All Chapters of 義妹に溺れる彼を捨て、私は宿敵の妻となる: Chapter 141 - Chapter 150

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第141話

電話越しの家政婦の声は、悲鳴に近い切迫した響きだった。「今は部屋に閉じこもって物を投げ散らかして……手が付けられないほど精神的に取り乱していらっしゃいます。お願いです、今すぐ文香様の様子を見に来ていただけませんか!」家政婦の訴えを聞き、律は深く眉を顰めた。文香の奴、一体何をするつもりだ。自分が直接顔を出さない限り、彼女が意地を張って騒ぎを収めないのは火を見るより明らかだった。「分かった。すぐに向かおう」短く告げて通話を切ると、律は小さく舌打ちをした。このまま本邸に留まっているわけにはいかなくなった。一刻も早く事態を収拾しなければならない。万が一、彼女が自暴自棄になって本当に何か取り返しのつかない事態になれば、彼が生涯背負う十字架はさらに重くなってしまう。そもそも、彼女がなぜこんなヒステリーを起こしているのか、理由は痛いほど分かっていた。今日が祖母の誕生日であるにもかかわらず、本邸の宴席に自分を同伴させなかったことに対する当てつけに決まっている。そうと分かっていても、己の体を人質に取ってまで騒ぎを起こされては、律には「駆けつける」という選択肢しか残されていないのだ。三十分後。車を飛ばして文香の住まいに到着した律は、足早に邸内へ足を踏み入れた。彼女の寝室は内側から鍵がかけられ、ドアの隙間からは煌々と光が漏れ出ている。時刻はすでに午前三時を回っているというのに、まだ起きているらしい。「律様、よくぞ来てくださいました!文香様は今日一日、何も口にしていらっしゃらないんです。お部屋に閉じこもったきり、私たちも中に入れてもらえず……!」律の姿を認めるなり、家政婦がすがるように駆け寄ってきた。「今朝起きられた時からお熱があったのですが、お昼頃にはお顔が真っ赤で……かなりお辛そうだったんです」それを聞いた律は、真っ直ぐに寝室のドアの前に立ち、容赦なく強くノックした。「文香!また何を騒いでいるんだ!熱があるのに薬も飲まないなんて、一体どういうつもりだ。家政婦から電話がなかったら、中でどうなっているか誰も確かめようがないじゃないか!」律の口調は自然と刺々しくなっていた。抑えきれない苛立ちと疲労が、声の端々に滲み出ている。「いいから早くドアを開けろ!君の状態を確かめさせてもらう!」律の声を聞くや否や、文香はすぐにドアの鍵を開けた。
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第142話

律はベッドに近づき、彼女の額に手を当てた。指先に伝わってきたのは、火のように酷い熱だった。彼は思わず天を仰ぎ、深くため息をついた。これほどの高熱が出ているというのに、なぜ意地を張って治療を拒むのか。まったく、この女にはお手上げだった。律はすっと立ち上がると、見下ろすように冷ややかな声で告げた。「文香、自分の命をなんだと思っている。こんな時間だ、かかりつけの医者だってとっくに休んでいるし、無理に呼びつけるわけにもいかない。いいから、今すぐ私と病院へ行くんだ」今の律には、彼女の思考回路がますます理解できなくなっていた。ここまで具合が悪いのに、なぜ平気なふりをしてまでこの部屋に留まろうとするのか。一体、何が目的なのか。「律くん……温かいお湯を飲んだから、一晩眠ればきっと良くなるわ。だから……お願い、ここに残って私のそばにいてくれない?どうしても病院には行きたくないの。あそこは本当にトラウマで……」文香は今にも泣き出しそうな、すがりつくような瞳で律を見上げた。哀れみを誘う絶望的な表情を作り、何が何でも動こうとしない。だが、その弱々しい態度とは裏腹に、文香の内心は甘い優越感と歓喜で満たされていた。今日、律が自分のために駆けつけてくれた事実が嬉しくてたまらない。律くんの心の中には、やはり私への特別な思いがあるのだ。そうでなければ、ただ熱を出したと聞いただけで、こんなにも慌てて飛んでくるはずがない。彼は今でも、私を一番に気にかけてくれている。あの女と婚約したとはいえ、律くんの心の中では大した存在ではないに決まっているわ。きっと家の体裁を取り繕うために、仕方なくあの女を選んだだけなのよ!文香は胸の内でそう自分に言い聞かせ、高ぶる感情と笑みを必死に抑え込んだ。実のところ、家政婦に電話をかけさせたのは文香自身の指示だった。あの忌々しい女や、本邸にいる祖母を放り出してでも、律が自分のもとへ飛んでくるかどうか――それを試したかったのだ。結果として、律くんはやって来た。私の目に狂いはなかったのだ、と。「いい加減にしろ!」 律の低く冷ややかな声が、部屋の空気を凍らせた。 「今の君の状態で病院に行かなければ、合併症を引き起こしかねない。さっさと支度してついて来るんだ。無理矢理抱え出されたいわけじゃないだろう」それが、律にできる最大限の忍耐で
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第143話

ベッドに身を横たえたまま、ポロポロと涙をこぼし、これ以上ないほど哀れみを誘う声で甘えすがる。病気で弱っている時の人間は、誰だって心細く脆いもの。律くんだって、こんな私を見たらきっと可哀想に思って優しくしてくれるはず――そう信じて疑わない彼女は、自分がただの自分勝手なワガママを押し付けているとは、微塵も思っていなかった。「文香、いい加減にしてくれ。私には山積みの仕事があるんだ。これ以上、我儘を言って困らせないでくれないか」静かな、しかし拒絶の色の濃い律の声が病室に響いた。「昨日の自分勝手な振る舞いが、どれほど危険だったか分かっているのか?あんな高熱で病院を拒むなんて、自分の命を何だと思っているんだ。……いいか、次に同じような真似をしたら、私はもう一切関わらないからな」律の怒りは頂点に達していた。それと同時に、彼女への失望も深まるばかりだった。彼はこれまで、文香に対して至れり尽くせりの配慮をしてきた。だが彼女は、その献身を逆手に取り、彼の忍耐の限界を試すような真似を繰り返している。律の我慢も、もう限界だった。これ以上同じことが繰り返されれば、もはや言葉を尽くして説得する気さえ起きない。「律くん、そんなに怒らないで……私が悪かったわ、ごめんなさい。でも、病院に来たくなかったのは、本当にここが怖くてたまらないからなの。往診の先生だって、顔を見るだけで震えちゃうくらい怖いんだもの……!」文香は子供のように声を上げて泣きじゃくった。以前の律なら、彼女がどれほど取り乱しても、根気強く寄り添ってくれたはずだった。ましてや、こんなふうに声を荒らげて叱るなど考えられなかったことだ。それなのに、今日の彼は病院に行かなかったというだけで自分を怒鳴りつけた。その事実が、文香にはどうしても受け入れられなかった。「もういい、泣き止むんだ。私は戻るよ。君の世話は、専門の者に任せるから」冷たく言い捨てると、律はそのまま背を向け、一瞥もくれずに病室を後にした。一秒たりとも、今の彼女と向き合っていたくなかった。一人、ベッドに取り残された文香は、遠ざかっていく彼の背中を信じられないといった様子で見つめていた。何を言っても、今の彼には届かない。彼の心は、完全に別の女に奪われてしまったのだ。けれど、どうして?そんなの納得できない。私はこの男のために、すべ
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第144話

画面には、目を引くセンセーショナルな見出しが次々と入り乱れていた。【拝島グループ後継者・拝島律、深夜に大原家令嬢を伴い病院へ!ゴールインも間近か!?】【拝島グループ若きトップ・拝島律、間もなく婚約へ!大原家令嬢とついに結ばれる】【婚約おめでとう!拝島グループ・拝島律氏に祝福の嵐】律がその知らせを耳にするのに、時間はかからなかった。部下が血相を変えて報告に飛び込んできたからだ。昨夜、文香を病院へ連れて行ったのはかなりの深夜だったはずだ。それなのに、なぜこれほど早く、しかもトップニュースとして報じられているのか。ニュースが流れてからわずか数分のうちにコメント数は万単位に膨れ上がり、その勢いは芸能人の結婚発表をも凌ぐ過熱ぶりを見せていた。――間違いなく、裏で誰かが糸を引いている。あまりに手際が良すぎる。昨夜の病院は静まり返っており、人の出入りもまばらだった。そんな状況で、なぜパパラッチが都合よく二人の姿をカメラに収めることができたのか。律の鋭い洞察力は、即座に一つの疑念に辿り着いた。これは文香による自作自演ではないのか。だが、現時点では確たる証拠がない。それに、彼女に対して消えない負い目がある以上、確証もなく彼女を責め立てることはできなかった。しかし、今回の件は明らかに律の逆鱗に触れていた。紫音と添い遂げる決意をして以来、文香の行動はエスカレートする一方だ。隙あらば自分をあてつけのように呼び出し、その身を縛り付けようとする。一方、その頃。紫音は実家で母の琴音と穏やかに朝食を囲んでいた。だが、置いたままのスマートフォンが激しく震え続けていることに気づき、画面を覗き込む。兄の州からの着信だった。「紫音、今すぐネットのニュースを見ろ!律は一体何を考えてやがるんだ。昨日はあんなに殊勝な顔をして一緒に飯を食っておきながら、お祖母ちゃんの付き添いで帰るんじゃなかったのか!?お祖母ちゃんどころか、あの女を連れて病院に行ってるじゃねえか!」州の声は怒りに震えていた。律と文香の間に複雑な過去があることは、友人関係にある彼も十分に承知している。律が彼女の面倒を見ること自体に異を唱えるつもりはなかった。だが、昨日ははっきりと「祖母のために帰る」と言っていたはずだ。家族として温かく送り出した自分たちを、そして何より紫音を欺いたという
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第145話

それに、昨夜の出来事だというこの写真は間違いなく本物で、悪質な合成などではない。「お祖母ちゃんに寄り添うために帰る」と約束して家を出た彼が、どうしてあの後、文香と一緒に病院にいたというのだろう。考えれば考えるほど頭が割れるように痛み、胸の奥が締め付けられるように苦しかった。記事の配信時刻を見ると、世に出てからすでに一時間近くが経過している。しかし、その一時間の間、律からの連絡はただの一度もなかった。先ほど届いた「予定が変わった。会社に戻る」という短いメッセージ以降、何の説明もないのだ。こんなにも自分たちの関係を揺るがすような大騒ぎになっているのに、婚約者である私が、彼自身からではなく他人の口からそれを知らされるなんて――なんて馬鹿げた、滑稽な皮肉だろう。平気だなんて、到底言えない。気にしていないなんて、強がりの嘘に決まっていた。母の琴音は、漏れ聞こえてきた州との電話にただならぬ気配を感じ、急いで紫音のもとへ駆け寄った。手元のスマートフォンでニュースの惨状を確認すると、動揺する娘を落ち着かせるように、穏やかな、けれど芯のある声で諭した。「紫音、落ち着きなさい。断片的な情報だけで判断してはだめよ。律さんがこんな浅はかな真似をするはずがないわ。あの方には昔からの負い目があるんだもの、病院に付き添うくらいのことは、彼にとっては断れない事情があったはず。まずは冷静に、彼の口から説明を聞くべきだわ。何事も、真実を確かめる前に結論を急いで心を乱してはだめよ。相手を信じられずに誤解するのは、一番悲しいことだわ。私が見てきた律さんは、こんな騒ぎを自ら望むような不誠実な人じゃない」琴音は、律の誠実さを深く信頼していた。もし彼があの女性を本当に愛しているのなら、とっくに結ばれていたはずだ。別の女性である紫音との婚約など、端から選ぶはずがない。幼い頃から見てきた彼の責任感の強さを、琴音は誰よりも理解していた。母の言葉を聞き、紫音も少しだけ冷静さを取り戻した。それでも、胸の奥に広がった鈍い痛みは消えない。他人からではなく、彼自身の言葉で、昨夜何があったのかを聞きたかった。紫音は意地でも自分からは電話をかけず、スマートフォンを伏せると、逃げるように仕事の山に意識を向けた。その頃、拝島グループの本社では、律がかつてない危機に直面していた。こ
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第146話

そのあまりにも冷徹な響きに、電話の向こうの文香は息を呑んだ。以前とは明らかに違う、完全に壁を作られたような態度。今、彼が自分に向ける感情が完全に変わってしまったのだと肌で感じ取り、文香の胸にどうしようもない焦燥感と無力感が広がった。「律くん……やっぱり、私が悪かったのね。私が駄々をこねて、大人しく病院に行かなかったから……はじめから往診の先生を呼んでいれば、あんな夜中に、あなたが私を連れ出すことなんてなかったのに……」文香の声が震え出し、やがて弱々しいすすり泣きへと変わった。「私たちが外に出なければ、こんな事にならなかったわ。……全部、私が悪いの。ねえ、お願い……私が憎いと言わないで……」ひどく自責の念に駆られているような、消え入るような泣き声。いかにもこの騒動に心を痛め、反省しているかのような響きだった。これまで律は、文香を心底から責めたことは一度もなかった。彼女がどれほど度を越した真似をしようとも、激しい怒りを直接ぶつけるようなことは避けてきた。彼女には、返しきれないほどの負い目がある。「自分が原因で、彼女は一生残る傷を負ったのだ。それがなければ、彼女がここまで自分に執着することもなかったはずだ」と、深い自責の念が常にブレーキをかけていたからだ。だからこそ、彼は「彼女には寛容でなければならない。よほどの一線を越えない限りは、彼女の身勝手に目くじらを立ててはいけない」と自分に言い聞かせてきたのだった。「文香、君を責めてはいない。ただ、今は手が離せないんだ。失礼するよ」身を切るような彼女の声にも深入りはせず、律は静かに通話を切った。今回の報道により、律は最悪の板挟み状態に陥っていた。このまま数日後に予定通り紫音との婚約式を強行すれば、今回のニュースは再び燃え上がり、間違いなく世間の格好の標的になる。「文香に対して無責任だ」「恩人を蔑ろにし、二股をかけている」――そんな罵声が飛び交うだろう。律自身は、世間からどう思われようと、どれほど悪口を叩かれようと構わなかった。彼が危惧しているのは、拝島グループの企業としての信用だ。そして何より、彼にはもう「守るべき人」――紫音がいる。もし婚約式の場で根も葉もないバッシングが飛び交えば、一番傷つくのは紫音だ。自分が何も気にしなかったとしても、会社を支える株主たちへの責任もある。すべて
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第147話

律はそれだけ言い残すと、有無を言わさず通話を切った。その後も、押し寄せる情報の処理や多方面への根回し、広報チームとの協議に追われ、気づけば深夜を回っていた。時計を見て、律はふと手を止めた。――紫音は、もう眠っただろうか。今日一日は、自分の身の回りで起きた騒動の火消しに忙殺され、彼女に連絡を入れる余裕すら持てなかった。明日には必ず直接電話をして話をしよう。そう自分に言い聞かせなければ、胸の奥にある罪悪感に押し潰されそうだった。一方、京極家の自室で、紫音は一人ベッドに横たわっていた。日付が変わっても一向に眠気は訪れず、ただ暗闇の中で幾度となく寝返りを打つ。ふと思いついたようにスマートフォンを手に取り、画面を点ける。だが、期待に反して通知ランプが灯ることはなく、冷ややかな黒い画面がそこにあるだけだった。――律さんは、今何を考えているんだろう。母が言うように、彼と文香の間にやましいことなど何もないのかもしれない。けれど、これだけの騒動になっていながら、なぜ一言の言い訳も、説明もないのだろう。紫音が求めていたのは、文香との関係に対する釈明などではなかった。彼が潔白であることは信じている。それよりも彼女が傷ついていたのは、彼の「不誠実な沈黙」そのものだった。瞬きをする間に、夜は無情にも明けていた。昼時を過ぎても、紫音は一向にベッドから抜け出せずにいた。昨夜、止まることのない思考の渦に飲み込まれ、眠りについたのは空が白み始めた頃だったからだ。一方、律は、会社で山積みとなっていた事後処理にようやく目処をつけたところだった。そのまま休息も取らず、彼は京極家の本家へと車を走らせた。こんな時だからこそ、誤魔化しのきかない言葉で、面と向かって説明すべきだ。そう判断したのだ。京極家に到着すると、律は真っ先に紫音のもとへ向かった。すでに正午を回っており、リビングには紫音の家族たちが顔を揃えていた。律の姿を認めるなり、琴音が心配そうに歩み寄ってくる。「あら、律さん。紫音なら、昨夜はずいぶん遅くまで起きていたみたいで、まだ二階で休んでいるのよ。せっかくの休暇なんだからゆっくり休ませてあげようって、あの子の父親とも話していたところなの」「律、お前……よくも平気な顔をして来られたな」琴音の穏やかな声を遮るように、州が険のある声を上げた。妹を溺
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第148話

琴音は諭すように優しく語りかけた。ここで二人の間を取り持ち、些細なすれ違いが大きな傷になるのを防ごうとしているのだ。もし二人がこの件で本格的に仲違いでもすれば、それこそ「あの女」の思う壺である。それだけは、母親として絶対に避けたかった。 「はい……お心遣い、本当にありがとうございます」律は深く頭を下げた。本当なら、家族全員の怒りを一身に受ける覚悟で来ていたのだ。婚約発表の直前に別の女との醜聞など、普通であれば絶縁を叩きつけられてもおかしくはない。それなのに、琴音は彼を責め立てるどころか、二人の関係を修復するための助言までしてくれた。その深い理解と優しさが、今の律には痛いほど胸に沁みた。権力争いの絶えない拝島家で育った律は、これまでこのような「無条件の家族の温もり」に触れたことがほとんどなかった。問題が起きればすべて一人で背負い込み、解決してきた。実の母である朱美に心情を吐露したことも過去にはあったが、彼女は自分の享楽にしか興味がなく、息子の重圧を本気で分かち合おうとしてくれたことなど一度たりともなかった。だからこそ、こうして不器用な自分を当然のように迎え入れてくれる京極家の空気が、不思議なほど律の心を深く安堵させていた。ふと視線を向ければ、不機嫌そうに腕を組んでそっぽを向いている州の姿がある。先ほどは容赦ない言葉を浴びせてきた州だが、実は昨日の騒動が起きた直後から、裏で自身のネットワークを駆使してメディアに働きかけ、事態の収束に奔走してくれていたのだ。律は報告を聞き、その事実をちゃんと知っていた。一階のリビングでそんな会話を交わしていると、ふいに階段の上から紫音が下りてきた。まだパジャマ姿のままで、どうやら今目覚めたばかりらしい。「律さん……?どうして、あなたがここに」紫音は目を丸くした。昨夜眠りにつく前は、あんなにこの男に対して腹を立てていたというのに、いざ翌日になって突然目の前に現れると、ひどく動揺してしまう。「州、あなた食事は済んだわよね?お母さん、これからお友達の奥様方と集まりがあるの。今日はちょうど運転手さんがお休みだから、あなたが車を出してちょうだい」娘の姿を認めるなり、琴音は機転を利かせ、息子を促して足早にこの場から立ち去ろうとした。今回の騒動は決して小さくはないが、まもなく婚約を控えた二人にとっ
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第149話

紫音の思考はすでに冷静さを取り戻していた。現在の状況で無理に婚約を強行すれば、どんな事態を招くかは火を見るより明らかだった。世間はすでに律と文香の関係を巡って騒ぎ立てているのだ。ここで発表すれば、律が激しいバッシングの的になるだけでなく、会社にも深刻なダメージをもたらしてしまう。拝島グループは、律の祖母がその生涯を懸けて守り抜いてきた心血の結晶だ。自分たちの都合で、それに泥を塗るような真似は絶対に避けなければならない。正直なところ、紫音自身はすでに半分諦めにも似た境地に達していた。たとえこのまま婚約が白紙に戻ったとしても、自分はそこまで気に病まないだろう――そう割り切っていたはずだった。それなのに、昨日彼が別の女と一緒にいるというニュースを目にしたとき、自分でも驚くほどの悲しみがどうしようもなく胸に込み上げてきたのだ。「紫音、私を信じて理解してくれて、本当にありがとう。……でも、婚約を先延ばしにするつもりはないよ。できるだけ早く予定通りに進める。君と結ばれることは、他の誰でもない、私自身が心から望んでいることなんだ」律の口調は断固たるもので、一点の迷いもなかった。「それに、文香に対して私が果たすべき責任は、もうとっくに終わっている。これ以上、私が彼女に罪悪感を抱く理由なんて何一つないんだ」彼は当たり前のようにきっぱりと言い切ったが、紫音の胸の奥にあるわだかまりが消えることはなかった。律がどれほど責任感の強い人間か、彼女はよく知っている。今は口でどれだけ冷たいことを言おうとも、いざとなれば結局は見捨てることができないのだ。今後も文香が何か問題を起こせば、彼はまたあの女のために動いてしまうに違いない。「……分かったわ。とりあえず、今日は私もあなたと一緒に都心へ戻る。自分のオフィスで片付けなきゃいけない仕事が山積みなのよ」紫音は焦りをごまかすように話を打ち切り、意識を仕事へと切り替えた。自身の抱える業務も待ったなしの状況だ。それに、今の面倒な騒動にしても、律ならばきっと彼自身の力でうまく収拾をつけるだろうという信頼が、彼女の根底には確かにあった。「紫音、もし心にわだかまりがあるなら、隠さずに言ってほしい。一人で無理に飲み込まなくていいんだ」紫音は物分かりのいい態度を見せているが、その瞳の奥には拭いきれない憂いの色が滲んでいた。律にはそれ
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第150話

その瞬間、紫音はハッと息を呑み、その場に釘付けになった。まさか彼から、「愛しているから選んだ」などという言葉が出てくるなんて、思いもしなかったのだ。幻聴ではないか。今聞いた言葉は本当に現実なのだろうかと、自分の耳すら疑ってしまう。「紫音、私は自分の本心に嘘をついたことは一度もない。君を愛しているからこそ、君のそばにいることを選んだんだ。今はまだ信じられないかもしれないけれど、必ず時間をかけて証明してみせる」律の口調は揺るぎなく、その瞳にはひたすら深い愛情が宿っていた。ただ一つ、彼が言葉にしなかったことがある。それは、「もう何年も前から、ずっと君を愛し続けていた」という事実だ。彼がそれを胸の奥に仕舞い込み、あえて過去の出来事を明かさないのには理由があった。いつの日か、紫音自身がかつての記憶を取り戻し、自分の口で『あの時の彼』だと気づいてくれることを、密かに期待しているからだ。「私……」唐突な告白を前にして、紫音はどう返事をすればいいのか分からなくなってしまった。どんな顔をして彼と向き合えばいいのかすら、今の彼女には分からない。「今は、何も答えなくていい。ただ、私の想いだけは信じてほしいんだ。私が君を選んだのは、君という存在そのものに惹かれているからであって、家柄や親からのプレッシャーなんて一切関係ない」律は戸惑う紫音を安心させるように、優しく言葉を継いだ。「もし私が周囲の重圧に屈するような人間なら、そもそも君の手は取っていない。だから、これっぽっちも負担に感じる必要はないんだよ」「これからしばらくの間、事後処理に追われて君と一緒に過ごす時間が減るかもしれない。でも、どうか不安にならないでほしい。この騒ぎが落ち着いたら、寂しい思いをさせた分は必ず埋め合わせをする。婚約の発表も、できる限り早く進めよう。本当なら今頃、二人でその準備をしているはずだったのに……こんな騒動に君を巻き込みたくはなかった。それだけが、本当に申し訳ないと思っている」こうして腹を割って話し合えば、紫音も理屈では彼を理解できた。律とあの女――文香の間に男女の情など微塵もないことも、今の言葉から十分に伝わってきたからだ。けれど、頭では分かっていても、心のどこかに澱みのような不快感が居座り続けている。紫音は自問した。彼と過ごす時間が長すぎたせいだろうか。いつの間に
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