All Chapters of 義妹に溺れる彼を捨て、私は宿敵の妻となる: Chapter 101 - Chapter 110

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第101話

松田さんは、いつものように紫音が起きる頃合いを見計らって食事を用意してくれていた。その細やかな気遣いは、以前と変わらず温かい。「紫音様、お目覚めですか。律様なら今朝早くに会議へと向かわれましたよ。『紫音を必ず起こして、仕事へ行く前に何か食べさせてくれ。忙しいからといって、食事を抜くようなことは決してさせるな』と、きつく仰せ付かっております」律は毎日欠かさず、紫音の体調を気遣うよう松田に言い含めていた。彼女をこの屋敷に呼び寄せ、共に暮らし始めた最大の理由は、ひとえに松田のような信頼できる者に彼女の身の回りの世話を任せるためでもあった。今の彼女は仕事に心血を注いでおり、両親の側を離れて生活している。もし一人暮らしをさせてしまえば、食事も適当に済ませ、無理を重ねるに違いない。律は、そんな事態を断じて許さなかった。「ありがとうございます、松田さん」紫音の胸の奥に、じんわりとした温もりが広がる。食事を終えた彼女は、蘭と合流するため、二人で使っている小さなワークスペースへと向かった。そこは以前、個人的に借りていたマンションの一室だ。会社を離れた今の彼女たちにとって、そこが新たな拠点となっていた。もともとは、蘭が外で作業をする際の予備の仕事場として用意していた場所だったが、図らずも今、その存在が大きな助けとなっていた。そこへ、浩一から連絡が入る。彼女たちの事業に最適な特許案件が見つかったという。二人は今日の午後、詳細を詰めるために直接会う約束を交わした。ワークスペースの扉を開けると、そこにはすでに蘭が到着して彼女を待っていた。「紫音さん!やっとお会いできました。この数日間、どれだけ待ち遠しかったか……一人で仕事をするのは少し心細かったですけど、こうしてまた紫音さんとご一緒できるなら、疲れなんて吹き飛んじゃいました!」蘭は弾んだ声で一気にまくしたてると、手元の資料を整理しながら続けた。「各プロジェクトは、今のところ順調に進んでいます。例のご友人が手助けしてくださったおかげで、状況も安定しています。……それより、ご実家の方は大丈夫でしたか?ご両親と仲直りできたと聞いて、私も本当に安心しました」再会を喜ぶ蘭の表情は、どこか高揚しているようにも見えた。実際のところ、紫音が会社を離れてからの蘭のプレッシャーは尋常ではなかった。絶対
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第102話

蘭は迷いのない瞳で言い切った。紫音は穏やかに微笑み、彼女へ深い感謝の眼差しを向けた。窮地に立たされ、誰もが手のひらを返して去っていったあの時。損得勘定抜きで、ただ紫音という人間を信じて側に残ってくれたのは、蘭だけだった。ほどなくして、浩一が足を踏み入れてきた。彼はデスクを挟んで向かいの席に腰を下ろす。「紹介するわね。彼は私の親友の塚山浩一さん。例の特許トラブルを解決してくれたのは、彼なの。電話では何度かやり取りしたわよね」続けて、紫音は蘭を浩一に紹介した。「こっちは私の親友で、今は右腕として私を支えてくれている森下蘭さんよ」二人は目が合うと、互いに丁寧に会釈を交わした。だが、蘭は浩一を間近に見た瞬間、内心で激しく動揺していた。――なんて格好いい人なんだろう。テレビの向こう側にいる人気俳優すら霞んでしまうほどの美男子だ。けれど、彼女はすぐに自分を戒めた。どれほど好感を抱いたところで、彼と自分とでは立場も住む世界も違いすぎる。不相応な憧れは毒にしかならないと、蘭は必死に浮き立つ心を引き締めた。「これから塚山グループと共同で二つのプロジェクトを進めることになったわ。今日二人を引き合わせたのは、顔合わせをしておいてほしかったから。現場レベルでは、これから二人で連携してもらう場面も増えると思うし」紫音は、二人の顔を交互に見つめながら言葉を継いだ。「浩一さんも蘭も、私にとってはかけがえのない大切な人たち。二人が良い友人として、そして良いパートナーとして協力し合ってくれることを願っているわ」「承知しました。紫音さん、私に任せてください!」蘭は居住まいを正し、力強く頷いた。「紫音、俺が持ってきたこの二つのプロジェクトの企画書、目を通してみてくれ。修正が必要な箇所があればいつでも連絡してくれて構わないから。……それにしても、まさかお前がもう自分のアシスタントを雇っているとはな」浩一は手元の書類をテーブルに置くと、少しからかうような視線を蘭に向けた。「でも、こんないい子がお前の下にいても先が知れてるんじゃないか?どうだ、試しにうちの会社に来てみないか?うちの規模は今、どんどん大きくなってるぞ」軽口を叩いたのは、初対面でどうにもぎこちない二人の空気をほぐすための、浩一なりの気遣いだった。「浩一さん、随分と度胸がついた
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第103話

本当を言えば、浩一は紫音を家まで送りたかった。彼の胸の奥には、どうしようもない不満と未練が燻っていた。どうして彼女は突然、何の前触れもなく他の男と一緒になってしまったのか。なぜ自分には少しのチャンスすら与えられなかったのか――だからこそ、彼はこうして少しでも紫音との接点を持とうと足掻いていた。まだ彼女はあの男と正式に婚約したわけではない。二人が本当に婚約の誓いを交わすその日まで、彼はきっぱりと諦めることなどできそうになかった。帰りの車中。流れる夜景をぼんやりと見つめながら、浩一はふと助手席の蘭に問いかけた。「君は、ずっと紫音の側にいたのか?」「ええ……ここ最近、紫音さんには本当に色々なことがあったんです。信じていた人からの裏切りに遭い、ご自身で立ち上げた会社も倒産の危機に瀕して……」蘭の横顔に、深い憂いの陰が落ちた。「このしばらくの間、私なりにずっとお供をしてきました。けれど、彼女はとても芯の強い方で、どれだけ傷ついてもその弱さを決して他人に見せようとしません。本当の辛い姿は、いつも自分の中だけに隠してしまうんです」「…………」「時々、胸が張り裂けそうになります。あんなに身も心も疲れ切っているのに、必死に気丈に振る舞い続けているのを見ていると……」紫音の抱える苦悩を口にする蘭の声は小さく震えていた。彼女がどれほど紫音を想い、心痛めているかが痛いほど伝わってくる。浩一の瞳の奥に、濃い落胆の色が閃いた。紫音の痛みを知り、身を挺してでもそれを分かち合いたかった。だが、彼はずっとその事実を知らぬまま過ごしてきた。長らく連絡を絶っていた間に、彼女がそれほど過酷などん底に突き落とされていたとは思いもしなかったのだ。もし、もっと早くに知っていれば。自分が必ず駆けつけて最前線に立ち、あんなクズのような男に彼女を虐げさせる真似など絶対に許さなかったのに――「塚山さんは紫音さんの親友ですよね。紫音さんのために、いろいろと手を尽くして助けてくださっているのが私にも分かります。紫音さんも、今回の特許の件は塚山さんとの親交がなければ、絶対に実現しなかったとよく分かっていますよ」蘭は真摯な響きを込めて言葉を紡いだ。「紫音さん、私にもよく言うんです。『こんなチャンスは滅多にもらえないから、何があっても大切にしなきゃいけない。絶対に良いプロジェクトにする
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第104話

「いや、気にするな。もし仕事のことで分からないことや、何か生活のことで困ったことがあれば、いつでも連絡してくれていいからな」浩一は気さくに笑いかけ、二人は今後の業務連絡のために連絡先を交換した。その後、彼の車は夜の街へと走り去っていった。その頃。律の屋敷に戻ってきた紫音は、ガレージに律の車が停まっているのを見て驚きに目を丸くした。珍しい……今日はこんなに早く帰ってきているの?これまでは家に帰ること自体が少なく、帰ってきたとしても深夜になるのが常だったからだ。紫音は少し早足になりながら、屋敷の玄関扉を開けた。リビングに向かうと、ソファには律が座っていた。まるで、彼女の帰りをずっと待っていたかのように。「今日は随分とお早いのですね」紫音が不思議そうに尋ねると、律は淡々とした声で答えた。「今日はそこまで予定が立て込んでいなかった。だから、少し早く切り上げただけだ」そう言って、彼は眉間を指で揉みほぐした。その涼やかな横顔には、隠しきれない疲労の色が色濃く滲んでいる。「律様、ご注文のレモンウォーターをお持ちしました」タイミングよく、松田がキッチンからグラスを乗せたお盆を手に現れた。紫音が律のそばへと歩み寄ったその時、ツンとしたアルコールの匂いが鼻先に漂ってきた。お酒の匂い……!紫音は思わず眉をひそめた。仕事の付き合いで酒を飲むこと自体は珍しくないが、今日の彼は明らかに普段より酒の量が多い。何かあったのかしら……?無意識のうちに心配になり、紫音の表情が険しくなる。彼女はこっそりと松田に耳打ちした。「松田さん、どうしてあんなに飲んでいるの?」「私にも分かりません。律様が普段、あそこまでお酒を召し上がるのは珍しいことですから……何か、ひどくご機嫌を損ねられるような事でもあったのでしょうか」松田も戸惑った様子で、声を潜めて答えた。律は目を閉じ、ソファの背もたれに深く身を預けていた。そのまま眠りに落ちてしまいそうな様子だ。「律さん……今日、いったいどうしたの?何かあったんじゃないの?私でよければ話を聞くわ。解決してあげることはできないかもしれないけれど、愚痴を聞くくらいならできるから」紫音は松田の手からグラスを受け取ると、律の口元へそっと運び、レモンウォーターを少しずつ飲ませた。「……ただの仕事上の
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第105話

律さんをここまで追い詰めるなんて……いったい、どれほど困難な仕事だというの?「律さん、ゆっくり休んでね。もし気分が悪くなったら呼んでちょうだい。今日はどこへも行かずに、そこのソファで寝るから」紫音は、すっかり眠り込んでしまった彼に聞こえているかは分からないと思いつつ、そっと囁いた。そう言い残し、立ち上がって離れようとしたその瞬間。律の手が、再び彼女の手をぎゅっと掴んだ。「行かないで……ここにいて、私のそばに」低く、甘く、掠れた声。普段の彼が纏っている冷ややかな空気はすっかり鳴りを潜め、ただ深い感情と脆さだけが滲み出ている。紫音は虚を突かれ、その場でわずかに動きを止めた。彼がこれほど無防備に甘えてくるのは初めてで、少し戸惑ってしまう。けれど、不思議と彼を突き放そうという気持ちは一切湧き起こらなかった。考えるよりも先に受け入れようとするこの感覚こそが、何よりも偽りのない自分の本心なのだろう。「……分かったわ」紫音はベッドの傍らに身をかがめ、淡い間接照明の光の下で彼の寝顔をじっと見つめた。こんなに至近距離で、まじまじと律の顔を観察するのは初めてかもしれない。彫りの深い整った顔立ちには、一点の非の打ち所もない。客観的に見ても、思わず息を呑み、一瞬で心を奪われてしまうほどの美しい男だった。紫音はただ黙って彼を見つめ続けた。その顔から、どうしても視線を外すことができない。そこから、どれほどの時間が過ぎただろうか。日中、外を歩き回って仕事をした疲労が出たのだろう。紫音はいつの間にか、彼に寄り添うようにして深い眠りに落ちていた。翌朝。目を覚ました紫音は、我が目を疑うような状況に息を飲んだ。なぜか、自分が律のベッドの中で寝ている。あろうことか、彼の身体にべったりと張り付き、まるで大きな抱き枕のように力いっぱい抱きしめていたのだ……!な、嘘でしょうっ!?紫音はバネのように跳ね起きた。どうしていいか分からず慌てふためきながら状況を確認したが、幸いにもお互い服は昨夜のままだ。どうやら、間違いが起きるような事態には至っていないらしい。思い出せるのは、昨夜、ここで彼に「行かないで」と引き留められたことだけ。そこから先、自分がどうやってベッドに潜り込んで眠ってしまったのか、まったく記憶がなかった。ああもう、私のバカッ!
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第106話

部屋を飛び出し、ようやく足を止めたところで、紫音は溜まっていた息を長く吐き出した。……なんとか、逃げ出せた。胸の鼓動はまだ速いままだ。先ほど見た光景、律の腕の感触、そしてあの愛おしげな眼差しが、まぶたの裏に焼き付いて離れない。火照る頬を落ち着かせようと階下へ降りると、松田が二人分の朝食を整えて待っていた。紫音が律の部屋から出てくる様子を目にした彼女は、察したようにその口元を綻ばせる。「紫音様、お目覚めですね。お食事の用意はできておりますよ。さあ、温かいうちにどうぞ」「……ありがとうございます、松田さん」どこか含みのある温かな微笑みに気恥ずかしさを覚えながらも、紫音はいつものように丁寧に応じ、食卓についた。それから間もなく、律も部屋から姿を現した。昨夜の乱れた様子は微塵も感じさせない、隙のない黒のシャツに身を包んでいる。その凛とした佇まいは、すでに仕事モードに切り替わっているようだった。「……おはよう」向かい合って座り、二人だけの静かな朝食が始まる。食事が終盤に差し掛かった頃、紫音のスマホが小刻みに震えた。画面を見ると、表示されたのは浩一の名だった。「もしもし、浩一さん?」「紫音か。例の提携案がようやくまとまったんだ。もし時間があるなら、一度こちらに来てくれないか?詳細を詰めておきたいんだ」電話越しの浩一の声は、どこか弾んでいる。「今日は君の好きなスイーツも用意して待っているよ。ちょっとしたサプライズがあるから、楽しみにしていて」浩一の声は受話器から漏れるほど大きく、隣に座る律の耳にも一言一句がはっきりと届いていた。その瞬間、律の表情が冷たく強張った。やましい関係ではないと分かっていても、愛する女が別の男と時を共にするのは、男として到底容認できることではない。ましてや相手が仕事上の付き合いであれば、強く止めるわけにもいかないのだ。同じ男だからこそ、浩一が紫音に向けている眼差しの正体も、言葉の端々に滲む情熱も手に取るように分かってしまう。けれど今の律には、それを指摘して彼女を束縛する言葉が見つからなかった。「ええ、分かったわ。準備ができたら蘭と一緒に伺うから、そこで待っていて」紫音がそう答えるのが聞こえた。……蘭も一緒か。二人きりではない。その事実が、律の重く沈んだ心をわずかに軽くした。
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第107話

息を切らし、申し訳なさそうに謝罪する蘭の様子に、紫音は思わず笑みをこぼした。「そんなに急がなくて大丈夫よ。まだ仕事の話は始めていないし、こうしておやつを食べていたところだもの。蘭も、まずは水を飲んで落ち着いて。これも食べてみて」そう言って、紫音は菓子を一つ取って彼女に差し出した。しかし、取引先の社長の前で暢気に菓子をつまむわけにもいかず、蘭は慌てて首を振った。「いいえ、お構いなく!来る前に済ませてきましたから。それより、私にできることがあれば何でも指示してください」「蘭、そんなに肩肘張らなくていいのよ。彼は私の古い友人なんだから、そんなに畏まらなくても」必死に自分を律しようとする蘭の姿に、紫音は苦笑するしかなかった。「……はい、失礼いたしました」紫音がそう言えば言うほど、蘭はかえって不自然なほど身を硬くした。自分でも理由は分からないが、どういうわけか、この男の前では妙に居心地が悪く、極度に緊張してしまうのだ。「森下さん、そんなに他人行儀にしないで。紫音とは長い付き合いだし、これから一緒に仕事をする機会も多いんだから」浩一も、彼女のあまりの硬さに不思議そうな表情を浮かべた。「はい、承知いたしました。塚山さん」仕事が一段落ついた頃には、すっかり夜も更けていた。「もうこんな時間か。今日は本当にお疲れ様。プロジェクトがこんなにもスムーズに進んだのは、間違いなく君たちのおかげだよ。労いも兼ねて、俺に夕食をご馳走させてくれないか?」時計に目をやりながら、浩一が二人に提案する。「ええ、いいわよ」紫音は深く考えずに快諾した。どうせ今帰宅したところで、家には誰もいない。律はたいてい接待などで帰りが遅く、一人で広い屋敷にいても所在ないだけだからだ。そうして三人で連れ立ってオフィスを出たのだが――ビルのエントランスを抜けた先で、紫音は思わず足を止めた。そこには、見慣れた一台の車が停まっていた。……律さん!どうして彼がここに?まさか、私の仕事が終わるのを待っていたの?紫音は急いで車の傍へ駆け寄ると、信じられないという顔で運転席を覗き込んだ。「律さん……?どうしてここにいるの?」「君を迎えに来た」さらりと告げられた言葉に、紫音は一瞬呆然とした。多忙な彼がわざわざ自ら出向いてくるなんて夢にも
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第108話

今日、多忙な彼がわざわざ自らハンドルを握って迎えに来た目的――それは他でもない、明確な「所有権の誇示」だ。長年、紫音の一番近くで友人という仮面を被っているこの男が、ただの友人であるはずがない。律は本能でそれを悟っていた。紫音の側には浩一に対する特別な感情は一切見受けられないが、浩一が紫音を深く愛していることは、同じ男として痛いほど伝わってきていたのだ。「浩一さん、今日はごめんなさい。食事の件は少し落ち着いたら、また私からご馳走させて」迷った末、紫音は申し訳なさそうに浩一に謝り、律と共に帰ることを選んだ。「ああ、分かった。気にしないで」浩一は心の底で深い落胆を覚えながらも、表面上はそれを微塵も悟らせず、あくまでスマートに微笑んで見せた。律は彼女の正規の婚約者なのだ。自分と拝島律、その二択を迫られた時、彼女が迷わず拝島律を選ぶのはごく当たり前のことだった。帰りの車内。助手席に座る紫音は、流れる夜景を見つめながら口を閉ざしていた。まだ互いのことを深く知っているとは言えず、一緒に暮らしていても、どこか探り合いのような距離感がある。とりわけ、先ほどの少しピリついた空気の後では、どんな言葉を切り出せばいいのか分からなかった。その時、急な着信音が車内の静けさを切り裂いた。律が通話ボタンを押すと、スピーカー越しに声が響く。「律くん、助けて!家の中で転んじゃって、どうしても起き上がれないの……お願い、早く来て、助けて……っ」聞こえてきたのは、焦ったような、それでいてどこか甘ったるい若い女の切羽詰まった泣き声だった。「そこから動くな。すぐに行く」律の無機質な声とともに、その眼差しがスッと冷たさを帯びた。紫音は、今の甘ったるい声に聞き覚えがあった。律の家へ越してきたばかりの頃に耳にした声だ。彼女と律の関係がただならぬものであることは明白だった。以前なら自分には関係ないと気にも留めなかっただろう。だが今は、胸の奥がチクチクと痛み、言い知れぬ不快感に苛まれていた。「先に君を家へ送る。急ぎの用ができたので、今夜は一緒に食事できなくなった。松田に何か用意させるから、家で食べてくれ」律は今日、紫音と夕食を共にするためだけに仕事を調整し、早めに切り上げてきたのだ。まさかまたあちらで問題が起きるとは。最近彼女のSO
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第109話

「ねえ、律くん。私、これからの人生、一生自分じゃ何もできないの?どうして……っ、私なんて、ただのガラクタと同じじゃない!」彼女の嗚咽は次第に激しさを増していった。ついには感情を抑えきれなくなり、全く感覚のない自らの両脚を激しく叩き始めたのだ。「何をするんだ、やめなさい!」律は慌てて彼女の両手を掴み、強く制止した。「海外からトップクラスの専門医を呼ぶ手はずはもう整っているんだ。安心していい、すぐにリハビリも始められるようになる。医者も言っていたよ。君はまだ若いんだから、症状は重くても必ずまた歩けるようになるって」「もう少しだけ辛抱してくれ。絶対に諦めないでほしい。こんな風に、毎日自分を痛めつけるような真似はしないでくれ……!」律の顔にも深い焦燥の色が滲んでいた。彼女をそっとソファに座らせると、服が水で濡れてしまっていることに気づき、律自らクローゼットへ向かって着替えを見繕ってきた。「これに着替えて。ダイニングで待っているから、何か温かいものでも作ろう」そう言って、律は彼女のために食事の準備に向かおうとした。「律くん、行かないで……っ。どこにも行かないでよ。ご飯なんていらないから、ただ私のそばにいて……お願い……」彼女はひどく傷ついたような顔で律の服の裾を強く握りしめ、ポロポロと涙をこぼし続けた。「今日、まだ何も食べていないんだろう。何でもいいから口にしないと。とにかく、今から何か作るから。自分の体のことは、君が一番よく分かっているはずだ。だけど、諦めずにリハビリを続ければ、必ずまた立ち上がれる。私を信じて、もう一度自分に、そして私にチャンスをくれないか」律は彼女のことを心から案じていた。目の前のこの女――大原文香(おおはら ふみか)に対して、彼は驚くほどの忍耐強さを見せ、一日も早い回復を心底願っている。しかし、文香は弱々しく首を振るばかりだ。「いいえ、何もいらない……喉を通らないわ。今の私はただの役立たず。毎日こうして動けずにいるなんて、私には拷問と同じなの」「律くん、さっき、いっそ死んでしまおうかと思ったの。車椅子に縛り付けられたまま一生を終えるなんて、耐えられない……私も普通の女の子たちと同じように暮らしたい。自由に動き回りたいのよ……」彼女は止まらない涙を流し、縋るような瞳で延々と訴え続ける。その姿は、痛々
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第110話

律の手料理を口にした人間など、これまで誰もいなかった。文香がその最初の一人だったのだ。「温かいうちに食べるといい」律の口調は淡々としており、何の感情の波も感じさせない。彼女を見つめるその顔には、一切の表情が浮かんでいなかった。「……美味しい。律くんが、これからもずっと私のそばにいてくれたらいいのに。私、本当に嬉しいの。律くんがいてくれる時だけはすごく安心できるのに、一人になると、どうしようもなく絶望してしまう……私、律くんに依存しすぎているわよね。もう、律くんなしじゃ生きられないみたい。これが私の悪いところだって分かってるの、どうにかしなきゃって……でも、私……」文香は力なくそうこぼすと、深くうつむいてしまった。その小さな背中は深い絶望に沈んでいるようだ。「ずっとそばにいることはできない。私にも仕事があるからな。だが、君が私を必要とする時には、必ず駆けつける」「専門医もできるだけ早く手配する。だから安心しなさい」律はそれ以上の甘い約束を与えようとはせず、言葉の端々で彼女とは一定の線を引いて距離を保とうとしていた。その言葉を聞いて、文香の瞳の奥に一瞬、暗い落胆の色が走った。「律くん、もうすぐ婚約するんでしょう?婚約者の方が来たら、もう今みたいには私のそばにいられなくなるわね。頭では分かっているし、心の準備もできているつもりだったけど、やっぱり少し……つらいわ。でも、安心して。いつまでも甘えたりしないから。婚約者の方だって、私みたいなのが近くにいたら絶対に嫌な思いをするものね。ちゃんと分をわきまえて、絶対に律くんの迷惑になるようなことはしないから……!」言葉だけを聞けばひたすら律を気遣っているように聞こえるが、彼女の表情はひどく哀れで絶望に満ちており、その大きな瞳には今にも零れ落ちそうな涙がいっぱいに溜まっていた。律は微かに口元を緩めたが、その声はどこまでも平坦だった。 「私はずっと、君を妹のように思ってきた。この先私が婚約しても、仮に結婚したとしても、困ったことがあればいつでも頼ってくればいい。何も遠慮はいらない」 「それに、君を気にかけてくれる人間がもう一人増えるだけのことだ。思い詰める必要なんてない。もし私の結婚が原因で塞ぎ込んでいるなら、それは全くの杞憂だよ」あくまで理路整然と語るその言葉は、優しさの皮
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