All Chapters of 義妹に溺れる彼を捨て、私は宿敵の妻となる: Chapter 661 - Chapter 670

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第661話

紫音と蘭が血の滲むような思いで立ち上げ、ようやく今の軌道に乗せた大切な会社。もし何かがあってこれまでの苦労が水の泡になってしまうようなことになれば、悔やんでも悔やみきれない。だからこそ、どんなトラブルであろうと、絶対に自分たちの力で解決しなければならなかった。二人で力を合わせてきたからこそ、乗り越えられない壁はないと信じている。電話越しの蘭の声は比較的落ち着いていたので、会社の存続に関わるような致命的な事態ではないだろう。だが、たとえ小さな火種であっても、放置すればあっという間に大火事になりかねない。「分かったわ。今からすぐにそっちへ向かう。オフィスで待っていてちょうだい。……そうだ、行く途中で何か甘いものでも買っていくわね」「本当ですか?ありがとうございます!」「私と蘭の仲じゃない。遠慮なんていらないわ。何が起きているにせよ、オフィスで落ち着いて待っていて。私がなんとかするから」その紫音の頼もしい言葉に、電話の向こうの蘭は心底救われたような声を出した。どんなトラブルが起きても、紫音というブレない柱がいれば「なんとかなる」と思える――それが、蘭にとってどれほど心強いことか。通話を終えた紫音は、心配そうにこちらを見ている朱美に向き直った。「朱美さん、申し訳ありません。もし他にお話がなければ、私はこれで一度会社へ戻ります。今、アシスタントから電話がありまして、会社で少しトラブルがあったみたいなんです。詳しい状況は分かりませんが、あの子を一人で残しておくわけにはいかないので」「ええ、電話の様子からただ事じゃないのは分かったわ。急いで行ってあげなさい」朱美は優しく頷き、紫音の肩をそっと叩いた。「いいこと、紫音さん。どんな問題が起きたとしても、絶対に焦ってパニックになってはだめよ。冷静に構えなさい。あなたなら絶対に乗り越えられると、自分自身を信じるのよ」「ありがとうございます。私なら大丈夫です。この数年、会社を経営してきて、それこそ数え切れないほどの修羅場をくぐり抜けてきましたから。ここまで来るのは本当に大変でしたが、トラブル対応にはすっかり慣れっこなんです」紫音は自信を覗かせて微笑んだ。「そう、なら安心ね。でも、もし自分たちだけではどうにもならない事態になったり、誰かの力が必要になったりしたら、絶対に一番に私に相談
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第662話

「嘘でしょう……!?」紫音は思わず眉間を深く揉み込んだ。「どうしてそんなことに……蘭、念のために確認するけれど、本当にうちがパクられた側なの? 逆に、うちの社員がよその会社のデータをパクったなんて可能性はない?」「絶対にありません!」蘭は強い口調で首を横に振った。「プロジェクトの初期段階から、すべての開発ログとタイムスタンプは私自身が確認しています。それに、今回の開発チームは皆プロ意識が高く、私たちが日頃から全幅の信頼を置いている優秀なメンバーばかりです。他社のデータをパクって自分の手柄にするような卑怯な真似、彼らがするはずがありません」「……だとしたら、考えられる可能性は一つしかないわね」紫音の声が、怒りでスッと冷たく沈んだ。「うちの内部の誰かが外部と結託して、極秘の開発データを競合に横流しした……もし本当にそうだとしたら、絶対に許せないわ」紫音はギュッと拳を握りしめ、ギリッと奥歯を噛み締めた。どちらに転んでも、会社にとっては存続を揺るがす大スキャンダルだ。業界において、アイデアや技術の「盗用」は企業の信用を地に墜とす絶対的なタブーである。しかし、残酷なことにビジネスの世界では「先に世に出した者」が圧倒的な先手を取る。どんなにこちらがオリジナルであろうと、相手に先に発表され、特許まで押さえられてしまった以上、世間の目には『後出しでパクろうとしている悪徳企業』としか映らないのだ。この絶望的な状況を覆すには、こちらが先にその技術を開発していたという絶対的な『証拠』を突きつけるしかない。しかし、デジタルデータやアイデアの盗用を法的に立証するのは、悪魔の証明に等しいほど困難を極める。――被害者であるはずの私たちが、このままでは加害者にされてしまう。最悪のシナリオが脳裏をよぎり、紫音の背筋に冷たい汗が伝った。「……一番厄介なのは、このままでは今月末に予定している『新プロジェクトの発表会』をどう切り抜けるか、という問題です」蘭が、苦渋に満ちた表情で声を絞り出した。「もし予定通りに発表を行わなければ、投資家の期待を裏切ることになり、株価の大暴落は免れません。ですが……だからといって、向こうがすでに特許を押さえているこの状態で、うちが同じ内容のものを『新技術』として強行発表すれば……」「世間からは
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第663話

「ええ、その通りです。こんな汚いやり方で私たちを潰そうとするような連中を、絶対に野放しにしてはいけません。必ず報いを受けさせましょう」蘭もまた、冷ややかな怒りを宿した表情で力強く頷いた。「ただ……やはり解せないのは、一体どうやってあそこまで完璧に私たちのデータを盗み出したのか、ということです」紫音は腕を組んだまま、険しい顔で呟いた。「社員の中に内通者がいる可能性もゼロではないけれど……もしそうでないとしたら、プロのハッカーを雇ってうちの社内ネットワークに侵入し、データを引っこ抜いた可能性もあるわね。だとしたら、相当なコストと労力をかけてまで、私たちを標的にしているということになる」「そこまでしてうちを潰したい人間が、どこかにいるということですか……」蘭の顔がサッと青ざめた。不気味なまでの悪意が、目に見えないところで自分たちを取り囲んでいるような寒気を覚えたのだ。「理由は分からないけれど、明らかにうちを狙い撃ちにしているわね。……でも、今はその犯人探しよりも、目の前の火消しが先よ」紫音は大きく深呼吸をし、自分自身に言い聞かせるように言葉を紡いだ。「パニックになっても何も解決しないわ。まずは冷静に、今月末の発表会に向けて代わりの新プロジェクトをどうするかを考えないと」とはいえ、言うは易しだ。発表会まで残された時間はあまりにも少ない。どれほど優秀な開発チームが徹夜で作業をしたところで、たった数週間でゼロから新しいプロジェクトを組み上げ、世間に発表できるレベルのものを完成させるなど、常識的に考えて不可能なのだ。どうすればいい……?うちの社員だけでは、絶対に時間が足りない。紫音は必死に脳内をフル回転させた。どんな手段を使ってでも、この危機を乗り越えなければならない。この会社は、紫音一人だけのものではなく、蘭や社員たち全員が血と汗を流して築き上げてきた大切な結晶なのだ。ここで立ち止まって会社を潰すようなことになれば、みんなのこれまでの努力がすべて無駄になってしまう。それだけは絶対に避けたかった。その時、紫音の脳裏に、ある人物の顔がふっと浮かび上がった。……あの人なら、あるいは……その人物が持つ開発リソースや業界内のネットワークを借りることができれば、この絶望的なタイムリミットの中でも、なんとか代わり
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第664話

ただでさえ拝島家を巡る泥沼の権力闘争や、プライベートの揉め事で心身ともにすり減っていたというのに。追い討ちをかけるように起きた新技術データの盗用事件は、紫音の心を深く抉った。自ら立ち上げた会社にとって、これほど悪質で致命的なトラブルは初めてのことだった。何者かが仕掛けた罠なのか、それとも身内の裏切りなのか。犯人の目星すらついていない現状に、紫音は割れそうな頭をきつく押さえた。会社はやっと経営が安定し、新たなステージへと踏み出した矢先だったのだ。関わってきた社員たちの血のにじむような努力も、これから得られるはずだった莫大な利益も、すべてが水泡に帰すかもしれない。バンッ!「紫音、話は聞いた!」勢いよく社長室のドアを開けて飛び込んできたのは、浩一だった。紫音が小さなスタジオからここまで会社を育て上げる道のりをずっと見守ってきてくれた彼は、まるで自分の会社に危機が迫ったかのように焦燥した面持ちで、肩で息をしている。「浩一さん……」ギリギリで立っているような紫音の様子を見て、浩一はスッと目を細め、力強い声で告げた。「今は焦らなくていい。うちの優秀なシステムチームをこっちのサーバー解析に回した。今、徹底的に痕跡を洗わせてるから、もうすぐ何らかの報告が上がるはずだ」そう言って紫音を安心させようとする一方で、浩一の表情はかつてないほど険しかった。「いいか、紫音。何としても仕掛けた犯人を特定して、徹底的に法的責任を追及するんだ」浩一の言葉には、一切の妥協も同情もなかった。「これは単なる嫌がらせじゃない、明確な企業テロだ。一歩間違えれば、君の会社は一発で倒産に追い込まれるぞ」それは決して脅しなどではなく、最悪のシナリオを想定した経営者としての残酷な事実だった。浩一はただの甘い慰めではなく、紫音を本気で守るために、あえて現実を突きつけていた。「分かってる。あなたの言う通りね……でも、本当にどう動けばいいか、今は頭が回らなくて」紫音は力なく息を吐き出した。「一刻も早く黒幕を突き止めなきゃいけないのは分かってる。でも、会社はようやく軌道に乗ったばかりなのよ。こんな致命的なトラブルを乗り切るだけの余力が、今のうちにあるかどうか……」弱音をこぼす紫音に、浩一は急かすことなく静かに耳を傾けている。「……でも、ありがとう
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第665話

二人の交際について、母親が快く思っていないことは明らかだった。州が毎日のように有加里の元へ通い詰め、献身的に寄り添っていることを、母はまだ知らない。もしその事実を知られでもしたら、間違いなくヒステリックに猛反対し、修羅場と化すだろう。そうなれば、いくら実の娘の紫音でも、荒れ狂う母をコントロールできる自信は到底なかった。だが、今回の州の決意は本物だった。どれだけ親に反対されようと、絶対に有加里の手を離さないと心に決めている。二人の絆は、親の介入ごときで揺らぐほど柔なものではなくなっていた。拝島家での権力闘争、会社を狙う謎の企業テロ、そして実家の火種。四面楚歌の状況に、紫音の肩が重く沈む。そんな彼女の張り詰めた心を見透かしたように、浩一はふっと表情を和らげ、優しく声をかけた。「そんなに思い詰めるな。会社を経営していれば、理不尽なトラブルなんて山ほど降ってくるもんさ」浩一は努めて明るい声を出した。「俺だって会社を立ち上げてから、胃に穴が空きそうな修羅場をいくつもくぐり抜けてきた。だから、一人で全部抱え込もうとするな。これから何が起きても、俺が一緒に解決してやる」真っ直ぐな瞳で告げる浩一の言葉が、紫音の冷え切った心にじんわりと染み渡っていく。「どんな時だって、俺は君の味方だ。俺みたいな頼もしい親友がバックについてるんだ、少しは安心して寄りかかれよ」浩一は悪戯っぽく笑いかけると、再び真剣な声色に戻った。「それに、俺は君の能力を誰よりも買ってるんだ。君みたいな芯の強い女が、これしきのピンチで会社を手放すわけがないだろう?これも経営者としての経験値だと思って、一緒に乗り越えよう」浩一はいつだってそうだ。紫音に絶対的な安心感を与え、いざという時は矢面に立って共に戦ってくれる。親友というポジションから一歩もはみ出さず、それでも確かな愛情と献身で彼女を支えようとしていた。彼自身、紫音がこの会社をどれほど大切に、そして堅実に育ててきたかを熟知している。設立当初からこれまで、これほど理不尽で致命的な事態は一度も起きたことがなかった。だからこそ、浩一は痛いほど理解していたのだ。今回のデータ盗用事件が、決して社内の偶然のミスや、単なる運の悪さなどではないことを。背後で糸を引いている、底知れぬ悪意を持った『何者か』の存在を――
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第666話

会社の外へ連れ出すことに成功した浩一にとって、街の空気は砂糖を溶かしたように甘く感じられた。蘭と正式に付き合い始めて、今日でちょうど一ヶ月。最初は彼女からの真っ直ぐな好意に戸惑い、関係を進めることに及び腰だったはずなのに――いざ恋人として付き合ってみると、今では自分の方がすっかり彼女に夢中になってしまっている。こんなに真面目で可愛らしい彼女を射止めた自分は、間違いなく世界一の幸運な男だろう。しかし、すっかり浮かれ切っている浩一に対し、助手席に座る蘭の表情は晴れなかった。「……浩一さん。いくら紫音さんが『行ってきなさい』って言ってくれたからって、こんな時に私を連れ出すなんて……やっぱりダメだよ」蘭は申し訳なさそうに眉を下げ、膝の上でギュッと手を握りしめていた。「会社が絶体絶命のピンチなんだよ?なのに私だけデートだなんて……全ての重圧を紫音さん一人に押し付けてるみたいで、落ち着かないよ。私、やっぱり会社に戻るね……!」今にも車のドアを開けそうな勢いでオロオロしている蘭を、浩一は慌てて制止した。「待て待て!落ち着けって、蘭」浩一は優しく微笑み、彼女の固く握られた手をそっと包み込んだ。「心配しなくていい。俺の優秀な部下たちが、すでに犯人特定とデータ保護の最終段階に入ってる。あと少しで全て片付く手はずだ。俺だって、紫音に丸投げして自分たちだけ楽しむような薄情な真似は絶対しない。完全に解決の目処が立っているからこそ、君を連れ出したんだよ」蘭は思わず目を丸くした。浩一の言葉には微塵の迷いもなく、絶対的な自信に満ち溢れている。彼女の顔に浮かんだ疑問符を読み取ったのか、浩一は可笑しそうに吹き出した。「なんだよ、その顔。俺の手腕、そんなに信用できないか?安心しろって。もしこの件を綺麗に片付けられなかったら、俺だって二度と紫音に顔向けできない。俺のプライドにかけて、絶対に無傷で乗り切ってみせるさ」「……ううん、疑ってるわけじゃないよ。ただ、本当に早く解決してほしいなって思って。そうじゃないと、私だけ仕事を放り出して遊んでるみたいで……どうしても申し訳なくなっちゃうから」蘭がシュンとしてうつむくと、浩一は彼女の頭をポンと優しく撫でた。「だから、今日はもう仕事のことは忘れて、俺と一緒にリラックスしてくれ。たっぷりリフ
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第667話

だが、紫音がどれほど優れた経営者であり、これまで蘭たち社員を率いてどれだけのプレッシャーをその細い肩に背負ってきたか、浩一もよく知っている。浩一自身、同じ経営者として紫音を心から尊敬しているのだ。だから、浩一は咎める代わりに甘く微笑み、小さく頷いた。「ああ、もちろんいいよ。君が望むなら、今度は紫音も一緒に連れてこよう」「本当?ありがとう、浩一さん!」「俺にそんな遠慮なんてするなよ。君の喜びは俺の喜びだ。君が笑顔になってくれるなら、俺は何だってするよ」愛おしげな声とともに、浩一は蘭を腕の中に引き寄せ、強く抱きしめた。木々の間から聞こえる小鳥のさえずりが、心地よいBGMのように二人を包み込む。大好きな人の温もりにすっぽりと包まれ、澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んでいると、蘭の心から少しずつ「仕事のプレッシャー」が溶けていくのが分かった。「……ここの景色、すっごく綺麗! 浩一さん、後で写真いっぱい撮ってね!」ついに完全に『仕事モード』から抜け出した蘭は、パッと花が咲いたような笑顔を見せた。彼女は嬉しそうに弾んだ足取りで花畑の方へ駆け出していくと、スマホを取り出して景色を撮り始めた。カサッ……「あっ!」突然、茂みの中から小さな影が飛び出してきた。愛らしいリスが、素早い動きでスルスルと近くの木に登っていく。「浩一さん、早く来て!見て見て、リスがいるよ!」蘭は目を輝かせて歓声を上げ、浩一に向かって無邪気に手を振った。「ははっ、そんなに驚くことじゃないさ。ここは自然が豊かだから、リスや野鳥なんかはそこら中にいるよ。……でも、茂みの奥は気をつけろよ? 刺されるような虫も潜んでるかもしれないからな」「えっ……虫!?刺されるの?うう……じゃあ、やっぱり奥に行くのはやめとく……」浩一の言葉に、蘭は分かりやすく肩をすくめて後ずさりした。その小動物のような反応が可愛くてたまらず、浩一は吹き出した。「大丈夫だよ。俺がそばにいるんだから、何も怖がる必要ない。虫一匹、君には絶対に近づかせないから」浩一は蘭の頭をポンと撫でた。「ほら、君はもう少しリスを見てな。俺は車からカメラを取ってくる。君の可愛い写真をたくさん撮りたいからな」浩一は今回の記念日デートのために、万全の準備を整えていた。彼女が好きそうなお菓
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第668話

その後、浩一は車から持ってきた一眼レフカメラで、蘭の姿を何枚もシャッターに収めた。色鮮やかな花畑を背景に微笑む彼女。珍しい野鳥やリスを見つけてはしゃぐ姿。レンズ越しに切り取られるどれもが、浩一にとっては一枚の美しい絵画よりも価値のある、完璧な宝物だった。澄み切った空気を吸い込み、どこまでも続く青空を見上げていると、心の中の澱みがすべて浄化されていくような感覚に陥る。「私、本当にずっと仕事ばかりだったから……なんだか、もうここから帰りたくなくなっちゃったな」ピクニックのバスケットを広げながら、蘭がぽつりとこぼした。その無邪気で幸せそうな笑顔を見た瞬間、浩一の胸の奥で熱いものが込み上げた。この笑顔を守るためなら、今日までの苦労も、これからの困難もすべて乗り越えられる。そう確信できた。「君がそう言ってくれるなら、頑張って計画した甲斐があったよ」浩一は優しく微笑み、蘭の隣に腰を下ろした。「これからは、俺がもっと頻繁に君を外へ連れ出すよ。毎日会社に閉じこもってちゃ、こんなに美味しい空気の味も忘れちまうからな」「でも、それはダメだよ」蘭はバスケットからサンドイッチを取ろうとした手を止め、真剣な顔で首を横に振った。「私が頻繁に遊び歩いてたら、誰が紫音さんをサポートするの?紫音さんはいつも私に良くしてくれているんだから、少しでも多く力になりたいの。今回だって、会社がこんな大変な時に抜け出してきちゃったわけだし……ねえ、浩一さん、紫音さんには『手立てがある』って言ってたけど、本当に解決の糸口は見つかってるの?あの会社は、私にとっても大切な居場所なの。絶対に無事に解決させたいんだ」浩一は思わず苦笑した。やっぱり、この恋人は根っからの仕事人間らしい。せっかくのデート中だというのに、完全に会社や上司の心配を頭から追い出すことはできないようだ。だが、浩一はそんな彼女を疎ましく思うどころか、むしろ眩しいものを見るような、甘く優しい眼差しを向けていた。ただ自分の欲を満たすためではなく、与えられた役割と恩義に対してどこまでも真摯に向き合う女性。だからこそ、浩一は彼女に惹かれ、ここまで愛してしまったのだ。浩一自身も仕事に対しては一切の妥協を許さない性格だからこそ、彼女のその不器用なほどの誠実さが痛いほど理解できたし、たまらな
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第669話

ぐるぐると罪悪感に苛まれる蘭を見て、浩一は小さくため息をつき、降参したようにふっと表情を和らげた。「……分かった。君の気持ちを考えずに無理やり連れ出した俺が悪かったよ。じゃあ、これ食べ終わったらすぐに紫音のところに戻ろう。なんなら、あいつも引っ張り出して、三人で美味いメシでも食いに行くか」「本当……!?浩一さん、ありがとう!」パッと顔を輝かせる蘭。しかしすぐにハッとして、申し訳なさそうに眉を下げた。「でも……せっかくの記念日なのに、私ばっかり我儘言ってごめんなさい……」「これ以上謝るな。そんな悲しそうな顔をされる方が、俺にとってはよっぽど辛いよ」浩一は真剣な眼差しで蘭を見つめ、彼女の頬に優しく手を添えた。「俺はただ、君に笑っててほしいだけなんだ。君の笑顔が、俺が戦うための一番の原動力なんだから」その真っ直ぐで甘い言葉に、蘭の胸がギュッと締め付けられる。自分勝手な葛藤を抱える私を、この人はいつだって大きな器で受け止めてくれる。「……浩一さん。私、あなたに出会えて、本当に世界一の幸せ者だよ」潤んだ瞳で微笑む蘭に、浩一は照れくさそうに笑って彼女の頭をくしゃりと撫でた。「ほら、泣きそうな顔しないで。せっかくの記念日だぞ?」「……うん!」蘭は涙を引っ込めるように力強く頷くと、自分のスマホと浩一のカメラを取り出した。「浩一さんが私ばっかり撮るから、浩一さんの写真が全然ないよ!私にも撮らせて」「なら、こっち来いよ。二人でツーショットをたくさん撮ろう」「うん、それがいい!」満面の笑みを浮かべた蘭は、浩一の隣にぴったりと身を寄せた。青空の下、シャッターを切るたびに響く楽しげな笑い声。互いを思いやり、深い愛情で結ばれた二人にとって、今日という日は間違いなく、後から何度でも見返したくなるような、とびきり幸せな思い出の1ページとなったのだった。「ねえ浩一さん、会社に戻ったら、この写真全部紫音さんに見せてあげてもいいかな?もし紫音さんが気に入ってくれたら、今度は一緒に来ようね」「もちろん。君がそうしたいなら、何なら今すぐあいつをここに連れ出したっていい」「……うーん、やっぱり紫音さんを誘うのは、会社の問題が全部片付いてからにしようかな」蘭がチラリと上目遣いで意味深な視線を送ってくる。その分かり
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第670話

「ちょっと……あなたたち、どうしてもう戻ってきたの?今日は丸一日有給で休んでいいって言ったはずだけど」紫音が時計に目をやると、時刻はまだお昼を少し回ったところだった。「一ヶ月記念日のデート」に出かけたはずの二人が、なぜこんなにも早く帰還したのか、紫音にはまるで理解できないといった様子だった。「いやあ、紫音。俺たち、もう十分に楽しんできたからさ。綺麗な写真も山ほど撮れたしな」浩一は平然とした顔で口を開き、蘭をかばうように前に出た。「それに、俺が君にした『約束』を果たす時間が来たってことだ。会社のこの非常事態に、俺たちだけいつまでも外で浮かれているわけにはいかないからな」浩一はさも「自分が仕事に戻りたかったから」という風を装って言ったが、紫音にはそれが蘭への気遣いであることなどお見通しだった。紫音の胸の奥が、じんわりと温かくなる。「あなたたちね……そこまで気を遣わなくていいのよ。一日くらい羽を伸ばしてきたって、バチは当たらないわ。会社のトラブルだって、今すぐ何時間かでどうにかなる問題じゃないんだから、しっかりリフレッシュしてからでも遅くないのに」「紫音さん、そんなことないです!」蘭が慌てたように一歩前に出て、紫音に詰め寄った。「午前中だけで、すっごく楽しかったんですよ!景色は綺麗だったし、野外でピクニックもして、写真もこれ以上ないくらいたくさん撮りました!嘘じゃないです、本当に大満足だったんですから!」必死に「もう十分楽しんだ」とアピールしてくる蘭の健気な姿に、紫音は思わず目頭が熱くなった。自分はなんて恵まれているのだろう。権力と金と欲望が渦巻く拝島家の泥沼の中で、常に神経をすり減らしている紫音にとって、こうして無条件に自分を思いやり、支えようとしてくれる彼らの存在がどれほどの救いになっているか。彼らがいてくれるからこそ、紫音は自分が自分らしく、自立した一人の人間として、誇りを持って生きていけるのだ。「分かったわよ。そこまで言うなら、これ以上は野暮ね」紫音はフッと笑みをこぼし、蘭の気持ちをありがたく受け取った。「俺は前言通り、こっちの火消しに全力を注ぐ。さっそく現状の共有から始めようか」浩一が腕まくりをしながら仕事モードの顔に切り替えた、その時だった。「……その前に、少し休憩しない?」紫
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