All Chapters of 義妹に溺れる彼を捨て、私は宿敵の妻となる: Chapter 681 - Chapter 690

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第681話

「ツテならいくつか心当たりはあるわ」紫音が落ち着いた声で引き取った。「でも、まずは信頼できる人間を直接派遣して、極秘裏に面接や選考を進める必要があるわね。絶対に、今会社で騒ぎを起こしている古参社員たちにこの動きを悟られてはダメよ。万が一彼らに勘づかれて妨害工作でもされれば、計画が頓挫してしまうわ」紫音の忠告に、浩一は深く頷き、表情を引き締めた。「となると、この極秘の採用プロジェクトを任せられる、絶対に裏切らない『腹心』を動かす必要があるな……」浩一はグラスを見つめながら、密かに誰を適任者として抜擢すべきか思考を巡らせ始めた。「もし浩一さんの会社で適任者が見つからないなら、私のところから何人か貸し出そうか?」紫音がふふっと微笑みながら提案した。「どうせ今は持ちつ持たれつの関係だし、私の方のトラブルでも浩一さんにはうんと骨を折ってもらっているじゃない。これくらい協力するわよ」その言葉に、浩一はパッと目を輝かせた。社内の人間に動かせばどこから情報が漏れるか分からない状況なだけに、外部である紫音の部下を使えるならこれ以上心強いことはない。何より、紫音が育て上げた社員たちの能力の高さは、彼自身が誰よりもよく知っていた。「紫音がそう言ってくれるなら、遠慮なく甘えさせてもらうよ!紫音の会社には、人を見る目に長けた優秀な人事の連中がいるからな。彼らに極秘で動いてもらって、目星をつけた大学の学生たちに直接アプローチをかけよう」浩一は少し興奮気味に身を乗り出した。「学生といってもピンキリだからな。君のところの優秀な社員たちなら、間違いなく会社を背負って立つような原石を見極めてくれるはずだ」「ええ、任せてちょうだい。じゃあ、そういう手はずで進めましょう。明日すぐに信頼できるチームを編成して動かすわ」紫音は優雅にワイングラスを傾けながら頷いた。そして、少しだけ悪戯っぽい笑みを浮かべて浩一を見た。「でも……もし彼らが見つけてきた学生の中に、どうしても手放したくないくらい優秀な子がいたら、うちの会社でも何人かこっそり貰っちゃおうかしら」「おいおい、それだけは勘弁してくれよ!こっちは会社存亡の危機なんだぞ。苦労して見つけた一番の逸材を紫音に横取りされたら、いくら俺でも本気で泣くからな!」浩一がわざとらしく頭を抱えて抗議す
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第682話

まったく、調子が良すぎるんだから……蘭はぷいっとそっぽを向いたが、その口元はだらしなく緩みそうになるのを必死に堪えていた。付き合い始めたのは最近でも、二人はビジネスを通じてそれなりに長い時間を共有してきた。だからこそ、浩一のこういう冗談めかした軽口が、自分を喜ばせるためだけの不器用で真っ直ぐな愛情表現だと分かっているのだ。腹立たしいような、それでいて胸の奥が甘く擽られるような感覚に、蘭は密かにテーブルの下で浩一の服の袖をきゅっと掴んだ。照れ隠しでそっぽを向いた蘭を見て、浩一は愛おしそうに柔らかく笑った。「蘭が喜んでくれるなら、俺はどうなったっていいさ。……でも、二人とも協力してくれると約束したからには、容赦なく頼らせてもらうからな。まずは狙い目の大学のリストアップと、事前の選考プロセスの構築だ。今回は徹底的に先手を打って、あの恩知らずどもに引導を渡してやる」浩一の目には、甘い恋人の顔から一転して、経営者としての冷酷な光が宿っていた。「ええ、もちろんよ。私たちが全力でバックアップするわ。完全に外堀を埋めてから一気に動けば、連中もなす術がないはず。あなたを裏切った古株たちは間違いなく逆恨みしてくるでしょうけど、自分の立場の脆さを骨の髄まで思い知らせてやらないとね」紫音が同意すると、浩一は深く頷いた。彼が身を粉にして今日まで会社を成長させてきたというのに、あろうことか手塩にかけて育てた社員たちが恩を仇で返そうとしているのだ。このまま黙って引き下がるつもりは毛頭ない。彼らには必ず、相応の代償を払わせる決意だった。「さて、仕事の密談はここまでにして、せっかくの料理が冷めないうちにいただきましょうか」紫音の言葉に、浩一はハッとして姿勢を正した。「そうだな。俺の遅刻のせいで待たせた上に、厄介な愚痴にまで付き合わせて本当に申し訳なかった。さあ、食べてくれ」そうして三人は、ようやく目の前の豪奢な料理に手をつけ始めた。当初は上質なワインをもっと楽しむつもりだったが、緊迫した裏切りの話の余韻で、すっかり酔いしれる気分ではなくなっていた。美味しい料理を味わいながらも、三人の頭の片隅には常に「いかにして水面下で有能な若手を確保するか」という次なる反撃の算段が巡っている。そして同時に、浩一が長年信頼していた部下たちに裏切られた
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第683話

「ひどい……そんなの、いずれ絶対に痛い目を見るべきだよ!浩一さんをこんなに苦しめて、おまけに社員たちまで使い捨ての駒にするなんて……裏で操っている連中だけがノーダメージでふんぞり返ってるなんて、絶対に許せない!」蘭はギュッと拳を握り締め、本気で憤った。その怒りの奥には、浩一を傷つける敵に対する憎悪だけでなく、最終的に利用されて捨てられるであろう社員たちの末路を想像し、どこか哀れむような響きも混じっていた。本来なら、彼ら自身が浩一を裏切ろうとしている張本人なのだ。しかし、根が優しく純粋な蘭は、彼らが巨大な悪意に踊らされ、騙されているという側面を知り、無意識のうちに少しだけ同情してしまったのだろう。だが、厳しいビジネスの世界において、彼らが破滅の道を辿ろうとしているのは、他でもない彼ら自身が目先の利益に目が眩んだからだ。もし彼らが甘い誘惑に乗らず、欲をかかずに浩一への恩義を忘れなければ、こんな事態には陥らなかったはずなのだ。愚かな選択をした代償は完全に自業自得であり、誰を恨む筋合いもない。それでも――自分を裏切った愚か者たちのためにすら本気で怒り、心を痛めることのできる蘭のその底抜けの優しさと甘さが、今の浩一にはひどく愛おしく感じられた。本当に、敵わないな……浩一は微かに口角を上げ、愛する恋人の横顔をただ静かに、甘い熱を帯びた眼差しで見つめていた。「何かを得ようとすれば、相応の代償を払うのは当然のことよ。彼ら自身が選んだ道なんだから、誰も恨むことなんてできないわ。蘭が思い悩む必要なんてないの。もし私たちが先手を打つ方法を思いつかなければ、浩一さんの会社が致命的な打撃を受けていたかもしれないんだから」紫音は優しく、しかし理を諭すような落ち着いた声で蘭に語りかけた。「それに、裏で糸を引いているヘッドハンターたちも、いずれ必ず痛い目を見るわ。あんなあくどい引き抜きのやり方を繰り返していれば、遅かれ早かれ業界内で悪評が広まる。他の企業や経営者たちだって馬鹿じゃないもの。間違いなくブラックリスト入りして、どこからも相手にされなくなるはずよ」紫音の言葉に、蘭はハッとしてコクリと頷いた。「……確かに、紫音さんの言う通りですね。私、さっきはちょっとおかしなことを言っちゃいました。この件で一番の被害者は浩一さんなのに、私ったら、
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第684話

この夜のディナーは、最終的にとても心地よい時間となった。運ばれてきた豪奢な料理の数々はどれも三人の舌に合い、特に紫音にとっては、久々に心からリラックスして味わえる「まともな食事」だった。ここ最近は会社で起きたデータ盗用事件の対応や、律を取り巻く権力闘争の重圧で、息をつく暇すら無かったからだ。「こうして二人が誘い出してくれなかったら、私、今夜も会社のデスクで適当に済ませてたかもしれないわ。最近は忙しすぎて、ゆっくり外食する余裕なんて全然なかったもの。酷い時なんて、カップ麺で済ませたこともあったしね」紫音が苦笑いしながら打ち明けると、蘭が呆れたように大きなため息をついた。「紫音さん、それ全然笑い事じゃないですよ!私、前にも何度か注意しましたよね?いくら忙しいからって、あんな栄養の偏ったものばかり食べてたら絶対に体を壊しますってば!」蘭は小言を言う母親のような顔つきで紫音をたしなめると、ふと名案を思いついたように目を輝かせた。「そうだ、これからは私が紫音さんの食事をきっちり管理します!毎日時間になったら、ちゃんと一緒にご飯を食べるようにするんです。どうしても外に出られない時は……ねえ浩一さん、私たちに美味しいお弁当を差し入れしてくれないかな?」突然話を振られた浩一は、口に含んでいた肉料理を思わず喉に詰まらせそうになった。鳩が豆鉄砲を食ったような顔で顔を上げると、蘭が「ね?いいでしょ?」とばかりにウインクを飛ばしてくる。彼は慌てて料理を飲み込み、少しばかり泣きそうな顔で頷いた。「そ、そうだね。もちろん問題ないよ。俺が責任を持って、毎日二人のために美味しいケータリングを手配しよう」そのどこか哀愁漂う返答に、紫音は思わず吹き出した。「ふふっ、そんな大げさなことしなくていいわよ。出前くらい私だって頼めるんだから。ただ、会社の近くにあるデリバリーにはちょっと飽きちゃったのよね。……そうね、いっそどこかの有名ホテルのレストランと法人契約でも結んで、毎日日替わりで美味しいコース料理をオフィスに届けてもらおうかしら。それなら、蘭も毎日私と一緒に楽しく食べられるでしょ?」「わあ、それ最高です!それなら私も毎日のランチが楽しみになります!だって、紫音さんが全然ご飯を食べてくれないと、私まで心配で食欲がなくなっちゃうんですからね」
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第685話

それは紫音の偽らざる本心だった。裏切りと悪意が渦巻く孤独な戦いの中で、無条件に味方でいてくれる彼らの存在は、彼女にとって何よりの救いだったのだ。「紫音さん……そんな風に言わないでください」蘭は少し目を潤ませて、首を横に振った。「私の方こそ、紫音さんに出会えたから今の私があるんです。紫音さんは私にとって、人生を変えてくれた一番の恩人なんですから」「おいおい、どっちも謙遜しすぎだって。俺たちは三人とも、大事な友人であり、戦友だろう?誰が誰を一番助けたなんて比べるものじゃない。持ちつ持たれつ、互いに支え合ってきただけじゃないか」浩一が少し照れくさそうに二人の間を取り持つように笑うと、蘭も嬉しそうに頷いた。「そうですよ。だから紫音さん、もし本当にしんどくなった時は、いつでも私たちを頼ってくださいね。どんな時だって、絶対に私たちが力になりますから!」その真っ直ぐで嘘偽りのない言葉に、紫音の胸の奥がじんわりと温かくなった。どうやら浩一は、愛する蘭を安心させるために、あえて言葉にして「自分たちは完全に紫音の味方だ」と強調してくれたのだろう。本当に……蘭は素敵な人を見つけたわね。恋人を誰よりも大切に想い、彼女の心をさりげなく守ろうとする浩一の不器用な優しさ。そして、自分を真っ直ぐに慕ってくれる蘭の純粋さ。互いを深く思いやる二人の姿を見ていると、紫音の心の中にある「あの人」への愛おしさが、静かに、けれど熱く波打つのが分かった。「ほらほら、しんみりするのはここまで!早く食べないと料理が冷めちゃうよ!残したら二人ともタッパーでお持ち帰りしてもらうからね?」蘭がわざと明るい声を出して手を叩くと、その場にパッと和やかな空気が戻った。紫音と浩一。蘭にとって、どちらも自分の人生になくてはならない大切な人たちだ。二人にはずっと笑っていてほしいし、こうして三人で食卓を囲むこの平和な時間が、これからもずっと続いてほしいと心から願っていた。「うん、本当にこのお店、すっごく美味しいね。……そうだ、浩一さんがケータリングを手配してくれるのはありがたいけど、うちの会社の社員食堂もそろそろ本気でテコ入れしないとダメかもね」紫音がふと、真剣な顔で呟いた。「実は私、時々視察がてら社員食堂を利用してるんだけど……正直、味の方はあんまり褒められたものじ
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第686話

和やかなディナーを終えると、紫音と蘭は自社へ、浩一は自身の会社へ戻ることになった。お互い、どうしてこうも次から次へと厄介事が舞い込むのだろうか。浩一は自分の会社で起きた古参社員の反乱対応に追われながらも、紫音の会社を揺るがすデータ盗用事件の解決に向けて多忙を極めている。それでも、彼が音を上げることはない。昔からそうなのだ。浩一という男は確かな実力を持ち、一度交わした約束は絶対に破らない。「じゃあ、俺は戻るよ。紫音、そっちの仕事の合間で構わないから、近場の大学をリストアップしておいてくれないか。使えそうな原石がいないか、早めに目星をつけておきたいんだ」別れ際、浩一が念を押すように言った。紫音はふっと口角を上げ、自信ありげに頷く。「言われなくても分かってるわよ。うちの優秀な人事を貸し出すって約束したでしょ。あなたこそ、私たちが忘れてるなんて思わないでよね」「ははっ、違いねえ。お前がそう言ってくれるなら安心だ。……ああ、それと」浩一は少しだけ声のトーンを落とし、経営者としての鋭い顔つきになった。「俺が手配した『助っ人』――例の凄腕ハッカーだが、もうすぐこっちに到着するらしい。後でセッティングするから、直接会ってやってくれ。細かい要望はそいつに直接指示してくれればいい。こっちの厄介な状況は、すでに俺から叩き込んである」「助かるわ。分かった、彼が来たら知らせて」「ああ。それじゃあな、蘭も無理するなよ」浩一は蘭に向かって甘く微笑みかけると、足早に夜の街へと消えていった。自社ビルに戻った紫音たちは、溜まっていた急ぎの決裁事項をテキパキと片付けると、社長室のソファに向かい合って座り、浩一の会社の極秘採用プロジェクトについて話し合いを始めた。「紫音さん、先ほど近隣の大学をざっとスクリーニングしてみました」蘭は手元のタブレットをスワイプしながら、明るい声で報告する。「情報工学や、彼らが求める専門学部を持つ大学は、このエリア周辺だけで十数校あります。学生の総数で言えばかなりの規模になりますから、この中からなら、浩一さんの会社を支える若くて優秀な人材が必ず見つかるはずです」そう言ってふわりと微笑む蘭の表情には、恋人の窮地を救う手助けができるという、心からの喜びが滲み出ていた。ここ最近、浩一は紫音たちのトラブルを解決するため
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第687話

言い淀む蘭の声には、深い罪悪感が滲んでいた。いくら恋人である浩一を助けたいとはいえ、蘭にとって一番に優先すべき上司は目の前にいる紫音だ。現在、紫音の会社は「極秘データの盗用」と「社内の内通者」という、会社の存続を揺るがすほどの致命的な危機に瀕している。自分たちの足元すら火の車だというのに、浩一の会社の採用プロジェクトにかかりきりになってしまえば、自社の立て直しという最優先事項に遅れが生じてしまう。大好きな恋人を救いたい気持ちはある。しかし、自身が心から敬愛する紫音の貴重な時間とリソースを、これ以上浩一のために奪うわけにはいかない――それが、優秀なアシスタントである蘭の譲れない一線だった。「気にしなくていいわ。うちの会社のトラブルは、どのみち浩一が手配してくれたハッカーが到着しないことには、これ以上進展のしようがないから」紫音はふふっと悪戯っぽく笑い、蘭に向かって小さくウインクをした。「それに、ここで私が彼の大ピンチを救って大きな『貸し』を作っておけば、いざって時に遠慮なくこき使えるでしょ?」もちろん、それが紫音なりの心優しい冗談だということは蘭にもよく分かっていた。紫音も蘭も、本来は他人に無遠慮に甘えたり、見返りを求めたりするような性格ではないのだから。蘭は時々、自分の立ち位置が少し特殊で、複雑だと感じることがある。彼女は紫音の直属の部下でありながら、紫音の長年の親友である浩一と交際している。いわば板挟みのような立場で、一歩間違えれば双方に気を遣わせ、疎まれてしまうのではないか――交際を始めた当初は、そんな不安を抱いていたこともあった。しかし、その心配は完全に杞憂に終わった。紫音は上司として蘭を心から信頼し、妹のように可愛がってくれる。浩一は恋人として蘭を溺愛し、底なしの愛情を注いでくれる。敬愛する上司と、最愛の恋人。二人の特別な愛情と気遣いを一身に受けている現在の環境は、蘭にとって奇跡のように幸せなものだった。私は本当に恵まれている……大好きなお二人の恩に報いるためにも、私、もっともっと頑張らなきゃ。蘭は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じながら、改めて深い感謝とやる気を燃やした。「さあ、手を動かすわよ。まずはピックアップした大学のレベルと、教授陣の推薦枠なんかを洗い出しましょう。質の高い母集団を形成
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第688話

「よし、この方向で進めましょう。蘭、引き続きよろしくね」「はい、お任せください!」二人は顔を見合わせて微笑み合った。度重なるトラブルに翻弄され、立ち上げからここまで数え切れないほどの苦労を重ねてきた。だが、こうして新しい方向性を見出し、解決に向けて確実に前進している。すべてがようやく、正しい軌道に乗り始めた――そう安堵の息を吐いた、まさにその時だった。静かな社長室に、紫音のスマートフォンの着信音が鋭く鳴り響いた。画面に表示された名前に、紫音はハッと息を呑む。兄さん……?発信者は、紫音の兄である州だった。普段、急ぎの用でもない限り仕事中に電話をかけてくることなどない兄からの着信に、紫音の胸に嫌な動悸が走る。嫌な予感を押し殺し、通話ボタンをタップした。「――紫音か。今すぐ、病院に来てくれ。状況が良くない」電話口から聞こえてきた州の声は、普段の余裕など欠片もないほど切羽詰まっていた。「え……?病院って、何があったの!?」「詳しいことは来てから話す。それから……いいか、このことは絶対に父さんと母さんには言うな。二人には心配をかけたくない」それだけを言い残し、通話はブツリと切れた。紫音は血の気を失った顔で立ち上がった。何が起きてるの……!?あれほど良い方向へ向かっていると希望を抱いた矢先に、またしても突き落とされるような事態が起きたのだ。不安で足が震えそうになるのを必死に堪え、紫音は蘭に短い指示だけを残して、逃げるように会社を飛び出した。病院へと向かう車の後部座席で、紫音は震える指でスマートフォンの画面をタップし、真っ先に「ある人物」に発信していた。――拝島律。最愛の恋人であり、誰よりも深く心を通い合わせた唯一無二の存在。予期せぬ緊急事態に直面し、心がパニックを起こしそうになっている今、紫音が本能的に求めたのは彼だった。律が隣にいてくれるだけでいい。彼の声を聞き、その体温を感じるだけで、紫音の心には絶対的な安心感がもたらされる。それは、他の誰にも代わることのできない特別なものだ。どれほど過酷で絶望的な状況に陥ろうと、彼がいれば乗り越えられる。常に冷静な彼なら、どんな時でも最善の決断を下し、紫音を暗闇から導いてくれると確信しているからだ。律の運転する車で病院へと駆けつけた紫音は、
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第689話

紫音は自分自身にも言い聞かせるように、ゆっくりと、力強く言葉を紡ぐ。「お兄ちゃんがそんなにパニックになっていたら、有加里さんが目を覚ました時に誰が彼女を支えるの?心を強く持たなきゃダメ。ここで焦ったって結果は変わらないんだから、今は彼女の生命力を信じて、しっかり構えているのよ」本当は、分かっているけれど……紫音は心の中で密かに唇を噛み締めた。有加里の抱えている病状が、いつ爆発してもおかしくない『時限爆弾』のようなものであることは、州も紫音も頭の片隅では理解していたはずだ。だからこそ、最悪の事態が起きた今、ただ取り乱すのではなく、覚悟を決めて現実を受け止めなければならないのだ。「……頭では分かっているんだ。でも、あいつがこんなに酷い状態になって、大丈夫だなんて誰が言い切れる……?」州は苦しげに顔を歪め、絞り出すように呟いた。「もっとあいつのために、俺にできることがあったんじゃないか……何をしても、もっと早くああしてやればよかったって、後悔ばかりが押し寄せてくるんだ……」州の胸中は、ぐちゃぐちゃに乱れていた。愛する者を失うかもしれないという底知れぬ恐怖。そして、こんな非常時においてさえ、自分のために駆けつけてくれた妹の紫音に対する強い負い目。自分は兄でありながら、いつも彼女に心配をかけ、面倒ばかりを背負わせている――そんな複雑な罪悪感が、州の心をさらに暗く重い場所へと引きずり込んでいた。紫音の肩をそっと抱き寄せたまま、重苦しい空気を纏う兄妹を静かに見守っていた律が、ゆっくりと口を開いた。「州。そう悲観的になる必要はない。……いや、あえて厳しいことを言わせてもらうが、君はいずれ、この事実を直視し、受け入れなければならない日が来るんだ」沈み込むような悲壮感を断ち切るように、律の落ち着いた声が冷たい廊下に響く。「私と君とで、以前、彼女の病状については詳しく調べただろう?彼女の容態が決して安定したものではないこと、そして今後さらに悪化するリスクがあることは、君自身が一番よく分かっているはずだ」「…………」「だからこそ、君は最初から最悪の事態を想定し、覚悟を決めておくべきだった。ここで現実から目を背ければ、いざ本当に越えられない壁が立ち塞がった時、君の心は完全に壊れてしまうよ」律の言葉は一見すると冷徹にも聞こえる
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第690話

紫音は、兄がどれほど有加里を深く愛し、大切に想っているかを誰よりも知っている。もし有加里の身に万が一のことがあれば、兄の精神は完全に崩壊してしまうだろうということも。しかし、だからといってこのまま兄が絶望の淵に沈んでいくのを見過ごすわけにはいかなかった。どれほど手を尽くしても、どうにもならない運命というものがある。兄はすでに、自分の持つ限りの力を出し尽くしているのだ。有加里の病が発覚して以来、州はあらゆる伝手を頼り、国内外からトップクラスの専門医を呼び寄せた。莫大な費用と時間をかけて、少しでも彼女を救う道を探し続けた。しかし、どの権威ある医師からの答えも、絶望的なほどに一致していた。『最新の治療をもってしても、現状を維持し、進行を遅らせることしかできません。この病は、根本的な完治は不可能なのです』と。今の兄のメンタルがこれほどまでに不安定なのは、まさにそこが一番の理由だった。頭では「完治はない」と理解しているつもりでも、心の奥底ではまだ、最愛の女性が奇跡的に回復していく未来を夢見てしまっているのだ。いつか彼女の病気が完全に良くなって、こんな風に怯える日々から解放されるはずだ。――そんな儚い希望にすがりついているからこそ、今日のような急変が起きた際、心の防壁が脆くも崩れ去ってしまうのだった。「だから、何が起きても私がついているわ。お兄ちゃん一人で抱え込ませたりしない、一緒に向き合っていくから……!」紫音は兄の手を固く握り締めながらそう言ったものの、これ以上どうやって彼を慰め、かつての強さを取り戻させればいいのか、全く分からずにいた。今の州は、有加里に付きっきりになるあまり、自身が背負っている仕事のすべてを放棄してしまっている。京極家の人間として果たすべき責任や、彼を必要としている人間は他にも山ほどいるというのに。今の兄は、まるで紫音たちとは全く別の世界を生きてしまっているかのようだった。一人の女のために地位も責任もすべてを投げ打ち、自分の全存在を捧げようとしている。正直なところ、紫音にはそれがどうしても「割に合わない」と思えてならなかった。何しろ、有加里はかつて一度、州を捨てて彼の元を去ったことのある女なのだ。もちろん、過去に京極家側が身分の違いなどから彼女をひどく傷つけてしまったという経緯はある。だが、妹の
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