All Chapters of 義妹に溺れる彼を捨て、私は宿敵の妻となる: Chapter 61 - Chapter 70

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第61話

律はすでに次の手配を済ませていた。その迅速さと周到さに、紫音は舌を巻く。「お気遣いは本当にありがたいのですが……」紫音は一度言葉を切り、慎重に続けた。「仕事に関しては、できるだけ自分の力で進めたいのです。誰かのコネクション頼みになってしまうのは、少し抵抗があって」会社を失ったとはいえ、手元にはまだ特許と、これまで培ってきたノウハウがある。これらを武器に、一から自分の実力を証明したいという意地があった。「誤解しないでほしい。私がしたのは、あくまで候補の選定だけだ。そこから先、交渉を成立させられるかどうかは、完全に君の手腕にかかっている。私は口出ししない」律の言葉は、紫音の矜持を正確に理解していた。過保護になりすぎず、かといって放任もしない。その絶妙な距離感に、紫音の肩の力がふっと抜けた。「……分かりました。ありがとうございます」「君は私の婚約者だ。他人行儀な礼は要らないし、その堅苦しい話し方もなしだ」律は不満げに釘を刺した。「……ええ。善処するわ」紫音は少し可笑しそうに、わざと言い直して答え、短い通話を終えた。……それから一週間が過ぎた。律から送られてきたリストは精査されており、どの企業も紫音のビジョンと合致し、将来性も申し分ないものばかりだった。紫音はホテルに缶詰めになり、各社の分析と資料作成に没頭した。そして準備が整い、いよいよ数社のトップと面談を取り付ける運びとなった。今夜は、その最初のアポイントメントだ。今回は迷わずアシスタントの蘭を同行させることにした。前回の教訓を生かすのはもちろん、今後プロジェクトの実務を担う彼女にも、現場の空気を肌で感じてほしかったからだ。支度を整えてロビーへ降りると、すでに蘭が待機していた。「紫音さん、行きましょう!資料はバッチリ揃えてあります。今日の商談、私すごく自信あるんです」蘭はやる気に満ち溢れ、その表情は生き生きとしていた。「ええ、私もよ」そんな彼女の姿を頼もしく思いながら、紫音は微笑んだ。二人が意気揚々とホテルを出た、その時だった。目の前に、異様な風体の男が立ちはだかった。額に痛々しい包帯を巻き、その滲み出た血よりもさらに赤く充血した目で、男はこちらを睨みつけている。――塚山だった。「京極……ッ!よくも俺を潰してくれたな、この売女が!
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第62話

今の彼には、法も道徳も意味を成さない。病院を抜け出してきたのは、警察の手に落ちる前に、最後の欲望を満たすためだ。彼の目は怨念に濁り、紫音を骨の髄まで呪っているようだった。誰が裏で糸を引き、一夜にして自分の帝国を崩壊させたのか、塚山は知らない。背後に強大な権力が絡んでいることまでは察していても、彼が半生をかけて築き上げた城を、たった一人の女に灰にされたという屈辱――それだけは、どうあっても飲み込めなかったのだ。「来ないで!」「誰か!誰かいませんか!」蘭が紫音に強くしがみつき、小さな背中で彼女を庇う。二人は必死に声を上げたが、運悪く周囲に人の気配はなかった。高級ホテルのエントランス脇という死角が、今は仇となっていた。「助けて……!」悲鳴も虚しく、塚山は檻から解き放たれた腹を空かせた野獣のように、充血した両目を見開いて突っ込んできた。躊躇も容赦もない暴力が、二人を襲う。「邪魔だッ!」ドガッ、と鈍い音が響いた。塚山の渾身の蹴りが蘭の脇腹に突き刺さり、彼女の体は枯れ葉のように地面へと弾き飛ばされた。「蘭!」紫音はとっさに手を伸ばそうとしたが、次の瞬間、強烈な力で襟元を掴み上げられた。「ぐッ……」首を締め上げられ、酸素が途絶える。視界が明滅する中、怒りと怨嗟の塊となった塚山の拳が、紫音の体に雨あられと降り注いだ。地面に叩きつけられた紫音には、もはや抵抗する術など残されていない。「いいザマだなぁ、おい!」塚山は荒い息を吐きながら紫音の服に手をかけ、力任せに引き裂いた。布の裂ける乾いた音が、彼の嗜虐心をさらに煽るようだった。「やっとこの時が来たぜえ、なあ、京極さんよォ!」白昼堂々、ホテルの敷地内で行われる暴挙。もはや彼の理性にブレーキは存在しなかった。無惨に肌を晒されそうになった、その時だ。ドゴッ!風を切り裂くような轟音が響き、塚山の顔面が歪む。突然どこからか飛んできた拳が、見事に彼の顎を粉砕したのだ。間髪入れず、黒いスーツに身を包んだ屈強な男たちが三人、雪崩のように押し寄せる。彼らは瞬く間に塚山を取り押さえ、地面にねじ伏せた。紫音は朦朧とする意識の中で、重い瞼を持ち上げた。逆光の中に立つ、見覚えのある横顔。……律?拝島律だった。紫音は数秒間、時が止まったように彼を見つめた。鋭利な刃物のように美
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第63話

「ああ、すぐに向かう」会社からの急用だろう。彼は電話を切ると、松田に向かって短く指示を出した。「彼女を頼む。何かあれば俺の携帯に」そう言い残すと、彼は風のように部屋を出て行った。静寂が戻った部屋に、紫音は一人取り残された。初めて訪れる彼の領域。上質なリネンに身を沈めてみても、どこか借りてきた猫のような気分が抜けない。寝返りを打って体勢を変えたとき、控えめなノックの音が響いた。「紫音様、よろしいですか?」松田が盆を手に戻ってきた。紫音は慌てて半身を起こす。「実家の秘伝の軟膏をお持ちしました。これを塗れば痛みも引きますし、何より痕が残りません」松田は母親のような温かい手つきで、小瓶の蓋を開けた。「明日の朝には随分とよくなっているはずですよ。こんなに綺麗なお顔に傷が残ってはいけませんからね。さあ、失礼して……」彼女の献身的な態度と、慈愛に満ちた眼差し。律がこの家に彼女を置いている理由が、なんとなく分かる気がした。張り詰めていた紫音の心が、薬草の香りと共に少しずつ解れていくようだった。「松田さん、自分でやりますから。どうか休んでいてください」 紫音は申し訳なさそうに言った。人に世話を焼かれることに、まだどこか抵抗がある。「いいんですよ、遠慮なさらないで。初めての場所だと落ち着かないでしょうが、じきに慣れますよ。私は律様のところでお世話になってもう十年になります。だから何でも言ってくださいね」松田の手は止まることなく、優しく薬を塗り広げていく。紫音はふと微笑むと、部屋の様子をそれとなく見回しながら、わざと軽い調子で尋ねてみた。「ねえ、松田さん。彼、よくこうやって誰かを連れてくるの?」松田は目尻の皺を深めて笑った。「まさか。律様が女性をこの家にお連れになったのは、紫音様が初めてですよ。これ、本当の話です。それに、長年お仕えしている私には分かります。あの方は、紫音様のことを本当に大切に想っていらっしゃる」松田は懐かしむように言葉を継いだ。「律様は昔からおモテになりますから、言い寄ってくる女性はそれこそ星の数ほどおりました。でも、あの方はどなたにも目もくれなかった。こんな風に心を砕くのは、紫音様だけです」紫音の口元が自然と綻んだ。律のことはまだよく知らない。けれど、この実直そうな家政婦の言葉に嘘はないように思えた。
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第64話

転んでもただでは起きないというか、この状況で色恋沙汰を嗅ぎつけるとは。蘭らしいバイタリティに、紫音は思わず苦笑した。「ふふ、ご想像にお任せするわ」意味深にはぐらかして、通話を終える。夜の帳が下りた頃、松田が夕食の支度が整ったと呼びに来た。ダイニングへ通された紫音は、テーブルの上の光景に目を丸くした。そこには十種類以上もの料理が所狭しと並べられていたのだ。しかも、どれもこれも彼女の好物ばかり。「彼も、帰ってくるのかしら?」紫音は尋ねた。一人で食べるには明らかに量が多すぎるし、これではあまりにも贅沢だ。「律様からは、お戻りになる時間が読めないので、紫音様には先にお召し上がりいただくようにと仰せつかっております。どうぞ、お気遣いなく」松田はそう言い残すと、紫音が気まずくならないよう配慮してか、静かにその場を離れた。広すぎるダイニングに一人きり。見慣れない天井、高級すぎる家具、静寂。本来なら不安で押しつぶされそうなシチュエーションだが、不思議と心は凪いでいた。彼のテリトリーに守られているという事実が、得体の知れない安心感をもたらしているのかもしれない。カチャリ。玄関の方でドアが開く音がした。律が帰ってきたのだろうか。紫音は箸を置き、期待と緊張の混じった面持ちで視線を向けた。だが、そこに立っていたのは彼ではなかった。入ってきたのは、一人の女性だ。雪のように白い肌に、漆黒のドレスがよく映える。深みのあるブラウンのウェーブヘアが肩に揺れ、その肢体はモデルのように完璧な曲線を描いていた。大人の色香と気品を兼ね備えた、圧倒的な存在感を放つ美女。紫音は一瞬、思考が停止した。あれ?松田さんは……彼がここへ女性を連れてきたことはないって、言っていたけれど……?「松田さん!」玄関の女性が、よく通る声で呼びかけた。「はい、ただいま」奥から松田が小走りで現れ、慣れた様子でスリッパを揃える。「朱美様、お待ちしておりました。どうぞ」ダイニングにいた紫音は、来客の気配に思わず席を立った。誰だろう……?リビングに入ってきた女性は、紫音の姿を見るなり目を丸くした。「あら?彼女は……?」松田がすっと彼女に歩み寄り、声を潜めて耳打ちする。「朱美様、こちらが律様の婚約者の方です」「えっ、京極さんちの?紫音さん?」
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第65話

謙遜でも擁護でもない、本心だった。過度な期待など抱いていなかったにもかかわらず、律はいつも絶妙なタイミングで現れ、窮地を救ってくれる。かつて、清也には感じたことのない絶対的な安心感が、そこにはあった。「……もう、あなたがそう言うなら今日は勘弁してあげる」朱美は折れて、くるりと表情を変えた。「でも、一人で食事なんて味気ないでしょう?彼がいないなら、私が付き合うわ。遠慮しないで。実はね、あなたが小さい頃に一度会ってるのよ。まだ赤ん坊だったから覚えてないでしょうけど」朱美は席に着きながら、優しい声で続けた。「それに、お母様からもよくお話を聞いていたわ。離れて暮らしている間も、ずっとあなたのことを案じてらした。婚約も決まったことだし、これを機に親子水入らずの時間を作ってあげてね」紫音は小さく肯いた。両家の繋がりは思った以上に深いようだ。彼女が今まで歩んできた道のりも、朱美はすべて承知の上なのだろう。「はい、ありがとうございます」「頼ってくれていいのよ。律がいじめたらすぐに言いつけて。私があなたの味方になって、ガツンと言ってあげるから」朱美は悪戯っぽくウインクしてから、少し真面目な顔つきになった。「あの子、見た目はあんなに冷淡だけど、根は情が深くて細かいところまで気がつく子なの。それにね、気に入らないことはテコでも動かない性格よ。そんなあの子が婚約を受けたってことは、あなたのことを本気で想っている証拠だわ」朱美は確信に満ちた笑みを浮かべて、紫音を見つめた。「最初はぎこちないかもしれないけれど、夫婦なんてものは時間をかけて馴染んでいくものよ。あなたたちなら、きっとうまくいくわ」本当にそうだろうか。紫音は自問した。律に対して自分がどんな感情を抱いているのか、まだ答えは出ない。この婚約も、きっかけは彼女自身の窮状だった。決して恋愛感情から始まったわけではない。けれど――こうして手を差し伸べられた以上、誠心誠意その手を取り、パートナーとしての責任を全うしたい。紫音は迷いを振り切るように、朱美に微笑み返した。「あらやだ、お節介な母親がこんなに喋りすぎちゃ、プレッシャーになっちゃうわね。さあ、いただきましょう。せっかく律が心を込めて用意させた料理が冷めちゃうわ」そう言って明るく食卓を盛り上げる朱美の姿に、紫音の緊張は完全にほぐれ
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第66話

「紫音、どうしてもっと早く出ないんだ。いい加減、頭も冷えただろう?二人でちゃんと話し合おうじゃないか。もう何日も経ってるんだし」受話器の向こうの清也は、妙に猫なで声だった。「レストラン『シエル・ブルー』を予約した。今夜の五時だ。そこで待ってる。過去のことは水に流して、腹を割って話そう」『シエル・ブルー』――そこは、かつて二人が初めてデートをした思い出の場所だ。あの時、清也は九十九本の薔薇と、彼が自ら選んだネックレスをプレゼントしてくれた。そのネックレスは気に入っていて、紫音は今でも大切に保管している。だが、そんな思い出を持ち出されたところで、今の彼女の心は微動だにしなかった。「話すことなんて何もないわ。私たちはもう赤の他人よ。二度と連絡してこないで」冷たく言い放ち、通話を切ろうとする。「待てよ!おい紫音!」清也の声が荒らげられた。「会いたくないとしても、最後くらい綺麗に終われないのかよ!なんで俺を潰そうとするんだ!会社の状況は知ってるだろ、どうしてそこまで冷酷になれる!」本性が露呈した男の喚き声に、紫音は冷ややかな笑みを浮かべた。「不破清也、先に裏切ったのは誰?非情なことをしたのはあなたでしょう?私はただ、あなたがしたことをそのままお返ししただけよ。何を怒る必要があるの?」お互い、退路は断ったのだ。今さら恨み言を言われる筋合いはない。もし、彼がここまで酷い裏切り方をしなければ、紫音だってここまで徹底的にはしなかっただろう。会社の資産を公平に分配して、静かに去っていたかもしれない。けれど、彼は紫音の特許技術を盗み出し、あろうことか芙花の卒業制作に流用しようとしたのだ。それだけは、研究者としての誇りにかけても、女としてのプライドにかけても、絶対に許せることではなかった。「たかが特許の一つや二つ、芙花に使わせてやったっていいじゃないか!それに前にも言っただろ、アレがお前の発明だってことは認める。だから俺と組めば利益の半分は渡すって提案したはずだ。それを突っぱねたのはお前だろうが!」清也は自分勝手な理屈をまくし立てた後、さらに語気を強めた。「それにだ、俺たちの関係が終わったのは仕方ないとして、母さんに罪はないだろ!母さんはお前のせいで心臓の発作を起こして、ずっと入院してるんだぞ!見舞いどころか顔も見せないなんて、人として終
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第67話

紫音がどうすべきか迷っていると、玄関のドアが開く音がした。現れたのは、律の母親――朱美だった。「松田さん、ちょっと手を貸してちょうだい!」彼女は両手いっぱいに大量のショッピングバッグを抱えていた。松田が慌てて駆け寄る。紫音もその後を追い、荷物を受け取るのを手伝った。リビングに山と積まれた色鮮やかな紙袋。朱美はその中から、一番小さな小箱を取り出し、蓋を開けた。現れたのは、粒の揃った美しい真珠のネックレスだった。「紫音さん、昨日は手ぶらで来ちゃってごめんなさいね。今日はこれ、あなたのために選んできたの。あなたの清楚な雰囲気にぴったりだと思って。さあ、私からのささやかな歓迎の品よ。着けてみて」わざわざ自分のために選びに行ってくれたのか。紫音は物質的な贈り物にはあまり執着しないタイプだが、その心遣いが何より嬉しかった。律の母親は、本当に自分を家族として迎え入れようとしてくれている。「ありがとうございます、朱美様」紫音は背筋を伸ばし、髪を持ち上げた。朱美が首元にネックレスを掛けてくれる。冷やりとした真珠の感触が心地よい。「うん、やっぱり素敵。すごくお似合いよ。これからは肌身離さず着けてちょうだいね!」朱美は満足そうに頷くと、今度は別の大きな袋を二つ引き寄せた。「それからこっちは、お洋服よ。私ね、昔から女の子が欲しかったの。一緒にショッピングに行ったり、お洒落を楽しんだりしたかったんだけど……律ときたら、あんな面白味のない男でしょう?」彼女は茶目っ気たっぷりに肩をすくめた。「だから今日、お店で可愛い服を見かけるたびに、ついあなたのことを思い出して、あれもこれもって買っちゃったのよ」これら全てが、自分のために?紫音は驚きと共に、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。「そんな……お気遣いいただき、本当にありがとうございます。これからは、お買い物の時はぜひお供させてください」「あら、嬉しい!言ったわね?約束よ!」朱美は少女のように目を輝かせた。彼女と一緒にいると、不思議と心が安らぐ。ただ甘やかすだけでなく、一人の人間として大切にされているという実感が、紫音には新鮮で、そして何より心地よかった。「それにね、じきに赤ちゃんが生まれたら、ベビー服は全部おばあちゃんに任せてちょうだい!」朱美の夢は膨らむ
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第68話

松田は声を潜め、嬉しそうに続ける。「先日、朱美様がいらっしゃいました。紫音様にたくさんの手土産をお持ちになって……お二人とも楽しそうに過ごされていましたし、朱美様もたいそう気に入られたご様子でした」律は片眉を上げた。母の訪問は想定外だったが、悪い話ではないらしい。彼は足を止めることなく、そのまま紫音の部屋へと向かった。軽くノックをして扉を開けると、紫音は目を丸くして彼を見上げた。「……帰ってたのね」「ああ。母さんが来ていたようだね」律の声はいつも通り穏やかだった。母と婚約者のいざこざでも心配しているのかと思い、紫音は慌てて付け加える。「朱美様には、とても良くしていただいたわ。だから心配しないで」律の静かな視線に耐えきれず、紫音はさらに言葉を継いだ。「そうそう、紹介してくれた会社のことだけど、いくつか連絡を取ってみたの。どこも私の特許に興味を持ってくれて、近いうちに面談することになったわ」矢継ぎ早にそう報告したのは、律と二人きりの空間に居心地の悪さを感じていたからだ。沈黙が怖くて、あえて話題を探してしまう。政略という形だけの絆で結ばれた他人同士。ふとした瞬間に、まるで手錠で繋がれた見知らぬ同士のような気まずさが漂う。けれど、きっとこれも最初だけだ。時間をかけて向き合っていけば、この空気も変わっていくはずだと、紫音は自分に言い聞かせた。律は重たげに瞼を持ち上げ、短く頷いただけだった。「あの、私……」紫音が何か言いかけたその時、突然鳴り響いた着信音が会話を遮った。彼女は反射的に口をつぐむ。律が通話ボタンを押すと、受話器の向こうから、今にも泣き出しそうな甘ったるい女の声が漏れ聞こえてきた。「律お兄ちゃん、助けて……!足を挫いちゃったみたいで……痛くて立ち上がれないの」律の表情が、瞬時に曇った。平静を装ってはいるが、その声色には明らかな焦燥が滲んでいる。「動くんじゃないぞ。すぐに行くから」通話を切ると、彼は紫音を振り返った。「少しトラブルがあって、出てくる。先に休んでいてくれ。起きて待つ必要はない」「……わかったわ」紫音はただ頷くことしかできなかった。一通の電話でこれほど血相を変えて飛び出していくのだ。相手の女性は、彼にとって余程大切な存在なのだろう。私にはその理由を問い詰める資格も権利も
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第69話

幼稚な嫌がらせで仕事の邪魔をしようだなんて。彼がいくら虚言でこちらの評判を落とそうとしても、私自身の仕事に一點の曇りもない。実績と自信だけは揺るがないのだから。「でも、悔しいです!先に裏切ったのはあっちなのに。あんな酷いことしておいて、よくもぬけぬけと紫音さんの名誉を傷つけるような真似ができますね!」蘭の怒りは収まらないようだが、紫音はふっと軽く息を吐いた。「いいのよ。そんなことを繰り返していれば、いずれ自分自身の評判を落とすだけだから」紫音は本心からどうでもよかった。あの男やその取り巻きのために、これ以上自分の貴重な時間や感情をすり減らすのは御免だ。それより今は、目の前の仕事に集中すべきだ。それから一週間が過ぎた。あの日、「ちょっと出てくる」と言って家を出て以来、律は一度も帰ってきていない。ふとした瞬間に、紫音の脳裏によぎるのはあの日の電話だ。あの甘えた声の女性を看病するために、彼はつきっきりなのだろうか。考えるたびに胸がざわつくが、すぐに理性がそれを打ち消す。もしそうであったとしても、私には関係のないこと。まだ正式に婚約もしていないのだ。彼が誰とどう過ごそうと、それは彼の自由なのだから。「紫音様、こちらを」松田が恭しく差し出したのは、上品な化粧箱だった。「律様からのお届け物です。今夜のパーティーでお召しになっていただきたいとのことです。『午後七時に迎えの車をやるから、同行するように』と伝言を預かっております」パーティーへの同行――紫音はわずかに眉を寄せた。もともと、そういった華やかな場での付き合いは避けてきた。かつて清也からも何度となく同伴を求められたが、その度に全て断ってきたのだ。ただ笑顔を張り付けて立ち尽くすだけの時間は、生産的ではないと感じていたからだ。だが今回は、なぜか断る言葉が出てこなかった。「……わかったわ」紫音は自分でも驚くほど素直に承諾していた。松田が部屋を出て行くと、彼女は静かに箱を開けた。中には、繊細な金色の刺繍が施された淡いベビーピンクのドレスと、煌めくクリスタルのヒールが収められていた。袖を通すと、鏡の中の自分が見違えるようだった。彼女の透き通るような白肌とスラリとした長身が、甘い色合いを凛と着こなしている。まるで水面を滑る白鳥のような、気品ある佇まいだ。
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第70話

飛び交う憶測と視線の中、紫音は背筋をピンと伸ばして立っていた。隣にいる律の圧倒的な存在感に飲まれることなく、彼女自身もまた凛とした輝きを放っている。その姿は、堂々としていて美しかった。「拝島さん、ご無沙汰しております。まさか今日お会いできるとは。実は面白い案件がありまして――」「こんばんは、拝島社長」「社長、どうも」会場の中央へ進むにつれ、彼を取り囲むように次々と人が集まってくる。誰もが律に対して媚びるような笑みを浮かべ、グラスを掲げた。律は会釈を返しつつ、隣の紫音へと視線を促した。「紹介させてください。私の婚約者の京極紫音です」周囲の視線を一身に集める中、彼は続けた。「彼女は現在、複数の有望な特許を所有しておりましてね。今後、皆様ともビジネスでご一緒する機会があるかもしれません。その際は、どうぞお力添えをお願いします」紫音は一瞬、耳を疑った。ただの婚約者としての紹介だけではなかった。彼はこの煌びやかな社交の場で、彼女のビジネスパーソンとしての価値までをも認めさせようとしている。これは、ただの紹介ではない。拝島律という絶対的な後ろ盾があることを、この場にいる全員に知らしめる行為だ。……私のために、ここまでしてくれるの?不意に胸の奥が温かくなる。打算や義務感だけではない、彼の不器用な優しさが、じわりと心に染み渡っていった。「もちろんですとも!拝島社長からの直々のお願いとあれば、全力でご協力させていただきますよ」機を見るに敏な男たちが、先を争うように名刺を差し出してくる。「紫音さん、これが私の名刺です。明日、お時間のある時にご連絡ください。特許の詳細をいただければ、最優先で検討させていただきます」「奇遇だなぁ、我が社も新規プロジェクトを立ち上げるところでしてね。枠はまだ空いていますから、明日にでも秘書から連絡させますよ!」彼らにとって、紫音の持つ特許の内容がどうであるかは二の次だ。これは拝島律という絶対権力者に恩を売る絶好のチャンスなのだ。見逃す手はない。「ありがとうございます。皆様のお心遣い、感謝いたします」紫音は洗練された笑みを絶やさず、丁寧に一礼した。「いやいや、お礼などとんでもない!拝島社長の頼み事は我々にとっての使命みたいなものですから」「そうですよ。この件に限らず、何かお困りのことがあればい
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