたように萌花を見て、目には信じられないという色が浮かんだ。彼は何かに気づいたようで、視線が萌花の下腹へ落ちた。「まさか……子どもは、まだ……」信じられないとでも言いたげに、彼は続けた。「でも、あの日、確かに病院で……」萌花はもう落ち着きを取り戻した。「あの日、階段から落ちて緊急手術を受けたのは怜よ」時雄はようやく理解した。あの日、来希がわざと彼を誤解させたのだ。本来なら、その件はいくらでも確かめられたはずだったが、当時の彼は子どものことなどもう聞きたくなくて、確かめる気にすらなれなかった。だからこそ、こんなにも残酷なすれ違いが生まれた。時雄はしばらく、自分の胸の内をどう表せばいいのか分からない。胸の中では、突然嵐が吹き荒れたように感情が乱れている。それなのに、その奥のほうでかすかに光が差したような気もした。須恵はその機を逃さず、畳みかけた。「時雄、今でも、萌花さんと離婚するつもり?」時雄が口を開くより先に、萌花が言った。「大奥様、今はもう時雄が離婚するかどうかを決める話ではありません。私がもう彼と一緒にはいられないんです。離婚についてはすでに合意していて、あとは手続きが済めば、私たちはもう夫婦ではありません。この子は私ひとりで育てます。時雄を父親として認めるつもりはありません。小林という名を名乗らせることも、小林家の人間として扱わせることもありません。もし今さら時雄が考えを変えるというなら、この子を産みません。産むか産まないかを決める権利は、
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第312話

聡子は娘を見つめ、その目には隠しきれない心配といたわりが浮かんでいる。忠久は須恵に視線を向け、ひとまず穏やかな口調で切り出した。「小林大奥様、今日は何のお話があってのことでしょうか?」須恵は口を開いた。須恵はゆっくり口を開いた。「もちろん、萌花さんと時雄のことです。二人だけで結論を出すには、まだ荷が重いでしょう。こういう時こそ、私たち親同士がきちんと話し合って、道筋をつけてやるべきだと思っています。何より、もう子どもができていて、離婚したいと言われて、はいそうですかと認めるわけにはいきません。この子は小林家にとっても二条家にとっても、大切な孫になります。生まれた時から両親が別々で、きっと寂しい思いをさせるでしょう」忠久は表情を変えずに答えた。「その点はこちらも同じ考えです。子どもに寂しい思いをさせるわけにはいきません」その言葉を聞いて、須恵の顔にかすかな安堵の色が浮かんだ。萌花と時雄が結婚してから顔を合わせる機会はそう多くないが、須恵は忠久が子ども好きだということを知っている。昔も萌花に、早く子どもを持つようにと何度も口にしていたからだ。須恵は少し表情を和らげた。「忠久さんもそう思ってくれるなら安心です。萌花さんは、もう妊娠三か月だそうです。この子のことは、どうかご心配なさらないでください。生まれてきたら、小林家の大事な孫として迎え、大切に育てます」しかし、忠久は淡々と言った。「大奥様、この子を小林家の子にするつもりはありません」須恵の顔色が変わった。「それはどういう意味ですか?」忠久は時雄に目を向けた。「よくそんなことが言えますね。あなた方は娘をここまで苦しめておいて、今度は子供を盾に引き止めるつもりですか。跡継ぎのために娘を利用されてはたまりません。二条家を甘く見ないでください」ここまで来れば、もう遠慮する必要はない。忠久は言葉を切らずに続けた。「離婚は娘が決めたことで、覆すつもりはありません。娘が産むと決めたなら、こちらで責任を持って育てます。小林家に渡すつもりはありませんし、小林家の子どもとして扱わせるつもりもありません」須恵は、忠久がここまで強く出てくるとは思っていなかった。「さっきは、愛のない家庭で育てるわけにはいかないと言ってたじゃありませんか」「その愛
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第313話

そのとき、時雄が口を開いた。「考えを変えるつもりはありません。萌花とは約束しました。彼女がこの子を産むと決めたなら、父親としての権利をすべて放棄します」須恵の顔が一気に険しくなった。「何を言っているの。それは小林家の血を引く子でしょう」けれど時雄は、もう迷っていないようだ。「これは俺の問題です。俺が決めます」須恵は怒りのあまり、胸の奥が痛んだ。玉枝が慌ててそばに寄り、須恵の体を支えた。「皆さま、このお話はまた後ほどにいたしましょう。お夕食の支度が整っております。まずはお食事を」結局、一同はダイニングルームへ移った。ダイニングルームには大きな円卓が用意されている。今日は小林家の者もほとんど顔をそろえている。忠久が小林家で来希に会うのは、これが初めてだ。来希のことは、忠久もすでに耳にしている。しかも、屋敷に入るときにちょうど鉢合わせた。来希は忠久を見るなり、かしこまって挨拶して、思わず小さな声で呼んだ。「お義父さん」忠久の表情が一瞬でこわばった。「今、何と呼んだ」来希は肩をすくめた。「おじさん、すみません。つい、昔の癖で……」忠久は来希を冷ややかに見据えた。「萌花がいなければ、あなたもその程度の男だ。まったく、顔を見るだけで気が滅入る」そう言い捨てると、忠久はもう来希を見ることもなく、ダイニングルームへ入った。ほどなくして、全員が席に着いた。忠久は席に着くなり、杯を手に取って須恵に向けた。「小林大奥様、今日はお互いの体裁を思って、この席につきました。ですが、この一杯で、二条家と小林家の縁は切らせていただきます。今後、お付き合いは一切いたしません」そう言い終えると、忠久はお酒を飲み干した。須恵の表情は晴れないが、それでも、ひとまず言い訳のように言った。「最近、体調がよくないから、酒は控えています。でも忠久さん、二人のことは、まだ話し合う余地があると思いますが」忠久はきっぱりと言った。「話し合うことなどありません。もし小林家が力ずくで押し通すつもりなら、俺たちも黙ってはいません。すべて表に出したら、困るのは大奥様で、恥をかくのも小林家です」そのとき、理香子がふいに口を挟んだ。「今、世間でこれだけ騒がれているんですから、時雄さんにとってはかなりまずい状況
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第314話

「耳に痛いことを言っているのは分かっています。でも、これでも身内ですから、時雄さんには何とか立て直していただきたいんです。この騒ぎに乗じて、あなたを徹底的に追い込もうとしている人たちとは違いますから」それを聞いた須恵の顔が、一気に険しくなった。「理香子、それって本当?」「お義母様、本当です。戻ったらすぐにお伝えしようと思っていたんですけど、お義母様が光代さんとお話し中でしたので」須恵はすぐに、そばに控えている執事に命じた。「すぐに調べて。誰の仕業なのか、必ず突き止めるのよ」理香子はさらに言った。「二条さんは、こういうことにお詳しいんでしょう?突き止めるのは難しくないのではありませんか」萌花は、理香子が自分を巻き込もうとしているのだとすぐに分かった。理香子が目配せすると、ほどなくして使用人がノートパソコンを運んできた。「テレビ局に届いたメールがこの中に入っています。二条さん、ぜひ謎解きをお願いできますか」萌花はその挑発に乗るつもりはない。すると時雄が立ち上がった。「俺が調べます」時雄はもともとは技術畑の人間で、理香子も彼なら調べられることは分かっていた。すぐにメールの送信元をたどって、時雄は落ち着いた声で告げた。「このメールは、姉さんのアカウントから送られています」光代はそれまでどこか他人事のように成り行きを眺めていたが、自分の名が出た瞬間、その表情が冷えた。「時雄、何を言ってるの?」時雄は静かに顔を上げて光代を見た。「どういう経緯かは分かりません。ただ、この匿名メールが姉さんのアカウントから送られているのは事実です」光代は笑った。「時雄、今度は私を犯人に仕立て上げる気?」理香子もひどく驚いたような顔をした。「時雄さん、何かの間違いではありませんか。光代さんのはずがないでしょう。いくら仲がよくないとはいえ、同じ小林家の人間ですよ。こんなときに相手の足を引っ張るような真似、するはずがありません。それに会社の株価がここまで落ちているんです。光代さんにだって何の得にもならないでしょう」そのとき、はなが口を開いた。「それは限りませんよ。もし時雄叔父様が社長をやめることになったら、次に会社を任されるのは誰でしょうね」「はな。部外者が口を挟むことではないでしょう」はなの
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第315話

一瞬、全員の視線が萌花に集まった。気づけば、さっきまで時雄の手元にあるノートパソコンは、萌花の膝の上に移っている。理香子の顔色が変わった。「二条さん、いい加減なことを言わないでください。誰が光代さんを陥れたと言うんです?」萌花の表情は変わらなかった。「理香子さんがやったとは言っていませんから、そんなに慌てなくてもいいですよ」須恵もすでに怒りを抑えきれなくなった。「萌花さん、ちゃんと説明して。いったいどういうことなの?」「送信元をたどると、このメールに使われたアカウントは確かに光代さんのものです。ただ、それだけで光代さん本人が送ったとは言えません」理香子が鼻で笑った。「アカウントまで分かっているのに、それでも証拠にならないんですか?」萌花は続けた。「このメールが送られたときの位置情報も確認できます。光代さんの書斎からです」理香子はすぐに言った。「それならなおさら、光代さんが送ったということではありませんか」萌花はふいに執事へ顔を向けた。「光代さんが最近こちらへいらしたのは、いつですか」「半月ほど前でございます」萌花は改めて皆を見た。「メールは光代さんの書斎から送られています。でも光代さん本人は、半月もここへ帰っていません。これがどういう意味か、もう分かるのではありませんか」光代もようやく、萌花が自分をかばっているのだと気づいて、萌花を見る目にかすかな感謝の色が浮かんできた。やがて光代は立ち上がった。「つまり、誰かが私の書斎に入り、私のアカウントを使って、私が送ったように見せかけた。そして今度は、その流れで私を犯人に仕立て上げようとしているっていうことですね」光代の視線は、まっすぐ理香子へ向けられた。理香子もすぐに立ち上がった。「光代さん、勝手なことを言わないでください。私は会社のことには一切関わっていません。あなたと時雄さんの争いに首を突っ込む理由なんてないでしょう。あなたを陥れたところで、何の得があるんですか」光代は冷ややかに言った。「私と時雄が争ったほうが、都合のいい人もいるでしょう」「私がそんなことをして、何になるんですか。うちの者は誰ひとり会社に関わっていないんですよ。この家のために何十年も尽くしてきました。こんなふうに疑われるなんてひどくな
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第316話

栞は腹が立ってて仕方がなく、その場で騒ぎ始めた。「お祖母様、母さん、どういうことですか?はながここにいるのに、どうして私だけ呼ばれていないんですか。小林家の娘は私じゃないですか」理香子はただでさえこの状況にうんざりしていたのに、そこへ栞まで現れて、ますます頭が痛くなった。栞とはなが顔を合わせれば必ず揉める。だからこそ、あえて栞には声をかけなかった。栞よりは、はなのほうがまだ使える。理香子はそう思っていた。少なくとも、はなには頭もあれば、要領のよさもある。「騒がないで。一緒に食べればいいでしょう。今はそれどころじゃないの。役に立てないのなら、余計なことを言わないで」けれど栞はどうしても事情を知りたい。家の中の誰かが光代の書斎に入り、そこから例の資料を外へ流したのだと聞くと、栞はふいに目を輝かせた。「私、知ってます。はなです」そこにいる全員が一瞬言葉を失った。はなは怒りに任せて立ち上がった。「栞、何を言ってるの?根も葉もないことを言わないで」すると栞はスマートフォンを取り出した。「私、見てたのよ。動画も撮ってある。二日前だったかな、あなたがこそこそ光代さんの書斎に入っていくところを見たわ。何をしているのかと思ったけど、そういうことなのね。光代さんを陥れるためだったんでしょう」栞は手柄でも立てたような顔で、スマートフォンを理香子に差し出した。「母さん見て。はなでしょう?だから言ったじゃない。彼女は恩知らずなのよ。あれだけ優しくしてあげたのに、光代さんまで陥れようとするなんて」何かを思いついたように、栞はさらに声を上げた。「ああ、前に会社でシャドウのふりをして、光代さんに追い出されたからでしょう。それを根に持って、今回こんなことをしたのよ。絶対そう」栞は、自分の推理にすっかり満足しているようで、理香子の顔が見る見るうちに暗くなっていることにはまるで気づいていない。膠着していた場が、突然帰ってきた栞のせいで一気に崩れるとは、誰も思っていなかった。須恵の顔色もひどく悪くなった。忠久は小さく笑った。「小林大奥様、お宅は本当に愛情に満ちてますね。次から次へと見せ場が出てくる。いや、実に勉強になります」栞にとって、はなの存在はずっと目障りで、ようやく今回はなを家から追い払う理由ができたと思って
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第317話

理香子は怒りで体を震わせていて、一方のはなも呆然と立ち尽くしていた。自分の計画が、こんなにもあっけなく栞に暴かれるとは思っていなかった。あの日、はなは人目と防犯カメラを避けてこっそり光代の書斎に入った。匿名で資料を流しながらも、調べれば光代にたどり着くよう細工しておいた。そのうえで、報道によって騒ぎが大きくなったところを見計らい、須恵にこの場を設けてもらった。目的は、光代と時雄を徹底的に対立させることだ。二人が争い、須恵が心身ともに疲れ果てたころを狙って、自分を会社に入れてほしいと頼む。須恵の目となり、耳となって働くと言えば、須恵は断れないはずだ。はなはその場で、須恵のそばに膝をついた。「お祖母様、栞が私を陥れようとしているんです。あの資料は、私が流したものではありません」須恵の顔には、すでに厳しい色が浮かんでいて、声も冷えきっている。「じゃあ、なぜ光代の書斎に入ったの?」「本を探しに行っただけです。お祖母様、私は本当に何もしていません」だが真実がどうであるか、須恵の中ではもう答えが出ていて、はなに握られている手を静かに引き抜いた。そして理香子に目を向けた。「理香子。まさか、あなたもこの件に加担しているの?」理香子は内心すでに動揺している。小林家に入って何十年も経っていて、須恵がどういう人間なのか、彼女はよく知っている。普段は穏やかに笑い、家のことにも会社のことにも深く口を出さないように見えるが、小林家の事業を亡き夫とともに築いてきたのは、ほかでもない須恵だ。いざとなれば、彼女がどれほど冷徹になれる人なのか、理香子は身に染みて分かっている。須恵の氷のような目を見た瞬間、理香子はこの件の深刻さを悟った。そこで彼女がまず考えたのは、自分だけは巻き込まれないようにすることだった。「お義母様、本当に何も知りません。はなが戻ってきていたことも、光代さんの書斎に入ったことも知りませんでした。この件は、本当に私とは関係ありません」はなは理香子を見つめた。その目には驚きはなかった。いざとなれば、理香子が自分を切り捨てることくらい分かっている。それでも、実際にその態度を見せつけられると、胸の奥に冷たい失望が広がった。理香子は須恵に信じさせるため、まっすぐはなのそばへ歩いていって、次の瞬
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第318話

須恵は口を開いた。「もうこの女を屋敷から出して。今後一切、うちには入れないで」はなは椅子にしがみつき、どうしても手を離そうとしない。それは、最後の執念のようにも見える。「だったら、小林家の人間として罰してください。受けます。どんな罰でも受けます」けれど結局、はなは使用人たちに引きずられるようにして連れ出された。来希はその様子を見て、ばつが悪そうで後を追った。はなはどうしても離れようとせず、屋敷から追い出されても、外に膝をつき、声を上げて泣き続けている。来希はそのそばに立っているが、その目に同情はない。ただ苛立ちを覚えている。「もう泣くな。小林家はもう君を受け入れないだろう。はな、まさか君がこんなふうになる日が来るとはな。君に小林家という肩書きがなくなったら、何が残るんだ?」来希は、もうとっくにはなの本性を見抜いた。はなは名門大学を出ているとはいえ、能力はたいしたものではない。それでも彼女が小林家の令嬢という肩書きにしがみついていたのは、その名前が自分を立派に見せてくれるからだ。今の彼女がテック企業で働くことも、結局は小林家の名があってのことだ。はなは昔から、自分をそれらしく見せることには長けている、昔だまされたのもそのせいだった。しかしその肩書きを失えば、彼女はただの詐欺師同然だ。はなはようやく泣きやんで、胸の中で燃え盛っていた怒りが、その瞬間、一気に噴き出した。「来希、破産したのに何を偉そうに言っているの?今のあなたなんて、物乞いと何が違うのよ。そんなあなたに、私を笑う資格があるわけ?」「笑ってるんじゃない。これが君にふさわしい結末だと言っているだけだ。俺の家庭を壊し、俺の人生までめちゃくちゃにした。今は全部君の自業自得だ。君みたいな女に、まともな未来なんてあるわけがない」はなは怒りを通り越して笑った。「私があなたの家庭を壊した?最初に私にすり寄ってきたのはそっちでしょ。あなたこそ何様のつもり?結婚が駄目になったのも、仕事で何もできなかったのも、最後は全部私のせいにするつもり?自分の失敗まで、私に押しつけないで」「そうだよ。俺は情けない男だ。だったら、俺と離婚すればいい」はなは吐き捨てるように言った。「言われなくてもそうするわ。明日にでも離婚するよ」これまでは、理香子が許さ
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第319話

忠久は一瞬、言葉を失った。須恵はさらに続けた。「そうでなければ、この状況で萌花さんが子どもを残そうとするわけないでしょう?」忠久は萌花を見た。自分の娘の性格は分かっている。離婚まで決め、ここまでこじれた以上、本来なら子どもを残すとは思えない。「萌花、本当なのか?」萌花は、須恵が自分の事情をすべて調べ上げているのだと悟った。それでも表情を崩さずに口を開いた。「正直に言えば、私にとって、母親になれるかどうかはそこまで大切なことではありません。あのときこの子を残そうと思ったのは、時雄が父親としての権利をすべて放棄すると言ったからです。けれど今になって話を覆し、この子のことで私を追い詰めるつもりでしたら、この子を諦めます」そんなことを、本気で思っているわけではない。妊娠してもう三か月を過ぎている。お腹の中にいる小さな命を、萌花は日ごとにはっきり感じるようになっていた。それでも今、少しでもこの子を手放したくない素振りを見せれば、須恵にそこを突かれる。だからこそ、平気な顔でそう言うしかなかった。「母さん、そこまでするんですか」時雄もついに声を荒げた。「これは俺のことで、俺の人生です。母さんに口を出す権利はありません」「時雄、黙って」須恵は、萌花にも時雄にも構わなく、ただ忠久に向かって言った。「私としても、お互いにこれ以上こじれることは望んでいません。こちらのお願いを一つだけ聞いていただけるなら、この子のことについて、今後こちらから口を出すことはしません。萌花さんと時雄のことも、お二人の判断にお任せします」忠久の表情に、わずかな迷いが浮かんだ。忠久にしてみれば、今日は呆れることの連続だった。小林家の揉め事を次々と見せられ、時雄に対する失望も怒りも、まだ収まってはいない。それでも、孫ができるという事実だけは、心のどこかで嬉しい。忠久は以前から、いつか孫の顔を見たいと思っている。口には出さなくても、それは長年の願いである。「条件とは?」「お父さん」萌花は、忠久が折れかけていることに驚いた。須恵は静かに言った。「小林グループは、私と亡き夫が一生をかけて築いてきたものですよ。その名に傷がつくことだけは許せません。世間に好き勝手言われるのも、ましてや株価にまで影響が出ている今の状況も
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第320話

時雄は本気で焦り始めた。「母さん、蓮に何をしたんですか」須恵は鼻で笑った。「あなたたち二人が夫婦としてきちんと表に出て、この騒ぎを収める。小林グループが今回の危機を乗り切れたら、蓮がどこにいるか教えてあげる。嫌なら、蓮の遺体を引き取りに行く覚悟をしておきなさい」萌花も言葉を失った。萌花の中で、須恵はずっと穏やかで優しく、どこか可愛らしいおばあさんで、普段から自分にも何かと気を配ってくれていた。こんなにも冷酷な一面を見るのは初めてだ。須恵は最後に言い残した。「結婚の件は、こちらで公表する。明日、会社で記者会見を行う。あなたたちは時間通りに顔を出せばいいわ」須恵が去ったあと、時雄はずっと黙ったままで、忠久も何も言わなかった。聡子が思わずこぼした。「それにしても、あの方、本当に容赦ないわね」彼女は萌花のそばへ歩み寄った。「萌花、どうするつもり?」萌花は答えずに、視線を時雄へ向けた。やがて時雄も、萌花の前まで歩いてきた。その目には、隠しようのない懇願が浮かんでいる。「萌花。もう一度だけ、助けてくれないか」翌日、午前九時。小林グループの会議ホールは、すでに人で埋め尽くされている。大半は新聞社やテレビ局など、各メディアの記者たちで、もちろん社内の人間も少なくない。社内掲示板も朝から大騒ぎになっている。「今日、会社どうなってるの?記者多すぎない?」「まさか社長と蓮さんの件、ほんとだったとか?今日発表するの?」「やめてくれ。こっちは女だけじゃなく男まで警戒しないといけないのか」「でも相手、蓮だよ?俺様社長攻め×映画俳優受けって、普通に良くない?」「いや、それはちょっと分かる」野次馬根性で会場近くまで見に来る者も多くて、やがて廊下まで人で埋まり始めた。そして今日の記者会見には、記者会見には、長く表には出ていなかった須恵まで出席していた。須恵は中央の席に腰を下ろし、会場を静かに見渡している。深い紫の着物姿は上品で、静かに座っているだけで場を支配するような威厳がある。「本日はお集まりいただき、ありがとうございます。このような場を設けたのは、ある事実を皆さまにお伝えするためです」無数のカメラが、一斉に須恵へ向けられた。「このところ、小林グループの社長と蓮さんに関す
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