All Chapters of 義妹に溺れる彼を捨て、私は宿敵の妻となる: Chapter 671 - Chapter 680

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第671話

頬を赤くして照れる蘭と、デレデレに甘い視線を送る浩一。目の前で繰り広げられる甘ったるいやり取りに、紫音は呆れたように大きなため息をついた。「……失敗したわ。二人についてくるんじゃなかった」紫音はわざとらしく肩をすくめ、ジト目で二人を睨みつけた。「ご飯を食べる前に、あなたたちの放つ甘い空気のせいで胸焼けしてお腹いっぱいになっちゃったわ。目の前でイチャイチャを見せつけられる身にもなってちょうだい」紫音の冗談めかした恨み節に、浩一と蘭は顔を見合わせ、直後にプッと吹き出した。「あははっ!紫音さん、ごめんなさい!」「悪かったよ、紫音。そんなに妬ましいなら、次は律がいる時にダブルデートでもするか?」ケラケラと楽しそうに笑う二人を見ているうちに、紫音もなんだか毒気を抜かれてしまい、気づけば一緒になってクスクスと笑い声を上げていた。本当に、笑顔というのは伝染するものらしい。会社を揺るがす深刻な事態の真っただ中だというのに、この瞬間だけは、紫音の心からも重いプレッシャーがスッと消え去っていた。三人で料理の注文を済ませて一息ついたものの、紫音の頭の中は依然として会社のデータ盗用事件のことで占められていた。「ねえ、浩一さん。会社の問題について、何か具体的な解決策は思いついているの?」テーブル越しに、紫音は単刀直入に切り出した。「もし何かプランがあるなら、遠慮なく教えてちょうだい。正直、この件にはずっと頭を抱えていたの。一日でも早く処理を終わらせて、みんなで心から安心したいわ」「任せておけって。俺から言い出した以上、ちゃんと勝算はあるんだ」浩一は自信ありげに頷き、少し身を乗り出した。「どう動くかはもう頭の中で組み上がってる。ただ、実行するにあたって、少し外部の助っ人を頼みたいんだ」「外部の人間を……?」紫音は思わず眉をひそめた。自社の、しかも機密データの根幹に関わる致命的なトラブルだ。得体の知れない第三者を安易に介入させることには、経営者として強い警戒心を抱かざるを得ない。彼女の心中を察した浩一は、慌ててフォローを入れた。「あ、心配するな。そいつは絶対に信頼できる筋の人間だ。それに、事情を馬鹿正直に全て話すつもりはない。『うちの会社のシステムが少し厄介なことになってるから、技術サポートをしてくれ』とだけ
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第672話

「……そうね。私の考えすぎだったみたい」紫音は時折、この二人の関係をひそかに羨ましく思うことがあった。いつもどこか肩の力が抜けていて、楽しそうで、見ているこちらまで温かく明るい気持ちにさせてくれる。もちろん、彼らはただ浮かれているわけではない。仕事に対しても、紫音たちが抱えているトラブルに対しても、誰よりも真摯に向き合ってくれていることを紫音は痛いほど分かっていた。だからこそ、紫音は二人のプライベートな時間を極力邪魔したくなかったし、むしろ全力でデートを楽しんでほしいと応援していた。そもそも、浩一はこれまで紫音たちのピンチを何度も救い、多大な貢献をしてくれたにもかかわらず、彼が求めた見返りはたった一つしかなかった。『今から君の優秀なアシスタントを俺に引き渡してくれないか?』――という、甘くて愛らしいお願いだけだったのだ。数々の波乱を乗り越えて、ようやく結ばれた二人。その確かな絆に触れ、二人の幸せな日々がいつまでも続くようにと、紫音は心の中でそっと祈った。「そういえば、紫音さん!オフィスの皆に差し入れを買ってきたんです」蘭が思い出したように声を弾ませた。「話題のスイーツやドリンクを色々と見繕ってきたんですけど、まずは紫音さんから好きなものを選んでください!残りを皆に配りますから。誰も文句なんて言いませんよ」得意げに微笑むアシスタントのあからさまな「身内贔屓」に、紫音は思わず吹き出してしまった。こういう少し子供っぽくて素直なところが、本当に可愛らしい。「ふふっ、ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えようかしら」紫音は遠慮せずに好みのものをいくつか選び、残りを二人に頼んでオフィスで配ってもらうことにした。現在、会社は致命的なデータ盗用事件の渦中にあり、スタッフたちも連日残業続きで疲労が溜まっていた。しかし、美味しいスイーツの差し入れは彼らの顔をパッと明るくさせた。もちろん、紫音は甘いもので従業員を誤魔化すような真似はしない。正当な残業代や特別手当をきっちりと支給した上での、労いの差し入れである。日頃から社員を等しく大切にする紫音のホワイトな経営姿勢は社内に深く浸透しており、「この社長の下で働けて幸せだ」と本気で思っているスタッフは多かった。だからこそ、非常事態の激務であっても誰も不満を漏らさず、一丸となって会社
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第673話

「言っておくけれど、私のご機嫌をとったからって完全に気を許したわけじゃないわよ?」紫音はわざと鋭い視線を浩一に向け、チクリと釘を刺した。「もし蘭を泣かせたりしたら、相手があなたでも容赦しないから。私の可愛いアシスタントを傷つけるようなら、徹底的に潰すわ」その言葉に、蘭の瞳が感動で潤んだ。ああ、私はなんて幸せ者なんだろうと、本気で紫音に抱きつきたくなる。対する浩一は、大げさに両手を挙げて降参のポーズをとった。「勘弁してくれ。俺がこの子を悲しませるなんて、天地がひっくり返ってもありえないよ。毎日どうやって愛でようか考えてるくらいなのに」「……ふふっ、ならいいわ」呆れつつも、紫音の口元には笑みがこぼれた。二人がここまで来るのに、決して平坦な道のりではなかったことを知っている。だからこそ、その絆の強さは本物だと確信していた。「じゃあ、仕事が終わる頃にまた迎えに来るよ」浩一は爽やかに言い残し、一旦オフィスを後にした。彼を見送った後、紫音は蘭に向き直った。「さて、蘭は少し休んでていいわよ。残りの業務は私が片付けるから」「そんなのダメです!私もやります!」当然のように休むことを拒否した蘭は、すぐにデスクに戻って最新の状況チェックを始め、パタパタと忙しそうに動き出した。本当に、どこまでも真面目で健気な子である。その後、紫音は一日中オフィスに缶詰になった。しかし、その心は不思議と軽く、充実感に満ちていた。自分が情熱を注いで築き上げたもののために、全身全霊で戦う。それは、何もせずにただ時間を浪費するだけの虚無な日々よりも、ずっと心地の良い疲れだった。会社は今、ようやく軌道に乗り始めたばかり。今回のデータ盗用事件という致命的なトラブルも、会社がさらに大きく飛躍するための『試練』なのだと思えば、乗り越えられない壁ではない。これを切り抜ければ、確実に次のステージへ進める――そう信じると、自然と闘志が湧き上がってきた。浩一は「腕利きの助っ人」を連れてくると言ってくれた。しかし、紫音の性格上、他人にすべての希望を丸投げしてすがるような真似は絶対にできない。誰かの力を借りるにしても、まずは自分たちができる限りの防衛線を張り、技術的な知識を高めておく必要がある。そうしなければ、次に同じような壁にぶつかった時、また足元をすくわ
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第674話

蘭が誇らしげに胸を張ると、紫音はクスッと笑って首を横に振った。「その言葉、浩一さんが聞いたら絶対にヤキモチ焼くわね。今度から本人の前では、あまり私の名前を出さないほうがいいわよ?彼、そういうところは結構、独占欲が強いみたいだから」「もう、紫音さんったら。いくらなんでも彼、そこまで心が狭くはないですよ」蘭は焦ったように彼氏を庇ったが、紫音は静かにグラスを見つめたまま、ふっと息をついた。「心が狭いとか、そういう問題じゃないのよ。相手のことを本気で愛していたら、自分だけのものにして、永遠にそばに置いておきたくなるもの。自分以外の誰かの名前を口にするだけで、胸の奥がチクッとする……そういうものなのよ」ぽつりとこぼれ落ちたその言葉には、どこか痛切な響きが混じっていた。紫音の脳裏に、ふとある人物の顔がよぎる。愛しているからこそ、危険な泥沼に巻き込むまいと一人で重圧を抱え込もうとする、優しくて不器用な男――紫音はふっと視線を落とし、その美しい横顔には、ほんの少しだけ寂しげな影が落ちていた。そのふとした沈黙と、紫音の纏う空気が微かに沈んだことに気づき、蘭はハッと息を呑んだ。自分の惚気話が、無意識のうちに紫音の胸の奥にある繊細な部分に触れてしまったのだと察し、急に申し訳なさが込み上げてくる。「……ごめんなさい、紫音さん。私ばっかり浮かれた話をしてしまって……この話はもうやめにしましょう」シュンと肩を落としてうつむく蘭に、紫音は慌てていつもの優しい笑みを作って首を振った。「ううん、気にしないで。あなたが彼から純粋な愛情を注がれていることが分かって、私も本当に嬉しかったのよ。それに彼が今回、うちの面倒なトラブルにわざわざ首を突っ込んで助けてくれようとしているのも、全部あなたへの愛情ゆえだもの。……蘭、本当にいい人を見つけたわね」「紫音さん……はい。ありがとうございます」蘭はホッとしたように小さく頷いた。しかし次の瞬間、その顔つきからふんわりとした甘さが消え、優秀なアシスタントとしての凛とした表情に切り替わった。「……紫音さん。会社のことについて、少し話してもいいですか」「ええ」「今回のデータ盗用事件のことなんですけど……いくらなんでも、あれほど極秘で進めていた重要プロジェクトのデータが、外部からあっさり抜かれるな
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第675話

「私も同感です」蘭の瞳に、鋭い光が宿った。「相手が外部の人間だろうと、内部の人間だろうと、必ず引きずり出して代償を払わせるべきです。放置しておけば、また同じように足元をすくわれかねません。目に見えない敵に怯えながら防戦一方になるなんて、もうごめんです」蘭の強い言葉に背中を押され、紫音の瞳にも、いつしか経営者としての冷徹な炎が宿り始めていた。「ええ、その通りね。……今回ばかりは、絶対に情けはかけないわ」紫音は低く、しかし絶対的な意志を込めて言い放った。これまで、社員にはどこよりも厚い待遇を用意し、一人一人に愛情を持って接してきたつもりだ。それでもなお、金や欲望に目が眩んで会社を売るような人間がいるのなら――もう、これ以上心を痛めて甘やかす必要はない。「自分の欲望のために仲間を裏切るような愚か者には、それ相応の痛みを味わってもらわなければね。どんな言い訳も、泣き落としも通用しない。徹底的に追い詰めて、二度とこの業界で生きていけないくらいに……社会的な報いを受けさせてやるわ」甘さを捨て、冷徹な制裁を下す覚悟を決めた紫音の横顔は、背筋が凍るほど美しく、そして凄みのあるオーラを放っていた。張り詰めた空気を切り裂くように、紫音はふと腕時計に目を落とした。「……それにしても、浩一さん、遅いわね。もうとっくに約束の時間を過ぎてるわよ。ちょっと彼に電話してみてくれる?もし来ないなら、私たちだけで先に注文して食べちゃいましょう」「あ、そうですね。すぐにかけてみます」蘭は慌ててバッグからスマホを取り出した。「もう、彼ってば時々こういうところがあるんです。今日は午前中から私とデートしてくれていたから、その分、仕事が押しちゃってるのかもしれませんけど……」「理由はどうあれ、時間を守れない男はダメね。最初から遅れるって分かっていたなら、お腹を空かせて待っている必要もなかったのに」紫音は呆れたように肩をすくめ、わざとらしく溜め息をついてみせた。「ごめんなさい、紫音さん。次に彼が遅刻したら、もう待たずに先に食べちゃいましょうね」「待つこと自体は構わないのよ。ただ、来るかどうかも分からない状態で待たされるのが一番イライラするの。ねえ蘭、普段のデートでも彼は遅刻することがあるの?」「い、いえ、普段はそんなことないんですけど……
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第676話

いわゆる『愛するがゆえの過剰な心配』というやつだ。冷静に考えれば、普通の社会人が、しかもこの治安の良い街で、いきなり事件や事故に巻き込まれるなどそうそうある話ではない。だが、いくら頭でそう理屈をこねても、蘭の胸の奥で急速に膨れ上がる不安を完全に消し去ることはできなかった。連絡がつかないという事実は、紫音の胸にも小さな疑念の種を植え付けていた。急なトラブルだろうか。それとも、何か良からぬ事態に巻き込まれたのだろうか――もちろん、突飛な事故など滅多に起きるものではないと頭では分かっている。しかし、一度よぎった不安は黒い靄のように心を侵食していく。かつて自分自身が律のことで同じような胸の痛みを味わってきたからこそ、紫音には蘭の抱く焦燥が手に取るように理解できた。「大丈夫よ、蘭。もう少し待っても音沙汰がなければ、一緒に浩一さんの会社へ行ってみましょう。きっと何でもないわ、安心して」「……はい。そうですよね、紫音さん。彼に限って、変なことに巻き込まれるはずがありませんし」蘭は紫音に余計な心配をかけまいと、懸命に努めて冷静な声を取り繕った。お互いに気遣い合い、大丈夫だと言い聞かせながら、二人はテーブルに置かれたスマホをじっと見つめ続けた。だが、流れる時間とともに店内の賑やかな喧騒が遠のいていくような、張り詰めた沈黙が二人の間を支配する。特に紫音の心の中では、別の強い懸念が渦を巻いていた。……まさか、うちのデータ盗用の件が原因じゃないでしょうね?浩一は昼間、紫音の会社のために「腕利きの助っ人を頼む」と言っていた。もし彼がその件で動いた結果、何者かの妨害や罠に嵌められたのだとしたら――もし自分の会社の問題のせいで浩一の身に何かが起きたのだとしたら、紫音は一生、目の前で不安に震える蘭に顔向けができない。張り詰める空気に耐え兼ね、紫音は決断を下した。「……蘭、やっぱり今すぐ浩一さんのオフィスへ向かいましょう」「えっ……でも、席も予約してありますし、もう少しここで待ったほうがいいんじゃ……」蘭は申し訳なさそうに躊躇したが、紫音は迷わず立ち上がった。「ここでじっと待っていたって、何も分からないまま不安を募らせるだけよ。このまま料理が運ばれてきても、彼のことが気になって味なんて分からないでしょう?席はこのままキープしておいてもら
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第677話

「いや、俺もマジで信じられなかったんだけど、本当なんだってば!頼むから信じてくれよ、なんなら今すぐ下から運転手を連れてきて証言させようか!?」半泣きになりながら必死に弁解する浩一の姿は、普段のスマートな社長の面影など微塵もなく、どこか滑稽ですらあった。「ふふっ、分かったわよ。からかっただけ。浩一さんが蘭に嘘をつくはずないものね」紫音はクスッと笑って助け舟を出した。「ほら蘭、ただの不運なすれ違いだったみたいだから、機嫌を直してあげて?」紫音のフォローに、浩一はすがるように何度も頷き、真剣な眼差しで蘭を見つめ返した。「紫音の言う通りだ。俺は絶対に、お前を裏切るような真似はしないし、誤魔化しもしない。……俺はお前と本気で向き合っていくと決めたんだ。だから、どんなに小さなことでも嘘はつかないし、いつだって誠実でいるって誓うよ」浩一はさらに一歩踏み出し、真摯な声で付け加えた。「もちろん、それでも信じられないって言うなら、証明してみせる。お前が望むことなら、なんでもするよ」真っ直ぐで誠実な浩一の言葉に、蘭はハッと我に返った。不安だったとはいえ、いくらなんでも自分が少し感情的になりすぎてしまった。まるで浮気を疑うように彼を問い詰めてしまったことに、急に自己嫌悪が込み上げてくる。もし本当にただの不運なすれ違いだったのなら、浩一だってかなり焦って悲しい思いをしたはずだ。「……もう。本気で疑ってなんかないわよ。私が本気で怒ってるのか、ただ甘えて文句言ってるだけなのか、そのくらい聞き分けてよね」蘭はほんのり頬を染めながら、プイッと顔を背けて強がってみせた。その可愛らしい態度に、浩一はホッと胸をなで下ろし、泣き笑いのような顔になった。「ははっ、ごめんごめん。俺も二人を待たせてるって焦ってて、余裕がなかったんだ。さあ、早く席に戻ろう。今日は俺の奢りだから、好きなものをなんでも頼んでくれ!……まさか、俺が来るまでずっと何も口にしてなかったのか? もうこんな時間だし、ペコペコだろ?」「当たり前じゃない!あなたが来ないのに、私たちだけで先にパクパク食べるわけにいかないでしょ?ほんと、お腹すいたんだから」「悪かったよ、本当に。ほら、早く入ろう」浩一は甘やかすように笑い、蘭の肩を優しく抱き寄せた。蘭もツンと彼を睨みつけながらも、そ
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第678話

豪華なディナーに舌鼓を打ちながら、和やかな空気が流れる中、紫音はふと先ほどの遅刻の理由が気になり、グラスを置いて尋ねた。「そういえば、浩一さんの会社、一体どんなトラブルがあったの?」「ああ、いや、大したことじゃないんだ。一部の社員が今の福利厚生に不満を持っててさ。もっと待遇を良くしろって、ちょっとした騒ぎを起こしてたんだよ」浩一は苦笑いを浮かべ、少し疲れたように肩をすくめた。「なんだ、そういうことだったんだ。それなら、できる範囲で少し待遇を良くしてあげればいいんじゃない?浩一さんの会社なら、それくらい難しいことじゃないでしょ?」蘭が意外そうに目を丸くして言った。優秀なアシスタントとはいえ、自身も一介の『雇われの身』であるせいか、無意識のうちに自分と同じ立場の社員たちに感情移入してしまったのだろう。それに、社員の福利厚生を少し手厚くするくらい、彼らのような大規模で日々の利益が莫大なIT企業にとっては、決して痛手になるような話ではないはずだ。しかし、浩一は微かに眉をひそめ、首を横に振った。彼が危惧しているのは、単なる金銭的なコストの問題ではない。ここで安易に要求を飲んでしまえば、「騒げば社長は折れる」と勘違いさせ、さらなるわがままを助長することになる。一度でも成功体験を与えてしまえば、彼らの要求は際限なくエスカレートしていくのは目に見えていた。「あいつら、今の給料に見合うだけの成果すら出していないくせに、さらに多くを寄越せって言ってるんだ。経営陣からすれば、その要求自体がすでに度を越してる。おまけに『これも会社のためを思って言っているんだ』なんて恩着せがましいことまで口にしてさ。こっちが要求を飲まないなら、ストライキも辞さないって息巻いてるんだよ」浩一の言葉には、先ほどまで蘭に向けていた甘い態度からは想像もつかないような、経営者としてのシビアで冷徹な響きが混じっていた。「そんなに強引なの?まさか、自分たちが抜ければ会社が回らなくなるとでも思っているのかしら」紫音が呆れたように言うと、浩一は深く頷いた。「まさにその通りだよ。奴ら、外部の人間とも結託していてね。どうやらチームごと丸抱えで引き抜かれそうになっているらしい。おそらく裏でタチの悪いヘッドハンターが糸を引いてるんだろう。奴らはそれを切り札にしてるんだ」浩一
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第679話

蘭は心配そうに浩一の顔を覗き込んだ。自身も雇われて働く身とはいえ、今回ばかりは古参社員たちの要求があまりにも非常識だと感じていた。もしここで浩一が彼らの脅しに屈し、要求を呑むようなことがあれば、「騒げば待遇が良くなる」という最悪の前例を作ることになる。そうなれば、不満が出るたびに同じ手が使われ、いずれ会社の秩序は崩壊してしまうだろう。だからこそ、ここで絶対に妥協してはいけないと蘭にも痛いほど分かっていた。「蘭の言う通りだよ。連中にごっそり抜けられれば、当然痛手になる。だから今日、どうやってこの事態を処理するか、役員たちと一日中会議で揉めてたんだ。あんなふざけた要求を呑む気は毛頭ないが、一気に人が減れば現場が混乱するのは避けられないからね」浩一がこめかみを押さえて重いため息をつくと、それまで静かに話を聞いていた紫音が、ふと口を開いた。「だったら、いっそのこと新卒や若いポテンシャル層を大量に採用してしまえばいいんじゃないかしら」「新卒を?」「ええ」紫音はワイングラスを置き、経営者としての鋭い視線で浩一を見た。「即戦力としての経験は足りないかもしれないけれど、若い世代にはモチベーションと吸収力があるわ。時間とコストをかけて自社で育て上げれば、会社に対するロイヤルティは確実に高くなる」紫音の言葉には、迷いのない合理性があった。「それに、連中をチームごと引き抜こうとしている競合他社だって、一度にそれだけの人員を抱え込めば人件費に余裕がなくなるはず。私たちが一から育てた優秀な若手を、後からさらに横取りするような資金力は残っていないわ」「なるほど……新しい血を入れる、か」「ええ。社会の理不尽な荒波に揉まれたことのない若い子たちに、最初から業界水準より高い給与と手厚い環境を与えてあげるの。そうすれば、彼らは会社に恩義を感じて、そう簡単には辞めなくなるわ。……自分の価値を勘違いしている腐った古株に怯えるくらいなら、その資金を未来への投資に回した方がよっぽど建設的よ」紫音の提案は、経営者らしい冷徹さと大胆さに満ちていた。「だけど、新卒には実務経験が全くない。彼らを一人前に育て上げるには、それなりの時間とコストがかかるだろう?今の状況で、本当にそれが現実的な解決策だと思うか?」浩一は少し戸惑ったように眉を寄せた。「あくま
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第680話

「なるほどな……確かに、理にかなっている」浩一は蘭の言葉に深く頷き、紫音の提案を本気で検討し始めた。まだ連中が実際に辞表を叩きつけてきたわけではない。次の一手を打つための準備期間は残されている。もしこのまま何の対策も打たなければ、いずれ会社の命運を彼らに握られ、永遠に脅され続けることになる。それだけは経営者として絶対に避けなければならない。実際のところ、今回の騒動で浩一は深く失望し、腹の底で静かな怒りを煮えたぎらせていた。騒ぎを起こしているのは、彼が信頼を置いていた初期からのメンバーたちだ。今の会社の成長が彼らの功績抜きには語れないのは事実だが、この船の舵を握っているのはあくまでトップである浩一自身だ。これまで彼らを業界水準以上に厚遇してきたというのに、連中は自らの実力を過信し、身の程を知らずに欲を膨らませている。おそらく、「自分たちの能力ならもっと貰えて当然だ」という思い上がりがあるのだろう。そこに外部のヘッドハンターからの甘い言葉や扇動が入り込んだことで、彼らの自己評価と欲望が異常なまでに肥大化してしまったのだ。最初は単なる「待遇改善の不満」だったのかもしれないが、今はもう会社を人質に取ったただの恐喝だ。もし今回、彼らの脅しに屈して要求を呑んでしまえば、それは間違いなく崩壊の始まりとなる。連中は味を占め、さらに非常識な要求を次々と突きつけてくるに違いない。だからこそ、この悪しき前例だけは絶対に作ってはならない。何があろうと要求は跳ね除ける――浩一は己の中で、その決意をより一層強固なものにした。「紫音さんの提案、本当にベストだと思う。浩一さんも絶対にそうするべきだよ!」蘭は身を乗り出し、怒りで頬を少し膨らませながら語気を強めた。「浩一さんが昔から一緒にやってきたメンバーに対して、情を捨てきれないのは分かるよ。でも、彼らはあまりにも図に乗りすぎてる。浩一さんのことを社長として敬うどころか、自分たちの要求を呑ませるための『都合のいい道具』や『踏み台』くらいにしか思ってないんだよ!だから浩一さんの気持ちなんてお構いなしに、平気でこんな酷い脅しができるの!」愛する恋人が、あろうことか彼の部下たちからコケにされ、理不尽に振り回されている。その事実が、蘭には自分のこと以上に許せなかったのだ。彼女は知っている。浩一が経
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