義妹に溺れる彼を捨て、私は宿敵の妻となる のすべてのチャプター: チャプター 631 - チャプター 640

806 チャプター

第631話

しかし、正人は全く引き下がる気配がない。どんな手を使ってでも会社を自分の手中に収めると息巻いており、目的を果たすまでは絶対に諦めないという執念が滲み出ていた。彼らの生き様を見ていると、紫音は哀れでならなかった。自分の力で正当に努力して地位や富を築く道もいくらでもあったはずなのに、正人は昔から何一つ努力することなく、ただ怠惰に身内に寄生し、利権の甘い汁を吸うことしか考えてこなかった。その果てに、こんなにも醜い怪物に成り果ててしまったのだ。「もう……いい加減にしてください!」耐えきれず、紫音は鋭い声を上げた。「志津様は今も、あの扉の向こうで生死の境を彷徨っているんですよ!?あなたたちが実の息子だと言うなら、今すべきことは、いつ延命治療を打ち切るのか、それとも最期までどうやって安らかに見送るのかを話し合って、決断することでしょう!」紫音は怒りと悲しみで声を震わせながら、正人と宏を真っ直ぐに睨みつけた。「それなのに……こんな時に遺産や権力のことばかり。あまりにも見当違いだと思いませんか?あなたたちの頭の中がどうなっているのか、私には到底理解できません。でも、これだけははっきり言っておきます。私は、志津様を心から慕っています。これまでずっと温かく接してくださったあの方を、絶対に見捨てたりはしません」紫音の瞳には、一切の迷いがなかった。「志津様のことには、最後まで関わらせてもらいます。あなたたちが実の息子であろうと、私が志津様の傍に残り、最期の瞬間まで寄り添うことを邪魔する権利はないわ。誰にも、私をここから追い出すことなんてできはしない!」目の前に立つ、血の繋がった実の息子たち。そのあまりにも冷酷で無慈悲な姿に、紫音は心底から冷え切るような絶望を覚えた。この世界に、ここまで血の通っていない人間が存在するなんて……彼らの浅ましさを目の当たりにして、紫音はようやく理解した気がした。なぜ、志津があれほどまでに深く傷つき、心を閉ざすように生きてこなければならなかったのかを。もし自分が彼女の立場なら、実の息子たちから向けられる欲まみれの刃に、とうの昔に心が折れ、耐えきれなくなっていただろう。志津は、本当に強い人だった。長年、一人で全ての重圧と悲しみを背負い込んで、巨大な拝島グループを守り続けて
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第632話

拝島家の醜悪な言い争いがなおも続く中、重い足音と共に主治医が再び姿を現した。「……ご家族の皆様」沈痛な面持ちの医師が口を開くと、その場の空気が一瞬にして凍りついた。医師は簡潔に、しかし極めて残酷な選択を突きつけた。もしこのまま延命措置を続けるのなら、直ちに集中治療室へと移す必要がある。だが、もしもここで『諦める』覚悟があるのなら――今すぐ、すべての生命維持装置を外す決断を下さなければならない、と。「大変申し上げにくいのですが……これ以上の延命は、医学的に見ても意味がありません。ただ、志津様に徒な苦痛を強いるだけです」それは、実質的な『死の宣告』だった。分厚い扉の向こう側。今この瞬間も、無機質で冷たいチューブや医療機器に繋がれ、一人で必死に呼吸を保っている祖母の姿を想像するだけで、律は息が止まりそうになった。誰よりも志津に愛され、その手で大切に育てられてきた律にとって、それは身を切り裂かれるような苦しみを伴う決断だった。どうして、あんなにも優しく気高かった人が、こんな無惨な状況に置かれなければならないのか。どうして、あれほど自分の人生を犠牲にして家族を守ってきた人が、最後の最後にこんな苦痛と拷問のような時間を耐えなければならないのか。理不尽な運命に対する行き場のない怒りが、律の胸で渦巻く。だが、いくら延命が無意味だと分かっていても。自分の手で、あの温かかったおばあちゃんの『命の綱』を外す決断を下すことなど、どうしてできようか。愛しているからこそ、そんな非情な真似は到底できなかった。いや、違う……絶望の底で、律は一つの残酷な真実に気づいてしまった。おばあちゃんの体は、もう何年も前から限界を迎えていたのだ。絶え間ない病の恐怖と、身内たちの醜い争い。本当なら、とうの昔に全てを投げ出して、楽になりたかったのかもしれない。それなのに彼女が、度重なる発作や苦痛に耐え、今日まで必死に生き長らえてきた理由。それは他でもない――律たちのためだ。「自分に生きていてほしい」と願う愛する孫たちのために。彼らを悲しませないように、ただその一心で、彼女は自身の限界を超え、過酷な運命に耐え続けてくれていたのだ。自分たちのエゴが、おばあちゃんを苦しめていたのかもしれない。そう気づいた瞬間、律の心は千々に砕
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第633話

「うっ……」正人の顔からスッと血の気が引いた。わなわなと唇を震わせるだけで、もはや反論の一つも口から出てこない。強欲な彼にとって、会社の権利を完全に失うことは死を意味するのだ。結局、正人はその場から一歩も動くことができず、ただ立ち尽くすしかなかった。他の親族たちも同様に、恐怖で縫い留められたように押し黙る。群がるハイエナたちを冷徹に一瞥すると、律は再び病室の扉へと向き直った。誰一人として寄せ付けない、気高くも悲痛な背中。彼はたった一人で、愛する祖母が待つ病室へと足を踏み入れたのだった。重い扉が背後で閉まり、外の喧騒が完全に遮断された。静寂に包まれた病室の中で、律はゆっくりとベッドへ近づいた。そこには、無数の無機質で冷たい医療機器に繋がれ、虫の息で横たわる志津の姿があった。生命維持装置の無機質な電子音が、冷酷なカウントダウンのように室内に響く。その音を聞きながら、律の脳裏に、かつて志津と交わしたある約束が蘇っていた。自身の心臓が限界に近づいていることを、彼女は誰よりも早く悟っていたのだろう。ある日の穏やかな時間、志津はまるでお茶飲み話でもするかのような穏やかな口調で、律にこう告げたのだ。「もしも私が目を覚まさなくなって、機械に生かされるだけの体になったら……その時は律、あなたの手で私の管を全部外しておくれ」志津は、誇り高く、気丈な女性だった。誰かにすがり、哀れまれながら徒に命を長引かせることなど、彼女の矜持が許さなかったのだ。人生の最期は、人間としての尊厳を保ったまま旅立ちたい――それが彼女の切実な願いだった。「分かった。約束するよ」その時、律は彼女の手を握りしめ、静かに頷いた。だが内心では、そんな日が永遠に来ないことを、誰よりも強く祈っていた。この優しく気高い祖母が、いつまでも自分のそばで微笑んでくれると信じていたかったのだ。あれから随分と長い年月が経ったように思えるが、二人の交わした言葉や、あの時の温かな眼差しは、昨日のことのように鮮明に胸に焼き付いている。ベッドの傍らに立ち、律はきつく拳を握りしめた。どうして、あの強欲な親族たちは、これほどまでに彼女を追い詰めたのだろうか。彼らが少しでも志津の心を思いやり、穏やかな日々を過ごさせていれば、彼女が今日、こんな無惨な姿で横たわっているはず
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第634話

やり場のない悲痛に耐えきれず、律はベッドの傍らに膝をつき、志津の徐々に冷たくなっていく手を両手で固く包み込んだ。この病室の扉を開ければ、もう二度と、彼女の温かい微笑みを見ることはできない。だからこそ、今この僅かな時間だけは、誰にも邪魔されない二人きりの空間で、彼女の穏やかな寝顔を深く瞳に焼き付けておきたかった。それにしても、どうしてこんなにも不条理なのだろうか。律にとって、母を除けば、志津はこの世でたった一人残された『本当の家族』だった。血の繋がりがない自分を庇護し、無償の愛を与えてくれた唯一の存在。そんな慈愛に満ちた彼女が、なぜこれほどの苦しみと孤独を味わわなければならなかったのか。志津の人生における最大の悲劇は、正人と宏――あの二人の息子を育ててしまったことだろう。血を吐くような苦労を重ね、自分の人生の全てを犠牲にして二人を育て上げ、この家を守り抜いてきたというのに。結果として育ったのは、母親の恩を仇で返し、私欲のためなら平気で母親を食い物にしようとする、狼のように冷酷な獣たちだった。彼らは、志津の心の痛みに寄り添おうとしたことなど、ただの一度もなかったのだ。「……おばあちゃん、もう、我慢しなくていいんだ」震える声でぽつりと呟き、律は志津の冷たい手に自身の額を押し当てた。誰にも見せることのない一筋の涙が、彼の美しい頬を伝い、静かに零れ落ちていった。どれほどの時間が過ぎたのだろうか。永遠にも思える静寂は、控えめなノックの音によって破られた。「……律様」申し訳なさそうに病室に入ってきたのは主治医だった。ここは高度な治療を必要とする急患のための病室であり、次に入室を待っている患者がいる以上、いつまでもこの空間を占有し続けるわけにはいかないのだ。律は静かに頷くと、ゆっくりと立ち上がった。これで本当に、おばあちゃんとの最後のお別れになる。真っ白なシーツを掛けられ、ストレッチャーに乗せられた志津の亡骸が、看護師たちの手によって静かに運び出されていく。その光景をただ黙って見つめながら、律の胸中には言葉にならない虚無感が広がっていた。これから、彼女を見送るための手配をしなければならない。かつて拝島家を牽引し、絶対的な権力を誇った志津の葬儀となれば、政財界から数え切れないほどの弔問客が押し寄せる壮大な社葬
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第635話

溢れ出す涙を拭いもせず、紫音は言葉を紡ぎ続ける。「志津様は、決して消えてしまったわけじゃないよ。ただ、別の世界へ旅立たれただけ。きっとその世界には、志津様のことを心から愛して、無条件で大切にしてくれる人たちが待っているはずだから。だから……どうか、自分を責めないで。志津様が向こうで穏やかに、痛みもなく過ごせることを一緒に祈ろう?」そう口にしながらも、紫音自身、それが何の慰めにもならない気休めだということは痛いほど分かっていた。律にとって、志津がどれほど特別で、巨大な存在だったか。幼い頃から彼に惜しみない愛情を注ぎ、手塩にかけて育て上げたのは他でもない志津だ。経営者としての帝王学だけでなく、人としての誇りや強さを律に叩き込んだのも彼女だった。律の人生そのものが、志津という絶対的な愛情の土台の上に成り立っていたのだ。その土台が突然失われてしまったのだから、悲しまないはずなどない。紫音の言葉を聞いた律は、ゆっくりと足を止めた。彼の色素の薄い美しい瞳には、深い絶望と、途方もない喪失感が色濃く沈んでいた。「……ありがとう。君がそばにいてくれることは、本当に救いだよ」律の声は、ひどく掠れていた。「でもね……おばあちゃんは、私にとってこの世界で唯一の『道標』だったんだ。私がここまで這い上がり、血の滲むような努力をしてきたのは……全て、おばあちゃんに『私は大丈夫だ、立派にやれる』と証明するためだった。私を育ててくれた彼女に、絶対に失望させたくなかったから」ポツリ、ポツリと、律は心の奥底から血を流すように本音をこぼす。「けれど、その彼女がもういない。これから先、私がどれほど完璧な成績を収め、どれほどグループを大きくしようと……それを一番見てもらいたかった人は、もうこの世のどこにもいないんだ」その横顔は、全てを失い、迷子になってしまった少年のように酷く脆く見えた。「あまりにも突然すぎた……最近は少しずつ体調も安定してきていたから、こんな日が来るなんて、心のどこかでまだ先のことだと思い上がっていたんだ。……頭では理解していても、心がどうしても追いつかない。これからどうやって前を向けばいいのか、自分でも分からないんだ」律は小さく息を吐き出し、紫音の手を力弱く握り返した。「今は、まるで出口のない悪夢の中にいるような気分だ……だか
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第636話

紫音は彼を励ますように微笑んだが、それが今の律にとってどれほど気休めにしかならないかも理解していた。彼がこの深い悲しみから抜け出すには、まだ途方もない時間が必要なのだ。病院を後にした律たちは、悲しみに浸る間もなく、志津を見送るための準備に取り掛かった。生前の『誰にも気付かれず、静かに見送ってほしい』という彼女の切実な願いを叶えるため、律は極秘裏に手配を進め、ごく親しい身内だけの密葬にするつもりだった。――だが、あの強欲な親族たちが、そんな静かな幕引きを許すはずがなかった。長男である正人が、背後で勝手に動き出したのだ。彼は律に隠れて次々と政財界の重鎮やかつての取り巻きたちに連絡を入れ、志津の訃報を大々的に触れ回ってしまったのである。正人の狙いは火を見るより明らかだった。『グループの絶対的権力者であった母親の盛大な葬儀』を取り仕切ることで、長男としての自分の存在感と権威を世間に誇示し、今後のグループ内での発言権を取り戻そうという魂胆だ。結果として、志津の死はあっという間に世間の知るところとなり、ニュースは連日この話題で持ちきりとなった。そして、かつて彼女と交流のあった友人や財界関係者たちが、次々と弔問に訪れる事態へと発展してしまったのだ。「……あの男は、どこまでおばあちゃんをコケにすれば気が済むんだ」報告を受けた律は、執務室のデスクを強く叩き、ギリッと奥歯を噛み鳴らした。冷ややかな瞳には、明確な殺意に近い怒りが宿っている。今すぐ権力を行使して正人の手回しを全て握り潰し、弔問客を追い払うこと自体は律にも可能だった。だが、正人が「実の長男」という法的な立場を利用し、「生前世話になった母の友人たちに、最後のお別れをさせてあげたい」という『美談』を盾にしている以上、律がそれを力ずくで排除すれば、かえって志津の晩節を汚す醜聞(スキャンダル)になりかねない。志津が何よりも嫌っていた「騒動」を避けるためには、これ以上事を荒立てるわけにはいかなかったのだ。おばあちゃん……申し訳ない。あなたの最後の願いすら、私は叶えてやれないのか……自分の力の及ばない『血縁の壁』と、正人のあまりにも浅ましい利己心に、律は深い無力感と苛立ちを抱えながら、ただ静かに目を閉じるしかなかった。紫音は、正人たちがなぜこんな真似をするのか、その意図をはっき
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第637話

颯馬にとって、血が繋がっていなくとも、律は憧れの対象だった。優秀で隙のない彼のもとで、もっと色々なことを学びたいという純粋な気持ちを抱いていたのだ。颯馬はためらいがちに律の前に立つと、真剣な眼差しで口を開いた。「……兄さん。今、兄さんがすごく辛いのは分かってる。僕も、すごく悲しいよ。おばあちゃんとは短い間しか一緒にいられなかったけど、まさかこんなに早くお別れになるなんて思わなかったから……」颯馬は言葉を探すように少し俯き、再び顔を上げた。「でも、これからはそれぞれ前を向いて生きていかなきゃいけない。父さんや伯父さんのことは、僕からもなんとか説得してみるよ。まあ、あの人たちが僕の言うことなんか聞くとは思えないけど……」自嘲気味に笑った後、颯馬の顔がスッと真面目なものに変わった。「でも、これだけは分かってほしい。これから先どうなろうと、僕は兄さんのことを本当の兄だと思ってる。兄さんのこと、すごく尊敬してるんだ。だって、兄さんは本当にすごい人だから」それは颯馬の偽りない本心であり、心から彼を慕っているからこそ出た言葉だった。だが、律の反応は冷淡だった。「会社なら、君にでも、あの人たちにでも渡して構わない」「え……?」律は無表情のまま、淡々と告げた。「私がこれまで会社の経営を担ってきたのは、全ておばあちゃんのためだ。彼女を安心させるためだけにやってきた。その彼女がいない今、会社に執着する理由はないし、最初から拝島家の財産を乗っ取るつもりなど微塵もない」律の目は、颯馬を静かに、しかし冷ややかに見据えていた。律には分かっていたのだ。颯馬自身は純粋な気持ちで言っているのかもしれないが、彼がわざわざこのタイミングで自分に歩み寄ってきた背後には、正人たちの「律の出方を探ってこい」という差し金があるであろうことを。颯馬は、律からそんな言葉を返されるとは夢にも思っていなかったのだろう。驚きで完全に言葉を失い、その場に立ち尽くした。「兄さん……違うよ。兄さんは勘違いしてる」慌てて首を振り、颯馬は必死に弁解を始めた。「僕は、会社を奪おうなんて少しも思ってない。……確かに、父さんや伯父さんからは『会社に近づいて、お前の手に経営権を握れるようにしろ』って言われてた。それは本当だよ。最初から純粋な気持ちで兄さんに近づい
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第638話

「本当はね、兄さんや紫音さんのそばにもっといたかったんだ。二人がおばあちゃんを心から大切にしていたことも、すごく温かくて優しい人たちだってことも分かってる。僕、二人のことが本当に大好きなんだ」颯馬は少し照れくさそうに笑い、すぐに真剣な顔つきに戻った。「でも、僕の立場は複雑だから……ここに残れば、兄さんたちに余計な気を使わせたり、面倒をかけたりする。そんなこと、したくないんだ」そして、一歩律に歩み寄ると、まっすぐな声で言葉を紡いだ。「だからこそ、最後にこれだけは言わせてほしい。兄さんは絶対に会社を手放しちゃダメだ。父さんや伯父さんたちなんかに渡しちゃいけない。あの人たちじゃ、会社を大きくするどころか潰すのがオチだよ。そんなことになったら、それこそおばあちゃんが一生を懸けて築き上げてきた心血が、全て無駄になってしまう」颯馬の言葉には、確かな熱がこもっていた。「おばあちゃんが会社を兄さんに託したのは、兄さんのことを心から信頼していたからだ。その信頼を、手放しちゃいけない。……おばあちゃんはもういないかもしれないけど、僕たちの中でずっと生きている。僕だって、絶対に忘れない。本当に後悔してるんだ……もっと早くこの国に戻ってきていれば、もっと早くおばあちゃんと会えていたらって。ずっとそばにいられたら、どんなに幸せだっただろうってね」言葉の端々に、隠しきれない無念さと、志津への深い愛情が滲み出ていた。彼にとって、志津と過ごした時間はあまりにも短すぎたのだ。その飾らない本心に触れ、紫音の胸の奥にじんわりと温かいものが広がった。欲にまみれた親族たちの中で、颯馬だけは本当に純粋な心を持っていたのだ。彼が志津を思い、そして律を気遣う気持ちに嘘はないと確信できた。紫音は思わず微笑み、柔らかな声で彼に語りかけた。「颯馬くん、わざわざそんな風に弁解しなくていいのよ。あなたが志津様を本当に大切に想ってくれていたこと、私たちにもちゃんと伝わっていたから。だからこそ、あなたならって信じていたんだよ」律の横に並び立ち、紫音は颯馬を真っ直ぐに見つめる。「あなたが元の国へ帰るにしても、ここに残るにしても……私たちはずっと繋がっているから。何か困ったことがあったら、いつでも頼ってね。颯馬くんが本当は、みんなと楽しく過ごしたかったんだってこと
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第639話

屋敷に戻った後、律は一人、書斎に閉じこもってしまった。誰とも顔を合わせることを拒み、ただ静かな空間で、志津との記憶だけを辿りたかったのだろう。紫音は、長く閉ざされたままの重厚なドアを不安げに見つめていた。今の彼には一人になる時間が必要だとはわかっている。邪魔をしたくはない。けれど、このまま彼が孤独な暗闇の底へと沈んでしまうのではないかと、心配でたまらなかった。意を決して小さくノックの音を響かせ、紫音はそっと書斎の中へと足を踏み入れた。部屋の中は薄暗く、デスクの前に座る律の背中は、いつになく小さく、そして酷く痛々しく見えた。「……あなたが今、どれほど辛いか、痛いほどわかるわ」紫音は彼の側に歩み寄り、その張り詰めた背中にそっと触れた。「でも、こうして一人で全てを抱え込んでいる姿を見るのは、私にとっても本当に苦しいの。……もちろん、この悲しみをすぐに乗り越えてほしいなんて言わない。もし私だったら、到底受け入れられないもの」ぽつりぽつりと、手探りで言葉を紡ぐ。「ねえ、律。命あるものには、いつか必ずお別れの時が来るわ。それは、私とあなただって同じ……避けられない結末なのよ。でもね、私はこうも思うの。志津様にとって、こうして静かに目を閉じることは、決して不幸なことじゃなかったって」律の肩が、わずかに震えた気がした。紫音は背中から回した腕で、彼を包み込むように優しく抱きしめる。「だって、志津様はこの世界で、あまりにも長く戦いすぎて、疲れ切っていらっしゃったから。毎日毎日、一族のしがらみや重圧と向き合い、心をすり減らして……どうにもならない身内の醜さに、深く傷ついておられたでしょう?」拝島家という巨大な権力の頂点に立ち、血の繋がらない律を守り抜くことは、どれほど過酷な道のりだっただろうか。「だから……どうか、安らかに見送ってあげて。志津様はすべての重荷から解放されたのよ。あなたも見ていたでしょう?あの冷たくて無機質な生命維持装置に繋がれて、無理やり生かされている志津様のお姿を……あんなふうに苦しむ志津様を、これ以上見たくはなかったはずよ」元々、紫音は気の利いた言葉で人を慰められるような、器用な性質ではない。自分の言葉が彼を癒せる正解なのかもわからなかった。それでも、彼女は必死だった。不格好でもいい、ただ、愛する彼を
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第640話

律自身も、すべてを投げ出してしまいたいという衝動と、志津の遺したものを守り抜きたいという葛藤の間で引き裂かれていたのだろう。どうしても、志津への想いだけは簡単に断ち切れないのだ。彼は幼い頃から常に最善を尽くし、志津を喜ばせようと必死に生きてきた。彼女の深い愛情と期待に応え、誰よりも見事に会社を導いてみせることで、その大恩に報いたかったのだ。志津が自分を認め、誇りに思ってくれることだけが、彼にとっての生きがいだった。彼女が安心したように目を細めて微笑んでくれる度、律は心底嬉しそうにしていた。彼にとって、志津は人生で最も大切で、心から敬愛する家族だった。特別な愛情をもって彼を導き、今の『拝島律』を形作ってくれた唯一の恩人なのだから。だからこそ、そんな恩人である彼女が、欲深い身内たちのせいで心身をすり減らし、命を削られたことがやるせなくてたまらないのだ。志津様にとって最大の無念は、手塩にかけて育てた二人の息子――正人と宏が、あんな浅ましい人間に成り果ててしまったことだろう。彼らの心には、母親への愛情や労りなど微塵も存在しなかった。その残酷な事実を思うと、紫音まで胸が張り裂けそうになる。……けれど、そうした身内の醜いしがらみも、ついに終わったのだ。天国に旅立った志津様は、今頃きっと穏やかな微笑みを取り戻しているはずだ。少なくとも、血を分けた家族から向けられる刃のような悪意からは、永遠に解放されたのだから。「私が初めて志津様にお会いした時……本当に大好きになったの。いつも前向きで、とても慈愛に満ちた方だった。お会いするたびにニコニコと笑いかけてくださって……他の財閥の奥様方みたいな威圧感なんて、微塵もなかったわ」紫音は、律の冷え切った手を優しく撫でながら、温かい記憶を辿るように語りかけた。「私みたいなよそ者をあんなにすんなり受け入れて、認めてくださるなんて最初は思ってもみなかった。でもね、わかるの。志津様が私を歓迎してくれたのは、何よりもあなたのことを深く愛していたからよ。あなたに、もっと温かくて完璧な家庭を築いてほしかったのね」「でも……あなたが心の中でどれほど苦しんできたか、私には痛いほどわかる。こんな泥沼のような環境で今の地位を築くのが、どれほど苛酷だったか。幼い頃から血を吐くような努力をして、ようやくこの拝島家で自分
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