文香はその冷ややかな気配に、彼が機嫌を損ねたことを察し、慌ててすがりついていた腕を離した。「……ごめんなさい、律くん。私だって、律くんに迷惑なんてかけたくないの。お仕事も忙しいのに……それに、もうすぐ婚約するから準備だってたくさんあるはずなのに……」「でも、時々どうしようもなく自分が情けなくなって……最近は転ぶのもひどくなってきてるし。お手伝いの人たちには、律くんに電話しないでって言ってるんだけど、今日は誰もいなかったから……っ」彼女はひどく自分を責めているような顔をして、哀れっぽく訴えかけた。「何かあればいつでも連絡しなさい。私が来られない時でも、誰か別の人間を向かわせる。明日は病院に連れて行くから、今日はもう休むんだ」彼女を短くなだめると、律は一度も振り返ることなく、そのまま別荘を後にした。屋敷に戻ると、紫音の部屋の明かりはすでに消えていた。これだけ遅い時間だ、きっともう寝てしまったのだろう。「律様、お帰りなさいませ」出迎えた松田が、声をひそめて告げた。「紫音様は先ほどまで、リビングでずっと律様のお帰りを待っておられましたよ。ずいぶんと長く待っていらっしゃいましたが、先ほどご自分のお部屋に戻られました」……そうか。こんな時間から彼女を起こして休みの邪魔をするわけにもいかない。律は一人、足音を忍ばせて書斎へと向かった。デスクに向かい、二つのファイルを取り出してパラパラとページをめくってみたものの、どうにも活字が頭に入ってこない。文香の件が、彼の頭をひどく悩ませているのだ。ここ最近の彼女の症状はますます深刻になっている。それに加え、精神状態も明らかに正常ではない。明日は彼女を病院へ連れて行き、身体の診察だけでなく、心理カウンセラーのカウンセリングも受けさせるべきだろう。自分が紫音と正式に婚約すれば、文香に計り知れないショックを与えることは目に見えている。最悪の場合、あの手この手を使ってひと騒動起こす可能性すらある。しかし、これは彼自身が正面から向き合うべき問題だ。決して逃げることはできないし、いずれは必ず乗り越えなければならない壁だった。翌朝。紫音は今日、ワークスペースで片付けなければならない仕事が溜まっていたため、いつもより格段に早く目を覚ました。リビングへ降りると、律が一人ソファに腰を下ろし、静かに
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